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渡日初期の尹学準一密航・法政大学・帰国事業
高柳俊男
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はじめに…………・………・…….1 日本への密航……・………・………2 法政大学時代①-小田切秀雄ゼミ………・……・………・8 法政大学時代②-在日朝鮮人の民族運動と『学之光』・……・10 雑誌『鶏林』編集部時代と北朝鮮帰国事業..………18 おわりに-尹学準にとっての「故郷」と「異郷」…………26
①
②
(1)はじめに
法政大学市ケ谷キャンパスでは1993年以来、外国語科目の1つとして
「朝鮮語」が置かれている。当初はすべて非常勤講師によって担われてい たが、1999年4月に従来の第一教養部の一部を改組して国際文化学部が 新設されるに伴って、初めての専任教員として私が就任した。そして翌
2000年度に、2番目の専任として着任したのが美挙華先生であった。
もっとも私と尹学準先生との関係は、法政大学への就任時が初めてでは なく、早稲田大学の大村益夫先生が主宰する朝鮮文学の研究会などで、と きどき顔を合わせていた。とはいえ、最晩年の約3年間、同じ学部で同じ 分野を担当する2人だけの専任教員としてともに過ごしたことは、朝鮮文 化に関する深い学識の点でも、人間的な側面においても、やはり私に大き な影響を残したと言えよう。在任期間中の恩義に報いるためにも、尹学準 先生の人生の一端なりとも記録しておかればという、一種の使命感のよう なものをすら感じている。
この小文は、その尹学準先生が歩んできた波潤万丈の生涯のうち、日本
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に渡ってきた初期のほぼ10年間、具体的には密航という形での渡日から
始まって、法政大学での学生生活、雑誌『鶏林』の編集部時代、開始され た北朝鮮帰国事業との関わりなどを中心に、残された資料や関係者からの
聞き書きをもとに追ってみたものである。尹学準先生という一人の人間が、異郷の地で韓国・日本・北朝鮮(朝鮮
民主主義人民共和国)を見据えつつ、何を考え、何をなそうとしていたのか、その歩みを可能な限り実証的にたどってみたい。と同時に、一個人の
足跡を、すでに100年近くが経過し、3世・4世の時代を迎えている在日朝鮮人史全体の大きな流れの中で、また朝鮮をめぐる戦後日本の思想潮流 や社会運動の変遷の中で、歴史的に跡づけていくことを目指したい。(以
下、敬称略)
(2)日本への密航
尹学準(1933~2003年、注1)が日本の地に初めて足跡を印したのは
朝鮮戦争末期の1953年4月28日で、旅券を所持しない渡航、すなわち密
航の形であった。
年譜によれば、当時の年齢は20歳、肩書は「大邸大学校(現、嶺南大 学校)法文学部2年中退」であった。危険を伴う密航をするに至った動機 は、前線が国土をローラーのように移動した朝鮮戦争の中で、北朝鮮の人 民軍の占領地区に身を置いた時期があり、その際の行動が「敵」に協力し たという「附逆罪」(反逆罪)に問われる危険性があったため、と説明さ
れている。
現在の在日朝鮮人(総称)は、戦前の植民地支配の時代に、いわば国内 移動の形で日本内地に渡ってきた人のうち、戦後もさまざまな事情で日本 に留まった人とその子孫を中心としている。とはいえ、戦後初期に済州島 四・三事件(1948年)や朝鮮戦争をはじめとする戦火や思想対立・左翼 弾圧を避けて日本に密航した者や、1945年の解放後にいったん朝鮮半島 に帰国した後の再渡日者(同じく密航となる)も一定の割合を占めてい る。とくに戦後の民族運動や学術・言論活動などで主導的役割を担った人 のなかに、そうした形で渡日した人が意外と少なくない。
避難民や政治亡命者的性格がかなりあるとはいえ、密航はやはり違法行
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為であり、うしろめたさのみならず、当人の日本における法的地位にも直 ちに影響するため、その事実を自ら公表したり、とりわけその具体像を詳 細に語ることは稀である。また本人以外でも、日本政府の在日朝鮮人政策 の非を批判する際の常套句、「我々は好きこのんで日本にやって来たので はない」に抵触すると思われるせいか、密航者の存在やその果たした積極 的役割に目を向けるような論が在日の世界で唱えられることはまずない。
そうしたなかで尹学準は、密航に伴う法的な問題に区切りをつけた段階
で、「わが密航記」(注2)という記録を書いている。密航の具体的な様子
をはじめ、密航後のトラブルや不安な心理状態などが事細かに記されてお り、きわめて異例で貴重である。いまこの記録によって、尹学準がどのような形で日本に密航してきたのか、当時の日本と朝鮮半島をめぐる状況の
なかで、その実際をのぞいてみよう。
30数人の集団で朝鮮半島から出航したのは、釜山の隣りの多大浦とい う小漁村で、日本への密航基地として有名な場所であった。出航前に密航 船の船主などから、細々とした事前の「講義」を受けた。たとえば、上陸
の際に浅瀬に飛び込むので、各自着替えをビニール袋に用意すること、岩 や山をよじ登ることもあるから運動靴が必要なこと、道を聞く時はなるべ く女学生に尋ねること、など。しかしこれらの注意事項は、すべて必要な かった。20時間余りの航行の末、九州の沖合で日本の巡視艇に捕まり、前後に官憲の護衛を受けながら桟橋から上陸したからである。時は1953
年4月28日の午後6時頃、掌捕された地点は佐賀県の東松浦半島沖で
あった。
ちなみに、東松浦半島といえば、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略の
際、本陣となった名護屋城が置かれたところでもある。いまでは当地の鎮
西町に佐賀県立名護屋城博物館が設けられ、不幸な歴史を逆手にここを日 本と朝鮮半島との友好の拠点にしようと、「日本列島と朝鮮半島との交流 史」をテーマとする常設展や特別展が行われている(注3)。侵略する日本にとっての大陸への前進基地は、密航する朝鮮人にとっての日本への玄
関口でもあった。それだけ両国の地理的近さを物語っていよう。また、享補地点にほど近い東松浦半島の入野村大鶴に暮らす在日朝鮮人
の少女安本末子が、父母を失い、きょうだい4人で貧しさにくじけず助け
合いながら生きていく姿を日記に綴りはじめたのが、ちょうどこの19534
年からである。この記録はのちの1958年、『にあんちゃん』(光文社カッ パ・ブックス)として売り出されるや大ベストセラーとなり、翌年には今
村昌平監督によって日活で映画化もされた。
さて、捕まった-行は、唐津の海上保安署の2階で取り調べを受ける。
船長と機関長には手錠がかけられたが、一般の密航者はそのままだった。
韓国への強制送還を思い暗潅となった目の前に、開き窓、電柱、1階の張 りだし屋根を発見した尹学準は、見張り人の隙をうかがって、2階の窓か ら逃亡を試みる。幸い外壁づたいに雨どいがあり、それを利用して1階の 庭に降りて首尾よく逃走した。丘の中腹あたりまで来たところで、背後に
拳銃の発射音と足音が聞こえたという。
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若き日の尹学準を知らない私には驚くべき内容だが、この密航失敗と逃 走劇は実は当時の地方新聞でも確かめることができる。すなわち、事件
翌々日の4月30日、地元の『佐賀新聞』は「密航鋒Xの三名脱走唐津
救難署で三十三名を留置」という比較的大きな記事を載せている。
それによると、海上保安庁の巡視艇「うらづき」23トンが4月28日午後 7時ごろ、東松浦郡入野村向島・馬渡島の中間地点で「怪船」を発見、追 跡して取り調べたところ、密航者33人を乗せた「東海安号」5トンと判 明し、掌捕した。33人の内訳は、成人男性14人、ソウル大学生はじめ大 学生6人、高校生2人、中学生5人、成人女性4人、幼児男女各1人で、
学生たちは「日本で勉強したいから密航した」と述べた。1人当たり日本 円で約8000円の船賃を支払い、4月26日(27日か?)午後2時ごろ釜山 を出発した船だった。密航の取り調べと保健所による検疫のため、海上保 安庁の唐津警備救難署に留置中の午後10時すぎ、「二階から十メートルも ある雨どいを伝って男四名が逃走」したが、うち1人は深夜2時すぎに唐 津市内で市の署員に捕まった、とある。
もちろん新聞記事がすべて事実どおりとは限らないが、さきにみた本人 の記述とほとんど符合しており、回想の正確さを裏付けていよう。
この記事には続けて、「忘れられぬ祖国日本二重国籍もつ流転の女」
との見出しの関連記事が、顔写真つきで添えられている。それによると、
一行中に戦前、日本内地で日本人として生まれたが、戦後に韓国人の妹と 偽って下関からの引揚船に乗り、今回再び密航船で日本に舞い戻った女性 がいることが紹介されている。いまだ戦後の混乱期であり、半島の全土を 巻き込んで進行中の朝鮮戦争ともあいまって、密航には人道的な側面が色 濃くみられた(注4)。
ちなみに、『佐賀新聞』のこの記事の左隣りは、かねてから密造酒を 作っていた4つの部落を鳥栖税務署が急襲したというもので、朝鮮人7人 を検挙したと報じている。この時代の在日朝鮮人の生活や、置かれた立場 の一端を物語っていよう。
また、同紙同日号の別の紙面では、翌日から-週間の予定で始まる有田 陶器祭五十周年を祝う記事や広告が、丸々2頁分も載せられている。「陶 祖李参平」の碑の写真が掲げられるとともに、有田町長の祝辞の中でも、
韓人李参平が磁器を焼きはじめたのがこの地の陶業の始まりと、豊臣秀吉
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時代の陶工連行にはじまる「陶都有田」の歴史が回顧されている。渡って きた時期や理由を異にするとはいえ、同じく朝鮮半島からの渡来者のかつ てと今の姿やその扱い方の違いは、読む者に複雑な感懐を与えずにはおか ない。
さて、話を逃走後の尹学準に戻そう。前述「わが密航記」によれば、そ の後にたどった道も波潤に満ちている。
背後に銃声を聞いた尹学準はとっさに身を伏せるが、「たかが拳銃じゃ ないか。朝鮮戦争で銃声なんかは親しみすぎるほど親しんできた」とい う、戦火をくぐり抜けてきた人間ならではの開き直りで、暗い林のなかを 逃げつづける。たまたま出た道路に走ってきたタクシーに飛び乗ってか ら、出航前の注意事項に「見破られて警察に突き出されるから、タクシー には乗るな」というのがあったことを思い出した。腹をくくって、まず行 き先を「駅まで」と告げるが、もう汽車はないという。夜間通行禁止令の ない日本では、駅に行けば汽車はいつでもあるものと勘違いしていたので ある。解放以来8年ぶりに使う日本語は舌がうまく回らず、自分でもぎこ ちないのがわかる。思い切って、「実は自分は朝鮮人だが、この近辺に同 胞の家がないか」と尋ねると、その運転手は車を警察署に横付けすること もなく、本当に朝鮮人と思われる家に案内してくれた。
そこは庭にくず鉄がところ狭しと積まれた大きな家で、玄関から慌てて 家のなかに駆け込むと、広い室内で20人ほどが朝鮮語で会議をしてい た。尹学準が朝鮮語で助けを求めると、平安道訓りの座長格の人物が
「我々のところに来たからには安心するように」と言い、会議は打ち切ら れ、「南朝鮮」の「李承晩逆徒」のもとから「英雄的な脱出」を果たした
「筒溌(同志)」を歓迎する集会へと切り換えられた。この人物は戦前から
の在日朝鮮人労働運動の指導者で、当時の在日朝鮮人組織「在日朝鮮統一 民主戦線」(民戦)中央議長の朴光海(注5)だという。彼やそこに集っ ていた県の民戦組織の幹部たちのはからいで、宿泊や日本にいる親戚への 電報連絡など、当座の身の回りの世話一切が滞りなく進められた。やがて 迎えにきた従叔に連れられて京都に行き、こうして日本における尹学準の 生活がスタートするのである。
あたかも小説を読むような劇的展開であるが、留置された建物からの逃 亡成功、たまたま乗ったタクシーの運転手の善意、当時の在日朝鮮人運動
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の最高指導者との遭遇は、密航してきた尹学準にとってこの上ない幸運 だったと言えよう。
とはいえ、これらの偶然で日本での新生活のすべてが順調にいくわけで はない。とりわけ外国人登録法で義務づけられた外国人登録証明書(外登 証)がないことは、つねに大村収容所送り、Iまては韓国への退去強制の危 機に直面していた(注6)。「わが密航記」にはこれに続けて、「李継栄」
名義の幽霊登録証を3万円で入手し、彼になりすましたことに伴う数々の 苦労話が記されている。つまり登録証は手に入れても、そこには本人とは 似ても似つかぬ赤の他人の写真が貼られているのであり、それを絶えずご まかさなくてはならない。自転車の無灯火で取り調べを受けた際や、最初 の外登証切替え時(写真の貼り替えが必要)などにおける極度の緊張、捨 て身の演技、日常的な怯えなどが逐一綴られている。
詳細は本人の記述に譲るが、こうした密航者特有の恐怖や心労は、日本 人や正規の在留資格をもつ外国人には想像を絶することであったろう。最 終的には、のちに結婚してもうけた家族の立場もあり、密航者としての生 活に終止符を打つべく、23年後の1976年に東京入国管理局に自首をし た。いったん形式的に収監後に保釈金により釈放、のちに3万円の罰金を 支払い、晴れて本人名義の「特別在留」(当時の入管法でいう「4-1-
16-3」の在留資格)が許可された。それまでの「尹学準こと李継栄」
が、「季継栄こと尹学準」となったのである。その時の解放された気分を 尹学準は、「かつて警官の姿を遠くから見ただけでもつい逃げだしたく なったり、電車の中で制服姿の車掌に出会ってもどきりとしたのを思う と、まるで夢のようだった」と表現している。いかに大きな喜びだったか がわかるであろう。
以上みてきた尹学準の密航と逃亡の体験は、のちに親しい間柄となった 当時を代表する在日朝鮮人作家、金達寿(1920~1997年)の興味を引 き、小説の題材として使われた。
1つは、短編「日本に残す登録証」(注7)である。内容は、作家の家 を訪ねてきた25,6歳の見知らぬ青年、呉成吉の語る密航にまつわる体 験談で、呉は馬山訓りのある流暢な朝鮮語を操り、H大学の夜学を今春卒 業したとされている。ちなみに慶尚南道馬山は金達寿の出身地で、尹学準 の郷里は慶尚北道の醸泉郡ないし安東郡である。そのように密航の時期や
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上陸地、経歴などを若干変えてはいるが、物語の核をなす密航による渡日 をはじめ、幽霊登録証の入手、自転車で帰宅中の不審尋問、外登証の切替 えを危機一髪で乗り切った話などは、上記した実話と一致する。
北朝鮮への帰国事業でまもなく帰国するつもりの呉成吉にとって、辛い 体験も今となっては日本に残してゆく-つの「明るい思い出」だとして作 家に打ち明けた、という設定になっており、末尾の言葉も「おそらく、こ の日本では、もう彼に会うことはあるまい。そこで、私はこのものがたり をかいたのである」と結んでいる。この時代を特徴づける1959年からの 北朝鮮帰国事業については、またあとで述べる。
もう1つは、長編の『密航者』(注8)で、主人公の一人林永俊の経歴 のいくつかに、密航・逃亡・闇外登証の入手といった尹学準の体験が反映
されている。
なお、この「密航者」は山本薩夫の企画監修、久保昭三郎の脚色演出の もと、劇団白鳥座によって演劇化され、1963年7月1日から8日まで日 比谷第一生命ホールで上演されたという(注9)。
(3)法政大学時代①--小田切秀雄ゼミ
親戚のいる京都や岡山・倉敷などで、パチンコ屋の手伝いをしながら暮 らしはじめた尹学準にとって、日本での日常は当初、珍しいことで一杯 だった。とりわけ社会主義の思想や運動が厳しく禁止されていた韓国と違 い、メーデーに赤旗行列が出たり、反戦の集会が堂々ともたれることは別 天地に来たような驚きだった。
立命館大学などで開かれる反戦集会に足しげく通ったこともあったが、
やがて自分でも勉強を続けたいと思い、1955年に東京に出てきて、まず は明治大学二部法学部に籍を置いた。しかし自分の望む学科ではないた め、図書館通いばかりしていたという。
翌1956年4月、今度は法政大学第二文学部日本文学科三年に編入し た。同級生の清水節治も記`隠しているように、法政大学での当初の名は
「鐘民」であり、のちに「学準」と改めた(注10)。
朝鮮のプロレタリア文学をやりたい尹学準にとって、日本プロレタリア 文学研究の第一人者、小田切秀雄(1916~2000年)のもとで学ぶと決め
たことは最善の選択であったろう。敗戦の翌年に「朝鮮文学の開花のため に」(注11)を書いたように、小田切秀雄は在日朝鮮人の文学活動に戦後 いち早く注目し、それを広く世に送りだす面でもっとも貢献した日本人研 究者であった(注12)。
当時の『法政大学新聞』には、この頃の小田切ゼミを小田切自ら紹介し た文章が掲載されている(注13)。それによると、ゼミの名称は「昭和文 学史ゼミ」で、予想に反してプロレタリア文学は取り上げられていない。
理由は、それまでしばしば論じてきたプロレタリア文学とは違う系列の作 家・作品を意図的に取り上げることで、昭和文学史の全体像の把握をめざ
したためであった。
1957年度、すなわち尹学準が4年次のゼミで取り上げる予定の作品リ ストを挙げれば、以下のようになる。
芥川龍之介「河童」/志賀直哉「邦子」/谷崎潤一郎「卍」「蓼食ふ虫」
/広津和郎「昭和初年のインテリ作家」/島崎藤村「嵐」「夜明け前」/
宇野浩二「枯木のある風景」/徳田秋声「町の踊り場」「勲章」/永井荷 風「漫東綺謂」/正宗白鳥「根無し草」
演習のやり方は、年度初めに学生が自主的に選出した「ゼミ委員」に よって参加者全員の分担(1作品につき複数人)が決められ、テキストと なった作品と作家について共同研究と討議を進め、事前にレジュメを配付 する方式で、現在の一般的方法とそう変わりはない。もっとも、学生間の 討論が活発に行われず、担当者と教師のみの質疑応答に終始する場合も多 く、またテキストに対する学生の読み込みが総じて粗っぽいため、的外れ の批判や鑑賞になりがちだとも批判している。とはいえ、小田切にとって ゼミはやはり「学校での一番たのしい時間」であった。
その小田切先生との交流や小田切ゼミのメンバーとのやり取りについ て、尹学準は小田切が他界した際の追悼文「私と日本文学、そして小田切 秀雄」(注14)の中で少し触れている。まだ渡日してから日が浅く、日本 語や日本文学への知識が十分でない時期における失敗談も綴られている が、中心は卒業論文のことである。卒論のテーマは「朝鮮プロレタリア文 学運動における日本文学の影響とその相互関係」(注15)で、日本のプロ
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レタリア文学が挫折した内的要因の一つが、西洋(とりわけソ連)の文学 運動理論を観念的に移植したことにあると分析する小田切の論に触発さ れ、同様の事情を抱えていた朝鮮の問題を考えてみたいと思ったからであ る。作成にほぼ1年ちかくを費やしたが、本人の表現ではいわゆる「ハサ ミとノリ」の類で、大学4年間の総決算としての卒論にことのほか厳しい 小田切先生の面接をクリアできるか心配だった。しかし、卒論提出後の口 頭試問では、「論文を読んで安心した。一ばんよい点をあげたよ」と褒め られ安心する一方で、日本の古典についても卒業後にきちんと勉強するよ う諭され、約束の上、逃げるようにしてその場を辞したという。
尹学準は続けて、「あの厳しかった先生も、ことわたしに対してはめっ ぽう点数が甘かった。それは先生が亡くなるまでつづいた」と書いている が、小田切の一朝鮮人学生に対する愛情と期待と教育的配慮を感じさせる エピソードと言えようか。
尹学準は後年、「小田切先生を囲む会」にしばしば出席し、恩師や旧友 たちとの旧交を暖めていた。
(4)法政大学時代②--在日朝鮮人の民族運動と『学之光』
このように小田切秀雄ゼミに所属しながら、日本の近代文学などについ て学んだわけだが、尹学準にとって法政大学時代の2年間は、学問研究以 上に境遇や思想を同じくする同胞学生と出会い、その政治運動や文化活動 に明け暮れた日々だったと思われる。
法政大学時代の尹学準、とくに朝鮮人学生としての生活を間近な距離か ら生き生きと描いているのは、アジア女性史研究家の山崎朋子である。
『週刊朝日』に長期連載した回想「サンダカンまで」(注16)の中で、尹 学準への言及がしばしばみられる。
理由は、当時山崎は、東京大学法学部を出て東大の大学院で国際政治学 を専攻する朝鮮人青年の金光澤(1930年~)とつきあっていたが、彼が 転がり込んだ文京区本郷の下宿屋の正当な借り主が尹学準だったからであ る。ここにはもう一人、1955年に法政大学法学部政治学科に入学した玄 光洙(注17)も同居しており、朝鮮人3人による共同生活が始まった。
山崎によれば、「そこは、明治時代からだという学生下宿屋の一室汕広さ
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は八畳、日の当たらない北向きの部屋で、本来はひとり用であるのに、大 家の主婦の眼を盗んで」の同居だったという。
仲が良くなくてはとてもできないが、同時にその背景にはこの時代の在 日朝鮮人を襲う経済的な困窮があった。玄光洙は、当時の『法政大学新 聞』に載せた「日朝学生の友好と団結を ̄在日朝鮮学生は訴える」の中 で、「アルバイト(家庭教師等)も、朝鮮人というわけで実力はあっても 受け入れない現状」や、「授業料未納のため除籍される学生が毎年ふえ て」いる有り様について述べ、「最低生活すら維持できない」朝鮮人学生 の窮状を訴えている(注'8)。
この山崎朋子の回想は、英語の家庭教師を頼んだことから親しくなった 金光潔との出会いと同居、そして在日朝鮮人の民族運動内部におけるナ ショナリズムの高揚とともに、日本人配偶者を忌避する雰囲気のなかでの 別れ(注,9)を描いている。その過程で、山崎も朝鮮人の妻として活動 するには朝鮮名が必要だろうとのことで、天折した朝鮮の作家として名高 い羅稲香にあやかって「羅敦香」と命名されるが、その名付け親も尹学準 その人であった(注20)。
また同回想では、同居していた3人が在日本朝鮮留学生同盟(留学同)
の幹部として民族運動に奔走するさまや、下宿の書棚には金日成の本があ り、会話の端々に「朝鮮民主主義人民共和国・祖国・民族統一・反帝国主 義.革命」などの用語が飛び交っていた様子も描かれている。その中で山 崎自身も、物事を社会科学的に捉える目の重要性や、朝鮮人を劣等民族に おとしめて苦しめている日本人としての「瘤き」を感じ、「これまでの人 生において誰からも教えられなかったこと」を、身をもって学んだので あった。この時の得がたい経験は、のちに彼女が日本とアジアの女性史を ライフワークとすることに直接影響したとみて間違いないであろう。
ここで特筆すべきは、法政大学の朝鮮人学生たちが当時、『学之光』と いうタイプ印刷の厚めの機関誌を発行しており、それが本学図書館に贈呈 され、現在も所蔵されていることである(注21)。一学生団体の刊行物と しては、分量的(各号60~100頁程度)にも内容的にも相当程度に充実し ている。
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1957 法政大字、I解文化研究会
『学之光』の発行母体は、法政大学朝鮮文化研究会(朝文研)。1957年 11月発行の創刊号をみると、編集責任者は玄光洙で、編集担当は玄光 洙・尹学準・南珠煕・任展慧・朴瑛誌の5名、また同年度の朝文研の一部 (昼間部)の責任者が玄光洙、二部(夜間部)の責任者が尹学準と記載さ れている。誌面には次号の「原稿募集」の広告もあるが、その送り先はこ のころ杉並区に住んでいた尹学準の下宿となっている。
これらから、この雑誌や当時の法政の朝文研は、玄光洙と尹学準の二人 を中心に運営されていたと考えられる(注22)。
創刊号の「編輯後記」には、誌名を「学之光」にした経緯が以下のよう に説明されている。
「今年度の常任委員会が結成された当初より問題になっていた会報が、
今やつと日の目を見る様になった。題号は『学之光』と名附けた。かえ りみるに今から四十五年前の一九一二年(「43年前の1914年」が正しい と思われる:引用者注)、祖国の運命を双肩ににない、祖国独立運動の 先駆的役割を果した東京留学生達が、若々しい気鋭と大望を抱きつつ発
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行されたのがこの『学之光』である。我々の先輩達が残した輝かしい伝 統を正しく受け継ぎ支えていくことが、今の私達に出来るであろうか?
たしかに重荷すぎる感があり、あまりにも唐突すぎる思い付きの感がし ないでもないが、あえてこの様な題号をつけることにした。〔中略〕な にはともあれ、この会報を通じて新しい知合いが出来る様に、朝文研が もつとにぎやかにそして内容の充実した研究会に発展する様願ってい る。」
解放前の留学生たちが困難な状況下で出した由緒ある雑誌名を踏襲した ところに、日本に学ぶ後輩の朝鮮学生としてその伝統や遺産を継承発展さ せようという、編者たちの意気込みや気負いが感じられる(注23)。この 文章の執筆者の「H・Y生」は尹学準であろう。また第2号の「編集後 記」では大村収容所に抑留されている同胞の運命などに言及されている が、これを書いた「準」も同様に尹学準と考えられる。
各号の誌面には、在日一世とは異なる若い二世としての率直な自己表出 があり、解放直後に論陣を張った『民主朝鮮』(1946~1950年、編集長は 金達寿)からの時代の流れも感じられて興味深いが、雑誌全体の紹介はま た別の機会に譲りたい(注24)。
各号において「尹学準」名で執筆した文章を列挙すると、以下のように
なる。
①「三・一運動と朝鮮近代文学」(創刊号、1957年11月)
②李北満「<資料>朝鮮に於ける無産階級芸術運動の過去と現在」の「解 説にかえて」(第2号、1958年3月)
③李北満「<資料>朝鮮に於ける無産階級芸術運動の過去と現在(2)」の
「解説一カップと東京支部と、その周辺」(第3号、1958年7月)
④「<読書案内>金達寿『朝鮮』-民族・歴史・文化ゆがめられたイ メージとどう対決するカコの問題について」(第4号、1958年11月)
⑤李兆鳴(=李北鴫)「<資料>初陣」の「解説一李兆鳴について」(同 上)
尹学準は1958年3月に法政大学を卒業しているが、寄稿は卒業後もし ばらく続いていることがわかる。『学之光』は前述のように朝文研の機関
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誌だが、第2号からは表紙に「法政大学朝鮮留学生同窓会」の名も併記さ れているように、法政を母校とする朝鮮人の在校生・卒業生双方のための 雑誌であった。
①は朝鮮近代の独立運動史上、大きな分水嶺となった1919年の三一独 立運動を、近代的自我の目覚めと挫折という文学史上の意味から位置づけ ようとした意欲作である。東京にいた朝鮮留学生たちの創刊した文学同人 誌『創造』の意義を高く評価するとともに、社会主義リアリズムにのっ とった文学のみを正統とみる立場から、三一運動前後の自然主義的で純粋 芸術的な文学結社を安易に「反動」と決めつける北朝鮮での評価に対し て、まずは従来の封建的観念を打破し近代的人間の尊厳を主張するところ からこそ真の力強い芸術が生まれるのではないかと、疑問を呈している。
そして三一運動直前に無限の可能性を含みつつようやく芽生えた近代文学 が、三一運動の失敗により十分に開花せずに挫折したことは、その後のプ ロレタリア文学が数々の欠陥や弱さを含み、ひとたび弾圧を受けるとたち まち崩壊するにいたった最大の原因をなしているのではないかと主張して いる。本人は「問題提起と同時に試編」だと断っているが、日本への留学 生により、日本文学の影響を受ける中で芽生えた近代的な個の尊厳や自我 の目覚めの意義を正当に評価しようというもので、今日の目からみても重 要な示唆を含むと言えよう。
周知のように、日本での朝鮮解放闘争史研究は、まずは1950年代以降 に翻訳紹介された北朝鮮での研究成果を吸収ないし踏襲するところから始 まった。それからしばらく日本の歴史学界における三一運動認識は、運動 を主導した33人の民族代表は非暴力・他力本願・妥協的であり、のちに 日本の支配に協力したことなどをもって、その果たした意義を否定され、
むしろ運動が拡大するなかで彼らの弱点が革命的な人民大衆によって乗り 越えられていった、と評価するのが通例であった。
これに対して朴慶植や和田春樹らが、民族主義者の主張やその役割を時 代のなかで正当に評価するよう問題提起をしたのは、韓国における学術研 究の成果や現実の民主化運動との接点を持ちはじめた1970年代に入って からのことである(注25)。そうしてみると、社会主義に偏した教条的で 発展段階論的な近代史理解に対して、文学の分野で類似の異を唱えたとも みられる尹学準の論が、それより10数年も前に出されていたことは、小
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田切秀雄の思想的影響があったにしても相当に早く、注目に値する。
同誌第2号に、先溌として創刊号を読み感激の感想を寄せた「W・K」
(社会学部を1954年度に卒業、この時は立命館の大学院で日本史を専攻)
は、朴春日や任展慧らへの肯定的評価とともにこの論文にも触れ、歴史上 のすべての事象はのちには歴史の発展上、ブレーキの役目を果たすかもし れないが、そのことで「反動」と決めつけるのではなく、それが登場した 当初にもっていた発展的要素を評価しなければならない、という見方を示 している。そして「何時の間にこの男はこんなにも深く広くものごとをみ る眼を養ったのだろうか?と感心しました。これは決してお世辞ではあり ません」と述べて、尹学準の研究の一層の発展に期待を寄せていた。
①の紹介が長くなったが、次の②③は戦前のプロレタリア文学者として 名高い李北満の所論を「資料」として紹介し、それに解説を付したもので ある.1928年に日本のプロレタリア文学系の雑誌に発表されたこの論文 をいま取り上げるのは、文学史的な解明がほとんどなされていない当時の 朝鮮プロレタリア文学運動を知る資料としての意味からであって、内容的 にはむしろ「否定的な面から検討されねばならぬ」ものだという。尹学準 は、朝鮮プロレタリア文学に関して日本語の文献が数多く残されている が、それらの研究はまだまったく手がついておらず、そうした研究こそ
「日本にいる我々の手でなさねばならぬ」と、自分たち在日学生の任務を 述べている。②の末尾にはその助けになればと、日本のプロレタリア文学 系列の雑誌に載った朝鮮文学関係の文献目録を、3頁分作成して収録して もいる。また③では、現在の緊急課題は「従来のプロレタリア文学運動の 徹底的な再批判と、そこからうまれる正しい伝統の継承」や「転向文学の きゅうめい(究明)」であると述べ、それなくしては在日朝鮮人の文学運 動ひいては在日朝鮮人運動全体が停滞から抜け出ることはできない、と結 論づけている。
これら3編の執筆は、卒論「朝鮮プロレタリア文学運動における日本文 学の影響とその相互関係」を書いている最中か書き終えた時期であり、そ こでの考察が反映されているものと思われる。前述した小田切秀雄への追 悼文とあわせて考えると、尹学準の卒論の趣旨は、「朝鮮のプロレタリア 文学運動は近代文学における自我の確立を十分に経ない段階で突入し、ま たその理論も日本経由の社会主義文芸理論を観念的に移植したものだった
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ため、基盤が脆弱であり、十分な成果を生みだしえぬまま挫折した」とい うような、朝鮮プロレタリア文学運動の伝統を評価しつつも、それを現在 の視点から内省的に厳しく再検討する内容を含むものだったろうと推察さ れる。実際に卒論が全体としていかなるものであったか、なおさら読んで
みたい気にさせられる。
在日の文化運動史的な意味でもっとも興味深いのは、「読書案内」とし て金達寿の岩波新書『朝鮮』(1958年)を取り上げて論評した④である。
というのは、在日本朝鮮人総聯合会(総聯)は1957年以降、1955年の在 日朝鮮人運動の民戦から総聯への路線転換のされ方(いわゆる先覚者.後 覚者問題)や、北朝鮮における主導権争い(ソ連派・延安派への批判粛 清)も絡んで、組織内で総聯指導部への統制を強める運動を強力に展開し ていた。たとえば、金広志・朴慶植・姜在彦らが集っていた「朝鮮研究 所」の「朝鮮問題研究所」への「統合」という名の吸収や、『ヂンダレ』
を拠点に大阪で文芸活動を続けていた金時鐘・梁石日・鄭仁らへの批判、
そして朴慶植.姜在彦編『朝鮮の歴史』(三一新書、1957年)、劉浩一
『現代朝鮮の歴史』(三一書房、1953年)等の出版物への批判などだが、
とくにこの時期、北朝鮮と総聯が集中的な攻撃の対象としたのがこの金達
寿『朝鮮』であった。
こうした渦中で書かれた書評のなかで尹学準は、金達寿に投げつけられ
た「反動的ブルジョア思想体系」「朝鮮人民としての主体性が欠如」「祖国
の分裂を合理化」などの言辞に対して、「具体的な反論等はしない。また 始めからそういうつもりではない」と慎重な言い回しをみせながらも、「在日朝鮮人運動方針が、このような考え方で進められて行くとすれば、
それは重大なあやまちを犯すであろう」と述べ、総聯の朝鮮語機関紙『朝
鮮民報』などでの批判のやり方に対して再検討の必要性を提起した。いわば組織的な批判で窮地に立たされている金達寿を擁護したわけで、これ自
体、総聯傘下の個人としては勇気を要する行動である(注26)。これらからわかるように、当時の尹学準は、自分が逃げだしてきた韓国 ではなく、社会主義の北朝鮮に期待をかけ、総聯の傘下で活動を続けては
いたが、同時に北朝鮮や総聯の推し進める図式的な文学理解や教条的な批
判キャンペーンには、安易に同調しなかった。また、金達寿を頼れる先輩
と仰ぎ、尊敬の念をもって対していたようである。実際『学之光』をみて
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いくと、金達寿の短文が創刊号以来、既発表の文章の転載も含めて3本掲 載されている(注27)。
なかでも第3号に載った「韓徳鉄について」は、金達寿がかねてから身 近に知っている韓徳鉄総聯議長の人柄を記したものである。もともと朝鮮 総聯日本語機関紙『朝鮮総聯』(『朝鮮時報』の前身)に連載中の「練馬ず いひつ」の第4回目として掲載される予定がポツになり、連載自体も中止 のやむなきにいたったという。ここで金達寿は韓徳鉄について、活動家に は珍しく何事にもよく通じた勉強家であり、私生活もきれいだと褒めたう えで、木で鼻をくくったような態度が傲慢に映ることがあり、専門分野に 不用意に口を挟みすぎると欠点も指摘している。それは悪意に基づくもの ではなく、親しいがゆえに長所とともに自分の知る短所にも言及した類の 文章だが、組織の最高指導者の人格に対するこうした批判は次第に許容さ れない風潮になっていたのであろう。
自らが属する民族組織の機関紙のボツ原稿を、一学生団体の会報に掲載 したところに、金達寿と法政大学の朝文研、とくに尹学準との浅からぬ関 係を読み取ることができる。
さて、本学図書館にある7号分の他の執筆者の顔ぶれをみると、前述の 玄光洙のほか、朴春日、任展慧、朴進山、金宙泰、魚塘、股宗基など、す でに民族教育や文筆の分野で活躍していた卒業生や、やがて卒業後に名の 知られるようになった在校生など、鐸々たるメンバーが登場している。
このうち、尹学準ととくに関わりの深い2人について簡単に記せば、の ちに『近代日本文学における朝鮮像』(後述)を書いて有名になった朴春 日は、前述した山崎朋子の回想「サンダカンまで」にも、同居していた3 人の朝鮮人学生の仲間として何度か登場している。また、当時の『法政大 学新聞』にも「三十年度日文科卒朝鮮高校教諭」の肩書で、「青春を失 わぬために-日本の若い友人たちに」(第322号、1956年9月15日)、
「故郷と歴史と恋と-法政出身の朝鮮詩人たち」(第356号、1957年11月 25日)、「無料補講実施を要求一七・四斗争のころ」(第366号、1958年
4月25日)など、しばしば文章を寄せていた。在日朝鮮人文学を論じた 卒論も、「日本における朝鮮文学の歴史的意義とその諸問題一可能性の 文学として」と題して、法政大学国文学会の紀要『日本文学誌要』の復刊 第1号(1957年12月)に掲載されている。のちに尹学準が雑誌『鶏林』
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の編集部に就職した際も、朴春日は『鶏林』創刊号以来の常連執筆者と
なった。
尹学準より3学年下で、のちに『日本における朝鮮人の文学の歴史」
(注28)をまとめた任展慧は、同じく小田切秀雄の門下生(第一文学部)
である。1955年に十条の東京朝鮮高校を卒業後、念願していた金日成綜 合大学への進学の道が閉ざされた際、ある人から法政大学の小田切先生の もとで学ぶことを薦められ、朝高の宋枝学校長も「小田切さんのおられる 法政ならば」、と賛成してくれた(注29)。しかし同時に、日本文学科で 学ぶことに対して、同胞の目には「植民地根性の抜け切れぬ日本崇拝者」
と映り、「冷たい言葉を投げ掛けられたこともある」という(注30)。そ こには、解放後も朝鮮語ではなく日本語で創作活動を続けた金達寿らの文 学を、過渡期の奇形的文学として異端視したのと同様の、民族主義に偏し た認識が横たわっていよう(注31)。そうした中で日本文学を研究する任 展慧の複雑な心境や葛藤は、『学之光』創刊号に載せた「日本文学と私」
でも吐露されている(注32)。
(5)雑誌『鶏林』編集部時代と北朝鮮帰国事業
1958年3月に法政大学を卒業した尹学準はしばらくして、朝文研機関 誌『学之光』を通じて関係が深まっていた金達寿から呼び出されて、張斗 植(1916~1977年)と初めて対面をする。張斗植は1937年に、同じく仕 切り屋仲間で隣家の金達寿と二人きりで、ガリ版刷りの回覧雑誌『雄叫 び』を出して以来、日本大学専門部入学、神奈川新聞社入社、戦後の『民 主朝鮮』創刊と、常に金達寿と歩みを共にしてきた金達寿の親友で、当初 から文学への志を強くもっていた(注33)。尹学準にとってその時の出会 いが、これから創刊することになる雑誌『鶏林』(注34)との最初の関わ りになるが、その辺の事情は張斗植の死去に際して尹学準が書いた追悼文
「張斗植の死」(注35)に詳しい。
それによると、大学は出たものの就職できずにぶらぶらしていた1958 年半ば頃のある日、尹学準は金達寿に連れられて、墨田区で事業を経営し ていた張斗植のもとを訪れた。初対面の挨拶をしても無愛想な態度を示し ていた張斗植に、金達寿はカバンから雑誌『学之光』を取り出して、次の
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ような意味のことを言った。「若い世代の間でこのような新しい動きがあ る、この際われわれも雑誌を一つだしたらどうだろうか」。
両者間に事前に何らかの打ち合わせがあったかどうか尹学準には不明だ が、その場で話はとんとん拍子に決まり、編集実務は尹学準自身が担当す ることとなった。あとから思うに、金達寿のこの「たくらみ」は、1つに は張斗植に自分の体験を『ある在日朝鮮人の記録』(注36)としてまとめ させるため、もう1つには一人の失業青年の救済のためではなかったか、
と尹学準は回想している。
こうして、法政大学朝文研『学之光』を舞台とする若者たちの言論活動 が1つのよい刺激となって、雑誌『鶏林』はスタートした。創刊号は 1958年11月1日の発行で、当初の予定は隔月刊。奥付の編集兼発行人は 財政的な裏づけをもつ張斗植だが、各号の編集後記の記載は「K」、すな わち金達寿が実質的な編集責任者であった。
川旧
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その「創刊のことば」は、次のように書き出している。
「われわれはさきに、一九四六年から五○年にかけて雑誌『民主朝鮮』
を刊行したことがある。これは三○数号をもって一応の使命をおわり、
その後もつづいて『朝鮮評論』『新しい朝鮮』とでたことはあるが、ど れも長つづきすることはできなかった。もちろんいろいろな事情があっ
てそうなったのであるが、これもまた、われわれにとっては貴重な経験 である。われわれはこうした経験のうえに立ち、ここにふたたび鶏林社
を設立し、雑誌『鶏林』を刊行する。」これに続けて、日本と朝鮮の間に「相互理解」という1つの橋を架ける のが雑誌創刊の目的であり、その意味で『民主朝鮮』にこめた願いと同じ
である、と記されている。
ここにみられるように、作る側は中心メンバーの点でも、雑誌の性格の
点でも、かつての『民主朝鮮』とのつながりを強く意識していた。もちろ ん、『民主朝鮮』の創刊から12年、在日朝鮮人をめぐる状況には時の流れ
からくる違いもみられ、若い書き手の登場が歓迎されてもいた。しかし、金達寿の表現に従えば、『鶏林』は「第二次『民主朝鮮』」(注37)とも称
すべき存在であった。
それは受け手の側も同様であり、第3号(1959年3月)掲載の「読者 の声」でも、『民主朝鮮』の創刊当時を!懐かしく思い起こし、『鶏林』が
『民主朝鮮』を継承発展させることを期待する意見がみられる。
こうした読者からの通信は、編集部に全国各地から数多く舞い込んでい
たようで、反響の大きさを物語っている。在日朝鮮人からは自分たちに新 しい発言の場ができたことを喜び、自らの境遇に引きつけてむさぼるよう に読んだとするものが多く、また日本人からは朝鮮についての無知を恥ず
かしがったり、同誌が朝鮮の真の解放に言論で寄与することを期待する声などが寄せられた。
「読者の声」のなかには、「-日本人として、私も朝鮮問題を考えてみ
たいと思い、こ>半年来朝鮮語も学んでおります」、という-都立大生
(院生)のものもあった。この書き手こそ、のちに早稲田大学の教員とし
て中国語を教える傍ら、朝鮮語・朝鮮文学をも専門に研究教育するに至っ
た大村益夫であった。尹学準が2000年、法政大学の専任教授として迎え
られるまで、もっとも長く朝鮮語の非常勤講師を勤めたのが早稲田大学の
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大村益夫の下であり、また大村たちがのちの1970年、日本人の主体性の 下に朝鮮文学を研究する初の雑誌『朝鮮文学一紹介と研究』を発行した とき、最大の支援者となったのも尹学準だった(注38)。誌面の一角を占 める読者投稿に、人と人との出会いの不思議さをつくづく思わされる。
さて、一方マスコミでは、『鶏林』が創刊された際、『中央公論』1959 年2月号が「サークル雑誌評日本の地下水」で、ほぼ3頁を割いて好意 的に取り上げた。
このコーナーは「思想の科学研究会」によるもので、全体の執筆担当者 は関根弘・武田清子・鶴見俊輔の3氏とあるが、『鶏林』に関する部分は 鶴見俊輔の手になる可能性が高い。なぜなら、『鶏林』創刊号に載り、今 後も連載予定の朴春日「近代日本文学における朝鮮像」(注39)にとくに 注目しているが、鶴見自身、のちに論文「朝鮮人の登場する小説」(注 40)を執筆しており、日本文学のなかで朝鮮をどのように認識してきた かというテーマに、強い関心を抱いていたと思われるからである。
この時代を象徴する雑誌『鶏林』についても、『学之光』同様、全体の 詳しい分析は別の機会に譲るとして、ここでは尹学準の手になる文章とそ の内容をみていこう。
尹学準が『鶏林』全5号に掲載した文章は、フルネームのもの4本、
「編集部尹記」の肩書Iこよるもの3本の、計7本であると考えられる。こ のうちまず前者は、
①「朝鮮の姓氏のはなし」(第2号、1959年1月)
②尹世重「<小説>象牙のパイプ」の翻訳(第3号、1959年3月)
③「被圧迫者の文学一ヒューズ作品集の教えるもの」(第4号、1959年 6月)
④「帰る人.残る人一在日朝鮮人の帰国」(第5号、1959年11月)
の4本で、第2号から毎号1本ずつ登場している。
一方、「編集部尹記」によるものは、
⑤「ルポ・学生と子供たち」(第2号/江東区枝川町の朝鮮学校でセツル メント活動をする在日朝鮮人大学生と子供たちの話)
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⑥「ルポ・朝鮮史研究会」(第3号/朝鮮史研究会発会式への参加記)
⑦「ルポ・帰国する“日本人妻,,たち」(第4号/中野の講習会で、「第二 の祖国」に帰って「真の朝鮮人になりきろう」として朝鮮語を学ぶ日本 人妻たちのひたむきな姿勢を報道)
の3本で、いずれもルポ形式の見開き2頁の文章である。
このうち、①の「朝鮮の姓氏のはなし」は、個人よりも門中(-族)を 重んじる両班の意識や同姓不婚制の存続などの諸現象を、南朝鮮(韓国)
における「封建制の復活」「前近代への逆コース」として批判している。
尹学準の関心としては、『オンドル夜話』に始まるのちの時代のライフ ワークへとつながるものであろう。
②の尹世重「<小説>象牙のパイプ」は、北朝鮮の雑誌『朝鮮文学』に 載った北朝鮮作家の作品だが、翻訳のみで訳者による解説等はない。ちな みにこの尹世重(1912~1965年)の作品としては、大村益夫がのちに単 行本として『赤い信号弾』(注41)を翻訳紹介している。
③の「被圧迫者の文学一ヒューズ作品集の教えるもの」は、このころ 翻訳されたアメリカの黒人作家ラングストン・ヒューズの作品集『ある金 曜日の朝』(飯塚書店、1959年)の紹介である。同じく「被圧迫者」であ るヒューズの作品を読むことで、南北朝鮮や在日の文学を考える手がかり を得ようという姿勢がみられる。なおこのヒューズについては、金達寿も
『現代詩』の1959年6月号に同書の書評を、また『新日本文学』同年同月 号に「ヒューズ・少女・大木君」を書いている.
そして、結果的には終刊号となった第5号の巻頭を飾ったのが、④の
「帰る人.残る人一在日朝鮮人の帰国」である。この時代を特徴づける 北朝鮮帰国事業に触れて書かれたもので、尹学準の当時の「祖国観」や
「在日観」を知る上でも、ここでやや詳しくみておく必要がある(⑦の
「ルポ・帰国する“日本人妻,,たち」も帰国事業関連)。
ここで尹学準は、北朝鮮帰国運動が盛り上がりをみせた1958年蟇か ら、マスコミで在日朝鮮人問題が大きく取り上げられるようになり、運動 にも成果をもたらしたが、「一部には在日朝鮮人に対する歴史的考察の欠 如のために、いまだにぬぐいきれない偏見一一種の厄介者払いをすると いったような態度がみえていることも事実」だと書き出している。その上
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で、在日朝鮮人はアメリカの日系人のような移住民ではなく、「日本と朝 鮮との暗い歴史の産物」であり、「日本の帝国主義的植民地政策の深い爪 痕」にほかならないとして、戦前の余儀なくされた渡航や徴用に由来する 在日朝鮮人の形成過程に触れている。ただし、それへの物質的代償を求め る気はなく、「悪意に満ちた偏見だけはきれいに清算」して、「温い友情で もってお互いに別れよう」ということだ、としている。
北朝鮮への帰国申請者が続々と増加しているのは、日本における生活苦 ももちろん背景にあるが、むしろ決定的なのは「あたたかくむかえてくれ る祖国がある」(この箇所のみ原文傍点)からであり、「真に人間らしい生 活がそこにある」からであり、「青少年たちには希望にあふれる未来があ る」からだと分析する。期待の中で帰国準備に奔走する在日朝鮮人の表情 を伝えているが、民戦時代の極左的闘争で逮捕投獄されているうちに 1955年の総聯への路線転換を迎えたため、新しい組織についていけず疎 外感を味わっている人や、しっかりした高校生で将来の留学同活動家候補 と目されたが、のちに転落して街の「愚連隊」中堅幹部として羽振りをき かせている人など、今の生活を清算し、祖国で再出発を期そうという人を 中心に紹介している。そうした人でも救われるのが祖国であり、そこに人 間的なドラマをみたのであろう。
一方、「大部分の人たちはいずれかは帰る」が、当面残る人もいるとし て、そうした例もあげている。尹学準自身も他人事ではなく、密航してき た南朝鮮(韓国)には父母や弟たちが残されている。日本に学ぶ若い学徒 としては、「日本にいる間少しでも多くのものを吸収して-日でも早く祖 国(北朝鮮のこと:引用者注)に帰らなければならない」が、一家を支え る大黒柱(長男)でもある自分としては、おいそれと北には帰れない。父 親に万一のことがあったら、明日にでも「深い泥沼の世界、南朝鮮」に身 を沈めなければならないかもしれない。しかし、「だからといって日本に
-という具合にはなおさらである」。「私がのぞんでいる」「はれの祖 国」に帰りたいという理想と、骨肉のしがらみの中で帰れない現実との間 で遼巡する苦衷を、この文章は最後に伝えている。
以上、尹学準の「帰る人.残る人」をやや詳しく追ってきた。そこに は、北朝鮮帰国事業が始まろうとする1959年当時の、帰国事業への熱気 や朝鮮民主主義人民共和国に対する高い評価が窺われる。この文章を額面
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どおりに受け取る限り、韓国から日本に密航してきた尹学準は、条件さえ 整えばさらに北の「祖国」に帰ることが理想であり、正しい進路と考えて
いた。
雑誌『鶏林』の前号巻頭に「わが家の帰国」を載せ、自分もいずれ帰国 するが、その際は作家ではなく一介の労働者として帰りたい、と述べた金 達寿もそうだった。当時の在日朝鮮人作家、というより在日朝鮮人の言論 人全般を代表する金達寿は、一方では前述のように岩波新書『朝鮮』をめ
ぐって北朝鮮や朝鮮総聯から組織的な批判を浴びながらも、北朝鮮帰国事
業を讃える多数の文章を日本の新聞雑誌に発表した。張斗植も、自分はいま日本で生活に困っていないし、朝鮮語も十分に話せないが、帰国協定調
印により「晴れて、搾取なき母国の土を踏む事ができることとなった」今、「子供たちのためにも一日も早く母なる祖国へ帰らなければならな
い」と書いた(注42)。
のちの歴史を知る目からみれば、それは朝鮮民族のディアスポラ(離 散)状況をより拡散し、問題をいっそう複雑化することにほかならなかっ たが、当時の在日朝鮮人の運動と認識の世界では一般的に、その選択肢こ そが在日問題を解決する唯一絶対の道に思われた。社会主義がまだ輝かし くみえていたという条件に加え、植民地下で亡国の苦しみを味わった人々 にとって、「祖国」という言葉がそれだけ美しい響きをもっていたのであ り、また当時の日本社会における差別状況や将来への希望のなさがいかに 深刻だった力】の反映でもあるのだろう(注43)。
その意味では、尹学準がこの文章のなかで、1955年の在日朝鮮人運動 の路線転換について苦言を呈した部分にも留意しておく必要があるかもし れない。尹学準は「戦後、在日朝鮮人運動が、日本共産党の誤った方針に 導かれ、それに盲従し、大衆からみはなされた結果となった」のは、路線 転換に際して韓徳鉄論文が指摘した通りだとして、その正当性を是認した が、「同時に、路線転換にあたっての真撃な自己洞察を欠き、それがあま りにも安易になされたということは、組織内部、特に下部組織において多 くの脱落者をだすという結果を招いたのではなかっただろうか」として、
路線転換のされ方や民戦時代の献身的な活動家への冷遇を疑問視した。
こうした指摘は、組織の中枢からすれば面白いものではなかっただろ う。それでなくとも、組織の枠から何かとはみ出るとみられた金達寿らが
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始めた雑誌ということで、雑誌『鶏林』は総聯にとって当初から目の上の タンコブのような存在だった。現に、第3号の「公ろん・私ろん」によれ ば、雑誌が創刊されてまもない1959年1月21日、朝鮮総聯中央宣伝部は 各都道府県の本部執行委員長や各単一団体委員長あてに、以下のような公 文を発したという。
「雑誌『鶏林』(発行所東京)というのが発行されている。われわれは この雑誌についてもまた、機関において取扱うとか、同胞に対して勧誘 をするとか、配布、読者独得、財政協力、その他一切しないということ を明白にする。」
組織としての非協力宣言だが、前述した尹学準の張斗植への追悼文によ れば、『鶏林』が33号まで数えた『民主朝鮮』にはるか及ばずわずか5号 でつぶれたのは、こうした「組織の圧力」のせいであった。「組織のもの が許しもえずに自分たちで雑誌(たとえとるに足らぬ小文芸冊子でも!)
を出すということが、まつろわぬ者の行為とみなされた」からだという。
そうした組織の体質、あるいは日本語での編集作業や日本の風習への不 慣れからくる失敗などのために、尹学準の「鶏林時代」には苦い思い出が 少なくなかったようだ。しかしそのことも含め、1年あまりという短い期 間中に実に多くのことを学び、また張斗植の『ある在日朝鮮人の記録』の ようなすぐれた作品が世に出る現場に、身をもって立ち会うことができた のだった。
北朝鮮帰国運動の進展に伴い、雑誌『部落』の1959年12月号(119号)
が特集「在日朝鮮人」を組んだ際、尹学準が「『鶏林』編集部」の肩書で
「在日朝鮮人問題を理解するために」という文献解題を書いているのも、
雑誌『学之光』やこの『鶏林』以来の文献調査の蓄積や筆力が買われたも のと思われる。ここで尹学準は、『鶏林』第4号掲載の金達寿の文章を長 く引用するとともに、金達寿・朴慶植・姜在彦・朴在一らの著書や論文を 高く評価した。それらはたしかに当時における貴重な研究業績だが、同時 に前述のように、そのほとんどが組織から「宗派(分派)」活動と烙印を 押されたり、記述に問題があるとして批判を受けた人々の手になるもので もあった。
なお尹学準は、張斗植への追悼文のなかで、「短命であったこの雑誌の 顛末についてはいずれ記録としてとどめておくつもり」だと書いた。しか
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し、実際にはそうした記録は書かれていないのではないかと思われる。
(6)おわりに-尹学準にとっての「故郷」と「異郷」
『鶏林』の廃刊により、編集部員という職を失った尹学準は、朝鮮総聯 傘下の朝鮮商工新聞社に入社し、機関紙『朝鮮商工新聞』の編集に携わっ た(1960~1963年)。しかし、そこを3年ほどで辞めさせられ、「関東学 院」における2か月の再教育を経て、在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸 同)から常任の誘いがあったが、それも結局総聯中央の批准が得られず、
最終的には組織を追われる形となった。個々の政策については批判や異見 もあったが、全体としては祖国北朝鮮や朝鮮総聯の枠組みの中で生きてき た「マルクス・ボーイ」の尹学準にとって、民族組織との関係が絶たれる
ことは大きな苦痛と転機をもたらしたものと推察される。
その後、漢方薬の販売、母校の法政大学を含む大学の非常勤講師、韓国 の文学作品の翻訳やエッセイ執筆などの仕事をしながら、同時に『朝鮮文 学』『季刊三千里」『朝鮮研究』(のちの『現代コリア』)などの諸雑誌に関 わることになる。そうした1960年代半ば以降の歩みは、渡日初期につい てまとめる本稿の目的からはずれるので、詳細はここでは省略する。
ただ言えることは、すでに朝鮮プロレタリア文学への評価、総聯への路 線転換のされ方、金達寿や雑誌『鶏林』への理不尽な批判の項でみてきた ように、尹学準の自由な批判精神は組織の、しかも次第に表現の幅に制限 が加えられていく組織の枠内には収まりきれなかったことだけは確かであ ろう。それは尹学準をして、総聯から追放もしくは脱退した文化人を糾合 した「季刊三千里グループ」に加わらせ、さらには佐藤勝巳を中心とする
「現代コリアグループ」と深い関係をもつに至らしめる。とくに後者の
「現代コリアグループ」との関わりは、つねに「Aか、Bか」の二者択一 を迫り、何かと穀誉褒艇の多い「この世界」においては、韓国文化に魅せ られた新たな友人たちとの出会いを生むとともに、在日朝鮮人を中心とす る旧来からの多数の友人たちとの関係を訣別ないし疎遠にすることにつな
がったかもしれない。
しかし、1950年代以来の尹学準の思考のあり方をみてきた私として は、その遍歴は納得がいく気がする。それはおそらく、朝鮮問題を語る際
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の政治主義的で善悪二分法的なアプローチへの懐疑や、他者批判に安住す ることに伴う自らの精神的堕落の問題などが、尹学準の生き方の大事な部 分に場所を占めていたからではないだろうか。北朝鮮や帰国者の実態が伝 わるとともに、かつて帰国事業に協力し、多くの在日商工人の帰国に手を 貸した自らの責任や胸ふさがる思いを活字にしたのも、そのことを裏付け ているように思われる(注44)。
以上、1953年の渡日以来の尹学準の歩みを、1950年代を中心に追って きた。残された断片的資料を探し出し、その点と点とを想像力でつなぎな がら綴ってきた。
当時の状況を追体験してみて、密航・逃亡の形でスタートした尹学準の 日本生活は、その後も法的・精神的に不安定な位置に置かれていたこと が、今さらながらよくわかる。しかしその境遇に萎縮することなく、法政 大学時代の朝文研・留学同活動や、卒業後の雑誌『鶏林』への関わりをは じめ、与えられた条件の中で積極的・主体的に活動してきた様子が確認で きる。その特徴は、時代の大きな枠に縛られながらも、その枠を超える横 溢する批判精神であり、物事を自省的に捉えようとする眼であった。
私は本学部で、「朝鮮民族のディアスポラ」という授業を担当している が、ある意味では尹学準個人の体験に、朝鮮民族のディアスポラが集約的 に表現されているとも考えられる。すなわち、もともと朝鮮半島南部の韓 国から日本に渡航してきた尹学準が、一時は北朝鮮を「祖国」と仰ぎ、帰 国も真剣に考え、帰国事業にも協力した。それはある時期まで、親族が住 み墳墓のある故郷の地、韓国との関係を断絶することを意味していた。総 聯組織を離れたのちも、自分の中で韓国が「禁断の土地」である間は、故 郷喪失者として望郷の想いは募る一方だった。
しかし、1982年の初帰郷後、尹学準にとってのデイアスポラは決して 嘆きや恨み節ではない。1996年に出版した『タヒヤンサリの歌』(丸善ラ イブラリー)では、以下のように書いている。
「『タヒヤンサリ』という歌がある。「他郷暮らし」という意味だが、か つて植民地時代に大いに流行ったことがあり、今でも在日韓国人たち が、まるで自分たちのテーマ・ソングでもあるかのように愛唱してやま ないナツメロである。ふるさとを追われ、流浪の民となって他郷に流れ