科学理論における現象学
速 川 治 郎
︵一︶
科学理論の中で現象学が扱われている若干の例を出してみよう︒H・ザイフェルトの﹃科学理論入門﹄2︑H.
ロムバッハの﹃科学理論﹄1︑R・ラィの﹃複合的科学理論﹄1等があげられる︒まず︑これらの中で現象学がど
のように取り扱われているかを述べてみたい︒ザイブェルトは現象学を述べる前に︑行動主義と生学︵ピ90コω≦一ω︐
ω窪ω︒冨豊フッサールのいわゆる生世界の生︑つまり人間が生きていることを重要視する学︶を論じている︒行
動主義︵bdΦ冨く一〇ユω芦ud警凶謡︒ユω凶歳ω︶は行動を科学的に観察する方法である︒人間の心は各自の中にあって︑
各自は他人の心の中へ入り込めない︒それならば︑例えば︑ある人が誰かを愛しているという状態をどのようにし
て確認するのだろうか︒その状態を直接観察できるものによって確認するのである︒ある人が例︑見ぽ赤くなった
り︑脈拍が速くなったりする外面的状態を観察することによって︑その人が誰かを愛しているという内面的心理状
1早稲田人文自然科学研究 第36号(H1.10)
態を確認できるのである︒ここに実証主義的科学が展開される︒これに対して生学においては︑科学的洞察の根源
が個人的︑私的なものであるから︑これを拒絶することはできないと考える︒個人的︑私的経験が科学的問題を解
くのに貢献するならば︑また事実︑貢献しているので︑その経験を隠して秘密にしておいてはいけないのである︒
この考えを拡張すると︑世界に存在するものはすべて潜在的にではあるが︑学の対象でなけれぽならない︒そこで
星の運行︑あるいは化学反応のように客観的に研究できるものだけでなく︑主観的経験︑感情︑欲求︑行動等々を
もった人間の生きる上での働きも学の対象になる︒われわれ人間が生きるということを十分に検討︑・考究して︑そ
れを学とすれぽ︑この学は逆にその生きるということに役立つはずである︒生は客観的研究を反省し批判しなけれ
ぽならない︒だから生は単に私的な行動をとる非合理主義に陥ってはならないのである︒このことに注意をしなが
ら人間の主観の発現が学を基礎付けるのであり︑生を学的理性の支配下におく生学が展.開されるのである︒
日常的状況を全体的に直接に解釈することによって︑人間の生の世界を理解する方法が現象学的方法である︒現
象学者は自分の日常経験を通して生の世界にかかわり︑その日常経験を自分の学的研究のために役立てる者であ
る︒ 0・F・ボルノーは人間が誰でも個人として体験できるものを明瞭に述べている︒すなわち人が引っ越しをした
場合︑その人が生きている状況︑つまり生の状況が全く変わってしまうことを述べている︒彼は言う︒ ﹁われわれ
が住居を変えるならば︑新しい住居から世界が新しい仕方で建設される︒同じ都市の中で住居が変わっても︑新し
い住居によってすべてのものが新しくなってしまう︒遠いところへ︑あるいは近いところへ引っ越したというだけ
のものではなく︑私が普段通る道路︑従って︑よく知られている道路︑その道路状況︑一般的に言えば︑都市の中
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科学理論における現象学
で私によく知られているもの︑私にとってうろ覚えのもの︑こういつたものが変わってしまうのである︒都市の中
で私にとって重要なものも異なったものになってしまう︒このようにして私が都市の中で住居を変えたならば︑そ
の都市全体が別の性格を持つのである︒他の都市へ引っ越しした場合でも︑同じことが言える﹂と︒現象学は︑ど
の人にとっても日常体験した自明のもの︑従って学の観念に結び付かなかったものを突然学的叙述の対象にまで高
める︒このことによって人に一種の驚きを与えるのである︒
日常的な現実の現象学的分析は帰納的に獲得する確認を全く必要としない︒例えばボルノーは︑一定地域に生活
している人の何%が引っ越しを体験し︑何%がしていないかを確認するために︑質問用紙を人々に配ったりなどし
ない︒ 或る人が現象学の本を著したとしよう︒この本の中の現象学的立言は︑著者が生きていろいろ体験したことか
ら︑出て来たものである︒その現象学的立言を主観相互の間で︵間主観的に︶検証する決定権は︑帰納的方法の規
則によって調査事実を処理するという経験的方法にあるのではなくて︑読者が﹁成る注そうだ﹂と感銘したり︑自
分の経験に照らし合わせてその立言に同意するところにある︒このように著者の語りかけを読者が生きて経験した
事柄と比較して︑読者はその事柄を適切に解釈し検証するのである︒従って現象学に対して量化方法を考えるのは
意味がない︒現象学者にとって経験はランダム・サンプル︵サンプルを任意に抽出することによって普遍化されて
いる︶の機能ではなく︑﹁例﹂の機能を持っていて︑﹁例﹂の数は問題にならないのである︒現象学者は︑法学者が
法律概念の実例を説明する場合と同じように︑自分の︑あるいは誰かの生きて来た間の経験︑つまり生の経験を普
遍化する︒一例を出そう︒ ﹁無過失責任﹂という法律概念の意味を説明するのに︑次ぎの一例を出すだけで︑その
3
意味がよくわかる︒普段おとなしい犬が突然通行人に噛みついて︑怪我を負わせたときでも︑その犬の持ち主はそ
の通行人に対する損害補償の責任がある︒なぜならば犬を飼うことは︑既にいつも潜在的に危険を与えるからであ
る︒起こり得る無過失の危害に対して補償しなけれぽならない責任が無過失責任と呼ばれるのである︒現象学者は
このように自分の︑あるいは誰かの生の経験を普遍化するのである︒
現象学的方法は超時間的に妥当する立言を提出しようとするのではない︒現象学者は﹁これはいつも︑どこでも
そうである﹂とは言わない︒彼は︑自分の提出した立言はいつも一定の時間内に制限された︑歴史的領域に対して
のみ通用するということを暗黙の内に想定している︒ボルノーの述べた引っ越しも例外ではない︒そのような引っ
越しはあったし︑また︑あるが︑同時になかった時代もある︒都市がなけれぽ当然そう言い得る︒だが部落はあっ
た︒現象学がそれ自体非歴史的方法であるようにみえるが︑しかし暗黙のうちに一定の歴史的地平の中へおかれて
いるのである︒
生を直接把握しようとする学的方法として現象学がある︒ これに対して解釈学は人間の生きている状況︑ つま
り︑いつも既に有る生状況そのものを解釈しながら理解する方法である︒生状況を理解しようとする限り︑解釈学
は現象学につながる︒その生状況の中で実証主義的学者でも私そのものとして初めから存在し︑その生状況をその
科学者も私そのものの生の関連から解釈するのである︒
現象学者達は︑自分達によって書かれた状況が歴史的なものに移行してしまうということを知ってはいるが︑し
かし彼らはそのことを自分達では論議しないのである︒
以上が筆者の解釈によるザイフェルトの大まかな主張である︒今度はロムバッハの考えを述べてみよう︒現象学
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科学理論における現象学
は考えられ得るすべての超越論的諸現象についての学である︒すなわち︑それは人間の行い得る認識にその意味を
付与する究極的基盤を見いだすということ︑そして︑その基盤の厳密な構成分析を続けて行い︑その究極的基盤
を︑すべての学とこの中に含まれている諸複合命題との証明根拠として意識させるということである︒こうして超
越論的主観性という究極的︑絶対的基盤が取り上げられる︒ここから︑すべての学の可能性︑限界︑体系論︑分類
が提出され︑それゆえヨーロヅパ科学︵広義の︶が成立したときから︑主張されて来た理想︑つまりすべての個別
科学を総括する普遍学という理想が実現される︒ところで超越論的主観性とは何か︒ ﹁デカルトが出てやっと体系
的に立てられた重要な︑学としての哲学︵乱のω①ロωoげ9︒h岳︒げ︒剛げ一ざω8ぼ︒︶が現れ︑これは超越論的主観主義と呼
ばれるべきである﹂︵国・出塁ωo芦∪δ巨匠ωq臼窪8感響冨昌ヨ︒︒ω︒ロの︒冨h8昌毒血色︒仲轟ロωN①ロ血魯巨︒勺冨ロ︒ヨ︒口9︒︒q♂
寒§ミ§亀bdFぎちα♪欝㎝︶︒フッサールは超越論的という語を最も広い意味にとって︑次のような根源的な動機
のために使用する︒すなわち︑それはデカルトを通ることによって︑すべての近代哲学に考えるべき意味を与える
ものなのである︒別言すれば︑その動機は近代哲学すべての中で自覚され︑真正で純粋な課題の形態となり︑その
動機こそ体系的に展開されようとしているものなのである︒それは︑認識を形成するすべてのものの究極的根源へ
戻って︑この根源を問おうとする動機となるものであり︑また根源的動機となる超越論的という語は認識する者が
自己自身と認識する自己の生とをみずから省察しようとする動機なのである︒ところで︑﹁その生の中では︑認識す
る者にとって妥当するすべての学的形成物は合目的的に生起し︑獲得されたものとして保存され︑自由に使いこな
されたし︑使いこなされるであろう﹂︵暫①︶︒従って﹁客観的に意味を形成するすべてのものと存在すると認められ
るものとの根源的な場としての認識する主観性﹂︵伽b︒刈︶がフ洩サールにとって重要なのである︒その主観性は︑カ
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ントが﹁対象そのものにかかわるのではなく︑対象についてのわれわれの認識の仕方一般に︑しかも︑その仕方が
ア・プリオリに可能であるべき限りにおいてのみ︑その仕方にかかわる認識を私は超越論的と名付ける﹂と言うこ
とにもつながる︒認識の仕方一般は認識する主観性に属するものである︒フッサールも二軸﹂ということに注目
して︑例えば音一般を問題にしている︒それは﹃イデーソ﹄1の中でも︑ ﹃危機﹄の中でも取り扱われている︒音
一般は認識する主観性から省察されるのである︒ただ注意したいことがある︒それはフッサールが認識の対象その
ものにかかわる認識をも超越論的と呼ぶということである︒
近代科学は経験し証明された資料と合理的分野という二つのものから確実な認識が得られるという考えから始ま
る︒実験用データは︑この基盤になっている一定の位置付け︵例えばそのデータを物理学上の研究に位置付ける
か︑生物学上の研究に位置付けるかということ︶と一定の秩序付け︵例えば物理学上の研究に位置付けられ実験さ
れたデータを数学によってそれから法則を確立し︑一定の秩序を立てること︶によって︑科学上の一定の効果を上
げ得る︒一定の秩序付けが回る領域︵例えば物理学︶の仮定となっているとしても︑この仮定はその領域自体の基
礎になっているいわゆる走査パターン︵走査線のしま模様のことであり︑走査パターンの一定集合によって︑テレ
ビの絵ができる︶に戻され︑しかも︑この走査パターンからその仮定の位置付け︑限界付けが行われなけれぽなら
ない︒ ︵ロムバヅハにとって走査パターンなるものが何を意味するのか示されていないが︑結局それは超越論的哲
学であると言えよう︶
人間は偶然的諸現象を寄せ集めるのではなく︑系統的に︵物理学︑生物学等の分野に分けて︶獲得した諸経験を
すべて統合するつもりならぽ︑人間は前以て理性的構想を抱いて現実に向かっていかなければならない︒そうすれ
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科学理論における現象学
ばその構想に基づいて現実を厳密に把握︑限定できる命題という価値を持った一定の答えを現実に対して与えるこ
とができる︒カントの言によれぽ︑科学者は一方の手には理性原理を︑他方の手にはこの原理に従って考えられた
問い︑しかも実験によって生じた問いを出しながら自然に向かって行かねぽならない︒そうすることによって自然
に対する体系的な知識を獲得するようになる︒このような認識論上の考えはカントが思考様式の革命と呼んだもの
である︒これがいわゆるコペルニクス的転回である︒
さて超越論的哲学はコペルニクス的転回と言えよう︒なぜならば︑その哲学によって初めて科学についての理解
が科学的となったと言えるからである︒すべての科学の根本的問いが立てられ得るのは︑正に超越論的哲学によっ
てである︵問うということをロムバッハは重要視していることが分かるが︑このことは彼が﹃問いの根源と本質﹄
という学位論文を一九四九年に出して哲学研究の道に入ったことにも起因するであろう︶︒われわれが根本的問い
を立て︑それに対する答えを獲得した時初めて科学は真の科学となり得る︒ここにおいて科学は科学的対象となり
得る対象にのみかかわり︑疑似科学的問いや要求をしりぞけることができる︒ロムバッハにとっては超越論的哲学
を通った科学が真の科学ということになると︑超越論的哲学︑特に超越論的問いを知らない自然科学者の研究する
科学は真の科学にならないことになる︒このことを彼はどのように考えているのであろうか︒しかし今はロムバッ
ハに戻ろう︒
超越論的問いを立てようともしない立場︑つまり純粋経験科学のみを科学であるとして︑対象を分析すべきであ
るという立場は真の科学ではなく︑素朴な思想である︒その立場は正に先入観にとらわれた認識であるが︑しかし
このことに気付いていない︒超越論的問いは︑人間が自分自身を自覚して来た歴史の中で不可欠なものである︒
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超越論的問いを提出したのはカントが初めてではない︒その問いは哲学のいわぽ遺産である︒誰の遺産であるの
か︒それはソクラテス︑プラトンのものである︒ソクラテスは事態を知ることができるようになるための制約を問
題にしたのであるから︑事態についての知識を得ようとするために︑事態についての問いを発したのではない︒ソ
クラテスがそのような制約を問題にしたところに超越論的問いがある︒超越論的問いを立てるということは批判的
方法論を提出することでもあり︑一定の特殊な哲学とは結合しない︒ロムバッハはこう言うので︑超越論的問いが
フッサールのものであるとは言えないが︑ロムバッハの思想の動機がフッサールに依存していることは言える︒ロ
ムバッハは続ける︒超越論的問いは例えば観念論︑主観主義に導くことではない︒超越論的な立場は︑認識論的︑
形而上学的観点から言えば︑制御のできなくなった︑止どまることのできない思弁と無思慮な経験論︑実証主義と
を排除︑否定する意味を持っている︒このように否定するという意味を持つ点から言えば現在︑影響力の強い︑ポ
パー︑アルバート︑ナーゲルの方法論があり︑これは批判的合理主義と言われる︒これは経験科学の理論として現
れ︑経験科学の中で批判的傾向を持つと言えるが︑ロムバッハの言う批判的方法論とは違う︒とにかく超越論的哲
学は現代哲学の課題の一つであると言えよう︒
フッサールは自分の哲学を超越論的現象学と言っているが︑現代の現象学も超越論的問いを立てる方向を取って
いる︒現代の超越論的現象学は客観的認識を獲得する以前の構想︑すなわち根源的構想を把握するのである︒この
ことは超越論的構造を考えることである︒そのためにはフヅサールの現象学的方法という次ぎの三つの段階を通る
ことによって︑その超越論的諸構造に達し得るのである︒そして︑この構造はこの構造の自己所与性︵QD①まω茜⑦σqΦ︑
げΦ昌げ①芦構造自身によって与えられたもの︑超越論的構造がそれ自身さえぎられないで現れること︶により明証と
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科学理論における現象学
なる︒三つの段階とは次のものである︒すなわち︵一︶現象学的還元︵表象内容が定立するすべてのモメントを括
弧内に入れる︹そういうモメントを排除して︑純粋意識を取り上げる︺ことによって対象の実在を問題にしない
︹自然的な世界の存在を素朴に信じていることの排除︶︒ ︵二︶形相的還元︵不変的なものとしてある普遍的構造
を取り出す︒従ってこのことは偶然的経験的事実を除いて本質の世界に入ることを意味する︶︒︵三︶超越論的還元
︵超越論的という概念は世界内部的︹ヨ巷O㊤㌣≦①一重︒菖という概念と対になっている︒世界の内に様々な仕方で
現れてくる存在者とかかわって︑われわれは生きているが︑この世界が素朴に仮定されている︒この仮定を超越し
て︑純粋意識体験から考えることによって超越論的還元が示される︶︒ この還元は本質という普遍性により明らか
になった表象︹志向的対象への志向︺という性質を構成的能無︹犀︒旨ω一二旨ぞΦピ巴ωεロαq・能作は機能︑働き︑活動
とほぼ同義であり︑形相的還元により見いだされる主観の働き︺と見る︒この能平によって経験の素材が︑すなわ
ち質料となっているデータがまとめられて一定の類型をもった対象全体となる︒これらの還元を通してロムバッハ
は超越論的構造の歴史を問題にするようになる︒人間が歴史を持つということは︑人間が一つの世界の中でこれこ
れの物事に出くわすということにおいてあるのではなく︑人間が時代時代によって異なったもろもろの世界の中で
行動しているということにおいてある︒これらの世界は密接に関連し合う超越論的構造によって構成される︒そし
て・これらの構造は人間の経験方法︑行動様式を前以て形成し︑あるいは可能にし︑従ってその構造が人間の活動
とこの活動に関連する対象世界との歴史的類型学を制約するのである︒こうして超越論的現象学が歴史的︑社会的
現象学︵ロムバッハでは三ω8ユωoげ①q巳ωoN一〇一〇αq♂畠①蛸げ鮮 ︿歴史的︑社会学的現象学﹀︶にまで広げられるな
らぽ・新しい超越論的自我も現れる︒この自我は個々人の認識活動を可能にするだけでなく︑大小の集団に分かれ
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たもろもろの歴史上の社会を関連付けたり︑そのような社会に共通の宿命を考え出したりする︒そして︑その関連
付け︑共通の宿命は体験︑思考︑行動のもろもろの形式の中にあり︑しかも︑これらの形式は結び合い︑共通し合
った︑拘束力のあるものなのである︒歴史的︑社会的現象学は超越論的間主観性の問題を個々の主観からではな
く︑この間主観性に固有な構成的能作から考えようとする︒歴史的︑社会的現象学がなけれぽ︑方法論的に完全に
反省された意味で社会科学︑歴史科学︵広義の︶は不可能である︒
超越論的屋構造は歴史上から言って時代時代により違っていて︑また個人個人によっても異なるだけでなく︑そ
れぞれの社会からも強い影響を受けて︑損なわれており︑また︑いろいろ経験する主体によっても変えられ︑隠さ
れ︑展開されないままになっている︒このことが分かって来たならば︑直ちに歴史的現象学が何よりもまず批判的
現象学でなけれぽならない︒ロムパヅハはなぜ批判的現象学を主張するかというと︑あるがままの諸構造を明確に
模写するだけでなく︑あるべき姿︑意味内容をも前以て示すということには批判が伴うからである︒超越論的構造
を正確に形成するという場合︑正確にということの尺度は構造形成時の認識作用を解明する成果いかんによるし︑
また構造における個々の地平の明晰さの度合いを解明する成果いかんによるし︑更に世界を統一的に把握するため
のすべての地平の緻密な構造連関が出来るかどうかによる︒個別科学の経験データが社会科学︑行動科学の領域か
ら出て批判的現象学の場で取り扱われる時初めて︑それらの科学は現存するものを確認するという行為を越えて︑
批判行為︑立案行為のために求められることができるのである︒批判的現象学を通ることによって社会科学︑行動
科学は先見の明のあるものとなり︑こうして人間は自分の未来を明らかにすることができるのである︒批判的現象
学は構造論的現象学となる︒この構造論的現象学は或る一つの世界だけでなく︑同時代の人類のすべての世界︵例
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科学理論における現象学
えば原始未開民族の世界とか︑ヨーロッパの自然科学を持っていないが高度の文化を持った世界︑例・兄ば古代イン
ド︑中国等︶を解明し︑それらの世界の真理形態を獲得するよう努力するのである︒その真理形態を獲得できるな
らぽ︑すべての世界は一定の共通性︑交換可能性を持ち得る︒そして各世界は相互の解明手段︑補正手段として役
立つことができる︒また世界は単一化された文明を持つのではなく︑諸民族は相互にそのよさを認め合う共同体と
して存在するようになり得る︒このことはユートピアではあるが︑現実的でもある︒ロムバッハの構造論的現象学
の三つの特徴を挙げると次のようになる︒ ︵一︶その現象学は科学的意識を発展させる原因となる根源︑本質︑核
心にまでさかのぼることができる︒また発展して来た伝統を更に将来へのばすのに有効である︒ ︵二︶構造論的現
象学は科学と社会︵歴史︶︑理論と実践︑認識と対象とを媒介し合うことができる︒ ︵三︶構造論的現象学は人間
の認識様式︑行動様式を明確にしながらも︑批判︵反省︶を忘れない︒μムバッハにおいては構造の超越論的現象
を問題にするのであり︑その限りでは彼の著﹃構造存在論﹄につながる︒彼は巧妙に自著に結び付けながら現象学
を論じていることが分かる︒
さてライは﹁認識の客体﹂という章の中で現象学を取り扱っている︒彼の主張は大体次の通りである︒自然科学
は認識の客体として専らもろもろの現象を取り扱うから︑現象科学である︒自然科学においては理論的︵非経験
的︶概念は必要であるが︑認識が進歩するには理論的概念は結局経験を通さなけれぽならない︒経験されねぽなら
ないものがもろもろの現象なのである︒このように普通の意味の現象が取り上げられ︑a.自然科学の現象学が論
じられてから︑b.フッサールの形相的現象学が論じられている︒彼の現象学的方法は特殊な認識方法であるか
ら︑客体概念および客体の把握は自然科学あるいは日常の認識とは異なって考えられている︒フッサールは現象学
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を超越論的意識の分野を純粋直覚によって探求する純粋に記述的な学科として︑哲学的直覚として︑あるいは現象
学的本質経験としている︒その現象学は前提なしには存在せず︑事実認識と対立して︑本質認識を提出する新しい
立場を前提する︒
現象学的方法の基礎には形相的︵特に﹃論理学的研究﹄で論じられている︶還元と狭義の現象学的︵特に﹃イデ
ーソ﹄の中で論じられている︶還元とがある︒ライは前者に関心を持つ︒形相的現象学的認識方法は対象の精神的
観察︵ωoゴき窪︶の際に出て来る︒その方法は直覚において働くのであるが︑この直覚を専ら所与にかかわらせる
べきであるとする︒しかし︑いかにしてわれわれは所与︵事態︶に達するのか︒それは差し当たり三重のエポケー
︵還元︶によってである︒
一︑あらゆる主観的なものから離れなければならない︒認識するということは厳密に客観主義的でなけれぽなら
ない︑すなわち専ら客体に向けられていなければならない︒
二︑理論付けられたり︑仮定付けられたり︑演繹されたりする︵証明方法に基づいて認識される︶あらゆるエレ
メントから離れなければならない︒認識行動は所与にのみかかわっていなければならない︒
三︑あらゆる伝統から離れなけれぽならない︒すなわち主観が認識対象について他の主観から経験したあらゆる
ものから離れなけれぽならない︒
所与の対象は再び二重の還元を受けなければならない︒
一︑客体の実在は取るに足りないもの︑従って無視されるものである︒というのは認識作用は︑対象が何である
かだけを考えるべきだからである︒
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科学理論における現象学
二︑対象の﹁何﹂ ︵事物の内容︑事柄︶にとって非本質的であるものすべては取るに足りないもの︑従って無視
されるものである︒本質︵本質的なもの︶ ︵本質がなけれぽ客体は客体でないであろう︶だけが認識されるべきで
ある︒ この形相的直観は純粋に方法論的な仕方である︒直観されたエレメントが現にあるということは否定されない︒
﹁何﹂としての客体は本質的には歴史的︑社会的︑宇宙的エレメントを伴っている︒このエレメントから現象学
は離れられない︒また認識作用が既に言語に結び付いているために︑伝統の還元︵伝統から離れること︶を行うと
いうことはほとんど不可能であろう︒感性から離れるということは疑わしい︒フッサールも﹁原初的に何らかの内
容を与えるところの意識は認識作用の唯一の正当な源泉である﹂と言うのである︒認識は精神的直覚になり︑もっ
ぱら精神的直観となる︒直観されるものはフッサールにとって現象するものである︒直観そのものは現象の内的精
神的表現である︒ぞうすれば認識は現象学︵もミ℃曾建︒℃現象するもの︑ 訳N§表現すること︶である︒
客観主義の要求は認識主観の感情︑願望︑立場の除去︑実践的関心の排除を望むのである︒専ら理論的関心への
還元は現象学的認識の限界を示す︒重要な領域︑すなわち具体的な人間とこの人間の持つ学とにとって異る領域を
認識することは特に重要であるが︑その領域は認識されないのかどうかが問われなければならないであろう︒
自然科学とこの科学の現象学に対立して︑フッサールの現象学は認識の客体を必然的に感性的に認識︵観察︶で
きないとしている︒客体が表象されうるということでフッサールの現象学は満足する︒またフッサールの現象学は
物と共に生じる出来事の認識を最初に行うのではなくて︑何よりもまず構造を考えるのである︒
本質をエイドス︵アリストテレスの意味で︶と理解する古典形而上学に対立して︑現象学は物に常に必然的に帰
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属する内容︑性質︑関係を共に現象学の本質概念の中へ取り入れる︒これに対して︑c.実証主義的現象学が述べ
られる︒フヅサールの現象学は意識の現象学である︒それの意味が幾人かの言語哲学老によって︵たいていは実証
主義的に︶変えられている︒フッサールの還元は受け入れられるが︑現象の概念は自然科学的に解釈される︒すな
わち現象は感性的に知覚されうるものなのである︒たいていはフヅサールの現象学が変化されると共にエポヶiの
段階で考慮の外に置かれた内容が否定される︒とりわけ現象︵例えば歯痛︶とは区別される即自︵︾口の一︒互それ
自体としてあるもの︑例えば歯痛自体N昏昌ωo﹃ヨ①目窪ω一魯︶の実在は否定される︒即時的に存在するもの︵認
識および感覚から独立したもの︶の確実な認識に達するということは即自と現象とが内容的実質的に同一である時
にのみ明らかになる・だが現象学的実証主義は形式的同一性︵もちろん現象と即自の区別は無意味となる︶を主張
する︒われわれが歯痛についての立言を提出する場合︑それは常に感覚認識についての立言であり︑感覚認識を越
えて問うということは認識論の領域内では初めから無意味なものである︒しかし歯痛の原因を問うことは意味のあ
ることである︒色彩認識は純粋な感性的感覚に基づく認識である︒色彩自体は存在しない︒われわれの現象界は専
ら感覚の属性から作られるから︑実証主義的現象主義の仮定は一般に通用するであろう︒更にライは次のように述
べる︒ 1.私がストローを水に入れると︑私は折れたストローを見る︒この場合ストローは折れ曲がっている︒私がス
トローに触ってみると︑それは真っすぐである︒だから二つの互いに異なったストローが問題なのである︒二つの
異なった感覚が認識を伝える場合いつでも二つの異なった認識対象が問題である︒
2.感性的現象もまた速やかに変わる︵瞬間Aにおける現象は瞬間Bにおける現象と異なっている︒実質的に全
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科学理論における現象学
く同一の現象内容が問題であったとしても︶がゆえに︑客体も変わる︒だから認識対象の自己同一を極めて短い時
間間隔においてのみ許す同一性なるものも存在しない︒
従って実証主義的現象主義は極端に主観主義的である︒その現象主義は原則的にはプロトコール立言︵知覚に基
づいた立言︑観察に基づいた立言︑基礎立言︶以外のもっと広げられた立言の使用を禁じている︒その現象主義は
認識対象の構造︑属性についての理論であるからには現象主義自身を作り上げることをも原則的には禁止する︒な
ぜならば実証主義的現象主義は︑理論的陳述のように︑立言対象の普遍化︑同一性︑および言語の間主観的機能
︵いわば伝達機能として理解された︶における確実な度合い︑これらの三つのものを前提するからである︒実証主
義的現象学は認識実践として現れ︑十分な理論的考察をしない︒だがそのように考えるとその現象学は認識理論
︵認識論︶の禁止︑従って認識についての反省︵認識のあらゆる次元におげる︶の禁止により︑もろもろの対象に
ついてのあらゆる科学︵実証主義的意味においても︶の不可能性を含んでいる︒
ライの考えでは三種類の現象学はそれぞれ十分なものとは言えない︒だがフッサールの﹃危機﹄書以後の考えを
ライは視野の中に入れていない︒入れたならばライの主張のようになるだろうか︒例えば現象学は客観主義である
とライは言うが︑ ﹃危機﹄書の中では客観主義︵自然科学主義︶は否定されている︒
︵二︶
15これまで述べたことから︑科学理論の中で現象学がどのように取り扱われているかは分かったと思う︒そして現
象学も科学理論の一つであるということになる︒日本語の科学理論は自然科学についての理論ととるのが常識的で
あろう︒がドイツ語の芝δωΦロωoげ9・津ω900ユ︒は広義の科学の理論を指す場合が極めて多い︒日本語の科学は自然
科学を指す場合が多い︒しかし科学は文字どうり学を含み︑学︵問︶の意味もあることに注意したい︒
フッサールの℃㌔げ臨Oωoつげ巻貝ωωヰ①づσq①芝δωΦづωoげ句誌.︑ご噂U冨区制忽ω傷︒﹃o霞︒︾蝉冨︒げ①昌類δωΦ口ωoプh舞Φ昌信昌傷
90爲碧ωN8Φ暮巴O勺餌昌O日O昌90σqδ.︑あるいはショルツの二客Φ畠℃げ要望巴︒︒ω葺魯σq①ミδωΦづωoげ雨曇..は﹃厳密学
としての哲学﹄︑﹃ヨi巨ッパ諸学の危機と超越論的現象学﹄あるいは﹃厳密学としての形而上学﹄と普通訳すが︑
︵広義の︶厳密科学︑諸科学と訳しても間違いではない︒哲学も科学であるとすると反発する人は多いであろう
が︑広義の科学︵広科学︶の意味ならぼ反発されることもないが︑まぎらわしいというそしりは免れないかもしれ
ない︒またへ!ゲルのと国昌N団匡︒娼似島︒鎚①﹃b三一〇ωo︾三ωoげ︒量感ωo昌ωo犀帥h8⇒一ヨ○歪昌傷ユωωΦ︑︑の中の娼ゴ出︒ω9
b三ω︒げ︒昌ミ冨ω①諺︒げ鎗け︒昌はどう訳すか︒哲学的学と訳すと︑日本語において哲学という語は学が付いているのに
学でないのかという非難を受けるであろう︒ 一応哲学としての学と訳せるであろう︒とにかく下鮎ωΦ房︒匿津の
曖昧であることが逆に少くとも二義性を持ち︑大きな特徴にもなっている︒
ライは広狭両義にわたる科学についての歴史的概観をしている︒それを敷延し筆者の解釈に基づいて簡単に述べ
てみよう︒アリストテレスは腎ミ忌需︵学︶を純粋経験から区別する︒というのは学が物の軌謎︵事実存在︶だけ
でなく︑物の薯餐︵根拠︶にもかかわっているからである︒学は︑学の立言が疑われる余地もない限り︑臆見
(動泊瘁jから区別される︒学は︑行動でなく︑何らかの存在者にかかわる限り︑ 隷R斗︵技術︶から区別される︒
トーマス・アクィナスは学を8一8αq三ざb霞8信ωoヨ︵原因による物の認識︶として規定する︒ これは今日でも
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科学理論における現象学
自然科学を原因究明するものとする限り通用する︒カントは本来の学を反論できないほど確実なもののみであると
する︒従って彼は智ミ忌需とま智というアリストテレスの区別を擁護していることになる︒フッサールによれ
ば︑ ﹁学の本質となるものは︑根拠付けの連関という統一であり︑この連関の中で根拠付けそのものも個々の認識
との体系的統一を保持し︑また根拠付けの更に高い複合したもの︵理論︶もその根拠付けとの体系的統一を維持す
る﹂︵い︒oqぎ冨d口§ω旨冨凝費目り国︒︒旨︒︒影旨.ω﹂㎝︶︒ボヘンスキーによると﹁客観的に理解するならば︑科学︵こ
れは狭義の科学︑すなわち狭科学に近い︶は知識ではなく︑次の特徴を持ったもろもろの客観的命題の構造であ
る︒すなわち︵a︶科学はもろもろの客観的命題の構造を体系的に作ったものである⁝⁝︵b︶科学の領域に属す
るすべての命題が科学に必要であるのではなく︑少なくとも一人の人間によって知られている命題のみが科学に必
要なのである﹂︒筆者にとっては︵b︶の後半の文はもちろん必要ではあるが︑それだけでは不十分に思われる︒
だから︵b︶は同時に︵a︶︵c︶と結び付いていなけれぽならない︒個別的なものは連続的でなけれぽならない︒
並列的叙述は分析的であるので︑誤解される恐れがある︒一人の人間に知られている命題であっても︑その命題が
多くの人間によって承認されていなければ︑科学に必要なものとならないであろうし︑いつまでも一人の人間の独
断︑偏見であっては︑一人の人間に知られている命題であっても科学に必要なものであるとは言えない︒ボヘソス
キーもこのことは承知してはいる︒だから︵c︶で彼は次のように言う︒﹁︵c︶科学は社会的仕事である︒従って
何らかの仕方で客観化された命題のみが︑すなわち記号によって表された命題のみが科学に必要であり︑そこで︑
その命題は他の人間に少なくとも原理的に受け入れられているのである﹂︵H︾①吉言bPΦけげO傷Φ口噂 Hcoh・︶と︒しかしなが
ら︵b︶の中に︵a︶ ︵c︶が入っていることを明確にしておかねばならないであろう︒ヴィトゲンシュタイソは
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﹃論理哲学論考﹄の中で次のように規定する︒﹁真なる命題の全体が自然科学全体である﹂︵四.二︶︒この場合︑
命題は現実の世界のモデルであり︑われわれが現実の世界を心に描くようにあるものである︵四.〇一︶︒命題が真
である時にはいつでも︑実情がいかにあるかを示している︒そして命題は実情がかくかくのようにあるということ
を語る︵四.〇二二︶︒従って命題は或る事態︵ω碧署Φ忌9︒δの記述であり︵四.〇二三︶︽注・ここで言う﹁事態﹂は
他の事実から合成されていない事実のことであり︑つまり原子事実讐︒ヨ一〇富9のことである︒例・兄ば﹁ソクラテ
スは賢かった﹂は事態であるが︑しかし原子事実でもあるから︑事実でもある︒↓讐銘︒げ︒事実は二つ以上の原子
事実から成り立っているものである︒例えば﹁孔子は賢い中国人であった﹂は二つの原子事実﹁孔子は賢かった﹂
﹁孔子は中国人であった﹂から成り立つ事実である︾︑事態はそれ自身もろもろの対象︵事物ω碧げΦ昌︑物︶の結
合である︵二.〇一︶︒尽る一つの命題を理解するということは︑それが真である時にはいつでも︑事情が何であるか
を知るということである︵四.〇二四︶︒命題は現実の世界の論理的形式を示すがゆえに︵四.==︶︑論理学のもろ
もろの命題は何ものをも語らない︵六.一一︶︽注・ライはここのところを⁝困p︒暮旨き象︒ω讐Noαo目い︒σq涛
巳︒窪雲ミ器ω9︒σq窪ごωのΦ昌・としているが︑ヴィトゲンシュタインはU冨ω9︑旨①阜興ピ︒晩涛ω餌oq8巴ωoZざ三ρ
︵ω一Φω冒q象Φき巴旨δoげ①昌ω讐No●︶と述べている︒括弧内の文は別にして︑ライの表現は原文の意味を若干損な
っているのではなかろうか︾︒論理学のもろもろの命題は恒真である︽注・原文は∪一①ω弩NΦω冒傷目餌旨︒δoqδ昌
︵①﹂︶であり︑藤本︑坂井両氏は﹁論理の諸命題は同語反復である﹂と訳しているが︑︵六︑一︶とそのすぐ後の
︵六︑一一︶との関係から︑また︑これ以外の後の文脈から見て︑﹁恒真﹂と訳せるのではないか︒なぜならぽ分析哲学
者にとっては分析的命題は恒真命題のことであり︑分析哲学者が﹁花は花である﹂と同語反復をしていると自分で
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科学理論における現象学
考えるはずがないからであり︑また﹂︵b>﹂b︶は恒真命題だからである︒しかし︑あらゆる命題は恒真であると
解釈されるならば︑適切ではない︒多くの命題は恒真であると解釈せざるを得ない︾︒だが論理学は︵言語論理学と
して理解されるならば︶空虚なものとしてでなく︑世界の鏡像として理解される︵六.=二︶ヴィトゲンシュタイ
ンによると﹁論理学においては記号の助けをかりてわれわれが望むものを表現するのは︑われわれではなくて︑むし
ろ論理学においては自然必然的な記号の本性自身がわれわれの望むものを表現している︒すなわち︑なんらかの記
号言語の論理学的語形論&o一〇αqδoげΦω団暮畏︽注・普通︑構文論と訳されるが︑語形論の方がよいであろう︾を
知るとき既に論理学のすべての命題が与えられているのである﹂︒ヴィトゲソシュタインの前記文中妻酵という表
現はざげにもとれるので︑ ≦跨の代わりに﹁私﹂﹁自我﹂があるとみなし得る︒﹁記号の本性がわれわれの望むも
のを表現している﹂とヴィトゲンシュタイソは言い︑語形論を私が知るとき既に論理学のすべての命題が与えられ
ているにしても︑﹁表現している﹂﹁与えられている﹂ことが分かるのはヴィトゲンシュタイン自身がいるからであ
る︒この点を無視できないと筆者は考える︒語形論を私が知るとき既に論理学のすべての命題が与えられていると
いうような意味をヴィトゲソシュタインは言うが︑論理学のすべての命題が具体的に与えられているわけではある
まい︒その限りではヴィトゲンシュタインの文は不適切であると言わざるを得ない︒また記号論理学を絶対に必要
なものであるとする人は︑語形論︑意味論︑語用論を固持しているので︑筆者が先に言ったように﹁与えられてい
る﹂ことが分かるのはヴィトゲンシュタイン自身がいるからだとすると︑そのことは語形論ではなくて︑語用論の
問題だと言うのが常である︒しかし語形論を論じること自体語用論の中に陥っているということをその人は語ろう
としない︒この問題は別の機会に述べたいと思う︒
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ライの科学概観の中にフッサールが登場している︒しかし︑そこでは﹃写研﹄が取り上げられているだけであ
る︒科学理論にとって﹃論研﹄が必要なものであることはもちろんである︒その中で類δωo旨ωo冨h↓ωδ誓Φ学問
論︑広科学論が扱われているからである︒が現段階では人間︑人間の生きている世界︑すなわち生世界︑あるいは
歴史等が論じられている﹃危機﹄を問題にしたい︒その前に科学理論の理論に少し触れておきたい︒≦一ののΦ富︒冨︐
津の葺①oユΦは類δωoづωo冨津の島ΦoユΦ であるとして理論を強調する場合が多い︒ ロムバッハもそのように強調
する一人である︒学問論︑科学論では芝冨ω窪ωo冨ヰ巴①訂①と区別できない面もある︒このようなわけで︑理論に
ついての一つの解釈を述べておくことも無駄ではあるまい︒アリストテレスは︑.畑簿e烹黛聖血ミNミミ〜勲為ミNS.︑
︿客Φけ.首.刈.︶﹁理論︵観照︶は最も快であり︑最も善である﹂と言う︒沖e烹良はも&q︵神︶と関連している︒
傍観する立場はギリシャ人にとってそれ自体既に神聖なのである︒ 沖eゑΨ︵見詰めること︶はギリシャ人にとっ
て生きている上での神的な実行を意味する︒それゆえ理論という言葉は宗教的なものから来ていると言︑兄る︒事実
も§息q︵理論家︑見る人ωO①9碧︒ひ︒びω興く興︶はギリシャ都市が公共の祝祭劇のために送り出した代表者を意味
し︑この人は沖e烹優にひたって︑すなわち祝祭劇を見物しながら︑その宗教儀式に没頭していった︒それが感覚
的知覚には得られないものの精神的見物︵観察︑観照︶である︒近代哲学では︑観照は経験と対立して︑思考によ
って獲得される認識であり︑一定の現象を穿る原理から学問的に説明することであり︑個々の認識を普遍的法則の
下へ総括すること等であり︑このことが理論なのである︒
現象学を科学理論の中で取り扱うと︑現象学が原理︑普遍的法則だということになる︒フヅサールにとっては確
かにそうである︒そこで個別老が個別者として鮮明に現れるならぽそれだけ︑普遍者が確立されると言うことがで
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科学理論における現象学
きる︒特に超越論的自我は普遍老として確立されているが︑同時に個別者を含むと言える︒またこの逆でもある︒
だが︑こう書つたときには個別者︑普遍老両者に独特の意味が与えられている点に注意しなけれぽならない︒例え
ばヘーゲルの﹃大論理学﹄ ≦訪ω窪ωo冨津q霞ぴ︒σq欝︵論理学の広科学︶も個別者と普遍者が同時に現れているこ
とになる︒その個別者は個人であり︑自我主観であり︑これらのものは誰をも指す言葉である限り︑メタ言語であ
り︑普遍者である︒フッサールにしても︑ヘーゲルにしても個別者であり︑個別老という言葉を持つ限り︑これが
普遍者の意味を持つ︒個別者と普遍者との間が消失し︑無となることによって両者の統一が成立している︒また現
象学なり︑大論理学なりが原理︑普遍的法則を持つから︑普遍老であるが︑これが普遍者として明確独特な特徴を
持つのであるから︑普遍者は個別老となっている︒ここにも先述の﹁間﹂の消失︑無があることによって︑普遍老
と個別者の統一が成立している︒以上述べたことは麗なる命題の全体にかかわるし︑命題の意味の問題につながっ
てくる︒このことはライの科学概観の方向と同じであると言えなくもない︒
ライもロムバッハもフッサールが構造を重要視していることを述べているが︑このことに対してライはどちらか
というと否定的であり︑ロムバヅハは肯定的︑積極的な態度を取る︒ ﹃危機﹄の中にも構造という語は散見される
が︑ロムバヅハ程それを強調してはいない︒しかし︑生世界がすべて相対的な状態をしていながら普遍的な構造を
持つとフッサールは言っている︵﹃危機﹄留α︶︒ ロムバッハはフッサ1ルに触発されて構造︑問いを真剣に考えた
と言えるのである︒
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22
︵三︶
いよいよフッサールの﹃危機﹄を論ずる段階に来た︒彼はこの書の中で毛冨器湯︒冨砕という語をいろいろな
ところで使っている︒その語は哲学とくっついたり︑離れたりしながら︑すなわち︑それは自然科学の科学H精密
科学①図9吋8ミ諺ωo旨ωo冨津︑形而上学の学︑学としての哲学乱ωωo昌ωo冨h島︒げ︒勺ぼ一〇ω8霞Φ睦超越論的主観主義︑
精密科学でない学︑厳密な学ω茸Φロσqo芝δω魯ω99即︑文化事実としての諸学となって使われている︒精密科学で
ない学とはどういう意味か︒フッサールによれば精密科学が唯一の方法を持つ場であり︑究極的な真理の宝庫であ
っても︑その科学は真剣に見れば決して学ではない90①×接8p宅♂ω9ω︒冨︷8口⁝菩Φ︸9︒信望昌ooげ巳︒算①ヨ警︐
一一Zげ≦一ωωΦロωoげ鋒8昌:・門ω冨9︵留刈︶︒というのは︑この学は究極的な根拠から認識するものであり︑究極的な理論
的自己責任から認識するものであるからである︒その自己責任には真剣な思索があり︑それが究極的な根拠を構成
するものであり︑このものが厳密学であり︑これを目指すものが超越論的哲学である︒以前にロムバッハの考︑兄と
して﹁われわれが根本的問いを立て︑それに対する答えを獲得したとき初めて科学は真の科学となり得る﹂と述べ
たが︑その真の科学はフッサールの厳密学︑超越論的哲学であるとすると理解しやすい︒科学は学ではなくて科学
であるということか︒しかし科学も学を持っており︑学を無視したならば︑文字どおり科だけになってしまう︒科
か とは禾と斗からできていて︑禾は穀物︑斗は量器︑いわゆる升であり︑科は升で穀物の一定量をはかり︑区分するこ
いボとであり︑また禾を束ねて︑その束を数えること︑品分け︑等級︑区分︑区別であり︑あるいは一定の標準を立て
科学理論における現象学
て︑ものを区分した一つ一つを指す︒なんとなく科学の意味が入っているように見えるが︑科だけでは科学ではな
い︒日本語にとって科学に学があることは重要であると言わなけれぽならない︒玄︒①室咲〇ω生命倫理学が叫ばれる
のも科学が学である証拠である︒漢字の学が三孝窪ωo審理よりも日常生活に基づいた意味︑実践的︑倫理的意味
を持っていることも生命倫理学に通じると言えよう︒科学が人間のためにあるとしばしば言われるが︑このことが
科−学を指し︑この語が学を重視︑強調している︒一般的には︑科学は︑科−学でなくて︑科学であるが︑科学は科
学でなくて︑科−学であるし︑また︑あらねぽならないとも言える︒ロムバッハの真の科学とは科−学のことではな
いのか︒このことからも厳密学︑超越論的哲学に手が届くのではないだろうか︑特に生世界の学に進み得るのでは
なかろうか︒
人間の生きている世界は極めてよく知られているように見えるが︑不完全に知られているにすぎない︒生世界の
学は客観的認識による学であろうか︒われわれは客観的科学という概念の中に浸っているが︑学一般の概念と取
り違えてはならないとフッサールは言う︒ 芝δωΦコωo犀9津だけでは彼にとっていわぽ悪いをδωΦ昌ωoぽ9津と善い
≦蕾窪ωo冨津との区別ができないので︑毛冨ωΦロの︒冨砕に形容詞︑名詞等を付けることによって︑区別しようと
している︒ ω茸Φ昌σqΦを圃ωωΦ昌ωoげ鋒rΦ凶昌ΦミδωΦロωoげ9吐く︒口貸Φ﹃い①げΦロの宅巴計ミδωΦロωoげ㊤︷け曽ぴ①︸9︒仁箕等が善
い≦δω魯ωo冨津であり肯定されるべきものであり︑一般に日本語で学と訳されている︒〇三①閃即くΦ窪田ωΦ昌ωoゴ鋒け
Φ×卑ぽ8ミδω①昌の︒冨砕等は悪い芝富ωΦ昌ωo冨ヰであり︑もっと適切に言えば批判されるべきものであり︑ 一般に
日本語で科学と訳されている︒しかしながら﹃危機﹄の訳本︑例えば細谷︑木田両氏のものを見ても︑必ずしもそ
うとは限らない︒ここにミ一ωωΦ霧︒げ9︒津を考える場合に難しい問題があると言えよう︒﹃危機﹄の中にも芝一ωωΦ口︐
23
ωo冨hδ葺ooユ①という語が現れ︵留企h︶︑ フッサールはこのぞ一ωω魯ωoげ錬けを客観的科学にのみ限定しているが︑.
現.在の科学理論を見ればすぐ分かるように︑そうではない︒細谷︑木田両氏の訳では≦一ωωΦロω︒冨津ω夢①oユ①が知
識論になっており︑≦冨ωΦpωoげ動けが知識になっている︒知識論では科学理論から余りにもかけはなれてしまうの
ではないか︒その訳は適切なものとは言いがたい︒
学術的な研究を種々行うということ三ωω①富09h葺畠Φ﹀巳σq筈窪ω霞目琶σq9︵注・学問は研究することと︑既に
できあがっている体系的知識を学びとることとを持つが︑学術は棄老すなわち研究することに重点があるので︑学
術的と訳した︶は本質的に互いに関連し合っているにしても︑いろいろ異なったものであろう︒そのもろもろの学
術的研究を生世界という名称が可能にし︑また要求するのであるが︑真正にして完全な学術性に必要なことは︑そ
のあらゆる学術的研究が一つになって︑しかし本質的に基礎付けられなけれぽならないのであって︑一つの︑すな
わち客観的−論理的な研究︵これは生世界内の特殊な仕事である︶だけが取り扱われ︑他の研究は学的に全く取り
上げられないということがあってはならない︒生世界が常に基底として働いている仕方︑生世界が論理以前に様々
に働いているということが論理的真理︑理論的真理を基礎付けている仕方︑・これらの仕方が学的に決して問われな
いということがあってはならない︒
フッサールは学術的研究の根底︑客観的−論理的な研究の根底に生世界があることを主張する︒しかし︑ これは
彼の主張文であるので︑論理でもある︒そうではないと主張すれぽ︑そのことは既に論理になってしまう︒生世界
があることを語ることが同時に論理になってしまう︒それにもかかわらず論理を語ることは同時に生世界内の仕事
でもある︒
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科学理論における現象学
生世界から主観的−相対的経験が出て来るのである︒自然科学者は客観的な研究を行うことで︑客観的なものに
興味を持つのは当然であるが︑これに対して主観的−相対的なものは︑自然科学者にとって取るに足りないものと
いうわけではなく︑客観的に確証するための理論的−論理的存在を通用させるように究極的に根拠付けるものとし
て働くのであり︑従って主観的−相対的なものは物事を明証にしたり︑確証したりする源泉として働くのである︒
主観的−相対的経験は純粋に生世界の中から生起する明証性を持っており︑もろもろの科学を客観的に確立する明証
の源泉である︒が︑もろもろの科学は客観的なものの経験ではない︒客観的なものは客観的なものであるからこそ
決して経験できないのである︒そして︑もろもろの客観的科学はもろもろの主観的形成物なのである︒客観的科学
9Φo豆①犀自く①類聚ω窪ωoげ㊤津は生世界に根をおろしているからこそ︑生世界と一定の意味関係を持っている︒そ
の世界の中で︑われわれは絶えず生きており︑その世界の中で︑われわれはまた科学者芝♂ω9ωoげ鋒二字として生
きており︑更に協力し合う科学者の共通社会の中でも窒︒げ巨O興︾目σqΦヨ①冒ωo﹃9津住興寓詳乱ωωΦ口ωo冨h一δ﹃︵こ
の社会は生世界の中に含まれる︶生きている︒だから客観的科学は普遍的な生世界島Φ伊=αqΦヨ①冒①H9Φ窃妻Φ一けと
一定の意味関係を持っているのである︒フッサールは≧一σqΦ9Φ冒ωo島津と帥=伽q①ヨΦ冒を関連させている︒普遍的
なものは科学者の具体的な協同社会から生ずるということを彼は言いたいのである︒ 類δωoロωo冨h二興は客観的
科学に対応しているので科学者と訳せるが︑細谷︑木田訳では学者となっている︒ この概念の中に文学者が入る
と︑ 二障註ωωΦ口ωo冨h二霞の立目心味がないのではないかという疑問が出て来る︒だが文学者も分からないところを他
人に聞いてみるということはするであろう︒その限りでは竃詳註ωωΦロωo冨h二重であると言えるかもしれないが︑
自然科学者よりも協力し合う度合いははるかに少ない︒そして文学も客観的科学であるということは誰でも抵抗を
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感ずるであろう︒文学は上述のような客観的なものを取り扱うとは言えないからである︒そうかと言って︑客観的
科学を自然科学と同一にすると︑狭すぎるであろう︒客観的科学の中に社会科学︑例えば計量社会学︑数理社会
学︑社会測定法等が入るからである︒科学を広義︑狭義︑すなわち二分割にして考えることが一般に行われる︒
が︑ここでは二分割法では不完全に思われる︒科学を三分割にすることが考えられないだろうか︒例えば科学は広
科学︵一般には学︑学問︑学術︑精神科学︑人文科学︶︑中科学︑すなわち広狭両科学の意味を持った科学︵社会
科学︑人間科学︑認知科学︑イコノロジー等︶︑狭科学︵自然科学︶である︒
ところで認知科学︑イコノロジーについて若干述べておく必要があろう︒認知科学においては︑ ﹁人間は情報を
処理する生物であり︑その処理する過程をコンピューターによって再現し︑概念的分析と実験を繰り返すことによ
って︑従来の方法では把握できなかった﹁心﹂のもろもろの状態を解明しようとするのが認知科学である︒人間が
心を持つとは︑外界を知覚し︑言葉を受け取り︑概念を形成し︑思考を展開し︑過去の出来事を記憶したり︑外界
に働きかける意図︑意志を持ち︑足りないものを欲して︑行動したり︑他人に言葉で働きかけたりすることにほか
ならないし︵﹃学問の現在﹄駿陪堂︑一九八九︶と土屋俊氏は言う︒﹁従来の方法では把握できなかった心﹂と彼は言う
ので︑従来の方法で把握できた心があることになる︒このことは広科学で取り扱ったものがあることを意味する︒
それを否定するにしても受け取って認知科学と比較検討しながら︑認知科学を考えざるを得ない︒その限りではそ
れは中科学の中に入るであろう︒コンピューター処理だけに限れば︑それはもちろん歯科学に入る︒中科学の特徴
は広科学︑狭科学の間を入ったり︑来たりするところにある︒土屋氏はコンピューターという情報を処理する機
械︑人間という情報を処理する生物という意味のことを言うが︑そこには機械と生物という語の違いしかない︒そ
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うすると機械︑生物の違いを認めていることになる︒生きているものは機械と違うことを認めていることになる︒
一応彼は心の意味は述べているが︑人間が生きて現在いるということには全く触れていない︒正に︑ ﹁私﹂の生き
生きした現在は問題外なのだ︒例えば︑人間が異性を愛し︑喜び合い︑子供を授かり︑子供を育てる大きな喜び︑
悲しみを味わいながらその時その時を生きている︑あるいは生きて行くということは土屋氏の心の定義の中にはな
い︒また土屋氏は︑認知科学が生み出す知見は︑人間の人間についての自己認識にほかならないと言うが︑人間の
人間についての一部の自己認識にほかならないのである︒
イコノロジーは図像学と言われる︒
科学理論における現象学
右図はキリスト教の三位一体を示す抽象的図像であるが︑また論理学者ヴェンが三段論法の干るものを上図によ
って表している︒下図はメヴィウスの帯にほかならないことが分ってきた︒このように︑いろいろな図像︵マンダ
ラをも含む︶に潜在する論理的︑数学的構造を明らかにすることを図像学は目指している︵﹃学問の現在﹄昌々堂︶︒
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中科学の中にあるものとして認知科学︑イコノロジーを述べた︒哲学は広︑中︑狭科学いずれにもかかわること
ができる︒すなわち文学についての哲学︑・社会哲学︑社会の広狭両科学︑自然科学哲学がある︒こういう考えなら
ぽ︑文学もそうだと言う人がいるかもしれないが︑ ﹁文学研究は︑その出発点に文学の語りH騙りに乗せられて感
動するという体験がある限り﹂﹁文学研究を科学に還元することはできない﹂︵﹃学問の現在﹄験々堂︑七一頁︶と言う
のが普通であろう︒
フッサールの客観的科学の世界の中には客観主義︑ 傷巽乱ωω9ωo冨h岳︒げΦO豆Φ〆自≦ω目二ωすなわち︑近代哲
学はもちろん︑二千年来のこれまでのあらゆる哲学の客観主義も入る︵費ω︶︒ 乱ωω窪ωo冨h島︒﹃①という語は哲学
と結び付いている限り︑広︑中︑狭科学︑その限りでの科学︑すなわち学を表している︒しかしながら︑その
三ωω05ωo冨h島︒ゲΦという語は中科学に入れた方が分かりやすいのではないだろうか︒文学等を除いた広科学は厳
密に広科学と言ってよいであろうか︒ 住興三ωω窪ωoげ三島魯①Oげ冨屏日面ωヨ信ωは中科学的客観主義であるが︑そ
の限りでの学的客観主義と言っておこう︒
客観主義は︑前以て与えられた世界を基盤にして︵この前以て与えられたということは経験によって分かりきっ
たものとする︶︑この世界の客観的真理を問うのであり︑この世界にとって無条件に通用するもの︑または︑すべ
ての理性的なものにとって通用するもの︑つまり世界自体が何であるのかを問うのである︒このことを普遍的に行
うのが︑エピステーメー︵学的知︶︑ラチオ︵理性︶︑ないしは哲学の仕事である︵費心︶︒ フッサールがこう考える
客観主義は大部分の広科学と一部の中科学︑一部の狭科学とにわたっていると言えよう︒
生世界がすべて相対性の中にありながら︑普遍的な構造を持っているということは既に述べた︒そのことは弁証
28
科学理論における現象学
法的な叙述のように見えるが︑フッサールは︑相対的に存在するすべてのものは普遍的構造に結び付けられていて︑
この普遍的な構造はそれ自体相対的ではないと言っているので︑弁証法的表現にはなっていない︒が︑生世界は学
に形成される以前にく︒暑一ωω窪ω魯ph暮畠︑客観的科学象Φ09①吋萬くΦ口芝奮Φ房︒冨津撃が前提している構造と同
じアプリナリな構造を持っている︒そして普遍的︑生世界的アプリナリと普遍的客観的アプリオリという二つの普
遍的構造を体系的に分離する必要があろう︵益し︒①︶とも彼は言う︒フッサールの言う意味は結局︑生世界と客観的科
学との普遍的構造は同一であり︑分離されているということである︒その限りでは︑弁証法的表現になっている︒
ところでく︒暑すωΦ霧︒げ母岳畠の中の類δω魯ωo冨津と岳ooび冨ぽ寒くΦ口芝δω魯ωo冨坤Φpの中の≦訪ωΦ諺︒冨津
がどうして学︑科学とになっているのか︒前者は主として哲学に結び付き︑後者は主に自然科学に結び付いている
からである︒しかしながら学では自然科学が疎んぜられる傾向が出て来る︒が︑この傾向はここにはない︒
乱ωωΦ房︒ゴ潮け罵︒げΦ勺ぼ一〇ω8ぼ①が学としての哲学であっても︑それは間違いではないがそぐわない個所もある︒
すなわち﹁現代の記号論理学者が1真に科学的哲学Φ冒①重昏跨ρ津註ωω窪ωoゴ音量︒げ①勺げ一一〇ω8ぼ①という名の
もとにi形成できると信じている﹂︵㈱︒︒①︶論理学︑すなわち︑﹁客観的科学に対して普遍的アプリオリな基礎科学
としての論理学も︑普遍的生世界的アプリオリからの学的根拠付けを欠いているから︑素朴なものにほかならな
い﹂︒記号論理学は科学的哲学の中に入り︑基礎科学団§匿§Φ韓巴三器Φ房島9︒⇒であるとフッサールは言うが︑
その科学的哲学は自然科学としての哲学の意味である︒Φぎ①毒㊤げ昏㊤砕乱ωωΦ房︒ゴ9︒窪一〇げΦ℃寓ざω8圧Φζ一匿いな
がら国︒⇒餌ρヨΦ曇巴急ωωΦ房号僧津というのはおかしい︒すなわち﹁科学らしい﹂を﹁科学﹂というのはおかしい
と言える︒が註ω器ロωoげ9︒窪一〇げは科学の特色を持ったという意味にも解釈できる︒だから︑それは℃臣一〇ωob三〇
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