序にかえて
著者 網干 善教
雑誌名 関西大学博物館紀要
巻 1
ページ I‑IV
発行年 1995‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16512
平成六年四月一日付で関西大学博物館が開設された︒旧本山コレクシ
ョンが関西大学に移管され︑考古学研究室による発掘調査の資料や購入
資料︑寄贈資料などを加えて関西大学博物館を開設しようとする念願が
約四十年ぶりにようやく実現し︑将来の充実発展に向っての第一歩を踏
み出すことになったのは非常に喜ばしいことである︒
大学に文献史料の殿堂である図書館と共に実物資料を収集・保存・展
示・研究などを行う博物館の施設は車の両輪に臂えられてきたが︑ここ
に両者が備わるという理想的な形をなしたことになり︑大学当局及び関
係者の方々の御尽力に謝意を表するものである︒
故末永雅雄先生が関西大学教授に御着任になり︑本山家が保有される
故本山彦一︵松蔭︶翁の遺品である考古学資料を大学に移管されたこと
から注目されていた︒大学では博物館構想のもとに当時の図書館︵現在
の簡文館︶の三階にあった考古学研究室︵末永研究室︶の隣の小規模な
部屋をあて︑資料の一部を展示したが︑大半は地下室の倉庫に収蔵され
ていた︒その後約二十年間︑展示するスペースもなく︑博物館構想の建
議も軌道にのらず︑昭和四十三年三月︑末永先生は定年退職された︒
序にかえて
l関西大学博物館資料の歩みI
その頃から学園紛争という危機に直面し︑大学が封鎖されるという最
悪の事態になってきたので︑資料の安全を守る為︑一時的に大阪市立博
物館に保管を依頼し︑急遥資料の大部分を運び出した︒
荒廃した大学紛争も終結の兆しが現われ︑大学では昭和四十九年大学
院学舎の改築が行われることになった︒そこで大学当局に当初三階で計
画された大学院学舎を四階にし︑考古学資料の収蔵・展示と整理室等を
設置していただくようお願いした︒この要請は取り入れて下きることに
なり︑仮設として実現したが︑収蔵室及び展示室などが狭く︑十分に機
能するまでにはいたらなかった︒
一方︑とりあえず︑﹁関西大学考古学等資料管理運営委員会﹂が発足し︑
全学的な理解のもとに運営されることになった︒
昭和六十年︑関西大学図書館が新築きれることになり︑それにともな
って旧図書館が新しく簡文館と命名され︑大学院学舎四階にあった考古
学資料室がこの簡文館に移り︑旧図書館の閲覧室の二室を展示室に︑図
書館収蔵庫の一部を博物館資料収蔵庫に転用し︑事務室︑実習室などが︑
簡文館内に設けられることになった︒この施設によって博物館実習︑考
I
古学実習︑考古学演習等の関連講義も行うことができるようになった︒
ただ︑諸般の事情により博物館法による博物館相当施設の開設までに至
らなかった︒それが今回︑機が熟して︑関西大学寄附行為や考古学資料
室等管理運営規定の改正が行われ︑博物館法に基づく﹁関西大学博物館﹂
として指定きれることになった︒
以上は博物館開設に至る極めて概略な経過であるが︑将来のために﹃関
西大学博物館紀要﹄の第一号︵従来の﹃関西大学考古学等資料室紀要﹄
第十二号を継承︶の刊行にあたり記しておきたい︒
それはともかく博物館には先述の如く資料の収集・保存・展示・研究
等の活動が課せられている︒本学にはいろいろな経緯によって得た多く
の資料があるが︑そのうちの主要部分をなすのは考古学資料である︒な
かでも旧本山コレクションと称される資料のなかには重要文化財をふく
む貴重な資料が含まれている︒
考古学資料の場合へそれが製造・制作され︑埋没乃至は埋納されるま
でにどのような経過があったかは殆んど知る由もない︒また︑偶然にし
ろ︑発掘にしろ︑それらの遺物がどのような経緯をもって動き︑そして
現在ここに収集され存在されるようになったのかという経緯がある︒そ
の場合︑奇遇な︑運命的な経過を伴った場合もあろうし︑また︑その動
きによって遺物を媒介とした人間関係l文学的にいえば人間の織り
なす文様ともいうべきかlの存在を知ることができる︒遺物がある
人から︑ある人へ︑あるいはある機関へ動く背景には︑それなりの理由
なり︑意義がある︒そこには買売という単なる商行為のみの場合もあろ
うが︑遺物の収集に熱意を示した人であれば︑将来それを誰に託したら よいかを考えるであろうし︑若しその間に仲介する人がおれば︑すべて信頼関係によって動く場合もある︒したがって︑博物館資料︑特に本学の場合の考古学資料は一見すれば単なる石器や土器であり︑古墳出土の埴輪という無機的な物質であるが︑その経緯をみると︑その背後に人間相互の機縁と信頼によって成り立っていることがわかる︒
本山コレクションの前身は神田孝平コレクションと呼ばれる︒神田孝
平氏は幕末から明治のはじめにかけての洋学者であり︑啓蒙思想家であ
り︑同時に高級官僚であった︒﹃世界考古学辞典﹄︵平凡社︶や﹃国史大
辞典﹄︵吉川弘文館︶などによると︑天保元年︵一八三○︶九月十五日︑
岐阜県不破郡垂井町に生れ︑嘉永二年︵一八四九︶江戸に出て樋苦学し
て儒学を修め︑ペリー来航を機会に蘭学を学び︑主に数学を習い︑文久
二年︵一八六二︶蕃書調所数学教授出役となり︑明治元年︵一八六八︶
に頭取に就任した︒また経済学にも通じ︑明治維新後︑集議院判官︑権
大内史を歴任し︑明治四年︵一八七二十一月には兵庫県令となり︑明
治六年︵一八七三︶には﹁明六社﹂に参加︑九年には元老院議官︑貴族
院議院︑十二年には東京学士会院会員にもなった︒考古学に対する造詣
も深く︑明治二十年から二十八年にかけて東京人類学会の初代の会長を
もつとめ︑明治三十一年︵一八九八︶七月五日︑六十九歳で逝去された︒
男爵を授与された︒このような経歴をもつ神田氏は考古学の領域では︑
明治十八年︵一九八四︶に英文の﹃日本太古石器考﹄を著わし︑自ら積
極的に考古学資料を収集し︑その資料のもつ価値を﹃東京人類学会報告﹄
︵後に﹃人類学雑誌﹄︶に発表している︒この時に紹介きれた資料のなか
には︑現在関西大学が所有する重要文化財指定の奈良県天理市渋谷出土
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Ⅱ
上
と伝えられる石枕や青森県西津軽郡木造町にある亀ケ岡遺跡出土の縄文
時代の土偶や︑埼玉県熊谷市上中条の人物埴輪などがある︒
この神田コレクションは本山彦一︵松蔭翁︶氏に引き継がれる︒本山
氏は嘉永六年︵一八五三八月十四日熊本県に生れ︑明治四年︵一八七
一︶慶応義塾に学び︑大阪新報社︑時事新報社︑その後一時藤田組の支
配人となったが︑明治二十二年︵一八八九︶︑大阪毎日新聞の経営に関係︑
三十六年︵一九○三︶に社長に就任し︑毎日新聞の発展につくし︑昭和
七年︵一九三二︶十二月三十日逝去︑八十歳であった︒
本山氏は明治後半から大正・昭和初期にかけて新聞界で活躍する一方︑
考古学に深い関心をもっていた︒そして自ら三大発掘といわれる如く︑
大阪府藤井寺市国府遺跡︑岡山県笠岡市西大島津雲貝塚︑山口県下関市
長府鋳銭跡遺跡などの発掘を行った︒これらの遺物の一部は旧本山コレ
クションとして関西大学で所蔵している︒また︑多くの考古学研究者の
調査を援助されたといわれる︒そこには調査には京都大学の浜田耕作博
士の協力があった︒
ところで︑神田孝平氏と本山彦一氏とにはどのような機縁があって神
田コレクションが本山コレクションに移管されたのであろうか︒その神
田・本山面氏の間を取り持った人物は福沢諭吉氏であったと思われる︒
福沢諭吉氏は慶応義塾の創始者であることはいうまでもなく︑明治の
啓蒙思想家であることは知られている︒
福沢氏は天保五年︵一八三四︶四月十二日︑大分県中津市の出身︑ペ
リー来航を機に蘭学の道に入り︑後に大阪の緒方洪庵の適々斎塾の塾長
となった︒万延元年︵一八六○︶幕府の遣米使節の派遣に際し︑威臨丸 に乗って渡米︑帰国後は外交文書の翻訳などに従事された︒その後二回渡米した︒維新の激動を経て︑明治六年︵一八七三︶に明六社に参加し︑文筆活動を行っている︒そして十二年︵一八七九︶には東京学士会院の初代会長に就任し︑明治三十四年︵一九○一︶二月三日︑六十八歳で死
去された︒
福沢氏と本山氏はジャーナリストとして活動してきたが︑本山氏は明
六社を通じて福沢氏との関係があった︒また︑神田孝平氏も福沢諭吉氏
と親交があり︑かかる人間関係のなかにおいて神田コレクションが本山
氏へと移った︒勿論︑本山氏は前述の如く河内国府︑備中津雲︑長門長
府をはじめ各地からの収集品も加えられている︒これらの資料は大阪府
神田コレクションから本山氏を経て、関西大学へ(奈 良県天理市出土=重要文化財)
本山コレクションから関西大学へ(津雲貝塚出土)
Ⅲ
IIIjllll■■l8TI■lⅡ110ⅡIIIllllllllllllllllllllll 堺市の自宅に富民協会農業博物館を設立し保管されてきた︒
そのような経過によって本山コレクションができるが︑これに関係き
れたのは浜田耕作博士である︒いうまでもなく本山氏の関係きれた発掘
調査を担当し︑指導されたことはいうまでもない︒
浜田博士は明治十四年︵一八八一︶の大阪府岸和田市生れ︑明治四十
二年︵一九○九︶より京都大学で考古学を講じ︑近代考古学の基礎を確
立きれた︒
こうした関係によって自分の蒐集品の整理を浜田博士に依頼きれ︑そ
の命をうけて末永雅雄先生が当たられたのである︒そして昭和十年﹃本
山考古室要録﹄が刊行された︒
いうまでもなく末永先生は昭和二十七年︵一九五二︶︑本学の教授に
御就任︑考古学研究室を開設された︒その直後︑本山家から末永先生に
資料の移管の話があった︒このことについて末永先生は﹁関西大学に就
任当初から︑附属博物館の建設と資料の収集の事業を心がけつつ数年を
経過した︒たまたま私が若いときに整理をしていた︑毎日新聞社長本山
彦一氏の御逝去後︑多年にわたる収集品の処置について︑二世本山彦一
氏から私に〃父が学界に寄与すべく収集した資料であるから︑できるだ
け末永の所属する大学にあることが望ましい〃との話があった﹂と述懐
されている︒このようにして資料は本山家から関西大学に移管されるこ
以上は神田コレクションから本山コレクション︑そして関西大学博物
館として受け継がれた資料の経過である︒そのなかで本山コレクション とになった︒ には神田コレクションを受けた後も多量の資料の増加があり︑本山コレクションを受け入れた関西大学は︑考古学研究室が発掘調査し保管する資料や購入及び寄贈をうけた資料を収め︑その量と質は高められていると思う︒そしてこれを機にさらに充実していくであろう︒
ところで︑こうしたことを考えてみると資料が単に商品として移動す
るのではなく︑もっと重要な意味がある︒それは人間関係であり︑それ
を結ぶ信頼と将来への希望である︒収集きれたものが︑今後も学術資料
として活用されることを期待してのことであろう︒そこには︑単なる物
の移動ではなく︑心の継承が存在しているものと思う︒資料そのものは
単なる〃もの〃であるかも知れないが︑背後には人間的なつながりがあ
る︒陸上競技でいえば継走のバトンや駅伝の裡のようなものであって︑
バトンや襟は単なるものであったとしても︑それを継承するなかに計り
知れない信頼と期待が秘められている︒今回︑関西大学が価値あるもの
の死蔵ではなく︑博物館として認知し︑しかも︑学内の教育資料だけで
はなく︑広く一般市民に公開されるような配慮がなきれたことは︑大学
の発展につながるものと思う︒そして︑これらの資料を通じて︑将来も
秀れた研究者が輩出し︑関西大学の伝統が不滅に継承・発展することを
念願すると同時に確信するものである︒
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