立教大学教職課程 2019 年 3 月
1.教職課程改編:新教員免許法制に向けた再 課程申請
もう間もなく、教職課程(教員免許取得のた めの教
カ リ キ ュ ラ ム育課程)の新カリ、新しい教育職員免許 法に即したカリキュラムの実施年度となる。現 行の教職課程は 2010 年度から、その前の教職 課程は 2000 年度から、さらにその前の教職課 程は 1990 年度から実施されて来たが、この度 は区切りのいい 2020 年度からではなく、なぜ か 2019 年度から実施される。
もっとも、教職課程を置く各大学にとって、
次年度はまだ新カリ適用学生はマイノリティで あり、今後なお数年は現行の教職課程を主に念 頭に置いて課程運営を行わなければならない。
今年度(2018 年度)は、慌ただしい年度当初 の4月末に本学としての教職課程の再課程申請 を済ませ、何度か文部科学省による指摘に応じ て修正を施しながら、申請結果をジリジリと待 たされる期間であった。本稿脱稿とちょうど同 じ頃、2019 年1月 25 日付けでようやく本学も 正式の再課程認定通知を受けた(正式には「教 員の免許状授与の所要資格を得させるための大 学の課程の認定」)。これで、次年度以降も教職 課程運営を行うことができる。
この度の新しい教(育職)員免許法制の大き な特徴は、科目区分が大括り化(区分変更)さ れたことと教職課程コアカリキュラムが導入さ れ、指針として義務づけられたことである。
教員免許法制と学力・正義への問い
-教育制度論・教育課程論・社会科教育法・公民科教育法の交差点(4)-
下地 秀樹
まず科目区分について見ると、現行法制の「教 科に関する科目」と「教職に関する科目」、そ してそのハイブリットならぬ「教科又は教職に 関する科目」という3区分は廃止され、「教職 に関する科目」のうちの「各教科の指導法」が
「教科に関する科目」と同じ区分に括られて「教 科及び教科の指導法に関する科目」になった。
「各教科の指導法」以外の従来の「教職に関す る科目」には、従来の「(各科目に)含めるこ とが必要な事項」に「特別の支援を必要とする 幼児、児童及び生徒に対する理解(1単位以上 修得)」、「総合的な学習の時間の指導法」が新 設され、その他、従来から踏襲された事項にも
「カリキュラム・マネジメント」など数項目が 新たに加えられている。教職課程の「教育内容」
はかなり増加した。
区分が変わることになる「各教科の指導法」
は、現行法制では、中学校教諭一種免許の場合、
(課程認定)行政指導により8単位(以上)必
修を求められている。しかし、現行法制の「教
職に関する科目」31 単位にこれを収めること
は、他の「含めることが必要な事項」に関わる
科目を過不足なく設けていくと、どう工夫して
みても困難であった。逆に言えば、「教職に関
する科目」として「各教科の指導法」8単位必
修とする法制上の明確な根拠はないとも言え
る。これは現行法制以前の、2000 年度開始の
教員免許法制から同様であった。ただし、31
単位をはみ出しても「教科または教職に関する 科目」にこれを収めることができるはずという 理屈にはなる。そうすると、法制上の最小総単 位数(59 単位)に収めるには、結局「教職に 関する科目」の単位数を増やし、その分、「教 科に関する科目」の単位数を減らすことになる。
本学のように、教科毎という中等教員免許の特 性に鑑み「教科に関する科目」を重要視するカ リキュラム編成を行うと、履修学生に法制上の 最小単位数より多くを課さざるを得なくなる。
新しい教員免許法制では、「教科及び教科の 指導法に関する科目」28 単位(中学一種の場 合)のうち、「各教科の指導法」は8単位必修 とされ、法制上の根拠が明確になった。これと 従来の「教職に関する科目」に該当する総単位 数 27(中学一種の場合)を合わせると 35 単位 となり、現行法制に比べると従来の「教職に関 する科目」は4単位増えたことになる。しかし、
それでも「各教科の指導法」を8単位設け、新 たに設けられた事項を過不足なく満たして科目 を編成しこの単位数内に収めるのは容易ではな い。ここにまた、従来の「教科又は教職に関す る科目」に代わり「大学が独自に設定する科目」
という科目区分が設けられ(中学一種の場合4 単位)、その名の通り、大学が独自に工夫すれ ば法制上の要件を満たせるはずとの理屈が用意 される
1。
こうして、良く言えば緩衝、悪く言えば鵺の
ような区分を設けることで、「含めることが必 要な事項」をいくら増やしても総単位数(一種 免許の場合 59 単位)に変化はない、したがっ て徒な負担増ではないとの弄策がこの度の新教 員免許法制でも用いられた。しかも、「独自に 設定」ということで各大学の創意工夫の余地を より設けたとの強弁さえまかり通ることにな る。本学では、従来の方針通り中等教員免許に おける「教科に関する科目」、新法制上の「教 科に関する専門的事項」を重視し、「大学が独 自に設定する科目」はほぼすべてこれに充てる ことにしている。また、「特別の支援を必要と する幼児、児童及び生徒に対する理解(1単位 以上修得)」、「総合的な学習の時間の指導法」
の新設を要する科目・事項を除き、従来の科目 編成を踏襲し極力変更を加えないカリキュラム として再課程申請を行った。
2.教職課程コアカリキュラム:目標による統制
一方、教職課程コアカリキュラムは、手続き 的に法制上の根拠が不明確なまま、教育職員免 許法施行規則公布(2017 年 11 月 17 日)にも 先立って作成され、各大学の(課程・再課程)
申請を統制していくことになった
2。これは「教 職課程で最低限修得すべき資質能力」との位置 づけで、「含めることが必要な事項」毎に「全 体目標」を、さらに各事項に設けられた2~4 の下位区分毎に「一般目標」と5~ 10 の「到
1 記述が煩雑になるので、ここでは中学一種を例としたが、単位数は若干異なるものの、高校一種の場合も同 様である。「各教科の指導法」は新法制で4単位必修と明確化されたが、現行法制上では「教職に関する科目」23 単位にこれを収めるのは困難で、はみ出しても「教科又は教職に関する科目」(高校一種の場合16 単位)に収め られるはずということになっている。新法制の「大学が独自に設定する科目」は高校一種の場合12 単位である。
2 コアカリキュラムの策定経過については、拙稿「スタンダードへの問い−教育制度論・教育課程論・社会科 教育法・公民科教育法の交差点」(『教職研究』第2 号、女子栄養大学教育文化政策研究室、2017 年11 月)参照。
達目標」を示している。現行(の教員免許)法 制から導入され、すでに内容が具体的に示され ている「教職実践演習」は除外されているが、 「各 教科の指導法」や「教育実習」についてまで詳 細に定められている。「目標」を数え上げてみ ると、中学免許の場合、「全体目標」15、「一般 目標」42、 「到達目標」123、高校免許の場合は「道 徳の理論及び指導法」が課されない分、中学免 許より少なくそれぞれ 14、40、113 である
3。
学校教員がいかに次世代育成を担う責任の重 い役割だとしても、これだけの「目標」を並べ られるとそれだけで目が眩みそうで、何を目ざ せばいいのか却ってわからなくなりそうである が、これらはあくまでも「教職課程で最低限修 得すべき資質能力」である。教員養成版学習指 導要領とも言うべき、教職課程のミニマム・ス タンダードと見做されるものである。別稿で述 べたように
4、ここで露呈するのは作成に召集 された委員たちの悪意ではない勤勉さが招く
「ポジティブリストの弊害」(「〇〇できる」の オンパレード)であろうし、各目標そのものは、
突っ込みどころ満載でも、目くじらを立てて「教 育にとって、教員にとって意味がない」と主張 するほどのものではないかもしれない。また、
その内容はこれから見直されていくことがある のかもしれない。
しかし、「道徳の理論及び指導法」等の単位 数を明記された一部の事項を除けば、「含める ことが必要な事項」をどのように含み込んで授
業科目を編成するのかは各大学の裁量の範囲と しても、各大学はその授業科目の全回(2単位 科目の場合、標準的には 15 回)にわたって教 職課程コアカリキュラムのどの「到達目標」を 扱うのか回毎に明示し、なおかつ、すべての目 標を扱うことを義務づけられた。 (課程・再課程)
申請にあたり、いまや大学の授業の定番となっ たシラバスとともに、教職課程コアカリキュラ ムの対応表を作成し、提出しなければならなく なった。
多人数が集まっての授業は一回一回が貴重な 機会であり、決して疎かにしてはならないとし ても、どの回でもあらかじめ定められた「修得 すべき資質能力」を目標としなければならない のでは息が詰まりそう、と捉えては不謹慎だろ うか。しかも、「教育実践に関する科目」、即ち
「教育実習」と「教職実践演習」以外のすべて の科目で「アクティヴ・ラーニングの視点 ( 等 ) を取り入れるものとする」ともされている。
すでに現行法制で、教職課程の「質保証」を 担う、「教職課程の総仕上げ」科目として「教 職実践演習」が導入され、履修学生一人一人の
「履修カルテ」の作成と管理が義務づけられて いる。その上に各大学の各授業科目を多数の詳 細な到達目標により、さらに視点まで加えて統 制しようとする狙いはどこにあるのだろう。
文科省内に設けられた「教職課程コアカリ キュラムについての在り方検討委員会」の横須 賀薫座長は、「開放制教員養成はフィクション」
3 なお、従来の「教科に関する科目」に該当する「教科に関する専門的事項」については、英語科のみコアカリ キュラムが策定されており、他の教科についても順次策定の予定ということである。
4 註2 の拙稿参照。
と言い放っている
5。教職課程コアカリキュラ ムの表向き正統性を担保する狙いは「教員養成 の全国的水準の確保」なのであろうが、この発 言に端的に示されているように、統制力を当然 の如く露にする新教員免許法制の願いは、教員 養成制度が限りなく目的養成に近づいていくこ となのだろう。「大学が独自に設定する科目」
を設けることで、各大学の柔軟な科目編成が可 能になり、「教科と教職の融合科目」が期待さ れるということだが、開放制教員養成の下での 各大学の学部・学科には固有の学士課程、その 質保証が求められていて、ここに教員養成とし ての要請が過剰に加われば、履修学生の負担が 増すばかりである
6。それでも、大学には教員 養成に焦点化した明確なカリキュラム設計を、
各履修者には入学時から一貫した教員志望の強 い意志を求め、そうでない場合は退場願いたい ということなのだろう。
本学においてはすでに二つの学部(経営学部、
現代心理学部)が教員養成から撤退し(教職課 程の申請を取り下げ)、いくつかの学部・学科 が再課程申請の教科を絞り、現行よりも減らし て申請している。そしてまた、本学に限らず教 職課程履修者は減少傾向にある。新教員免許法 制の効果は、実施前から確実にあらわれつつあ り、今後、「教科に関する専門的事項」のコア カリキュラム策定が進められていくなら、さら に各大学の学部・学科が苦渋の選択を迫られる
ことになるのかもしれない。
3.2020 年代の教育改革と学力
20 世紀の末以降、教員養成政策は教職科目 について「入れ替える」という発想が乏しく、
次々に要件を付加している。本学の教職課程は 開放制教員養成の主旨を貫き、まず専門学部学 科の卒業 ( 学士課程修了 ) を前提として重視し
「ポジティブリストの弊害」を軽減する科目編 成を行って来た。学習指導要領の意義を強調す るということで「教育課程論」の独立開講が要 請される趨勢にあっても、教
カ リ キ ュ ラ ム育課程も教育制度 の一環と捉えて「教育制度論・教育課程論」(2 単位)として展開し、社会科系 3 教科(中学社 会科、高校地歴科、高校公民科)の免許取得負 担を少しでも軽減すべく「社会・地歴科教育法」、
「社会・公民科教育法」を開講して来た。これ らは 2000 年度以降の教職課程で採用している が、この度の再課程申請でも継続し、認可され ている。教職課程コアカリキュラムが策定され ても、その要諦を整理して「全体目標」に通じ るような編成を検討していくのが現実的と考え ている。
教員免許法制の改革は「教育制度論・教育課 程論」が扱うべき重要なテーマの一つであるが、
法制改革があってもなくても、この数年来、当 然のことながら 2020 年代の教育改革、新学習 指導要領や大学入試改革を念頭に置いた授業を
5 公開シンポジウム「どうなる日本の教員養成 −教職課程コア・カリキュラムをめぐって」(日本教師教育学 会/早稲田大学教育・総合科学学術院/早稲田大学教職支援センター共催、2017 年7 月9 日、早稲田大学小野 記念講堂)での発言。註2の拙稿参照。
6 従来の「教科に関する科目」、新教育職員免許法制下の「教科に関する専門的事項」に該当する科目に対し、
近年、科目名、科目内容、専任教員数等、教員養成としての要件充足が厳格化されている。一方で、各学部学科は 学士課程の質保証として独自性を強化する必要もあり、教員養成との両立が困難になりつつある。そのため、
後述の通り、本学においても教職課程の申請・認定数(学科・教科)が減少している。
行っている。中学校では 2021 年度から、高校 では 2022 年度から施行される新学習指導要領 では「主体的、対話的で深い学び」なる概念が 提示されていても、現場では端的にアクティブ・
ラーニングが喧伝され、教育実習生にも要求さ れており、既述の通り、新教員免許法制でも「ア クティヴ・ラーニング等の視点を取り入れるこ と」が必須とされている。受講学生には自らの
(被)教育経験を対象化し相対化しながら、何 がどう変わろうとしているのか考えることを促 している。
十年一日の如く、今年度もまた教育制度と教 育課程が交わる焦点を「学力の社会的把握」と 仮定して、「教育制度論・教育課程論」ではか なりの時間を割いて検討した。「社会的把握」
は、社会的「公正」とはどういうことかという 課題を含み、これを目ざした把握であり、ここ で「社会・公民科教育法」の目標・課題と交差 する。教職課程コアカリキュラムには学力なる 語は一度も出て来ないので、表面的に見ればこ のような授業展開は次年度からは認められない のかもしれない。しかし、「学力の社会的把握」
を度外視して、「現代の学校教育に関する社会 的、制度的、又は経営的事項」(「教育制度論」
に該当する全体目標)、「各学校において編成さ れる教育課程の意義、方法」(「教育課程論」に 該当する全体目標)にリアリティをもって迫る ことができるのかどうか、できるとすればその 方法をも教えてもらいたいとさえ考える。
たかが学力、されど学力、学力なんて所詮 は学校でしか通用しない力と考えるのか、そ れとも、誰もが幼少期から経験する学校制度 に幸福な社会生活を営む基本的な力を願い考
えるのか。幼児が取り組む論理的思考のパズ ルにはじまり、PISA や PIAAC(Programme for the International Assessment of Adult Competences、国際成人力調査)の問題、受講 学生も経験したはずの学テ(全国学力・学習状 況調査)の問題、そして 2021 年度から実施さ れる大学入学共通テストの試行調査問題などか ら数問抽出して取り組み、「学力の社会的把握」
について意見交換を行った。
総括課題は「学習過程評価方法としての試験
(テスト)」とし、教員免許取得を希望している 教科で、学習指導要領、あるいは教科書を参考 に、適当な単元の担当を任されたと想定し、50 点満点の試験問題を作成することとした。合わ せて、その試験を受ける生徒たちへのメッセー ジを想定しながら、出題意図、解答例、評価基 準を説明するレポートを作成することも課題と し、選択した単元の学習を評価する方法として 妥当かどうかについて熟考することを条件とし た。これもまたこの授業科目の十年一日の如き 総括課題である。
この授業科目の今年度の筆者が担当するクラ スの登録者は 114 名で、内訳は 1 年生 100 名、
2 年生9名,3 年生3名、院生2名と圧倒的に 1 年生が多かった。1 年次から履修可能で、教 育実習の先修科目故、これは当然である。うち 総括課題を提出したのは 107 名で、教科別に 見ると、社会科系(社会・地歴・公民)54 名、
数学 23 名、理科 17 名、国語 11 名、英語2名で、
時間割の関係か、文学部史学科と理学部の学生 が多数を占めていた。
当該学期(秋学期)最終授業時(1 月 17 日)
には、総括課題を持ち寄り、相互批評を行って
締めた。まだ高校時代までの記憶、受験勉強の 記憶が鮮明なのか、いずれのレポートも試験問 題作成にはかなり熱心で、受ける生徒たちへの メッセージとしては概ね「復習に役立つ」とい うことに力点が置かれていた。教科が異なる場 合には、試験問題そのものの批評は難しかった かもしれないが、多くの学生が他の学生の問題 に刺激を受け、「自分は工夫が足りなかった」、
「問題作成がこれほど大変とは考えたこともな く、早い時期に経験できてよかった」との感想 を率直に記していた。
総括課題と相互批評を読み、筆者自身の今学 期総括として、学力観、「学力の社会的把握」
のこれまでとこれからについて考えることを促 したつもりではあったが、「これから」を共に 考える努力が足りなかったと反省させられた。
もちろん、「これから」を先取りする問題作成 を望むような過剰な期待をしてはいないが、履 修学生たちが教壇に立っていく頃の学力イメー ジを、そしてどうすることが社会的「公正」に 適うのかということを、実のところ筆者自身も あまり明確には描けていないことを痛感させら れた。
20 世紀末頃から国内外で学力の問い直し(新 学力観、PISA に至る OECD の教育事業等)が 模索され始めたのは、産業社会からポスト産業 社会への転換が背景としてあり、所謂「ゆとり 教育」から本格的な「学び方改革」とされる 2020 年代の教育改革への政策過程は、産業社
会に適合的な学校、学力からポスト産業社会に 適合的なそれらへの変換を模索する試みと概観 したつもりであったが、「これから」を構想す るには掘り下げが足りなかった。例えば、1977 年度から総合学習を導入し、 「チャイム、時間割、
通知表がない」ことで知られる伊那小学校を取 り上げた TV 番組を紹介したが、 「驚いた」、 「こ うした経験をしてみたかった」という一方で、
「こんな小学校生活では中学以降に苦労するだ け」、「実社会では通用しない」、「通知表がない ようでは他の人との比較ができず、向上心、競 争心が損なわれる」といった感想を述べる学生 たちに対し、これからの変化の可能性を見据え る議論を促すことができなかった。
4.教育の過剰と減退
すでに(幼稚園から)小中高すべての新学習 指導要領が出揃った 2020 年代の教育改革は、
戦後最大級の教育改革、本格的な「学び方改革」
とされ、教育内容の削減は行わないとされなが らも、「コンテンツ(教育内容)ベースからコ ンピテンシー(資質・能力)ベースへ」、「教授 から学習へ」の教
カ リ キ ュ ラ ム育課程の転換と捉えられてい る。この改革では、「育成を目指す資質・能力」
が次頁の図のように示された
7。「知識・技能」、
「思考力・判断力・表現力等」、「学びに向かう力・
人間性
3 3 3等」が三つの柱とされている(傍点筆者)。
1990 年代の新学力観で、すでに「結果」で はなく「過程」重視の方針、「知識・技能」よ
7 中央教育審議会教育課程部会第97 回(2016 年7 月19 日)の配布資料「学習指導要領改訂の方向性」で案と して図示され、同年12 月21 日の答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等 の改善及び必要な方策等について」の別添資料では各学校種の各教科等の領域毎にこの三つの柱に即した資 質、能力の整理、イメージの例示等が詳細に図示されている。いずれも文科省HP で閲覧可能である。
りも「意欲・関心・態度」へ(評価において重 視する)観点を転換する方針が打ち出されてい た。しかし、その後も学力考査、入試問題が大 きく変わったわけではない。2000 年代の PISA ショックと学テ導入で知識のみではなくその活 用力を問うことが普及しても、学力の一般的通 念は「知識・技能」に「思考力・判断力・表現 力等」を加えるのが精々だろう。履修学生たち のレポートでも、「学び続ける精神力」、「我慢 強く努力する勤勉さ」に言及することはあって も、それらは学力形成を支える力であって、学 力そのものと見做されることはまずない。
では、「学びに向かう力・人間性等」とはど ういうことなのか。お飾りかと言えばそうでは なく、むしろ三つの柱の中心とも言え、「社会・
世界との関わり」、「人生」にまで踏み込んでい る。
第一次安倍政権下で 2006 年末(12 月 22 日)
に(旧)教育基本法が廃され、現行教育基本法
が制定されて、法制の支配力、行政の権限が強 化されることになり、翌 2007 年 6 月 27 日に学 校教育法が改正され所謂「学力の三要素」が世 間の注目を集めることもなく「法定」された。
同法第 30 条2項には、「生涯にわたり学習する 基盤が培われるよう、1)基礎的な知識及び技 能を習得させるとともに、2)これらを活用し て課題を解決するために必要な思考力、判断力、
表現力その他の能力をはぐくみ、3)主体的に 学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用 いなければならない」と規定されている(番号 表示および下線は筆者)
8。
ここで法定された学力観は、その後とりわけ 今日にも至る第二次安倍政権下の中央教育審議 会(答申)に踏襲され、新学習指導要領の「育 成を目指す資質・能力の三つの柱」となった(左 図)。その経過は児美川孝一郎が剔抉している ように、「学力」論から「資質・能力」論への アクロバティックな転生と捉えられる
9。学力 観を拡張して人間性、人生にまで介入し、学校 における学習のすべてを「生き方教育」化する 企図を臆面もなく露わにしている。
新学習指導要領は、この「育成を目指す資 質・能力の三つの柱」(日本版キー・コンピテ ンシー?)を教育「目標」として、教育内容(コ ンテンツ)、教育方法(「主体的、対話的で深い 学び」)を規定し、さらに教育評価(パフォー マンス評価)、教育課程経営(カリキュラム・
マネジメント)をも一体化して教育現場(学校・
8 これは小学校についての規定で、同法第49 条および第52 条により中学校・高等学校にも準用される。
9 児美川孝一郎「学校の<道徳化>とは何か−新学習指導要領に見る、生き方コントロールの未来形」(『世界』
2018 年11 月号、岩波書店)参照。
教師)の管理を徹底する構造を示している。多 忙を極める教師たちが、(もはや時代錯誤の?)
PDCA サイクルによりいっそう疲弊消耗させ られ、勤勉であるほど退場を余儀なくされるの ではないかと危惧される。
このように、新学習指導要領は「どのように
3 3 3 3 3社会・世界に関わる」かと「生き方」にまで足 を踏み入れ、教師の多忙が問われても無頓着に 抑圧的管理的構造を示していて、一見すると「教 育の過剰」を招くように思われるが、一方で「教 授から学習へ」の転換と称されるように、「教 育の減退」に向かうものでもある。「教育内容 の削減は行わない」とされながらも、「何を
3 3理 解し、何が
3 3できる」かはあくまでも個人の問題 で、その個々人が関わる社会・世界への構想を 示すことには消極的である。「社会に開かれた 教育課程」が提唱されてはいるが、 「何のために」
学ぶのかと言えば、予測困難な社会の変化を前 向きに受けとめ、人生を切り拓いていくためで あり、そこに社会(・世界)としての「教育の 目的」は見えて来ない。
2020 年代の教育改革を縮約して捉えるなら、
ただ単に「変化していく社会に適応し、生き残 れるように学べ」ということに過ぎない。だか ら一般に受けとめられるのは、精々のところ、
英語とプログラミングを子どもたちに学ばせる ことが肝心ということになる。もっともなこと のようだが、ここでは、よりよい人生は個々人 に丸投げされ、より望ましい社会を共に問う教 育は後景に退かされていく。
5.日本国憲法・教育基本法体制と「開かれた 正義」
教育の過剰と減退は何も 2020 年代の教育改 革に始まることではなく、少なくとも「ゆとり」
と「生きる力」がセットでスローガンとなった 20 世紀末の教育改革から明らかな趨勢である。
さらに遠くその淵源を辿るなら、今井康雄が「自 然主義的反実在論」と名づける(近代)教育思 想の奔流が見えて来るのかもしれない
10。そも そも他人様に介入して世界(実在)を示す(「教 育」する)ことなど無理な話で、各々が人生を 拓く「学習」を推進するのが妥当なのかもしれ ない。
ここまで見て来たように、学校教育(学習指 導要領)も教員養成(教員免許法制、教職課程 コアカリキュラム)も、いずれも育成すべき/
身につけるべき「資質・能力」を過剰な目標に して雁字搦めに統制する構造を示している。だ が、その構造はまた、ただ行き先を(社会、世 界の)変化に委ね、何のためかという問いには 応えない。確かに、先行きなど誰にもわからな い。目的を振りかざすことが悲惨な結果を招く こともあり、構造に適う生き方さえできていれ ば、とくに不都合はないとも言えるかもしれな い。
しかし、それは強者(勝ち組?)という名の 弱者の消極的ニヒリズムであり、構造に適う生 き方をできないこともあれば、たまたま不利な 境遇にある人々が一方的に不利益を被らされた まま置き去りにされることもあるだろう。やは
10 今井康雄「世界への導入としての教育−反自然主義の教育思想・序説(一)」(『思想』2018 年12 月号、岩波書 店)参照。
り人間の社会(・世界)の目的として、社会的「公 正」について考え続けること、人権、平和等の「開 かれた正義」の追究を諦めず、積み重ねていく 必要があるのではないだろうか。
あらためて日本国憲法(1946 年 11 月 3 日公 布)を繙くと、壊滅的な敗戦という過酷で惨め な状況の産物とは言え、いやそうであるが故 に、そうでありながらなお、その前文に「平和
3 3を愛する
3 3 3 3諸国民の公正と信義
3 3 3 3 3に信頼して」、「平 和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上か ら永遠に除去しようと努めてゐる国際社会にお いて、名誉ある地位を占めたい
3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3と思ふ」と宣言 されている(傍点筆者)。恒久の平和は永遠の 未完成かもしれないが、だからこそ不断の努力 を実践していくという積極的ニヒリズム、「開 かれた正義」への意志が誇り高く表明されてい る。
日本国憲法は日本国の最高法規であり(第 98 条)、学校教育であれ教員養成であれ、その 効力は日本国憲法のうちにある。したがって、
教育にとって「開かれた正義」の追究は閉ざさ れていないはずである。教育基本法は旧法(1947 年 3 月 31 日公布)も現行法(2006 年 12 月 22 日公布)も、それぞれ前文で「日本国憲法の精神」
に則り/のっとりと宣誓(?)している。しか し、両者の内実は根本的に異なっている。
すでに廃された旧教育基本法が、「民主的で 文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の 福祉に貢献」するという日本国憲法が決意した 理想を実現するための「教育の目的」、「新しい 日本の教育の基本」を明示しようとしたのに対 し、現行教育基本法は、日本国民の「たゆまぬ 努力によって築いてきた民主的で文化的な国家
を更に発展させるとともに、世界の平和と人類 の福祉の向上に貢献することを願うものであ
3 3 3 3 3 3る
3」と述べ(傍点筆者)、「伝統を継承し、新し い文化の創造を目指す教育を推進する」、「我が 国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その 振興を図る」という。
一見すると、時代の変化、戦後半世紀以上(約 60 年)の「歴史」を正当に評価した妥当な「改 正」と受けとめられるかもしれない。継承する
「伝統」を、「民主的で文化的な国家」の建設に 努力した戦後と(その評価の妥当性は置くとし て)解釈することも可能だろう。だが、「世界 の平和と人類の福祉」という「開かれた正義」
に対する日本国憲法と旧教育基本法の「決意」
は「願い」にとどめられている。何とも腰砕け の理念の後退であり、 「日本国憲法の精神にのっ とり」は、やむなくとってつけたような印象を 拭えない。第一次安倍政権にとって、この先に 日本国憲法をも「改正」(?)し、戦後レジーム、
日本国憲法・(旧)教育基本法体制にとどめを 刺すための前提的措置だったのだろう。
さらに「教育の目的」を規定する第1条を比 較すると、「開かれた正義」の追究を後退させ る消極的ニヒリズムが露見して来る。「人格の 完成をめざし/目指し」という冒頭の文言に囚 われると同主旨の条文のように思えるが、続い て旧法が「平和的な国家及び社会の形成者とし て、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、
勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身 ともに健康な国民の育成」とやや複雑な構成で
「目的」を記しているのに対し、現行法は「平
和で民主的な国家及び社会の形成者として必要
な資質を備えた
3 3 3 3 3 3心身ともに健康な国民の育成」
と簡単な文言にとどめている(傍点筆者)。こ れを、把握に努力を要する複雑な規定の簡潔な 改正を意図したものと見做すことはできない。
旧法は、人格と形成者と国民を、 「個人の価値」
を尊重する「平和的な国家及び社会」という「開 かれた正義」の実現に向けて統一的に捉えよう としている。現行法は、「必要な資質を備えた」
国民を「平和な国家及び社会」の形成者と規定 し、わざわざ「教育の目標」(第2条)を新設 して「必要な資質」を煩雑に列挙している。こ の「教育の目標」には、確かに「個人の価値」、
「真理」、「正義」が文言として掲げられてはい る。しかし、 「真理と正義を愛」することは「真 理を求める態度
3 3」、「正義と責任を重んじ」るこ とと言い換えられ(傍点筆者)、「公共の精神」、
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんでき た我が国と郷土を愛する」等の項目が加わるこ とで、国民と国家及び社会の関係が逆転させら れている。「国家及び社会の形成者」として「開 かれた正義」の実現を目的とする国民は、煩雑 な目標に格下げされた「必要な資質」を備える なら「国家及び社会の形成者」と見做されるこ とになる。2020 年代の教育改革の「資質・能力」
という目標による統制への狼煙は、現行教育基 本法により明確に上げられていた。
6.遊びと批判的思考