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農 業 経 営 の 発 展 方 向

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(1)

一七世紀中葉サセックス王領地における 農業経営の発展方向

il

i

調

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筆者は︑先に市民革命期に議会派政府によって行なわれたサセックス王領地の調査記録にもとやついて当面の時期の

サセックス王領地における封建的土地所有の存在形態を検討した︒その結論は︑当該地域においては市民革命にいた

るまでに封建的土地所有が大いに弛緩し︑廃棄さるべき状態にあったということであった︒このような事態をもたら

した基本的原因は︑一つには︑イングランド全土におけるブルジョア的発展の進行によってイギリス絶対王制の支配

機構が全体として弱体化していたこと︑また一つには︑当該地域において封建的土地所有を堀り崩しつつブルジョア

的発展が進行したことに求められる︒先の論稿ではこの問題にふれられなかったが︑本稿では︑やはり︑議会派の調

査記録にもと︒ついて当面の時期のサセックス王領地における農業生産のあり方を検討し︑農業におけるブルジョア化

がどのような形で発展していたかを明らかにしようと思う︒

議会派による王領地調査記録の史料としての性格については先の論稿においてのべられたのでぶここには繰り返さ

(

)

(2)

‑ 2

ない︒本稿の観点からすれば︑サセックス王領地の調査記録のうち︑特に︑ω

アジュダウン御料林﹀

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a富山口︒円の一二つの地域に関する調査記録がまとまった史料として利用されうる口そこで︑本稿の分析はこれら三つ

の地域を中心に行なわれることになる︒その他の調査記録は木稿の目的広まったく役立たないか︑あるいは︑それ自

体としては断片的な史料しか提供しないようなものが多いが︑関連史料を併用することによって︑その地域の発展傾

向を或程度まで明らかにしうるものもある︒ここでは︑そうした史料を拾い上げて︑できるかぎり一般的な傾向を把

握するよう努力した︒

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稿

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アシュダウン御料林﹀各品︒翼民明︒

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と巴白色円四回

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アジュダウン御料林の土地は︑ω

ロ ロ 仏 門

2

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2

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2 4

および御料林周辺の諸

1の保有者が共同権を有する部分︑ωかつて国王の使用のために留保され︑革命後は議会派政府に留保された部

分の三つの範臨時に区別され︑それぞれの範臨時の土地の状態は一六五O年ならびに一六五八年の調査において詳細に記

録されている︒この節では︑当面の時期において御料林という特殊な地域にいかなる形で農業経営が発展していたか

そしてまた︑議会派政権の農業立法はそれにいかなる影響を与えていたかという観点から︑これらの調査記録を検討

しようと思う︒

(3)

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2

に関してわれわれはまず︑ロ豆島

24 2E

2

3

における土地保有農民の状態を検討しよう︒

‑ 3 ‑

メ入

13 

28 

s. A. C., Vol.  XXJ[.  pp. 305~309 , S.  A. C., Vol. XX. pp. 211~

217より作成。

16  Duddleswell Manorにおける土地保有規模

li:::l;l;l  i l l l  ~ l 1 1 1  l::;;l; 

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East Greensted  1esthothly Buxted 

Hartfield 

Wythyham 

Maresfield 

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O年ならびに一六五八年の土地台帳を利

用することができる︒表一は︑右の史料にもとづい

Og年と一六五八年のりE

Y P S H

て ︑ における保有者を保有規模別に分類したものであ

る︒この表では自由保有農と謄本保有農とが一括さ

Oれているが︑その内約をみると︑年の保有

者五九人中︑自由保有農五人︑謄本保有農五四人︑

一六五八年の保有者六七人中︑自由保有農六人︑謄

本保有農六一人であり︑謄本保有農が圧倒的に優勢

であった︒称号を有する保有者は︑

O年には

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ス一一一六エーカー一ルッドと水車を保有)

() の三名のみである︒このように︑称号を有する保有

(4)

‑ 4

富大経済論集

者の人数も保有面積もここではごく少ないのであり︑保有地の大部分は一般の農民層の手にあったものといえよう︒

しかし︑一六五O年の記録に現われた保有者のうち一六五八年まで保有地を保有し続けた者は三三人だけであり︑保

有地の移動が激しかったことを示している︒

次に表一によって土地保有分解の一般的な傾向をみると︑

とが特徴的である︒すなわち︑五エーカー以下の保有者は︑ 一見して明らかなように︑保有規模のきわめて零細なこ

O年には三五人で全保有者の約六割をしめ︑

五八年には三八人で全保有者の五六%をしめる︒五iOエーカーの保有者は一六五O年には九人(一七弱﹀︑

Oi

Oエーカーの保有者は一六

OO

年と一六五八年とも九人で︑それぞれ

五八年には一五人(二二

M)

全保有者の一七%と二二%をしめている︒これにたいして︑二OiOエーカーの保有者はいずれの記録においても

五人を数えるにすぎない︒このように保有地が零細であるから︑この地域の住民にとっては御料林内の共同放牧権が

特に重要な意味をもつことになる︒それゆえ︑この地域における農民層分解の状態を明らかにするためには︑慣習保

有地の分解だけでなく︑御料林内の共同放牧権が農業経営の中でいかなる比重をしめていたかを検討することが必要

右の点を︑ロ

E ‑ L ‑ g

25 H

について検討しよう︒表二は︑

模と共同権の大きさの関係を一示すものである︒それによって次のことが明らかである︒保有規模が零細であっても大

きな共同放牧権を有する者があり︑共同放牧権を基盤とし農業経営(牧畜経営)を発展せしめうる可能性のあったこ

とを示している︒例えば︑五エーカー以下の保有者のうち同・﹀話︒︒︒

Fm oE

・は六一二エーカーの共同牧放権を有い︑

iOエーカーの保有者のうち者・0♀司との・国♀

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は三二エーカー余

りの共同放牧権を有する︒ 一六五八年のり旦己g

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における保有規

OiOエーカーの保有者のうち

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は凡九エーカーという全保有者中最

(5)

‑ 5 ‑

l658 Duddleswell Manorにおける保有規模と共同権の関係

保有規模 保有者 御共料同林放内牧に権共の同規放模牧権(エを有する保有者数ーカ~) 共同権を

5‑1川崎│ : l i l : 1 1 1 ; │ ; ; 有しない

(エ{カー)総 数 保有者数

O~ 団 1 1  1  1  I 1‑ I  l'  1  1 1  1 

30 ~ 40  1  1  ̲ 1  ̲ 1  1 I  1  1  1  1 1 1  20 ~ 30  1  :  1 1  1  I  I  1  1  I  1 

10 ~ 20  1  1 1 1  1  I I  I  ~ 10 15  1  I  I  1  I 

38  113 I  1  1  I  1' 1  1  1  14  合 計 1 67  115 I  1 44  23 

2

S.  A, C., Vol.  XX. pp. 197~217 より作成。

大の共同放牧権を有し︑宅・∞B片手は六八エーカー余りの共同放

牧権を有する︒右の事例は特に顕著な場合を示すものであるが︑

全体としてみれば︑保有規模と共同放牧権の規模はほぼ照応し︑

かっ︑このマナーでは保有規模に比して共同放牧権の規模が大き

い︒それゆえ︑このマナーでは農業経営の重点は御料林内の共同

地における牧畜経営にあり︑保有地での穀作は副次的な役割しか

もたず︑このマナーにおける農民層分解は牧畜経営を中心にとら

えられねばならないことが明らかである︒

右のような観点からみるとき︑

ロ ロ 仏 門

2 4

農民層分解はどのようにとらえられるであろうか︒この地域の牧

畜経営の具体的内容を一示す史料は乏しいが︑ごく大雑把な推定に

よると︑牛二O頭と若干の豚を有する者︑面積にすれば︑三O

ーカー程度の放牧権を有する者を中規模の経営者とみることがで

きる︒この基準によって︑三OiOエーカー程度の放牧権を有

する者を中農ないしは中農上層︑一OiOエーカーのグループ

Oエーカー以下のグ戸lプを貧農と規定すること

ロ ロ ( E j

‑ g

ができる︒そこで︑表二によれば︑

る農民層分解の状態は次のように要約される︒

一七世組中葉サセックス王領地における農業経営の発展方向(武)

(6)

‑ 6 ‑

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ω保有規模三Oエーカー以上の者三名および一︒1Oエーカーど五エーカー以上で六Oエーカー以上の放牧権を有する三名は

ωOO人は保有規模と放牧権の大きさがほぼ照応し︑二O人はまったく放牧権を有しない︒したがって︑これら四O人の保有者は貧農を主体とし︑若干の中農下層を含むものと推定される︒ω

.以上の点からみて︑

一七世紀中葉のり豆島

g君 ︒

ζ2 2

の農民層は︑あるい中規模の保有地と大規模な放牧権︑

は︑保有地は小規模でも大規模な放牧権を有し︑かなりの規模で牧畜経営を営なむ富農と︑小・零細保有地と小規模 の放牧権︑あるいは︑狭小な保有地しか有しない貧農とへ分解しつつあることが看取されるのである︒

次に︑表三は︑一六五八年の調査記録に現われた共同放牧権の規模を一示すものである︒共同権を有する者の大部分

は︑アジュダウン御料林周辺のマナーに保有地を保有していたものと思われるが︑

g

地の記録がない︒しかし︑他のマナ

l

の状態もり豆島

g

ζS 2

の場合と特に異なるとは思われないから︑共同 権者の大部分は御料林内の共同地における牧畜と小規模な保有地における穀作とを結合していたものとみてよいであ ろう︒先の基準にしたがって︑共同権者の分解の状況を推定すると︑次のとおりである︒

ω放牧権六O%%ω

O%しめている︒ω

l01O0・五%の共同権者は中農に属するが︑中農は人数でも経営面積の上でも優勢である︒中農の中では一

しかしながら︑これらの放牧権者の多くはそれぞれ若干の保有地を保有していたであろうから︑この点を考えに入

れなければならない︒ロ昆己g

君 ︒ = ζS 3

の例から類推すれば︑保有規模と放牧権の規模はほぼ照応するから︑彼ら

(7)

‑ 7 ‑

Ashdown Forestにおける共同放牧権の規模

Buxted 

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Westhothly 

Wythyham  ffletching  Maresfield 

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の農業経営の規模は表三に現われたよ

りも若干大きくなり︑富農と中農の人

数も若干増加するであろう︒しかし︑

放牧権の小さい者の大多数は保有地も

零細であり︑さらに︑それぞれのマナ

ーにおいては放牧権を有せず零細な保

S.  A. C., Vol.  XX. pp. 197209より作成。

有地しか有しなかった者も存在したで

あろう︒したがって︑実際には︑貧農

の比率は表に現われたよりも大きかっ

たかもしれない︒ともかく︑以上のベ

たところによって次のことが明らかで

ある︒すなわち︑アジュダウン御料林

およびその周辺の地域においては︑農

業経営は御料林内の共同放牧権に依拠

する牧畜経営に重点をおくという形で

発展し︑当面の時期においてはかなり

の規模で牧畜経営を営なむ小資本家層

が分出されていたことが明らかであ

(8)

‑ 8 ‑

富大経済論集

る︒こうして︑この地域でも特有の形で農民層分解が進行していたが︑当面の時点においては中農層がなおかなりの

比率をもって存在していた︒

ところで︑当時のイングランドにはなお広大な面積の森林地が存在していたが︑アシュダウン御料林の事例は︑森

林地帯という特殊な地域においても︑特有の形で農民層分解が進行することを示すものである︒さらにまた︑この事

例は︑市民革命の時期にイングランドの森林地域に激発した農民闘争の理解の上に一つの一示唆を与える︒アジュダウ

ン御料林そのものはスチュアlト朝による御料林販売政策の対象とならず︑市民革命において議会派に接収されるま

で留保されていたから︑革命期においても他の森林地域にくらべて紛争の生じる条件は少なかったといえか︒けれど

もアジュダウン御料林の事例は次の三つの重要な問題点を提示する︒第一に︑御料林内の共同放牧権は地域住民一般

にとって農業経営の重要な基盤となっていた︒共同放牧権を基盤とする牧畜経営の発展は農民層の分解をともなって

いたが︑御料林の販売ないしは貸与にともなう共同放牧権の侵害は共同放牧権に依拠するすべての階層の生活基盤を

脅かすものであり︑激しい抵抗をまねいたことは容易に理解されよう︒森林地域における農民闘争の激烈︑かっ︑頑

強であった理由はこの点にある︒第二に︑共同権を基盤とする農業経営の発展は︑当然︑御料林に関する諸規制も排

除し︑御料林内の留保された部分を開放しようという要求につながってくる︒そこから︑農民層の土地にたいする権

利の要求と絶対王制の支配体制そのものにたいする批判がうまれる︒第三の問題点は︑共同権者の内容が多様であり︑

さまざまの階層が御料林内の共同放牧権に利害関係を有していたことである︒特に︑

27 wB ωP

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正 門

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などの称号を有する者が大きな放牧権を有していたことが注目される︒彼らは総数二四人︑全共同権者の一一・二%

であるが︑全放牧権の約四分の一に当るて一八二エーカー余りの放牧権を保有する︒そして︑六Oエーカー以上の

共同権をもっ一四人のうち八人までが称号を有する者であった︒このことから︑御料林周辺のジエントリー層が御料

(9)

林内における牧畜経営の有利性に蒼目して︑積極的にこれに参加していたことが推察される︒実際︑革命期の森林地

域における農民闘争ではジエントリー層がかなり積極的に参加していた事実がみられるが︑それは︑牧畜にせよ︑そ

の他の事業にせよ︑彼らが森林地域に重要な利害関係を有していたからにほかならない︒こうした事情のために︑森

林地域における農民闘争は広汎かつ激烈であると同時に︑内部対立をはらみ︑複雑な性格をおびることになったので

一六五三年以後の議会派政府の御料林管理政策の変更によって︑アシュダウン御料林についてもその

販売と共同権の解消が決定されることになったれ︑それはこのような対立をより表面化させるものであった︒共同権 ある︒そして︑

者に共同地を分割し︑その他の部分を売却するという議会派政府の政策は︑ジエントリー︑富農層に有利であり︑中

‑小農民層に不利であった︒というのは︑共同地の割当にさいして︑共同権者たる資格を立証することが要求された

が︑それは実際には容易ではなかったし︑留保された部分が販売されるとしても︑実際にそれを獲得しうるのは購買

カある階層に限られるからである︒それにもかかわらず︑ω 抗にあって難行し︑この段階においても︑なお︑農民層が強固なまとまった階級として残存していたことを示してい

0年代に始まった御料林の囲込は農民層の頑強な抵

る ︒

‑ 9

以上の検討によって︑当面の段階のアシュダウン御料林における農業経営発展の特質はほぼ明らかになったが︑国

王に留保され後に議会派政府に留保された部分についてはなお未検討のままである︒この部分は御料林内でもっとも

大きな面積をしめるが︑七つの管区出よ

Fo

に分割され︑それぞれの管区には管理人﹃告が任命されて︑その管理

に当っていた︒各管理人は一定の知行を受けるとともに︑それぞれの管区における番小屋円︒牛肉︒と付属する園地を

占有し︑御料林内に二OO頭の午︑二O頭の馬の放牧権を与えられていた︒つまり︑彼らはその特権的な地位を利用

してかなりの規模で牧畜経営を営なむことができたわけである︒しかし︑彼らが実際に右のような規模で牧畜を営な

()

(10)

10‑

富大経済論集

んだかどうかは別として︑全体としてこの部分は厳重に規制され︑未開発のままに残されたことはたしかである︒

とはいえ︑議会派の調査においても御料林の囲込の事例が見いだされるが︑その規模は小さなものであった︒それ

より︑この調査記録で特に注目されるのは小屋住農の状態である︒すなわち︑一六五O年の調査記録には一O人の小

屋住農が現われているが︑そのうち二人についてはその保有権が立証されず︑侵犯

E2

与したものと認定され︑8

ω 他の八人については明確に﹁すべて侵犯され︑御料林にとって有害であり︑破壊さるべきである﹂とのべられている︒

そして︑二ハ五八年の調査記録に現われた小屋住農は三人を数えるのみであり︑このうち一六五O年の調査記録に現

4

E53

O年の小屋住農の残りは追放されたものと思われる︒また︑他の二人

のうち同・吋

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については﹁この小屋は共和国わ

05 50

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の土地の上に不法に建築された﹂ことを確認した

上で︑占有することを認めている︒これらのことは︑第一に︑当面の時期のこの地域において保有地も共同放牧権も

有しない貧農の階層が分出されつつあったこと︑第二に︑議会派政府の調査にさいしては小屋住農の権利が特に厳し

イギリス革命の土地立法がこの階層にもっとも大きな影響を与えていたことを示すものである︒

以上の検討の結果は︑次のように要約することができる︒当面の時期のアシュダウン御料林においては︑農業経営

は御料林内の共同放牧権を主たる基盤として発展し︑それとともに農民層分解が進行しつつあった︒そのような発展

は共同権をまもり︑さらには御料林における諸規制の廃棄と御料林開放の要求につながるものであった︒そのかぎり

では︑さまざまの階層から成る共同権者が一致しうる可能性があった︒しかし︑御料林に関する議会派政府の政策は

富農・ジエントリー層に有利で︑中・小農民層に不利であり︑特に下層の小屋住農民に重大な影響を与え︑共同権者

の聞の内部対立を表面化させることになった︒

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O年の土地台帳に記録された自由保有農五人のうち司王

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を保有し︑七

シリング六ペンスの地代を支払っているが︑保有面積は記録されていない︒乙の保有地は一六五八年の土地台張には記録され

ていないが︑その理由は明らかではない︒おそらく︑この保有地は一種の

ET BS

であろう︒ともかく︑保有面積が不明でR

あり︑一六五O年の記録に現われているだけなので︑前記の保有者は表一からは省略した︒ω

O年から一六五八年の八年間に保有者の約半数が交代しているのだから︑保有地の流動がはげしかったことはたしか

である︒しかし︑とれをもって議会派政府の土地立法の直接の影響と考えるのはやや早計にすぎるように思われる︒ヒルなど

も︑はっきりそうとはいいきっていないが︑ここに引用したのと同じ史料をあげて︑革命左派の土地改革︑特に︑謄本保有の

安定と一時金の固定の要求が成功しなかったことの例証としているが︑やや飛躍した立論であろう(の・出己w

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53︒当面の期間において︑保有者の交代は激しかったが

保有地面積はわずかながら増加しているから︑少なくとも謄本保有が収奪されたということはできない︒サセックスにかんす

る調査記録を瞥見したかぎりでは権利の点検は︑むしろ定期借地の場合に厳密であったようである︒

凶共同権者の記録は一六五

O年の調査には見いだされず︑一六五八年の調査にはじめて現われるが︑それは次の事情によるも

のである︒すなわち︑一六四九年七月二ハ日の条令において王領地の売却が決定されたとき︑﹀∞

EO

22同を含む七つの

御料林がこの条令の適用を除外され︑このうち﹀

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H H叶・)︒ところが︑一六五三年に入って︑議会派政権の御料林管理政策に変更があり︑

先の条令が修正され︑幾つかの御料林が売却されることになった︒ロロ仏門出

2 3口および﹀印

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では︑乙の調査が一六五三年四月二O日から一六五四年九月三日までの諸法令包ZSL2

ER g︑一六五六年九月一七日の

議会条令︑および最後の条令を制定した議会でなされた∞宮

50 2w

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の四御料林の調査

を共同権者のために行なうむねの取り決め

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E︒日にもとづいてなされたものであること号明らかにしている︒

これら一連の条令のうち特に重要なものは一六五三年一一月一一一一日に出された条令であろう︒この条令は︑森林地域を︑ω

条令の適用をうける御料林︑ω条令の適用をうけず兵士や士宮にたいする負債の担保にあてられる御料林︑ω条令の適用を除

‑11

一七世紀中葉サセックス王領地における農業経営の発展方向(武)

(12)

‑12‑

富大経済論集

外され︑特定の指示のない御料林の三つの部分に区分し︑さらに︑御料林の境界や囲込を検査し︑御料林に種々の用役を有す

る共同体農民︑御料林に特別の権利を有するもの︑および貧民に土地を分割し︑この土地の管理を治安判事に委託すること︑

共同権が存在せず︑御料林法の適用を除外されている残りの土地をすべて販売することを指示している(武暢夫﹁イギリス革

命における農業問題の特質﹂︑﹃社会経済史大系﹄町︑一八七︑(れぺlジ参照)︒乙の条令の中で﹀∞

EO Z

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料林とともに販売することが決定されている(罵包

m O

e5u℃・戸︒)︒もっとも︑一六五八年の調査までに類似の条例が幾

っか出されており︑御料林の処理について意見が分かれていたことを示しているが︑基本線は一六五三年一一月二二日の条令

によって決定されたといえる︒この条令は共同地分割︑共同権排除の意図を明確にうち出している点で重要な意味をもってい

る︒だが︑共同権者について調査し︑彼らに土地を与える措置をとっていることは︑御料林地域の農民が共同権を重要な生活

基盤としていたこと︑そしてまた︑共同権をまもるための農民闘争のたかまりを政府も無視しえなかったことを示すものでも

ある︒ともかく︑こうした事情によって一六五八年の調査では共同権者とその持分について詳細に記録されることになったの

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には二一エーカーの耕地とアシュダウン御料林内

O頭の牛︑二三頭の牛の放牧権が与えられているが(何・叫︐

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はその地域では中位以上の生活を営なむものとみてよかろう︒また︑地域は異なるが︑同じく共同権が農業経営

の主たる基盤となっていたリンカンシャのフエンランド

FE

邑やマージュランド宮向島一自己においても二O頭程度の牛をF

有する者を平均程度の農民とみることができる(︺吋﹁

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wS13・参照)︒したが

って︑きわめて大雑把な推定ながら︑二O頭程度の牛を有する者を中農と考えて大過ないであろう︒

表 2 S .   A , C . ,  Vo l.  XX 町 . , p p .  197~217 より作成。 大の共同放牧権を有し︑宅・∞ B 片手は六八エーカー余りの共同放牧権を有する︒右の事例は特に顕著な場合を示すものであるが︑全体としてみれば︑保有規模と共同放牧権の規模はほぼ照応し︑かっ︑このマナーでは保有規模に比して共同放牧権の規模が大きい︒それゆえ︑このマナーでは農業経営の重点は御料林内の共同地における牧畜経営にあり︑保有地での穀作は副次的な役割しかもたず︑このマナーにおける農民層分解は牧畜
表 5 定 期 借 地 の 占 有 規 模

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