W 3
・N O ω i N 0 6
︑実際にはかなり 富裕なヨlマンであったことがあきらかである︒一ーすエーカーの保有地しか有しない目γ巧己
‑ R 仏 止
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はのE門E
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可に回ロRr
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問団
己目
Z Z
なる所有地を有し︑一六二八年の臨時税課税においては先の戸富三日と同じく土地の価値三
0
シリングと査定されている︒それゆえ︑この巧巳}日仏も冨Eqと同程度の農民というととができる︒ω
定期借地の記録は匂‑ k p n w
︿o‑‑
ハM
凶司
‑ W
・
3
Ng iN
∞印に収録されている︒
側との点については︑﹁前稿﹂(﹃富大経済論集﹄第十二巻第三・四号九六
i
九七ページ)参照︒ω F
ロ
2
認可 宮
R 5
の土地はもともと周辺諸地域の住民諸階層の農場につけ加えられ︑彼らの農業経営の一環として利用され
てきたものである︒もちろん︑その農業経営をもっぱらこの宮R与の土地に依存していたものもあったであろうが︑それは
一般
的な
現象
では
ない
︒そ
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司巾
254冨
E2
の保有地が富農・ジエントリー層の手に移っていったことは︑たしかに︑周辺諸地域における富農・ジエントリー経営の発展を示すものであり︑農民層分解の進行を意味するものであるが︑そのこと
をもってこの地域では農民層がもはやまとまった階層として存在しなくなったものと結論ヴけるのは早計であろう︒
四
他
o u
事
そ
の の
マナ 1全体を単位とするもの︑
ω
個別的な地片の貸与︑すなわち︑定期借地の三つにわかれる︒このうち第一のタイプの調査はそれぞれの地域の地代
その他の調査の記録は
ω
ハンドレドないしはレイプを単位とするもの︑(2) 法廷収入のみを記録しており︑本稿の目的には利用しえない︒第二︑第三のタイプの調査記録も概して簡単であり断
片的であるが︑関連した資料を併用することによって或程度までその地域の農業生産の発展状況を示唆しうるものが
ある︒以下においては︑そのような記録を拾い上げて検討を加える︒
1
H H
吋 ︒E m m g
ロ明
日日
一六五六年の調査記録によれ時ここでは二つの定期借地が存在する︒
一つは吋
2
m
ユ ロg
ロ民向日と称せられ︑家屋︑庭園および合計八七エーカーの三地片から成り︑
であるが︑その他の詳細は明らかではない︒
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︒
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︒ 当
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の保有ないしは占有するところ
‑ 33‑
今一つの借地は納屋︑小園地および合計一
O
六エーカーの耕地または放牧地四地片から成り︑同o r
ロ
H r
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の占有するところである︒この一﹁︒
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句︒口止は近くの﹀
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門広
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2
江口
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から約二哩﹀に在住する有力なジエ
ントリーの家族に属するが︑ちょうど彼の遺言の記録があり︑それによると彼の遺産の内容はほぼ次のごとくである︒
①
住居︑麦芽製造所目白
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同門
∞何
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六エ
ーカ
ー︒
一七世紀中葉サセックス王領地における農業経営の発展方向(武)
一 一
一 一 一
一
‑ 34
一
富大経済論集
四
@ @ ⑦ @ ⑤ ④ ③ ②
どき
互角
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諸君
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家屋
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屋︑
六エ
ーカ
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麦芽
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近く
の住
居と
麦芽
製造
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円山
内‑
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﹃円
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円仏
近く
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口仲
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新築
の家
屋︑
庭園
︑麦
芽製
造所
︒
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遺言に附帯して作成された遺産目録の記録がないので︑
M r ‑
‑ z
の農業経営の内容を具体的に知ることが困難である
が︑右の記録からも或程度は推察できる︒遺産の中に三つの麦芽製造所が含まれていることから
H t ‑ 2
がかなりの
規模で麦芽製造に従事していたことが明らかである︒⑦の叶
2 t D m
g
ロの﹁まだ期限の切れていない借地﹂とは一六五六年の調査記録に現われた一
O
六エーカーの借地であり︑H d ‑
‑ z
によって占有︑すなわち︑経営されていたことは
明らかである︒③の叶
2 t
ロ
m
g
ロの自由保有地は面積不明であり︑また︑どのように利用されているのかも明らかではない︒だが︑
H r ‑
‑ z
がかなりの規模で麦芽製造を営んでいたことから彼がその原料としての大麦生産もかなりの規
模で行なっていたことが推察される︒少なくとも︑上記の定期借地が彼の経営地の一環を成していたことはたしかで
F ‑ ‑ 2
が牧畜
ある
︒ま
た︑
それぞれ六エーカーの採草地二片に加うるに面積不明の採草地二片を有していたことは
経営もかなりの規模で営んでいたことを示している︒以上の点から︑
H r ‑
‑ 2
はかなりの規模で商業的農業に従事する
一六五六年の議会派の調査に現われたブルジョア的農業経者であったこと︑
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地し占有する一
O
六エーカーの定期借地はH r ‑
‑ 2
の農業経営の一環を成していたことが明らかである︒
別の定期借地八七エーカーを占有する叶
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印︒
名門
o p m o E F E S
についての詳細は明らかではないが︑この借
地はそれ自体としても富農規模のものであり︑少なくとも︑定期借地を基盤として富農経営が発展しつつある事例を
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一六
五
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年の調査によれば︑ここでは六エーカーの耕地囲地合計四四エーカーがロミ正出日同色巧弘江口問(巧日岳口問)によって保有かつ占有されている︒
ロ
S
E H r z
についての詳細は明らかではないが︑ジェントルマンの称号を有する点からみて︑近隣の
2
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一 門
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∞ ーロ 門同
ω
の五園地二六エーカー︑それぞれ三エーカー︑九エーカー︑当 日 同 ロ
m
ロ にかなりの保有地ないしは経営地を有するものと思われる︒したがって︑前記の土地は国民同の保有地ないしは経営地
の一部であり︑ジエントリ経営の一環を成すものと思われる︒
3 2 0 5
岳
R
(回
︒︒
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教区
﹀
一六
五
O
年の調査によれば回
REq
教区
月日記与では︑家屋敷および耕地と採草地の六地片合一六エーカー)︑
p m
一耕地囲地(八エーカー﹀︑四耕地困地(一
O
エーカー可耕地と採草地の二地片(八エーカー)︑耕地ないしは放牧3
地の地片(一八エーカー﹀︑内容不明の一地片(一エーカー)の合計七一エーカーが存在し︑それらの土地はすべて
同 ︐
r
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︒同国
R E U 1
の保有かつ占有するところである︒H︐r
︒ 5
2 M ) 2 S
吋についての詳細は不明である
この
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与の借地だけでも富農規模の経営が営まれているわけであり︑定期借地を基盤として富農経営が発展
R
しつつある事例を示している︒
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教区)
一六
五
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年の調査によれば︑3 m r m B
教区の円高
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2
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4
のブロックにわかれた耕地園地一七
O
エーカー︑林野と放牧地八エーカーの合計一七九エーカー半の土地があり︑す一七世紹中葉サセックス王領地における農業経営の発展方向(武)
五
富大経済論集
一 六 べ て
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の保有するところと記録されているが︑この
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が上記の土地をどのように利用し
ていたかは明らかでない︒
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一六
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O
年の調査によれば︑3一4エーカーの土地︑七つのプロックにわかれた耕地園地五
O
エーカー︑採草地図地八エーカー︑使途不明の三地片六∞
o m r
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H 1
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︿ ⑦エーカーの合計六回全エーカーが記録されている︒同じ年の
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B
教区)の調査では︑ω g r 2
与の遺札止と半エーカーの土地︑
地片三六エーカー︑森林地一エーカー︑使途不明の二地片二五エーカーの合計七五ーすエーカーの土地︑な十りびにこれ あるいは回︒凶
m H O
︿めと
三つの耕地片二ニエーカー︑耕地と森林地の三
らの土地に付罵する一二
O
頭の羊の放牧権が記録されている︒そして︑前記︒
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の土地はすべて
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向 ︒
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の保有かつ占有するところであった︒﹂の冨︒ュミ家はもともとサッフォクの出身で
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︑
一六世紀に
H o
Mロ富︒ュミが前記の借地がある同じ回︒問︒語教区の同乙r
S F 2
を購入しサセックスに定住す
るようになったのである︒んす}巨富︒ュミはエリザベス女王の財務府に役職をしめることによって富裕になり︑
O
年にジエントリーの称号を獲得し︑一五
八
玄
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家は西部サセックスにおける有力なジエントリーの一翼に加わること
一六
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O
年には︑前記ω
町当 岳 山 田
OLqほ前記白山宮
‑ s r H
から西南一一一哩のサセッグス西南
岸にある∞己認可富山口︒円を国王から購入し︑ になった︒さらに︑
Y向︒同日々家の領地を拡大した︒こうして︑宮OLq家はサセックスにお
ける新興の官職ジエントリーの典型を成すものであるが︑
C E σ 2
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0
2 r
の借地合計約一四
O
エーカー余りをかなりの規模で農業経営を営なんでいたものということができる︒占有するところからみて︑
なお
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∞
‑
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図︒
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教区
﹀
一六
O
五年の調査によれば︑目︒
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出口
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ω
明︒月旦のうち︑二つの熔鉱炉民
2 m
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︑それに使用すその他製鉄業経営のための諸便宜は∞宵守﹃ロ
( U R
江 戸
るための木炭(二五
O
荷﹀︑薪(三O
コlドヌ探鉱・採石権︑︒岡
田日
江口
m u
開ω﹄己目に貸与され︑残りの部分は巧岳山自の︒
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と
開
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当日
ロ仏
35
えFgLOm o E r B S
に貸与さ
れていた︒当面の時点において︑御料林ないしは猟園可
2 r
における製鉄業経営の諸便宜が領主から貸与されている
のは一般にみられる現象であり︑
∞ 同
‑F
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BH
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52
旬 ︒の場合もその一事例を成すものである︒
何(
芝日
仏司
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ロに貸与されていた部分については︑詳細は明らかではない川o巧巳
片山
目︒
︒
‑ F
g
と
*
*
*
壬領地はもはやまとまったマナーとしての形体をとどめず︑多かれ少なかれ︑断片的な借
地として貸出されていた︒これらの事例のうち
ω
と刷については疑問が残るが︑その他の蕩合は王領地の借地がジェ王領地の支配機構の解体とともに 以上の事例においては︑
ントルマンないしは富農の経営に組み込まれていたことが明らかである︒それは︑
定期借地にもとづくプルジョア的な農業経営が発展しつつあったことを一示すものである︒
註