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後進国の経済発展と農地改革

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(1)

後進国の経済発展と農地改革

その他のタイトル Land Reform for Economic Development of the Underdeveloped Countries

著者 鶴嶋 雪嶺

雑誌名 關西大學經済論集

巻 9

号 4

ページ 376‑398

発行年 1959‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15584

(2)

後 進 国 の 経 済 発 展 と 農 地 改 革

資本主義諸国の完全雇傭という見地から後進国の経済開発にとつて農地改革の重要性を明確に指摘したのは︑国

( 1 )  

連の﹁後進諸国経済開発のための方策﹂であった︒この報告書は一九五

0

年八月に国連で採択された﹁完全雇傭に

関する決議﹂の基礎になった報告書﹁完全雇傭のための施策﹂の結論が完全雇傭問題の解決は拡大する世界経済の

なかにおいてはじめて可能であり︑世界経済の拡大のためには後進諸国の経済開発が最も重要な一要因をなしてい

るということであったのに鑑みて作られた専門家委員会によって作製されたものである︒そこには経済開発の前提

後進諸国の経済開発を可能とするための前提条件は︑まず第一に国民が経済進歩を希求しているということであ

り︑第二には社会的︑経済的︑法律的︑政治的体制が経済的進歩に好都合なものでなければならぬということであ

Q

土地にたいする投資が行われても小作人の権利が保護されないような国︑あるいは生産者が革新を行おうとし

ても習慣ないし法律によってそれを妨げられる国においては︑経済的進歩は全く望み得ない︒また社会が世襲的階

級や皮膚の色︑信仰などによって幾つかの層に分れていて︑人口の大部分が法律︑習慣または妥当でない理由によ

つて機会が遠ざけられ︑一部の独占者が特権を維持しようとしている社会でも経済的進歩はほとんど実現されな 条件について次のように指摘していた︒

四四

(3)

377 

い︒要するに︑経済的進歩には古い哲学︑旧い社会組織︑族制︑信条︑種族等のきずなを断ち切ることが必要であ

る︒そのために各国の指導階層が経済的︑政治的︑社会的特権を排除した社会の創造と︑それにともなう代価の支

払に喜んで応じようとしないかぎり︑急速な経済進歩はあり得ない︒このような前提が土台になってはじめて経済

開発が可能になるのであるが︑経済開発のテンポを速める上で重要なことの一っは︑経済組織のどの部面を政府が

担当し︑民間がどれだけの範囲を受け持つかである︒民間の分野についてはこの分野で要請される政府の統制の方

向が検討されなければならないが︑農業では︑農耕への努力を促進するための直接耕作者の利益の確保︵土地用益権確

立と小作者取得分の確保︶︑耕作改善のための容易で低利な融資︑

の解消︶︑協同組合制度の育成などが期待される︒ 耕作適正規模の組織︵耕地の整理統合︑農村過剰人口

わが国をはじめ各国で相次いで行われた農地改革は︑大体この方向に沿ったものである︒また︑戦後さかんに論

議されるようになった後進国開発論の多くも︑この﹁後進諸国経済開発のための方策﹂を中心にしていた︒

ところがこのように︑完全雇傭問題の解決を世界経済の拡大に求め︑後進国の経済開発がその最も重要な一要因

と考え︑農地改革がその前提条件を作り出す重要な施策と見倣されるようになっていること︑また現実に多くの国

で農地改革が︑徹底的なものであれ︑不徹底なものであれ︑各国に相ついで行われていることにたいして︑現在農

地改革が経済開発に有効なものとして資本主義国によって行われるということを否定ないし批判しようとする見解

( 2 )  

反対論の代表的な

1

つはマルクス主義者のものである︒先進資本主義が後進国の農地改革を必要なものと考えて

いること︑および︑先進資本主義国と協力して後進国が自らの前資本主義的なものの排除に努めていることを︑と

(4)

係をビルマについて考察しようとするものである︒ ないといつているのである︒ 後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

近代経済理論の立場からなされる反対論があ

( 1 )  

もに否定しようとする見解はマルクス主義をかかげる人達の多くをとらえている︒彼等は︑先進資本主義は後進国

の徹底的な収奪をはかるものであり︑後進国における民族資本の形成は抑圧され︑経済的発展の芽は完全に摘みと

られると考えている︒先進資本主義が後進国の経済発展を考えることなどは︑頭から否定される︒さらに︑彼等は

先進資本主義が後進国を徹底的に収奪するにあたつてその国の封建的なものを利用すると考えているので︑その先

進資本主義がこの後准l国の封建的なもの︑前資本主義的なものを排除しようとすることなどは全然あり得ないこと

としてしまう︒

戦後後進諸国で行われた農地改革にたいしても︑単に掛声だけの実効をともなわないものとする

か︑あるいは帝国主義勢力と封建勢力の連合に対抗するナショナリズム運動あるいは民族解放統一戦線の成果とい

うふうにいつている︒世界にプルジョア革命が出現した当初とは異つて帝国主義段階にある現在において後進国の

農地改革がその国に急速な資本主義の発展をもたらすために資本家階級の手によって行われるようなことはありえ

この﹁マルクス主義﹂の立場からなされる反対論とは異なって︑

る︒農地改革が経済発展にプラスするという見解に反対するものである゜高率な地代を取得する大土地所有者の存

在は急速な資本形成の有利な条件であって︑この土地を小規模の農民に分配することは経済発展に逆行するものと

いうのである︒ここでは︑農地改革は︑単に社会的緊張を緩和するためのまったく政治的な施策︑大きな発展策を

スムースに行うためにやむなくとられる犠牲策に解消されてしまう︒

はたして農地改革は後進国の経済発展にプラスするものかどうか︒本小論は︑後進国の経済発展と農地改革の関

(5)

379 

ショナリズム運動のなかでこの土地にたいする要求は大きな要素であった︒そして︑ ナショナリズムはヨーロッパ的経済様式が導入され︑原住民が土地を手放してゆく過程で発生し︑ナ

このナショナリズムに立脚し

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶ での平和的発展に重大な貢献をもたらすであろう︒

後進国の経済発展と農地改革の関係について考察するには︑まず農地改革の必要性を改革以前の経済発展のなか

に追及しておかなければならない︒ここに浮び上つてくるのがナショナリズムの問題である︒植民地支配のもとに

なされた経済発展は︑原住民から土地を取り上げ︑原住民の多くが労佑者か小作人に転落する過程でもあった︒そ

この過程でナショナリズムが原住民を把えていった︒民族運動の背後に農業問題があり︑民族運動は基本的

には原住民の土地を求める運動であるとさえいわれるのはこのためである︒ヨーロッパの経済方法が導入され旧村

落経済が分解するところにナショナリズムの起源を求め︑

( 4 )  

ーは次のようにいつている︒

東南アジアの民衆に民族を自覚させた要因は︑西欧的経済方式の導入であり︑旧村落経済の分解であり︑さらに

は原住民生活の伝統的統一性の破壊であった︒換金作物の栽培のために自給農業を断念しなければならなくなった

ときに︑あるいは自給農業が生存の糧を生まなくなったときに︑民族思想が恒久的な力になったといつてよいであ

ろう︒他の要因を過少評価することなしに︑民族思想のためのみちをひらいたものは土地危機であったと断ずるこ

とができる︒民族運動はすべて土地要求に集中している︒したがつて︑列強の第一番の義務は︑農業制度をそのあ

らゆる経済的︑社会的側面において再建することでなければならない︒うまく計画された農業の再建は︑

領土における民主的な発展の礎を置き︑ ここに農地改革の必要性を見出して︑

E.H

これらの

ひいてはこれまで権力政策の方が強くて国際法の方が弱かったような地域

(6)

ければならないであろう︒ 原住民が植民地支配下に進行する経済発展に或程度まきこまれて︑一方には極く僅かなものであれ民族資本の形成

て戦後新しく独立をかちとった所でまず問題になったのが農地改革であった。

E•H

・ジャコビー氏は、このこと

を現実的に把え︑先進資本主義国が後進国との溝を深めないためにはむしろ積極的に農地改革を提起すべきだとい

つているのである︒しかし︑もしも西欧経済が導入され原住民が土地を手放してゆく過程でナショナリズムが播頭

したことから︑植民地支配による原住民の貧困化そのものからナショナリズム運動が生まれたと考えるならば︑そ

れは︑地主の収奪の強化による小作農の絶対的貧困そのものに小作争議の発生と激化の原因を見つけようとした

り︑資本家の収奪による労佑者の絶対的貧困そのものに労佑争議の原因を求めたりするのと同様の謬見である︒

小作争議が小作農に或程度の蓄積︵それがたとえ崩芽的利潤の蓄積と呼ぽれるものであっても︶を可能にする所でより激

しく斗われたように︑労佑争議が絶対的に最も貧困なルンペン・プロレタリアないしそれに近い層よりは︑むしろ

彼等よりは相対的に豊かな生活を営んでいる組織労佑者によって激しく斗われるように︑ナショナリズム運動も︑

が見られ︑他方に近代プロレタリアの発生が見られるところに出現し発展したcこのナショナリズムが原住民の一

定の経済発展の上にはじめて現われることは︑ビルマにおけるナショナリズムが他の東南アジア諸国のナショナリ

ズム運動よりも遅れて始ったことを最もよく説明するものである︒そこで︑農地改革の必要性を改革以前の経済発

展のなかに追及することは︑植民地支配下の経済発展が農村にどのような関係をもたらし︑土地要求の叫びと行動

を重要な内容とするナショナリズム運動が︑

この植民地支配下の経済発展といかなる関係に立つかを明らかにしな

ナショナリズム運動をその経済的基盤と結びつけて考察しておくことによって︑このナショナリズ

(7)

381 

ムに立脚して戦後新しく独立した国々が相次いで行った農地改革の意義が明らかになる︒そして︑

がどのように逐行され︑これがビルマに何をもたらしたかが示されなければならないであろう︒

大きな比重をもつ農業のなかでも米が圧倒的な比重をしめるようになるのであるが︑

このことは︑同

その政策主体たる国家の性格がどのようなものであるかをも明らかにするものである︒ここでは︑農地改革

( 1 )

Un

it

ed

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Me

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ve

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, 

1 9 5 1  

(2 ) 後進国の経済開発そのものに非観的なプーケやフランケルなどの社会経済学派があるが︑ここでは農地改革と経済開発

の問題にかぎつて考察することにした︒

(3 ) 代表的なものをわが国の講座派にみることができるが︑その農地改革の評価については別稲でのべる︒

(4)E•

H .  

J ac o

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h  E

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井上嘉丸︑滝川勉訳﹁東南アジアの農業不安﹂︵東洋経済新報社︶

イギリスの植民地としてのビルマの経済発展がビルマ人にもたらしたものは何か︒この国の産業のなかで非常に

その米の生産において︑どの

ような関係が作り出されたのか︒この経済発展の過程で醸し出されたナショナリズム運動が激しい土地要求を内包

していたのは何故か︒このナショナリズムに立脚して独立をかちとった時に︑まず高らかに土地国有化とその土地

の耕作農民への分配が宣言されたゆえんは何か︒ビルマ農地改革の必要性を︑植民地ビルマの経済発展の過程に追

及してみよう︒

一八八五年の第三次イギリス

11

ビルマ戦争によってビルマは完全にイギリスの植民地となり︑まもなくインドの

一州として統治されるようになった︒ここに︑経験ゆたかなイギリス植民地主義の統治が始るわけである︒イギリ

ス人は︑奥地の石油︑亜鉛︑錫︑タングステン等特殊鉱物の開発と︑その輸送のための道路︑鉄道︑港湾︑船舶そ

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

(8)

おける主要輸出品の割合は︑米四七%︑石油ニ︱%︑金属

一 %

チーク六%であって︑農産物︑鉱産物︑林産物 戦前に カーが稲にあてられているのである︒ いるのである︒ かれらはデルタ地におけ

の他交通通信設備を設けた︒また下ビルマのデルタ地に米作地を出現させた︒外国投資は︑戦前にほぽ五︑

000

万英ボンドと推定された︒投額総資の九割はイギリス人の支配するところであった︒しかし︑この外国投資推定に

は︑チェティヤー

Ch et ty ar

やその他のインド人金貸業者の多額の投資を含んでいない︒

る米穀経済拡張の資金を供給してきたもので︑

一 九 ︱ ︱

‑ 0

年の州金融調査委員会の推定によると農地抵当貸付だけで

( 1 )  

五億ルビー︑すなわち一億九︑

000

万ドルに達していた︒ビルマ人の民族資本家は全くとるにたらず︑地主は一

般に弱められていた︒このことが︑どこの国でも初期の独立運動の先鋒となったブルジョア勢力の活動をビルマで

は極めて限定されたものにし︑またこのことがビルマ・ナショナリズムが遅れて始ったことと関係があるとされて

このイギリスの植民地主義とこれに結びついたチャティヤによって︑

主要商品別輸出額︵第二表︶が雄弁に物語っているように︑第一次産業︑ ビルマの生産国民所得︵第一表︶と

そのなかでも特に米を中心にしたモノカ

ルチュア型の経済を作り出したのであり︑独立後このモノカルチュア型の経済からの脱却を重要な課題としながら

なおこの脱却は果されていないのである︒すなわち︑現在においてもなお生産国民所得の五

0

%近くを農林漁業で

しめ︑しかも農産物の大半は米であって︵第一︱︱ー四表︶︑約一︑六

00

万エーカーの耕地のうち約一︑

000

万エー

米を基調とするビルマ経済は︑貿易面において典型的なモノカルチュア経済の型を示している︵表二︶︒

等のいわゆる第一次産業部門が輸出総額のほとんど九

0

%近くを占めていたeこれに比べて一九五四し五五年の主

(9)

383 

要輸出品の割合は︑米七六%︑棉花五%︑金属四彩︑

農業の占める割合が大きくなり︑その中でも特に米の占める比重はきわめて高くなった︒

1

農 業 お よ び 水 産 業 林 業 鉱 業 精 米 業 国 営 商 業 国 営 運 輸 業 国 営 金 融 業 そ の 他 の 公 益 事 業 中 央 政 府 家 屋 賃 貸 料 そ の 他 の 工 業 及 び サ 、 ー ピ ス 国 内 総 生 産

イギリス植民地主義下のビルマ経済の発展は下ビルマの豊かな穀倉地帯の出現に象徴されるのであ

この穀倉地帯にはどのような生産関係が作り出されたのであるか︒

後進国の経済発展と長地改革︵鶴嶋︶

ピ ル マ の 生 産 国 民 所 得

(単位

1 0 0

万チャッツ)

1938   1951   1952   1953   3 9

5 2

5 3

5 4

5 6 4  

1, 

5 5 8   1 ,  6 8 2   1 ,  6 5 4   1 3 5   295  3 0 8   3 3 5   1 2 8   7 4   6 3   4 8   5 7   1 5 0   1 6 6   1 6 0   3 8 9   6 1 0   4 0 0   6 2   7 1   9 1   1  1  2  1 8   1 8   3 0   3 1 2   3 8 0   4 2 0   1 6 2   1 7 0   1 8 0   3 1  

8 1 5   0 5  

3 7 9   1 , 4 5 8  

1 , 0 6 3   4 , 0 8 4  

1 , 1 5 1   4 , 6 2 0  

1 , 2 6 3   4 , 5 8 3  

備考

Economic S u r v e y  o f  Burma, 1 9 5 5

より作製

チーク材およびその他の木材四%となり︑第一次産業部門中

2

主 要 商 品 別 輸 出 額

(単位 戦前

1946   1952  

4 7

5 3

米および同製品

2 3 8 . S .3 7 4 . 4  1 , 0 1 8 . 7  

1 0 0

万チャッツ)

1953   1954   5 4

5 5

8 4 0 .  2 8 5 4 .  0 ( 7 6 .  4 )  

皮 革

2 . 5 2 . 5   2 . 4   0 . 5   0.5(‑) 

生 ゴ ム

6 . 9 5 . 2   2 7 . 2   1 7 . 3   36.3(3.2) 

棉 花

8 . 6 5 . 9   5 4 . 6   4 9 . 5   51.4(4.6) 

チ ー ク

3 1 .1 4 2 .  2  2 6 .  4  2 4 .  6 2 4 .  2(2. 2 )  

そ の 他 の 木 材

3 . 3   ‑ 5.2  2 . 9   3.5(0.3) 

金 属 及 び 鉱 物

5 9 .  0 1 4 .  7  5 3 .  9  3 4 .  2 4 8 .  4(4. 

3) 

そ の 他

1 6 6 .2 1 9 .  6  1 0 4 .  0  9 0 . 1   1 0 0 .  2(9. 0 )  

5 1 6 .4  4 6 4 .  5  1 , 2 9 2 . 4  1 , 0 5 9 . 3   1 , 1 1 8 , 5 ( 1 0 0 )  

備考

Union Bank o f  Burma B u l l e t i n ,  Q 4 ,   1 9 5 5

より

(10)

3

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

イギリスが下ビルマ地方を譲り受けた時︵一部は一八二四年︑一部は一八五二年︶には︑

( 2 )  

薄な荒蕪地であった︒このビルマの運命に︑

一八八六年にイギリスは上ビルマ 一八六九年のスエズ運河の開通が決定的な変化をもたらすことになっ

ヨーロッパ市場に余剰熱帯産物を売り出すことができるようになった︒スエズ運河の開通に続く数

年に︑大規模な米作がデルタ地とも呼ばれる下ビルマの三角州地帯で発展した︒

備考

主要農産物栽培面積

1952   5 3

1 0 , 3 3 1  

7 4 4   1 , 3 2 8   3 4 4   1 , 0 6 0   6 5   5 9 8   1 , 8 4 3   1 6 , 3 1 3  

1 2 , 8 3 2   8 0 8   1 , 4 0 1  

453 

1 , 3 2 9   6 4   4 7 5   1 , 8 0 5   1 9 , 1 6 7  

1953   5 4

1 0 , 3 9 8  

8 2 1   1 , 3 5 2   3 5 4   1 , 1 1 3   8 8   5 6 8   1 , 8 1 0   1 6 , 5 0 4   E c o n o m i c  S u r v e y  o f   B u r m a ,  1 9 5 5

より

1954   5 5

1 0 , 1 6 1  

7 7 9   1 , 4 0 2   3 7 0   1 , 1 8 0   9 0   6 0 0   1 , 8 3 3   1 6 , 4 1 5  

4

主要農産物生産高

(単位

1 0 0

万チャッツ)

1952   1953   1954   5 3

5 4

5 5

5 , 7 4 0   5 , 5 2 7   5 , 7 1 2  

1 7 6   1 9 1   1 5 4   5 4   4 4   3 6   2 2   2 2   2 3   1 9 2   2 0 1   2 0 6   1 ,  0 5 9   1 ,  1 3 8   1 ,  1 5 0   4 3   4 8   4 9   8 5   7 8   8 3  

7 , 4 2 6   1 8 1   4 5   2 1   2 5 0   1 , 1 0 0  

44 

7 8  

下ビルマの大部分は住民稀 備考

S c o n o m i c  S u r v e y  o f   B u r m a ,   1 9 5 5

より

(11)

38.5 

をも譲り受けることになったが︑これよりもずつと以前から︑上ビルマを去つてデルタ地に入植する移民の流れが

あった︒その後組織的なインド人の大規模な移入が行われた︒効果的な洪水防止がデルタ地に施され︑半世紀以上

を費して膨大なジャングル地帯が伐り開かれ︑それによって下ビルマの米作面積は一

00

万エーカーから一︑

00

0

万エーカーに増大し︑世界で最も豊かな米作地域の︱つに発展した︒

この開発に必要な資金は︑英国の行政当局とチェティアの結合によってもたらされた︒英国の法律は︑抵当によ

つて保証された貸付を英国の法廷が尊重し保護することをチェティアに保証した︒そこでチェティアは︑稲の栽培

た︒英国統治の法と秩序を信頼し︑下ビルマの経済的前途を見越して︑五

0

年もたたないうちにチェティアーは推

000

000万米ドルに相当︶の貸出を行ったが︑その三分の二は農地を担保とするも

( 3 )  

のであった︒その結果︑一九三六年までにチェティアーは下ビルマの米作地一︑

000

万エーカーのうち二五

0

( 4 )  

エーカーを所有し︑そのうえ米作地の一

0

ないし二

0

%にたいして重い抵当権を持つていた︒一九四一年には︑農

業者の所有地で抵当に入っていない土地は︑総耕地面積の一五彩にすぎなくなった︒

チェティアーは︑年利一割二分で商業銀行から金を借り︑それを大きな町の代理人に一割二分ないし一割四分で

この代理人は一割五分から二割ないしそれ以上で耕作者に貸付けた。

E•H

・ジャコビーは、農民に貸され

( 5 )  

る際の利率については︑年一割五分から三割六分の間︑平均して二割六分であったといつている︒この大きな町村

の代理人は三年毎に人を代えることになっていたので︑長期融資はめったに与えられず︑三年の期間でしか融資さ

れなかった︒代理人たちは︑たった三年の期間では︑顧客について満足な知識を得ることは困難である︒そこで関

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶ の拡張にともなつて︑それどころか拡張に先んじて︑デルタ地全体にわたつてかれらの信用組織を次第に拡大し

(12)

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

心はもっぱら利子率の高さと手持担保にのみ注がれ︑農業生産力の増加については関心が持たれない︒融資した金

の経済的用途を気にかけることはめったになく︑担保のあるかぎり借り続けるように奨励することがしばしばであ

った︒そこで︑土地がまさにその開発に要した費用を償還し始めるようになった時に耕作者が自己の信用の涸渇し

たことに気ずくといったことがしばしば生じ得るのであり︑また米作地に貸し出された金のうち一割足らずが実際

に土地改良や追加農地の購入に用いられたと見積られているのにたいしてさえ︑この見積がなお誇大であるといわ

( 5 )  

れるのである︒この土地の金貸業者への集中は︑大規模農業を生み出さなかった︒地主は一五エーカーから三〇工

ーカーの区画に分けて土地を小作人に貸付ける方を好み︑地主自身が月利一分七厘五毛から二分五厘で小作人に融

資している︒そして︑地主はほとんど必ず︑負債額に当る米を自分にたいして︑または自分を通じて販売するよう

に強要することによって︑小作人の収穫物の処分を支配している︒普通の耕作者は︑零細な自作農であれ小作農で

あれ︑収穫直後に収穫物の大部分を手放し︑打穀場から直ちに契約を果さなければならないのである︒その結果︑

収穫後の二︑三カ月間はどんな値でも売る用意のある売手が市場に満ちあふれている︒はなはだ多量の現物小作料

が地主に帰し︑貸付が取り去られるので︑なぜ大量の籾米が一定の認められた集荷経路をたどつて土地所有者︑村

の商人または金貸の手中に帰せざるをえないのか︑あるいはなぜ他の負債を弁済するために打穀場から緊急に処分

されなければならないのか︑その理由を知ることはたやすいのである︒耕作者が小作農であれば︑自己の生産物の四

分の一から二分の一までの量の小作料を収めなければならないだろう︒そのあとでかれは︑耕作費の借入金や︑家族

の扶養︑労佑者の給養と賃金支払のための借金︑牛の飼料︑ならびに播種用の種子を償還しなければならない︒そ

の結果︑耕作者は典型的な買手市場に追いやられ︑抜け目のない仲買人や投機屋の精妙な買入組織に直面しなくて

(13)

387 

重要地方において︑ ングーン市内ないし近傍で︑

徐々にではあるが確実にビルマ人を遂い出してい しばしば言及されている︒ 土地集中が最も急速に進んだのは不況期であるが︑この不況の数年については統計が手に入らな 六四形減激している︒

この一九ニ︱年から一九三一年までという期間は︑相対的には農民にとつて有利 はならず︑掛引したり抵抗したりすることはできない︒このようななかで︑安定したビルマ農民の大規模な没落が

( 6 )  

一九三一年度のインドのセンサスからとった統計によると︑一九ニ︱年から

一九三一年までの間に男子小作耕作者数は五一万二︑

000

人から五七万八︑

000

人へとニ︱︱形増加しただけで

あったが︑農業労佑者数は六二万二︑

000

00

万人以上へと六

0

%がた増加した︒男子自作農数は一︱

六万人から九二万七︑

000

人へと二

0

形減少し︑女子自作農は九

0

000

人から三二万一︑

000

人へと

な時期である︒

い︒このビルマ農民の没落は︑インド人移入民の競争によってさらに促進された︒インド人移入民は︑生活水準が

一段と低いのでビルマ人農民よりも高い小作料で土地を借りることができた︒インド人移入の圧力は公式の文書に

一九一四年には﹁ラ

0

年に︑はやくもインド人小作人の増加が指摘されている︒

インド人移入の確固たる圧力が︑

る﹂と述べられている︒そして︑このインド人の競争は︑たえず小作料を高めた︒小作人は︑しばしば負債の負担

委員会報告書の統計表によると︑基幹米作地方ペグーとインセンにおける小作人の約五割は︑ に耐えかねて一年の契約期間が終るとすぐに農地を立ちのくか︑あるいは二︑三年後に追立てをくう︒土地・農業

一九三ニー三四年な

いし一九三三し三五年に契約農地をたった一年占有しただけで立ちのいたのであった︒その他のほとんどすべての

一部は一九三0三三年に︑また一部は一九三三ー三七年に農地借入契約を行った小作人のう

ち︑五割をはるかに上回るものが︑わずかニカ年占有しただけで立ちのいたのであった︒したがつて︑家という保

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶ 土地集積過程の一環として進行する︒

(14)

388 

00

万ルビー足らずであったが︑ 後進国の経済発展と最地改革︵鶴嶋︶

一八八三年に土地改良融資法 護的背景を持たない移動小作人階級が︑デルタ地の最大の特色の︱つであり︑土地利用の標準に大きな影響を及ぽしてきた︒移動小作人は︑追加労佑または管理ならびに肥料や農機具や家畜の費用を投下することをさし控えるだろう︒たとえそうする資力があっても︑かれは︑地主をそれだけ富まし︑ひいては地主が次の小作人からより高い

( 7 )  

小作料を請求できるようにしたいとはまず思わないだろう︒

このように︑新たに開かれた穀倉地帯の土地がインド人金貸業者のもとに集積され︑ビルマ農民が高率な利子と

地代の負担にあえぎながら︑インドから流入してくる安価な労佑力の提供者と競争関係に立たなければならなかつ

たことが︑ナショナリズム運動に農民をとらえる基盤を作ったのである︒

たつて斗われたタラワジー農民一揆は︑数万の死傷者を出す激しいものとなり︑ビルマ・ナショナリズム運動の前

衛的役割を果したクキン党内の共産主義者は民族主義的スローガンのもとに窮迫した農民を組織して︑農村に確固

たる地盤をもつことができた︒ナショナリズム運動は究極的には土地にたいする原住民の要求であるとさえいわれ

るまでに多くの農民がナショナリズム連動に参加するようになったので︑イギリスの行政当局も︑大エステートよ

りもむしろ農民的土地所有を優遇するというポーズをとらなければならなかった︒

La nd   Im p r o v e m e n t   L o a n s c   A t

︱八八四年に農業融資法

A g r i c u l t u r a l L o a n s   A ct

0

五年には負債調停法

D e b t

・ C o n c i l i a t i o n   A ct

が出された︒しかし︑これらはまったく見せかけだけの実効をともなわないものであった︒

よって阻害された︒ 一八八三年と一八八四年の法律は低利率の小口貸付を可能とするものであったが︑その運営は非常に繁雑な手続

一九一九年から二九年にかけての諸年に両法に基いて政府が貸付けた総額はわずかに平均一カ

一方︑チェティアーからの農業借入は年平均五億ルビーであった︒クラワジ

0年から三一年にかけて半オにわ

(15)

389 

は︑このようにして公布されたのである︒ をもたなかった︒ あった抵当権は認められ︑尊重されなければならなかった︒ 日本の進攻の直前になってやっと小作法

Te na nc yA ct )9 39

︑土地譲渡法

La nd Al ie na ti on   Ac t  19 41

︑土地買入法

La nd Pu rc ha

Ac t 19 41

が通過した︒しかし︑小作法は︑小作料の問題を解決しようとするも

のであったが︑適正小作料とは何かを決定するのが地方役人の個人的判断とされていたので実効をともなわなかつ

た︒土地誤渡法は︑土地が非農業者の手に移るのを阻止しようとするものであり︑債権者は一五年間しか土地を保

留することができず︑その後はそれ以上の支払を受けることなく原所有主に返さなければならないとされた︒しか

し︑実際には不況以来チェティアーは自己の小作人以外に貸し付けることを止めていた︒また法律通過当時すでに

当に入っていない下ビルマの土地は総面積の一五%にすぎなかったから︑

独立までの間に金貸業者法

Mo ne yl en de rs Ac t  1945

︑土地争議法

La nd Di sp ut es c  A t  19 46

ならびに農業者負債救済法

Ag ri cu lt ur is

De bt Re li ef   Ac t  1 94 7

るだけのものであった︒土地問題の解決にむかつて少しでも積極的な方策をとろうとする政策は︑

前には存在しなかった︒ただ独立のみがこの積極的な解決策への道をひらくものと考えられたし︑また独立後の政

府はなによりもまずこの土地問題の解決にのりだす姿勢をとらなければならなかった︒

註 (1)E•

H .  

J a c o b y

井上・滝川訳四七頁

(2

) 

J .  

S.

 F u

r n i v a l l ,   A n ,  I n t r o d u c t i o n   t o   t h e   P o l i t i c a l   Ec on om y  o f   Burma,

  Ra n g oo n ,  1 9 3 1 ,   p .  4 0   (3 )  B ur ma r o   P v i n c i a l   Ba nk in g  J n q u i r y C o m m i t t e e , e p   R o r t ,   R angoon,

9 3   1 0 .  

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

五七 一九四八年の土地固有化法 この法律は実際にはあまり大きな重要性

これも一時的救済を与え

ビルマの独立以 一九四一年までに正真正銘の農業者が所有していて抵

(16)

一九四八年に新たに農産物市場局を設けて精米並びに米の輸出をすべて政府の管理下に

おき︑次いで一九五二年ビダウタ計画の一環として﹁農村および農業振興五カ年計画﹂を作成し︑その実施機関と

して資本金五

00

万チャッツの農村開発公社

A 四

ic ul tu ra l an d  R ur al   De ve lo pm en t  C or po ra ti on

を設け︑翌一

九五三年には農業銀行を新設するなどして︑灌漑施設の整備︑家畜およびトラクターの導入︑農業技術の改良に努 土地国有化法に並んで︑ 人の耕作者に配分されている︒

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

( 4 ) .  J  

R u s se l   An dr us ,  B ur me se   Ec on om ic   Li f e   S t a n f o r d ,   1 9 4 7 ,   p .   1 5  

( 5 )

ジャコピー前掲書八0

( 6 )  

Se as on n   a d  Cr op   Re po rt f     o 1 9 4 1 ,   p p . 1 2 8 f f  

( 7 )

ジャコピー前掲書八六頁

一九四八年一月四日︑ビルマは︑永年の夢であり︑そのためにこそ多くの血が流された独立を宣言した︒アメリ

力が一七七六年に分離して以来︑英帝国から分離した最初の国家である︒独立後まず着手されなければならなかつ

たのが農地改革である︒ビルマ連邦憲法は︑その第三

0

条で﹁国家は︑すべての土地の最終的所有者である﹂と高

﹁本憲法規定の制限内において︑国家は︑土地所有権を規整︑変更︑廃止し︑または土地を取得し︑

これを集団的もしくは協同組合的農業団体もしくは小作農民に分配する権利を有する︒いかなる根拠にもとずくを

問わず︑大土地所有は認めない︒私有地の最大限度は︑事情の許す限り速かに︑法律により決定されなければなら

ない﹂と宣言した︒そして︑土地国有化法を制定した︒不在地主の所有地をすべて没収するとともに︑自作農の所

有地の最大限度を五〇エーカーに制限するものである︒土地国有化省は︑国有化計画および耕作者にたいする配分

一九五六年五月末までに︑九九八︑四八八エーカーの土地が国有化され︑その土地が一

00

︑七七六

(17)

391 

力し︑農業生産の戦前水準への復帰並びにその超過を計つている︒

一九四八年にチーク林の国有化が実施され︑

その製材並びに輸出は木材局の管

土地国有化法とともに農業にたいしてまず重点政策がとられたのは︑すでにみてきたような独立までのいきさつ

があったからであるが︑またビルマの政情によるものであった︒独立後政権を担当したのは社会党を中心とする反

ファッショ人民自由連盟である︒反ファッショ人民自由連盟は︑クキン党が母体になって組織されたものである︒

当初から社会民主主義者のグループ︵オン・ナン︑タキン・ヌー・タキン・ミア︶と共産主義者の

グループ︵タン・トン︑タキン・ソウ︑ティン・ペ︶があったが︑独立に先立つ一九四六年十一月に共産党を分離して

社会民主主義的コースをたどることを明らかにしている︒あるいは︑独立後政権を担当することを予想される反フ

ァッショ人民自由連盟が︑共産主義のコースを排除して社会民主主義的コースをたどることを明らかにしたことに

よって︑イギリスが独立を認める●とになったといえるかもしれない︒ところでビルマの共産主義者は民族主義的

スローガンのもとに窮迫した農民階級を組織した最初の人達であり︑それだけに農村地域で優勢であった︒これに

たいして︑反ファッショ人民自由連盟は︑同様に土地国有化とすべての大土地保有の廃止を約束する社会民主主義

的綱領をもつて着実に地盤を築こうとした︒共産主義者との抗争で反ファッショ人民自由連盟が成功するかどうか

は︑その土地綱領の実現にかかつていた︒政権を握った反ファッショ人民自由連盟が︑まず土地国有化法案をはじ

めとする農業政策に重点を置いたのはこのためである︒

この土地国有化をはじめとする農業重点政策は︑ビルマに何をもたらそうとしたのであるか︒それはしばしばロ

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶ このクキン党には︑ 理下におかれた︒ 耕地と並んで林業にたいしても︑

(18)

制度を廃棄し︑単一税率を採用した新関税定率法を実施するとともに︑新しい金融制度を採用して通貨改革を断行

長い英国の支配のため︑ビルマの金融機構は︑独立後も全く自主性をもたなかった︒すなわち︑インドルビーが

法定通貨として流通し︑その発行権限はロンドンにあるビルマ通貨委員会が握つており︑通貨を発行するには同額

のスターリング貨の裏付を必要とし︑また英系︑インド系︑華僑系銀行が金融界を支配しており︑

位は極めて低かった︒このような金融面での隷属状態から脱するため︑

った︒その結果ビルマ連邦銀行が強化され︑通貨発行権限を独占する中央銀行となり︑従来のルビーを廃して新た

に法定通貨としてチャット貨を創設し︑その発行には単に二五%の外貨準備があれば足りることとした︒また︑支

払準備制度を採用して中央銀行の市中銀行にたいする監督権限を強化し︑︑さらに政府金融機関として国立農業銀

行および国立商業銀行を設立した︒

ことは明らかである︒政治的独立を達成したビルマは︑ 後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

にされるようにビルマが社会主義的福祉国家であることを立証するものであろうか︒あるいは︑少くとも︑帝国主

義の現段階において前資本主義的なものを排除しようとする土地改革はおのずから反資本主義的なものであり︑社

会主義的な方向をとらなければならなくなるということを実証するものであろうか︒この問に答えるためには︑

れらの政策と並行して行われた政策がどのような方向をとつているかを検討しておかなければならない︒

イギリス植民地主義のもとに作り出された農業問題を解決するためには︑単に土地制度だけではなく金融制度に

たいする施策がなければならない︒チェチィアーに土地を集積させた原因が金融問題であったことからして︑

﹁経済的独立﹂を目ざして︑

ビルマ銀行の地

一九五三年七月一日金融機構の大改正を行 一九五三年に英連邦特恵関税

(19)

393 

この新しい金融制度のもとにおいて︑

資状況をみてみれば︑農業にたいする融資はきわめて僅かなものとなっている︒政府機関の融資についてみれば︑

れているにすぎなくなっている︒また︑国立農業銀行の融資額はきわめて僅かなものである︒さらに市中銀行融資

状況をみれば︑融資総額の二%前後が食料品および原材料にむけられているにすぎないのにたいして︑製造業と卸

金融面にみられることは︑農業重点政策から工業に重点が移つているのではないかということであった︒この推

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶ 一九五四し五五年度上半期にいたつては一億三︑三八

0

万チャッツ中わずかに四九

0

万チャッツがあてら

ビドータ︵福祉︶計画と銘うつて遂行されている開発計画を検討することによって確証ずけられる︒

ピドータ計画が開始されてから四年間における政府の資本支出総額は一五・六チャットに達しているが︑

四四彩が運輸・電力の二部門に支出されている︒

いわゆる外部経済の発達を契機として国内の投資需要を喚起し︑市場の拡大と産業の均衡的成長をはかろうとい

う開発理論の基本線をこの中に認めることができる︒運輸部門の復興は︑戦争被害の甚だしい鉄道と港湾の復旧に

主力がむけられ、鉄道車輛の購入および組立・修理・橋梁および路線の補修•新設あるいは港湾施設の復旧等に巨

額の支出が行われている︒ビルマ経済復興の溢路の︱つはこの部門にあり︑特にラングーン港の埠頭および附帯施

設の修復は緊急を要するという観点から︑世界銀行は一九五六年に一︑九三五万ドルのラングーン港および鉄道改 売業にはそれぞれその約一

0

倍が融資されているのである︒

協同組合にあてていたが︑その翌年には早くも三億一︑

その約

1 0

0 0

万チャッツ中四︑六二万チャッツがあてられたに 政府直接貸付は︑ では︑融資はどのようになされているのか︒政府機関および市中銀行の融

一九五ニー五三年度においては一億八︑六三

0

万チャッツ中五︑

00

万チャッツを農民および

(20)

実際に︑ビルマの国有化は︑著しく速度を落してしまった︒ 後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶

修借款をビルマ政府に供与した︒次に電力部門ではバル・チャウンに水力発電所が建設されており︑

賠償により一九五八年まで八•四万kWの発電所が完成する予定である。この外ディーゼル発電所の建設が進捗を

次が工業部門である︒初年度の支出が微々たるものであったのにたいして︑

業︑砂糖工場︑

その後の増強にはめざましいものが

ある︒これは各種の工場建設を一せいに開始したための支出増であって︑早く工業化を完成したいというビルマ政

府の潜在的な意欲が︑開発計画の進捗にともなって次第に顕在化したとみるべきものであろう︒しかし第四年目の

し︑操業を開始する予定になっている︒これらの支出に対比して農業部門の支出はまことに微々たるものに終つて

いる︒独立後の経済発展の過程で︑政策の重点は農業から工業へと移行しているのである︒

資本主義の発展にさいしては農業から発展が開始されたとしても︑やがて工業の発展の方が急速になり︑その発

展の不均等性はますます激しくなる︒ビルマ経済の発展の過程で︑資本主義的要索が急速に拡大していることが予

想される︒資本主義の発展は︑現在のビルマの発展段階においては︑必然的に国有化の方向と対立するであろう︒

独立当初は︑主要なあらゆる生産手段の国有化を目ざすかのようなボーズがとられていた︒土地国有化法はその

象徴である︒土地以外については︑憲法ニ︱九条に次のように定められていた︒

すべての木材伐採地および鉱物区︑森林︑河川︑漁場︑鉱物︑石炭︑石油その他の鉱油︑すべての潜在エネル タイル煉瓦工場︑紡績工場の拡張等が一九五六年し一九五七年中には完成 重点は︑新規の計画はとりやめ︑現在建設中のこれらの工場を完成することにむけられ︑圧延工場︑ジュートエ

これは日本の

(21)

395 

邦に負担させぬこと︒ ギーその他の天然資源は︑連邦により採取開発される︒ただし︑連邦の利益のために︑国会が定める制定法により認められる特定の例外の制限において︑連邦は上記資源の採取開発︑もしくは利用の権利を連邦の公民に対しもしくは連邦の公民が資本の少くとも六

0

%を所有する会社︑組合に対し許可することができる︒

国会による改正︑変更もしくは廃止に従うという条件に基ずく場合を除く外︑連邦により許可されない︒

も︑.将来において二五年を超える期間に対して許可されず︑もしくは二五年を超えるその後更新するものではな

ここでは︑外資が完全に排除されているのではない︒しかし︑外資にたいする制限は︑かなり厳格に打ち出され

一九四九年の連邦鉱物資源法によって一歩後退した︒ある鉱山の開発がビル

マ連邦にとつて利益であり︑しかも他に適当な開発者がいないと政府が認定したばあいには︑外国人にたいしても

鉱業権が与えられることになった︒この鉱物資源法によって︑イギリス系の数社が鉱業権を取得したのである︒

について語り︑九月にはビルマ国会は大要次のような外資導入歓迎の決議を採択するにいたった︒

1︑ビルマは外国政府または民間資本との合弁または類似の申入れを歓迎する︒

2︑外資企業は資本設備に要する外国為替を自己の負担において調弁することとし︑事業運営上外貨をビルマ連

3︑利益の外貨送金を認める︒

後進国の経済発展と農地改革︵鶴嶋︶ この一歩後退は︑全面的な後退の第一歩であった︒

ビルマ首相が国会で外資保設の必要性 ている︒この外資にたいする制限は︑

.o  

'  

連邦の上記天然資源のいずれかの採取開発︑もしくは利用に対するいかなる承認︑

その他の形式の認可

参照

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