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『近代日本の偽史言説──歴史語りのインテレクチュアル

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(1)

︹中略︺そもそも歴史をえがくことがどのような行為であるのかを明らかにする可能性を持つ﹂︵序章一三頁︶のである︒

  序章﹁偽史言説研究の射程﹂︵小澤実︶はシンプルで比較的抑制がきいた内容になっているので︑本書の豊富な内容の読み解き方は多分に読者に委ねられているようである︒そこで以下では︑本書全体からみえてくるものについて︑評者なりにいくつかの論点に分けて述べることとしたい︒したがって︑一一本の論考を順々に要約するのではなく︑各論点に関連する論考に適宜言及していくことにしたい︒執筆者氏名と章タイトルは初出の箇所のみで示し︑それ以降は﹁三ツ松②﹂=﹁三ツ松が執筆した第二章﹂の要領で略記することとする︒

創出と拡散

 偽史言説は︑どのような人物が︑どのように創りだし︑社会に広めていくのだろうか︒

  第一章﹁偽文書﹁椿井文書﹂が受容される理由﹂︵馬部隆弘︶は︑近世後期に山城国の椿井政隆が偽作した文書の作成手法や伝播の過程について詳細に論じており︑たいへんスリリングである︒椿井は︑複数の文書を相互に関連づける︑歴史的事実のなかにさりげなく創作部分を織り混ぜるといった手口で︑主に中世文書を装って文書を創作していた︒偽文書であると露呈しないように知識人の多い都市部を避けていたという︒

  偽史言説が自らを正当化するパターンもみえてくる︒地域社会に密着していた椿井の文書偽作活動と異なり︑﹁チンギスハンは源義経である﹂といった壮大なスケイルの偽史言説は︑チ 小澤  実編

﹃ 近 代 日 本 の 偽 史 言 説

││ 歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー││

勉誠出版 二〇一七年一一月刊A5判  三七五+九頁  三八〇〇円+税

平  山    昇

はじめに

  本書は︑﹁チンギスハンは源義経である﹂といった近代日本の﹁偽史言説﹂について︑その生成・流通・受容や社会への影響など様々な角度から論じた論文の集成である︒

  この偽史という呼称は広範囲にわたるもので︑本書の内容からも明確な定義づけは難しいと思われるが︑編者の小澤はさしあたり︑プロフェッショナル学者の共同体︵必ずしも大学に限定されない︶によって証明手続きの再現可能性を不可欠とする近代歴史学と︑それに対抗するオルタナティブとしての語りとしての﹁偽史﹂という整理をおこなっている︒

 この整理からも明らかなように︑本書は単なるオカルト列伝の類ではなく︑近代歴史学のネガとしての偽史言説を考えることを通じて︑結局は近代歴史学そのものについて再考するように導かれる内容となっている︒小澤の言葉で言いかえれば︑﹁職業的研究者があえて避けてきた偽史言説をめぐる網の目は

(2)

る︒第二章﹁神代文字と平田国学﹂︵三ツ松誠︶は︑これこそ篤胤の﹁偽史的心性﹂にほかならないと指摘する︒

  第七章から第一〇章にかけての諸論考は日猶同祖論や﹁日本人=バビロン起源説﹂などの同祖論・起源論を論じているが︑共通してみられるのは︑ヨーロッパへのコンプレックスから生じた﹁ヨーロッパと何らかのかたちで繋がっていてほしいという感覚﹂である︵第七章﹁酒井勝軍の歴史記述と日猶同祖論﹂山本伸一︑津城⑧︑第九章﹁﹁日本の﹂芸能・音楽とは何か﹂齋藤桂︑第一〇章﹁原田敬吾の﹁日本人=バビロン起源説﹂とバビロン学会﹂前島礼子︶︒

  ここからみえてくるのは︑﹁始原の優越性﹂への執着が偽史言説創出の重要な動機となるということである︒﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄をもってしては︑西暦紀元前六六〇年︵神武天皇即位の年とされた︶以前に存在していた文明に対して優越できず︑中国や西洋よりもさらに遡って自民族の始原を語りたいという欲求を満足させられない︒天津教の教主竹内巨麿が有する偽作の資料群︵竹内文献︶が注目を浴びたのは︑そのような始原遡上の欲求に応える都合のよい〝物証〟を提供したからであった︵第四章﹁﹁日本古代史﹂を語るということ﹂長谷川亮一︶︒

  ﹁始原の優越性﹂への執着については︑世界史的な視野でも考える必要がある︒﹁ムー大陸﹂に起源がある﹁皇国﹂こそが﹁世界人類の生命的中心﹂であると主張した藤澤親雄は︑その動機について︑ヨーロッパに数回旅行して﹁異民族に接する度に︑日本のほんたうの大きな使命といふものを彼等にぜひとも教へたい︑それには彼等も納得し得るやうな何か一つの説明が ンギスハンの別名である﹁クロー﹂は﹁九郎判官﹂のことではないか︑といった具合に言葉や風俗などの類似性のこじつけを積み重ねていくのが定番のようである︵第五章﹁戦時下の英雄伝説﹂石川巧など︶︒

  陰謀論は︑当然のことながら〝陰謀〟を示す文書を欲する︒帝政ロシアの秘密警察が偽作した﹁シオン議定書﹂はユダヤ陰謀説の根拠として世界中に拡散したが︵第六章﹁ユダヤ陰謀説﹂高尾千津子︶︑これが日本に伝播した経緯については後述する 1︒なお︑第八章﹁日猶同祖論の射程﹂︵津城寛文︶は︑陰謀論の典型的な論法︵終末論など︶を抽出している︒

  次に︑偽史を創出し︑広める者たちを突き動かすものは︑何なのだろうか︒

  椿井文書の場合︑﹁椿井文書の販売目録﹂として紹介されている史料があるので︵馬部①︶︑文書の頒布がある種の稼業になっていたのであろうか︒そうであれば理解しやすいが︑﹁好事ノ士﹂﹁例ノ好事ノ偽作﹂という同時代の評価が気になる︒椿井は︑自身が偽作する文書によって様々な﹁由緒﹂が語られるのを楽しんでいたのだろうか︒知りたいところである︒

  椿井とほぼ同じ年代を生きた平田篤胤は︑同じ偽史言説でもスケイルが桁違いである︒本居宣長が︑漢字伝来以前の文字の不在を中国的要素に汚されていない日本古代の特徴としてむしろ理想視したのに対して︑﹁世界の始まりは日本﹂と考える篤胤にとっては︑文字の始原も古代日本でなければならない︒篤胤は神代文字の存在を確信して突き進み︑﹁幽界﹂とのコンタクティーをみつけては神代文字の存在証明を求めるようにな

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に登場する幾人もの偽史言説の担い手のなかで︑竹内の不可思議さは際立っている︒今後の検討課題だろう︒

受容と持続的影響力

  ﹁シオン議定書﹂を読んでただちに偽書と断定した満川亀太郎が﹁三千年もかかって未だ世界を転覆し得ぬような意気地ない秘密結社﹂がなぜそんなに恐ろしいのかと揶揄したように︵高尾⑥︶︑偽史言説は往々にして〝ツッコミどころ〟が満載である︒しかし︑それでも偽史言説を受容する人は後を絶たない︒それはなぜなのだろうか︒

  ひとつの理由としてみえてくるのが︑創作者と需要者︵=受容者︶との共同作業である︒

  たとえば椿井文書は︑﹁例ノ好事ノ偽作﹂と見抜きながらも受容する人々がいた︒自分たちの家系や地域の﹁由緒﹂にとってプラスになると判断したからである︒椿井も最初から完成品を持ち込むのではなく︑同じ所に何度も通ってより受け入れられやすいものに仕上げていく努力を惜しまなかった︵馬部①︶︒

  この点については近代の竹内文書も同様で︑﹁宝物﹂の﹁拝観﹂を求めて訪れた研究家に対して︑彼らが求めるものを〝発見〟したと竹内から事後的に連絡がなされるのが常であった︒もっとも︑その後の影響範囲は椿井文書とは段違いで︑竹内のおかげで〝物証〟を得た者は︑それを根拠にムー大陸実在説など自説を喧伝し︑竹内文献はメディアで注目を集めていく︒なお︑庄子︵⑪︶によれば︑ヨーロッパでもアトランティス大陸とゲルマンの祖先の優秀性を結び付けた﹃ウラ・リンダ年代記﹄ 要るぢやないかと思﹂ったからと語っている︵長谷川④︶︒実は︑藤澤が留学していたドイツおよび周辺地域では︑アトランティス実在説とアーリア=ゲルマン人の優秀性を結びつける偽史言説が広がりをみせていた︵第一一章﹁﹁失われた大陸﹂言説の系譜﹂庄子大亮︶︒つまり︑藤澤の始原優越への志向性は︑日本が世界︵とくに欧米列強︶との交流のチャンネルを開いて︑同時期のグローバリゼーションの波に洗われるようになったという文脈抜きには捉えることができない︒

  陰謀論についても世界史の文脈とあわせて考える必要がある︒とくに︑ロシア革命とシベリア出兵を契機としてユダヤ陰謀説が日本に流入してきたこと︵高尾⑥︶はきわめて重要であると思われる︒第一次大戦にともなう大変動︑とくに一九一七・一八年のロシア革命と米騒動が日本の思潮に与えた衝撃の大きさは周知の通りであるが︑外来過激思想による天皇制国家転覆という明治末期以来の危機意識がこの内外の大変動によって沸点に達したことが︑日本におけるユダヤ陰謀説の担い手たちを突き動かしていたことは間違いないだろう︒

  動機について不可解なのが︑竹内巨麿である︒自説の展開に突き進む篤胤とも︑教団内でカリスマとして求心力を発揮した出口王仁三郎とも異なり︑竹内はあくまでも﹁神宝﹂の保持者として﹁識者の御鑑定をお願ひしたい﹂と受動的な立ち振る舞いをした︵第三章﹁近代竹内文献という出来事﹂永岡崇︶︒その結果︑同じ竹内文献から日猶同祖論︵酒井勝軍︶と︑﹁大和民族﹂と他民族の系譜的関連の否定︵岸一太︶という︑相反する見解が導き出されるということまで生じる︵永岡③︶︒本書

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対抗意識であったが︵後述︶︑これは︑大衆を味方につけるメディア戦略と表裏一体であった︵石川⑤︶︒大衆から一定の支持を得るようになった言説は︑たとえそれがアカデミズムの権威によって否定されるとしても︵あるいは︑否定されるからこそいっそう︶︑その命脈を保ち続け︑軍人や政治家など社会のなかで影響力をもつ人々のなかにも共鳴の輪を広げていく︵長谷川④︑石川⑤︶︒戦時中には︑政府が設置した肇国聖蹟調査委員会において︑貴族院・衆議院代表の委員︵二荒芳徳・末松偕一郎︶が神代文字を政府の古代史調査のなかに位置づけようとする動きも生じた︵長谷川④︶︒

  さらに︑たとえ偽文書であると認めたとしても︑﹁史料︵記録︶が無いからといって︑○○が無かった︵起こらなかった︶とは言い切れない﹂という論法でその偽文書から導き出された歴史叙述を頑として手放そうとない者たちが後を絶たない︵馬部①︑長谷川④︶︒

 なお︑前節と本節では︑便宜的に﹁創出・拡散﹂と﹁受容﹂に分けて論じたが︑現代のネット空間においては︑﹁仕掛ける側﹂と﹁消費する側﹂の二分法が必ずしも有効ではなく︑両者の間を自由に往還する広い中間層が広がっていることにも注意が必要である︵津城⑧︶︒

アカデミズム歴史学と偽史の関係

 本書を読んで痛感するのは︑偽史言説は近代のアカデミズム歴史学と不即不離のものだということである︒なぜなら︑近代のアカデミズム歴史学が抱え込んだ矛盾︑あるいは社会から突 なる偽書があり︑のちにナチスの機関で活動する古代文化研究家ヘルマン・ヴィルトによって一九三三年にドイツで公刊された︒庄子は﹁﹃竹内文献﹄とその影響を類推させるような書﹂と評している︒

  椿井や竹内と異なり︑平田篤胤の場合は︑まず初めに自身の理想ありきで︑それにあわせて牽強付会に突き進んでいくという﹁偽史的心性﹂が動因であった︵三ツ松②︶︒また︑前述したように︑ユダヤ陰謀説は︑外来過激思想に対する危機意識の高まりが強力な推進力となった︒

  このようにみてみると︑一口に偽史言説といっても︑需要︵受容︶者に対する柔軟なオン・デマンドの姿勢があるタイプと︑自らの理想や危機意識を絶対化させたうえでその正当化の手段として偽史言説を利用するタイプとに分けることができるように思われる︒

  いったん受容された偽史言説の影響力が︑きわめて強固な持続性を持つようになるパターンがみえてくるのも本書の興味深いところである︒

  まず︑地域のアイデンティティと絡む場合である︒椿井文書が郷土アイデンティティの語りに不可欠となった地域の人々からは︑同文書の内容を史実として扱うことに警鐘を鳴らす馬部に対して批判がやまないという︵馬部①︶︒

  明治以降︑とくに二〇世紀に入ると︑メディアの大衆化とともに大衆

説﹂を唱えた小谷部を突き動かしていたのはアカデミズムへの た偽史言説を支えていく︒たとえば﹁源義経=チンギスハン ≒国民が︑国家・民族のアイデンティティと結びつい

(5)

要素が入り込むのを防ごうとした︒しかし︑実際にこの勅語が発布されると天照大神を皇祖とする見方が広まっていき︑一九三四年には政府︵文部省︶もこれを正式に追認するに至る︵長谷川④︶︒

  ﹁正史﹂の側ですらこの有様であったのだから︑在野で日本︵人︶の始原についてヴァリエイション豊かな偽史言説が生まれたのも無理はない︒実際︑﹁日本人=シュメール人起源説﹂を唱えた三島敦雄︵前島⑩︶は︑その動機を﹁古来我が建国史は徹底せらるるに至らず︑従つて国体の根源に懐疑を生じ﹂てきたためと述べている︒ムー大陸実在説を探求することは﹁国体の明徴﹂のために必要であるという主張もメディア上でなされた︵庄子⑪︶︒

  ﹁正史﹂が抱える非合理性も火種となり続けた︒戦時中の肇国聖蹟調査委員会では神代文字を政府の古代史調査に取り込もうとする二荒芳徳らの動きが学者委員たちによって阻止されたが︑二荒が﹁彦火火出見尊は五百何歳であられると云ふが︑現代の我々の常識として首肯し得ぬ如き記事と調査研究とを如何に調和せしむべきか﹂と質問すると︑学者委員たちは﹁上代史は合理主義を以て研究せられるべきものに非ず﹂などとお茶を濁さざるをえなかった︵長谷川④︶︒﹁正史﹂が否定する偽史言説の担い手側が︑返す刀で﹁正史﹂側の非合理性を突くというのは︑第二次天津教事件の弁護団の主張でもみられたことである︵永岡③︶︒もっとも︑神話と﹁常識﹂の調和が不可能ということは︑子供でも容易にわかることだった 3︒

  つまるところ︑近代天皇制の﹁正史﹂そのものが︑偽史言説 き付けられた反感のまなざしが︑偽史言説に濃厚に絡みついているからである︒

  明治国家はその草創期に天皇の権威の淵源を神話に求めた︒平田派国学にもとづく神道国教化政策は結局挫折したものの︑記紀神話は近代天皇制国家の不可侵の﹁正史﹂︵正統的国体論︶として確立する︒アカデミズム歴史学は︑当初は記紀神話︑南朝正統論に対して史料による実証の立場から懐疑的な見解を示したが︑久米邦武筆禍事件︵一八九二年︶や南北朝正閏問題による喜田貞吉の休職処分︵一九一一年︶を経て︑歴史の﹁語り﹂から撤退して史料の収集・編纂へと役割を限定するようになる 2︒やがて一九三〇年代になると︑平泉澄を筆頭に正統的国体論を積極的に補完する皇国史観が台頭する︒

  したがって︑戦前日本においては︑﹁正史﹂を自称していた側も非合理性を孕んでいた︒森鷗外が小説﹁かのやうに﹂︵南北朝正閏問題の翌年に発表︶で神話と歴史の調和について苦悩する知識人の心理を描いたことはよく知られている︒だからこそ︑記紀神話の正統性を揺るがす偽史言説に対しては近親憎悪とも思える激しい攻撃が加えられた︒竹内文献などの神代文字文献は︑偽書であるうえに﹁正史﹂に反するという二重の意味での﹁偽史﹂として否定されたのである︵永岡③︑長谷川④︑庄子⑪︶︒

  だが︑近代天皇制国家の﹁正史﹂は︑歴史の﹁始原﹂についてすら統一的見方を国民に共有させることができなかった︒教育勅語起草に携わった井上毅は︑﹁肇国﹂を述べる場合にはあくまでも神武天皇を皇祖とすべきと主張し︑教育勅語に神話の

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そこに見た史蹟や風習のなかにこそ真実がある﹂と考え︑﹁古文古書にのみ縋 すが﹂る﹁学者﹂を激しく非難した︒その非難の激しさはさておき︑文献史料中心主義への批判的姿勢から実地調査を重視するという姿勢自体は︑同時期の柳田國男の民俗学とも通底していた︵石川⑤︶︒評者も︑大正期に﹁伊勢神宮+明治神宮﹂への参拝の﹁体験﹂を重視する思潮が広がったことについて︑身体性を軽視する﹁学者﹂への反感が背景にあったことを指摘した 4︒要するに︑大衆社会化が進むこの時期に︑﹁学者﹂たちが﹁生活﹂﹁体験﹂を重視する大衆と対話するチャンネルを十分に確保できないなかで︑これに反発する立場から様々な実践が生じ︑小谷部もまたそのなかにあったのである︒このことは︑小谷部が自説への反響を自著増補版に掲載した際︑そのタイトルが﹁輿論と実際 00000には敵す可らず  読者の声﹂となっていたことによく表れている︵石川⑤︶︒

  このように︑偽史言説は様々な面で近現代の歴史学アカデミズムと不即不離の関係にあったことを浮かび上がらせたのは︑本書のきわめて大きな功績である︒

対外進出との親和性

  ここまで︑評者なりの整理にもとづいて本書の内容を紹介してきたが︑最後に︑序章で小澤が提示した論点のうち︑軍部との親和性について補足的に記しておきたい︒

 小澤は︑本書の内容をふまえて︑軍部の一部が陰謀論やオカルト思想が蔓延する温床となっていたと指摘する︒ただし︑そのほぼすべてが対外進出の文脈であるから︑評者としては﹁対 の土壌をなしていたわけである︒ただし︑﹁正史﹂による﹁偽史﹂攻撃によって﹁八紘一宇﹂イデオロギーの無制限の増長︵全世界に君臨する日本という誇大妄想︶に一定の歯止めがかけられたという事実は︵長谷川④︶︑それはそれで興味深いものと評者には思われる︒

  では︑記紀神話・皇国史観と絶縁した戦後歴史学あるいは現代歴史学は︑今度こそ晴れ晴れとした表情で偽史言説に向き合えるようになったのかといえば︑そうでもない︒

 たとえば椿井文書は︑戦後になると研究者のあいだですら本物の文書として広まっていく︒同文書の性質を熟知する学派︵京都帝国大学の文化史学︶の学問的蓄積が皇国史観否定のあおりをうけて断絶したことが一因であった︒﹁あまりに性急な戦前との断絶を選択したがゆえに︑継承すべきものまで損なってしまった戦後歴史学の負の側面﹂である︵馬部①︶︒

  また︑一九六〇年代後半からのアマチュア古代史ブームのなかで﹁皇国史観の克服﹂を掲げて神代文字文献が復活してくる︵長谷川④︶︒戦前・戦時中に﹁正史﹂︵

副作用といえよう︒ これもまた戦前のイデオロギーを全面的に断罪したことに伴う 歯止めをかけられていた偽史言説が息を吹き返したのである︒ ≒皇国史観︶によって   もう一つ︑偽史言説を誘発したアカデミズム歴史学の問題として︑﹁生活﹂﹁体験﹂を軽視して﹁机上の空論﹂をふりかざす権威主義という社会から向けられた反感のまなざしがある︒大正期に源義経=チンギスハン説を唱えた小谷部は︑﹁自分自身が走破し︑その土地に生きる人々と膝詰めで語り合った言葉や

(7)

物がいったいどれほどいたであろうか︒これが意味することが何なのかは今のところ評者にはわからないが︑今後検討してみる価値はあるのではないだろうか︒

おわりに

 再三述べたように︑本書は近代日本のアカデミズム歴史学の歩みについて考えさせられる内容となっている︒また︑津城︵⑧︶が強調するように︑現代では偽史言説がサイバー空間で増殖し︑政治など社会の様々な領域に無視しえない影響を及ぼしつつある︒本書がこのようなテーマに多数の執筆者を集めて挑んだことの意義はきわめて大きいだろう︒

  最後に︑﹃宗教研究﹄に掲載される書評でありながら︑ほとんどもっぱら評者の専攻とする日本近代史の立場からの書評となり︑宗教学・宗教史の観点からの批評は甚だ不十分となってしまった︒読者の皆さんのご寛恕を願いたい︒

注︵1︶ ないものねだりとなるが︑帝国日本にかかわる陰謀論として︑現在でも中国などで実在を信じたままの人々が多い﹁田中上奏文﹂について︑近年の研究︵服部龍二﹃日中歴史認識││﹁田中上奏文﹂をめぐる相克 一九二七︱二〇一〇﹄東京大学出版会︑二〇一〇年︶をふまえて検討する章もほしかった︒︵2︶ マーガレット・メール︵訳者代表千葉功・松沢裕作︶﹃歴史と国家﹄東京大学出版会︑二〇一七年︒ 外進出との親和性﹂の方がより適切であると思われる︒軍部はこの文脈での偽史言説の重要な担い手ではあるがすべてではないし︑日本にかぎらず近代国家の対外進出には必然的に軍部が積極的主体としてかかわってくるからである︒

  ここで非常に気になったことがある︒対外進出と親和的な偽史言説の熱心な担い手となった三人の人物に︑奇妙なまでに経歴の共通性がみられるということである︒

  チンギスハン=源義経説を唱えた小谷部は︑牧師をめざして渡米し︑イェール大学神学部を卒業︒一九一九年に日本陸軍の通訳官として満洲・シベリアに赴任した︵石川⑤︶︒

  日本にユダヤ陰謀論をもたらした樋口艶之助︵筆名北上梅石︶は︑神田のニコライ神学校を卒業し︑陸軍でロシア語を教えた︒宣教師ニコライのはからいでロシアの神学校に留学した経験もある 5︒シベリア出兵にともなってウラジオストクに三年間派遣され︑白衛派政府首班メルクーロフと﹁共謀﹂して﹁シオン議定書﹂を日本語に翻訳し︑これが陸軍ルートで日本に流入した︒帰国後の樋口は︑熱心にユダヤ陰謀論を広めていく︵高尾⑥︑山本⑦︶︒

  日猶同祖論で日本の世界支配を正当化した酒井勝軍は︑山形英学校と仙台神学校で学び受洗︒米国の神学校に留学する︒米国留学で習得した語学力を活かしてこれまたやはりシベリア出兵でウラジオストク派遣軍の通訳として従軍した︵山本⑦︶︒

  このように︑この三名には﹁キリスト者+留学経験+語学スペシャリスト+シベリア出兵従軍︵通訳︶﹂という共通点があるのである︒同世代の日本人でこの要件をすべて兼ね備えた人

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︵3︶ 一九四三年︑茨城県の国民学校で天孫降臨の掛図を見た児童が﹁先生そんなのうそだつぺ﹂と発言したため︑教師から体罰を加えられるという出来事があった︵古川隆久﹁近代日本における建国神話の社会史﹂﹃歴史学研究﹄九五八号︑二〇一七年六月︑三四頁︶︒︵4︶ ﹁﹁体験﹂と﹁気分﹂の共同体││二〇世紀前半の伊勢神宮・明治神宮参拝ツーリズム﹂︵﹃思想﹄一一三二号︑二〇一八年八月︶︒︵5︶ ﹃東京朝日新聞﹄一八九五年一一月二一日﹁露国神学生の帰朝﹂︒ 櫻井義秀編著

﹃ 現 代 中 国 の 宗 教 変 動 と ア ジ ア の キ リ ス ト 教 ﹄

北海道大学出版会  二〇一七年三月刊A5判 xxiv+四五三+九頁  七五〇〇円+税

滝  澤  克  彦   本書は︑東アジアの宗教文化を課題とする二つの科学研究費プロジェクトを土台としたものである︒タイトルに示されるように︑﹁現代中国の宗教変動﹂と﹁アジアのキリスト教﹂を主題とするが︑その両者の関係性を明らかにしようとするのではなく︑それらはむしろ東アジアの宗教文化を包括的にとらえるための枠組み構築へ向けた布石として据えられている︒特に︑﹁はじめに﹂で編者の櫻井が述べるように︑﹁グローバリゼーションとトランスナショナリズム︑宗教多元主義時代における政教関係や共生の論理︑および階層分化や社会的排除が進む現代社会の問題に宗教がどのように応えるのかという問題意識﹂︵ⅳ︶のなかに東アジアの宗教が定位されている︒本書では︑東アジアの宗教文化の構成と変動をみる視点を提示した上で︵第Ⅰ部︶︑まずは﹁躍動﹂するキリスト教を東アジアの宗教状況を象徴する現象ととらえ国ごとに比較検討し︵第Ⅱ部︶︑最後に中国に焦点を当ててそのポスト・グローバル状況における宗教変動の把握が試みられる︵第Ⅲ部︶︒それらは二〇章にわ

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