大陸の日本近代史
大学院文学研究科 教授
白木沢
しらきざわ
旭児
あ さ ひ こ
(文学部人文科学科)
専門分野 : 日本近現代史
研究のキーワード : 日本史,植民地,経済史
HP アドレス : http://www.let.hokudai.ac.jp/history-area/japanese/staff-list-010.php
「大陸国家」日本
一般に日本史という学問は主に日本列島の歴史のことだと考えられています。しかし、 日本史の範囲が日本列島であるということは決して自明のことではありません。たとえば、 時代をさかのぼれば、北海道が日本の一部であったとは言えない時代にたどり着きます。 反対に、明治以降の近代史においては海の向こうの朝鮮、台湾、満洲(中国東北地方)、 樺太なども日本帝国の一部を構成するという意味で、日本史の対象とするべきものでした。
2007年度には北海道の農民が当時の満洲に移民した事実を追いかけて、中国・寧安市の
鏡泊湖という地域を訪問し、村の古老たちにインタビューを行ないました。当時、子供だっ た彼らは、日本人がたくさん住んでいたことを鮮明に覚えていました。
北海道からは農民だけではなく、北海道庁の技師(農業技術者)なども多数が満洲国へ 渡り、「北海道農法」を伝える努力をしました。当時の「北海道農法」とは、馬に引かせ る犁(すき:プラウ)を用いて、畑を深く掘り起こし(深耕)、雑草を根っこから切断する、 というのが特徴でした。北海道の満洲移民のなかには、自分が使っているプラウや馬と一 緒に満洲に渡った農民もいました。
満洲移民の一般的なイメージは、土地が狭い日本の貧しい農民が、広大な土地を求めて 満洲へ渡る、というものです。事実、長野県や山形県など移民を多数送った地方の事例は このようなものでした。しかし、北 海道から行った移民は、もともと大 規模な農場を経営する篤農家(優れ た農民)が多く、決して土地が狭かっ たから移民したのではありません。 満洲では他の移民たちに「北海道農 法」を教え、自ら模範を示すことが 期待されていたのです。また、「北海 道農法」で用いるプラウを供給する ために札幌、帯広、旭川などから農 機具工場も満洲に移転しました。こ のように、戦争中の日本と大陸との 関わりはとても緊密であったことが わかります。
出身高校:東北学院榴ヶ岡高校(宮城県) 最終学歴:京都大学大学院農学研究科
歴史
かつて、日本人「開拓団」の本部があった場所を案内してくれた寧安 市鏡泊湖の住人。(2007年9月撮影)
「あの戦争」の歴史の伝え方、語り方
戦争責任や植民地支配をめぐって日本と韓国、日本と中国との間の論争が続いています。 同様のことはヨーロッパでも起きており、これを「歴史問題」とよんでいます。
先にふれた満洲移民についても、日本史では「満洲開拓」という呼び方が一般的ですが、 中国の研究者は「あれは開拓ではない」としてこの言葉を拒否します。実は、日本人移民 が入った村にはあらかじめ畑が用意してあるというケースが一般的だったからです。もち ろんそれらの畑は地元の中国人が開拓し耕作していたものでした。
中国では、日本人移民が来た村の住民からの聞き取り調査を以前から行っており、この ことは常識でした。他方、日本では「満洲開拓」という言葉から、原野を開拓したかのよ うなイメージが持たれています。しかし、日本人の回想・手記を読むと、やはり耕地を割 り当てられていることがわかります。経験者・体験者の歴史認識は日本人だろうと中国人 だろうとそう違わないものだ、という印象を持ちました。
北海道から近代史を考える
「満洲開拓」は開拓ではない、ということは北海道開拓と比べると、非常にわかりやす いと思います。北海道では開拓が始まってから実際に作物が収穫できるまで、実に長い年 月を費やしているからです。満洲移民はわずか数年で悲劇的な最期を迎えることになりま す。かつての「大陸国家」日本の姿を明らかにする作業にとって北海道という場所は最適 なのではないかと思っています。
参考書
(1) 宗景正,『開拓民-国策に翻弄された農民-』,高文研(2012)
鏡泊湖周辺の田園風景。一面にとうもろこし畑が続いてい る。この広大な耕地は中国人(漢族)が長年にわたって開 拓したものである。(2007年9月撮影)
日本人「開拓団」の分布を示す地図。中央に鏡泊湖が 見えており、周囲には「旭川」、「秋田」、「香川」など日本 の地名が見える。これは「開拓団」が出身地の地名を村 名にしたからである。『満洲開拓史』より。