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On HOASI Manri (帆足万里)'s “Soujikai” (荘子解)

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

On HOASI Manri (帆足万里)'s “Soujikai” (荘子 解)

連, 清吉

九州大学

https://doi.org/10.15017/18134

出版情報:中国哲学論集. 18, pp.55-70, 1992-10-10. 九州大学中国哲学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

帆足万里の﹃荘子解﹄について

連 清 吉

 帆足万里︑豊後日出藩の人で︑安永七年︵一七七八︶正月十五日︑木下候の家臣帆足通文の第二子として生まれた︒

通称は里吉︑字は鵬卿︑ ﹁万里﹂という名については︑西村天囚が

  何ぞ其の荘周的なるや︑学者は皆物々しき雅号ありて門下に標榜する歪なれども︑彼は雅号なし︒曰く︑孔孟名

字の外所謂雅号を用いず︑我曹号なき可なりと︒何ぞ其気宇の高きや︒︵﹃学界の偉人﹄︶

と評している通り︑万里はその実名であって︑雅号ではない︒

 万里の学問については︑その弟子岡松甕谷が次のように述べている︒

  帆足先生嘗戯口︑和人作詩文︑讐不買猴演劇︑終不能似真︒然教弟子︑以文為首木︑何耶︒蓋以後進不学文︑無

 能筆古経也︒丁丁著作︑家塾置稿︑奨散軟不適︒已老︑益治薬日︒思立窮理之学︒皇土和蘭書︒⁝⁝︵中略︶運開

 生之写経術︑毒筆幽願︑疏決欝滞︑其為事極偉︒其為事理之学︑推陰陽之運︑究事物之変︑以至夫禽獣虫秀之所以

 食息死生︑岡不通明︒著書数萬言︑名日窮理通︒最早弟子単方者︑処薬麗日︑多為良馨︑人心不尊信︒若夫詩文︑

箕撃而弓読者能尋而繹≧亦可以観先生為学之勤穐︵﹃帆足先生文集﹄序︶①

帆足万里は︑ ﹁日本人が漢詩文をつくるのは︑本場中国の学者にはかなわない︒しかし︑中国古典を理解するために︑

漢文をしっかりと学ばなければならない﹂というのである︒だから︑門下生に﹁和夕蝉課﹂︑例えば︑ ﹃井楼纂聞﹄︑

﹃巌屋完節志﹄の漢訳をさせたのである︒つまり︑ ﹁文を学ばざれば能く古経に通ずることはなし﹂とは︑いわゆる

﹁文を以て経を明らかにする﹂ことを示したものである︒これが万里の文学理論である︒また︑ ﹁已に老いて益々軍

術を治む﹂といっているが︑これは︑万里の著述の中に︑ ﹃四書五経標注﹄があることによって︑彼が経書を深く研 ﹁55

(3)

究していたことがわかる︒一方︑帆足万里は蘭学にも興味を持ち︑西洋科学の知識を探求しながら︑天文・地理・算

術・物理・博物などの新しい学問を数十年研究つづけ︑数十万言に及ぶ﹃窮理通﹄およびその要約である﹃窮理小言﹄

を著している︒

 要するに︑岡松書論の序文によれば︑帆足万里の学問は﹁中西合壁﹂といえるものであったと考えられる︒      ② 帆足万里の生涯に関しては︑その子孫である帆足図南次が著した﹃帆足万里﹄に詳しく述べられている︒この本の

末尾に︑﹁略年譜﹂が載せられているが︑以下これによりながらその概略を摘録しておこう︒

安永七年︵一七七八︶

寛政三年︵一七九一︶

寛政十年︵一七九八︶

享和元年︵一八〇一︶

文化元年︵一八〇四︶

文化五年︵一八○八︶

文化七年︵一八一〇︶

文化八年︵一八=︶

文化十一年︵一八一四︶

文化十四年︵一八一七︶

文政二年︵一八一九︶

天保三年︵一八三二︶

天保六年︵一八三五︶

天保七年︵一八三六︶

天保十二年バ一八四一︑︶ 正月十五日︑.豊後日出に生る︒十四歳︒豊後豊岡小浦の脇愚山に師事︑これより従遊すること七︑八年︒・二十一歳︒父通文に従い東遊︒中井竹山を訪う︒京都にて皆川棋園の門に出入す︒二十四歳︒日田に広瀬淡窓を訪う︒筑前に赴き亀井南冥に会う︒二十七歳︒藩学教授に登用さる︒三十一歳ゐ ﹃疑業余稿﹄を補筆︒脇出山︑駿を寄す︒三十三歳︒ ﹃修辞通﹄︑ ﹃窮理通﹄初稿に湿糠山序す︒三十四歳︒二月︑父没す︒三十七歳︒十月︑脇愚山没す︒四十歳︒門弟勝田季鳳に口述し﹃窮理小言﹄を筆録せしむ︒四十二歳︒亀井昭陽︑ ﹃蒙史﹄稿本の校を求め来る︒五十五歳︒藩主木下俊敦の懇請により家老となる︒.五十八歳︒家老を辞す︒ ﹃窮理通﹄の稿を新たに起す︒ ﹃三教大意﹄を書く︒藩政改革意見を上書す︒五十九歳︒新稿﹃窮理通﹄に自序す︒広瀬淡窓の﹃豊富手空紗﹄に序す︒

六十四歳︒ ﹃井楼四竃﹄︑ ﹃巌屋完節志﹄の漢訳成り︑序文を付す︒ 一56一

(4)

天保十三年︵一.八四二︶

弘化元年︵一八四四︶

嘉永三年︵一八五〇︶

嘉永四年︵一八五一︶

嘉永五年︵一八五二︶

 万里が脇繊手に師事したことと︑

の名称などが上述の﹁略年譜﹂

 ・先生韓萬里︑字鵬卿︑

 以筆墨︒天正中︑.兵部少輔鎮永︑

文︑累遷為大夫︒姿菅沼氏︑

為大夫︒五歳請老致仕︒

 強識卓絶人︑ 一所聞見︑

 得︑・発六経之薔︑正百家之謬︑

 之原干六経而名月教之所管︑

為文章︑意至筆随︑曲当縄墨︑

 元鳳曇日︑知我者独尊帆足子無爵︒

繹語捜索考求数年︑亦通其義︑  六十五歳︒豊後南端村手縄に西崎精舎竣成︑日出より学徒と共に移る︒塾則を作る︒ 六十七歳︒ ﹃入学新論﹄上梓︒ ﹃井楼纂聞﹄︑ ﹃巌屋完了志﹄刊︒ ﹃東寺夫論﹄を草す︒ 七十三歳︒ ﹃医学啓蒙﹄刊︒ 七十四歳︒西崎にで発病す︒岡松今谷︑西崎に留まり︑ ﹃帆足先生文集﹄三巻を回し刊 行ず︒ 七十五歳︒ ﹃四書五経標註﹄卸す︒四月︑病気再発︑六月十四日没す︒城北の康徳山上 に葬られ︑文簡院号羅宇毅忠貞居士と誰される︒    亀井南冥・昭陽文子との交流︑広瀬同窓との親交があったこと︑およびその著述      によって判るが︑ ﹁伝記﹂としては︑次に引く門下米良東嬌の墓碑銘がある︒姓帆足氏︒其先出工﹂少納言清原正高︑正高流子豊後︑生壁子工J矢野氏︑其居帆足郷者︑因    事豊候大友蒔田︑屡有軍功︒豊国除官学佐伯︑其子兼永︑来洋日出︒当世聴講通  生三子︑一先生其第二子也︒⁝⁝︵中略︶先生︑文学登用︑為国学教授︒天保辛卯︑摺菅薦西崎以居焉︑享年七十有五︒卒之三日︑奨学康徳山︑私署日文簡先生︒先生天資穎敏︑終身不忘︒幼学蘭本選先生︒成東遍群書︑属文日数百千言︑精力不倦︑尤糸経術︑卓然自   華言奥旨︑莫不剖析︒作原教︑論聖人立教之旨︑労及寒冬異端之弁︒作原名以明学  併命日入学新論︒劉個葺耳蝉歴日︑翻心以来︑無是等也︒先生天才已高︑用力士精︑   簡練明暢︑有西漢魔風︒詩心宕耳掻︑一不離飾以御俗︒嘗為亀井元鳳︑校其事史︑     先生之奏楽︑始銀師授︑従二宮兼善︑︸革質疑義︑悉得其秘奥︑知和蘭書︑就

   因六曜理之学︑作窮理通十鯨万言︒⁝⁝︵後略︶ 一57

この墓碑銘によって馬万里の人物象を概観することができ︑とりわけ︑万里の学問の趣旨と断固たる藩政改革への姿

勢とを窺うことができる︒例えば︑万里の代表作であり︑後に高い評価をえた﹃窮理通﹄に対して︑米良東嬌は上文

(5)

      よの中で﹁和蘭書を読み︑訳語にうきて︑捜索考寄すること数年︑またその義に通ず︒因りて窮理の学を治めか﹃窮理       たず   かね通﹄十年万言を作る︒⁝⁝︵中略︶それ学は舞倫を原ね︑兼て物理を明らかにし︑﹁智を開き務を成して以て厚生利用

に資するものなり︒黒山先生に基いて︑先生に大成す﹂といっている︒つまり︑万里は三浦梅園の学問をひきうけて︑

異質な東西の学問め統一調和︑すなわち自己の漢学の知識体系に近世自然科学の精神と方法を取りいれ︑融合させよ

うとしたものであり︑その企図は︑ ﹃窮理通﹄に貫かれているのである︒具体的に言いかえるならば︑万里の﹃窮理

通﹄の自序に﹁当今の務は宜しく小物を明かにして︑これを用に登すべし︒これ窮理の学の興る所以なり﹂といって

いるように︑その東西統一は西欧科学の現実的な実用性のみの偏重となって表われ︑ ﹁厚生利用の道を立て︑孝悌舞

倫の教えを設け﹂ ︵自序︶るというように︑結果的に余りにも道徳的な目的を窮理学に求めることになるのである︒

そして文政・天保期に至って︑封建制に危機が切迫し︑日本の政治体制の転換期が近づくにつれて︑いわゆる﹁厚生

利用﹂が船艦の建造︑大砲の鋳造等の卑迫な軍事科学技術へと結び付いて来るのも︑その意味では︑必然の成りゆき       すであった︒要するに︑万里の採った立場は﹁長を取りて其の短を舎つ﹂といった当時の知識人共通の学問に対する折

衷的な態度でつたのである︒       な      わか      おこな   いま  か なお︑上文の中に﹁先生の人と為り魁梧なり︒少くして清操を励まし︑廉倹自ら将い︑未だ嘗って人より乞貸せず︒       すく      い庫禄も聖母譲りて受けず︑余りあれば急を買う︒人と語るより︑疎亮して以て暑くするまで︑一に忠款に出ずれば︑

人皆疎聴す︒起って政に従うに及んでは︑人の処し難き所も︑能くこれを処し︑人の解く能わざる所も︑能くこれを       はぐく断じ︑姦賊を摘発し︑宿弊を麓正す︒期年ならずして︑用度饒給し︑庶事弁治す︒蓋しまたその徳の人を孚むなり︒      しばしば既に老いて致仕するも︑事に遭っては輯建白する所あり︑忠諜の心は︑没するに至るまで替わらず︒﹂とあるのは︑

万里の人格及び彼の藩政に対する建言について述べた一節である︒これに関連したものとして万里の家老在職中に職

務として記した天保三および五年の﹃日暦麗があるが︑その内容はe綱紀の粛正︑口古聖の節減︑日風俗の改善︑四

賞罰の励行︑等の問題にわたっており︑彼の改革の性格をはっきりと物語っている︒そして天保六年︵一八三五︶二

月︑家老を辞することになる︒藩主に上書した﹁改革論﹂の中で彼は政治の理想を高く掲げており︑立派な国家たらしめんとした彼の懸命な努力を察することができるし︑そこには彼が求めたあるべき姿が描かれているのである︒ 一58一

(6)

嘉永五年︵一八五二︶四月︑万里は政治舞台から自ら退いた後の西崎における子弟教育と著述専念の日々のヰにそ      この生涯を終える︒広瀬淡窓は彼の計音に接して︑ ﹁予斯の人と相識ること五十二年︑雁魚往来す︒遠思黒餅集︒析言     とも      けいけい      の上本︑皆与に謀る︒今や海量の大老を失う︒予も亦依頼する所を失い︑筆々として立つ︒鳴呼︑哀しい哉﹂と哀悼       の意を記しており︑米良東嬌は藩命により︑上述の墓碑銘を撰している︒・

 ﹃荘子解﹄は全一巻で︑ ﹃帆足万里全集﹄下巻の﹃四書五経標註﹄の中に収載されている︒上述の帆足図南次が著

した﹃帆足万里﹄の﹁略年譜﹂には︑

  嘉永五年︵一八五二︶︑七十五歳︑ ﹃四書五経標註﹄生す︒

とあったが︑帆足万里が﹃荘子解﹄を含む四書・五経の注をいつ完成したかということについては詳しく書かれてい

ない︒また︑ ﹃帆足万里﹄に収載されている著述は︑万里が著作した年次の順序に因ったものではないし︑万里に関

連した資料︑例えば米良東嬌の墓碑銘や岡松塗壁の﹁帆足万里先生文集序﹂や﹁帆足万里先生門下小伝﹂などを探し

ても︑ ﹃荘子解﹄著作年代については述べられていない︒そこで︑ ﹃荘子解﹄の内容を説明する前に︑まずこの問題

について考察を加えておきたい︒これについては︑ ﹃荘子解﹄の中に見えている﹁蘭学﹂︑ ﹁和名﹂︑ ﹁儒家思想への

批判﹂︑ ﹁天人思想﹂︑ ﹁﹃老子﹄と﹃荘子﹄との関係﹂などに関する記述が参考となろう︒そこで順次︑右のテ:マ

と︐﹃荘子解﹄とのかかわりを以下にみていくこととしよう︒

 まず︑ ﹁蘭学﹂について︑帆足万里は﹃荘子﹄遣出遊篇の﹁鵬﹂に対して︑次のように注釈している︒

  鵬とは古の鳳の字であり︑鳳は近世︑和蘭学に通例るもの以て印度鶏と為す︒

﹁蘭学﹂とは︑オランダ語によって摂取された西洋の科学であるが︑万里がこの西洋科学に関心をもったのは文化七      年︵一八一〇︶のことであり︑三十三歳のこの年に︑二︑三の訳書を通して︑﹃窮理通﹄の初稿を作っている︒しか

し︑・彼は初稿に誤謬が多いことを強く反省して︑全部を破棄する︒そして︑オランダ語の科学書を自ら訳し︑さらに ︸59

(7)

       ⑧厳密な訂正を加えて︑天保七年︵一八三六︶︑五十九歳の時に︑新たに﹃窮理通﹄を完成するのである︒ところが万

里が﹃荘子解﹄の中で﹁蘭学﹂のことを引用して﹃荘子﹄の言葉を注釈しているのは︑ただ上述の一箇所だけにすぎ

ない︒また注の﹁近世︑和蘭学に通じるもの以て印度鶏と為す﹂という文章も︑書き方からみて︑万里自身の見解で

はなく︑ただ訳書の説を引用したにすぎない感が強い︒つまり︑ ﹁蘭学﹂の考え方を引きはするものの︑引き方が単

純であるし︑しかもその例も一つにとどまっているのであるか︑少なくとも彼が﹃荘子解﹄を著したのは︑ ﹁蘭学﹂

を始めてはいたが︑まださほど精通していなかった時期ではないかと考えられる︒そして︑ ﹇蘭学﹂の引き方から考

えると︑ ﹃荘子解﹄の作成の年代は︑ ﹃窮理通﹄の初稿が成立した文化七年︵一八一〇︶︑万里の三十歳頃のことと

考えられる︒

 第二に︑ ﹃荘子解﹄には︑ ﹃荘子﹄に見える草木鳥獣の名を和文に訳している箇所がある︒例えば︑ ﹁椿︑和名差

鎮﹂︵迫高曇篇︶︑ ﹁鴉︑和名葛刺斯﹂︵斉物論篇︶︑ ﹁蟷螂︑和名葛馬喜里﹂︵人間世篇︶︑ ﹁狸︑和名太奴喜﹂︵応帝

王篇︶など︑二十ヶ所ぐらいの例がある︒つまり︑万里は﹃荘子解﹄を撰述した当時︑漢籍の国字解を主張していた

と考えられるのである︒そこで︑万里の著作を調べてみると︑漢籍の国字解に対して︑二つの全く違った主張を彼自

身が提出していたことが知られる︒その一つは︑文化七年︵一八一〇年︶︑三十歳の時に刊行した﹃修辞通﹄にある

論説である︒

  伊藤氏復文︑漢音皆代用国字︒本邦所伝漢音︑混誰難弁︑則老師宿儒尚難戦︑豊可国初盗品︒

またもう一つは︑文政六年︵一八二三︶︑四十六歳の時に書かれた﹁軽卒良子礼序﹂という文章である︒

  得異邦之書︑筍可以稗化利民者︑必訳以其語︑写以其文︑盲人通暁︑以塞源学也︒

両文を比べてみると︑ ﹃修辞通﹄の方では︑ ﹁日本に伝わった漢音は︑こちゃまぜになって︑わかりにくい﹂と述べ︑

万里は漢籍の国字解に対して消極的な立場をとっている︒しかし︑ ﹁送吉良子礼序﹂では︑ ﹁物事によく通じ明らか

になるためには︑必ず和訳を用いる﹂と述べており︑万里は漢籍の国字解に対して賛成の立場をとっている︒そして

万里が平易な注釈形式で﹃荘子﹄を理解させようとした傾向が強いことを考え合わせるならば︑万里が﹃荘子解﹄を

作る時には︑すでに漢籍の国字解に対して積極的に賛成の立場をとっていたものと考えられる︒よって︑国字解の観 一60一

(8)

点から見れば﹃荘子解﹄の作成の年代は︑恐らくは﹃修辞通﹄成立の頃ではなく︑ ﹁送吉良子沖融﹂が作成された文

政六年︵一八二三︶︑四十六歳前後のことであろうと考えられる︒

 第三に︑ ﹃荘子解﹄には次のような注釈がある︒

  賢者之言只未必可信︒ ・︵斉物論篇の注︶

  不事経世者︑亦有至聖︑非常情所能度也︒ ︵迫遙遊篇の注︶

つまり︑儒家の思想を拒否する発言である︒しかし︑実際の万里の在り方をみると︑彼は修学における経義の重要性

を強調しており︑また政治生活の方面においてば︑藩政改革の大任を負っていた︒このことを考える時︑なぜ万里が

﹃荘子﹄を注釈する時に儒家の思想を批判したのか︑という疑問が生じる︒たしかに﹃荘子﹄の思想に基づいて︑そ

れをそのまま説明したとも考えられようが︑ ﹁賢者の言は未だ必ずしも信ずべからず﹂という発言は︑恐らく彼の境

遇と全く無関係であったとはいえないであろう︒先に引用した帆足図南次氏の﹁略年譜﹂をみると︑

 文政十年︵一八二七︶ 五十歳︑武頭格︐に昇進す︒

 天保二年︵一八三一︶ 五十四歳︑加判となる︒

 天保三年︵一八三二︶ 五十五歳︑家老となる︒︐

 天保六年︵一八三五︶ 五十八歳︑改革論を上書するも未だ用い見られず︑家老を辞す︒

とあった︒すなわち文政十年には武鎌継︑天保二年には加判に列して︑藩政の枢機に幾分か参与することとなり︑さ

らに天保三年には︑藩主の懇請により家老となり︑藩政改革の大任を負って政治の舞台に登場することになるのであ

る︒しかし万里は天保六年二月︑病を理由に家老を辞職することになる︒ここに一つ疑問が存する︒なぜ万里は三年

の輝かしい政治活動の後に急に終焉の営みを望んだのであろうか︒帆足図南次氏はこのことについて︑次のようにの

べ・ている︒

  根本は彼の峻厳果断に過ぎた改革を片っ端から壊わしていった砂状にあきたらなかったからであり︑辞退の動機

の一半は忠誠剛直な彼と藩の機会主義者たちとの間に籍した感情の対立である︒︵﹃帆足万里﹄︶

いいかえれば︑彼が藩内に頼みとすべき者を失い︑孤立していったということであろう︒その結果︑万里もついに隠 ﹁61

(9)

忍しきれずに︑退職したものと思われるのである︒とすれば︑・彼の﹁賢者の言は未だ必ずしも信ずべからず﹂という

発言は失脚の遺恨の念を表わしたものとも考えられよう︒そしてこのような注釈の存在を考えるならば︑ ﹃荘子解﹄

の作成の年代を家老を辞した時期であると考えることも可能であろう︒

 第四に︑万里は﹁天人思想﹂を主として﹃荘子﹄の内容を説明している箇所がある︒例えば︑

  荘子以為道一而己︒ ︵斉物論篇の解題︶

  大宗師謂道之原︑人所宜師也︒ ︵大宗師篇の解題︶

  人能安造化排定而従与遊︑乃可以与造化一︒一︑造化家道︒ ︵大宗師篇の注︶

といった類である︒つまり︑天道に従えば︑人間の精神は迫嫁することができると言うのである︒さて︑万里は天保

十四年︵一八四三︶︑六十六歳の時に︑ ﹃入学新論﹄を書くが︑その中心思想も﹁天人思想﹂であった︒

  天何以為重生生也︑河漢之外︑果有何物︑有始有終︑不可得知︑是皆所不能測︑以至人物之死生︑草木之栄枯︑

 皆錐生生之所使然︑吾不能知其何故︒其所不能知︑則其所神話︒且天地万物不待営農有︑我苦辛遊離以接天地万物︑

 故所謂神識︑錐砂乎小︑与天地万物並立者也︒ ︵原教︶

とするならば︑.﹃荘子解﹄と﹃入学新論﹄とは殆ど同じ時期にできたものとも考えられよう︒

 ところが第五に︑万里は﹃老子﹄と﹃荘子﹄との関係について︑ ﹃入学新論﹄の﹁原教﹂の中で

  老子は戦国の好事者が荘周の書を剰窃して作るなり︒

と論評しているのみである︒つまり︑万里は戦国の人が﹃荘子﹄を盗んで﹃老子﹄を作ったとしているの習ある︒し

かし︑ ﹃荘子解﹄の注に︑

  この篇︑老子の意を徳き︑雑うるに俳僧を以て︑亦た放言の流なり︒︵肱簾篇の注︶

  これ老子の言を引いて以て前章の意を足す︒ ︵天道篇の注︶

  この章浅近なり︒且つ老子豊に夫子を以て先聖と称さんや︒宝生も未だ必ずしも再主することかくの如からざら

ん︒蓋し漢儒の假託なり︒︵胴︶

と述べている︒これは︑即功の人が﹃老子﹄の思想を述べひろめて︑荘子の名字を借りて︑ ﹃荘子﹄の文章を作った ﹁62

(10)

という見方である︒この二つの議論は全く異なる立場から発想されたものである︒換言すれば︑ ﹃荘子解﹄と﹃入学

新論﹄とは万里の同じ時期の作ではないことになる︒では︑この二書が完成した年代の前後関係はどうなるのであろ

うか︒これを解明する手掛りとして︑万里が﹃入学新論﹄の中で﹃老子﹄と﹃荘子﹄の内容を比べて論議している次

の様な文章がある︒

 ①何遍貴大患黒身︒吾所以有大患者︑為吾煙草︒及吾笹身︑吾有何患︒故塁以身為天下︑則可寄天下︒愛煙身為

  天下︑三三託天下︒︵﹃老子﹄第十三章︶

   君子不心土而臨 泣天下︑莫若無為︑無為也而後安其性命華厳︑冤罪以身於為天下︑則可以為天下︒ ︵﹃荘子有宥篇﹄︶

 ②翠雲獄之︑必固心耳︒国費弱之︑必固心耳︒国費巌之︑必固心耳︒将欲奪之︑必固与之︒国費微萌︒柔弱勝剛

  強︒ ︵三日︶魚不可脱於瀕︑国之利器︑不可薄雪人︒ ︵﹃老子﹄第三十三章︶

   逐於大盗︑掲諸候︑窃仁義︑井深斜権衡符璽之利者︑錐有事重量賞︑醐汁勧︑斧鍼諾威︑不能禁︒此重利三三

  而使不可禁者︑・是乃聖人之過也︒故塁魚不可脱於瀾︑国之利器︑不可以示人︒.︵﹃荘子引当篇﹄︶

 ③学徳不徳︑是以有徳︒下鎌首失徳︑是以無徳︒⁝−︵中略︶故海道而後徳︑失繰上後仁︑失仁而後出︑下湯.而

  後窄︒只=裾鉾第︶

   道不可致︑徳不可至︑仁可為也︑義可塑也︑日傘偽也︒.故日失軍糧後徳︑買徳以後仁︑失仁而後義︑失義而後

  礼︒︑︵﹃荘子﹄知北遊篇︶

ここに引用した例文の形は︑ ﹃老子﹄も﹃荘子﹄も全て﹁故﹂あるいは﹁曇日﹂をうけて上下の文をつないでいる︒

つまり︑一つの議論を述べ︑ ﹁故﹂あるいは﹁寧日﹂をつけて︑既にあった言葉を説明する形である︒このことは︑

万里が﹃老子﹄︑と・﹃荘子﹄との関係を縦ではなく︑横でとらえていたことを思わせる︒つまり︑ ﹃老子﹄と﹃荘子﹄

とは先後の関係ではなく︑本来あった一つの説に基づいて作られたものであり︑両者は似かよった見解を述べている

のだ︑というように万里はとらえていたわけである︒ ﹃入学新論﹄の﹁原教﹂にある﹁老子は戦国の好事者が荘周の

書を剰窃して作るなり﹂という語と﹃荘子解﹄の天道篇にある﹁蓋し漢儒の假託なり﹂という語の両方の言葉の使い

方の違いと︑圃﹃荘子解﹄の﹃荘子﹄の内篇と外篇の前半しか注釈しなかったという情況とを考え合わせるならば︑恐 一63

(11)

らく万里は﹃老子﹄と﹃荘子﹄とを横の関係として理解し︑しかも﹃荘子﹄の外篇の後半以後は殆ど舌代の人の偽作

だったと考えていたものと思われる︒従って万里は﹃入学新論﹄にあった論説を見直して︑後に﹃荘子解﹄にある議

論を示したものと考えられよう︒よって︑ ﹃荘子解﹄は﹃入学新論﹄より︑やや後に作られたものということになる︒

 なお︑﹃帆足万里全集﹄の冒頭にある﹃帆足万里小伝﹄の所説も﹃荘子解﹄が晩年に作られたことを証明する根拠

の一つとなろう︒小伝には︑  稻西崎後︑門人之数増加︑設素読生︑四書生︑五経生︑三等︒

とあるが︑つまり︑帆足万里は西崎において︑分科教育の形で門下に教えていると考えられるであろう︒そうすると︑

一般講義︑いわゆる経伝の訓読と特定テーマの講義を行ったことも可能であるう︒とするならば︑ ﹃入学新論﹄にあ

る﹁原教﹂︑ ﹁原学﹂︑ ﹁原名﹂のは特定テーマの講義の内容を編輯したものであり︑.﹃四書五経標註﹄は経伝子離の

訓読を編輯したものと考えられよう︒そして︑特定テーマの講義の方は容易に編集できるであろうが︑経伝注釈の方

は編輯に時間がかかるであろうから︑ ﹃入学新論﹄は﹃荘子解﹄よりやや早く完成されたと見るべきであろう︒では︑

﹃荘子解﹄はいつ面作成されたのであろうか︒それは恐らく万里が﹃入学新論﹄を刊行した天保十四年︵一八四三︶︑

六十六歳以降のことであり︑また日出に帰り療病する以前のことであろう︒

 以上の五点についてまとめて今一度検討を加えよう︒まず﹃荘子解﹄が﹁蘭学﹂を引用しながら﹃荘子﹄の注釈を

行っている点から考えるならば︑ ﹃荘子解﹄は帆足万里が三十三歳の頃に作ったことになろう︒しかし︑ ﹁蘭学﹂に

よって﹃荘子﹄を注釈しているのはただ一ヶ所のみであり︑しかも余りにも簡略過ぎるから︑ ﹁蘭学﹂を引用して

﹃荘子﹄を注釈しているということだけで﹃荘子解﹄が三十三歳の頃に作成されたものとは必ずしもいえないであろ

う︒更に︑ ﹃荘子解﹄に見える漢籍の国字解の主張について考えるならば︑これは万里が三十三歳に作った﹃修辞通﹄

の主張とは全く異ったものである︒従って﹃荘子解﹄が万里三十三歳の頃の作でないことは明らかであろう︒そして

漢籍の国字解の主張にのみ留意してみるならば︑万里が文政六年︵一八二三︶︑四十六歳に書いた﹁送吉良女礼序﹂

も漢籍の国字解を強く主張しているから︑ ﹃荘子解﹄と﹁孫子良子礼序﹂とは同じ時期に作られたものとも考えられ

る︒しかし︑より注目すべきは︑ ﹃荘子解﹄の中に儒家思想に対する批判が存するという事実であろう︒そしてもし ㎜64

(12)

これによって考えるならばハ ﹃荘子解﹄は万里が家老を辞退した後︑づまり彼が五十八歳以後の作ということになる

のである︒では︑五十八歳以後の何時頃の時期に﹃荘子解﹄はできあがったのであろうか︒ここでヒントとなるのが

万里の﹃荘子﹄思想に対する理解︑つまり天人思想の存在である︒天人思想の主張は彼が六十六歳の時に作った﹃入

学新論﹄にも見えるから︑ ﹃荘子解﹄は﹃入学新論﹄と同じ時期に作成したものと考えてさしつかえなかろう︒しか

し﹃老子﹄と﹃荘子﹄との関係については︑ ﹃入学新論﹄の﹁原教﹂に﹁﹃老子﹄は戦国の好事者が荘周の書を剰目

して作るなり﹂とのべてあったのに対し︑ ﹃荘子解﹄の肱筐篇にはより詳しい論述があるし︑天道篇に至っては︑

﹁蓋し漢儒の仮託なり﹂と全く異った意見が述べられているのである︒これは恐らく万里が﹃入学新論﹄にある老荘

関係の論説を見直して︑後に﹃荘子解﹄にある議論を提出したことを示すものであろう︒なお︑ ﹃帆足万里全集﹄冒

頭の﹁帆足万里小伝﹂に見える子弟教育方法によって考えるならば︑ ﹃入学新論﹄は特定テーマの講義のテキストと

して作られたものであり︑ ﹃荘子解﹄を含む﹃四書五経標註﹄は経伝国史の訓読を編輯したものとしたものというこ

とになろう︒ただ経伝の注釈に要する時間は特定テーマの講義のテキストの作成より時間がかかると思われるから︑

﹃荘子解﹄は﹃入学新論﹄よりやや後に完成されたと考えるのが妥当であろう︒よって︑帆足万里が﹃荘子解﹄を完

成したのは︑ ﹃入学新論﹄を刊行して以降︑日出に帰り療病する以前の間ということになる︒つまり﹃荘子解﹄は万

里晩年の作なのである︒ ﹇65

 帆足万里の﹃荘子解﹄の内容については︑先に述べたように︑ ﹁蘭学﹂のことを引用しながら︑ ﹃荘子﹄に注釈し

ていた︒なお︑ ﹃荘子﹄にあった鳥獣草木を﹁和名﹂で注釈した︒つまり︑国字解のような形で﹃荘子﹄を解釈した      ⑨のである︒﹁蘭学﹂も﹁和訳漢籍﹂も当時の学界においてよく研究され︑又よく議論されたものである︒また︑万里

も当時の学界の流行にのり︑新しい学問に対する強い関心を持っていたことがわかる︒

 ﹃荘子解﹄は︑ただ﹃荘子﹄の内篇と外篇の駐栂篇から秋水篇までの十七篇しか解釈されなかったのであるが︑恐

(13)

らくは︑万里は﹃荘子﹄の至楽篇以下諸篇を﹁漢代の人の偽作﹂として削ったであろう︒ ﹃荘子解﹄の注釈の形は次

のようになっている︒

 ①内篇理論其所以官道︑義最深奥︒焦運筆乗︑迫遙操作早舞︒蓋行歩適体之謂︒遊︑玩世自適也︒是重言万物大

  小之無極︑以明経世自任者︑未事大︑而無用自廃者︑亦不為無用︒以息争競善心︑自任其楽也︒

 ②実︑容受也︒中堅不能自挙︑虚脆不可挙也︒瓢︑説文叢也︒半破棄︑以為飲一重︒⁝⁝︵中略︶蓬︑小草︒蓬

  心︑卑随之心也︒蓬︑和名諺太揺喜︒以下二章︑言無用未必無用也︒

①は迫遙遊篇の解題である︒つまり︑各篇の冒頭にこの篇の趣旨を平明な文章で明らかにしたのである︒②は薮原遊

の末尾の荘子と恵子との説話の注である︒それをみると︑ ﹃荘子﹄の原文を引用せずに︑ただ注釈すべきところを取

り上げて注をつけたわけである︒また︑ ﹁瓢︑説文墾田﹂や︑ ﹁蓬︑和名欝太揺喜︵よもぎ︶﹂などは﹁実︑容受也︒

其堅不能自挙︑虚脆不可魚網﹂などの一般的な字句の訓解とは異なった訓解の特質も見られる︒前者の﹁説文﹂云云

のように広く経典を引用して注釈する点にこそ︑万里の考拠の本領が発揮されている︒このことは﹃荘子解﹄によっ

て知ることができる︒後者の﹁和名﹂云云とは和訳漢籍ということであるが︑これも﹃荘子解﹄の特色として注目す

べきだろうと思われる︒

 さて︑万里は﹃荘子﹄の思想をどのように理解したのであろうか︒これは﹃荘子解﹄の内篇の﹁解題﹂を詳しく考

察することによってわかると思う︒まず冒頭の逡遙遊篇の解題は次のようになっている︒

  万物大小之無極︑以明経世自任者︑未申大︒而無用自廃者︑亦不為無用︒以息在営之心︒白楽其楽也︒

つまり︑万里は世間のあらゆる事物は大と小との区別があるが︑それぞれの大きさと小ささのきまりはあいまいであ

ると考えた︒そうすると︑用と無用とのきまりもない︑従って︑世の中に役立つ人は必ずしも偉いとはいえない︑逆

に役立たない人も必ずしも恥しいと卑屈になるわけでもない︒従って是と非︑用と無用という一般的な価値観を意識

しないで︑自由自在に生きていくことができるならば︑心裏の境地に到達することができることを明らかにしたので

ある︒又︑斉物論篇の解題には︑

  周季異端之学蜂起︑更相是非︒荘子以為重一息己︒重宝五二︑皆高垣也︑手作此篇︑虫笛斉物論也︒ 一66一

(14)

と述べている︒戦国時代は人材輩出の時代であるが︑諸家は互に自分の主張の正しさを強調しながら︑他家の主張を

誤りとして批判したのである︒荘子はそれを拒否して︑道はただ一つだけで︑互にその真実を奪い合うことは無理で

あると考えて斉物論を作ったのである︒これによって万里は︑荘子がなぜ斉物論を作ったのかを説明した︒又

  此論養生之所主也︒已息争︑可以養身︑故次韻養生主︒ ︵養生主篇の解題︶

  既養生︑故次以処世之方也︒ ︵人間世篇の解題︶

  三徳已充︑其応回外者︑足回動物也︒ ︵徳充符篇の解題︶

と述べている︒この三篇の解題をみると︑万里は隔 ﹃荘子﹄の内篇の編成について︑斉物論篇から徳充符篇にかけて

の四篇を一つのセットと考えていたと思われる︒これは解題で述べたように︑巳に是と非︑用と無用の論争を無駄として拒否して︑かえって自分自身の内在的修養・工夫を専念した︒もし修養・工夫ができ︑つまり︑一般的な論争を

超克することができるならば︑それによって外面的な人間関係に対応する方法も実践できると考えたのである︒要す

るに︑万里はこの四篇を世間に対応する工夫・実践論であることを明らかにしたのである︒つまり︑万里は︑当時の

時弊を指摘した斉物論は議論の前提として冒頭におかれ︑養生主篇は工夫論として︑人間世盛は実践論と考えられて︑

斉物論篇の後に︑相ついでおかれ︑そして徳充符篇は工夫・実践論の結論として結びに付けられたと考えたのであろ

う︒又大宗師篇と応帝王篇の解題は次のように述べている︒

  大宗師︑謂道之原︑人所宜師也︒ ︵大宗師篇︶

  言応為帝王之道也︒ ︵応帝王篇︶

万里は大宗師とな道の本原であり︑人間はこれに従がうべきものであるとし︑また︑応帝王とは世間に対応する方法

であるとしたのであろう︒この二篇の解題と先に述べた斉物論篇グループの四篇とを並べてみると︑万里は大宗師と

応帝王とはそれぞれ工夫論である養生主︑実践論である人間世より一歩進んで論理的な構造を有するものであると考

えたのであろう︒つまり︑大宗師篇と応帝王篇とは養生下篇と人間世事との補足の形で﹃荘子﹄の内篇の末に付けて

いると思われる︒そうすると︑万里は﹃荘子﹄内篇の編成については︑次のように︑

A適遙遊−冒頭・総論

67

(15)

  斉物論i前提 嵩

  養生主−工夫論  人間世一実践論  徳充符−結び

  大宗師−工夫論の補足︒﹁  応帝王一実践論の補足

三つに分けられると考えていたことがわかる︒

 さて︑先にも述べたように︑万里は﹁解題﹂を書いて︑ ﹃荘子﹄の思想への自己の理解を示した︒そこで︑次に︑

﹁解題﹂にあらわした工夫・実践論という思想構造によって︑万里の﹃荘子﹄理解を究明したいと思う︒

 まず︑万里がなぜ荘子は工夫・実践論を提出したと論述したかである︒

  栄辱之境︑由接物而生者也︒ ︵遣遙遊篇の﹁弁乎栄辱之境﹂の注︶

  聖賢︑憂世之人也︒各有是非︑則軍機括之発︒⁝⁝︵中略︶皆言与物為様油状也︒ ︵儲物瀧備胸咲室町︶

  夢覚皆与物接︑以為構門也︒ ︵同上の﹁其殊也魂交︑其覚也形開﹂の注︶

﹁接物﹂や﹁偉物為構﹂などは︑人がまわりの人とかかわっているということである︒しかし一般の人は専ら自分の

考えを正しいものとし︑なおかつ︑ひたすら功利や有用を追求するために︑人間関係は甚だしくわるくなっているの

である︒つまり︑万里は︑荘子の世間の諸現象の分析をまとめて︑人間関係の悪化は︑人間が偏に是非︑得失という

価値観の是と得とに執着しているからと考えていたのであろう︒そしてこの悪状況を解決できるのは工夫・実践論な

のである︒そこで︑万里は次のようにいう︒

 喪禍︑乃下文喪我之義︑物我之心共釈也︒ ︵斉物論篇の﹁卜者吾喪我﹂の注︶

﹁物我の心は共に釈す﹂とは︑二重のことを意味した︒それは我執︵自分の見方だけが正しいこと︶と︑他人と自我

とを差別しないことである︒ここで︑前者は工夫論であり︑後者は実践論であるといえるのではないだろうか︒まず︑

工夫論については︑万里は﹁自然の條理﹂によって︑世間のあらゆる事物に﹁無心﹂で︑いわゆる﹁思慮計度﹂をつ 一68

(16)

      ⑩かわずに︑ ﹁自然に楽しいところがある﹂という境地に達することができると考えたわけであろう︒

 次に︑実践論については︑万里は﹁処世の方﹂や﹁外に応ずるもの﹂ということを意味するとしたのである︒つま

り︑人間が現実社会においてどう生きていくべきであるかということを探求したのである︒このことによって人間一

篇が殆ど君臣や人間関係を論述する説話を集めて作られていることが説明できる︒さて︑一体﹃荘子解﹄に見られる      もし万里の実践論とはいかなるものであろうか︒これについて︑万里は﹁人の世に処するや︑筍その道を得れば︑自ら楽      ⑪地あり﹂と﹁智巧の為は︑皆自然の道に弁ず︑敗れるなしは能わず﹂とを示している︒つまり︑実践論とは︑ ﹁自然

の道﹂によって︑人間関係を対応する方法である︒では︑ ﹁自然の道﹂に対して︑万里はどう理解したのであろうか︒

それは万里のいう﹁天道自然は偽りを容さず﹂によりわかると思われる︒ここで︑ ﹁偽﹂とは人の作為であり︑つま       り︑万里のいう﹁私意計度﹂や﹁思慮計度﹂ということである︒そうすると︑万里の﹃荘子﹄に見られる実践論とは︑

天道自然によって︑人間が﹁私意計度﹂をなさずに︑世の中においてうまく生きていけるということである︒

 さて︑一体万里が理解した工夫論と実践論とはどの様に関係付げられるのであろうか︒これについては︑上文にも

引用した人間世羅と徳主峯篇の解題を一見すればわかるものと思われる︒要するに︑それはまず工夫論に基づいて︑

その上で実践論が成立したのである︒これは工夫論である養生主導の後についている人間世事が殆ど君臣や人間関係

を論ずる説話を集めていることからも証明できることである︒そして︑天道篇は荘子によって書かれたものでないが︑

万里の      ⑬  居則有聖人之徳︑動則有王者之功也︒

という注釈によってみると︑ ﹁居﹂とは内在的な工夫であり︑ ﹁動﹂とは外面的な実践であると考えられる︒そうす

ると︑ ﹁内聖﹂の徳とは工夫論であり︑ ﹁外王﹂の功とは実践論であるといえるのである︒従って︑内が先︑外が後

という関係が成立しうるならば︑万里の工夫論と実践論の関係を先後の関係であるということがわかる︒ 一69

 帆足万里の﹃荘子解﹄はただ一巻のみであるが︑ ﹃荘子﹄内篇の編成について鋭い見解を見出すことができる︒そ

れは迫遙遊篇を総論︑斉物論篇から徳充符篇にかけての四篇を工夫・実践論︑大宗亭亭︑応帝王篇を工夫・実践論の

(17)

補足と三部分に分け︐て考えたこと︑そして工夫論ど実践論によって このことは改めて評価されて然るべきだと思われる︒ ﹃荘子﹄の内容を理解しようと試みたことである︒

︽注︺①﹃帆足先生文集﹄は三巻で︑嘉永四年︵一八五一︶に岡松甕谷が編輯した︒

②帆足図南次の﹃帆足万里﹄は平成二年一月︑吉川弘文館新装発行︒

③米良東嬌の﹁帆足文簡先生墓碑銘﹂は﹃帆足万里全集﹄の冒頭にある︒

④﹃日暦﹄は﹃帆足万里書簡集﹄︵昭和+三年刊︶に収められている︒

⑤ ・﹃再修録﹄巻九所収︒ ︵原漢文︶

⑥帆足万里のことについては︑上述の帆足図南次の﹃帆足万里﹄参照︒

⑦﹃窮理通﹄自序には﹁︵文化七年︶西籍を得てこれを読む︒寒郷は善師なしに苦しむ︑唯訳語に就いて捜索す﹂と述べてい

 る︒       か         ただ⑧挙上には﹁去歳︵天保六年︶発揮︑疾を以て致仕す︒乃ち西男数部を取りて量定す︒繁を菱って謬を糾す︑以て己説を附く︒

 傍ち名けて窮理通と日う﹂と述べている︒

⑨衆知の通りで︑江戸時代の一時期に﹁蘭学﹂を顕学になったのは事実である︒﹁和訳漢籍﹂については︑町田三郎﹁﹃漢籍

 國字解全書﹄についで﹂︵﹃東洋の思想上宗教﹄第九号︑平成四年︶に詳しい︒

⑩﹁自然の條理﹂は養生主篇の﹁依乎天理﹂の注である︒﹁自有楽地﹂は養生主篇の本文である︒

⑪前者は養生主篇の注であり︑後者は人間世篇の注である︒

⑫人間世篇の注である︒

⑬天道篇の注である︒ 一70

参照

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