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鉱業家·帆足義方

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

鉱業家·帆足義方

祖父江, 陽一

嘉飯山郷土研究会 : 会員 | 直方郷土研究会 : 会員

https://doi.org/10.15017/1650893

出版情報:エネルギー史研究 : 石炭を中心として. 31, pp.43-74, 2016-03-28. 九州大学附属図書館付 設記録資料館産業経済資料部門

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はじめに 帆足義方(写真1)は明治の初め筑豊に現われ炭坑を起した人物で、一時期、貝島太助、麻生太吉、安川敬一郎ら地元の著名な炭坑主と並ぶ筑豊最大の炭坑家であった。明治十年代のおわりに炭坑の機械化、選定鉱区と呼ばれる大鉱区制の導入、中央資本の進出など「筑豊の近代化」が始まり、その結果、筑豊の石炭の産出量は明治三十一(一八九八)年度には日本全体の五四%に達し 、日本の近代化の財源、産業のエネルギー源として大きく貢献した。炭坑の近代化は国策を推し進める大きな力であったことはよく知られている。この時代、炭鉱業の成功の成否は、運もさることながら人物の能力、資金力、有力な人脈の有無が大きい。これまでの研究において、帆足義方についは知られることは少ない。帆足義方が筑豊で活躍したのはまさにこの近代化の入り口の時期であるが、機械化による大規模鉱区の開発を目的とする選定鉱区の導入にう まく対応できず、二十年代後半に筑豊から姿を消した。帆足義方は地場の炭坑主ではなく、中央の財閥資本でもないが、①なぜ短期間のうちに筑豊を代表する炭坑家に発展することが出来たのか、②資金の調達はどうしたか、③一方で経営の失敗で筑豊から退出するのも早かった、その原因は何か。④また、帆足義方は軍籍にあり、実弟斯波義兼の名義で香月炭坑の開発を始めたといわれ 、このことは彼の炭鉱経営といかなる関係をもっていたのか。本稿は以上の問題を究明することによって、帆足義方の炭坑経営の実態を探ってみることにしたい。

一、戊辰戦争から西南戦争へ

帆足義方は天保十年(一八三九)年士族小林新助の長男として江戸神田鍛冶町で生まれた(付録1)。当時としてはめずらしく、ものごとを科学的な視点からとらえ、西洋の科学技術にも関心をもち、一方で当時江戸の三大道場とよばれた桃井道場で武芸に励み、これが縁で上野寛永寺

【論説】鉱業家 帆足義方

祖 父 江   陽   一

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の仁和寺宮の寵遇をえた 。戊辰戦争では、奥州征討総督として官軍の指揮を執った仁和寺宮に従って、奥州の戦に出陣した。明治新政府になると兵部省に出仕し、後陸軍省に転じ近衛師団長の仁和寺宮殿下に仕えた。後述するように、義方の炭坑経営のなかで軍および殿下の影響力を感じさせる場面があり、繋がりの強さを窺わせる。仁和寺宮は仁和寺宮嘉彰親王となり、後小松宮彰仁親王となり、明治維新にあっては議定、軍事総裁に任じられ後近衛師団長、元帥陸軍大将に任じられた。一方、義方は小倉の鎮西鎮台に転じた。維新政府に対する士族の不満から各地に士族の反乱がおこり、薩摩決起の不穏な情勢となった。義方は監督官(主計)であったが明治八(一八七五)年、熊本鎭台に転任し熊本の神風連の乱に遭遇 、十年の西南の役も熊本鎭台で籠城のうちに終った。その後、公用で筑前地方を通過中、石炭鉱脈を発見したとのことである(付録1)。義方が最初に炭坑を開いたのは福岡県遠賀郡香月村で、古くはケンペルの『江戸参府旅行日記』に出てくる旧長崎街道筋の鞍手郡木屋瀬村 、隣接する遠賀郡香月村(現在はともに北九州市八幡西区)の馬場山あたりと思われる。第二回目の参府旅行、元禄五(一六九二)年の日記はには以下のような記録がある。「…木屋瀬は大きな村あるいは町といってもよい。ここの人びとはたいへんよごれてみえたが、恐らく石炭を燃やすことが、その原因かもしれなかった。…木屋瀬で軽く昼食をとった。茶屋原は村である。石坂も村で…」また黒崎の手前の小さな村では農民が珍しいものだといって一行を炭坑に案内した。ケンペル日記から石炭は既に農民の生活用の燃料として 使われていたことがわかる。帆足義方は予て日本の工業発展には礦業が重要と考え、機会があればこれに関わりたいと考えていたので鉱脈の発見に衝撃をうけ、任地に戻ると直ちに陸軍省に辞職願を出した。長官及び同僚は義方を将来軍人として大成する人物と高く評価しており、辞職を思いとどまるように強く説得されたが、帆足は「余は国家の為、地下より数十万円(当時の大金)に値する至宝を採掘して之を国家に報いん。余が今執る職務は何人にも為し得る」と言って志の如く辞職した。(付録1)。

二、筑豊の炭坑経営に乗り出す

明治十二(一八七九)年、義方は遠賀郡馬場山村で炭坑業の一歩を踏み出し試掘をはじめた。次いで、当時の筑豊炭田の状況を簡単に触れておこう。江戸時代、石炭の採掘には藩の許可が必要であったが、新政府は明治二年殖産興国の国策のもと、「鉱山開放令」と呼ばれる太政官布告を発布し、地元村民の承諾があればだれでも自由に採掘ができるようになった。これによって村の有力者、資産家を中心に炭坑を始めるものが続出した。明治初期の炭坑は狸堀りとよばれ、鶴 つるはし一本で石炭を掘り、坑内の湧き水は坑道に数箇所の水溜めを儲け、桶で汲み出す「段汲み法」と呼ばれる方法で、人力に頼る排水であった。坑夫の半分は水の汲み出しにまわす必要があるため効率が悪く、しかも、行き詰まる度に新たな坑口を掘り、乱掘が多発であった。明治八(一八七五)年十二月、官営長崎製鉄所(現在の三菱重工業

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(株)長崎造船所)の職工から身を興した片山逸太が田川郡糸田村(現福岡県田川郡糸田町)の炭坑にポンプと蒸気汽缶を持ち込んで機械採炭の実験をした 。大きな蒸気力を必要とする鉱山用の蒸気機関は、まだ国内になかったため、逸太は力の弱い船舶用の蒸気機関とポンプを使った。その結果蒸気圧が上がらず、ポンプが作動しないため、排水は成功しなかったが、蒸気力を捲揚機の動力に使うことには成功した。貝島、麻生など有力な坑主は蒸気汽罐を据え付け炭坑の機械化の有用さに気づきはじめた時期である。帆足義方は採炭の知識、経験があるわけでなく高価な代価を払って書物をとりよせ、東京から連れてきた実弟斯波義兼(付録2)と一緒に研究し苦労をかさねて香月坑(後の大辻炭坑)を開坑した。研究心旺盛の帆足義方だがどこで英語を勉強したか分からない。弟義兼が立教学校(後の立教大学)で学んでいたため、その影響を受けたかもしれない。ちなみに、その頃義方の住居は遠賀郡香月村大字馬場山三七八番地(現在の八幡西区香月出張所の側)であった

三、貝島太助との出会い

義方は炭坑の実務について全く経験がないので、炭坑を始めるにあたって経験豊富で信頼の置ける人物を探していた。炭坑を起すため、調査で鞍手郡直方町古町の旅館若竹屋に投宿したとき、主人日高喜八郎に炭坑のことに精通している人はいないかと相談した。喜八郎は貝島太助のことを話し、早速喜八郎が貝島太助宅を訪れた。このとき貝島太助は経営 する鞍手郡直方村の切貫炭坑の大失敗で多額の負債を抱え、妻子の衣類まで質入れ、売却で餬口をしのぐ状態で、明朝には兄弟親類みな仕事をもとめて離散することになっていた。翌朝、太助は義方に会ったが雇われの賃金では再起できないので義方のもとめを断った。義方は太助の人物を知り是非とも協力して欲しいと頼み、利益の一割を太助の取り分とする処遇で太助の協力をえた。太助は香月の炭坑で頭領として働いていたことがあり村民の信用もあって義方のために香月、馬場山村の借区と試掘に必要な村民の承諾を得て開坑に着手した 。貝島太助は八歳の時から父親に連れられ坑内で働き炭坑のことを身体でおぼえた。腕はしっかりしており、頭領も経験し炭坑を起こしたこともある。義方は炭坑を始めるにあたり良き協力者をえたといえよう。しかしながら、香月村史によれば、当時香月村は海軍が将来、軍艦の燃料を確保するため、海軍予備炭田に指定し一般の開発が凍結されており、指定が解除されないと借区は許可されない。注目すべきは香月村と無縁の義方が突然東京からきて海軍予備炭田の指定解除を申請しても認められるとは思えない。『貝島太助伝』は、太助は金三〇〇円と清酒二樽を持って戸長を訪ね、借区出願について村民の同意をえて工部省の認可を得たと記しているが 、前述のとおり貝島は経済的に厳しい状況にあり、当時の貝島太助はまだ炭坑の納屋頭クラスであった。一方、指定の解除は政府の権限で大きな力を必要とし、たとえ、太助が申請しても認められないであろう。むしろ、帆足義方が軍の力を利用して政治的に大きな力がはたらいたと考えたほうが自然であろう。また、司法大臣や枢密院議長を歴任した原嘉道が、懐旧談で鉱山業政

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の実務について興味深いことを語っている (1

。明治二十六年に東京大学法学部を卒業し農商務省に入省したとき、鉱山局長和田維 つなろうから聞いた話として「日本坑法の時代は鉱業の許否処分に付いても法定の標準がなく、当局者の裁量に任せてあったので随分情実に流れた不適正なことが行われたようである」と言っていたとのことである ((

。このようなことから陸軍(近衛師団)からの口添えがあれば影響力はあったと思われる。当時、コネをつかうことに大きな抵抗はなかったようで、義方が香月村の海軍予備炭田の指定解除と借区を得ることができたのは、信奉していた仁和寺宮や所属していた陸軍(近衛師団)幹部に働きかけたと考えられる。資料1~資料3は帆足義方が近衛師団に属していたことをしめす陸軍の辞令書(等)である。

四、帆足義方が関わった炭坑

義方が関わった炭坑について借区の所在、面積、取得時期、取得経過、経営の実態等について詳細にみていく。(表1、表2、地図1、地図2)(一)香月斯 炭坑借区(坑区)の取得。明治十三(一八八〇)年~十六年にかけて遠賀郡香月村八反田、養生寺村等で一万百坪の借区を取得。香月炭坑は帆足義方の経営に貝島太助が参画するという形をとり、弟斯波義兼の名をとって香月斯波炭坑と称した。明治十七年には湧水量の増加などの理由で操業を一時中止した。 十八年には貝島が独立し経営を離れたこともあって、炭坑を東京の兩 潤社に譲渡した (1

。兩潤社は当時の世相を反映した団体で、自由民権運動のなかで、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制とするか争われ、前者を支持する伊藤博文・井上馨らによって議院内閣制を主張する大隈重信(参議・大蔵卿)一派が政府内から追放された。いわゆる明治十四年の政変とよばれ (1

、追放された大隈らがその後政治資金を集めるために結成された団体が両潤社である。朝吹英二が幹事役をつとめた。朝吹英二は大隈重信の側近であったが、のち三井の中上川彦次郎の招きで三井に入り、三井の四天王と言われた人物である。両潤社のメンバーは当時の政財界、言論界の錚々たる人物で構成された。当時借区の取得、炭坑の経営、資金調達等で人脈と活動の場を持つことは重要なことであった。両潤社は借区していた田川炭坑を平岡浩太郎 (1

、安川敬一郎 (1

に五万円で売り資金を得ており、筑豊との関わりが深い (1

。中央では筑豊の炭坑は利権の対象として注目され、義方も資金調達や情報を得るため東京や大阪に活動の足場を広げていた。一方、貝島太助は明治十八年鞍手郡宮田村上大隈(現宮若市上大隈)に大之浦炭坑を開坑し、一族が炭坑の発展に力をあわせ、明治二十九年には帆足が手放した香月炭坑を兩純社から買収し第二大辻香月炭坑と称し遠賀地域進出の拠点とした。明治二十七年福岡県が行った筑豊主要炭坑調査を出炭量で見ると、一位は麻生の鯰田坑で年産八七一六九トン、二位は香月大辻炭抗で七四九三〇トンであった。筑豊の炭坑は石炭の運搬に遠賀川の水運を利用するため、若松に近い下流域から開発が始まった。なかでも香月炭はカロリーが高く上海等の輸出に貢献した。

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(二)直方斯波炭坑(切 きり ぬき炭坑)明治七(一八七四)年十月二十七日直方町御 たてやまに一九一六坪の借区を取得した。明治十年七月三日同町切貫に一三二五坪の借区を取得した。御館山の地名は福岡藩の支藩、東 とうれん藩の藩主館が在ったことに因んだもので、藩主館は直方町山部の高台にあり多賀神社に隣接した場所にあった。高台の東側斜面を下ったところが切貫である。切貫炭坑は現在の直方市新町字切貫にあった古い炭坑である。小倉の鎮台時代からの盟友山口県長府出身の長 ちょうあみ網好勝を主任として直方斯波炭坑と称した (1

。坑口が遠賀川の側にあったので何度も水による事故が起きていた。義方も明治一九(一八八六)年四月に片盤一三間四方崩れ落ち直方川(遠賀川)堤防一六間と家屋一軒埋没の事故を起し復旧が遅れ、村方から小倉治安裁判所に修復履行の訴訟を起された。後述するように選定坑区の申請に対し村方の反対が強く不許可の要因の一つになったと思われる。これについて選定鉱区の項で詳述する。長 ちょうあみ網好勝は事故後、一時期義方のもとを離れ、鞍手郡勝野村赤地に借区を取得し、後の赤地炭坑を開抗した (1

。貝島、麻生など有力な坑主は蒸気汽罐を据え付け炭坑の機械化の有用さに気づきはじめた時期である。工学士岡田岩蔵が『筑豊石炭礦業組合月報第一号』(明治三十七年七月十五日)に新 しんにゅう入第五坑の沿革を次のように書いている。下記資料から帆足義方が切貫炭坑を起し、事故の後許斐鷹介の本洞直方炭坑となり三菱五坑へと移った経緯が分かる。

   「今(明治三十七年…引用者)を去ること二十余年前帆足義方氏直方 町切貫に於て竪坑を開鑿して炭層を採掘し専ら事業の進行を計りしに明治二十年三月露頭に接近せしため河水の浸入を被り遂に廃業を余儀なくせられ明治二十三年九月許斐鷹介氏直方町字御館山に横坑を穿ち之を本洞直方炭坑と称し爾来探礦に従事せしに二十九年十二月に至り三菱合資会社之れを譲受けて新入炭坑に隷属せしめ… (1

(三)新 しんにゅう入炭坑(後三菱新入一坑)明治一六(一八八六)年五月、鞍手郡新入村来ル見に借区一四四九六坪を取得した。新入炭坑は明治十一(一八七八)年に三井鉱山の雇われ技師、英国人ポッターが福岡県令の依頼で筑豊炭田を視察し新入地区の炭脈が有望であると報告している。義方は炭鉱業の第一歩を新入地区に予定していたが海軍予備炭田に指定され封鎖されたので、前述の香月炭坑を開坑した。その後政府は方針を変更し、新入を開放し長州の藤田組(藤田伝三郎)に対する一括許可の計画がもちあがった。地元の炭坑家はこの計画に強く反対し、許斐鷹介、帆足義方らは反対運動にたちあがった。このとき、許斐鷹介は現地視察にきた芳川工部少輔を宿に尋ね、会談中に取っ組み合いになり、鷹介が投げ飛ばされた武勇伝はよく知られている。帆足は許斐と連携して反対運動を起こし、その結果、藤田組への売却は頓挫し帆足が新入鉱区を許斐は下境鉱区を手に入れた。筑豊の地方史研究者永末十四雄は二人の運動について、下記資料『筑豊万華

炭坑の社会史』の中で 11

こういっている。

   「…筑豊炭田開拓期の挿話として流布されたが、終始許斐の独り角力であったにすぎない。彼の上京中の運動費を賄った地元の有志も殆ど離反してしまった。これに対し帆足義方も潜行的に運動を続けたが、

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その経過は明らかにしていない。少なくとも(許斐の新聞を使った長州閥と藤田組の陰謀糾弾など

成したがその際蒸気力と機械を活用した 1( るなど近代技術の導入に努め、明治十八(一八八五)年に新入竪坑を完 『三菱鉱業社史』によれば義方はイギリスから鉱山機械の原書を取寄せ ない。 現在の直方市新入松芳で今は工業団地になっており当時を知る手掛りは 金は香月炭坑の売却を考えていたのではないかと考える。炭坑の所在は に譲渡するが、新入炭坑の取得時期と近接しており、新入炭坑の買収資 については後段の潤野炭坑で触れる。十七年に香月炭坑を東京の兩潤社 界の広岡信五郎(写真2)、吉田千足(写真4)と思われる。広岡、吉田 新入炭坑の買収資金の調達はこの頃、資金面で関係が始まった大阪財 けがあったと感じていたのではないかと思われる。 情の相手方が見えない。永末も義方の陸軍(近衛師団)に対する働きか 軍に働きかけたのではないかと述べたが、新入炭坑の取得についても陳 を言っている。前に香月炭坑の海軍予備炭田指定解除について義方は陸 義方の陸軍(近衛師団)に対する陳情は表に出すことが憚られること 当な陳情・折衝を続けたはずである」 用者)終始独り相撲の許斐よりは真っ - 引

。また火薬も使用したが、これは筑豊においては最初であったといわれる。竪坑建設や機械化の設備資金、および一体経営の新入二坑の買収資金の主要額は十七年に兩潤社に売却した香月炭抗の代金をあてたものと思われる。因みに後三菱の時代になると三菱新入一、二、五坑および植木斯波炭坑(四坑)、増借区した三坑(植木)と鞍手町の六、七坑を合わせて三菱新入炭坑とし、筑豊における三菱の基幹炭坑とした。 (四)新入炭坑(後の三菱新入二坑)明治十八(一八八五)年九月二十三日、鞍手郡直方町浦山、側筒谷外二字に二一八一五坪の借区を取得した。明治二十四年直方町山部字側筒谷に開坑する。直方駅の南西、市内中心から御館橋を渡って左折すると随専寺がある。寺の一帯が側筒谷である。表1明治十九年の『第三次農商統計』によると斯波炭坑(新入一、二坑)は筑豊主要二十七坑にあがっており、坑夫二六八人、雇人七人、蒸気機関六台を据えた筑豊屈指の炭坑であった。なお主力の植木斯波炭坑はまだ開坑していない。(五)植木斯波炭坑(後三菱四坑)明治十二(一八七九)年四月二十四日、鞍手郡植木村杉山・杉木・石山谷に四壱〇九弐坪の借区を取得した。福岡県立筑豊高校跡地(現直方市植木杉山外)にあり、杉山炭坑と同一坑区にあり坑口も二百メートルほどの近い位置にあった。植木斯波炭坑は帆足義方の実弟斯波義兼を坑主とし、明治二十一年三月に芝はぐり(開坑)をし、二十二年十一月二十六日に着炭した。その間の工事経過は後述の『植木斯波炭坑日誌』に詳しい。義方が所有する炭坑の主たる事務所として義方のスケジュール管理をはじめ、人事管理、会計、各炭鉱からの機械修理、部品要求の対応など会社業務全般が記され、後述の佐 炭坑、肥後天草の炭坑のことも記述されている(付録7)。山ノ神(写真5)「柵 しがら稲荷明神」  現直方市植木緑ヶ丘  明治二十二年五月二十二日建立。「柵稲荷社勧請ノ式ヲ行、祠掌田部瑞穂ヲ相招ノ祭式ヲ執行ス」(付録7)。

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(六)杉山炭坑明治十九年開坑し、所在は植木斯波炭坑に同じであり、植木斯波炭坑と一体経営である。明治二十二年十月十一日「一  杉山採炭本日マデ二テ廃ス 11

」とされており、稼働期間はおよそ三年間である。明治一九年の炭坑の規模は。資本金二五〇〇円、雇人十七人、職工二十五人、蒸気汽罐二台、二十五馬力であった 11

。所在は旧福岡県立筑豊高校跡地として残っており、地元の人の話では高校の校舎建設工事中に坑道の一部が出てきたとのことである。(七)佐 炭坑明治十二年十二月二十五日、嘉麻郡佐與村奥の谷外三字に弐四五九弐坪の借区を取得した。馬場山炭坑、植木斯波炭坑、と同時期に借区を取得している(表1)。炭坑の経営は東京から連れてきた帆足の腹心の部下服部鉦太郎に任せられた。服部鉦太郎は炭坑の実務は全く経験がないが、経営面で帆足義方を助けた。明治十九年に農商務省がおこなった「炭坑と蒸気機関の調査」(表2)の主要二十七坑にあがっており、有力炭坑であったことが分かる。因みに明治十九年の筑豊の炭坑数は七〇〇坑であった 11

。佐與炭坑は嘉麻郡鯰田村の麻生の主力鯰田炭坑と接していた。筑豊御三家とよばれる麻生太吉も明治一九(一八八六)年の炭況不況に困窮し、また選定礦区の導入で礦区を取得する資金もなく苦境に陥った。このとき麻生は筑豊進出を狙っていた三菱にドル箱の鯰 なまず炭坑を売却し十万五千円の大金を手にした 11

。得た金で上 かみ、綱分、笠松の礦区を手に入れ、以前から温存していた忠隈の開発に着手した。これが麻生大成の基になったことはよく知られている。三菱の筑豊進出であり中央資本の進出の端 著である。三菱は明治二十三年に鯰田選定鉱区を麻生から取得した。その後、帆足義方が起こした隣接の佐與炭坑を買い取り、三菱鯰田二坑とした。佐與炭坑は三菱鯰田一坑事務所があった前の坂道を上った峠の上にあって、今も三〇戸近い炭坑住宅が当時の佇まいを感じさせる。帆足義方は所有する炭坑の資金調達に苦しみ、また佐與炭坑の鉱区面積では鯰田鉱区の選定鉱区を取得することは困難と判断し、所有する佐與炭坑(名義は服部鉦太郎)を岩崎弥之助に無償で譲渡するかわり、岩崎が所有する植木選定坑区の中で添付図面(図面が添付されてないので場所を確認出来ない

である 11 の写し)。末尾署名の岩崎弥之助代理人長谷川芳之助は三菱本社副支配人 採炭すること認める交換契約(付録4)を結んだ(「為取換證」は契約書 用者)に示す範囲でここに植木斯波炭坑が開坑、 - 引

。政府の留学生となってコロンビア大学で鉱山学を修め帰国後三菱に入社、官営製鉄所建設調査委員として奔走したことは知られている。あとの三人は炭坑主で帆足義方、許斐鷹介 11

、平岡浩太郎は緊密な関係にあった。(八)潤 うる 炭坑明治十九年二月四日、穂波潤野村清水田外十一字に九八三三五坪の借区を取得した。借区台帳登録の経過は後述する。以下潤野炭坑に関し炭坑(鉱区)名義人として広岡信五郎(写真2)と(広岡)浅子(写真3)が出てくるが当時の明治民法下では妻は法律行為を行う権限がないため、妻浅子が信五郎の代理人として契約等の法律行為をおこなった。したがって信五郎とあるのは実際には浅子が行ったものである。

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潤野炭坑は後に日鉄二瀬鉱業所と変り、官営製鉄所にコークスの原料炭を供給した炭坑である。『筑豊炭抗誌』によると「明治十六.十七(一八八三.四)年頃帆足義方が採掘を始め、十八年に日本石炭会社の名義となり、十九年中にさらに広岡の手に帰せりとある 11

」。帆足義方は資金の都合等で借区権者から名義を借りて採炭をはじめたと思われる。資金は廣岡信五郎からの借用であろう。その後、選定鉱区の話がでて選定坑区の申請をするにはその設定される鉱区内に相当面積の借区を持ち、十分な開発資金を有していることが重要であった。帆足義方は一九年二月四日、名義借りで採掘していた穂波郡潤野村清水田外十一字に九八三三五坪の借区を取得し、正式に借区権者として借区台帳に登録された。一八年、十九年には帆足義方、大阪の両替商広岡信五郎、吉田千足(付録6)の三人は筑豊炭の海外輸出を図るが状況は好転せず、帆足義方は三人の間の貸借関係を清算し潤野炭坑を広岡信五郎に譲渡した。広岡は帆足義方から譲渡を受けた潤野炭坑等の借区権をもとに選定鉱区を申請し、明治二十一年の選定鉱区第一次決定で広岡信五郎が鉱区を取得した 11

。なお二十二年末に発表された筑豊の三十四選定鉱区は(資料4・5)のとおりである。帆足義方は十五年八月頃、大阪の経済人で石炭の販売に関心をもっていた吉田千足と天草炭坑の無煙炭について一緒に現地調査をするなど、吉田が潤野炭坑にかかわる前からの関係である 11

。広岡からの資金調達は吉田の仲介によるものと思われる。潤野炭坑があった鎮西村史によれば、広岡の妻浅子は潤野炭坑(現福岡県嘉穂郡飯塚市)の経営を図るため炭坑に乗り込み、坑夫と起居をと もにし、坑内にも下がり荒くれ男を監督したとある 1(

。義方の潤野炭坑買収資金の金主は広岡信五郎であろう。浅子は周囲の反対を押し切って始めた貸付でもあり、潤野炭坑の返済が滞り経営が行き詰ると、自分で直接炭坑を経営し資金の回収を図ることをことにした。潤野炭坑を貸付残高で精算し、炭坑を取得すると浅子自ら炭坑に乗り込み炭坑の立て直しを図った。このことは広岡信五郎の能力的に問題があったわけではない。旧来の思考、行動が通用しない、誰もが經驗したことのない時代に知識、行動力を備えた妻浅子がいた。浅子の能力は信五郎が一番知っていた。日本の経済、商業の中心であった大阪が激変し、同業の多くの両替商が倒産していくさまをみて、信五郎は自分より浅子を自由に活動させ自分は内から支えることにした。一方、従来どおり大店の旦那でできるものは信五郎が行った。大店の主が面子にこだわらず妻浅子の能力を認め自由に行動させた懐の深さは凡庸な人物ではない 11

。また、浅子が炭坑経営に乗り出したことについて、永末十四雄は『筑豊石炭の地域史』で、広岡信五郎が貸付金回収のために始めた事業であったが、彼が没して未亡人となった浅子が後を継いだ 11

」。『鎮西村誌』も古老のことばとして、「後家さんが炭坑を始めた」と記している 11

。広岡が潤野炭坑を官営製鐵所に譲渡したのは明治三十二年、妻浅子が潤野炭坑に来たのは当然それ以前のことである。夫広岡信五郎が亡くなったのは明治三十七(一九〇四)年で、炭坑を譲渡したあとのことである。指摘したいのは信五郎の死亡の前後を取り違えたことではない。加島屋の主広岡信五郎が健在のなかで、女性の浅子が男でも恐れる炭坑の世界に飛び込んだことである。広岡浅子は筑豊の人々を驚せた、当時の日本でも傑

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出した女性である。「新しい時代の女性」として何か世の中が変わりつつあるのを感じさせた人物であったと思う。潤野炭坑に隣接した高雄炭坑の経営者で、ともに官営製鐵所に炭坑を譲渡した安川敬一郎は浅子のことを『松本健次郎懐旧談』の中で「稀に見る女丈夫であると激賞し品格のある偉い女性であった」と言っている 11

。浅子は石炭不況による窮地を乗り切るため、石炭の海外輸出を計画し三井物産と石炭の委託契約を結んだ。次の約定書は浅子自身の判断で契約し署名したものである。当時はまだ産業らしきものが発達しておらず、炭坑は投機性の高い事業とみられていた。加島屋としては炭坑事業に出資することに反対したが、浅子は炭坑事業の本質を単なる金儲けが目的でなく、新しい国造りに欠かせない事業であることを理解して、帆足に対する出資を決めた。このことは、後に、潤野炭坑の経営が行き詰ったとき、浅子自身が潤野炭坑に乗り込み事業の難局を打開することになった。浅子は潤野炭坑を官営製鐵所に原料炭を供給する後の二瀬炭坑に発展させるなど炭坑経営でも実績をあげたが、炭坑主任長 ちょうあみ網好勝の存在があったことを上げておく。長網好勝は帆足義方と同様幕末の奥州征討に参戦した近衛兵で足義方と知り合い、帆足義方が炭坑を起こすと長網は海運会社の経営をやめ帆足義方の下で潤野炭坑主を担当した。帆足義方が潤野炭坑を離れたあとも炭坑主任として広岡浅子をたすけた。明治三十年製鐵所が遠賀郡八幡村に創立され、三十二年に製鐵所の原料炭を採掘するため同年、潤野炭坑は安川の相田・高雄炭坑とともに製鐵所に買収された。安川が手にした相田・高雄炭坑の用地売却代金百三十万の大半は炭坑経営の担当者中野徳次郎、伊藤伝六(伊藤傳衛門の父) に分配したとあるがこれによって安川が一段の飛躍を遂げたことは間違いない 11

。安川の金額には広岡の潤野炭坑にくらべ過大であり、製鐵所誘致の最大の功労者に対する慰労金が含まれているとおもわれる 11

。広岡についても幸運であった。炭坑を製鐵所に売却し、手にした一九五〇〇〇円は、麻生が明治二十二年に鯰田坑を三菱に売却した一〇五〇〇〇円、同年三菱の代理人近藤廉平が三井の三野村利助から買い取った新入炭坑の二三五〇〇〇円に比べても小さな金額ではない 11

。帆足義方が潤野を手放して十年も経っていない。人材、資金不足の状態で経営を拡大してきた帆足義方は大きなチャンスを逃した。

五、石炭の自己販売について

(一)廣炭商店広岡信五郎(浅子、以下同じ)と石炭の販売に関心を持った大阪財界の吉田千足、帆足義方の三人は、明治十七年、潤野炭を中心に義方の炭坑が産出する石炭の販売を目的とした廣炭商店を設立した。総長広岡信五郎、副総長吉田千足、取締役帆足義方で本店を若松に置いた。「斯波炭販売広告」(資料2)は明治十七年十二月九日「朝日新聞」(東京版)に掲載された斯波炭坑の販売広告である。これから分かることは香月炭坑(遠賀郡香月村)、直方炭坑(鞍手郡直方町)は帆足義方の所有であったが、実弟斯波義兼の名義とし第一香月斯波炭坑、第二直方斯波炭坑と称した。因 ちなみに直方炭坑の前身は貝島太助が失敗した切貫炭坑(現直方市新町)である。

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(二)日本石炭輸出会社明治十年代はまだ産業が発達していないため、石炭の使途は製塩用、鉄道、艦船の燃料などに限られた。また、筑豊炭の産出量の増加、天候、災害による船運の支障などで炭価の変動が大きく炭坑の経営は大きな影響をうけた。販売を促進するため、吉田千足は明治十八年八月、門司に海外輸出を目的にした日本石炭輸出会社を設立し、上海輸出を図ったが不成功に終わった。広炭商店総長広岡信五郎代浅、と副長吉田千足は石炭が国内だけでは売り捌きが難しいため十八年十二月に三井物産会社との間に石炭の海外販売にかる「十二ヵ条カラナル約定」を結んで販売を依託した。

       海外二於イテ石炭販売ニ関スル約定書第一条   廣炭商店会社ハ豊前筑前石炭ヲ同地方坑業者ヨリ販売ノ依託ヲ受ケ香港上海其海外諸港へ他清国沿海ノ諸港へ輸出スルニ付イテ一切三井物産会社ヘ売捌方ヲ依託スベシ第二条 (省略

- 引用者)

第三条  上海香港其他二於テ販売スベキ価格ヲ豫メ廣炭商店へ通報シ置キ可成的高価二販売スルベク勉べし     (省略

- 引用者)

第拾条  海外ニ於テ石炭販売ノ手数料トシテ廣炭商店ハ三井物産会社へ売揚げ代金惣額ノ弐分五厘ヲ支拂フべシ若シ廣炭毎周船価毎に怠ナク市場の景観等詳細ニ報告スベシ     (省略

- 引用者)

第十四条 (省略

- 引用者)

明治十八年十二月  日  廣炭商店総長    広岡信五郎  代    浅

  副長       吉田千足  三井物産会社  社長       益田  孝広岡浅子が交渉し約定書に調印したが当時は女性(妻)に法律行為を行う権限が認められてなかったので信五郎の代理として署名している。この後、海外販売も行き詰まり、帆足義方は潤野炭坑を広岡に譲渡することになる。「潤野炭坑の売却」の項で詳述する。三井物産の方針は以下のとおりである。

   「…内地における石炭営業は、其の種類を問わず悉皆之れか取扱いを為せしも、唯々海外に在りては其取扱いを三池石炭に止め、決して他炭に力を用ひさりし、尚将来に於いても飽く迄此方針を採ること必要と思惟す。

   内地の石炭商業を類別すれは、東京、大阪にありては専ら製造所に売込みを務め、神戸、横浜、長崎は外国汽船に売込を為し、下関支店は若松に出張所を置き、各支店の注文に応じ豊筑石炭の買次を為せり……従来炭坑主より石炭の委託販売を依頼されしも、常に之を謝絶したり、其理由とする所は、之等炭坑主は余り信用を措くべきものなし、…(省略)……今回貝島太助氏の石炭および田川金田炭坑の石炭委託販売を引受けたれども之は特別にして決して他の例となすべきに非ざるを以て…… 11

」。貝島太助、田川金田炭坑の特別扱いは、井上候が明治二十四年太助との最初の出会いで、太助を信用のおける人物と見抜き、窮地を助け後に縁戚関係を結ぶ間柄になった。益田孝は西洋の商務を学び日本にとりい

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れたが、旧来の考え方の強い抵抗を受けた。二十五年の大不況のとき、三井が貝島に対する融資の担保として、完済まで貝島會社の名義を債権者である三井に変更を求めたことで、益田と井上(馨)候は激論になった。融資額が巨額であるし、不履行になれば貸し手の危険が大きく、担保を求めることは現在では通常の取引であるが、当時の商取引は法的整備が未熟で、債務の担保とはいえ炭坑の所有名義を失うことは耐えられないことであった。貝島は益田から前の貸付が残っており、多額の追加融資は認められないと、不信を募らせ罵詈雑言まで浴びせられた。井上候も困り果てたが、益田が筋を通し債務返済まで三井の幹部木村正幹(後三井物産副社長)名義にすることで貸付を行った。太助は後の石炭価格高騰時に借金を返し資産を取り戻した。本論はこれまで井上候の支援に支えられてきた貝島太助が炭界の苦境で、存亡の危機に遭い、再び救済を求めた時の応対であるが、益田はこれまでの取引でも基本的には炭坑主を信じていないし、危険負担が大きいので物的担保をおさえた。田川金田炭坑は毛利候経営の炭坑であることから特別の計らいであった。帆足義方が筑豊を出る直前の明治二十三~五年頃の状況である。商取引も人的担保から物的担保重視の近代的商取引へ移行を図る当時の筑豊の社会、経済の一端がわかる。安川敬一郎の「安川・松本商店」などごく一部を除き、大半の炭坑は石炭商に販売を委託していたが、帆足義方は大阪資本の広岡信五郎、吉田千足と組み石炭販売会社を立上げ実質的な自販とした。安川は石炭は生産だけでなく販売による利益が大きいことを知り、次男松本健次郎に販売を担当させた。安川が大成した要因の一つである。自社販売に取り組んだ安川敬一郎は帆足義方らが取り組ん だ石炭の自販について「…この計画が四~五年後であったならば或は成功して益々其規模を大ならしむるに至り、地方炭業者は之を徳とし、其識見に敬服すべかりしを思えば、人生の運命成るものは免れ難きを痛感す」と言っている 11

。当時炭坑は出炭量を競い販売は石炭商の仕事と考えていた。炭価が石炭商によって左右されることも多く、帆足ら三人は自分の炭坑で掘った石炭を自販し、一方で海外まで販路を広げることで利益の拡大をはかった。しかしながら、少し時代に先行したため期待した成果が得られなかった。安川はその先見に敬服したが不成功に終わったことを惜しんだ。

六、「選定鉱区」の設定と帆足義方の筑豊退出

乱掘による地下資源の毀損と事故を防止し、大規模化による施設の近代化で経営の安定を図るため、明治一九(一八八六)年、政府は選定鉱区を設定し、一鉱区の規模を大きくし十分な開発資金を有するものに採掘を許可することにした。制度の導入は明治十九年に帆足義方の切貫炭坑で起きた堤防崩落事故がきっかけになったとされる。帆足義方が所有していた坑区山部村、上新入村、下新入村は明治十一年の英国人ポッターが行った調査で最も優良な坑区とされた。借区出願の前提条件である地元の同意を取りつけるため出願者と村民のあいだで買収価格や賃借料、農業用施設に対する補償費など金銭をめぐって、村のボスやブローカーが両者の間に介在する。また、借区を取得しても実際に事業を起さずに、借区を売買して利益を得ることを目的とし、力を誇示した玄洋社などの結社も現われ筑豊を跋 ばっした。三池炭鉱の払下げ

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で三井に敗れた三菱は筑豊進出における鉱区取得を円滑に進めるため潜行して動いた。(一)選定鉱区の申請選定鉱区の導入が検討され始めた明治二十年頃、帆足義方が所有していた馬場山・香月炭坑は既に十八年に両潤社に売却している。直方地区の新入炭坑(後の三菱一・二・五坑)・切貫炭坑・直方斯波炭坑は十八・九年頃三菱の三野村利助に譲渡しており、潤野炭坑については金主の広岡にたいする借入金と精算することで広岡に譲渡した。時期は義方が借区登録をした十九年二月四日から第一次選定鉱区の決定があった二十二年十二月末までの間で広岡、吉田、帆足で石炭販売の會社を起こした十九、二十年頃とおもわれる。選定鉱区の申請に必要な基準面積は示されていないが、佐與炭坑は鉱区面積が小さすぎる。後で発表された選定鉱区は最低でも二十万坪近くあり、そのあたりが目安になったと思われる。義方が鉱区取得に賭けた主力の植木斯波炭坑の借区面積は四万千坪で選定鉱区の申請には借区面積を増やすことが必要で、隣接の鞍手郡新入村および植木村の北側、中山鉱区の鞍手郡中山村むけて相当の増借区の申請をした。一方で明治十五年、義方が知古村の農業用溜池水路の側に開坑したとき、新入村村民も溜池に対する影響を心配し村民挙げての反対があり、県令に中止方の願書をだして争った『新入村誌』(五十六頁)。この事故は翌十六年に円満解決したが、明治十九(一八八六)年に起きた切貫炭坑で坑道が崩れ落ち、遠賀川の堤防と家屋一軒が埋没する事故をおこした。事故の原因は局所に重圧をかけすぎて埋没を招いたものである。切貫炭坑の事故は資金不足のため復旧工事ができず村民から裁判所に 訴えられた。採掘にともなう地盤沈下や坑内排水の影響で鉱害をおこし村民との間にトラブルがあると、選定坑区の申請に必要な地元同意を得ることは難しい。帆足義方は資金面のこともあって十分な対応ができていなかったと思われる。選定鉱区の締切りが近づいたが村民の同意が得られないので、義方は地元村民が協議に応じないので決められた同意書を添付できないとの「副願書」(付録3)を添えて申請書を提出した。一方、地元村民も義方の炭坑は村民に多くの被害を与えており、帆足義方に借区の許可をしないよう県知事に願い出た。文面は極めて厳しいものである。「…帆足義方の如きは先年来鉱業の為数ヶ所の土地を埋没し下新入村人民に於いては今は其の害を蒙る不少、殊に今回の如き偽りの理由書を以て官を欺く所為有之候ては、将来の懸念も不少尠奉存候、同人へは御許可無之様仕度両村協議の上此段伏て奉願候也」(付録3)。(二)新入鉱区の売却帆足義方は明治十八、十九年頃三野村利助に新入鉱区(鞍手郡山部村、上新入村、下新入村、知古村)の三七七九七〇余坪を売却し、三野村は明治二十二年三月二十日に三菱の代理人近藤廉 れんぺい(後の日本郵船社長)に二十三万五千円で売却した 1(

。義方が三野村から受け取った金額はわからないが凡その額は見当がつくであろう。同じころ麻生が鯰田の鉱区を三菱に売った金額の倍以上である。『植木斯波炭坑日誌』によると、帆足義方は所有する炭坑の開発資金や運転資金のため日常的に資金手当てに追われ金策に苦労する様子がみえる。二十二年一月二十九日旧年末ニ付、諸計算仕整、若松ヨリノ送金相待居候処、深更ニ至マデ

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其儀無之処ヨリ諸職工ヲ始其他何レモ大不平ニテ、事務所詰掛切迫ノ段ニ及ブトモ致シ方無之、…時刻已鶏鳴二至ル、…諸物屋其の他モ督促人モ応答タルナリ。一月三十一日本日モ送金之ナク故、只々苦情ヲ聞クノミ。旧年始ニ付年始年札旁苦心の訴をなし甚平穏ナラザル気色ノミ、本日も又慰労し置く。売却金額の大きさからみて訴えられていた切貫炭坑の修復のほかに次の事業展開を考えての売却とも考えられる。三野村は三井の幹部で後三井銀行総裁。近藤は三菱の代理人で妻は岩崎弥太郎の従妹である。三菱が早くから新入炭坑(坑区)の取得を進めていたことがわかる。三野村が三菱の近藤に譲渡したのは、三井は三池炭坑の払下げで政府にたいする年賦支払金が残っており、新入の開発まで資金の余裕がなく三菱に譲渡したといわれている。三菱新入鉱は中央資本の筑豊進出の魁 さきがけであり、大竪坑の建設など炭坑機械化や技術革新で三菱の発展のみならずに筑豊の基幹炭坑とし貢献した。(三)潤野炭坑の売却義方は選定鉱区の決定が近いことと、鉱区取得に必要な巨額の資金を準備できないことから選定鉱区一次発表の明治二十一年十二月の前に潤野炭坑を広岡信五郎に譲渡した。正確な譲渡年月日は分からないが前述のとおり鉱区権者から名義借りで採掘していたが十九年二月四日付で鉱山借区権台帳に借区権者として登録された。登録の目的は何か、この時期帆足、広岡、吉田の三人で石炭の海外販売等に取り組むが展開が開けない。帆足義方は慢性的に資金調達に苦しんでおり、選定鉱区のこともあり売却するために鉱区の所有権をはっきりさせるため登録したもので あろう。広岡は他に坑区を買い増して当該鉱区最大の借区権者になり、広岡信五郎他四人が第一次の選定鉱区権者に決定された。帆足義方から広岡への譲渡価格は不明である。二十二年末までに三十四選定鉱区の決定があり、広岡信五郎の潤野鉱区は八三七三三七坪と伊田鉱区につぐ広大な選定鉱区であった。帆足と広岡に吉田千足を加えた三人で石炭の共同販売会社を立上げるなど緊密な関係にあった。なかでも広岡は大阪の両替商加島屋の主で鴻池と並ぶ大阪を代表する商人である。これまで帆足義方の金主(出資者)は明らかでなかったが、経緯からみておそらく広岡信五郎であろう。炭坑経営は無縁の商人には難しいが、広岡は義方の事業に出資することで利益を得ていたのではないか。義方も広岡の資本を利用して事業展開を図っていた。潤野炭坑の名義を義方から広岡に変えることで、これまでの出資関係を清算した。(四)佐与炭坑の無償譲渡と植木斯波炭坑の採掘権の交換契約二十二年末に鯰田鉱区は岩崎弥之助(三菱)が選定鉱区権者となった。帆足義方は鯰田選定鉱区域になった佐与炭坑(旧嘉穂郡頴 かい町)を無償で三菱に譲り、そのかわり、三菱が選定鉱区権者になった植木選定鉱区内で義方の植木斯波炭坑の採炭を認めるという交換契約(付録4)を結んだ。帆足義方は植木斯波炭坑の抗区権者として植木選定鉱区を三菱と争ったが、前述のとおり地元の同意がないままの申請になった。明治二十二(一八八九)年末の選定鉱区の決定では三菱の代理人藤倉五郎兵衛外二名が植木選定鉱区権者に決定した。

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明治二十年代になると、既に三菱は長崎の高島で、三井は三池で炭坑経営の経験を積んでおり、人、組織の面からも活動が活発になり、財閥資本が形成されつつあった。選定鉱区の権利を取得するには巨額の資金と政府を動かす政治力も必要であり、そのうえ地元同意も得られない状態で三菱と争っても勝ち目はなかった。義方は三菱のもとで鉱業権者に一定の対価を払って採掘するいわゆる斤 きんさきほりを続け、明治二十六(一八九三)年七月植木斯波炭坑を貝島太助、柏木勘八郎に譲渡、瑞穂炭坑と改称された。後の三菱四坑である。帆足義方はこれを最後に筑豊から姿を消した。

七、馬上金山へ転進

明治二十二(一八八九)年の選定礦区制定に敗れたあと、稼働中の炭坑や借区の整理を終え、豊後立石村(現大分杵築市山香町立石)の馬上金山で開発を始めた 11

。政府は殖産興国の政策をすすめ金銀銅等地下資源の開発は重要政策であった。JR日豊線宇佐と杵築の中ほどに立石駅がある。馬上金山はJR線に沿って国道十号線を別府方面に向かうと国道左側の里山が、往時、馬上金山があったところである。鉱脈を発見し採掘事業を行う人を「山師」といい、一獲千金を目指すような要素が強く、運不運にも左右される。『立石史談』は帆足義方の試掘の様子を以下のように描いている。

  「明治二十九年炭鉱界の帆足義方なる人来たりて、馬上金山の鉱区権 を胡麻鶴マツより譲り受け、蒸気機関一台を据付けて稍々大規模に試掘しつつありしが、時偶々明治三十九年七月の大洪水に際会して大なる浸水を被り、坑内全部崩壊して、排水用の鉄管其他機械器具のすべてを埋没して如何ともすべからず遂に一時中止の已むなきに至れり 11

  炭坑と同じように金山でも水に勝てなかった。明治四十年十一月、帆足義方は隣接鉱区の所有者成清博 ひろに一四七六〇〇坪の鉱区を十七万円で売却した。成清は筑後国山門郡瀬高村(現福岡県みやま市瀬高町)の出身で代々続く村の資産家であったが、山師の気質が強く田川郡金田村(現同郡福智町)の神田炭坑、神崎炭坑等に何度も挑戦し失敗した。身代限り(破産)になったが鉱山への夢断ちがたく親戚から金を集めて再度挑戦した。成清博愛は帆足義方から譲り受けた鉱区にポンプを増設し開発工事を再開したところ間もなく金鉱脈にあたった。帆足義方と博愛に鉱業家として能力に大きな差はない。帆足義方が金脈まであと一歩のところで大洪水に遭い、博愛はその後を堀って金脈をあてた。両者を分けたのは運、不運の世界であった。義方はすぐ手の届くとこまできた金塊を手にすることが出来なかった。蛇足であるが、帆足義方が失敗し成清博愛が手にした馬上金山とはどんな鉱山か。最盛期は大正年間である、とくに大正三(一九一四)年からの七年間は国内最高の産金量を記録し大正六(一九一七)年には一・三頓を産出した 11

。得た財は莫大なものであろう。写真6は大正初期の全盛のころの馬上金山全景である。また、成清博愛は大正四年の第十二回衆議院議員選挙に大分選挙区で立憲政友会から立候補し当選したが選挙の疲労が原因で心臓病をわずらい大正五年に病

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没した。馬上金山で採掘された金鉱石は、杵築市の対岸にある佐賀関精錬所(大分市大字佐賀関)へ馬上金山の鉱石専用船で別府湾を横断し精錬所に運び精錬した。また『立石史談』によれば、町内の鉱区所有者に筑豊と関わりが深い人物の名前がある。安川敬一郎の明治鉱業(株)の名前がある。安川も金山に関心があったのか。安川の腹心の部下で後同社の重役になった嘉穂郡頴田町出身の白土善太郎の名もある。若松の侠客吉田磯吉の子分で火野葦平の小説『花と竜』に登場する岡部亭蔵の名も見える。小林徳一郎は「コトク」とよばれた小倉の土木業者、八代海の埋め立てで知られる。小林徳一郎は出雲(島根県)の出身で筑豊に出て一時任侠の世界に身を置くが、片山逸太、平岡浩太郎を知り、後に小倉で土木業をはじめた。北九州市小倉北区の新日鉄住友(株)のある所は小林が埋め立てた工事をしたが、工事元請負人の許斐鷹介が工事の完成を見ずに亡くなったので、小林が「許斐」の名を残したものである。義方は埋没した金山を復興することなく、明治四十年十四万七千六百坪の鉱区を十七万円で成清博愛に譲渡し馬上金山を去った。馬上金山と筑豊の関わりをしめす事柄がある。帆足義方が明治二十年代後半に筑豊を出て、その後豊後の馬上金山(現在の大分県杵築市)の開発を手がけるがここでも失敗する。明治四十二(一九〇九)年、義方の後を引き継いだ、成清博愛が金脈を引き当て大成功する。この時、成清博愛は「ポンプや動力源のボイラーなど直方で購入し宇佐まで鉄道便で運び、そこから先はまだ日豊本線が開通していなかったのでコロに乗せ四日かかって立石まで運んだ」と記録がある 11

。沼田鉄工所の名前もで てくる。直方はもともと片山逸太がポンプの実験等で長崎造船所から連れてきた職工中村清七らが炭坑関係の鉄工所を起したまちである。帆足の後を継いだ成清博愛が馬上金山を手がけたころ直方は東の川越、西の桑名と並んで鋳物の三大産地と称される発展を遂げた。今一つは次のような記録がある。麻生も金山に関心があったことがわかる。

  「明治三十五  六年頃肥前の人帆足義方氏の有に帰し、その後数年にて中止し、四十三年十一月十日筑後の國山門郡瀬高の人成清博愛の経営に移れり、…鉱山の豊富海内第一なるを信じて説いて出資を求め偶々筑前の麻生氏の之に応ぜんとするやその契約に調印せんとして途に折尾駅に至り列車は衝突して氏は重傷を負いしも幸いに平癒せり、されど出資契約はこれが為頓挫し馬上に帰る,隣鉱帆足氏の鉱区第一鉱区も荒廃して、静寂なる事昔日の比にあらず、…帆足氏の鉱区十七万円にて譲受け… 11

 成清博愛が全盛のころ築いた別荘「的山荘」が別府湾に面した日出町の日出城址側にあり現在も料亭として使われている。義方の追悼文(筆者所蔵)に明治三十八,九年頃岩手県川尻(現岩手県和賀郡西和賀町川尻)の金鉱山に関わっていたと思わせる記録がある。この時期は馬上金山の水没時期と重なる。川尻での具体的な鉱山名は不詳。岩手県史にも帆足義方の名前は出てこない。今後の研究の手がかりとして記す。『植木斯波炭坑日記』の末尾に、

     大分県速見郡立石村大字金山下五十九番地

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       糸永融三郎方  帆足吉郎        植木炭坑事務所とあり植木斯波炭坑を清算し筑豊を去った後、義方の活動拠点であったことがわかる。

八、天草の無煙炭採掘

帆足義方は筑豊の炭坑を経営する傍ら天草の無煙炭を採掘している。『明治工業史』(日本工学会編)によると明治十六、七年頃、義方と弟斯波義兼の名義で熊本県天草郡志岐地方(現熊本県天草市)の無煙炭採掘権を取得したとある 11

。もともと海軍は軍艦の燃料を確保するため唐津炭田に海軍予備炭田を保有していたが石炭の主力が筑豊に移ると筑豊に予備炭田保有(封鎖)の動きが出た。一方で軍艦用の火力の強い高カロリー炭の多くは輸入に頼っており国内で高カロリー炭を探していた。天草の無煙炭は山口県の美祢炭坑の無煙炭とともに高カロリーであり、これから艦船用の練炭の製造の計画がでた。提案は海軍・義方のいづれからなされたか不明だが両者の接触があった。当時のアジアは列強の脅威のもとにあり海軍の軍事力強化は急がれた。英国産無煙炭の輸入は国家経済上の不利は勿論、有事における輸送の面でも供給量の確保が困難になる。そこで帆足義方は甲州の実業家小野金六、後に筑豊で石炭の共同販売を行なう吉田千足と謀り、資本金五十万円で天草炭業株式会社を組織し天草の崎津港に練炭製造工場を設け、中ノ鼻坑(烏帽子)、産の石炭を以て明治二十九(一八九六)年、練炭壓結作業を開始した。練炭は石炭、 コークス、木炭などの粉末をピッチ、タール、石灰などで練り合わせ加圧成型したもので、穴のないものを豆炭という。炭坑の選炭場、貯炭場、石炭積み出し港の貯炭場等では粉炭が多く発生する。これを固めて家庭用や家内工業の燃料として製品化したものが練炭で、戦後は家庭用燃料としてよく利用された。海軍の練炭は穴のない豆炭である。従来の冷式壓結法では成果がでないので、生来の研究熱心から熱式壓結式の機械入し、義方自身が製作を始めたが失敗し負傷して作業を中止したとのことである。後に海軍が徳山練炭製造を開設し直接製造することになり義方らの工場は海軍に買収された。明治三十(一八九七)年帆足義兼(義方の弟名義)が天草魚貫で天草鉱業を創業。赤土と松ヤニを混ぜた赤レンガの坑口は現在もその姿をとどめている。写真7は烏帽子坑跡(通氣坑口)である。

九、帆足義方調査の経緯とその後の義方

明治初期の筑豊の炭坑史に必ずと言ってよいほど帆足義方の名前がでるが、出自がはっきりせず、明治二十年代後半に筑豊から姿を消したあとの消息も不明である。平成二十四年暮頃国会図書館に行く機会があり、手掛りを探していると、朝日新聞大正九年三月一日、東京版朝刊に「帆足義方の葬儀広告」(資料7)を見つけた。葬儀が行なわれた東京の淀橋ホーリネス教会に帆足義方の子孫について尋ねた。義方の関係者のことはわからなかったが葬儀の時の貴重な資料をみつけて頂いた。出自や天草炭坑について新しい知見を得ることができた。義方は明治二十三(千八百九十)年一月、東京築地地三一教会で老監

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督ウイリアム教師により受洗した。別ルートから義方が「社団法人博愛社」(大阪市)に関わっていたことが分かった。本稿に掲載の義方の写真は博愛社から提供を受けたものである。博愛社との関わりは義方の娘が立教女学校でお世話になった教師の林歌子が、大阪の社会福祉施で奉仕活動をしていることを知り東京出張の途中訪ねた。そのとき博愛社が東京の神田教会の建築材で大阪に社屋を建てることを知り、建築材の運搬に義方の石炭運搬船を提供した。また、博愛社は財政が厳しいときで、義方がさしだした多額の寄付が博愛社の運営をたすけ多くの孤児や恵まれない人々を救った。博愛社は明治二十三(一八九〇)年に兵庫県赤穂郡矢野村(現相生市)に小橋勝之助によって、貧しい家庭の子供たちを育む施設として設立された。児童養護施設の草分けである。林歌子は勝之助の良き協力者で生涯独身にて神に仕え博愛社の孤児に感化を与え、多くの子供を世におくりだした。帆足義方は博愛社の役員として運営をたすけ社会福祉事業に貢献した。社誌『博愛社が来た道』に「大阪での博愛社創設の恩人」と謝辞が記されている。また義方の葬儀が行なわれた東京の淀橋教会では、敬虔なキリスト教信者として信者に多くの感銘を与えた。以前弟斯波義兼方を教会で送ったときには、義兼をいたわる義方の姿が多くの人の心を打ったと、親友の牧師瀬川浅の義方を送るおくる言葉(付録1)の中に記されている。 おわりに 

帆足義方は明治初期、筑豊の近代化に貢献した人物であるが実像がはっきりしていなかった。筑豊に現れるまでのことは淀橋教会、博愛社の協力でほぼ知ることが出来た。なかでも軍務に関わったことは、研究者の一部で言われてきたが、今回、陸軍省の辞令書によって誉れ高い近衛師団兵であったことが確認できた。義方の軍歴は香月炭坑開坑時の海軍予備炭田解除、新入炭坑の予備炭田解除で大きな力を発揮したと推測する。天草の無煙炭の活用で海軍省と接触した形跡もある。資金面については香月炭坑の利益が予想以上に大きかった。幼稚な機械化であったが先行者利益、規模の利益、その上、貝島太助一族の貢献に助けられた。一方で貝島も帆足の下で短期間のうちに大之浦炭坑の起業資金を得たことも事実で、帆足義方が去った後も、香月炭坑から大辻炭坑へ発展させ、後の貝島発展の基をきづいた。帆足義方は香月炭坑を兩潤社にした売却した資金で新入炭坑を取得し事業資金に転がして展開を図ったが成果が得られなかった。帆足義方は選定鉱区を取得できずに筑豊を退出することになった。また、中山村、新入村の事例から炭坑開発についての地元同意は選定鉱区取得の重要な要件であることがわかった。三十四の選定鉱区が設定されたが、資金面からも個人で対応できる限界を超え、当時、七〇〇あった炭坑は淘汰されるか、選定鉱区内で斤先堀として採炭の権利を買って生きていくしかなく、義方は筑豊の石炭から去り金山へ転出した。中央の

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大資本進出と、筑豊の近代化を促したのが選定鉱区の設定であった。また、義方の経営の稚拙があげられる。表1にある通り多くの炭坑に手を広げすぎ、資金、人の面から実効的な管理が行き届かなかった。驚くことは複数の炭坑現場を抱え経営に苦労する中で、まだ鉄道も十分普及していない時期に熊本の天草、大分の馬上金山まで義方自ら足を運んでいることが『植木斯波炭坑日誌』の記録にある。貝島、麻生、安川らのように現場に密着し苦労する場面がみられない。近衛兵として関わった数々の軍歴と誇りが地場の炭坑家と一線を画するものがあったと思われる。義方が関わった炭坑はすべてと言っていいほど後に大きく発展し、昭和三十年代のエネルギー革命まで存続した。とくに直方は市域の大半を帆足義方が開き貝島、三菱と受け継がれた。一つでも腰を据えて経営しておれば大きな果実を手にしたと思われ惜しまれる。

付録1永眠せられたる帆足義方君の履歴(1)帆足義方君は小林新助氏の長男にして天保十年江戸に生れ其性質頗る謙遜従順にして能く両親に事へその命に服するを以て最大の楽事として弟妹に対しては慈愛懇篤にして一家団欒の好模範を示し又他人に対しては実に骨肉も及ばざる同情を表わす事多かりしが君は之を誇らず従って他人に語らず隠徳の君子なりき君は性来物理科学に興味を有して大に事物発明の才有する耳ならず能く之を応用して国家の為至難を排するも是を貢献する義侠心有り而して君は夙に武芸に熱中し撃剣を当時江戸に於て剣客中に尊重せられたる桃井氏の道場にて脩め其術徐に上達し其撃剣の 態度優美なるを以て同輩中に讃賞せられたり、之がため上野寛永寺に在しましたる仁和寺の宮殿下より縷々御召を蒙り親敷殿下の御寵宮を辱ふしたり時に世は幕府の末期となり勤皇の義士各地に勃興し王政維新の大改革と成りたれば君は佐幕黨中に関係深きに拘らず大義の存する所を明覚し断然其身を官軍に投じ奥州の野に奮戦努力し凱旋の後君は建築工事に技能を有せるを以て兵部省に出仕し陸軍省に転じ営繕課に奉職したり此頃君は近来探知し得たる新合金洋白製造を自宅に於て試み意外好成績を得て有望の事業とならんとする時好智に長けたる従業員あり該品を以て純銀と偽り称し一商人を欺き莫大の金員を貪りたるを君は聞き大に慨嘆して断然洋白製造を廃止したり是一には君が世人に先立ち発明ある事二には君が清廉の気質ある事三には他人に困難を懸けざるとの精心を現はせり明治八年君は熊本鎭台に転任し間も無く神風連の襲撃に会辛ふじて一命を全ふし続て十年の役熊本に籠城し之を終り公用にて筑前地方を通過中図らずも遠賀郡内に石炭鉱脈の存在するを発見し君は予て我邦の工業発展の為炭坑業の必要なるを確知し何れの時か機会を得て之に従事せんと思慮したる事なれば君は大に此発見を欣喜し自身此事業を営まんと決心し直ちに陸軍省に辞職願をだしたり然るに長官及び同僚は君に将来栄転あるを期し是非辞職を断念する事を勧めたれ共余は国家の為地下より数十万圓(此頃にて大金)に値する至宝を採掘して之を国家に報いん余が今執る職務は何人にも為し得と主張し遂に志の如く辞職し筑前に到り先ず遠賀郡馬場山に炭坑を試掘し君は其時頗る高価を拂ふて英国より英文の炭礦書を購入し之を実弟斯波氏と苦しみて研究し次に香月坑を創掘す此功に対しては初めて洋式の大々的鉱業を試み先ず蒸気機械を備え坑内に蒸気ポンプを仕用して排水をなし立坑を完成して之に櫓を造り

参照

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