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<討論の広場> 留学のすすめ:私の留学体験より

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<討論の広場>

留学のすすめ:私の留学体験より

放射線医学総合研究所 岡安 隆一

はじめに

いまさらと思われる方も多いかもしれないが、最近の傾向を見ると日本よりの留学生の数があ る年をピークに減少傾向を示しているという憂える傾向(以下の文部科学省よりの図)がある。

またこの資料は海外全体の留学生数であるが、特にアメリカの場合は減少が著しいという統計も あり、このような記事を書くことにした。

自身の留学事情

筆者は現在は放射線生物の研究者であるが、これを読む多くのみなさんとは違い、日本にいた 時は大学卒業後、東京の私立高校で4年間理科の教員をしており、研究経験は全くゼロであった。

高校時代よりアメリカに留学したいという漠然とした考えはあったが、そのきかっけになったの

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は、理科の教員免許だけではなく、数学の免許も将来役に立つのではと思い、昼間教員をしなが ら、母校の夜間部に通い免許を取得、その際に遅まきながら学問をすることの重要性に気付いた ということがある。またその時代に今は亡き近藤宗平先生がたまたま東京で講演をなさり、その 時の DNA 修復の話が、結構面白かったことなどもきっかけの一つになっている。

さて留学をするといっても、どうしたらよいかというのがまず問題。私の場合は高校時代の友 人にアメリカの大学を卒業した人が一人いるだけで、あとはすべて留学に関する本を見てやった ことを思い出す。1978 年、私が 20 代後半のことである。アメリカの大学院の場合、基本的には英 語のテスト(TOEFL)である点以上を取ること、学部成績書の提出、推薦書3通、また GRE (Graduate Record Examination) と呼ばれる大学院のための一斉テストがあり、これは基本的な数学、英語

(かなりタフ)の他に専門の分野もある。という具合であった。初めはこのような手続きを見た だけでも気が遠くなるような感じだったが、何とかそろえることはできた。その中で推薦状 3 通 が結構大変であった。日本人なのでまともに英語で書ける人は少なく、結局卒研時代の先生にも 自分で書きなさいと言われ、高校の担任も含め、自分で3通、でっち上げて?サインをもらい何 とか作ったことを思い出す。当時はもちろんパソコン等もなく、そのために電動のタイプライタ ーを買ったことも良い思い出である。英語の方は TOEFL の集中講座のようなものに通い何とかな ったものの、私の場合はもうひとつ大きな問題があった。大学時に遊びほうけていたので、成績 が良くない。アメリカの大学院に入るのに、こちらでの成績がよくなければまず断られる。とい うわけで、応募書類をいくつかの大学に送り出したところ、やはり Reject の返事が来出した。し ょうがないのでフルブライト委員会へ相談に行った。そこでアメリカの大学のランキングを見せ てもらった。 例えば物理の分野では Harvard, MIT, UC Berkeley (カリフォルニア大学)等が 上位にランクしていることを初めて知った。そこで中堅の大学やそれ以下?の大学等の名前を書 きうつし、改めて応募しなおす作戦をとった。そうこうしているうち、なんとなく一番行きたい と思っていた西海岸の Oregon 大学に応募はしていたので、Reject の通知の前に、そこの学科長に 自分で正直な手紙を書くことを思いついた。教員時代にためていたお金はあるし、何とか入った ら頑張るので、いれてほしいという懇願である。驚くことに、書いたらすぐ返事が来て、すぐ物 理学科の大学院修士課程に入学を許可すること、しかも今学期はだめだが、次の学期より奨学金 も考えるというまさに夢のような話である。この一通の手紙を受け取った時から私の人生が大き く変わった。

オレゴンでは物理学科であったが、研究室のローテーションのようなものがあり、生物物理の 研究室に机をもらうことができた。蛋白質結晶解析で世界的に有名な Brian Matthews というオー ストラリア出身の教授の所である。とても素晴らしい人であったが、私も来たばかりで英語での

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communication もよくできず、当時は生物もよくわからなかったし、結晶解析にあまり興味を持つ こともできず、ある時に正式な手紙をもらって彼の研究室を追い出されてしまった。この時、さ すがに自分はアメリカにいるんだという実感をもった。このことがまたきっかけで、勉強にも奮 起し、物理学科の修士号資格試験も一度で合格することができて、いろいろなことがあったが、

無事に 1 年 9 か月ほどで修士号を取ることができ感謝であった。

オレゴンにいるうちに自分の本当にやりたいことがはっきりしてきた。それは物理学の背景を 生かした生物学である。というわけで、修士号の後は頑張って博士課程に応募することにした。

オレゴンにはそのような学科は当時なかったので、いろいろ探した挙句、カリフォルニア大学 Berkeley に生物物理の学科があり、そこでは興味を持っていた放射線の生物影響をやっている教 授もいた。 ということで大胆にも Berkeley の博士課程に応募することにした。この時の推薦状 は楽であった。自分のアドバイザーである Matthews 教授と、そのほかの物理学科の教授、たまた ま知り合いになった Berkeley 出身の生化学者の方で、ただフォームを渡してお願いするのみでよ かった。そのようなわけでそれほどの困難もなく Berkeley 生物物理学科に受け入れられた。とこ ろがである、そこでは大きな困難が待っていた。アメリカに来て3年目、日本で蓄えていた貯金 も残り少なくなっていた。(当時の換算率はたぶん1ドル 250 円程だったかと記憶?)そこでキャ ンパスを歩き回り、仕事を探して、やっと数学科で○つけ (grading) の仕事を探すことができた。

その直後にかねて連絡していた物理学科より電話があり、teaching assistant (TA) を依頼でき ないかということである。これは学部の学生の物理実験を教える仕事であり、給料ははるかにい い。ということで飛びついたまではよかったが、これがとても大変な仕事であることが分かった。

3つのセクションを任され (2 つは夜の授業) 、学生のレポートの採点も含まれていて、とても大 変であった。さらに自分の英語は、相手の言うことはわかっても、人を上手に教えるほどまでに は行っていなかったことも事実であった。さらに生物物理学科に入った以上、かなり生物学の知 識がいる。そこで、多くの学部の授業もとらなければなかった。特に organic chemistry (有機化 学)、生化学、基礎の生物物理化学等はチャレンジであった。というわけで TA の合間にかなり勉 強はしたが、結局のところ大学院の基準 (B 平均) を満たすことができず、最後に TA をやめて勉 学に専念し成績は回復したが、時はやや遅しであった。そのような中でとても興味深い出会いが 幾つかあった。一つは私が Berkeley にいるときにたまたま東京大学より故岡田重文先生が客員教 授で来られて特別講義をなさっており、直接お話しすることができたこと。もう一つはいろいろ と仕事を探しているときに、キャンパスの隣の丘の上にある LBL (Lawrence Berkeley Lab)で有名 な故 Cornelius Tobias 教授と直接お話しできたことである。またたまたま Tobias 教授の部屋に Colorado State University (CSU) の放射線生物学科のグリーンの広告があったこともおもしろ い。それまでは CSU の存在は全く知らなかった。Tobias 教授は 2000 年に私が最初に行ったオレゴ

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ン大学のある Eugene という町で亡くなられたのも何かの巡り会わせであろうか。Tobias 教授 は”Father of Heavy Ion Therapy”と呼ばれていて、今の私が heavy ion therapy の仕事を続け ているのもまた興味深いことである。

以上のようなわけで、無念にも Berkeley を 1 年ほどで去り、また推薦状を書いてもらって、LBL で見た広告を頼りにコロラド州立大学 (CSU) の大学院へ応募し直し、転校することになった。コ ロラド州 Fort Collins という町は美しくて気候も良く、カリフォルニアよりややリラックスして スタートはできた。もうなくなられたがアドバイザーは英国出身の John Lett 教授、だいぶ前で はあるが、超遠心機を用いた DNA 切断損傷の研究等で Nature に6-7本論文があった。 Lett 教授はとてもユニークでスマートであったが、教授になってからは、仕事をバリバリしたとは言 えず、日々遅く来て、早く帰るという羨ましい?スタイルだった。 自分は Berkeley のこともあ り、彼のところで働いていた人々にいろいろと教わって、日夜、特に超遠心機を用いての仕事を 必死でしていた。彼は私の博士論文も投稿することはなく、Nature に出すんだと原稿を一度書い たが、机の上に何年も座ったままで、結局 submit されることはなく、幻の論文になってしまった。

そのような中で5年数か月で何とか博士号は取れたものの、私の Ph.D. committee の中には、こ れも著名な故 Mortimer Elkind 教授もおり、資格試験の時も defense の時も、Lett 教授と Elkind 教授の間で争いが起こり、その間に入りかなり苦労したことを思いだす。たまたま Elkind 先生の ところに当時京都より来られていた、内海博司先生には、このような時に大いに慰めてもらった りで、お世話になりとても感謝している。博士号も終わりになったころ、ペンシルバニア州 Philadelphia にある Thomas Jefferson 大学より CSU のどなたかに電話があり、ポストドクを探し ているということで連絡を受けた。その際に電話で次のボスの George Iliakis と当時あちらの Director であった Dennis Leeper 教授とも話をし、簡単に行くことが決まった。1986 年のことで ある。その年にはコロラド出身の Martha と結婚もしたので、ここから全く新しい人生が始まった。

さて Thomas Jefferson University のある Philadelphia はアメリカでは歴史的な街として知ら れているが、その町の雰囲気、環境、人々の振る舞いとかは全く西海岸やコロラドとは大きく違 っていた。さらにボスの Iliakis 博士はギリシャ出身、ドイツで博士号取得なので、ギリシャ語、

ドイツ語、英語はほとんど Native,当時は独身で准教授だったので、正教授になるべく日々かな り仕事をしていて、週末も含めて朝から晩まで働いていた。 コロラドの Lett 教授とは全く対照 的である。というわけで、私も自ずと働かなければならず、また Iliakis 博士は論文を書くのも 早く、結局のところ、途中で MD Anderson がんセンターに一年強滞在した時を除いて 6 年ちょっ と Philadelphia に滞在し、共著で 22 報の論文を出した。 ほとんどが DNA double strand break (DSB)とその修復、染色体の修復に関連した論文である。その時代は彼のグラント(研究費)も結構

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とれて、中国その他からも研究者も呼び、その一人が現 Emory 大学教授 Ya Wang 博士である。彼 女も当時 (1980 年代後半) かなりよく働いていた。 またその時期に東京医科歯科大学より他の Lab にいらしていた三浦雅彦先生にも遭遇し Iliakis 氏と一時コラボをしておられた。そのような 中 Iliakis 博士はもちろん教授になることができた。

しかしながら、グラントの関係、その他さまざまな理由で Philadelphia を去らなければならな い時が来た。1994 年ころである。いろいろと探しているうちに、お隣の New York にある Columbia 大学で人を探しているという情報があり、結局のところ当時准教授であった Tom Hei 博士のとこ ろに雇用が決まり、著名な Eric Hall 教授らのところで、研究を続けることになった。Hei 先生か らはどうせ雇うのなら、3-4 年は何とかするからという始めの言葉ではあったが、この予定が大き く狂い、彼らがあてにしていた NIH の program project という大きなグラントが一時的にダメに なり、当時は 10 人程雇用されている人々がすぐさま去らなければならないという状態に陥った。

もちろん私もその中の1人であった。ことがあまりに急だったので、結局のところ、辞めるまで に次の仕事を探すことができず、8 週間、生まれて初めてアメリカ合州国の失業保険にお世話にな った (当時は永住権があったので資格があった)。そうこうしているうちに Columbia 大のインド 人の友人がテキサス州のガルベストンというところにある Univ. of Texas Medical Branch (UTMB) に仕事を紹介してくれた。そこで給料はやや下がったが、面接の後雇われることが決定した。Tom Hei 教授のラボでは 1 年ほどの短い期間ではあったが、たまたま現長崎大学の鈴木啓司博士と出会 い、多分にお世話になった。感謝である。

さてテキサス大学では就職を急いでいたので始めは Visiting Assistant Professor というタイ トルで雇用され、後に Assistant Professor になった。1995 年のことである。ガルベストンでは 当時の Radiation Oncology 学科生物部門のディレクターの Bob Ullrich 教授 (現広島放影研理 事) の下で働くことになった。そこではコロラドの CSU 大学院時代の先輩である Mike Cornforth 博士にも再会することができた。 Ullrich 教授は放射線によるマウス遺伝学の専門で、ここで初 めて BALB/c ByJ という種のマウスが放射線感受性であり、乳がんや肺がんの発生率が高いことを 知った。さらに自分のバックグラウンドと放射線治療をうまく結びつけ、UTMB の学内のグラント (研究費申請)に応募したら、これがかなり上位で通ってしまった。さらに同じころに、Hei 教授の ところでやっていたアスベストの仕事を DSB と結び付け NIH の小グラント RO3 に応募したら、こ れも通り、もう一つ UTMB の老化に関する話とマウスの系統さを結びつけたグラントが通った。ど れも小さなグラントではあるが、一時的にややお金持ち?と感じた記憶がある。恥ずかしながら、

この様子を当時の影響学会の News Letter に出したら、それを見て当時放医研の高橋千太郎先生 (現京都大学原子炉実験所副所長) が sabbatical でガルベストンに半年ばかり家族連れでいらし

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てくださり、このことを通して私が最終的に帰国するきっかけになったのは言うまでもない。 ま たガルベストンでは Radiation Oncology 学科のレジデントに放射線生物学の一部を講義する仕事 も任され、これも良い経験となり、研究ともども充実した期間を過ごすことになった。

このような時期に、急に母校の CSU (コロラド州立大学)の Bedford 教授より電話があり、資金 をそろえて Assistant Professor の position を作るから、来ないかというお誘いがあった。この ことをコロラド出身の妻に話したら、すぐ行きたいという話になり、interview に行ってすぐ話が 決まった。というわけで、また引っ越しすることになった。此処まで来るとこれを読む人々は、

アメリカではなんと動きが激しいのかと思うかもしれない。もちろん 20 年も 30 年も同じところ にいる人もいるが、多くの人々は次の良いところを求めて異動することが多いし、そのようなと ころなのだと思う。私もそのような環境に慣れてしまったようである。コロラドに来たのはよか ったのであるが、ガルベストンのように NIH 等外部機関よりのグラントが取れず、また Bedford 先生の染色体関係の仕事も同時に続けなければならず、結構大変であった。お金を取れないと毎 年の評価はよくない。Fort Collins は子供を育てる環境とかも、とてもよかったのではあるが、

何しろグラントが取れなければ自分の研究ができず、苦闘していた。結局は高橋先生のお薦めも あり、放医研に応募することになるのだが、皮肉にも内定が決まってから、小さいものではある が NIH のグラントが取れた。日本に移ることが決まったので、このグラントは 4 年間ほどお世話 になった Bedford 教授にお渡しし (アメリカではそのようなことが結構簡単にできる)、グラント が始まった初めの月のみの自分の給料はそこから出し、その後帰国した次第である。2002 年の 4 月のことである。その 5 月より現在まで放医研で研究を続けてきている。なお CSU 滞在時には国 際キリスト教大学教授の高倉かほる先生にも sabbatical 中に来ていただき、その後の学生諸氏の 交換も含めて、こちらでの研究に大いに役に立っている。その一人の加藤宝光博士は CSU で学位 を取り、現在は tenure track Assistant Professor としてコロラドで活躍している。

留学のベネフィット

さてこの記事の本来の目的は留学の勧めである。私の拙い経験よりそのことを述べて結論とす る。まず当たり前のベネフィットは英語が上達するということである (アメリカ、イギリス等の 英語圏では特に)。大学や大学院 (結構お薦め?) に入ればもちろんではあるが、研究員として留 学しても、ボスや相手の人々との交流、生活も含めて、まず聞き取りの能力が改善するし、グラ ントを書けば (ボスのグラントを助ければ) 各段に書くことも上達し、また communication に対 する恐れのようなものはなくなると思う。また自分の留学した国の文化をつぶさに学ぶことがで きる。自分の例でいえば、アメリカの文化習慣を学ぶことによって、日本がいかにユニークな国 であることに気づいたりする。このことはアメリカで出会った他国の留学生達よりも学ぶことが

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できた。

しかし私の言いたいのは、言葉の問題よりも何よりも多くの利益だったことは、留学時に得た ネットワーク (コネの発展) のベネフィットである。私の場合は知り合った多くの研究者・学者 たちが、第一線で活躍している。例えば私のボスであった George Iliakis エッセン大学教授はこ の分野でヨーロッパのリーダーの一人であるし、Columbia 大学 Tom Hei 教授・Eric Hall 教授は 言うまでもなく放射線生物学のリーダーの面々であり、Bob Ullrich 教授は今は広島で活躍して いる。CSU Joel Bedford 教授は放射線 cytogenetics の権威であり、これらの方々は皆アメリカ放 射線研究学会 (Radiation Research Society: RRS) の会長にもなり、3 人は RRS の著名な Failla Award を受けている。そのほか大学院時代に知り合った友人達、その後働くことになったいろいろ の大学で親しくなった多くの教授連等は数限りない。毎年時の学会 (例 RRS annual meeting) を 通しても多くの方々と知り合いになっている。

さらに留学時に知り合いになることができた日本人の先生たちもその後の研究に大きく貢献し ている。前に記述した先生方の他にも、例えばカリフォルニアにいらした窪田宣夫先生(茨城県立 医療大学元副学長)とは学会等でよく交流し、いまだに共同研究が続いている。アメリカの学会で はいつも今は CSU におられる長沢初美先生、浦野宗保先生、安藤興一先生(現群馬大学)らとよく 交流しいろいろとお世話になった。そのほか多くの日本の方々と知り合いになることで、多くの ベネフィットを受けている。 特にアメリカ (あるいは海外) の学会で親しく話をすると、国内 学会とは違う次元で分かり合えることがあり、その後の交流、コラボに大いに役立っている。

おわりに

先日京都の ICRR の Educational Session で講演をさせてもらった時、おなじ session の講演 者に MD Anderson がんセンターの Elizabeth Travis 教授がいた。私は四半世紀前に MD Anderson に少しいたので、そのことをちょっと話したら、”I remember you”といわれてびっくりした。

25 年も前にいて、全く研究室も、やっていることも違ったのではあるが、覚えてくれていてちょ っと感激した。放医研で国際オープンラボを任された時、私のこのようなネットワークが大きく 役に立った。 First name ベースで Penny Jeggo (サセックス大学教授)、Marco Durante (ドイ ツ GSI 教授)、Tom Hei (コロンビア大学教授)、Jac Nickoloff(コロラド州立大学教授)らと自 由に交流しコラボができて、とても有益であった。日本の Global 化に私が辿ってきたような留学 経験が役に立つことを心から望む次第である。

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謝辞他

ここに述べたことは私自身の留学経験の一部で、さまざまなところで、ここに書ききれなかっ た多くの先生方とお会いしている。その一人一人に心から感謝する次第である。またこの原稿の 内容で失礼な表現とかがあれば真にお詫び申し上げる。

参照

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