「東アジアから見た百舌鳥・古市古墳群」
西谷 正 福岡県立九州歴史資料館館長
皆さん、こんにちは。ただいま御紹介をいただきました西谷 正でございます。 今日は、こうして堺の町で 世界文化遺産に関する話題につい てのお話をできる機会を与えていただきまして、大変ありがと うございました。 先ほど、冒頭で竹山市長さんがお話しされたごあいさつの中 に、今回の百舌鳥・古市古墳群、すなわち仁徳陵古墳をはじめ とする巨大古墳群ということで、日本が推薦する 世界文化遺産 の暫定リスト入りしたという お話しがございました。まず、皆 さんとともにお喜び申したいと思います。 市長さんのお話にもありましたように、やっとスタートラインに立ったということでございま す。 ただいまの西村先生のお話を伺っていても、これから登録までにどういうプロセスがあるかという お話とか、あるいは、いろんな課題についてもお話がございました。そういう意味では、これから が大変だと思います。そのためには、やはり地元ですね 、堺市を初めとする大阪府民の皆様が一丸 となってこの問題に対する御理解、あるいは御支援をいただくことが、まず第一歩だと思います。 その上で、この問題を日本全体に情報発信して御理解、御支援をいただくことになろうかと思いま す。 仁徳陵古墳が中心になってというか、看板でございますので、日本国内においては認知度が 非常 に高いわけですけれど、これは国際的な遺産ということで、やはり世界に発信していかなければな りません。そのための戦略をいろいろと担当部局でお考えいただきたいと願う ところでございます。Ⅰ 百舌鳥・古市古墳群をめぐって
まず、 やはり 百舌鳥・ 古市古 墳群に ついて 皆さん もよく御 存じの ことでは ありま す が、 一応話 の流れ の関係で 、ごく ごく簡単 におさ らいを してお きたい と思います。 もう皆さん おなじみ の古墳群の 分布図で あ ります 。 年代的には4 世紀の後 半から5世 紀の後半 に かけて、 およそ100年間にわたって巨大な古墳が次々とつくら れました 。巨大 な古墳だ けでは なくて 、もち ろん中 小の、ま た、前 方後円墳 だけで はなく て、円 墳と か 方墳もご ざいま して、都 合47基 にもな ります 。日本 列島で1 カ所に これだけ 集中し ている 古墳群 、しか も当時の 古墳と しては最 大規模 のもの が集中 してい古市古墳群 るということは他の地 域にないわけでご ざい まして、 そのこと一つをとって も、この古墳群の 重要 な価値が 伺えるのではないかと思います。 それから、古市古墳 群の分布図がござ いま すけれど も、ここの場合は、始 まりがこの分布図 の左 上のほう に津堂城山古墳とござ いますが、このあ たり がどうも 一番古いようで、4世 紀の後半というこ とで す。それ から5世紀いっぱい築 かれて、さらに6 世紀 の前半ま で、この地図で申しま すと、下、ちょっ と右 のところ の高屋城山古墳、つま り現在の安閑陵に 指定 されてい る古墳まで、上の百舌 鳥古墳群よりは長 く古 墳の築造 が続いたということでございます。 ここにございますのは全部で44基というこ とですが、 百舌鳥古墳群とともに 、1カ所に長期に わた って、し かも巨大な古墳群が集 中して営まれたと いう のは、や はり他に例がないわけでございまして、百舌鳥古墳群と古市古墳群を一体のものとして考えていく 必要があろうかと思っております。 (1)巨大古墳の世紀 これはもう皆さん御承知の同志社大学の森浩一先生が岩波新書で『巨大古墳の世紀』という書物 をお出しになってますが、その中でこの古墳群のことはたっぷり説明されています。百舌鳥・古市 古墳群というのは、日本の歴史の中でも、5世紀を中心とした時期に一時期を画して巨大古墳が築 かれました。しかもここ大阪平野に集中しています。これは画期的なことでございまして、まさに 巨大古墳の世紀という、その文字どおりの状況でございます。つまり、日本の古代国家形成過程の 3世紀の後半から7世紀にかけて古墳が築かれる中で、5世紀はまさに古墳真っ盛りと申しましょ うか、古墳文化が最大限に発展した時期の所産であるということです。 (2)倭の五王の時代 これも岩波新書の中で藤間生大先生が『倭の五王』という新書をお出しになっておられます。こ の時代は、一方では国際交流が大きく展開した時期であるということですね。それと 巨大古墳の築 造が密接に連動しているということであります。 国際交流という意味では、日本列島が国際社会に仲間入りするのは、2,000年ほど前の弥生時代 の中期後半に、当時、朝鮮半島の西北部に設置されていた楽浪郡を通じてのことです。楽浪郡はや がて邪馬台国の時代には帯方郡が分割されます、そのように弥生時代の中期後半から後期にかけて 朝鮮半島に設置されていた、中国の漢帝国のコロニーを通じて、あるいは直接間接的に中国の王朝 と国際交流を持ちました。それを一段と発展させる形で5世紀に国際交流が大きく展開し ました。 まさに、中国の『宋書』倭国伝の中に見えるように、讃・珍・済・興・武という、これは教科書にも出 ていますので、国民すべてが知っていることでありますけれども、後に天皇と呼ばれる 5人の大王 が、中国の南朝と外交関係を持ったということであります。
中国史書に登場するこの5人の大王については、讃・珍・済・興・武という、一文字で表現され ていますが、『日本書紀』に記載される天皇とそれぞれどういう関係なのかというところは諸説あ るところです。つまり応神・仁徳に始まり、安康・雄略に至る間の5人の天皇ということになるわ けです。国際外交を行ったその中の5人の大王の陵も、この二つの古墳群の中に含まれるというこ とでございまして、まさに倭の五王の時代の所産であり、その象徴的な遺跡群であると言えましょ う。 (3)技術革新の世紀 森浩一先生の『巨大古墳の世紀』、藤間生大先生の『倭の五王』、そして、不肖、私の「技術革新 の世紀」ということを事あるごとに申し上げているんです。と申しますのは、巨大古墳を発掘いた しますと、いろんな文物が副葬品として、あるいは装身具として出土いたします 。それらを見ます と、いろんな手工業製品において技術革新が大きく展開した時期であるということがわかります。 今日もいただいた資料、全員の方がお持ちかどうか、何種類かあるようですね。私、いただいた 資料のカバーを拝見しますと、上に百舌鳥古墳群の絵がありまして、その下に、出土したよろいか ぶとと埴輪のかぶとの部分があります。これで言いますと、真ん中のかぶとと、左によろいがあり ますけれど、特にかぶとにおきましては金銅製ということで、平たく言えば金メッキ されています。 そういうメッキの技術を駆使した、非常にすぐれた高度な技術が使われたかぶと、そしてその左の よろいとかがございますね。よろいにおきましても、今までは皮とじであったものが、鋲留になる とかが見られます。そういうよろいかぶと、それから馬具、とくに応神陵古墳の陪塚で、ここも構 成遺産にもちろん含まれています丸山古墳からすぐれた鞍金具が出ております。ああいった馬具類 とか、そして堺市には陶邑(すえむら)という、日本でごく初期の須恵器を焼いた窯跡群がござい ます。そういった一々挙げていくときりがないぐらい、この時代に技術革新が大きく進むわけです。 そういう時代だということで、外観からいうと巨大古墳ですけれど、そこに埋まっている手工業製 品を見ると、それまでとは違った技術革新が各分野において進行しているという ことでございます。 そのように日本の歴史におきましても、古代において画期的な時代で、その象徴的な遺産が二つの 古墳群ということになるわけでございます。
Ⅱ 世界の巨大古墳
百舌鳥古墳群のうち仁徳陵古墳につきましては、これまた、皆さんよく御承知のとおり、昔から 中国の秦の始皇帝陵、あるいは遠くアフリカのエジプトのピラミッド、そういったものと常に比較 されますね。これらは後でスライドもごらんになっていただきます。仁徳陵古墳は平面規模におい ては、長さが486メートルという、世界最大の規模であると言われますが、その点で、今申しまし たエジプトのピラミッドや、あるいは中国の始皇帝陵、そして朝鮮半島の同時代の古墳群との比較 を行いながら、この百舌鳥・古市両古墳群の特色を浮かび上がらせればなと、そのように願ってい るところでございます。 (1)エジプトのピラミッド 三つのピラミッド、つまりクフ王、カフラー王、メンカウラー王、それら三つの図が出ておりま す。これらは御承知のとおり、カイロのすぐ郊外にギザがありますけれど、そこに残っているピラ ミッド群でございます。この中にも行かれた方が、多いと思います。ピラミッド ここで私が申したいことは、仁徳陵古墳が 全長486メートルと申しましたけれども、そ れに対して、ピラミッドの場合は1辺が230 メートルの四角い方墳状をなしています。確 かにその二つを比べれば、桁違いに仁徳陵古 墳のほうが大きいんですが、それだけの単純 な比較ではいけないということを申したいの です。それはこの図面をごらんいただきます と、例えば、三つのピラミッドの周辺に小さ な長方形の印がたくさん表示されてますが、 特に一番上のクフ王の左手、西側のほうには 多数の長方形の小型の墳墓がありまして、こ れらはいずれも陪塚です。もちろんここ百舌 鳥古墳群にも陪塚があることは御承知のとお りです。つまり墳墓本体以外に陪塚群を伴っ ています。その点はこちらの古墳群と共通していますが、違うところは、例えば真ん中のカフラー 王 の ピ ラ ミ ッ ド を ご ら ん い た だ き ま す と 、 そ の 前 面 、 右 の と こ ろ に 、 カ ル ト テ ン プ ル Cult Temple、つまり葬祭殿といって、亡きがらを埋めたピラミッド本体の前面に祭祀を行う葬祭殿とい う施設が設けられているのです。それから、さらにずっと右のほうに、これは700メートルほどあ るんですが、コーズウェイ Causeway、いわゆる参道、あるいは墓道(ぼどう)がずっと東のほう に延 び てき て いま す 。そ し て、 そ の一 番 先端 のと こ ろに 、 テン プ ル オ ブ ザ ス フ ィン ク ス Temple of the Sphinxですね。つまり、その一番入り口のところは、すぐ右手にナイル川が流れて います。そのナイル川の流域、河岸にあるということから、河岸神殿とか流域神殿という言い方を しています。そして、その横にスフィンクスが築かれているわけですね。ここ では亡きエジプトの 王の亡きがらを清めて、そしてミイラをつくる、そういう場所なんです。船で このナイル川の左岸 に着岸いたしまして、そこで儀式を行って、ミイラをつくり、そしてこの墓道を通ってピラミッド の前面に行き、そこで最終的に儀式を行って埋葬すると、そういうふうになっているのです。こう いうわけで、エジプトのピラミッドを見た場合に、一辺230メートルのピラミッド本体だけではな くて、陪塚を初めとするさまざまの付属施設があるということなんです。この辺が日本の古墳群と の大きな違いということになります。 なおさらに、ピラミッド本体の周りには、塀がめぐっているということまであるのです。そうい うことから、このピラミッドに関しては、ピラミッド コンプレックス Pyramid Complexという 言葉がございます。つまり、ピラミッド複合とか、あるいはピラミッド文化複合体とか、そういう ふうに言っているんです。ピラミッド本体だけではなくて、周辺のいろんな関連施設も合わせて全 体としてトータルにコンプレックスとして、複合体として考えていこうという考え方です。総合運 動場というのは英語ではスポーツコンプレックスと言いますが、メーンスタジアムがあって、その 周りに水泳場とか、テニスコートなどいろんな競技場があって全体をなしているわけですね。そう
始皇帝陵 いういろんな構成要素が一体のものとしてあるコンプレックス、そういうものが見られるという点 が大きな特色です。また、日本の古墳群との大きな違いということになるわけでございます。 (2)中国の秦・漢皇帝陵 ま ず 秦 の 始 皇 帝 陵 を 見 て み た い と 思 い ます 。 秦 始 皇 帝 陵 と 秦 俑 坑 位 置 図 の 真 ん 中 ち ょ っ と 左 手 の と こ ろ に 、 秦 の 始 皇 帝 陵 が ご ざ い ま し て 、 等 高 線 で 方 形 に 示 さ れ て い ま す 。 こ こ で は一辺が350メートルで す ね 。 実 は 、 そ の 後 、 測 量 が し 直 さ れ ま して 、 正 確 に 測 量 い た し ま す と、一辺が500メートル ぐ ら い に な る と 発 表 さ れ ま し た 。 そ う す る と 仁 徳 陵 古 墳 も 黙 っ て おりませんで、486メ ートルを追い越されるわけですね。そこで、地元でお考えになったのは、仁徳陵古墳の水面のとこ ろではなくて、古墳は水面下に潜っていますので、そこまで測ると512メートルあって、秦の始皇 帝陵よりもやはり大きいんだということをおっしゃった人がいるようです 。それはともかくといた しまして、一辺350メートルと言われていましたのが、今では公称500メートルと言われているんで す。そのように古墳本体の、つまり墳丘だけで比較してはいけないということを、ピラミッドの場 合と同様に申し上げたいわけでございます。 この図面をごらんになっても、その古墳本体の周りに南北に長方形の区画がありまして、その東 西・左右が578メートルに、南北が277メートルという、長方形に囲まれた塀の南寄りのところに古 墳本体がございます。その長方形の大きな区画の右上、北東のところにもさらに中を仕切る区画が あります。そして、その周りにもう一つの長方形の囲いがあるということですね。これは東西が大 体970メートルぐらいに、南北が2.2キロぐらいの規模です。そのように古墳本体だけではなくて、 南北長方形の二重の広大な塀によって囲まれているのです。この点は先ほどのピラミッドも同様で ございます。そういうわけで、古墳本体だけの比較ではいけないということです。 特にこの始皇帝陵の場合、墳丘から東、地図の右手に1.5キロ行ったところに有名な兵馬俑がご ざいます。そことは逆に、反対側の左手、西のほうを見ますと、そこに刑徒墓地があります。この 秦の始皇帝陵の造営に際しては、70万人の犯罪人が徴発され、動員されたと言われています。秦の
茂陵 前漢皇帝陵分布図 始皇帝は若くして13歳で即位しますけれども、その翌年ぐらいから、自分が死んだときのお墓づく りに精を出しまして、何と37年の在位期間中36年、ほとんど全期間を、この墓域の造営に費やした と言われております。そういうことで申せば、 古墳本体は一辺350メートルから500メートルという こ と で す が 、 大 変 な 規 模 の 大 土 木 工 事 を な し 遂 げ て い る と い う こ と に な る わ け で ございます。 そ う い う わ け で 、 ピ ラ ミ ッ ド の 場 合 と 同 様 に 、 こ こ に お き ま し て も 、 そ こ で 見 た よ う な コ ン プ レ ッ ク ス 、 日 本 語 流 に わ か り や す く 言 い ま す と 、 陵 園 制が認められるのです。陵墓が一つの陵園をなしている、陵園制ということでございます。 秦の始皇帝陵でそういう陵園制が確立すると、それが前漢の皇帝陵へと引き継がれるのです。図 をごらんいただきますと、皆様おなじみの西安の町のすぐ西北のところに、漢の長安城という当時 の 城 郭 が ご ざ い ま す 。 そ の さ ら に 北 西 の と こ ろ に 咸 陽 台 地 、 咸 陽 市 が 位 置 し ま す 。 こ こ が 秦 の 始 皇 帝 の 時 代 の 都 の あ っ た 王 宮 の 跡 で す 。 前 漢 に な る と 長 安 城 に 都 の 場 所 を 変 え て い ま す 。 か つ て 秦 の 都 の あ っ た 咸 陽 、 そ の 北 側 に 咸 陽 台 地 と い う と こ ろ が あ っ て 、 そ こ
の東西36キロにわたって歴代の前漢皇帝陵が築かれているのです。11の皇帝のうち9人の皇帝陵が 東西に次々と築かれたことがわかります。一方、あとの2人の皇帝については、地図の右下のほう で東南の方向に、宣帝の杜陵と文帝の覇陵というのがありますがそれ以外はほとんどがこの咸陽台 地に築かれています。その一番西にあるのが、そこに書いてますけれども、漢の武帝の茂陵でござ います。 茂陵の詳細な平面図がございます。この茂陵をごらんいただきますと、図の左手のほうに茂陵と 記した方形の墳丘を表現したところがあります。ここでも周りに塀がめぐっていたようでして、北 側と東西に今も部分的に名残が残っております。本来、ぐるっと外に塀がめぐっていたということ がわかるのです。茂陵の場合は、古墳本体は一辺が230メートルということですが、その周辺は塀 で囲まれていました。また場所はまだ確認されていませんけれども、塀の中には寝殿というのがあ ったらしいのです。ここには亡き武帝の魂が宿るところという考え方ですね。これは始皇帝の場合 も同じで、墳丘本体のすぐ西側に寝殿に想定される場所があって、そこに始皇帝の魂が行くわけで すね。そのために乗る銅製の馬車が発掘されていますね。そういう寝殿のほかに、さらに外側には 亡き武帝の菩提を弔うといいましょうか、あるいはその後の皇帝が祖先祭祀を行う廟もあったらし いことが記録に出てくるわけですね。そして、塀の外で、特に東南の方向に当たるんではないかと 言われています。そういう意味では、茂陵の地図のすぐ右下のところに、白鶴冢遺址と書いてあり まして、平坦地にちょっとした高まりがあって、恐らく人工の土台と思われます。私はここが廟の 遺跡ではないかとひそかに考えています。さらに、もちろんここにも陪塚があるわけでございます が、そのうちで茂陵の西側、地図の左手のほうには、武帝の妃の李夫人のお墓がございます。これ は比較的大きな古墳ですね。一方、地図の右のほう、東のほうに行きますと、霍光墓がございます。 武帝の右腕とも言われた将軍のお墓です。そういうわけでございまして、茂陵を中心として、その 周囲に陪塚群が配置されているということです。 ここで特に注目したいと思いますのは、今申しました茂陵の東南の白鶴冢遺址、その右、東側の ところに1、3、6とか番号が打ったところです。ここから瓦や水道管の施設が出たりとかしてお りまして、このあたりに何らかの建築群があったことが伺えるんです。その点で考えられるのは、 茂陵を保護し、また管理するために陵邑が置かれていたことがわかるのです。これは図を横にして 見ていただきますと、茂陵のすぐ右手に東西に長く点線で囲んだところがありまして、そこに茂陵 邑と書かれています。武帝の茂陵の陵邑がここにあったことが想定されます。その部分的な遺構な り遺物が発掘等を通じて見つかっているのです。 この点に関して申しますと、『太平御覧』という文献の中に、茂陵を守り掃除するもの5,000戸と 見えます。5,000の戸数をそこに配置して、その5,000戸を監督する陵令という役人もいたと記録さ れています。5,000戸というと、これは大きな町ですね。そういう陵邑が、茂陵にすぐ接して東側 に営まれていたことが記録上、あるいはまた、断片的な出土品からも伺えるということなんです。 同じように、各皇帝陵には陵邑があったことが推定されます。例えば手がかりがつかめたところは、 茂陵のすぐ横の尐帝の平陵におきましても、東側に陵邑があったらしいということが推定されてい ます。 一方、図の右下の先ほど申しました宣帝の杜陵の場合、そこに先ほどの茂陵より大きく点線で長
朝鮮半島古代の王陵図(東潮氏作) 大阪府立近つ飛鳥博物館2009『百舌鳥・古市大古墳群展』より 方形に囲いがしてあります。ここは何と陵邑の規模が3万戸、人口が30万人といわれます。本当か なと、信じられないような数字です。事実かどうかは別としても、ともかくけた違いの戸数、人数 が陵邑にいたことが記録されています。そのように古墳本体だけではなくて、周辺のいろんな施設、 とりわけ陵墓を保護し、掃除をしたり、管理したりする大変な規模の村があったことが伺えるので す。 そういうわけで、しばしば仁徳陵古墳の本体と比較される秦の始皇陵、あるいはそれを受け継い だ茂陵を初めとする前漢の皇帝陵において、古墳本体だけではなくて、その周辺にいろんな施設が あって、陵園制が敷かれていたことが伺えるわけでございます。 (3)朝鮮・三国時代の王陵 高句麗・百済・新羅・加耶 その点で、さらに3番目の朝 鮮半島の三国時代の王陵ではど うでしょうか。仁徳陵古墳など が築かれていた時代、お隣の朝 鮮の王陵はどうであったかとい うことです。当時、北部に高句 麗、西南部に百済、東南部に新 羅、そしてその間に挟まって加 耶がありました。そのうち加耶 については日本では任那という 言い方もいたします。 この時代、 朝鮮半島では、高句麗 ・百済・ 新羅という三つの時代、三国時 代と申しております。実は今申 しましたように、百済と新羅の 間に挟まって加耶があったわけ ですね。そこで、三国ではなく て四国時代だという説もござい ます。最近、韓国でチェ・イノ 崔仁浩という著明な作家が『第 4帝国』という書物を5冊書か れています。その中で加耶とい うのは非常に大事だという わけ です。歴史小説ですけれども、 そういう本が最近出ております。 その加耶はいち早く滅びまして、 最後まで残りませんので、ほかの 三国とは違います。したがって、厳密に申しますと、高句麗・百済・新羅の三国と加耶の時代と言
太王陵 うべきなんですが、そこまで言うと長くな りますので、従来どおり習慣的に三国時代 と申しております。それらの国にそれぞれ の王がいて、亡くなると王陵が築かれます。 そのあたりを尐し見てみたいと思います。 この点につきましては、図に朝鮮半島古 代の王陵ということで、高句麗・百済・新 羅が出ております。今、私が申したことか ら言うならば、この図の一番下の新羅の右 下の隅あたりに加耶を入れるべきなんです が、ここでは欠落しております。そして、高句麗・百済・新羅・加耶それぞれに特色ある王陵が築 かれていたということでございます。 まず、北部にあった高句麗につきましては、一例だけ取り上げますと、 図に太王陵という古墳が ございます。西辺が68メートルと一番広い規模です。北辺が63メートルです。それから、南が66メ ートルで、東が63メートルを測ります。この古墳は太王陵と名前がついていますが、高句麗で2番 目に大きな王陵ですね。一番大きなのは、そう遠くないところにある千秋塚という一回り大きい塚 です。これに関連しては、平成18年、つまり4年前に堺市が政令指定都市に移行したときに、それ を記念して東アジアの巨大古墳シンポジウムが開催されました。そのときに私もお招きいただきま して、お話しした内容を今日もお話しさせていただきます。したがって、そのときに御出席の方に は、またかということになろうかと思いますけれども、もう一度、おさらいのつもりでお聞きいた だければ幸いです。 そのことを詳細に見ましょう。太王陵という古墳本体のみならず、その周辺の遺構まで含めた平 面図がございます。ここは6年前に世界文化遺産に登録されました。たまたま私、その審査に当た りました。その際、中国は申請に向けて大々的な発掘調査を行ってるんですね。この図面は、その ときの調査報告書に出ているものです。 この図面でごらんいただきますと、太王陵本体がありまして、その右のほうに10センチほど行っ たところに縦に線が引いてありますが、これは東の陵墻旧址とされます。要するに、本体から東の ほうに100メートル余り行ったところに南北に壁があったということが、実は昭和13年に日本の藤 田亮策先生がここを測量しておられて、昭和15年に学界に発表されているんです。それを見ますと、 この図面で言うと上のほうが北ですね。その北側から東側、そして下のほう、南側、そこに北朝鮮 に通じる鉄道が今も走っておりますけれど、ぐるっとコの字型に城壁のような壁が残っていたこと が測量でわかって報告されています。それが現在では、東側だけが部分的に確認されるという こと で、そこに陵墻旧址として記載されているのです。すなわち、古墳本体の周りが塀で囲まれていた ということです。戦前にわかっていたことでは、この図面の太王陵という古墳の下のほう、南のほ うの真ん中あたりのところで、鉄道と古墳の真ん中あたり、古墳から言いますと、180メートルぐ らい離れたところで礎石が出たり、それから高句麗の瓦が出たりしましたので、そこに高句麗時代 の建物があったことは間違いないと思います。これなどを見ますと、先ほどのピラミッドの葬祭殿
のように、葬送儀礼を行う葬祭殿などがあったということが推定されます。 今度の世界遺産に向けての発掘調査で、さらにその南側、鉄道線路のすぐ北側のところで、塀の 出入り口が見つかっています。ですから、古墳本体の真南のあたりで、塀の真ん中あたりに出入り 口があって、それを入ると建物が建っていて、ここで儀礼を行ったと考えられます。そして、後ろ の大きな古墳に遺体が埋葬されるということになるわけですね。ちなみに、先ほど西側の一辺が68 メートルと申しましたけれども、そこでは7段、あるいはそれ以上に段築がなされていて、頂上部 に近いところに、西に入り口をあけた横穴式石室が築かれております。 太王陵はそのような古墳ですけれども、ここでさらに私が強調したいことは、古墳本体からずっ と右手のほう、つまり東ちょっと北寄りのところをごらんいただきますと、そこに好太王碑と書い た場所がございますね。古墳本体から言うと360メートル離れていますが、その写真がその下にご ざいますね。有名な好太王碑です。その碑文の一部の拓本を出しておきました。これはもう教科書 にも出ていますので、よく御承知のところでございます。この好太王碑については、4面に全部で 2,802文字ございます。既に風化とかで、すでになくなっている部分もありますが、1,802文字が判 読されています。そのうちのおよそ36%に当たる641文字の内容が、何とこの古墳の墓守に関する 記録なんです。そういうことから言うと、この碑文は、この太王陵を保護し、掃除し、しっかり管 理していくために、墓守が330戸置かれたと書かれているのです。この碑文は、その36%ぐらいが 墓守に関する規定です。その前のところに、亡き好太王がどういう血筋で、どういうふうに高句麗 を大きく発展させたか、その間の戦斗の状況などが書いてあって、終わりのほうで永楽5年に、 330戸を墓の管理のために置いたということが記されています。ですから、この碑文というのは、 碑文の内容からいろいろ、日本との関係もわかりますけれど、本来これは墓守を規定するための碑 文だったということですね。 したがって、私に言わせれば、この好太王碑の南側、 図面では下のほうに、先ほどの東の塀があ って、そのさらに右手、東側、そして碑文の南から東にかけて、このあたりに330戸という守墓人、 つまり墓を守る人たちの建物群があったのではないでしょうか。というと、先ほどの前漢皇帝陵の 陵邑と重なってくるわけですね。したがって、私はこのあたりに330戸を配置した陵邑、言い換え ますと、墓守の村があったのではないかと推定しているわけです。 そこまで考えると、これは先ほどのピラミッドや秦始皇帝陵、あるいは前漢皇帝陵のように、陵 園制が敷かれていて、古墳本体のみならずその周辺に関連の施設がずっとあったということが言え るのではないでしょうか。そういうことを4年前の政令都市移行記念のシンポジウムで申したこと でございます。 そういうことを見てまいりますと、ほかの国ではどうかといいますと、新羅の皇南大塚古墳が出 ております。これは双円墳といって、円墳が二つ連なったものです。河内に金山古墳というのがあ りますけれど、ああいうものですね。この新羅の古墳については、今のところ 陵園制といったこと が全くわからないんです。文献史料から申しますと、『三国史記』という、日本で言えば『日本書 紀』に相当するような、時代は新しい、高麗時代に編さんされたものですが、この時代のことを記 した歴史書がございます。その中の文武王4年、西暦664年のところに興味深い記事が見えます。 すなわち、文武王は官吏に命じて、諸王の陵園にそれぞれ民20戸ずつを移住させたと書いてあるん
です。この記録から言えば、664年という後世の記録ではありますけれども、既にあった歴代の王 の陵園に民20戸ずつそれぞれ移住させたということは、それ以前に陵園 制が見られ、あるいはまた、 陵邑があったということを間接的に物語っているようにも思えます。そのように考えているのです。 そういう意味では、韓国の先生方に、そのような問題意識を持って古墳の周辺を調査していただき たいと願うところでございます。 同様に、ここ百舌鳥・古市古墳群におきましても、先ほどごらんいただいたような 80を超すあれ だけの大規模古墳があるわけですから、当然そこで、埋葬に伴う葬送儀礼が行われ、それに伴う施 設があってしかるべきだと思います。もちろんコンプレックスという意味では、陪塚がずっとあっ たりとかということはありますけれども、中国大陸や朝鮮半島で見るような陵園制がここでも見ら れはしないかということを感じるわけです。ただ、先ほども西村先生のお話にございましたように、 都市の中の文化遺産というのは、都市化の波が押し寄せ るか、あるいはもう既に都市化がされてお りますから、今からの調査はなかなか困難かと思います 。しかし、そういう問題意識を持って調査 に臨んでいただきたいと思います。とはいえ、日本列島で陵園制はなかったかもしれませんが、あ ったかもしれないというところでございます。 そういうことで、北東アジアでは中国大陸で達成された陵園制が、高句麗のように朝鮮半島にも 部分的に及んでいるということがございます。 そういうことから、さらについでに申しますと、百済や加耶ではどうでしょうか。百済について は中国の南朝との関係が非常に深かったのです。百済の初期の古墳は、石村洞4号墳で知られます。 この古墳は、先ほどの太王陵を小さくしたような階段式のピラミッド状の積石塚なんです。これは 百済の建国というか、百済を建てた王族が高句麗の人なんですね。ということが 『三国史記』に書 いてあるんです。つまり、私流に言わせれば、高句麗で皇位継承の争いがあって、それに敗れた人 が南に下ってきて百済を建てたという解釈をしています。そういうこともあって、百済において高 句麗式の積石塚がまず始まります。しかし、やがて中国の南朝との交流が深まる中で、積石塚から 封土墳になり、そこに南朝風の横穴式石室が築かれます。そのように変遷していきます。今のとこ ろ百済では、先ほどの新羅もそうですけれども、もちろん加耶でも、陵園制と思われる遺構は見つ かっておりません。その辺が今後の課題でもあろうかと思います。 ただ、高句麗の最後の都は現在の北朝鮮のピョンヤンにありましたけれども、そこでは東明王と いう高句麗最初の王陵があって、そのすぐ南の平地の定陵寺というお寺を建てているんです。これ は亡き東明王の菩提を弔う、追慕するために仏教寺院を建てたわけですね。そういう王陵と寺院と いうセット関係は、高句麗の後期に当たる5世紀に認められます。 そういう点で言えば、河内におきましても叡福寺と、そのすぐ裏側に聖徳太子磯長墓がございま す。推古天皇の時代には龍華寺と言ったようですけれども、叡福寺と聖徳太子、という関係に通じ るということですね。 そこで想像をたくましくすれば、聖徳太子の仏教の師匠は高句麗僧の慧慈ですが、高句麗からや ってきていた慧慈に聖徳太子は仏教を学びますので、あるいはそういう高句麗の王陵と寺院という アイデアを自分が亡くなったとき、あるいはお母さんやきさきの3人が一緒に合葬されるときに導 入した可能性があります。つまり古墳と、その南側にお寺という、そういう概念に通じるのかなと
思ったりもしております。 そういうわけで、ピラミッドに始まり、中国 大陸や韓国の、朝鮮半島の王陵を見てまいりました 。 そのように見てくると、3番目の「東アジアから見た百舌鳥・古市古墳群」ということで、おのず からここの特徴が浮かび上がってくるということでございます。
Ⅲ 東アジアから見た百舌鳥・古市古墳群
(1)古代国家形成期における巨大古墳 世界中を見わたしても古代国家が形成される過程で、人1人を埋葬するにしては余りにもけた違い にひときわ大きい、そういう巨大古墳が築かれたということが、世界共通に見られます。とはいえ、 ピラミッドや、あるいは中国・朝鮮と日本では、それぞれ地域の特色が見られるということでござ います。 特に百舌鳥・古市古墳群の場合には、ほかの外国の王陵には見られないこととして、周囲に水濠 をめぐらしています。つまり、諸外国の王陵には見られない大きな特色ではないかと思います。そ ういう意味では、先ほど西村先生が、世界遺産に登録されるには文化遺産に対して六つの基準があ るとおっしゃいました。私はその中で、独自の文明の存在、無二の存在であるという意味では、基 準のⅲに該当すると思っております。そしてまた、時代の名前に古墳時代とか、前方後円墳の時代 とも言われる、そういう日本の歴史の上でも重要な古代という時期における顕著なモニュメントで あるということです。そして、その典型的な見本であるという点では、この古墳群は基準の4に該 当すると考えております。 (2)東アジアの国際交流 このことによって、古代国家の形成が大きく前進したということであります。当時の東アジアの地 図を念頭に置いていただきますと、中国大陸は南北朝に分かれていました。中国が大きく北と南の 二つの勢力圏に分かれておりました。朝鮮半島はどうかというと、やはり高句麗・百済・新羅・加 耶という四つの国に分かれていたのです。そして、日本列島はどうであったかというと、ヤマト王 権が確立はしているけれども、私に言わせれば、河内王権があってここに都が置かれたかもしれな いし、巨大古墳が築かれているということもありました。九州では筑紫の国で磐井が反乱を起こし ています。吉備でもあったらしいのです。武蔵では国造の首長権の継承をめぐって地元とヤマト王 権の間で戦いごとがあるとか、日本列島も決して盤石な確固たる統一国家になってない時代ですね。 そういう中で、ヤマトは統一王権として、あるいは九州の筑紫の豪族のように独自に新羅と交渉を 持ったりしています。 そういう時代にあって、大きく申しますと、中国の北朝と高句麗、新羅という一つの友好・同盟 関係にある勢力圏がありました。その高句麗と百済はしょっちゅう戦争をしているん ですね。戦争 では騎馬戦をやりますから、その騎馬戦法が加耶を通じて日本に入ってくるわけです。そういう高 句麗に対抗する百済はどうしたかというと、高句麗が北朝と手を結んでいますから、百済は南朝と 手を結びます。加耶はというと、倭と密接な関係にありましたが、最終的には新羅によって滅ぼさ れます。百済も新羅と唐によって滅ぼされるという運命をたどります。加耶や日本列島の倭は、百 済や南朝と手を結び、いわば南方世界で同盟関係を結んだのです。ですから、この巨大古墳の世紀 というのは、東アジアにおいて南北世界という二つの大きな政治的な勢力圏に分かれていたときの所産であるということでございます。その出土品を見ると、技術革新が随分進んでいると申しまし たけれども、これは直接的には加耶を主として、部分的には百済とか新羅もあるでしょうけれども、 そういった地域の先進的な技術が移転されるという形で 、5世紀の技術革新が展開すると、私は考 えているところでございます。 南朝との関係という問題に関しては、倭が南朝と交流を持ちながら、実はそのことを裏づけるよ うな物的な証拠はほとんどございません。南朝風の画文帯神獣鏡などはありますが、それについて 私は今、天皇陵に指定されている古墳はいかに学術的とはいえ、発掘はもちろんできませんし、急 いでする必要もないんですけれども、百舌鳥・古市古墳群に含まれる中の、特に宮内庁から天皇陵 に指定されている古墳の発掘が行われれば、その中の出土品に南朝渡来の文物が含まれるんではな いかとひそかに思っております。ただ、これは当分の間は無理ということで、想像を たくましくす るほかございません。 そういうことでありますけれど、巨大古墳の世紀は、特に東アジアを舞台にして国際交流が非常 に展開した時代です。そしてまた、先進的な技術の移転によって、日本列島において手工業生産が 大きく前進するのは国際交流の結果なんです。そういうことで言えば、 世界文化遺産の基準のⅱに 交流、国際交流という点が一つの基準になっていますから、それにも適合するということでござい ます。結論的に申しますと、終わりになりますけれども、この仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳 群、すなわち百舌鳥・古市古墳群というのは、文句なしに世界遺産に登録されるべき人類 ならびに 世界共通の普遍的な価値を持っていると、私は確信しております。
スライド
以上が私のお話でございますが、残りわずかな時間を 使って、スライドを20枚ほど用意いたしましたので、た だいまの話を復習していただく意味でごらんいただきた いと思います。 冒頭にも申しましたように、仁徳陵古墳は昔からよくピラミッドや始皇帝陵と比較され ます。そ し て 、 平 面 的 に は 世 界 最 大 で あ る と い う こ と な ん で す け れ ど も 、 古 墳 本 体 だ け の 比 較 で は い け な い と 今 日 申 し ま し た 。 そ の 周 辺 を含めたトータルで比較していく必要があるということでございます。 まず、ピラミッドからごらんいただきましょう。もうおなじみのピラミッドの風景でございます。 これはクフ王のピラミッドですが、ここにございますのは、この参道、墓道がナイル川に向かって延びています。 そのピラミッド本体はもちろん巨大なモニュメントですけれども、そこに葬祭殿があり、参道が あり、そして河岸のところには流域祭殿があり、さらにピラミッドの周りには陪塚が配置され壁で 囲まれています。そして、中にはスフィンクスなども付属しています。つまり一つの複合体、コン プレックスをなしているという、そういう全体像を比較する必要があるということでございます。 これは秦の始皇帝陵で、今から30年ぐらい前に私が撮った写真です。今は、この周辺一帯にいろ ん な 便 益 施 設 、 す な わ ち お 土 産 物 屋 と か 手 洗 い と か 、 い ろ ん な 施 設 が も う び っ し り 建 っ て い ま し て 、 こ う い う 風 景 は 今 で は 見 ら れ ま せ ん 。 も ち ろ ん 古 墳 本 体 は こ のとおりのままです。 先ほど 申しま したよう に、 古 墳本体 があっ て、そ の周りが 二重の 壁で囲ま れてい ます。 その中 にいろ んな施設 があっ たという ことで す。先 ほど銅 馬車が 出たとい うのは 、このあ たりで ですね 。あの 世の始 皇帝の魂 が銅馬 車に乗っ て、こ この寝 殿に行 くと、 そう言われるところです。 それか ら、こ の手前は 始皇帝 の古墳 ですけ れど、 中国の古墳の 特徴は、 墳丘の部分 には 埋葬 が なくて、 地 下 深 く あ る わ け で す ね 。 こ こ で は 地 下 宮 殿 が あ る と 言 わ れ ま す 。 漢 の 劉 邦 が こ こ に 攻 め 込 ん だ と き に 中 を 目 撃 し て い る よ う で し て 、 そ の と き の こ と が 記 録 さ れ て い ま す 。 地 下 深 く に 埋 葬 さ れ て る わ け で す ね 。 こ の 古 墳 本 体 から東に1.5キロ行った と こ ろ で 兵 馬 俑 坑 が 偶 然見つかったのです。 先ほどのピラミッドは1997年に世界遺産に登録されましたけれども、ここは1987年に世界遺産に
登録されています。これもおなじみの発掘風景ですね。長期に時間をかけてということで、飛行機 の格納庫のような巨大な覆いをかぶせて、日常的に時間をかけて、じっくり調査をしていますね。 人物が7,000体、馬車が600体です。そういうふうに言われていますけれども、当時の秦の始皇帝 の軍隊の組織をそのまま模型で表現 したのではないかと言われていると ころですね。 これは、前漢の武帝の茂陵です。 昔は、頂上まで、上り下りできまし たが、最近行きますと周りにフェン スが張られて、中に立ち入ることが できなくなっていました。 今の古墳本体と、李夫人のお墓の ほか、このあたり一帯に、ずっと陪 塚がございます。たとえば衛青将軍 など陪塚群を形成しています。私は、 恐らくこの空間に陵邑があったんでは ないかと思っています。廟に相当する ところもございます。したがって、こ こにも陵園制があったということです ね。先ほどの太王陵についてはだれの 墓かということはまだ確定していませ ん。学界でもいろいろ意見が分かれて います。私は好太王の陵墓と考えてい ます。好太王は、高句麗を大きく発展 させるために、漢の武帝の政治という か、外交を理想もしくはモデルにした んではないかと考えています。そういう意味で、 時代はずっと新しいですけれども、好太王が中国 から陵園制を学んで、自分の陵墓に適用したので はないかと想像をたくましくしております。 これが、今申しました太王陵の本体で、その東 側に祭壇というのがあるんですね。私、審査した ときに、これは祭壇ですかと質問しました。私は、 これは陪塚が並んでいたものではないかと言って おきました。中国では一応、これは祭壇だと言っ ていますが、私は陪塚だと思っています。
今 の太 王陵 は上 のほ うが かな り崩 れて 、石 室の 部分 だけ が乳 首の よう な形 で残 って いま す。 本来 は、 もっ と上 まで あっ たの でし ょう ね。 ここ から 360メートル離れたところに好太王碑が建っていま す。私は、このあたりに陵邑、つまり330戸の守墓 人の居 住区が あっ たの ではな いか と考え てい ます。 太王陵 と好太 王碑 を切 り離し ては いけな いと いう、 そういうことでございます。 昔 は、 好太 王碑 の後 ろに 、住 宅と か、 ある いは 反対側には工場などがありましたが、今では何と600軒か ら700軒立ち退きさせて、きれいに周りを整理してるので す。そして、都は国内城と呼ばれましたけれども、その 城壁の周辺は何百戸と家を立ち退きさせて整備し、景観 を保全しています。そういうことをやっているんですね。 そして、その旧国内城の城内が現在の町の中心ですけれ ども、そこに市役所がありました。集安市の市役所はみ ずから模範を示さないといけないというので、まず市役 所が外に出たんです。将来的には50年、100年かけてでも 国内城の中を全部きれいにして、高句麗の都を復元する と言っております。中国のことですから、100年あるいは 50年もかからないうちに本当にやるかもしれません。そ ういうことが世界遺産では非常に大事になってくるんで すね。 先ほど西村先生のお話の中にバッファーゾーン、緩衝 地帯というお話がございました。本体の周辺を環境、景 観をいかに保全するかということが審査をするときの大 きな基準になってくるんです。中国ではそれをやってのけているわけですね。現在も、唐の都、長 安の大明宮のあたり、この間行きましたら、大地震でもあって町が崩壊したのかと思うような感じ で、恐らく何千戸と家をつぶして、将来、立派な史跡公園をつくるようです。中国ではどんどんそ ういうことを進めております。 今のお話は高句麗ということで、中期の都が現在の中国との国境の集安にあったわけですね。そ こから427年に平壌に移るわけです。 先ほど申しました百済初期の古墳は、こういう段築のピラミッド型の積石塚なんです。これだけ 見ると、恐らくどなたも高句麗式ということがすぐおわかりいただけると思います。それは先ほど 申しました百済建国伝承にかかわるのではないでしょうか。つまり高句麗の王族が百済を建てた、 したがって、高句麗の積石塚を採用したということでしょう。内部の埋葬施設は何かわかりません が、私はここに横穴式石室があったのではないかと推定しております。
百済というと、その後、都がソウルから公州、 扶余へと移ります。中期の都が公州にございまし て、ここで偶然、武寧王陵が見つかりました。中 国南朝のレンガ積み、塼築そのものが見つかった わけです。これは中国の梁と外交関係が頻繁であ ったということともかかわって、百済の武寧王は、 中国南朝の梁のお墓と全く同じものをつくったの です。この武寧王陵についても、今、世界遺産登 録の運動が行われております。 これはおなじみのキョンジュ、慶州にございま す新羅の王陵群ですね。ここも今から6年前に慶 州歴史都市ということで世界遺産に登録されまし て、その中に含まれております。ここは西村先生 が審査をされた慶州歴史都市、その構成遺産の一 つに、この新羅の王陵も入っているわけです。 これは1976年でしたかに発掘しています。戦後 新羅の古墳を初めて発掘しました。これは資料に ありますように、皇南大塚で発掘するに当たって、 韓国人が発掘するのは戦後初めてだということで、 このベルトコンベヤーも実は韓国で実際に使われ た第1号なんです。ここで、後に天馬塚と名前が つけられ、現在、中が公開されています。ここで 実験的に発掘して、その経験に基づいて本体に臨 もうとされたわけですね。結局、これも発掘され ますけれども、結果的にはこちらで内部が復元 、 公開されております。 これが加耶の王陵、首露王という加耶初代の王 様の陵墓で現在、金海空港のある金海にございま す。これは私に言わせれば、この前の石像群は、 朝鮮王朝時代、李朝時代、そのころに修復された ときに新しく後から建てられたものです。本来は ただの円墳でございます。新羅と違って加耶の場 合は、竪穴式石室、やがて横穴式石室になります のに対して、新羅の場合は積石木槨墳ということ で、全く違った内部構造を持っております。 こういうふうにしまして、古代国家の形成過程 で、時の大王は立派な王陵を築いたという、そう
いうお話でございます。 ということで、終わらせていただきます。 質問者2 今、講演を聞いている中で、世界遺産登録するには、やっぱり古墳を発掘して、その調査も一緒 にできないんですか。発掘調査ということについては一度も今まで聞いたことがないんですけれど も、それはできるのか、できないのか。先ほど、ちょっとできないとおっしゃっておられたように 思うんですが、そんな点は。できるのか、できないのか。できれば発掘調査でもして、それも含め て世界遺産登録ですか、できればしてもらったらと思うんですが。 西谷 正 福岡県立九州歴史資料館館長 世界遺産に申請するときにいろいろと資料をつくりますけれども、その際、その古墳の年代を決 めるとか、あるいは、こういうことはなかなかできないんですが、だれの墓であるかを調べるとか ですね、そのための発掘調査はできます。現にやっております。高句麗の場合は、世界遺産に申請 するための資料づくりの一環として大々的に発掘をしているんですね。それで大きな成果も上がっ ているんです。 もちろん発掘後も調査はできます。ただ、文化財保護という一般論から申しますと、文化財はで きるだけ子々孫々に伝えることが大事ですので、なるべく掘らないほうがいいというのが私たちの 立場ですね。つまり発掘というのは、一遍発掘すると、もう二度とできません。ですから、できる だけそれを子孫に残していくことが大事です。科学の実験の場合は何回でもできますけれど、考古 学の発掘というのは1回限りの実験なんです。ですから、最小限の実験、 つまり発掘で、最大限の 成果を得るとか、あるいはそのために十分な人と予算とをかけるとか、そういう慎重な姿勢が必要 だと思います。 世界遺産に登録されると、その重要性はさらに一段と高まりますから、建前はできますけれども、 実際は恐らくする必要がないと言ったほうがいいかもしれませんね。申請する前にいろいろ調べ尽 くされますから。大体それで登録のプロセスとしては問題ないと思っております。 質問者3 ピラミッドから始まりまして東アジア全般にわたるすばらしいお話をお聞きいたしましたが、そ の中でコーズウェイというか、墓道とか参道とかいうお話がありましたけれども、我が国の古墳の 場合は、それはどういうことになるんでしょうか。 西谷 正 福岡県立九州歴史資料館館長 大型の前方後円墳とかで、そういう報告例はなかったと思いますね。ただ、6世紀の古墳時代後 期、横穴式石室がたくさん築かれる群集墳の時代には、古墳が山の上斜面とかにつくられますと、 そこに至る谷筋、それが枝分かれして古墳に至ると、そういう自然の踏み分け道と申しましょうか、 そこに埋葬に行ったり、祭祀を行ったりしますから、そういう、ごく自然な形での墓道というのは
ございます。ピラミッドなんかで申したような墓道というのは、日本の場合は、私はちょっと今、 思い出せないですね。よろしいでしょうか。