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(1)

分数の起源に関する史的考察

上 垣 渉

AHistoricalStudyontheOriginofFractions

Wataru UEGAKI

1.分数の語源

今日使用されている「分数」という用語は、英語で丘action、仏語でも同じ綴りの丘action、

独語でFraktion、伊語で打azi6ne、西語でfracci6nであるが、これらはすべてラテン語の frangereをその語源としている。このfrangereとは「砕く」(break)という意味であり、かっ

てのイギリスでもfractionの代わりとして、brokennumberが用いられていたという。

実は、わが国でも、最初から「分数」という漢字が用いられていたのではなかった。算用数

字を用いる西洋数学を日本に紹介した最初P文献は柳河春三(1832〜1870)の『洋算用法』

(1857年、安政4年)であるが、そこでは分数は「砕数」という漢字が用いられていた1)。

「砕」は砕の旧字である。

したがって、洋の東西を問わず、分数の語源は「砕く」、「割る」などの意味を含んでいたと 言うことができる。

そこで初めに、ラテン語の故郷であるローマの分数をみてみよう。

2.ローマの分数

、ローマ人は1より大きい数の系列については10進法を採用しながら、1より小さい数につい ては12進法を基礎とした。すなわち、彼らの貨幣度量衡の単位では、重さ1ポンドの銅貨が

アス(as)と呼ばれ、その12分割(frangere)によって得られる1つ、つまり古がウンキア

(uncia)とされたのである。

英語の重さの単位であるオンス(ounce)や長さの単位であるインチ(inch)はすべてこのウ ンキア(uncia)に由来している。

ローマ人は元来が実際家であり、ものをはかるという実際的な必要性から、量分割を取り扱 うためには、10よりも12を基礎とした方が便利であることを知っていたと思われる。量分割 では、2等分、3等分、4等分することが多いが、このとき12を基礎に選べば、分割量は簡 単な整数で表すことができるからである。

∴∴÷予‑∵∴∵ニー三二∴二二二十■ニ̲

た独自の名称quincunxと記号"==‑"を使用したのである。また、昔はdeuncia、すなわ

原稿受理日 平成7年9月12日

三重大学教育学部数学教室

(2)

上 垣 渉

ち「unciaだけ少ない」と呼ばれた。

このように、分数を表す詞が単位(名数)を伴って呼ばれたということは、分数が対象と切

り離されていなかったことを裏づけるものであり、抽象的な分数概念が確立していなかったこ

‑・三言‑∴∴ニニニ三こ二̲̲∴‑∴圭̲■̲l■̲三 二̲圭 二

Sあるいは∑や、丸を半分にした(が用いられた。

このように、ローマにおける分数は単位量の等分割にその基礎が置かれていたと言うことが

ところで、たとえば‡などはどのように表されたかというと、「古の1つ半」のように呼 ばれているから、‡=古+去となる。このように、ある分数を分子が1の分数(これを単

位分数という)の和として表す方法はエジプト人から受け継いだものであった。

もっとも、ローマに限らず、分数を単位分数の和として表す方式はギリシア人も受け継いで いる。そこで、ギリシア・ローマに先行するエジプトの分数をみてみよう。

3.エジプトの分数

エジプト人は1から10進法的に増えていく数列としての整数に対して、減っていく数列とし

ての逆数すなわち単位分数および‡を用いていた。一般に、単位より小さい量を扱うとき、

まず出てくるのが半分であり、その次が半分より少し大きい、少し小さい量である。エジプト

ではこの半分(‡)とそれより少し大きい量(‡)に対して特別な記号が割り当てられていた。

‡‑=ニ・+ ‑㌃←ノ守

そして、それ以外の分数はすべて、開いた口を表す記号<==ユ(ロー、rO)の下に整数を示 す数字を書いて表されたのである2)。たとえば、次のごとくである。

‡一帯 喜一;;i;弓語 去‑11つぐ扇

このように、分数を表記する際に使用された記号<==ユの制約から、エジプトでは分子を1 とする単位分数が用いられたと言われている。

さらに注目すべきことは、記号<==ユに関する言語表現である。<==ユは「部分」というよ うな意味を持っており、吊千は「5の部分」あるいは「第5部分」を意味しているのである。

この「第5部分」とは単位を5等分したときの5番目の部分のことであり、他の4個部分と 合わさって全体をなすというような具体的な量を自然に表していると言える。そして、このよ うな言語表現では、

「第3部分」‡に対して、「2個部分」

「第4部分」寺に対して、「3個部分」

「第5部分」‡に村して、「4個部分」

という分数体系が考えられる。

2一33す4了

2

(3)

英語では、‡、‡、‡をそれぞれonethird、Onefourth、Onefi地と言うが、単に簡略化さ

れて、第3(third)、第4(fourth)、第5(fifth)などと言われることもある。これらは「第3 部分」、「第4部分」、「第5部分」から由来していると思われる。

このような言語表現はヘブライ語聖書(『創世記』47章、23、24節)にもみられる。すなわ ち、ひどい飢饉のとき、エジプト人は自分自身と土地とを売ったのであるが、これに村して ヨセフは次のように言っているのである。

「汝等に種を与えるから、この土地に蒔くがよい。収穫のときには、五番目の部分をエジ プト王に与え、四つの部分を汝等自身のものとせよ。」3)

エジプト人のこのような言語表現では、5分の2(twofifths)のような表現は意味を持たな いのである。なぜなら、「第5部分」という表現に対応する量は5等分したときの最初(ある いは最後)の部分であり、それは"ただ1つ"しか存在しないからである。

エジプト分数で、たとえばそを‡+‡とせずに、‡+去のように異なる単位分数の和

として表すのも、"第5部分"などは「ただ1つしか存在しない」とする思考法が背景にある と考えれば納得できる。

このような言語使用も手伝って、エジプト人はそもそも"分数"とは単位量を等分割した1 つを表現するものとして認識する仕方に止まっていたのではないかと思われる。

ローマもエジプトも、1より大きい数については10進法を採用しながら、その方法を1より 小さい数に対して適用しなかった点が共通している。ローマでは底として12がとられたが、

エジプトでは主として逆数系列が使用された。

なぜそのようになったかというと、ローマもエジプトも位取り法を持っていなかったからで ある。位取り法を持っていれば、1より大きい数に適用された方式は必然的に1より小さい数 に対しても適用される方向にむかったことであろう。

実際、バビロニアでは底を60とする60進法が採用されたが、それにとどまらず、偉大なる

「位取り法」を習得していたために、単位より小さい量に対しても60進法が適用されたので あった。

ところでエジプト人は、かけ算をする場合はほとんど、2倍するか半分にするかの方法を使 用していたので、任意の数量すなわち整数もその逆数も2倍できる必要があった。このことは、

偶数の逆数の場合は容易であるが、奇数の逆数の場合は面倒になってくる。

そこで、奇数の逆数を2倍する計算結果がすぐにわかるような数表をあらかじめ作成してお き、種々の計算に利用できるようにしていたのであった。このような「分数表」がリンド・パ ピルスの最初に掲載されているのである。

そこでは、分子が2で、分母が3から101までの奇数である合計100個の分数が単位分数の 和として表されている。

リンド・パピルスの研究者A.B.チェイスはこの分数表が複数の原理から作成されているこ とを見い出し、次のような6種類に分類している。すなわち、

A.最初に2/3をとるもの。

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上 垣 渉

B.ただ2等分していくもの。

C.ある段階で整数が得られ、その逆数を乗数に使用するもの。

D.AまたはBとともに、さらに1/7、1/10も使うもの。

E.35、91、101の3つの特殊なもの。

のように4つの手法(A〜D)を抽出した後、A、B、AD、BD、C、Eの6種類に分類し ているのである4)。

4.バビロニアの分数

60進法によるバビロニアの数体系では、1を表す̀て"が記される場所によって60をも表 した。たとえば、1×60+21つまり81は"アくくT"のように書かれたのである5)。

この位取り法のおかげで、バビロニア人はエジプト人が導入したような種々の記号を必要と しなかったのであり、それゆえにバビロニア数学は急速な成長をとげ、エジプト数学の水準を こえるまでになったと言えよう。

さて、60進位取り法にもとづくバビロニアの数体系においては、単位より小さい量は60等分

割が次々と続けられていくので、たとえば、1+昔+凝十器‑は、"1;24、51、10"と善

かれるわけである。

したがって、60進分数というよりは、60進小数と言うべきであろう。

この60進小数を用いた表現が典型的に示されている例を1つ紹介しよう。それは今日のJす の近似値を求めている粘土板である。

この粘土板の模写6)は図のようであり、Jすの近似値が60進法で"1;24、51、10"と書か れている。これを10進法に直してみると次のようになる。

1;24、51、10=1+0.4+0.0141666+0.000046296296

=1.414212962

この値は小数第5位まで正しく、今から約4000年もの昔に、このように精度の高い値が得ら れていたとは驚くばかりである。

この60進小数は後に天文計算に有効に使用され、プトレマイオスの『アルマゲスト』(偉大 な書)においても中心的役割を果たしている。

このようにみてくると、バビロニアには分数はなかったようにも思われるが、60進小数が一 般化する以前には素朴な分数が存在していた。すなわち、バビロニアの先住王朝であるシュ

4

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メール王朝(2700〜2330B.C.)の頃には、

÷ヨ÷ロ去閻志冒忘冒‡銅‡∇

のような分数記号が使用されていたし、アツカド王朝(2330〜2200B.C.)の頃には、60進法と のかかわりで、分母が6である

三;‑‑=壬・二≡・二三≡ 二≡

のような分数系列もあった7)。

このようなきわめて古い記号をみると、分数が容易で便宜な分割にその起源を持っていたこ

とがわかる。しかも、記号"ロ"は1ウル(容積の単位)を表す記号であるから、バビロニ

アでも、初期の分数は単位量の等分割から発生したということができる。

では次に、ギリシアの分数をみてみよう。

5.ギリシアの分数 1)アリスメーティケーとロギステイケー

古代ギリシアにおける分数を考察するには、まず古代ギリシア人の学問に対する考え方を 知っておかなければならない。

「数学」を意味するmathematicsの語源はギリシア語のFLα07iFLαTαであるが、これは

「学ぶ」を意味する動詞である〃αレβdレ助から派生した〃dβり〃αの複数形なのであって、

もともと「学ばれるべきもの」という意味であった。そして、このマテーマタは数論、音楽論、

幾何学、天文学の4科で構成されていたのであり8)、この「学」としての4科にそれぞれ次表 にみられるように、4つの「術」が相応していたのである。

静 止 運 動

数 数 論 音楽論

臼 白 幾何学 天文学

静 止 運 動

数 計算術 大衆音楽

Eヨ

測量術 航海術

ここで、分数に関連する領域は次の2つである。

数 論(dpJβ〃りTJぷ万、アリスメーティケー) 計算術(右け="=巧、ロギステイケー)

このアリスメーティケーが致そのものについての学問であり、数の本性を論じるのに対して、

ロギステイケーの目的とするところは日常の生活や商業の便に役立てることにあった。

言い換えれば、アリスメーティケーは理論的であり、ロギステイケーは実用的である。J.

ゴーの"AShortHistoryofGreekMathematics"によると、この2領域の起源はビュタゴラス 学派における生徒の練習問題を区別することにあったようであり、それぞれ"scienceofnum‑

bers"と"artofcalculation"と呼ばれている9)。

そして、ギリシアの分数はこの2領域で異なっているのである。すなわち、ギリシアにおけ

る分数は次のように3種類あったといってもよい。

(6)

ロギステイケー

上 垣 渉

エジプト式分数 バビロニア式分数(小数)

アリスメーティケー……ギリシア式分数

以下、この2領域での分数をみていくことにするが、その前にギリシアの数記号がどのよう なものであったかを知っておく必要がある。

ギリシアの数記号にはアソティカ式(あるいは、ヘロデイアン式)とアルファベット式の2 種類があるが、数学では主として次のようなアルファベット式数記号が使用された10)。

1 2 3 4 5 6 7

00

9

α

β

γ

又U

e

[り

β

0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

方、人 〃.レ

■さっ 0

■打

′「

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 p α T

U・¢ X・甲

山 入」.

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

α

β

γ

只U

e

r

刀・月U

/

/

′/

′/

/

/

/

′′

/

αM止MγM∂M EM南∵血∵M∵M

さて、それではギリシアにおける分数をみてみよう。

2)ロギステイケ一における分数

ギリシアにおけるエジプト式分数とはエジプトの影響を受けて、単位分数を用いたものであ る。一般的には、アルファベット式数記号の右上にダッシュをつけて単位分数が表されている。

‡=γ′‡=り′ 去=∠E′

しかし、‡と‡については、エジプトと同様に特別な記号を割り当てている例がみられる。

たとえば、ヘロンの『幾何学』(GEOMETRICA)では、

‡……L′ ‡……山′

のような記号が使用されている11)。

しかし一方、ギリシアではエジプトの単位分数の影響を受けながらも、単位分数だけを用い

ていたのではない。たとえば、アルキメデスは『円の測定』の中で、昔を"70α′"のよう

に書いている12)。

単位分数でない一般の分数を表記するときは、分子に1つのダッシュ、分母に2つのダッ シュをつけて書く方式もあったようである。

意=∂′り′′ 了r=∠′0α

さらに、デイオファントスなどでは、号を古のように書いている。つまり今日の分数

の分母と分子を逆転した分数表記が行われているのである13)。

他にもさまざまな表記がなされており、ギリシア人がエジプト人のように、固定した伝統に

6

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縛られていないことがわかる14)。

ロギステイケ一におけるこのような分数の起源の一つがエジプト分数にあることは明らかで あり、その意味において、単位量の等分割という考え方が背景にあると言うことができる。

さらに、このことは古代ギリシアの文献からも根拠づけることができる。すなわち、古代ギ リシアの文献で、分数が現れている最も古いものはホメロスの『イーリアス』であると思われ る。『イーリアス』はギリシア最古の、したがってヨーロッパ最初の文学作品(叙事詩)で あって、およそ紀元前8世紀頃の成立とされているが、そこではオデュッセウスが次のように 述べているのである。

「テユーデウスの子よ、まあそうひどく私を褒めも答めもしてくれるな。もう十分に心得 ている。アルゴス人らの中で御身は喋ってるのだぞ。それよりも、さあ出かけよう。夜も 随分経ってゆき、払暁も近い。星々も、それ、廻り進み、大方夜は過ぎてしまって、三つ の区分のうち、二つは終り、三つ目が残るばかりだ。」15)

つまり、夜を3等分しているのである。このように、あるものを等分して、そのいくつ分を 考える考え方はきわめて古い起源を持っていると言えるのである。

そして、ロギステイケ一における分数はそうした考え方を背景として、日常の生活の中で使 用されていったのである。

3)アリスメーティケ一における数概念の背景

古代ギリシアにおけるエジプト式分数は実用的な計算術(ロギステイケー)において用いら れたものであり、その概念は基本的に≪等分割≫ を基礎におく流儀のものであった。

これに対して、数論(アリスメーティケー)におけるギリシア式分数はまったく異質の概念 であった。そして、このピエタゴラス・プラトンの流れをくむ、致そのものの本性を論じるア リスメーティケ一における分数こそ本来のギリシア式分数なのである。

アリスメーティケ一における分数を論じるためには、まず「数とは何か」という根源的な問 いかけから始めなければならない。「数とは何か」という問いに村する答えは、ギリシア・ア リスメーティケーの集大成として位置づけられるユークリッド『原論』第Ⅶ巻に端的に示され ている。

第Ⅶ巻には23個の定義が置かれているが、その最初の2個が上の問いに答えているのである16)。

定義1.単位とは存在するもののおのおのがそれによって一とよばれるものである。

定義2.数とは単位から成る多である。

この定義はあまりに簡潔すぎて、その裏に潜んでいる思想を理解することはなかなか困難で ある。しかし、プラトンが『国家』の中で「一に関する学」について述べているくだりを読む と、その意味するところが明らかになってくる。

「だって君も知っての通り、数学者たちは、人が一なるものを分割しようと試みても、一

笑に付して、それを承認しはすまい。つまり君が一を分割しようとすると、彼らはその代

(8)

上 垣 捗

りに一を多化するだろう。」17)

つまり古代ギリシアにおいては、「数」とは、一と呼ばれる ≪単位≫の集合体(多者)なの であるが、その≪単位≫ は分割不可能とされていたのである。単位すなわち一が分割不可能な

らば、一より小なる分数は存在しないと考えざるをえない。

著名なギリシア数学史家A.サボーは次のように述べている。

「もちろん、実生活ではどんな単位も分割できるし、ギリシアの商人や技師たちも果てし ない遥かな昔から分数による計算は当然していたのだが、ただこの古い学問(数論)だけ がそうしなかったのである。分数はアルキメデス以前には、一般に学問的数論の中に現れ ていなかった。」18)

では、何故にギリシアの数論において《単位≫が分割不可能とされたのであろうか? それ は次のように考えられている。

もし"→''なる ≪単位≫が分割可能であるとすると、その一はもはや一ではなく、その中に 多くの部分をもつ何者か、つまり多者になってしまう。したがって、≪一なるもの≫ という概 念は単にそれ自身であるのみならず、その反村のもの、すなわち 《多者≫ になってしまう。こ れは自家撞着的な主張であり、拒否されなければならない。したがって、「単位は分割不可能

である」とされたのであった。

さらに、同様の趣旨のことはスミュルナのテオンによっても、次のように述べられている。

「眼に見える物の範囲において一なるものが分割されるならば、それは物体として十分に 小さくなり、その物体自身よりも小さい部分に分解するだろう。しかし数としてみると、

それは大きくなる。なぜなら一の代りに多が現れてくるからである。」19)

このような「一(単位)が分割不可能である」という思想はパルメニデスをその領袖とする エレア学派の≪存在者≫ に関する哲学にその起源を持っているというのがA.サボーの説なの である。

エレア学派においては、≪存在者≫すなわち ≪一者≫の存在のみが許されるとされ、存在す るものが《多なるもの≫すなわち《多者≫であることは拒否されたのであった。

そして、《存在者≫すなわち 《一者≫は分割不可能なのであった。

しかし《多者≫ を拒否すると、数論というものは一般に成立しなくなる。そこでエレア学派 の論敵であったピエタゴラス学派は、いかにして≪多≫ を失わないようにすべきかを考えたの である。

その結果、≪単位≫ を《数≫へと多者化することによって、《一(存在)≫の分割不可能に関 するエレア学派の教義を遵守するとともに、《多≫の回復をはかって、数論の成立を保障した

のであった。

『原論』第Ⅶ巻の冒頭にみられた「数」の定義はそのような背景のもとに成立したのであっ た、というのがサボ一説なのである。

実際、

8

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「ビュタゴラスが初めて、存在者を一者(モナス)なりと述べたのである。ここに一者と は、それを分かちもつことによって各存在者が一とよばれるものである。」20)

という伝承にみられるように、『原論』第Ⅶ巻の冒頭にみられた「数」の定義はピエタゴラス 自身の功績とされているのである。

4)アリスメーティケ一における分数

上に見てきたように、アリスメーティケ一においては≪単位≫は分割不可能とされたので あった。したがってギリシアの数論においては、1より小さい数としての分数は存在しないの

である。

しかし、ギリシアの数論学者は《数の比≫という概念を分数に相当するものとして使用した のである。これが今日「割合分数」と呼ばれているものである。

このことを具体的に説明しよう。

図のようにある線分A(存在者)があったとする。これを3等分割する場合を考えてみよう。

3等分割した1つ、すなわち‡は図のBで表される。しかし、等分割は許されないから、逆

にBを単位(1)とみなして、Aを"3"として多者化するのである。

こうして「BがAの‡である」と言うべきところを、「BのAに対する比は1‥3である」

と言うのである。

このようにして、ギリシアの数論学者は今日の分数概念と数学的に同値な《数の比≫を導入 したのである。

2つの整数の比という概念は分数を完全に包摂するから、ギリシア人は今日の私たちが有理 数域と呼んでいる領域全体にとって代る数領域を持つに至ったのである。

このようにみてくると、もともとギリシア数学(アリスメーティケー)には

〈分数の概念はない〉

と言ってもよい。そこにあるのは、今日の分数概念と数学的には同値であっても、≪数の比≫

としか言えないものなのである。

6.比を見い出すための互除法

古代ギリシアの数論では、今日の分数概念と数学的に同値な≪数の比≫が使用されていたこ とをみてきたが、実はこの≪数の比≫はピエタゴラス学派の音楽論と深くかかわっているので ある。

音楽理論の歴史における古代から中世への橋渡し的存在であるボエティオスによれば、ピエ

タゴラスは鍛冶屋の前を通りかかったと・き、打ち下ろされる2種類のハンマーが協和2和音を

響かせるのを聞き取ったという。そして、一弦琴(モノコルド)による実験によって協和音を

(10)

上 垣 渉

生み出す弦の長さがどのようなものであるかを見い出そうとしたと言われている21)。

この一弦琴による実験では、まず張られた弦全体の音が聞き取られ、続いてこの音と協和す る音が探し求められたのである。この時代には、弦を短縮すればよいことは知られていたが、

問題はどれだけ短くすればよいかということであった。

さまざまな試行の結果、次のような手順によって、たとえば今日の4度の和音に対応する

"弦の長さの数比"が見い出されたのである。

① 仝弦(A)に対して、4度の和音を発するより短い弦切片(B)が見つかったとき、

眼前には2つの異なった長さの距離があった。

② このとき、短い弦(B)が単位とされ、長い弦(A)から単位Bが引き去られた。す るとそこには、差(R)つまり縮められた部分が残った。

③ 差Rの大きさを知るために、この差が短いほうの距離(B)から何回引き去られるか 試してみる。すると、ちょうど3回引き去られることがわかった。

④ したがって、4度の和音は弦の長さの比が4:3であるような2つの弦切片によって 生み出されることが明らかになったのである。

3回㍍きムられる

〝 /〜 /J

この方法では、AからBが引き去られ、さらにBからRが引き去られるという手順が繰り返 されるので、古くは「交互差し引き法」と呼ばれていた。

ところが、この方法が後に数論に適用されるようになり、ユークリッド『原論』第Ⅶ巻の 命題2に収められているように、2数の最大公約数を求める方法として定着するに至って、

「ユークリッドの方式」(EuklidischeVerfahren)と呼ばれるようになったのである22)。これが 今日の「互除法」(Wechselwegnahme)なのである。

A.サボーは「"ユークリッド方式"の起源とピエタゴラス派の和声学」という興味ある論文 を書いているが、そこでは

「さて、私は互除法の起源についても、他の問題仁一ーすなわち、なぜユークリッドの数論 に関する巻において、数が距離として図示されたのかという問題一についても、例の

ビュタゴラス派の和声学によって説明できると信じている。」23)

と前置きした後、一弦琴を用いた実験によってピエタゴラスが4度、5度、8度の和音がそれ ぞれ4:3、3:2、2:1という簡単な数比で表現されることを見い出した件が詳述されている。

そして、そこで使用されたユークリッドの方式(互除法)に関するユンゲの次のような見解 を紹介しているのである。

‑10‑

(11)

「この方式はきわめて古いものでありうる。2つの距離の比を決めようと欲すれば必然的 にそうした方式をとることになる。」24)

そして、この方式が異なる2つの数あるいは量相互の関係を見い出すために、ひいては最大 公約数(量)を求めるための方式として受け継がれていき、ユークリッド『原論』の中に採り

入れられていったのである。

したがって、互除法の起源は古代ギリシアの音楽論における≪弦切片の数比≫を見い出すこ とにあったことがわかる。

ところで、すでにみたように、ギリシアの数論学者はいわゆる"分数"を用いず、それと 同値な"数の比"を使用したのであったが、その"数の比"を決定する方法が互除法なのであ るから、アリスメーティケーの「ギリシア式分数」が互除法とまったく無関係であるとは言え ない。

しかし、互除法はもともと音楽論における一方法として発生し、それが後に数論に適用され たのであって、その逆では決してないのである。

ユークリッド及びそれ以後の視点からみれば、互除法は数論や無理量論における方法とみな しうるが、それは後代の視点からなのであって、互除法によって分数が把握されたわけではな いのである。

7.インドの分数

古代インドでは"分数"を意味する用語として、Kal豆SaVarDaとBhinnaの2つが使用されて いたと言われる25)。このうちKal豆SaVarDaという用語はより古いもので、紀元前300年頃の ジヤイナ敦の聖典であるSdtrakrt豆缶gaの中に登場している。

この用語は"Kal豆"と"SavarDa"という2つの単語の合成語であって、Kalaはもともと

ヴューダの時代において、"意部分"という意味で使用されていたのであったが、ヴューダ

の時代(紀元前1000頃〜400頃)の終りになって、一般的に"部分"を意味するようになった のである。

また、Savarpaという単語は「同じ種類のものを作る」という意味であって、インド数学に おいては、共通の分母にするという「分数の通分、約分」に対する共通語であった。

このような事情から、KalasavarDaという合成語が一般に"分数"を表現する術語となった のであり、伝統的にシーラーンカ(826年)ヤマハーヴイーラ(850年)によって使用されたの であった。

一方、もう一つの用語Bhinnaは字義通りには"brokenpart"(砕かれた部分)を意味する単 語であり、シェリーダラ(8世紀)やバースカラ(7世紀)などによって用いられた。

さらにbhinnaは「分割された」という意味を持っていることから、否定接頭辞"a"を 伴ったabhinnaは「分割されていない」を意味し、それゆえに前者が"分数"を、後者が"整 数"を表現していると言われている26)。

このような言語的観点からみて、インドの分数も分割にその起源を持っていることがわかる。

ところで、チャクラヴアルテイが

「インドの分数は他の地域のそれよりもより合理的である。彼ら(インド人)は15、16世

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上 垣 渉

紀のヨーロッパ人のように分数の定義を除法においている。

しかしヨーロッパ人と違って、その除法は"通常、小さい数を大きい数によって除す る"という制限を設けてはいなかった。つまり、分子が分母よりも小さくなければならな いとは考えなかったのである。」27)

と述べているように、インド人は分母・分子の大小に制限をつけない一般的な分数を取り扱っ

たのである。その結果、2‡のような今日の分数表記はインド分数にその起源を見い出すこ

とができるのである。

具体的に、2852÷12がどのような手順で計算されたのかをみてみよう。

古代インドでの計算は、板の上に砂をまき、その上に棒で数字を書いて行われたので、数字 を次々と「消す」、「書く」ということが容易になされたのであった28)。したがって、上の計算 は次のように遂行されたのである。

① ②③

2 5 2 4 2 1 2 5 2 8 2 2

1 2

00 5 2 2 1

2 5 2 2 4 1

2 3 5 2 2 4 1

⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨

8

12 12 12 12

こうして、最後に得られた結果⑨が今日の237昔を表しているのである。

バースカラ2世(12世紀)の著作『リーラーバァティー』における「数の基本演算」に関す る章では、上の方法がインド流の書式として紹介されているのである29)。

しかし、インドでは分数の横棒はみられない。分数の横棒は、インド流の書式が後にアラビ

アに入り、アラビア人の手によって導入されたと言われている。つまり、最初は237品と書

かれ、次に横棒を用いて237意と書かれるようになり、この書式がヨーロッパに入って、今

日に至っていると言うことができる。

8.中国の分数

古代中国における最古の数学文献の一つは紀元前100年前後以降の成立とされる『九章算術』

であり、その「巻第一 方田」において多くの分数計算が扱われている。たとえば、7番目に は「いま三分の一と、五分のこがある。問う、これを加え合わすといくらか。」のように、分 数の加法の問題が現れている30)。

『九章算術』では、分数の加減乗除がそれぞれ"合分"、"減分"、"乗分"、"経分"と呼ばれ ていて、それらの計算規則が述べられているのである。

たとえば加法については、その規則が次のように示されている。

「分母を互いに分子に掛け、加え合わし、「実」(被除数のこと)とする。分母同士を掛け 合わし、「法」(除数のこと)とする。」31)

つまり、今日の「分数の通分」が述べられているのであるが、この計算法について後代の劉 徽は次のような註釈を付けている。

‑12 ‑

(13)

「「分母をたがいに分子に掛ける」ことについて考えてみよう。約分した分数はその分け方 (分母)が租であるのに対し、約分しない分数は分け方が細かい。しかし粗細の区別は あっても数値としては等しい。また諸分数の分け方が異なる場合は、分け方を細かくする のでなければ通じ合わすことができない。したがって分母を分子に掛けることによって分 け方を細かくし、分け方を通ずる。そして通ずれば、加え合わすことができる。」32)

ここでは、「分け方」を軸として分数が論じられていることがわかる。つまり、分数の背景 に"分割"が置かれていると言うことができるのである。

『九章算術』では、「巻第一」の後も分数計算が数多く登場する。たとえば、「巻第六 均輸」

における最後の28番目の問題は次のようなものである。

「いま或る人が(黄)金を持って五個の関所を通った。最初の関所の税は二分の一、次は 三分の一、次は四分の一、次は五分の一、次は六分の一であり、五個の関所を通じた関税

は金一斤であった。問う、本持っていた(黄)金はいくらか。」33)

ここでも、分数がある量の黄金の‡、‡、与、‡、‡として分割的に捉えられていること ところで、古代エジプトヤギリシアなどでは、‡と‡のように、日常頻繁に使用される分

数については特別の記号が付与されていたが、このような事情は洋の東西を問わず似かよって いる。つまり古代中国においては、特別な記号こそないが、次のような用語が使用されていた のである34)。

パ ン シヤオバン ダイパン ヨウパン

‡……中半、‡……少半、‡……大半、‡……弱半

さらに、帯分数についての今日の記法の原型はインドに見られたが、これと同様の形式が古 代中国にも見られる。

古代中国での計算は竹で作られた算葦という器具を用いて行われたが、たとえば131を7 で割る場合には、下図の左のように置かれ、その計算結果が右図のように示されたのである35)。

この計算結果の数字は、上から順に18、5、7を示しており、131を7で割った結果が

18‡ であることを表現しているのである。

また中国の分数計算において、互除法が使用されていたことは注目に値する。

すなわち、『九章算術』「巻第一 方田」の6番目に「九十一分の四十九がある。問う、これ

を約すといくらか。」という約分の問題があるが、このときの最大公約数を求める方法として

互除法が登場するのである。

(14)

上 垣 渉

劉徽は次のような註釈をつけている。

「分母分子をともに半分にできる場合は半分にする。できない場合は、別に分母分子の数 を置き、小さい方を大きい方から引く。さらにこの過程を繰り返し、両者の等数を求める。

この等数で分母分子を約す。」36)

このように、古代ギリシアの音楽論における互除法の発生でもみたように、やはり互除法は 分数それ自身の発生と直接的な関連があるわけではなく、2数の最大公約数を見い出す方法と

して現れてきていることがわかる。

9.結

筆者は分数の起源を明らかにするために、諸地域に誕生した古代数学における分数の使用例 を見るとともに、"分数"を意味する用語や記号がそれぞれの古代数学においてどのように表 現されていたのか、またそれは何に由来するものであったのかなどを明らかにしてきた。

その結果、エジプト、バビロニア、ギリシアのロギステイケー、ローマ、インド、中国にお けるすべての古代数学において、分数とは「ある量に対する分割操作の結果得られた量を表現 するための数」(私はこれを"分割量分数"と呼ぶ)であることが明らかになったものと思う。

そして、量に無関心であったギリシアのアリスメーティケ一における「分数」のみが一人特 異な存在としての意義を持っていたのであった。さらに、歴史的にみて、アリスメーティケ一 における"分数"を「分数」と呼ぶのは不適切であることも明らかになった。なぜなら、アリ スメーティケ一においては、「一」(単位)は分割されえないものとみなされていたからである。

「単位」が分割されえないものである限り、単位より小なる量を分数(あるいは小数)によっ て表現する途は閉ざされてしまうことになるのである。

その結果、アリスメーティケ一においては、2量の関係(割合)を意味するところの"整数 の比"が今日の分数概念に相当するものとして把握されたのであった。これがいわゆる今日の

「割合分数」の起源である。

そして、ビュタゴラス学派の音楽論でみたように、2つの弦切片の長さの数比を見い出すた めに使用されたのが互除法であり、この互除法は後に数論に適用されて、2数の最大公約数を 求める方法として定着していったのである。また、互除法のこのような使用法は古代中国にお いても同様であった。

ところで一方では、この互除法は古代ギリシアの大工によって用いられたという説がある。

たとえば遠山啓は、

「この手続き(互除法のこと一筆者)は古代ギリシアの大工などが使っていたものと言わ れている。この方法で測っていくとき、現れてくるのは分数である。」

と述べているが、その根拠となる史料は示されていないし、現在のところ見い出しえない37)。

すでに見たように、互除法の起源が2つの弦切片の長さの数比を見い出すための方法、すな わち操作であったことは明らかである。しかし、あえてその起源を離れ、その操作を単位より 小なる量の大きさを見い出すために使用することは可能である。

‑14 ‑

(15)

つまり、単位より小なる量の大きさを見い出す方法として、

《分割操作≫ ≪互除操作≫

の2つがあると言うことができるのである。

この2つの操作が量の大きさを表す分数の指導にいかに関わるのかは教育の課題であるが、

数学史の立場から分数の発生をみた場合、単位量に対する分割操作によって量分数が把握され たのに村し、異なる2量の関係(割合)を把握するために使用されたのが互除操作であったと いうことは歴史的事実として明白であると言える。

1)柳川春三『洋算用法』(安政四年丁巳九月)では,「一位の下を砕数と云」と書かれているから,"坪 数"という語は小数に対しても使用されたと考えられる。

2)エジプトの数体系は10進法であり,一,十,百,千,万,十万,百万がそれぞれ次のような記号で 表された。

0

0 1

1 0

0 0 l ▲P

り′

?去

10.000 訝

100′000/∠プ

1′000′000

3)岩波文庫『旧約聖書 創世記』(関根正雄訳),p.143

4)A.B.CHACE,平田寛監修 吉成薫訳『リンド数学パピルス』(I)(朝倉書店),p.10 5)バビロニアでは,一,十を表す数記号

"女","彗,・・"強,・が用いられた。

"γ","く"と空位を表す記号である"卓 あるいは

6)ASGERAABOU,EPISODESFROMTHEEARLYHISTORYOFMATHEMATICS,p.27

7)吉田隆著『記数法の展開・位取法・算盤』(富士短期大学出版部),p.47及びp.49 8)G.R.Morrow,PROCLUSACommentaryontheFirstBookofEuclid'sElements,pp.29‑30

上垣渉著『ギリシア数学のあけぼの』(日本評論社)の第8章を参照されたい。

9)JAMESGOW,ASHORTHISTORYOFGREEKMATHEMATICS,p.22

10)アルファベット式数記号の使用は紀元前5世紀頃からと言われている。

11)J.L.HEIBERG(ed.),HERONALEXANDRINVSOPERAIV,p.224 12)J.L.HEIBERG(ed.),ARCHIMEDESOPERAOMNIAI,p.242 13)P.TANNERY(ed.),DIOPHANTVSALEXANDRINVSOPERAOMNIAI,p.92

タンヌリ版の『デイオファントス全集』では寺のように横棒"‑''が使用されているが,ショ ウーネ版の『ヘロン全集』では,523昔が恒γ7どのように記述されていて,横棒が使用されてい

ない。

(H・SCHOENE(ed・),HERONALEXANDRINVSOPERAIII,p.122)

14)たとえば,アルキメデスは『放物線の求積』において,‡を言葉を用いて,"ど打恒′TOレ,,と

している。このように,分数は必ずしも数記号を用いて表されたわけではない。

15)岩波文庫『イーリアス』(中)(呉茂一訳),pp.13ト132

16)E・S・STAMATIS(ed・),pOStI・L・HEIBERG,EVCLIDESII,ELEMENTAV一ⅠⅩ,p.103

中村幸四郎・寺阪英孝・伊東俊太郎・池田美恵訳『ユークリッド原論』(共立出版),p.149

(16)

上 垣 渉

17)藤沢令夫訳『国家』(岩波書店『プラトン全集11』),pp.520‑521 18)ARPADSZABO,ANFÅNGEDERGRIECHISCHENMATHEMATIK,pp.348‑349

アルパッド・サボー 中村幸四郎・中村清・村田全訳『ギリシア数学の始原』(玉川大学出版部),

p.314

19)同上書,p.349,p.314 20)同上書,p.353,p.318

21)CalvinM.Bower,BOETHIUSFundamentalsofMusic,pp.17‑19

上垣渉著『ギリシア数学のあけぼの』(日本評論社)の第5章を参照されたい。

22)『原論』第Ⅶ巻命題2では,「互いに素でない2数が与えられたとき,それらの最大公約数を見い出 すこと」と述べられている。

また,ユークリッドの方式は『原論』第Ⅶ巻だけでなく,もう1か所に登場する。すなわち,無理

量論を扱った第Ⅹ巻の命題3において,「2つの通約できる量が与えられたとき,それらの最大公約量 を見い出す」ために使用されているのである。

23)MATHEMATISCHEANNALEN,150BAND,3.HEFT,p.205 24)同上書,p.203

25)GURUGOVINDACHAKRAVARTI,ONTHEHINDUTREATMENTOFFRACTIONS,p.67 この論文の人手にあたっては矢野道雄氏(京都産業大学教授)のお世話になった。

26)矢野道雄編『インド天文学・数学集』(朝日出版社),p.219 27)GURUGOVINDACHAKRAVARTI,ONTHEHNDUTREATMENTOFFRACTIONS,p.67

28)矢野道雄編『インド天文学・数学集』(朝日出版社)所収の「バースカラニ世の数学」(林隆夫)に よれば,中世インドの数学(ganita)には,パーティーガニタとピージャガニタという2大分野があっ たという。

そして,パーティーガニタはパターン化された問題に対する解のアルゴリズムから成り,ピージャ ガニタは未知数に文字を用いる方程式論であると解説されている。

「パーティー」(pati)なる語は̀̀書板"を意味する単語pattaに由来することから,パーティーガニ タは「書板数学」と言ってもよい。この書板の上では"書いたり,消したり"が自由に行われたので

ある。

29)矢野道雄編『インド天文学・数学集』(朝日出版社)所収の「リーラーヴァティー」(林隆夫)では, 被除数1620,除数12の場合が扱われている。

30)薮内清編『中国天文学・数学集』(朝日出版社),p.85 31)同上書,p.85

32)同上書,p.郎 33)同上書,p.199

34)ジョゼフ・ニーダム著『中国の科学と文明 第4巻数学』(思索社),p.44 35)銭宝珠編 川原秀城訳『中国数学史』(みすず書房),p.38

算簑による数の表記法は次のように,縦横の2つの方式があった。

縦式 t = ==…‖…T「r¶‥m

横式 ≡≡喜⊥主主圭

1 2 3 4 5 6 7 8 9

36)薮内清編『中国天文学・数学集』(朝日出版社),p.85 37)遠山啓著『数学入門』(上)(岩波文庫),p.28

ー16‑

(17)

なお,これと同様の記述は藤田薫著『長さを測る』(日科技連)の17ページにも見られる。

筆者が藤田薫氏にその記述の根拠となった史料の照会をお願いしたところ,次の2点を示していた だけた。

① 藤田氏が大学1年(1946年)のとき,遠山啓先生の数学の講義でこの話をお聞きになったとい うこと。

②『長さを測る』の原稿を善かれた頃(1974年),中学・高校生向けの数学の啓蒙書の中に,この 話が絵とともに載っていたと記憶されていること。

しかし,藤田氏が1974年頃に見られたという啓蒙書は今のところ所在不明とのことであった。

参照

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