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琉 球 に お け る 真 宗 弾 圧 と 仲 尾 次 政 隆 の 赦 免 に つ い て
知 名 定 寛
一、はじめに
嘉永六(一八五三)年一〇月二七日、仲尾次政隆は禁制の浄土真宗を信仰した罪で拘留され、その後、八重山石垣 島へ無期流刑となる。しかし、石垣島での流刑生活中、私財を投じて宮良川架橋という大事業を成し遂げ、その功績 に感謝する八重山官民の赦免請願によって、およそ一一ヶ年ぶりに故郷那覇へ戻ることが出来た。彼の真宗信仰の内 実と、それに依拠した人間主体としての態度・行動は、沖縄仏教史上高く評価されている。
仲尾次政隆の生涯と真宗信仰を沖縄史上に浮かび上がらせたのが伊波普猷「浄土真宗沖縄開教前史 仲尾次政隆と 其背景 」
(1)で、これに続くものとしては、島尻勝太郎氏と石垣博孝氏が石垣島における仲尾次政隆の流刑生活を詳細に 調査・報告している 。
(2)筆者もまた、これら先行研究に学びつつ、新たに発掘できた史料を駆使して、沖縄における真 宗史について幾つか論及してきた 。
(3)着実に進展しつつある仲尾次政隆研究ではあるが、筆者自身としては、未だ明ら かにし得ない幾つかの疑問を抱えている。その一つは、先行研究のいづれもが、仲尾次政隆は財産家であったと指摘 している点である。だからこそ、 彼は私財を投じて宮良川架橋という大事業を成し遂げることが出来たのであろうが、 では、その財産構築の源泉は何であったのか、つまり、莫大な財産を蓄積できるだけの彼の生業は一体何であったの か、ということである。この問題については、先行研究の成果や、彼の先祖が薩摩の海商であったことなどから、い ささかなりの推測は可能であるが、その推測を裏付ける史料的確証を得るまでには到底至っていない。
もう一つの疑問は、 仲尾次政隆の赦免に関する問題である。宮良川架橋に感謝する八重山官民の赦免請願について、
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島尻勝太郎氏は「この架橋に対する八重山官民の感謝の念は、同治二年(一八六三)検使、在番頭以下諸役十名の連 署による仲尾次赦免の嘆願書となって、御物奉行所に提出された 」
(4)と述べているが、昭和一〇(一九三五)年建立の 喜 舎 場 永 珣 起 草「 宮 良 川 架 橋 頌 徳 碑 」 銘 文 に は、 「 文 久 二 年 万 民 感 謝 報 恩 ノ 結 晶 ハ 赦 免 請 願 書 ノ 申 請 ト ナ リ 」
(5)と い う ように文久二(一八六二・同治元)年と記されていて、仲尾次政隆赦免請願書の提出年について両者の見解には一年 の隔たりがある。
仲尾次政隆の信仰内実と沖縄における真宗の歴史的展開の解明に重点を置いていた筆者は、右の相違について若干 の疑問を抱きながらも、取り立てて問題にすることはなかった。むしろほとんど忘れていたというのが正直なところ である。ところが、最近、その疑問をあらためて思い出させてくれる史料に遭遇する機会に恵まれた。本稿では、そ の史料の分析を通して、先行研究において仲尾次政隆赦免請願書の提出年に誤差が生じた要因を考察し、さらにその ことによって、如何なる歴史的新事実が現出してくるのか、検証してみたい。
二、先行研究者の見解
まずは、仲尾次政隆赦免請願書提出の時期について、先行研究者の見解を確認しておこう。仲尾次政隆を初めて沖 縄史上に取り上げた伊波普猷の見解は次の通りである。 文久元年の五月[十八日]に、政隆の母が死なつたが、政隆が之を知つたのは、十月頃[九日]で、五ケ月の後 であつた。 (当時便船の都合が如何に悪かつたかは之れで能くわかる。 ) 幼にして父を失ひ、母の手一つで育てられた政 隆が、配所で老母の訃に接して、如何ばかり悲んだかは、その『配流日記』を見たら能くわかる。これから彼は 故郷を思ふの情が俄に烈しくなつた。其の頃八重山の諸役人が連署して、仲尾次の人物と功労とを述べ、一日も 早く御赦免を仰付られたい、といふ請願書を首里に奉つたので、元治元年十一月二日には、いよ〳〵赦免の令が
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下つて来た 。
(6)赦免の許可が仲尾次政隆に伝わった時期については元治元(一八六四・同治三)年一一月二日と明記しているもの の、赦免請願書の提出時期については、文久元(一八六一・咸豊一一)年云々の文章を受けて「其の頃」という曖昧 な表現になっている。後述するように、 島尻勝太郎氏と石垣博孝氏はともに赦免請願書を史料として提示しているが、 伊波普猷は何故か提示していない。伊波普猷は赦免請願書そのものを閲覧したのであろうか。
「其の頃」に続く「八重山の諸役人が連署して、仲尾次の人物と功労とを述べ、一日も早く御赦免を仰付られたい、
といふ請願書を首里に奉つた」という表現は、赦免請願書を実際に閲覧した上で記述しているように理解することが 出来よう。そうであるならば、これも後述するように、赦免請願書には日付も明記されているから、これによって提 出の年月日を示す事が可能であるにもかかわらず、あえて「其の頃」という曖昧な表現にしているのは解せない。論 文 発 表 の 前 に、 伊 波 普 猷 は 八 重 山 を 訪 れ、 わ ざ わ ざ 橋 も 見 に 行 っ て い る。 「 私 と 共 に こ の 橋 を 渡 つ た 一 老 翁 は、 頻 り に 仲 尾 次 主 の 徳 を 頌 し て 已 ま な か つ た。 」
(7)と 記 し て い る よ う に、 八 重 山 の 人 々 か ら 仲 尾 次 政 隆 に 関 す る 情 報 を 蒐 集 し たであろうし、当然、赦免請願書も閲覧する機会があったはずである。
推測に過ぎないが、伊波普猷は赦免請願書を閲覧しておきながら、これを筆記せず、記憶に留めただけだったのか もしれない。あるいは筆記したにしても、 論文執筆の際にはその所在が分からなくなり、 赦免請願に関するところは、 『配流日記』のみに依拠せざるを得なくなっていたのかもしれない。
そのような事情が反映されているように思われる。取り敢えず、伊波普猷の見解文脈から、あえて仲尾次政隆赦免請 出した、というような表現にせざるを得なくなっていたのではなかろうか。 「其の頃」という歯切れの悪い表現には、 伊波普猷は、母親の訃報に接した仲尾次政隆の望郷の念が強まり、その心情を汲んで八重山官民が赦免の請願書を提 た と い う 記 述 は あ る が、 そ の 前 の 八 重 山 官 民 に よ る 赦 免 請 願 の 動 向 に つ い て の 明 確 な 記 述 は 見 当 た ら な い。 そ れ 故、 『 配 流 日 記 』 同 治 三( 一 八 六 四・ 元 治 元 ) 年 一 一 月 二 日 条 に は、 仲 尾 次 政 隆 が 在 番 か ら 正 式 に 赦 免 許 可 を 伝 え ら れ
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願書の提出時期を推定するならば、文久元(一八六一)年一〇月頃[九日]以降という位置付けになろうか。
次に、島尻勝太郎氏の見解を左に紹介しよう。 この架橋に対する八重山官民の感謝の念は、同治二年(一八六三)検使、在番頭以下諸役十名の連署による仲尾 次赦免の嘆願書となって、御物奉行所に提出された。これによって赦免状が同治三年十一月二日に政隆に伝えら れ、翌年五月廿七日十一年ぶりに那覇に帰り着いた 。
(7)右の文章に続けて、島尻勝太郎氏は赦免請願書を史料として提示しているが、どういう訳か史料全体の内、提示し ているのは前半の赦免請願の趣意を記述した部分のみで、それに続く附・添書・連署や日付は省略し、しかも典拠も 示していない。
それはともかく、島尻勝太郎氏は八重山官民による赦免請願書の提出を同治二(一八六三・文久三)年とし、赦免 許可は伊波普猷と同じく同治三(一八六四・元治元)年一一月二日と認識していたことになる。日付を含む史料の後 半 部 分 を 省 略 し な が ら、 何 故、 赦 免 請 願 書 の 提 出 を 同 治 二( 一 八 六 三・ 文 久 三 ) 年 と 判 断 し た の だ ろ う か。 た だ し、 別の論文では「五月廿七日付を以て出された 」
(8)と付け加えているが、いずれにしても腑に落ちない感じは否めない。
最後に、石垣博孝氏の見解を確認しておこう。
宮良川架橋の偉業は政隆の赦免へ八重山の人々を立ち上らせることになった。彼等は次の文書を首里王府に送 り、 赦免を願い出たのである。元治元年(一八六四)仲尾次政隆に赦免の令が下り、 翌年の慶応元年(一八六五) 五月には那覇の地を踏むことができたのである 。
(9)右の文章に続けて、石垣博孝氏は「次の文書」すなわち仲尾次政隆赦免請願書を趣意書・附・添書・連署や日付も 含めて提示し、その末尾に「 (御手形写し) 」というように典拠も明記している 。
)(1(
石垣博孝氏の見解は、仲尾次政隆の赦免年代については元治元年(一八六四・同治三)というように、伊波普猷や 島 尻 勝 太 郎 氏 の 見 解 と 一 致 し て い る。 と こ ろ が、 提 示 し た 史 料 に は 附 に 続 い て「 戌 五 月 」、 さ ら に 添 書 に 続 け て「 戌
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五月廿七日」と日付が記されているにもかかわらず、どういう訳か、石垣博孝氏は赦免請願書の提出年や日付につい て は 言 及 し て い な い。 「 戌 五 月 」・ 「 戌 五 月 廿 七 日 」 の 戌 年 が、 こ の 場 合、 同 治 元( 一 八 六 二・ 文 久 二 ) 年 に 相 当 し て いることは明白で、喜舎場永珣起草「宮良川架橋頌徳碑」の「文久二年」と一致する。それもそのはずで、石垣博孝 氏が典拠としている「 (御手形写し) 」は「喜舎場家文書」に含まれる文書集であるから、その所蔵者であった喜舎場 永珣もこの「 (御手形写し) 」に基づいて銘文を起草したはずなのである。石垣博孝氏自身もそのことを認識していた のではないかと思われるのであるが、何故か赦免請願書提出の年月日を明示することなく、右の様な漠然とした文章 表現にしている。
以上のような仲尾次政隆赦免請願書提出年の問題については、史料全体を提示しながら後で考察してみたい。
三、 「御手形写」複写本
石垣博孝氏が典拠にした「御手形写」は「喜舎場家文書」に含まれる文書集である。得能壽美氏の一連の研究 に
)(((
よ れば、 「御手形写」 (五冊)は首里王府と八重山との間で交わされた往復文書集で、のちのち何らかの証明のために八 重 山 で 編 集 さ れ て 残 さ れ た、 と い う。 「 喜 舎 場 家 文 書 」 は 八 重 山 博 物 館 に 寄 贈 さ れ、 整 理・ 目 録 作 成 の 作 業 が 進 め ら れているので、現時点では「御手形写」原本を閲覧することは出来ない。幸いにも、那覇市歴史博物館に複写本が所 蔵されているという情報が得られたので閲覧させていただき、コピーして、特に仲尾次政隆赦免請願文書はデジタル カメラでも撮影させていただいた。
仲尾次政隆赦免請願書の文書が収録されていたのは、 「同治元年よ里仝十三年ニ至ル御手形写抜書」 と表題された 「御 手形写」で、これによって、赦免請願書文書の趣意書・附・添書・連署及び日付に関してはほぼ判読することが出来 た が、 添 書 部 分 に 行 間 文 字 が あ り、 そ の 筆 墨 が あ ま り に も 薄 く、 し か も 行 文 字 と 重 な っ て い る 所 も 幾 文 字 か あ っ て、
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行 間 文 字 の 大 部 分 は 判 読 が 困 難 な 状 態 で あ っ た。 そ こ で デ ジ タ ル カ メ ラ で 撮 影 し た フ ァ イ ル を パ ソ コ ン に 取 り 込 み、 明るさや色の濃淡を調整してみると、少しは判読可能になったが、デジタルカメラの画素数が少なかったためか、全 体を判読できる状態にまでは到底至らなかった。
那覇市歴史博物館の複写本には表紙が二枚あって、右に述べた表題は二枚目のもので、一枚目には左半分に「自同 治元年壬戌 至光緒四年戊寅 御手形写」と表題があり、右半分には白紙状態の最下部に手書きで「沖縄県史料編集 所より複写」と記されている。つまり、那覇市歴史博物館の複写本はかつて沖縄県史料編集所に保管されていたもの から複写したものなのである。周知の通り、沖縄県史料編集所は現存しない。そこで沖縄県教育委員会文化財課に電 話 し て 尋 ね て み る と、 沖 縄 県 史 料 編 集 所 に 保 管 さ れ て い た 史 料 は、 現 在、 沖 縄 県 公 文 書 館 に 移 管 さ れ て い る と い う。 早速、沖縄県公文書館に連絡を入れて閲覧させていただいた。沖縄県公文書館保管の「御手形写」も複写本で、筆墨 全体は那覇市歴史博物館の複写本より幾分かは良好であったが、添書の行間文字に関しては大差がなかった。これで は行間文字の判読は依然として不可能としか言いようがない。
困り果てて、次に思い立ったのは、複写本が存在するということは、その元になったフィルムがあるはずだという ことである。種々の文献を調べたところ、昭和四八(一九七三)年刊行『沖縄県郷土資料総合目録』のタイトル番号 能というので、かすかな期待をもって閲覧したが、那覇市歴史博物館の複写本より筆墨は薄かった。 附属図書館に連絡したところ、何と劣化が激しくて破棄したというのである。ただし、紙焼きは保管していて閲覧可
919「 御 手 形 写 」( 琉 球 大 学 附 属 図 書 館 ) が 元 の マ イ ク ロ フ ィ ル ム で あ る ら し い こ と が 判 明 し た。 喜 び 勇 ん で 琉 球 大 学
万策尽きて、最後にとった方法は、筆墨状態の最も良好であった沖縄県公文書館保管の複写本の閲覧を再度お願い して、画素数の多い一眼レフのデジタルカメラで撮影し、これをパソコンで明るさや色の濃淡を調整して判読するこ とであった。その結果、添書部分の行間文字も何とか意味が読み取れる程度には判読できるようになった。
「 同 治 元 年 よ 里 仝 十 三 年 ニ 至 ル 御 手 形 写 抜 書 」 と 表 題 さ れ た「 御 手 形 写 」 複 写 本 は、 三 枚 目 か ら は 目 録 に な っ て
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いる。それによれば都合五二点の文書が収録されていることが分かる。その書き出し部分に、
同治元戌年より同十三戌年ニ至ル御手形写抜書目録 ○同治元戌年 一 一 与那国嶋詰吏員へ合力米給与願被差許候事 ○同治二亥年 二 一 流刑囚仲尾次宮良川矼築造ニ付、赦免願難聞届事 三 一 慶田城仁屋義、自費ヲ以上国シ、学問稽古セシ切ニ依リ、文子若クハ
筆者ヘ昇進願被差許候事 (以降略) と あ っ て、 同 治 元 戌( 一 八 六 二 ) 年 に は「 一 」 す な わ ち 1 号 文 書 一 点 の み、 同 治 二 亥( 一 八 六 三 ) 年 は「 二 」・ 「 三 」 すなわち2号文書と3号文書の二点、以降、同治三(一八六四)年から同治一三(一八七四)年迄の文書題目が年次 ごとに続く。
右の目録から明らかなように、仲尾次政隆赦免請願書の史料は同治二亥(一八六三)年の「二」すなわち2号文書 がそれで、何と赦免請願は文書題目末尾に「難聞届事」とあるように不許可になっているのである。これまで、何度 も先行論文を読み返してきたが、いずれの場合も、赦免請願書が提出されて赦免になったという流れの内容で、不許 可という文字は一度たりとも見出すことはなかった。それだけに、那覇市歴史博物館で初めて右の文書題目を見た時 には、その意味するところを直ちには理解することが出来ず、慌てて「御手形写」8枚目から始まる2号文書を見る ことにした。
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四、 「御手形写」の赦免請願文書
次の史料が「御手形写」2号文書で、体裁は複写本通り、また説明の便宜上、要所部分ごとに○番号を付した。
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「 同 治 元 年 よ 里 仝 十 三 年 ニ 至 ル 御 手 形 写 抜 書」 と表 題 さ れ た 「 御 手 形 写 」 複 写 本 は 、 三 枚 目 から は 目 録 にな っ て
いる 。 そ れ に よ れ ば 都 合 五 二点 の 文 書 が 収 録 さ れ て い る こ とが 分 か る 。 そ の 書 き 出 し 部 分 に 、
同 治 元 戌 年 よ り 同 十 三 戌 年 ニ 至 ル 御 手 形 写 抜 書 目 録
○ 同 治 元 戌 年
一 一 与 那 国 嶋詰 吏 員 へ 合 力 米 給 与 願 被 差 許 候 事
○ 同 治 二 亥 年
二 一 流 刑 囚 仲 尾 次 宮 良 川 矼 築 造 ニ 付 、 赦 免 願 難 聞 届 事
三 一 慶 田 城 仁 屋 義 、 自 費 ヲ 以 上 国 シ 、 学 問 稽 古 セ シ 切 ニ 依 リ 、 文 子 若 ク ハ
筆 者 ヘ 昇 進 願 被 差 許 候 事
( 以 降 略 )
と あ っ て 、 同 治 元 戌 ( 一 八 六 二 ) 年 に は 「 一 」 す な わ ち 1 号 文 書 一点のみ、同治二亥( 一八六三 )年は「二」・「三
」すな わ ち 2 号 文 書 と 3号 文書の二点 、 以降、同治三( 一 八六四) 年から同 治 一 三( 一八七四 )年迄の文書題目が 年
次 ご と に 続 く 。
右 の 目 録 か ら 明 ら か なよ う に 、 仲 尾 次 政 隆 赦 免 請 願 書 の 史 料は 同 治 二亥 ( 一 八 六 三 ) 年 の 「 二 」 す な わ ち 2 号 文 書
がそ れで 、何と赦免請願は 文 書題目 末尾に「 難聞届事」 と あるよ うに不許 可になって いるの で ある 。 こ れ ま で 、 何 度
も 先 行 論 文 を 読 み 返 し て き た が 、 い ず れ の 場 合 も 、 赦 免 請 願 書 が 提 出 さ れ て 赦 免 に な っ た と いう 流 れ の 内 容 で 、 不 許
可 と い う 文 字 は 一 度 た り と も 見 出 す こ とは な か っ た 。 そ れ だ け に 、 那 覇 市 歴 史 博 物 館 で 初め て 右 の 文 書 題 目 を 見た 時
に は 、 そ の 意 味 す る と こ ろ を 直 ち に は 理 解 す る こ と が 出 来 ず 、 慌 てて 「 御 手 形 写 」 8 枚 目 か ら 始 ま る 2 号 文 書 を 見 る
こ と に し た。
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四 、 「 御 手 形 写 」 の 赦 免 請 願 文 書
次 の 史 料 が 「 御 手 形 写 」 2 号 文 書 で 、 体 裁 は 複 写 本 通 り 、 ま た 説 明 の 便 宜 上 、 要 所 部 分 ご と に 番 号 を 付 し た 。
① 同 治 弐 亥 年 御 手 形 写 ②
返答③ 二 口 上 覚 ④
御手形表八重山嶋江年季無流刑当歳四拾六本位座敷仲 尾 次
⑤ 右
者乍 恐 申 上 候 、 去 卯 年 六 月 当 嶋 流 刑 被 仰 付 、 翌 辰
十二月 相 届、真 栄 里村配所 被仰付置 候、然
者宮良川 原 渡
之 儀、 跡 〻 懸矼 有 之 候 処 、 乾 隆 三 拾 六 卯 年 津 波 之 時
被引 崩 、其以来人居相 減 、 極 〻 疲 入、矼普 請 不相調、
右 渡 之 儀 東 方 〻 村 〻 宿 道 ニ
而、満 潮之時
者人 馬 往 還
(ママ)難 成 、 夫 壱 人 ニ 渡 舟 相 附 、 宿 通 仕 来 候 処 、 仕 上 世 之 時 分
上 納 物 持 越 方 ニ 付
而者、 渡 舟 壱 艘 ニ 米 粟 三 四 俵
完積 渡
候 故 、 日 中 ニ 上 納 方 可 相 渡 儀 を 、 両 三 日 相 懸 隙取 相 成 、 且
渡 人何 歟 ニ 付 居 合 不 申 節
者、 急 用 筋 公 私共 礑
与差 支 、 尤 ひ り 潮ニ
而茂所 〻 深 有 之 候 故 、 女 人 共 ニ
者冬 向 極 寒 之 時節ニ
而も 、 衣 裳 着 侭 往 来 別
而苦 難 を 請 、 且 大 風 ・ 洪水 等之節
者、両 三 日 も 往 還 不 罷 成 、間 ニ
者人 馬 軽 我 及 失 命
(ママ)候 場
茂有 之 、 旁 以 往 還 之 支 不 軽 事 御 座 候 間 、 去 〻 申 年
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右 仲 尾 次願 立 、 自 分 造 作 ニ
而板 矼 普 請 取 附 、 舟 加 子 并
滞 在 人 ・ 流 刑 人 ・ 地 下 人 弐 千 百 七 拾 四 人 相 雇 、 矼 長 七 拾 五 尋 、
高 真 中 壱 𠀋𠀋 三 寸 、 左 右 高 三 尺、 矼 幅 根 ハハ三 間 、 上 ハ ハ
弐 間 、 矼目 大 小 七 ツ 、 三 月 ヨ リ 五 月ま て ニ 諸 入 料百弐 石 七 斗
弐 升 四 合 弐 勺 、 先 ニ
而築 立 、 板 懸 渡 、 人 馬 往 還 相 達 、 尤 同 年
六月 無類之 大 風吹起、 矼所 〻 相 損候 付、 猶 又 人夫六 百 六拾
六人 雇入、去 年七月三 日より同 卅 日迄諸入 料弐拾弐 石
八 斗 壱 升 六 勺 七 才 、 先 ニ
而破 所 加 修 甫 、 矼目四 ツ 明 重 、 両 方 潮 切 堅固仕 調 、人馬往 還無支相 達候 付、渡舟漕夫 之費
者勿 論 、 往 還 之 人苦 難 を 免 □ 、 以 嶋 中 永 〻 為 筋 相 成 、
(れカ)温 情之 程 不 浅 次 第御 座 候 間 、 前 件 之 旁 別 段 之 御取 分
を 以 、 何 卒 仲 尾 次 御 赦 免 被 仰 付 被 下 度 、 此 節 願 上
被 下 度 偏 ニ 奉 願 候 、 右 様 申 上 候 儀
者、 御 趣 法 之 程 如 何 敷 深 重 奉 恐 入 候 得 共 、 前 文通 之 次 第 ニ
而不 得 止 事 、 此 段 奉 訴 事
御 座 候 間 、 幾 重 ニ も 宜 様 御 取 成 可 被 下 儀 奉 頼 候 、 以 上
⑥ 附 、 矼 之 絵 図 壱 枚 取 添 差 上 申 候
⑦
戌五 月 ⑧ 諸 役 人 中 ⑨
本文致承達候、懸矼等相整、御褒美被成下候儀、三・四年相試、永〻相保候⑩ 右 申 出 之 通 矼 築 立 、 潮切 旁 別 紙 絵 図 之 通 仕 合 、 人 馬
見込を以各所中ゟ申出候ハヽ、御吟味之上、御褒美被成下候御趣法□□往還無 支 相達、嶋 中大粧 為 筋相成申候 間 、御 賢慮之上
其元懸矼被□、早速御褒美被成下、無間も相破候儀も候而者如何敷- 10 -
何 分 ニ も 被 仰 付 度 奉 存 候 、 此 段 御 問 合 申 上 候 、 以 上
□□□、申越通ニ者難被仰付候間、今一両年程相試、永〻相保候見込有之□□、⑪
戌五 月 廿 七 日 ⑫
八重山嶋惣横目其時□□可被申越候、以上真 謝 與 人
同⑬
亥三月二日宮 良 與 人
同⑭冨川親雲上
大 濱 親 雲上 ⑯
在番同⑮冨里親方御使者方宮 良 親 雲上
頭同
石 垣 親 雲上
同在番筆者
與 那 嶺 筑 親 雲 上
同
山 里 筑 親 雲 上
同古在番筆者
外 間 筑 親 雲 上
同
屋 嘉 筑 親 雲 上
同検見御使者相付
松 川 筑 親 雲 上
同古検見御使者相付
永 田 筑 親 雲 上
同検見御使者
天 久 親 雲 上
同右在番
浦 添 筑 親 雲 上
同検見御使者
冨 村 親 雲上
同在番
宜 野 湾 筑 親 雲上 ⑰ 御 物 奉 行 所
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四、 「御手形写」の赦免請願文書
次の史料が「御手形写」2号文書で、体裁は複写本通り、また説明の便宜上、要所部分ごとに○番号を付した。
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「 同 治 元 年 よ 里 仝 十 三 年 ニ 至 ル 御 手 形 写 抜 書」 と表 題 さ れ た 「 御 手 形 写 」 複 写 本 は 、 三 枚 目 から は 目 録 にな っ て
いる 。 そ れ に よ れ ば 都 合 五 二点 の 文 書 が 収 録 さ れ て い る こ とが 分 か る 。 そ の 書 き 出 し 部 分 に 、
同 治 元 戌 年 よ り 同 十 三 戌 年 ニ 至 ル 御 手 形 写 抜 書 目 録
○ 同 治 元 戌 年
一 一 与 那 国 嶋詰 吏 員 へ 合 力 米 給 与 願 被 差 許 候 事
○ 同 治 二 亥 年
二 一 流 刑 囚 仲 尾 次 宮 良 川 矼 築 造 ニ 付 、 赦 免 願 難 聞 届 事
三 一 慶 田 城 仁 屋 義 、 自 費 ヲ 以 上 国 シ 、 学 問 稽 古 セ シ 切 ニ 依 リ 、 文 子 若 ク ハ
筆 者 ヘ 昇 進 願 被 差 許 候 事
( 以 降 略 )
と あ っ て 、 同 治 元 戌 ( 一 八 六 二 ) 年 に は 「 一 」 す な わ ち 1 号 文 書 一点のみ、同治二亥( 一八六三 )年は「二」・「三
」すな わ ち 2 号 文 書 と 3号 文書の二点 、 以降、同治三( 一 八六四) 年から同 治 一 三( 一八七四 )年迄の文書題目が 年
次 ご と に 続 く 。
右 の 目 録 か ら 明 ら か なよ う に 、 仲 尾 次 政 隆 赦 免 請 願 書 の 史 料は 同 治 二亥 ( 一 八 六 三 ) 年 の 「 二 」 す な わ ち 2 号 文 書
がそ れで 、何と赦免請願は 文 書題目 末尾に「 難聞届事」 と あるよ うに不許 可になって いるの で ある 。 こ れ ま で 、 何 度
も 先 行 論 文 を 読 み 返 し て き た が 、 い ず れ の 場 合 も 、 赦 免 請 願 書 が 提 出 さ れ て 赦 免 に な っ た と いう 流 れ の 内 容 で 、 不 許
可 と い う 文 字 は 一 度 た り と も 見 出 す こ とは な か っ た 。 そ れ だ け に 、 那 覇 市 歴 史 博 物 館 で 初め て 右 の 文 書 題 目 を 見た 時
に は 、 そ の 意 味 す る と こ ろ を 直 ち に は 理 解 す る こ と が 出 来 ず 、 慌 てて 「 御 手 形 写 」 8 枚 目 か ら 始 ま る 2 号 文 書 を 見 る
こ と に し た。
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四 、 「 御 手 形 写 」 の 赦 免 請 願 文 書
次 の 史 料 が 「 御 手 形 写 」 2 号 文 書 で 、 体 裁 は 複 写 本 通 り 、 ま た 説 明 の 便 宜 上 、 要 所 部 分 ご と に 番 号 を 付 し た 。
① 同 治 弐 亥 年 御 手 形 写 ②
返答③ 二 口 上 覚 ④
御手形表八重山嶋江年季無流刑当歳四拾六本位座敷仲 尾 次
⑤ 右
者乍 恐 申 上 候 、 去 卯 年 六 月 当 嶋 流 刑 被 仰 付 、 翌 辰
十二月 相 届、真 栄 里村配所 被仰付置 候、然
者宮良川 原 渡
之 儀、 跡 〻 懸矼 有 之 候 処 、 乾 隆 三 拾 六 卯 年 津 波 之 時
被引 崩 、其以来人居相 減 、 極 〻 疲 入、矼普 請 不相調、
右 渡 之 儀 東 方 〻 村 〻 宿 道 ニ
而、満 潮之時
者人 馬 往 還
(ママ)難 成 、 夫 壱 人 ニ 渡 舟 相 附 、 宿 通 仕 来 候 処 、 仕 上 世 之 時 分
上 納 物 持 越 方 ニ 付
而者、 渡 舟 壱 艘 ニ 米 粟 三 四 俵
完積 渡
候 故 、 日 中 ニ 上 納 方 可 相 渡 儀 を 、 両 三 日 相 懸 隙取 相 成 、 且
渡 人何 歟 ニ 付 居 合 不 申 節
者、 急 用 筋 公 私共 礑
与差 支 、 尤 ひ り 潮ニ
而茂所 〻 深 有 之 候 故 、 女 人 共 ニ
者冬 向 極 寒 之 時節ニ
而も 、 衣 裳 着 侭 往 来 別
而苦 難 を 請 、 且 大 風 ・ 洪水 等之節
者、両 三 日 も 往 還 不 罷 成 、間 ニ
者人 馬 軽 我 及 失 命
(ママ)候 場
茂有 之 、 旁 以 往 還 之 支 不 軽 事 御 座 候 間 、 去 〻 申 年
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右 仲 尾 次願 立 、 自 分 造 作 ニ
而板 矼 普 請 取 附 、 舟 加 子 并
滞 在 人 ・ 流 刑 人 ・ 地 下 人 弐 千 百 七 拾 四 人 相 雇 、 矼 長 七 拾 五 尋 、
高 真 中 壱 𠀋𠀋 三 寸 、 左 右 高 三 尺、 矼 幅 根 ハハ三 間 、 上 ハ ハ
弐 間 、 矼目 大 小 七 ツ 、 三 月 ヨ リ 五 月ま て ニ 諸 入 料百弐 石 七 斗
弐 升 四 合 弐 勺 、 先 ニ
而築 立 、 板 懸 渡 、 人 馬 往 還 相 達 、 尤 同 年
六月 無類之 大 風吹起、 矼所 〻 相 損候 付、 猶 又 人夫六 百 六拾
六人 雇入、去 年七月三 日より同 卅 日迄諸入 料弐拾弐 石
八 斗 壱 升 六 勺 七 才 、 先 ニ
而破 所 加 修 甫 、 矼目四 ツ 明 重 、 両 方 潮 切 堅固仕 調 、人馬往 還無支相 達候 付、渡舟漕夫 之費
者勿 論 、 往 還 之 人苦 難 を 免 □ 、 以 嶋 中 永 〻 為 筋 相 成 、
(れカ)温 情之 程 不 浅 次 第御 座 候 間 、 前 件 之 旁 別 段 之 御取 分
を 以 、 何 卒 仲 尾 次 御 赦 免 被 仰 付 被 下 度 、 此 節 願 上
被 下 度 偏 ニ 奉 願 候 、 右 様 申 上 候 儀
者、 御 趣 法 之 程 如 何 敷 深 重 奉 恐 入 候 得 共 、 前 文通 之 次 第 ニ
而不 得 止 事 、 此 段 奉 訴 事
御 座 候 間 、 幾 重 ニ も 宜 様 御 取 成 可 被 下 儀 奉 頼 候 、 以 上
⑥ 附 、 矼 之 絵 図 壱 枚 取 添 差 上 申 候
⑦
戌五 月 ⑧ 諸 役 人 中 ⑨
本文致承達候、懸矼等相整、御褒美被成下候儀、三・四年相試、永〻相保候⑩ 右 申 出 之 通 矼 築 立 、 潮切 旁 別 紙 絵 図 之 通 仕 合 、 人 馬
見込を以各所中ゟ申出候ハヽ、御吟味之上、御褒美被成下候御趣法□□往還無 支 相達、嶋 中大粧 為 筋相成申候 間 、御 賢慮之上
其元懸矼被□、早速御褒美被成下、無間も相破候儀も候而者如何敷- 10 -
何 分 ニ も 被 仰 付 度 奉 存 候 、 此 段 御 問 合 申 上 候 、 以 上
□□□、申越通ニ者難被仰付候間、今一両年程相試、永〻相保候見込有之□□、⑪
戌五 月 廿 七 日 ⑫
八重山嶋惣横目其時□□可被申越候、以上真 謝 與 人
同⑬
亥三月二日宮 良 與 人
同⑭冨川親雲上
大 濱 親 雲上 ⑯
在番同⑮冨里親方御使者方宮 良 親 雲上
頭同
石 垣 親 雲上
同在番筆者
與 那 嶺 筑 親 雲 上
同
山 里 筑 親 雲 上
同古在番筆者
外 間 筑 親 雲 上
同
屋 嘉 筑 親 雲 上
同検見御使者相付
松 川 筑 親 雲 上
同古検見御使者相付
永 田 筑 親 雲 上
同検見御使者
天 久 親 雲 上
同右在番
浦 添 筑 親 雲 上
同検見御使者
冨 村 親 雲上
同在番
宜 野 湾 筑 親 雲上 ⑰ 御 物 奉 行 所
- 10 - - 11 -
- 9 -
右 仲 尾 次願 立 、 自 分 造 作 ニ
而板 矼 普 請 取 附 、 舟 加 子 并
滞 在 人 ・ 流 刑 人 ・ 地 下 人 弐 千 百 七 拾 四 人 相 雇 、 矼 長 七 拾 五 尋 、
高 真 中 壱 𠀋𠀋 三 寸 、 左 右 高 三 尺、 矼 幅 根 ハハ三 間 、 上 ハ ハ
弐 間 、 矼目 大 小 七 ツ 、 三 月 ヨ リ 五 月ま て ニ 諸 入 料百弐 石 七 斗
弐 升 四 合 弐 勺 、 先 ニ
而築 立 、 板 懸 渡 、 人 馬 往 還 相 達 、 尤 同 年
六月 無類之 大 風吹起、 矼所 〻 相 損候 付、 猶 又 人夫六 百 六拾
六人 雇入、去 年七月三 日より同 卅 日迄諸入 料弐拾弐 石
八 斗 壱 升 六 勺 七 才 、 先 ニ
而破 所 加 修 甫 、 矼目四 ツ 明 重 、 両 方 潮 切 堅固仕 調 、人馬往 還無支相 達候 付、渡舟漕夫 之費
者勿 論 、 往 還 之 人苦 難 を 免 □ 、 以 嶋 中 永 〻 為 筋 相 成 、
(れカ)温 情之 程 不 浅 次 第御 座 候 間 、 前 件 之 旁 別 段 之 御取 分
を 以 、 何 卒 仲 尾 次 御 赦 免 被 仰 付 被 下 度 、 此 節 願 上
被 下 度 偏 ニ 奉 願 候 、 右 様 申 上 候 儀
者、 御 趣 法 之 程 如 何 敷 深 重 奉 恐 入 候 得 共 、 前 文通 之 次 第 ニ
而不 得 止 事 、 此 段 奉 訴 事
御 座 候 間 、 幾 重 ニ も 宜 様 御 取 成 可 被 下 儀 奉 頼 候 、 以 上
⑥ 附 、 矼 之 絵 図 壱 枚 取 添 差 上 申 候
⑦
戌五 月 ⑧ 諸 役 人 中 ⑨
本文致承達候、懸矼等相整、御褒美被成下候儀、三・四年相試、永〻相保候⑩ 右 申 出 之 通 矼 築 立 、 潮切 旁 別 紙 絵 図 之 通 仕 合 、 人 馬
見込を以各所中ゟ申出候ハヽ、御吟味之上、御褒美被成下候御趣法□□往還無 支 相達、嶋 中大粧 為 筋相成申候 間 、御 賢慮之上
其元懸矼被□、早速御褒美被成下、無間も相破候儀も候而者如何敷- 10 -
何 分 ニ も 被 仰 付 度 奉 存 候 、 此 段 御 問 合 申 上 候 、 以 上
□□□、申越通ニ者難被仰付候間、今一両年程相試、永〻相保候見込有之□□、⑪
戌五 月 廿 七 日 ⑫
八重山嶋惣横目其時□□可被申越候、以上真 謝 與 人
同⑬
亥三月二日宮 良 與 人
同⑭冨川親雲上
大 濱 親 雲上 ⑯
在番同⑮冨里親方御使者方宮 良 親 雲上
頭同
石 垣 親 雲上
同在番筆者
與 那 嶺 筑 親 雲 上
同
山 里 筑 親 雲 上
同古在番筆者
外 間 筑 親 雲 上
同
屋 嘉 筑 親 雲 上
同検見御使者相付
松 川 筑 親 雲 上
同古検見御使者相付
永 田 筑 親 雲 上
同検見御使者
天 久 親 雲 上
同右在番
浦 添 筑 親 雲 上
同検見御使者
冨 村 親 雲上
同在番
宜 野 湾 筑 親 雲上 ⑰ 御 物 奉 行 所
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右 仲 尾 次願 立 、 自 分 造 作 ニ
而板 矼 普 請 取 附 、 舟 加 子 并
滞 在 人 ・ 流 刑 人 ・ 地 下 人 弐 千 百 七 拾 四 人 相 雇 、 矼 長 七 拾 五 尋 、
高 真 中 壱 𠀋𠀋 三 寸 、 左 右 高 三 尺、 矼 幅 根 ハハ三 間 、 上 ハ ハ
弐 間 、 矼目 大 小 七 ツ 、 三 月 ヨ リ 五 月ま て ニ 諸 入 料百弐 石 七 斗
弐 升 四 合 弐 勺 、 先 ニ
而築 立 、 板 懸 渡 、 人 馬 往 還 相 達 、 尤 同 年
六月 無類之 大 風吹起、 矼所 〻 相 損候 付、 猶 又 人夫六 百 六拾
六人 雇入、去 年七月三 日より同 卅 日迄諸入 料弐拾弐 石
八 斗 壱 升 六 勺 七 才 、 先 ニ
而破 所 加 修 甫 、 矼目四 ツ 明 重 、 両 方 潮 切 堅固仕 調 、人馬往 還無支相 達候 付、渡舟漕夫 之費
者勿 論 、 往 還 之 人苦 難 を 免 □ 、 以 嶋 中 永 〻 為 筋 相 成 、
(れカ)温 情之 程 不 浅 次 第御 座 候 間 、 前 件 之 旁 別 段 之 御取 分
を 以 、 何 卒 仲 尾 次 御 赦 免 被 仰 付 被 下 度 、 此 節 願 上
被 下 度 偏 ニ 奉 願 候 、 右 様 申 上 候 儀
者、 御 趣 法 之 程 如 何 敷 深 重 奉 恐 入 候 得 共 、 前 文通 之 次 第 ニ
而不 得 止 事 、 此 段 奉 訴 事
御 座 候 間 、 幾 重 ニ も 宜 様 御 取 成 可 被 下 儀 奉 頼 候 、 以 上
⑥ 附 、 矼 之 絵 図 壱 枚 取 添 差 上 申 候
⑦
戌五 月 ⑧ 諸 役 人 中 ⑨
本文致承達候、懸矼等相整、御褒美被成下候儀、三・四年相試、永〻相保候⑩ 右 申 出 之 通 矼 築 立 、 潮切 旁 別 紙 絵 図 之 通 仕 合 、 人 馬
見込を以各所中ゟ申出候ハヽ、御吟味之上、御褒美被成下候御趣法□□往還無 支 相達、嶋 中大粧 為 筋相成申候 間 、御 賢慮之上
其元懸矼被□、早速御褒美被成下、無間も相破候儀も候而者如何敷- 10 -
何 分 ニ も 被 仰 付 度 奉 存 候 、 此 段 御 問 合 申 上 候 、 以 上
□□□、申越通ニ者難被仰付候間、今一両年程相試、永〻相保候見込有之□□、⑪
戌五 月 廿 七 日 ⑫
八重山嶋惣横目其時□□可被申越候、以上真 謝 與 人
同⑬
亥三月二日宮 良 與 人
同⑭冨川親雲上
大 濱 親 雲上 ⑯
在番同⑮冨里親方御使者方宮 良 親 雲上
頭同
石 垣 親 雲上
同在番筆者
與 那 嶺 筑 親 雲 上
同
山 里 筑 親 雲 上
同古在番筆者
外 間 筑 親 雲 上
同
屋 嘉 筑 親 雲 上
同検見御使者相付
松 川 筑 親 雲 上
同古検見御使者相付
永 田 筑 親 雲 上
同検見御使者
天 久 親 雲 上
同右在番
浦 添 筑 親 雲 上
同検見御使者
冨 村 親 雲上
同在番
宜 野 湾 筑 親 雲上 ⑰ 御 物 奉 行 所
まず、①は「御手形写」の編者が以降の各文書の発給年代を書き記したもので、したがって、②から始まる2号文 書全体は同治二(一八六三・文久三)年に発給されたということを意味している。その2号文書は、仲尾次政隆赦免 請願書の部分③~⑧ ・ ⑩~⑫ ・ ⑰と、それに対する返答書の部分② ・ ⑨ ・ ⑬~⑯から構成されていて、しかも②の「返 答」という文字が冒頭に位置しているということは、2号文書全体は仲尾次政隆赦免請願に対する不許可の返答書と いうことになる。
③ の「 口 上 覚 」 は 赦 免 請 願 書 の 文 書 題 目、 ④ は 仲 尾 次 政 隆 の 肩 書 と 姓、 ⑤ は 赦 免 請 願 の 趣 意 書 す な わ ち「 口 上 覚 」 の本文、⑥は橋絵図添付を示す附、⑦は「口上覚」を作成した日付もしくは八重山役人に提出した日付、⑧は「口上 覚」の作成者名、⑩は「口上覚」を御物奉行所へ取り次ぐ八重山役人による添書、⑪は添書の執筆月日もしくは「口 上覚」と添書を含む赦免請願書全体の提出日付、⑫が八重山役人の連署、そして⑰が赦免請願書の提出先である宛名 ということになる。以上が2号文書における仲尾次政隆赦免請願書部分に相当する。
次 に、 ② は 仲 尾 次 政 隆 赦 免 請 願 書 に 対 す る 御 物 奉 行 所 か ら の 返 答 書 の 文 書 表 題 で、 前 述 し た よ う に、 そ の「 返 答 」 と い う 表 題 が 冒 頭 に 位 置 し て い る と い う こ と は、 「 返 答 」 と い う 表 題 が 2 号 文 書 全 体 の 文 書 表 題 で も あ る こ と を 意 味 し て い る。 し た が っ て、 2 号 文 書 全 体 の 内 容 か ら 判 断 し て、 2 号 文 書 に あ え て タ イ ト ル を 付 け る な ら ば、 「 仲 尾 次 政 隆 赦 免 請 願 に 対 す る 不 許 可 の 返 答 書 」 と い う こ と に で も な ろ う か。 ⑨ か ら 始 ま る 行 間 文 字 が 返 答 書 の 具 体 的 記 事 で、 ⑬は返答書の執筆日付もしくは差出日付、⑭と⑮が返答書の差出人である冨川親雲上と冨里親方による連名であると 同時に、2号文書全体の発給者名でもある。そして⑯は返答書の宛名である。以上が、2号文書における赦免請願書 に対する返答書部分に相当する。
- 12 - - 13 -
五、誤差の要因
2号文書構成部分の説明が多岐に亘り過ぎて、却って煩雑になったかもしれないので、2号文書における赦免請願 書とその返答書の往復経路を、得能壽美氏の指摘 に
)(1(
従って整理すると次のようになろうか。まず、仲尾次政隆の赦免 を請願する 「口上覚」 が八重山 「諸役人中」 によって作成され、 「矼之絵図壱枚」 も添えて 「
戌五月」 付で八重山在番 ・ 蔵元役人に対して提出された。ただし、その「口上覚」は末尾部分に「御取成」と記述されているように、あくまで 赦 免 請 願 を 八 重 山 の 蔵 元・ 在 番 役 人 か ら 御 物 奉 行 所 に 対 し て「 御 取 成 」 し て 欲 し い と い う 依 頼 の 内 容 に な っ て い る。 これを受けて蔵元・在番役人は「口上覚」に、赦免請願を許容してもらえるかどうかを問い合わせる旨の添書を追記 し て、 「
戌五 月 廿 七 日 」 付 で 御 物 奉 行 所 に 提 出 し た。 し た が っ て、 八 重 山 官 民 に よ る 仲 尾 次 政 隆 赦 免 請 願 書 は 同 治 元 (一八六二・文久二)年五月二七日付で提出されたと理解すべきである。
その仲尾次政隆赦免請願書が御物奉行所に到着した時期については、 2号文書からは明らかにし得ない。とにかく、 八 重 山 官 民 か ら の 仲 尾 次 政 隆 赦 免 請 願 書 を 受 け 取 っ た 御 物 奉 行 所 で は、 こ れ を 吟 味 し た 結 果、 「
亥三 月 二 日 」 付 す な わち同治二年(一八六三・文久三)年三月二日付で赦免不許可とする返答を仲尾次政隆赦免請願書の添書部分の行間 に書き付けて送付したのである。それを書写したのが「御手形写」の2号文書ということになる。請願書の日付から 返答書の日付までに、実に九ヶ月以上が費やされたことになる。
要するに、仲尾次政隆赦免請願は不許可すなわち却下されてしまった。先行研究では、この事実は全く触れられる ことなく、赦免請願の結果、如何にも順調に赦免が実現したかのようになっていて、そのことを筆者もいささかも疑 うことはなかった。何故、赦免請願は不許可になったのか、その理由が気になる。返答書部分を次に抜き書きして示 そう。
- 12 - - 13 -
返答 本文致承達候、懸矼等相整、御褒美被成下候儀、三 ・ 四年相試、永 〻 相保候 見込を以各所中 ゟ 申出候ハヽ、御吟味之上、御褒美被成下候御趣法□□、
其元懸矼被□、早速御褒美被成下、無間も相破候儀も候
而者如何敷 □□□、申越通ニ
者難被仰付候間、今一両年程相試、永 〻 相保候見込有之□□□、
其時□□可被申越候、以上
亥三月二日 冨川親雲上 冨里親方 在番 御使者方 頭 右 の 内 容 を 大 ま か に 解 釈 す る な ら ば、 「 請 願 書 の 趣 意 は 承 知 し た。 架 橋 完 了 の 御 褒 美 と し て 赦 免 を 願 い 出 る 場 合、 本来ならば、橋の強度を三 ・ 四年は試してみて、橋の長期保全の見込みが立ち、官民を挙げて赦免を願い出たならば、 よく吟味した上で赦免を許可する運びとなるが、架橋完了後、早速に赦免を許可して、万一その直後に橋が破損する ようなことがあっては、吟味そのものに疑念をもたれる事態も生じかねず、それ故、今回は赦免請願を許可すること は出来ない。今後さらに一 ・ 二年程度橋の強度を試し、長期保全の見込みが確保出来るようになったならば、その時、 あらためて赦免を願い出るように。 」と理解して大過はなかろう。
橋 の 完 成 後、 そ の 強 度 安 全 を 三 ・ 四 年 は 試 す な ど、 長 期 保 全 の 見 込 み が 確 保 で き て い な い と 赦 免 は 許 可 さ れ な い、 というのである。 『配流日記』によると、咸豊一〇(一八六〇 ・ 万延元)年三月に着工開始した最初の橋は、完成三ヶ 月後の大風で破損し、 翌年の七月に修補された 。
)(1(
八重山官民による仲尾次政隆赦免請願書提出の日付は 「
戌五月廿七日」
- 14 - - 15 -
すなわち同治元(一八六二・文久二)年五月二七日付であるから、赦免請願書提出は修補完了から一〇ヶ月しか経過 し て い な い。 三 ・ 四 年 の 安 定 確 保 期 間 設 定 が 赦 免 許 可 の 必 要 条 件 で あ る な ら ば、 不 許 可 の 判 断 は 致 し 方 な い と こ ろ で あろう。慎重を期した判断と言えなくもないが、しかし、穿った見方をするならば、不許可の判断は実は役人の責任 回避であったと見做すことも出来なくはない。無期流刑人による社会的貢献が評価されて赦免になるという事例は極 めて稀で、しかも私財を投じた仲尾次政隆の架橋は一般人でも滅多に成し得ない社会的大事業であった。前例や過去 の実績を重視する役所の体質を想起するならば、御物奉行所の役人も判断するに際しては困惑を覚えたのではなかろ うか。ところが、⑤の赦免請願の趣意書に最初の橋の破損の記述があり、このため、修補後の橋の強度に不安を覚え た御物奉行所役人は、結果的に拙速な判断であったという批判を回避するため、橋の破損を口実に、取り敢えず一度 は不許可にして、 猶予期間を設けて再度の赦免請願書の提出を促がそうとした、 と解釈することは出来ないだろうか。 いわば役人の責任回避であり、皮肉にも請願趣意書に橋破損の事実を正直に記述したことが、不許可決定の遠因にな ったのではないかということである。
いずれにしろ、 仲尾次政隆赦免請願は一度は不許可の決定が出された。 しかしそのおよそ二年後の同治三 (一八六四 ・ 元治元)年一一月二日、正式な赦免が仲尾次政隆に伝えられた。ということは、再度、赦免請願書が提出されたとい うことになる。その事も、先行研究では見落とされていたのである。
さて、2号文書全体を素直に分析すれば、仲尾次政隆の赦免請願書提出の年月日が同治元(一八六二・文久二)年 五月二七日付という結論は必然的に導き出せるはずである。しかし、先述したように、島尻勝太郎氏はその一年後の 同治二(一八六三・日本年号文久三)と結論づけた。
島尻氏が提示した史料は、 先の2号文書全体の内、 ⑤の赦免請願趣意書部分のみで、 それ以外は全て省略している。 紙数の制約があったのかどうかは窺い知れないし、如何に古文書読解が堪能な島尻氏をしても、あまりにも筆墨の薄 い添書の行間文字すなわち⑨・⑬~⑯の判読は困難を極めたに違いない。それ故、赦免請願書の趣旨やそれが提出さ
- 14 - - 15 -
れた事実のみを確認できれば良いと考えたのかもしれない。その際、島尻氏は2号文書の①の部分、すなわち、本来 ならば「御手形写」の編者が以降の各文書の発給年代として書き記した「同治弐亥年御手形写」を、赦免請願書の提 出 年 と 誤 解 し て し ま い、 し か も そ れ が 意 識 的 に 固 定 化 さ れ て し ま っ た の で は な か ろ う か。 せ め て ⑥ の 附、 ⑦ の 日 付、 ⑧の提出者名、⑩の添書、⑪の日付まで史料として提示していれば、少なくとも校正の段階において誤認に気付けた のではないかと思われるのである。
考えられる要因のもう一つは、史料の典拠の問題である。これは石垣博孝氏の場合にも当てはまることだが、両氏 が典拠とした「御手形写」が「喜舎場家文書」に含まれる原本であったのか、それとも筆者と同じように複写本であ っ た の か、 と い う こ と で あ る。 両 氏 が 共 同 執 筆 し た『 仲 尾 次 政 隆 関 係 遺 品 調 査 報 告 書 』 の 発 行 は 一 九 七 七( 昭 和 五 一 ) 年 で あ る か ら、 実 際 の 調 査 時 期 は こ れ よ り も う 少 し 遡 る こ と に な ろ う。 そ の 際、 「 御 手 形 写 」 原 本 も 閲 覧 し、 写真撮影も行なったのであろうか。原本調査の場合、写真撮影だけでなく、最も重要視される部分はその場で翻刻筆 記するのが通例だが、返答書部分にあたる行間文字の筆墨があまりにも薄くて判読不可能であったか、あるいは翻刻 筆記するだけの時間的余裕がなかったのかもしれない。そのため、筆者と同じように、フィルムの紙焼きか写真版で 翻刻するしかなく、結果的に先に指摘した見落としや脱落あるいは誤解が生じ、赦免請願書提出年月日に誤差を生じ る要因になったのではなかろうか。あるいはまた、写真撮影はせず、当初から琉球大学附属図書館のマイクロフィル ムを使用した事も考えられよう。
いっぽう、石垣博孝氏の場合、提示した史料は、これも先述したように、趣意書・附・添書・連署や日付は含まれ ているが、返答書部分は致し方ないとしても、先の2号文書全体の内の③の「口上覚」と④の肩書部分、⑧の「諸役 人中」と⑫の真謝与人の肩書部分、さらには⑰の「御物奉行所」が脱落している。それでも、赦免請願趣意書の提出 日付である⑦、添書を含む赦免請願書提出の日付⑪は提示し、しかも「文久二年万民感謝報恩ノ結晶ハ赦免請願書ノ 申請トナリ」という記述がある「宮良川架橋頌徳碑」の全文も紹介しているから、石垣氏は仲尾次政隆赦免請願書の
- 16 - - 17 -
提出年月日が同治元(一八六二・文久二)年五月二七日付であることを認識していたはずなのである。にもかかわら ず、そのことを明記せず、漠然とした文章表現にとどめたのは何故だろうか。
考えられる要因は、島尻氏と同じように、石垣氏も①の部分を赦免請願書の提出年として誤解してしまったか、あ るいは、島尻氏の見解に疑問を感じつつも、両者の整合性に配慮して、赦免請願書の提出年については触れず、あえ て漠然とした文章表現にとどめた、ということが考えられよう。
いずれにしろ、仲尾次政隆赦免請願書の提出年月日は同治元(一八六二・文久二)年五月二七日付であり、しかも この請願は不許可となった。仲尾次政隆の赦免は再度の赦免請願書提出によって実現したのである。この二つの歴史 的事実が、先行研究では見落とされていたことになる。
六、赦免請願書の再提出
2号文書返答書部分末尾の「其時□□可被申越候」を、猶予期間を設けて赦免請願書を再提出するように、と御物 奉行所が促がしていると解釈して問題はなかろう。したがって、二度目の赦免請願書は確実に提出されたはずだろう し、それに返答を記した赦免状が届き、その旨、仲尾次政隆に伝えられたのが同治三(一八六四・元治元)年一一月 二 日 と い う こ と に な る。 だ が、 そ の 事 を 記 録 し た 文 書 は「 御 手 形 写 」 に は 収 録 さ れ て い な い。 「 御 手 形 写 」 が、 の ち のち何らかの証明のために編集されたものである以上、内容的に重複するような文書の収録を「御手形写」の編者は 必要としなかったからであろう。それ故、二度目の赦免請願書提出の時期を特定する2号文書のような直接的史料の 存在は期待できない。
先 述 し た よ う に、 伊 波 普 猷 は『 配 流 日 記 』 の 記 述 か ら 赦 免 請 願 の 提 出 時 期 を 考 察 し た。 導 き 出 さ れ た 結 論 は、 「 其 の頃」という表現になったが、具体的には文久元(一八六一)年一〇月頃[九日]以降ということであった。大まか
- 16 - - 17 -
な時期特定ではあるが、間違ってはいない。伊波普猷が採用したこの方法は、直接的史料の存在が期待できない二度 目の赦免請願書提出の時期を、たとえ大まかであっても、これを特定しようとする場合、有効な方法であろう。
『配流日記』咸豊一一(一八六一・文久元)年七月晦日条に、
同晦日、矼修甫成就して 一 千早振 神乃恵ミの 深きより かけて頼母し 矼の行末 同日、河祭して 一 末遠く 矼をまもらせ 河乃神 この河水の かよふ限れは とあるように、橋の修復完了は咸豊一一(一八六一・文久元)年七月晦日のことで、この日に河祭も行い、併せて二 首を詠んでいる。そしておよそ一ヶ月後の八月二五日には、
同廿五日九ツ時分、御在番御方・御使者御方・頭方御一同、宮良矼御見聞被成て、懸合方宜相見得、殊 勝の至と御直に被仰聞けれは、頼母しくなるまゝ口すさむ とあって、右に続けて二首を詠んでいるが、八重山役人一同による橋検分が行われたことが分かる。これは赦免請願 書を提出するために必要な前提作業であったと理解してよかろう。赦免請願書の提出日付は同治元(一八六二・文久 二)年五月二七日付であるから、橋の修復完了から一〇ヶ月、橋検分からはおよそ九ヶ月経過してから赦免請願書が 提 出 さ れ た こ と に な る。 こ の 間、 『 配 流 日 記 』 に よ る と、 咸 豊 一 一( 一 八 六 一・ 文 久 元 ) 年 一 〇 月 九 日 母 親 の 訃 報 が 届き、仲尾次政隆の望郷の念が強くなったのは事実であろう。
では、同治元(一八六二 ・ 文久二)年五月二七日付の赦免請願書が八重山石垣島から出立したのは何時頃だろうか。 『 配 流 日 記 』 に よ る と、 五 月 二 七 日 以 降 か ら 赦 免 不 許 可 の 返 答 書 日 付 の 同 治 二( 一 八 六 三・ 文 久 三 ) 年 三 月 二 日 ま で の間に石垣島を出帆した船は、同治元(一八六二・文久二)年六月四日仲尾次政隆の次男乗船の春立船一艘、同年七 月四日には仲尾次政隆の次男・三男乗船の「ワカ船」すなわち仲尾次船を含む三艘、翌五日には在番乗船の中立船一 艘 が 確 認 で き る。 た だ し、 『 配 流 日 記 』 は 毎 日 の 記 録 で は な い か ら、 出 帆 の 数 は こ れ が 全 て と は 限 ら な い。 そ れ で も
- 18 - - 19 -
同治元(一八六二・文久二)年九月一八日条に、
同十八日、阿る人参りて、下船 〻 も追 〻 可成、当夏帰帆致たる御使者乗船乃左右を至極待兼居侍る、と いひけれハ、とり阿へす とあって、右に続き三首を詠んでいるが、仲尾次政隆を訪ねて来た「阿る人」が、至極待ち兼ねていると述べた「当 夏帰帆致たる御使者乗船乃左右」というのは、この夏に出帆した船に赦免請願書を携えた使者が乗船していたことを 示唆しているように思われる。公的文書である赦免請願書を携えるのは、当然、それは八重山役人ということになろ う。その可能性が最も有力視されるのは、在番が乗船して七月五日に出帆した中立船であり、その中立船の航海安全 祈 願 は 六 月 二 七 日 に 行 な わ れ て い る か ら、 「 当 夏 」 の 範 囲 に 含 め て も 不 自 然 で は な い。 最 初 の 仲 尾 次 政 隆 赦 免 請 願 書 が八重山石垣島を出立したのは、同治元(一八六二・文久二)年七月五日、橋の修復完了や橋検分からほぼ一ヶ年後 のことであったと推測される。
以上のような、橋修復完了から赦免不許可の返答書日付までの経過日程は、再度の赦免請願書提出から赦免状が届 くまでの経過日程とは事情が異なるので、同様の日数を費やしたとは言えなくとも、手続き次第そのものは参考にな るであろう。果たして、二度目の赦免請願書の提出時期を、 『配流日記』の記述から導き出す事は可能だろうか。
二度目の赦免請願書が作成されるに際しては、前提作業である橋の検分も改めて行われたと考えるべきだろう。そ の橋検分であったと考えられるのが、 『配流日記』同治三(一八六四・元治元)年六月七日条である。
同七日四ツ時分、新古御在番・新御使者・頭方御一同、私も 宮良河原へ差越、矼御見聞相済、八ツ時分罷帰りしに、
酉時分には吉元被参、新御在番より、ワれにも
見せよと被下たと被差出けるを拝見すれハ、左之通り
二首の御詠哥、宮良橋と題書被成て、
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一 来てミれは 君カ恵ミの 深しさハ 通行ひとの よろつよのこえ 一 掛人やいまよ 橋やいつ迄も よゝの世ゝとゝめ 砂
(ママ)汰と残る 午前中、新古御在番・新御使者・頭方などの役人一同とともに宮良河原へ赴いて橋の検分が行われた。夕刻、吉元 が訪ねて来て、新在番役人より仲尾次政隆にも見せよ、と吉元が頼まれて持参したものを拝見すると、宮良橋と題書 された次の二首であった、という意味である。その詠歌は仲尾次政隆による架橋功績を絶讃している。
右の橋検分が、 再度の赦免請願書提出のための前提作業であったならば、 吉元が持参した「新御在番」の「御詠哥」 二首は、架橋に対する島人達の感謝の念の深さと、その橋の長期保全を詠っており、再度の赦免請願書を作成する前 提が整ったことを、仲尾次政隆に知らせる意味合いを持っていたと解釈することが出来なくもない。しかも、二度目 の橋検分が行われた同治三(一八六四・元治元)年六月七日は、橋の修復完了からほぼ三ヶ年が経過していて、2号 文 書 の 返 答 書 部 分 に あ っ た「 三 ・ 四 年 相 試 」 と い う 御 物 奉 行 所 役 人 が 示 し た 橋 の 長 期 保 全 確 保 期 間 と い う 条 件 に も 適 合している。
前述したように、最初の赦免請願書は橋の修復完了から一〇ヶ月、橋検分からはおよそ九ヶ月経過してから提出さ れた。しかし、二度目の場合は前回とは比較にならない短期の経過日程で赦免請願書が作成され、御物奉行所に提出 されたと見なさなければならない。何故なら、正式な赦免状は二度目の橋検分が行われてから僅か五ヶ月後には仲尾 次政隆に伝えられているからである。その意味で注目されるのが『配流日記』同年六月二二日条で、それには
同廿二日の晩、やんことなき御方より、御旅宿へ参上
せよと、吉元に付てあらせれけれハ、早速吉元同伴
参上して見上るに、段 〻御 真実難有御噺とも被仰聞
てより、行逢て□言葉や 霜枯になても 肝やいつ
まても 梅の匂ひ と御書付て被下けれは、難有の余り
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一 かしこしな 深き恵ミの 露うけて 萩も今宵ハ 花咲まいる とあり、 「やんことなき御方」とは前述した新在番役人と同一人物であると思われるが、 その彼が仲尾次政隆に「御噺」 した「段 〻 御真実難有御噺」の内容こそ、 赦免請願書提出の準備が整ったということであったと考える事が出来よう。 つまり、二度目の請願書提出の日付は、同治三(一八六四・元治元)年六月二二日前後ではなかったかと推測できる のである。
で は、 こ の 二 度 目 の 請 願 書 を 携 え た 役 人 乗 船 の 出 帆 に つ い て は ど う か。 『 配 流 日 記 』 に よ る と、 六 月 二 二 日 以 降 の 出帆は六月二八日条の「備瀬氏明日出帆」すなわち弟大城船の出帆と、七月二日条の二艘出帆の記事しかない。これ を 遡 る 六 月 一 〇 日 条 に よ れ ば、 強 風 の 中、 石 垣 島 周 辺 に は 中 立 船・ 「 ワ か 船 」 仲 尾 次 船・ 田 湊 船・ 下 小 船・ 塩 屋 船 が 確認できるし、西平船は「吹流れて行衛不相見」とある。また六月一五日条には「昨晩下着の我謝船」 ・「今朝下着の 弟大城船筆者備瀬筑登之」とあるから、 この時期、 石垣島には複数の船の滞留が確認できる。したがって『配流日記』 の記録以外にも船の発着があったことは言うまでもなかろう。それでも、自らの赦免請願書を携えた役人乗船の出帆 については、当然『配流日記』にも記録されたと見るべきであろう。この場合、注目されるのが七月二日条の二艘出 帆で、
同 七 月 二 日 五 ツ 朝 時 分、 亡 桃 林 寺 御 乗 船 下 小 の 船 小 出 帆、 同 五 ツ 時 分 御 在 番 御 乗 船 ワ か 船 出 帆、 次 男・ 三男・四男 幷 吉元の次男思加那・同従の仲里氏も乗合して罷登けれは、旁心願して 一 那覇の親泊 さしてまんまとも 吹つめて給ふれ 御筋美風 と記述されている。
こ の 日、 桃 林 寺 僧 の 亡 骸 を 乗 せ た「 下 小 の 船 小 」 と、 「 ワ か 船 」 す な わ ち 仲 尾 次 船 が 相 次 い で 出 帆 し て い る。 仲 尾 次船には仲尾次政隆の子息三人が乗船しているという。それだけでなく、 実に在番役人も乗り合わしているのである。 こ の 在 番 役 人 こ そ が 二 度 目 の 赦 免 請 願 書 を 携 え て い た と 推 測 す る こ と は 無 理 が あ る だ ろ う か。 自 身 の 所 有 船 で あ り、
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し か も 子 息 三 人 が 乗 船 し て い る か ら、 『 配 流 日 記 』 に も 特 に 記 述 し た と 言 え な く も な い が、 赦 免 請 願 書 が 公 的 文 書 で あることや日程的状況を考慮するならば、右の推測は全く無理があるとは言えまい。
と こ ろ が、 同 治 三( 一 八 六 四・ 元 治 元 ) 年 七 月 二 日 に 出 帆 し た 仲 尾 次 船 は、 風 向 き が 変 わ り、 三 日 に は 引 き 返 し、 四日に石垣島川平津に入着したという。その後も強風のため川平汐懸けは続き、七日に出帆予定が今度は七夕のため 出帆不可という連絡が在番から届く始末で、順風が吹いて川平津を出帆できたのは一二日であった。この間、仲尾次 政隆の旅妻らは何度も祈願を繰り返すなど、やきもきした日々を送ることになった。その後は好天順風が続いたよう で、仲尾次船は遅くとも一五日には那覇に入津したと考えられる。この船に乗船していた在番役人が二度目の赦免請 願書を携えていたならば、直ちに御物奉行所に届けられたであろう。したがって、二度目の赦免請願書の御物奉行所 提出は同治三(一八六四・元治元)年七月中旬頃と推測してよかろう。最初の赦免請願書提出日付は橋検分からおよ そ九ヶ月が経過していたが、二度目の赦免請願書は橋検分からおよそ一五日ほど後には作成され、橋検分から僅か一 ヶ月強程度の日程で御物奉行所に提出されたと考えることが出来るのである。
これに対して御物奉行所役人の判断はどうであったか。結果的に、二度目の赦免請願書が御物奉行所に提出された と推測される七月中旬頃から、およそ三ヶ月半後には赦免状が仲尾次政隆の手元に伝えられているので、前回に比較 して御物奉行所役人の決断も早かったことになる。橋修補完了からちょうど三ヶ年が経過し、赦免条件であった橋の 長期保全確保期間も満たしているから、役人としての責任問題も憂慮する必要はなかったであろう。何よりも、二度 目 の 赦 免 請 願 が 順 調 か つ 短 期 間 で 許 可 さ れ た 最 大 の 理 由 は、 仲 尾 次 政 隆 の 赦 免 を 願 う 八 重 山 官 民 の 誠 実 な 気 持 ち と、 それを少しでも早く実現しようとした迅速な行動に求めることが出来よう。
伊波普猷によると、 赦免が許された仲尾次政隆は、 同治四(一八六五 ・ 慶応元)年「 〔閏〕五月二十四日の九ツ時分、 政 隆 父 子 は い よ 〳〵 八 重 山 を 出 帆 し て、 閏 五 月 の 二 十 七 日 の 酉 の 時 に、 十 年 振 で 那 覇 の 地 を 踏 ん だ。 」
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