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雑誌名 国立民族学博物館研究報告

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中国広西のチュアン(壮)族・ヤオ(瑤)族と漢族 との政治=文化的関係の比較考察 : 1368 1949年に おける

著者 塚田 誠之

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 14

号 2

ページ 453‑507

発行年 1989‑10‑25

URL http://doi.org/10.15021/00004302

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塚田 中国 広 西 の チ ュ ア ン(壮)族 ・ヤ オ(瑤)族 と 漢族 との政 治=文 化 的 関 係 の 比 較 考 察

中 国 広 西 の チ ュア ン(壮)族 ・ヤ オ(瑤)族

漢族 との政治=文 化 的関係 の比較 考察

1368‑1949年 に お け る

之*

Comparative Study on Political and Cultural Relationships between the Zhuang, the Yao and the Han Chinese: 1368-1949

Shigeyuki TSUKADA

The Zhuang and Yao have been two major groups among minorities in Guangxi Province for a long period. However, there is a marked difference in their relationships with the Han people: The Zhuang have been strongly influenced by the Han, whereas the Yao have been relatively little influenced, and have retained much of their traditional culture. Here the differences in political, economic and cultural relationships between the Zhuang, Yao and the Han people are surveyed. I propose to distinguish four types of the Zhuang and Yao, in terms of ethnic group, language (dialect) and ecosystem: (1) Zhuang; (2) plain-dwelling Yao; (3) mountain-dwelling Yao, settled in one place; and (4) mountain-dwelling Yao, very often shifting over mountains. I also distinguish three social classes of the Han:

(1) ruling class; (2) landlord; and (3) merchants and farmers who migrated from other provinces to Guanxi. By using jointly records of research and the Chinese source materials, I reached the following conclusions:

(1) On the relationship with the Chinese ruling class, the Zhuang and the plain-dwelling Yao, like other registered people of Han, were forcibly entered into the official register, and made to pay land-taxes, especially after the middle Qing, associated conditions enabled some of them to rise into the ruling class.

In contrast, the mountain-dwelling Yao of two types were, as a whole, treated generously by the ruling class, although the

*国 立民族学博物館第3研 究部

(3)

国立民族学 博物館研究報 告  14巻2号

influence of the Han slowly increased after the middle Qing;

(2) On the relationship with the Chinese landlords, the Zhuang and the plain-dwelling Yao tended to become tenants of Chinese landlords. This tendency was strengthened after the middle Qing, and accompanied by the appearance of class polarization among them—some rose to the landlord class.

On the other hand, the mountain-dwelling Yao were generally independent of Chinese landlords and class polarization hardly occured among them, except that a few became tenants of

Chinese landlords;

(3) On the relationship with immigrants, the Zhuang and the plain-dwelling Yao were under the economic-control of merchants or landlords who had migrated from other provinces after the middle Qing, whereas the mountain-dwelling Yao were not under similar control;

(4) On intermarriage with the Han and transmission of Han Chinese culture, there was a tendency that the Zhuang and the plain-dwelling Yao intermarried with the Han Chinese, and accepted much of Han Chinese culture. However, the Zhuang retained their own language and the plain-dwelling Yao retained some folk stories about their ancestors. In contrast, the mountain-dwelling Yao fundamentally did not intermarry with the Chinese, except where a Chinese man married into a Yao woman's family. On the whole, they also maintained much of their traditional culture, although accepting some elements of Chinese culture.

1.序

fi.来 歴 と生 活 形 態 皿.統 治権 力 との 関係 IV.地 主 と の関 係

V.移 住 民 との 関係

W.漢 族 と の通 婚 と文 化 の移入 w.結

1.序

  チ ュ ア ン(な い し チ ュ ワ ン ・ チ ワ ン。 壮 ・Zhuang)族 と ヤ オ(瑤 ・Yao)珠1)と は, 歴 代,特 に 宋 代 以 降 の 文 献 史 料 に 「猫?」 と 並 び 称 さ れ る よ う に,華 南 地 区,な か ん ず く広 西 に お い て 代 表 的 な 「少 数 民 族 」 で あ り続 け た 。 し か し 中 国 の 統 治 者 と して な が く君 臨 し続 け て き た 漢 族 と の 交 渉 の 歴 史 を 瞥 見 す る と き,チ ュ ア ン族 と ヤ オ 族 と の

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塚 田   中 国 広 西 の チ ュア ン(壮)族 ・ヤ オ(瑤)族 と漢 族 との 政 治=文 化 的 関 係 の 比 較考 察

間 に は顕 著 な 相 異 が 見 られ る こと に気 付 くの で あ る。 す な わ ち概 して,チ ュ ア ン族 は 漢 族 の 強 い影 響 を 被 りそ の 政 治 ・文 化 体 系 に組 み 込 まれ て い った が,他 方,ヤ オ族 は チ ュ ア ン族 と は対 照 的 に,漢 族 か らの諸 般 に わ た る影 響 を 受 けな が ら も漢族 との間 に 一 定 の 境 界 を 画 し独 自性 を堅 持 した よ うに思 わ れ る

  チ ュ ア ン族 とヤ オ族 に 関 して,従 来,チ ュ ア ン族 に つ い て は 研究 が 非 常 に少 な く, しか も広 西 の 西 部 の 「土 司 」 地 区 の もの に限 定 され,中 国王 朝 に よ り直 接支 配 を受 け た広 西 の 中東 部 の 非 土 司 型 の もの が と もす れ ば等 閑視 され る傾 向 に あ った 。他 方,ヤ オ族 に つ い て,特 に 東 南 ア ジア大 陸部 に居 住 す る もの に つ い て は[竹 村   1981]等, 少 なか らず 研 究 の 蓄 積 が な され て きた が,し か し中国 に居 住 す る もの に 関 して言 え ば,

ま だ検 討 の 余 地 が 多 分 に 残 され て い る よ うに見 受 け られ る。 また チ ュア ン族 とヤ オ族 との 比 較 とい う視 角 か らの 研究 は竹 村 卓 二 に よ る居 住 形 態 の 比 較 に 関 す る論 稿[竹 村 1967:55‑71]を 除 い て は 見 られ な いの が 現 状 で あ る。

  この 両 者 の 歴 史 や 社 会 ・文 化 に つ い て全 面 的 な比 較 検 討 を 行 い,上 記 の相 異 の発 生 の過 程 や要 因を 究 明 す る作 業 は,チ ュア ン族 ・ヤ オ族 民 族 史 の 個別 的 な 解 明 の み な ら ず,ひ いて は華 南 少 数 民 族 史 の全 体 像 の復 原 の た めの 重 要 な関 鍵 を 提 供 す る よ うに思 わ れ る。 本 稿 で はそ の 予 備 的 作業 と して,主 に文 献 史 料2)に 依 拠 し調 査 資 料3)を 補 足 的 に使 用 す る方 法 に よ り,チ ュ ア ン族 ・ヤ オ族 史 に お い て漢 族 との 接触 が 重要 な作 用 を果 た した と思 わ れ る1368年 か ら1949年(す な わ ち 明代 か ら民 国期 まで)の 時期4》を 対象 と して,広 西 を 中心 とす る地 域 の チ ュア ン族 ・ヤ オ族 と漢 族 との 民 族 間 関係 史 に つ い て比 較 検 討 を行 い た い。

1)チ ュ ア ン族 の人 口 は約1338万 人(1982)で,そ の92%(約1230万 人)が 広 西 チ ュア ン族 自治 区 に居 住 す る。 他 に雲 南 ・広東 ・湖 南 ・貴 州 の各 省 に も分布 す る[電 国生 ・梁 庭 望 ・章星 朗

1984:1]。 ま た,ヤ オ 族 の人 口 は約140万 人(1982)で,広 西 ・湖 南 ・雲 南 ・広 東 ・貴 州 ・江 西 の6省130余 県 に跨 って居 住 し,う ち広 西 に そ の61%(86万 人)が 居 住 す る 「『瑤 族 簡史 』 編 写 組   1983:5]。 な お,文 献 史料 にお い て,チ ュア ン族 は 「撞 」(南 宋 〜元)・ 「?」(明 〜 民 国 。 民 国期 には 「イ壮」・「奨 」 等 と も表 記 さ る)・「憧」(ユ949‑1965),ヤ オ 族 は 「猫 」・「倍」 と表 記 さ れて い る。

2)漢 族 統 治 階 層 の側 か ら書 か れ た史 料,主 に地 方 志 ・櫨 案 ・文 集 等 を 使用 す るが,と りわ け地 方志 は府 ・県 等 の行 政 区 画 の管 内 に居 住 す る民 族 に関 す る貴 重 な材 料 を 多 く含 み,民 族誌 資 料

と して も(一 定 の史 料 批 判 の 手続 きを 経 た上 で)十 分 に 活用 す る こ とが で き る。

3)個 人 に よ る調 査 の外,1956年 以 降1960年 代 前 半 にか け て,広 西 少 数 民 族社 会 歴 史 調 査組 に よ って行 わ れ,近 年 公 開 出版 され つつ あ る 『広 西壮 族 社 会 歴史 調 査 』 ・『広 西瑤 族 社 会 歴史 調 査 』 の シ リー ズを も資料 と して 活 用 した い。

  ま た,筆 者 に よ る調 査 と して,1986年6.目 に お け る金 秀 瑤族 自治 県 の 金秀 鎮 ・六 巷 郷,同 年 同 月 に お け る臨 桂 県宛 田 瑤 族 郷,1988年11月 に お け る江 華 瑤族 自治 県 河 路 口鎮 で の 調 査 の成 果 の一 部 を活 用 す る 。

4)周 知 の よ うに,ヤ オ族 の 祖先 伝 承 一桑 瓠 神話 の初 出は 『後漢 書 』  「南 蛮伝 」 な い し干 寳 『捜 神 記』 にお い て で あ り,ま た そ の由 来書 ・特 権 保 証状 た る 『過 山 榜 』(『評 皇 券 牒』)の 年 次 の 多 くが南 宋 の 景 定 元年(1260)で あ る こ とか らす れ ば,南 朝以 降 明 代 まで の時 期 の 検 討 も不 可 欠 で あ るが,し か しチ ュ ア ン族 と比 較 検 討 を 行 う場 合,明 代 以 降の 時 期 は きわ めて 重 要 な意 義 を 持 つ 。

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国立民族学 博物 館研究報告  14巻2号   な お,そ の 場 合,「 漢 族 」 と い つて も,そ の 中 に は統 治権 力 か ら一 般 農 民 に至 る まで 様 々な社 会 階 層 が 存 在 した の で あ り,加 えて 当該 時 期 の 広 西 に おい て は他 地 域 か らの 移 住 民(と りわ け商 工 業 者 や 農 民 が多 くを 占 め る)も 少 な か らず 見 られ た。 ま た,民 族 間 の 交 渉 も政 治 ・社 会 経 済 ・通 婚 ・文 化 等 の 多 方 面 に おい て 進 行 した筈 で あ る。 し

た が って,漢 族 の 階 層 差 とチ ュア ン族 ・ヤ オ族 との 接 触 の 局 面 の相 異 を 考慮 す れ ば, 差 し当 た って 統 治権 力 に よ る統 治体 制 ・地 主 富 農 との 経済 関係 ・移 住 民(商 工 業 者 ・ 農 民 等)と の 関 係 ・民族 間 の通 婚 ・漢 文 化 の移 入,等 の 項 目に分 け た うえで 逐 一 検 討 す るの が 有 効 な 方 法 で あ ろ う。

  さ らに 「チ ュァ ン」・「ヤ オ」 と い う民 族 名 称 で 類別 され る範 疇 の 中で も,地 域 や 生 活 形 態,さ らに は言 語(方 言),政 治 形 態 等 の 諸 条 件 の相 異 に基 づ くと こ ろの 多 様 性 が 存 在 した よ うに 想 定 さ れ る ことか らす れ ば,分 析 に 当 た って は この点 も考 慮 され ね ば な らな い で あ ろ う。本 稿 で は生 活 形 態 と言 語 の相 違 を基 準 と した い くつ かの 理 念 型 を 設 定 した い 。 ま ず,チ ュア ン族 に つ いて は,そ の 言語 に南 ・北 方 言 が あ るが,両 者 の 間 の 差 異 は 小 さ い とさ れて お り[章 慶 穏 ・輩 国 生(編)  1980],ま た 生 態 上 若 干 の 地 域 的 差異 が認 め られ る が,そ れ は ヤオ 族 の 場 合 ほ どに は大 き くな い よ うに 考 え られ,

した が って これ を一 類 型 で と らえ た い(な お,政 治 形態 の 上 か らは土 司 型 と非土 司型 に 分 け られ るが,本 稿 で は後 者 に 重 点 を 置 き,前 者 の 検 討 は別 の機 会 に行 い た い)。 次 に ヤ オ族 に つ い て,そ の 言 語 は① 勉語 ・② 布努 語 ・③ 拉 珈 語 ・④ 伏 念 語 の 四 系統 に大 別 され,相 互 の間 の 差 異 も大 きい とい わ れ る[毛 宗武 ・蒙 朝 吉 ・鄭 宗 沢(編)  1982]。

ま た,生 活 形態 に つ いて 竹 村 は ③ 「定 着 型 」・⑮ 「移 動 型 」 の 二 類 型 に 分 類 して い る [竹村   1981]。 本 稿 で は,こ れ らの相 違 をふ ま え た上 で ヤ オ族 を,(1)「 平 地 型 」(④ の 方 言 と対 応 す る。 生 活 形 態 に つ い て は従 来 ほ とん ど研 究 され て い な い),(2)「山地 定着 型」(② ③ お よ び③ に 対 応),㈲ 「山地 移 動 型 」(① ・⑮ に対 応)の 三 類 型 に 分類 して検 討 を 行 い た い。 な お,そ の場 合 の 分 類 基 準 と して,広 西 の よ うに 山が ちで起 伏 に 富 む 地 域 で は 「山地 」 と 「平 地 」 との 境 界 は 実 際 に は画 定 し難 い もの が あ るが,「平 地 」 を 平 原 の ほ か 山麓 や丘 陵 ・台 地 地 形 を も含 む概 念 と して 使 用 す る。 ま た,ヤ オ族 の 場 合, (歴 史 的 に も,ま た 現在 に お い て も)多 くの 局 地 的 な 下位 集 団 名称 が あ る が,「平 地 型 」 に は広 西 北 ・東 部,湖 南 南 西部 の 「平 地 ヤオ」(お よ び歴 史 上 「大 良 猫」 と称 さ れ た集 団)が,「 山 地 定着 型」 に は広 西 中部 の大 瑤 山の 「茶 山 ヤ オ」,「花 藍 ヤ オ」,「拗 ヤオ」

(こ の三 つ の 集 団 は歴 史 上 「長毛 猫 」 と総 称 さ れ た),広 西 西部 の 「布 努 ヤオ」,西 北 部 の 「白 禅 ヤ オ」,北 部 の 「紅 ヤ オ」,お よび 広東 北部 の 「排 ヤ オ」 等 が,「 山地 移 動 型 」 に は広 西 ・湖 南 ・広 東 の 山地 に 広 く分散 して居 住 す る 「盤(板)ヤ オ=過 山 ヤ オ」

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塚 田  中国 広 西 の チ ュ ア ン(壮)族 ・ヤ オ(瑤)族 と漢 族 との 政 治=文 化 的 関 係 の 比 較 考 察

・「山 子 ヤ オ 」 等 が 各 々 含 ま れ る 。 さ らに,こ れ らの 適 応 型 の 相 互 の 間 の モ ビ リテ ィ と 人 口 比 率 に つ い て,ヤ オ 族 の 場 合,歴 史 上 「山 地 移 動 型 」 か ら 「平 地 型 」 へ の 移 行 が 見 ら れ た が,数 量 的 に は そ れ は 一 部 の も の に 限 定 さ れ る 。 「山 地 移 動 型 」 と 「山 地 定 着 型 」 と の 間 の 移 行 の 関 係 も少 な い よ うで あ る5)。 な お,ヤ オ 族 の 人 口 比 率 に つ い て, 1958年 の 言 語 に 基 づ く デ ー タ[毛 宗 武 ・蒙 朝 吉 ・鄭 宗 沢   1982]を 各 適 応 型 に あ て は め て 算 出 す る と,「 山 地 移 動 型 」 が47. 89%,「 山 地 定 着 型 」 が35.64%,「 平 地 型 」 が 16. 47%を 占 め る こ と と な る 。

.来 歴 と生 活 形 態

1.来

  まず チ ュ ア ン族 の来 歴 に つ い て は,そ の古 称 「?」 ・「撞 」 が 史 料 に 登 場 す る の は南 宋 以 降 の こ とで あ り,ま た チ ュア ン族 の土 司 の 祖 先 に つ い て た ど る こ との で きるの は 唐 宋 時 代 まで で あ る。 した が って,文 献 史 料 に よ る限 り,唐 宋 以 前 の 時期 に お け る チ ュ ァ ン族 の 動 向 は不 明で あ る。 ま た唐 宋 以 降 につ いて も,少 な くと もそ れ が 移住 か土 著 か と い う一 元 的 な 解釈 で は把 握 し きれ な い複 雑 性 が 認 め られ,差 し当 た って来 歴 が 異 な る複 数 の 下 位集 団 が歴 史 上,結 集 ・融 合 して 形 成 され た 民族 集 団 で あ る と考 え る のが 穏 当で あ ろ う。 しか し,非 土 司 地 区 に関 す る限 り,明 代 に お い て 湖 北 湖 南 ・貴 州 等 か らの,そ して 広 西 西北 部 の土 司 地 区か らの チ ュ ア ン族 の 移 住 の大 きな 波 が見 られ た こ とは,信 憑 性 の あ る多 数 の史 料 が指 摘 して い る以 上,軽 視 で きな い(も ち ろん, それ 以 前 に 広 西 に チ ュ ア ン族 が全 く存 在 しなか った と は断 定 で きな い)。移 住 の経 過 や

5)な お,こ の点 に関 連 して,松 本 光 太 郎 が提 示 した 中国 の ヤ オ族 に対 す る見 解[松 本   1985:

52‑66]に つ いて 言 及 して お きた い 。 松 本 は,ヤ オ族 の具 体 的 ・歴 史 的な 文 脈 の分 析 を 重 視 す る視 点 か ら,梯 田 に依存 し社 会 ・政 治組 織 を 発 達 させ た もの を 中 国 の ヤ オ族 の 基本 的 な適 応 型 と と らえ,そ の 典 型 で あ る大 瑤 山 の 「長毛 」 系 ヤ オ族 を 主 要 な 対象 と し,清 代 末期 か ら 「解 放 」 前 ま で の時 期 にお け る ヤ オ族 の 社 会 的適 応 に関 す る 検討 を 行 い,竹 村 のタ イ北部 にお け る 「

山 ヤオ 族」(焼 畑 移 動 耕作 を 中心 と し 社 会 ・政 治 組 織 が 未 発達 で あ る)に 基 づ くヤ オ族 の モ デ ル[竹 村   1981]に 対 して 批 判 的 な見 解 を 提 示 した 。 す な わ ち,筆 者 の ヤオ 族 の分 類 用語 を用 い る と,竹 村 が 「山地移 動 型 」 ヤオ族 に分 析 の 重点 を 置 いた の に対 し,松 本 は 「山地 定 着 型」

の もの に重 点 を 置 い た ので あ るが,注 意 した い の は松 本 が 「山地 定 着 型 」 を ヤ オ族 の 基 本 的適 応 型 と見 倣 す 根 拠 を 提示 して い な い点 で あ る。少 な くと も大 瑤 山 の よ うに 「山地 定 着 型 」 ヤ オ 族 が優 勢を 占め る地 区 が広 範 に 存在 したか,も し くは 「山地移 動 型 」 の多 くが歴 史 上 「山地 定 着 型」 に変 化 した,と い う証 拠 が前 提 条 件 と して提 示 され な い以 上,松 本 の見 解 に は にわ か に 同 意 し難 い。 結 論 を急 ぐな らば,中 国 にお い て ヤ オ族 の 基 本 的適 応 の タイ プ を求 めよ う とす る と きに,「 大 分 散,小 集 中」 と表 現 され る[『瑤族 簡 史 』 編 写組   1983:5]よ う に広 い地 域 に分 散 居住 す る 「山 地 移動 型 」 の もの の分 析 が 軽 視 さ れ るべ きで は な く,ま た二 つ の類 型 相互 の間 の 移行 につ い て は,こ れ を 過大 評 価 して はな らな い と考 え る 。

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国立民 族学 博物館研究報告  14巻2号 背 景 に つ いて,チ ュア ン族 の か な りの 部 分 は明 代 初 期 の 統 治権 力 に よ る貴 州 遠 征 と そ れ に 連 続 す る衛 所 ・屯 田の 設 置,漢 族 の 入 植 とい う漢族 勢 力 の進 出 を契 機 と して 広 西 へ と移 住 した[塚 田  1985a:38‑55]。 来 住 の 当 初 は専 ら山 間で 焼 畑 耕 作 を基 幹 とす る生 活 を 営 ん で い た が,永 楽 年 間(15世 紀 初)以 降,漢 族 地 主 が ヤ オ族 の 攻 撃 か ら 田 土 を 防 衛 す る と と もに耕 作 の た めの 労 働 力 の 確 保 を 目的 と して チ ュ ア ン族 を 招 佃 した こ とを契 機 に,チ ュ ア ン族 の か な りの もの が 次 第 に 下 山 し佃農 化 す る過 程 を た ど った [塚 田  1985b:21‑・55]。 広 西 へ来 住 した チ ュ ア ン族 の 一 部 は,さ らに宣 徳 年 間 以 降,

や は り統 治権 力 や地 主 に よ る招 佃 を機 に広 東 へ と移 住 した[塚 田  1985a:38‑45]。

  次 に ヤ オ族 の 場 合 につ いて,そ の 古 名 「瑤」 が広 西 の文 献 に登 場 す るの は宋 代 の こ とで あ るが,し か し明代 に来 住 した もの も少 な くな い。 そ の二,三 の 事 例 を 挙 げ る と, た とえ ば 「山地 定 着 型 」 の 大 瑤 山の 「茶 山 ヤ オ 」 に つ い て,金 秀 瑤 族 自治 県 の 六 段村 の蘇 姓 は 明初 に湖 南 か ら,ま た 金 秀 ・白沙 両 村 の蘇 姓,古 ト村 の 陶姓,上 卜泉 ・莫村 の莫 姓 は 明初 に広 東 か ら来 住 した[広 西壮 族 自治 区編 輯 組(編)  1984a:228‑235]。

ま た,筆 者 が1986年6月 に金 秀 県 六 巷 村 の 「花 藍 ヤ オ」 の も とで 行 った 調 査 に よ る と, 藍 姓 ・相 姓 は貴 州 従 江 県 か ら広 西 へ 入 り,三 江(懐 遠)県,柳 州 を 経 由 して 明代 初 期

〜 中期 ご ろ 大 瑤 山 へ 来 住 した 。 さ らに 「山地 移 動 型」 の 「盤 ヤ オ(過 山 ヤ オ)」 の 場 合,金 秀 鎮 の趙 姓 は元 末 明 初 の こ ろに 「千家 洞 」(「山地 移 動 型 」・「平地 型 」 ヤ オ族 の も とに伝 承 され た 一 種 の 理 想 郷 の 伝 説)を 離 れて 移 住 の途 につ き,広 東 の楽 昌県 を経 由 して 来 住 した 。 ま た 臨 桂 県 宛 田瑤 族 郷 の趙 姓 の 盤 ヤ オの も とに 残 され て い る 『趙 家 来 歴 書 』 に よ る と,明 の 洪武 年 間(14世 紀 後 半)に 趙 姓 を 含 む 十 二姓 の ヤ オ族 が湖 南 か ら船 で 南 下 し広 東 の 楽 昌 県 「海 洋坪 」 を経 由 して 広 西 へ 来 住 した,と い う。 「平 地 型 」 の 恭 城 県 の 「平 地 ヤ オ」 も元 末 に 「千 家 洞 」 を 離 れ て,明 代 中期 まで に 当地 に来 住 した[広 西 壮 族 自 治区 編 輯 組(編)  1986b:278‑279]。

  な お,移 住 の 契 機 と して,先 の 「千 家 洞」 伝 説 の 外,「 洪武 帝 が湖 南 で 殺 鐵 を行 っ た」(前 掲 「趙 氏 来 歴 記 』,六 段 村 蘇 姓 等)と か,逆 に 「洪武 帝 の配 下の 武 将 に助 け ら れ て 生 き延 び る こ とが で きた 」(龍 勝 各 族 自治 県 播 内 村 の 粟 姓 「紅 ヤ オ」[広 西 壮 族 自 治 区 編 輯 組(編)  1986b:182‑183])と か,さ らに 洪 武 帝 の 名 は な いが 「漢 族 との 闘 争 に 敗 れ 追 わ れ た」(前 掲 の 莫 姓,金 秀 ・白沙村 蘇 姓 等)等 とい う故 事 が,ヤ オ 族 の 伝 承 や そ の 由来 書 た る 『過 山傍 』(「評 皇券 牒 」)の 中に 残 され て い る6)点 は 注 意 を 要 す る。 そ れ は,こ れ らの故 事 伝 承 が 明代 初 期 の 統 治権 力 に よる貴 州 方 面 への 遠 征 と 6)た とえ ば 「盤 古 王 聖 牒榜 文 書 」(宜 山県)[広 西 壮族 自治 区 編 輯 組(編)  1985a: 55‑61]に 次

の 記 事 が あ る。

  明 朝 王 出世 し,天 下 を横 販(反)し,万 万 の人 民 を 殺 死 す 。

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塚 田  中国広西 のチュアン(壮)族 ・ヤオ(瑤)族 と漢族 との政 治=文 化 的関係の比較考察

い う 歴 史 的 事 実 に 立 脚 し て 形 成 さ れ た で あ ろ う こ と を 容 易 に 推 測 せ し め る の で あ り, そ う だ と す る と ヤ オ 族 の 移 住 は チ ュ ア ン 族 の 場 合 と 同 様 に,漢 族 に よ る 圧 迫 を 外 的 な 契 機 と し て 行 わ れ た で あ ろ う こ と が 指 摘 さ れ る で あ ろ う 。

2.生

  前述 の よ うに チ ュ ア ン族 ・ヤ オ族 と もに 漢族 の 圧迫 に よ って移 住 して きた ものが 少 な くな い が,し か し,広 西 へ の 来 住 後 の生 活 形態 に 関 して は,両 者 の間 で はか な りの 相 異 が見 られ た。 この点 に つ いて,チ ュ ア ン族 の 多 くが 漢族 地 主 の招 佃 を受 けて 平 地 で 水稲 耕 作 を行 うよ うに な った こ とか ら も容 易 に 推測 され るが,さ らに嘉 慶 『平 楽 府 志 』 巻 三 三,夷 民 部,猫?,恭 城 県 に引 用 され て い る次 の 明末 清 初(16‑17世 紀 初) の 頃 の記 事 が重 要 な参 考 材 料 と な る。

(?)性 気 粗 桿 に して 花 衣 短 裾 な り。俗 は な お 猫 と同 じ。 編 籍 され る こと無 く,

        こさく       えん

多 く民 田 を佃 す る は,猫 の穴 居 す るに似 ず。(中 略)聚 族 して叢 居 し,自 ら相 い 姻

ぐみ             や  き は た

姫 す。 大 抵,皆 刀 耕 火 褥 し,獣 を 猟 して腹 を呑 む。 礼 法 を知 らず,性 は多 く剛 復 た り。

す な わ ち,恭 城 県 で は チ ュ ア ン族 は山麓 地 帯 に 「聚 族 叢 居 」 し焼 畑 耕 作 ・狩 猟 採 集 生         こさく

活 を営 ん で い た が,し か し同時 に 「民 田を佃 す る」 よ うに な りつ つあ った。 他 方,ヤ オ族 は 山 中 に 「穴 居 」 して い た と い う。 これ よ り,総 じて言 え ば チ ュア ン族 が平 地 農 民化 して い く傾 向 にあ った の に対 して,ヤ オ族 は 山 中 に留 ま る傾 向 に あ った ことが 窺 わ れ る。 な お,こ の 記 事 に は ヤ オ族 の 三類 型 の 間 の相 異 が指 摘 され て いな いが,こ の 点 に つ いて 次 の 雍 正 『広 西 通 志』 巻 九 三,諸 蛮,蛮 疆分 隷,臨 桂 県 の 記 事 が 参 考 とな る。

平 地 ・大 良 ・高 山 ・過 山の 別 有 り。 平地 瑤,村 落 に散 処 し,佃 田傭 耕 す 。 大 良 猫, 漢 文 字 を習 い,民 と雑 作 し,或 は婚 姻 を通 ず。 高 山猪,竹 木 を架 け茅 を 葺 きて 栖       う

む 。 粟 ・芋 ・董 ・薯 を 種 う 。 蜂 蜜 ・黄 蝋 ・山 第 有 り,貨 り て 以 て 食 に 易 う。 過 山 猫,数 年 此 の 山 な る も,数 年 又 た 別 の 嶺 な り て 定 居 無 き な り。

す な わ ち,「 平 地 型」 の 「平地 猫 」 は平 地 の村 落 に 散 処 し,(恐 ら く漢 族 地 主 の)佃 農 と して 水 稲 耕 作 を行 って いた 。 また 同 タ イプ の 「大 良徭 」 も平 地 に お いて 漢 族 と雑 居 し,漢 族 との 間 に通 婚 さえ も行 って い た 。 「山地 定 着 型 」 の 「高 山猫 」 は山 地 に 居 住 し,雑 穀 の栽 培 や 山の 特 産 物 の 交 易 を行 って い た。 さ らに,「 山 地 移 動 型 」 の 「過 山       459

(9)

国立民族学博物館研究報告  14巻2号 猫」 は(焼 畑 耕 作 を行 い)数 年 単 位 で 移 動 す る生 活 形態 で あ った7)(な お,こ の 記 事 に は 明 示 され て い な い が,「山地 移 動 型 」 ヤ オ族 も また,山 林 資 源 の 交 易 を 行 って い た こ とは よ く知 られ た事 実 で あ る)。 「山地 定着 型」・「山地 移 動 型 」 の ヤ オ族 に つ い て, さ らに道 光 『修 仁 県 志 』 巻 一,輿 地,「 風俗 」 に次 の 記 事 が 見 出 され る。

大 猫 山,県 の正 南 に在 り,県 を 離 れ る こ と十 齢 里 。(中 略)内 に六 鳴 ・六 定 ・三 片

・六 段 等 の猫 有 り,頂 板徭 と 名つ く。 多 く貧 な り。 皆 な 自 ら山 を耕 して 食 し,租 税 を 輸 さず。 性 頗 る馴 擾 た り。 六 七 排 内 に 金 曲 ・銀 曲 ・留 噛等 猫 有 り。 長 毛 猫 と 名 つ く。頗 る富 な り。 性 極 めて 兇 桿 た り。 田畝 を耕 し税 を 輸 さず 。 香 草 を 種 え 松 杉 を 植 え,変 価 に存 積 し,以 て其 の 家 を 富 ます 。 猫 尚,険 を極 め行 し難 く,各 猫 亦 た 軽 々 し く猪界 を 出 ず。

す なわ ち ヤオ 族 の 一大 集居 地 と して知 られ る大 瑤 山に は,「 耕 山」一焼 畑 移 動 耕 作 を 行 う 「頂 板 猫 」(過 山 ヤ オ)の 外,「 耕 田」一梯 田 に よ る定 着 農 耕 を 行 う 「長 毛 猫」(茶 山

・花 藍 ・拗 ヤオ)が 居 住 して い た。 そ して 前 者 が 「貧 」 で あ った の に対 し後 者 は香 草 や松 ・杉 樹 の 栽 培(お よび そ の 交易)を 行 い,頗 る 「富 」 で あ った。 これ らの 二 つ の タ イ プ に は,居 住 ・農 耕 の 形 態 や経 済 力 の上 で は相 違 が 見 られ た8)も の の,し か し と もに 「軽 々 し く瑤 界 を 出ず」,山 中 に 留 ま り敢 え て 下 山 しよ う と しな か った点 で は共 通 性 が見 出 され る。

  こ こで チ ュア ン族 と ヤオ族 の居 住 地 の 自 然環 境 に つ い て,地 図 で 確認 して お こ う。

まず,地 図1は 富 川 県 の 「平 地 型 」 ヤ オ族 の村 落 で あ る(嘉 慶 『平 楽府 志 』 巻 三 三, 夷 民 部,猫?,富 川 県 に見 え る ヤ オ族 村 落 名 を 五 万 分一 地 図 上 に 図示 した)。 当地 の ヤ

オ族 は景 泰 元 年(1450)蜂 起 を行 った が,弾 圧 を 受 けた 。 この 時,そ の残 党 が 「招 撫 」 7)  『皇 清 職 貢 図 』巻 四,「 慶 遠府 過 山猫 」 に,

  其 の過 山 猫,山 鼠 に僻 処 し,焚 山種 植 を以 て 業 と為 す 。地 力 漸 や 薄 け れば,輯 ち他 徒す 。 故   に過 山を 以て 名 と為 す 。

とあ り,焼 畑 耕作 を 行 い 地 力 が衰 えれ ば 他処 へ 遷 徒 す る生 活 形 態 で あ った(た だ し,個 別 的 に は 次 の よ うな事 例 も見 られ た 。す なわ ち前掲 の 『趙 家 来 歴書 』 お よび伝 承 に よ る と,趙 姓 の祖

        マ  マ

先 は康 煕 初(1662年 頃)に 広 東 か ら広 西 平楽 府 昭平 県 を経 て 「桂 林 県」(臨 桂 県)下 に来 住 し, そ の後 約50年 ほ ど の間 に5回 移住 を行 い,し た が って ほ ぼ10年 に1度 の 割合 で 移 住 した が,康 煕年 間 後 期 以 降 は移 住 の 頻 度 が低 くな り,一 ケ所 に6〜8代 居 住 す るよ うにな った 。 ま た,桂 林 に来 住 して か らは,移 住 の 範 囲 が桂 林 近 辺 の霊 川 県 ・龍 勝庁 等 の地 に 限定 され て い る)。

8)な お,大 瑤 山 に お いて 先 来 の 「山地 定 着 型」 ヤ オ族 が地 主 と して,後 来 の 「山地 移 動型 」 ヤ オ 族 に 山地 を 小 作 させ て いた こ と(た だ し,梯 田形 式 の 水 田 は 自 ら耕 作 す る)は よ く知 られ た 事 実で あ る。 この点 につ いて 光 緒 『修 仁 県 志』,「風 俗 」 に,

  猫,両 種 有 り。 日 く頂 板,日 く長毛 。頂 板,即 ち長 毛 の 山 丁 な り。

とあ る 。

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塚田  中国広西の チュアン(壮)族 ・ヤオ(瑤)族と漢族 との政治=文 化的関係の比較考察

地 図1.「 五 万 分 一 朝 東 街 」

(部分,原 寸 の 約十 分 の五 。[:コ 内 は ヤオ 族村 落 を 示 す 。 な お,当 地 で は 「源 」 が 村 落名 のみ な らず村 落 の 上 位 区画 と され て い た 。地 図 上 の 各村 落 の所 属 す る 「源 」 は次 の とお りで あ る 。抵 源 一 抵 源 ・塘 湾 村,石 狗 源 〜 白面 塞 ・嵐 山 ・鴨背 村, 新 田源 一 新 田 源 ・毛 家 ・石 曹母 村,神 源 一 神源 ・媛 嶺 村 く嘉 慶 『平 楽府 志 』 巻 三 三 〉 。な お,地 図1・2と もに,参 謀 本 部 陸地 測 量 局 が1940年 に作 成 し,現 在, 東 京 大 学 総 合資 料 館 に所 蔵 されて い る もの を 使用 した)。

され て(下 山 し)山 麓 地 帯 に 定 住 す る こ とに な った9)の で あ り,こ の よ うな定 住 の 契 機 自体,平 地 ヤ オ族 が統 治権 力 の 支 配 下 に置 か れ た で あ ろ う こ とを 予測 させ る。 次 に, 地 図2は 修仁 県 の チ ュア ン族 と 「山地 型 」 ヤオ 族 村 落,お よ び 「民?雑 居 」(漢 族 と チ

9)乾 隆 「富 川県 志 』巻 十 二,雑 記,「 冠変 」。

  景 泰 元年,猫 賊 盤 性子 ・慶 八 子 等 叛す 。 征 蛮 将軍 田真,遣 兵 して 之 を 製 す 。知 県 羽 雲,其 の   飴 党 を 招 撫す 。([原 註]今 の三 十 六 源,是 れ な り。)

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国立民族学 博物館研究報告  14巻2号

地 図2.「 五 万 分一 修 仁 県 ・青 山坪 」

(部分,原 寸 の約 十 分 の 五 。[コ 内は チ ュ ア ン族 村,1亘1内 はチ ュア ン族 ・ 漢 族 雑 居村 を示 す)。

ユア ン族 とが 同居 す る)村 落 で あ る(同 書 巻 四,破 塘,修 仁 県 に見 え る村 落 名 を地 図 1と 同様 の方 法 で 図 示 した)。 地 図 よ り,県 城 の郊 外 に チ ュア ン族 と漢 族 との 共 住 村 落 が 形 成 され,そ の外 側 の丘 陵地 帯(清 代 の県 以 下 の 行 政 区画 で は 「広 平 都」 に属 す る) に チ ュ ア ン族 村 落 が 立地 し,さ らに 山間 部(大 瑤 山)に は ヤオ族 の村 落 が孤 立 して 分 布 して い る こ とが 見 て 取 れ る。 当地 の 「民?雑 居 」 村 の 消 長 に つ い て,恐 ら く明代 に は チ ュ ア ン族 村 落 が 多 か った の が,清 代 に入 って 「民?雑 居 」 村 が 形 成 さ れ始 め(既 に雍 正 『平 楽府 志』 巻 四,風 俗,修 仁 県 に,「 民?雑 居 」 の事 実 が指 摘 され て い る), や が て清 代 中期(18‑19世 紀 半)以 降,漸 次 「民?雑 居 」 村 が 漢 族 村 落 へ と変 化 して 行 った よ うに考 え られ る。 そ の こ とは,県 下 の 「広 平 都 」 の 東 西 南 北 四 郷 で は,嘉 慶 10年(1805)当 時,「?村 」 が圧 倒 的多 数 を 占 めて い た(前 掲,嘉 慶 『平 楽 府 志』 巻 四 ・巻 三 三)の が,光 緒25年(1899)に は 「漢 多 く?少 な し」 と い う状 況 に 変 化 した

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塚 田  中 国 広 西 の チ ュア ン(壮)族 ・ヤ オ(瑤)族 と漢 族 との 政 治=文 化 的 関係 の比 較 考 察

(光緒 『修 仁 県 志 』,「風 俗 」)こ とか ら推 測 可 能 で あ る10)。

  以 上 の 検 討 に よ り,生 活 形 態 の 上 か らす れ ば,チ ュァ ン族(の 多 くの もの)と 「平 地 型 」 ヤ オ族 が 平 地 に居 住 し水稲 耕 作 民 とな った の に 対 し,「山地 定着 型」・「山地 移 動 型 」 ヤ オ族 は 山 中 に留 ま り梯 田耕 作(「 山地 定 着 型 」)や 焼 畑 耕 作(「 山地 移 動 型」), 山 林 資 源 の 交易 を行 つて いた こ とが 指 摘 さ れ る。 な お,先 の史 料 か らチ ュ ア ン族 や

「平 地 型」 ヤ オ族 が佃 農 と な り,後 者 は また 統 治権 力 に 納税 を行 つて い たの に対 して

「山 地 型 」 ヤ オ族 は納 税 を行 わ なか っ た こ とが 窺 わ れ,統 治権 力 や地 主 との 関係 に お い て もか な りの相 異 が見 られ た で あ ろ う こ とを 予測 せ しめ,ま た地 図 か らは チ ュ ア ン 族 と 「平 地 型 」ヤオ 族 が 山 麓 ・平地 に,「 山 地 型 」 の ヤ オ族 が 山間 に居 住 して いた こ と が 確認 さ れ る とと もに 「民?雑 居 」 村 落 の 形 成 が 窺 わ れ,漢 族 との 通 婚 や文 化 の 面 で の 関係 の あ りか た に お いて も両 者 の 間 に は相 異 が あ った こ とを想 像 せ しめ る。 これ ら の 点 に つ い て は次 章 以 下 で 具 体 的 検 討 を 行 い た い 。

皿.統 治 権 力 との関 係

1.  ン 族

  明初 に お いて 「招 佃 」 に よ り漢族 地 主の 佃 農 と な っ た チ ュ ア ン族 は,や が て 明 代 中 期(15‑16世 紀 初)以 降,地 主 との 主 佃 関係 の 尖鋭 化 を主 要 な契 機 と して 各 地 で武 装 蜂 起 を起 こ した。 それ は,広 西 中 ・北 部 に お い て一 時 は猛 威 を 奮 った が,や が て 明 代 末 期 に は統 治 権 力 の 弾 圧 を 受 け て潰 滅 す る に至 った[塚 田  1985b:32‑36]。 明朝 統 治 権 力 は 弾 圧 した チ ュア ン族 を 「(熟)?戸 」 と して編 籍 す る政 策 を 実 施 し,そ の保 有 田土 を 「?田 」 と して 起 科 し税 役 を 賦 課 した[塚 田  1987:3‑5,9‑10](「 熟?」

とは,統 治権 力 に服 従 した チ ュ ア ン族 を 指 す 史 料 用語 で あ り,「 良?」 ・「善?」 と も 呼ば れ た11))。 統 治権 力 は また,チ ュア ン族 の 就 学 を 推進 し,そ の 習 俗 の 改 革 に も着 10)[竹 村   1967:55‑71]で は,ヤ オ族 ・チ ュァ ン族 ・漢 族(土 著 ・客 民)の 四集 団 を 次 の 四つ   の聚 居 形 態 の 型 に 区分 して い る(括 弧 内 は対 応 す る集 団 を 指 す)。 ①   深 山移 動型(ヤ オ族,  特 に過 山 ヤオ ・山 子 ヤ オ),②   渓 谷 低 地 準 定住 型(ヤ オ 族 ・チ ュ ア ン族),③   城 外 郷 村定 住   型(土 著 漢 族 と一 部 の漢 化 チ ュア ン族),④ 城 内都 邑型(客 民)。 この 区 分法 は大 局 的 に は妥   当 な見 解 と言 え る が,し か し,上 記 の② の 型 に お け る 「チ ュア ン族 の 一 部 の ヤ オ族 へ の 同化 」,   「ヤ オ族 とチ ュア ン族 との 同一 村 落 へ の 混 住」 とい う指 摘 につ いて は,よ り詳 しい 内 容 を持 つ  史 料 によ る傍 証 が必 要 で あ る よ うに思 わ れ る 。

11)こ れ に 対 して,統 治 権 力 に服 従 しな い チ ュ ア ン族 は 「生?」 とか 「悪?」 と呼 ば れ た 。 ヤ オ   族 や他 の 非 漢 民 族 に対 して も同様 に 「生 」・「熟 」 とい った統 治権 力 との政 治 的 距 離 を示 す 形 容  詞 を 民 族 名 称 に冠 す る呼 称方 式 が 用 い られ た。 この よ うに,中 国 王 朝 の傘 下 に 入 る か否 か を 基   準 と して 非 漢民 族 を類 別 す る の は,前 近代 にお い て 歴代 の統 治 階 層 に よ って 継 承 さ れ続 けた伝  統 的 な 類 別 方法 で あ る。

(13)

国立民族学 博物 館研究報 告  14巻2号 手 した[塚 田  1987:11‑16]。 この 政 策 が 開始 され た 当初 の 明末 清 初 に お いて は,税 役 負 担 を一 般 の 漢 族 編 民 の そ れ よ り軽額 に し,村 落 の 長老 一「?老 」(「?目 」・「頭 人 」

・「老 」 等 と も称 され る)を 通 じて 間 接 的 な 統 治 を 行 うな ど,種 々の 特 別 措 置 が講 じ られ た が,や が て 編籍 が 進 行 す るに つ れて,特 に 清代 中期 以降 チ ュア ン族 は 次 第 に

民 戸 」 と して 一 般 の 漢 族 編 民 と同等 の 身 分で 直 接 統 治 され る よ うに な って 行 った[塚 田  1937:6‑10]。 さ らに,'こ の 間,雍 正年 間 に は保 甲制 が,続 いて 団練 制 度 が 実 施 され チ ュ ア ン族 地 区 に も適 用 され た 。

  清代 中期 以 降 に な ると,さ らに 次 の 光 緒 『賀 県 志』 巻 七,風 俗,「 猫?」 所 引 の(乾 隆37年)「 旧 志」 に 見 られ る よ うな事 態 が発 生 す る に至 った。

?人,郷 村 に散 処 し,衣 服 ・飲 食 は斉 民 と異 る無 し。 惟 だ婦 女 の 服 飾 の み 稽 や別 な り。 其 の語 音,歴 世 改 めず,人 の 能 く辮 ず る もの鮮 し。 然 れ ど も皆 な 能 く官話 を 習 い,漢 人 と相 い通 じ,詩 に 敦 く礼 を 説 く。所 在 皆 身 の 膠 痒 に列 す る者,後 先 相 い望 み,明 経 ・孝 廉 よ り仕 籍 に 入 る者,且 つ 相 い踵 を接 す。 其 の 餓,耕 墾 して 相 い 安 ん じ,皆 な子 弟 に 読 書 ・識 字 を 教 え るを 知 る。 幾 ぼ其 の?た るを 辮 ぜ ざ る

な り。

す な わ ち平 地 の 郷 村 に分 散 居 住 す る チ ュ ア ン族 は,婦 女 の服 飾 を 除 い て は衣 服 ・飲 食 な どの 生 活 文化 の上 で 漢 族 との 相 異 が 見 られ な くな る とと も に,チ ュ ア ン語 を 維 持 し な が ら も官話(漢 語)に も通 じる よ うに な った 。 さ らに,そ の 中 に は,「 膠 痒 」(こ こ で は府 県 学)に 入 学 し科 挙 を 受験 して 官 僚 な い し官 僚 候 補 生 と して の 身 分 を?得 し, 中 国王 朝 の 統 治 階級 へ と上 昇 を 遂 げ る者 が,「 踵 を接 す」 る よ うに 輩 出 す る よ うに な

り,か くて 漢 族 と チ ュア ン族 との民 族 的識 別 さえ も困 難 とな った とい う。 チ ュア ン族 の 官 僚 ・官僚 候 補 生 の 出 現 とい う事 実 か ら,こ の よ うな社 会 的 身 分 の 上 昇 の前 提 条 件 と して の あ る程 度 の 経済 力 を持 つ地 主 の 出現 が 予測 され る と と もに,生 活 形 態 や言 語 に お け る漢 族 文 化 の 移 入 が か な り進 行 した こ とが推 測 され る。

  こ こで 注 意 した いの は,こ の よ うな 中華 帝 国 の行 政 組 織 へ の 編 入 に 際 して チ ュア ン 族 の 中で も地 域 的差 異 が 見 られ た 点 で あ る。 た とえ ば,広 西 北 部 の 湖 南 との省 境 山岳 地 帯 の龍 勝 庁(現 在 の 龍 勝 各 族 自治 県)の 場 合,そ こは元 来,統 治 権 力 の 支 配 力 の 及 ば な い 「苗 疆 」 の 地 で あ り,明 末 清 初 に 巡検 司 が設 置 され,さ らに 乾 隆6年(1741) 桂 林 府 の属 庁 とさ れ た後 も,「 理 苗 通 判 」(桂 林 府 捕盗 通 判 を以 て 移 駐 させ た)を 長 官

とす る軍 政 が敷 か れた 地 域 で あ った(道 光 『龍勝 庁 志 」,「原 始 」)。管 内の 龍 脊 十 三 塞

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塚 田  中 国 広西 の チ ュ ア ン(壮)族 ・ヤオ(瑤)族 と漢族 との政 治=文 化 的 関係 の 比 較 考 察

の チ ュア ン族 は(遅 くと も乾 隆48年 以 前 か ら)径 役 を 負担 して い た12)(し た が って編 籍 さ れ て い た)が,し か し実 際 に は清 代 中期 〜 末 期 以 前 に お いて は 中国 王 朝 に よ る統 治 が十 分 に は浸 透 して お らず,チ ュア ン族 の 村 落 の 指 導 者(「 頭 人 」 と称 され る)に よ る自 治 が行 わ れ て お り,そ の レベル で 解 決 で きな い事 件 が発 生 した と きの み官府 へ 出 頭 し庁 官 の裁 定 を受 け た。 頭 人 は宗 族 な い しそ の支 派 の族 長 た ちの 中か ら村 民 に よ っ て選 ば れ13),各 築 ・=村落 の 内部 の 治安 の維 持 や 紛 争 の 調 停 を 主要 任 務 とす る外,毎 年 春秋 に は十 三 塞 の 頭 人 た ちが 集 合 し,「議 団 」 と呼 ば れ る村落 間会 議 が 開催 さ れ,そ の 決 議事 項 が 「郷 約 」 と して 各 塞 に 榜 示 され た。 嘉 慶 元 年(1796)保 甲制 施 行 区 域 とな り,上 中下 の三 甲 が設 置 され,塞 内の 壮年 男 性 が 一年 ご とに順 番 に 甲長 に 充 当 され公 務 を担 当 した が,し か し甲長 は実 際 に は何 ら政 治 的勢 力 を持 たず,専 ら頭 人 の 統 轄 下 に 置 か れ た とい う。 ま た,当 該 地 域 に は清 中期 か ら清 末 ・光 緒 年 間 にか けて 団 練 が行 わ れ,そ の役 員 と して団 絡 が 任 命 され た が,そ れ も実 際 に は頭 人 た ちの 中か ら主 だ っ た 者 が選 ば れ兼 任 した[広 西 壮 族 自治 区編 輯 組(編)  1984b:91‑101]。 した が って, 統 治権 力 の側 か らす る と 「頭 人 」 を 通 じて は じめ て チ ュア ン族 を統 治 し得 た と言 え る。

清 末以 降,階 層 分化 の発 生 や統 治 権 力 の 影 響 力 の浸 透 に伴 い,こ の 体 制 は次 第 に 解 体 して 行 った よ うで あ るが,し か し少 な くと も先 の 平 地 の チ ュァ ン族 の場 合 と比 較 す る と長 老(「 頭 人 」)に よ る 自 治体 制 の 持 続 性 とい う点 で相 異 が見 られ,し た が って チ ュ ア ン族 は 統 治権 力 との 関係 に お いて,全 体 と して は先 述 の 過程 を た ど りなが らも,地 域 的 差異 も存在 した ことが 指 摘 され るで あ ろ う。

2.ヤ

  まず 「平 地 型 」 ヤオ族 に つ い て 見 る と,チ ュア ン族 同様,統 治 権 力 に よ って(「 猫 戸 」 と して)編 籍 され て 行 った よ うで あ る。 その 経 緯 につ い て,た とえ ば先 に地 図 を 提 示 した 富 川 県 の 平 地 ヤ オ や永 福 県 の 「大 良 猪 」 は,明 代 中期 に おい て 彼 等 が起 こ し た蜂 起 が 弾 圧 を 受 け,の ち 「招 撫 」 され 山麓 ・平地 に(強 制 的 に移 され)居 住 す る よ うに な った(註9史 料 お よ び 注 森 『嬉 西叢 載』 巻 二 四,「 瑤 」 所 引 「永 福 県 志」)。ま 12)「 定 例 侠 役 文 契」(乾 隆48年2月2日)・ 分 派侠 馬 差 使 分 契 」(同 年 同 月)[広 西 壮 族 自治 区編  輯 組(編)  1987:153,i53‑・154]。 な お,「 控 告 李 懐 秀 供 役 稟 帖」(道 光17年2月18日)で は,  乾 隆5年 の龍 勝庁 の創 設 以来,夫 役 が 課 せ られ て い た と して い る[広 西 壮 族 自治 区編 輯 組(編)   1987: 160‑161]0

13)そ の選 任 方 式 につ いて,[広 西壮 族 自治 区 調 停編(編)  1984b:91‑101]に よ る と,誠 実 で   衆人 に信 望 が あ り,調 停 能 力 が あ り,か つ 漢文(訴 状 や 契 約書)を 書 くこ とので き る者(各 村   に一 人 とは 限 らな い)が 「自然 に」 な った の で あ り,も し衆人 の信 頼 を 失 え ば地 位 を 失 った。

  な お,「 溜 天 洪 再呈 要 求 禁 革 書」 に,乾 隆 年 間 に官 府 が 慶 海 鮫 に牌 文 を 支 結 して 頭 人 に任 命 し   た こと が見 え[広 西 壮 族 自 治 区編 輯 組(編)  1987:155],頭 人 は 同時 に官 府 の承 認 を も経 て地   方 行政 の末 端 に 位 置付 け られ て い た ことが 推 測 さ れ る。

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                                     国立民族学博物館研究報告  14巻2号 た,湖 南 の 江 華 県 で は 知 県 が 「百 戸」(兵 百 人 を 統 率 す る衛 所 の 官)韓 恩 を して 「 撫 」 して 下 山せ しめ,民 田 を買 置 し編 戸 と した(万 暦 『江 華 県 志 』 巻 四,「 猪 尚」)。

「平 地 型」 ヤオ族 に賦 課 さ れ た税 役 に つ い て,臨 桂 県 で は 「田 を耕 し賦 を 納 む る も, 惟 だ 差遣 に任 ぜ ず 」(『磐 西 叢 載 』 巻 二 四,「 猫 」 所 引 「臨 桂 県 志 」),また 湖 南 の江 華 県

で も 「糎 を納 む る も差 に 当 らず 」(前 掲 『江 華 県 志 』)と され,一 般 に 税 糧 を 納 入 す る の みで よ く,径 役 は免 除 され て い た 。 な お,富 川 県 の場 合,雍 正 『広 西 通 志』 巻 九 三, 蛮 疆 分隷 に 「田 四畝 ご とに 僅 か に 民 の 一 畝 に税 す る を輸 し,賦 して 役 さず」 とあ る こ

とか ら,当 初 は径 役 を免 除 され た 上,税 糧額 も一 般 の編 民 の四 分 の 一 ほ どに 過 ぎな か った とい う14)。

  さ らに,前 掲 の 『鯉 西 叢 載 』所 収 「臨桂 県 志 」 に次 の 記 事 が 見 出 され る。

平 地 猫,居 食 嫁 婆,悉 く民 と 同 じ。 男 人,霧(剃)髪 す る も,止 だ 四 労 の み 。 婦 人,          

斑 欄 の衣 を 衣,刺 繍 す る こ と亦 た 古雅 な り。(中 略)間 々亦 た読 書 し応 考 す る者 有 り。 性 最 も淳 撲 た り,官 吏 に 見 え る を畏 れ,常 に晋 皇 の 魚 肉す る所 と為 り,自 直 す る能 わ ず 。

す なわ ち平 地 ヤ オ は,髪 型 や 女 性 の服 装 が漢 族 と異 な る もの の,住 居 ・食 生 活 ・婚 姻 習 俗 等 の 方 面 に お い て も漢族 と変 わ る と ころが 無 く,ま た 読 書 し科 挙 に 応試 す る者 さ え 出現 した とい う。先 に 図示 した富 川 県 の 「抵 源 」 の 数 ケ村 で も,平 地 ヤ オ族 の 中 に

「民 籍 に入 り,膠 痒 に 列 し,歳 薦 に登 る者 」 が 出現 し,官 側 か ら 「猫 民 中の 傑 な る者 な り」 と 賞 賛 され た(前 掲 ・嘉 慶 『平 楽府 志 』 巻 三 三)。 この 点 に つ い て 嘉 慶 『新 田 県 志 』巻 十,「 猫 尚」 に,

平 地 猫,聚 族 して居 る。 衣 服 ・飲 食 は平 民 と異 な らず。 顧 み る に人 は則 ち民 な る も,糧 は則 ち猫 な り。 実 に猪 籍 に属 す れ ば,必 ず瑤 牌 有 り。

と あ り,平 地 ヤ オ が 「猪 籍 」 に 編 入 さ れ ヤ オ 族 と し て 税 糧 を 負 担 し な が ら も,衣 食 が 平 民 と 同 様 な た め,そ の 点 か ら見 れ ば 「民 」 に 分 類 さ れ る よ う に な っ た の で あ る 。 さ ら に,所 に よ っ て は 税 役 軽 減 の 政 策 が 変 化 して 行 っ た 。 た と え ば,康 『永 州 府 志 』 巻 二 四,外 志,「 猫 尚 」 に よ る と,編 籍 の 当 初 は 「有 税 無 役 」 で あ っ た が,「 近 年 以 来, 頗 る 熟 猫 」 に な っ た た め,「 納 糧 当 差 」 す る よ う に 変 化 し た。

14)湖 南 の永 明 県 で も,編 籍 され た 「熟 猫 」 は 「薄 税 免 倍 」 と さ れ た(道 光 『永 州 府 志』,巻 五   下,風 俗 「猫 俗 」)。た だ し,所 に よ って は税 役上 の優 遇 処 置 の代 償 と して,要 地 の 守 備 等 の軍   事 的負 担 を 課 され る場 合 も見 られ た(こ の点 につ いて 万 暦 『江 華 県 志 』巻 四,「 猫 嵩 」 に,「 官   府 の提 調 を 聴 令 す 。 亦 た 用 うる に以 て 地 方 を 把 守 し,或 は盗 憲 に 遇 わ ば,衆 を 率 い て 之 を禦   が しむ」 とあ る)。

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塚田  中国広西 のチュアン(壮)族 ・ヤオ(瑤)族 と漢族 との政治=文 化的関係の比較考察

  以 上 の よ うに,編 籍 され,さ らに 習 俗 が 変 化 して行 った点 か らす る と,「 平 地 型 」 ヤ オ族 は先 の チ ュ ア ン族 の 場 合 と類 似 の過 程 を た ど った こ とが 指摘 され るで あ ろ う。

  他方,「 山地 定着 型」・「山地 移 動 型 」 ヤ オ族 に 目を 転 ず る と,そ れ らは おお む ね清 末 に至 る まで 編 籍 され なか った よ うで あ る。湖 南 で は,平 地 ヤ オが 「熟 猫 」 と も称 され た の に対 し,深 山 に 住 む ヤ オ族 は 「生 猫 」 と して 編 籍 さ れ な か った(道 光 『永 州 府

       

志 』,猪 俗,永 明 県)。 した が っ て,税 役 に つ い て も 平 地 ヤ オ が 「免 役 定 税 」(附 点 筆 者,        

以 下 同 じ)と さ れた の に 対 して 高 山 ヤ オ は 「免 役 免 税 」で あ った{『 藍 山県 図志 』 巻 十 四,礼 俗,猫 俗,鍾 才 漁(宣 統2年 の挙 人)「 径 俗 軟 聞録 」}。広 西の 場 合 につ いて も, 大 瑤 山 に居 住 す る ヤ オ族 は,成 化1‑2年(1465‑1466)の 侯 大 狗 や嘉 靖17年(1538)

の侯 公 丁 等,明 代 に 度 々蜂 起 を 起 こ し弾圧 を受 け た。 しか し統 治権 力 は 弾圧 後,専 山麓 の 防 備 体 制 を 強 化 す るの み で,山 中 の ヤ オ族 の 編 籍 に着 手 す る こ とは で きな か っ た。 清 代 に入 って も 前 掲 の道 光 『修 仁 県 志 』 の 記 事 か ら,「 頂 板 猪 」・「長 毛猫 」 と も に,清 末 まで 編 籍 され て 税 役 を 納 入 す る よ うな段 階 に は至 らな か った こ とが 確認 さ れ る15)。さ らに,道 光 『修仁 県 志 』 巻 三,「 田賦 」 に は,ヤ オ・族 が 「輸 餉(納 税)せ ず 」,

「永 く戸 に 編 まれ ず」 とい う 状 態 で あ った た め,統 治権 力 の 側 か ら は 「村 落 の 多寡 を 知 るの は 困難 で あ り,彼 等 の 盛 衰 も見 極 め る こ とがで きな い」 こ とが 指 摘 され て い る。

  山地 の ヤ オ族 に対 す る統 治 の 実 態 に つ い て,次 の雍 正 『広 西通 志 』 巻 九 三,蛮 疆 分 隷,賀 県 の 記 事 は見 逃 せ ない 。

(猪)山 拗水 桶 の間 に巣 居 す 。(中 略)迎 春 に城 市 に 出で,婦 女 は猫 音 を 操 り, 男 は土 鼓 を撃 ち以 て これ に 和 す 。 官府,魚 塩 を 稿 し以 て帰 す。

す な わ ち,賀 県 の 山地 に 「巣 居 」 す る ヤ オ族16)は 毎 年,年 頭 に下 山 して 県 城 に入 り 官 府 に 伺 候 し,そ して男 性 の鼓 を用 いた 伴 奏 の 下 に 女 性 が 唱 歌 した。 これ に対 して 官 側 は魚 や 塩 を 賞 給 す る こと に よ って 慰 労 した17》,と い う(な お,光 緒 『賀 県 志 』 に 15)涯 士 鐸 『乙 丙 日記 』巻 二 に,

   宣廟(道 光)三 十 年,粤西 日 と して 叛 く可 か らざ る は無 し。其 れ紫 荊 山 は,明 の大 藤 峡 を平    げ て よ り以 来,今 に至 るま で 盗 の薮 た り,銭 糧 国課 を 交 せ ず,官 府 相 い承 け,視 て 域 外 と為    す 。

  とあ り,大 瑤 山に連 な る紫 荊 山に 居住 す る ヤオ 族 が,明 代 に 弾圧 され て か ら清末 道 光 年 間 に至   るま で税 役 を 納 入せ ず,統 治 権 力 か ら 「域 外 」 と見 倣 され て い た こと が確認 され る。

16)こ こで は ヤ オ族 の タ イ プが 明 記 さ れて いな い 。 この点 につ い て 光緒 の県 志 の記 事 で も,そ れ   が 「盤 姓」 で 「盤 古(瓠)の 後 と 自称 す る」 と しな が ら,他 方 で 「山7中」 に 「聚 族 成 村 す る」

  と し,さ らに 「過 山猫」 の項 目を 別 に 立て て お り,こ れ らの 情 報 だ けで は判 別 が 困難 で あ る 。 17)こ の点 につ いて,道 光 『柳 州 府 志 』巻 十 一,風 俗,立 春 の 項 に 次 の記 事 が あ る 。

   嬉 西 の 旧俗 を 按 ず る に,行 春 の 日の例 と して 猫女 の踏 歌 を伝 う。其 の各 郷,毎 歳 倶 に挨 次 し

      ぱか        なこうど

   て 来 り,公 堂 に詣 りて 唱す 。 畢 れ ば各 々塩 斤 許 りを給 す 。 其 の女 子,里 に 回れ ば,随 い て媒

    えんぐみ

   の 説 親 す る有 り。女 子 原 よ り歌 わ ざ る と錐 も,倶 に老 猫 婦 の 代 唱す る に係 る 。(中 略)今,/

(17)

国立民族学博物館研究報告  14巻2号 よ る と,歌 詞 は 「豊 年 歌 」,つ ま り豊 作 祈 願 の 内容 で あ っ た)。 この賀 県 の 山地 ヤ オ族 は,嘉 慶10年(1805)に 至 って も依 然 「編 戸 に 入 らな い」 段 階 に あ った(嘉 慶 『平楽 府 志』 巻 三 三,「猫?」)。 この外,所 に よ って は 山 麓 の 漢族 地 主 を 「猫 官 」(「撫 猫 官 」) に任 命 して これ を通 じて ヤ オ族 を 間 接 的 に 統 治す る 場 合 も 見 られ た18)。 これ らの 事 例 か ら,統 治権 力 は 山地 の ヤ オ族 に対 して は これ を 編 籍 せ ず に,食 塩 な どの 生 活 必 需 品 の 支 給 に よ る懐 柔 や最 寄 りの 漢 族 地 主 を 通 じて の 非 常 に緩 や か な統 治 を行 って い た こ とが 指 摘 され よ う。

  「山 地 移 動 型」 の ヤ オ族 の場 合,「 数年 此 の 山 な る も,数 年 又 た 別 の 嶺 な り」(前 掲 雍 正 『広 西 通志 』,臨 桂県)と い う頻 繁 に 移 動 を 行 う 生 活 形 態 の ゆ え に 統 治権 力 に よ る その 把 握 が と りわ け困難 で あ った と思 わ れ る。 この 点 に つ い て,雍 正 『広 西 通 志 』 巻 九 三,蛮 疆 分隷,霊 川県 に,

    (猫)自 ら盤 古(瓠)の 喬 な りと謂 う。 「先 に 猫 有 り,後 に 朝 有 り」 の諺 有 り。 所     在 耕 山 し,土 宜 を択 び て遷 徒 す 。 人 の敢 え て 阻 む 莫 き も,然 れ ど も未 だ嘗 て盗 を     為 さず 。

と あ る。 す な わ ち,漢 族 の側 か らす る と,山 間 部 で 焼 畑 耕 作 を行 い適 地 を求 めて 移 動

\   府 城 久 し く已 に革 除 せ らる も,各 属 尚 お之 を 行 う もの有 り。

  す な わ ち,柳 州 府 お よ び府 下 の 各 県 で も,ヤ オ 族 の女 性 が,毎 年 正 月 に官 衙 に来 て 唱 歌 し,官   側 が これ に塩 を 支給 す る慣 行 が 見 られ た。 この 場合,各 郷 の ヤオ族 が毎 年 交 替で 担 当 し,ま た   女 性 は未婚 者 で,彼 女 が歌 唱 す る こ とがで きな け れ ば老 婦 が 代 唱 した とい う。

    な お,ヤ オ族 に対 す る統 治 権 力 の 塩 政 に 関 して 応 橿 『蒼 梧 総 督 軍 門志 』 巻 二,所 引 の成 化 元   年(1465)の 制 勅 に,

        もら     両 広 軍民 人 等,多 く魚 塩 等 の物 を 興 販 し,猫 嵩 に進 入 して 買 売 す る有 り。 因 りて 消 息 を 走透     す る こ と,深 く未 だ便 な らざ るの み 。須 ら く出 傍 して 厳 しく禁 約 を加 え,違 うる者 は処 す る     に死 罪 を以 て す べ し。

  とあ り,成 化 元年,両 広(広 東 ・広 西)に お い て,(ヤ オ族 の 蜂 起 の 防止 とい う観点 か ら)塩   を 携 帯 し瑤 山へ 入 山 す る商 人 が政 府 の機 密 を ヤオ 族 に漏 洩 す る とい う理 由で,ヤ オ族 に対 す る   塩 禁 の 政 策 が実 施 され た(そ れ は恐 ら くは塩 の 密売 の取 り締 ま りの政 策 と も密接 に 関わ って い   よ う)。 そ して 同 時 に,同 書 巻 一 四,「 経 費 」 に,

    朔 望 及 び歳 首 に,聴 撫せ る猫 撞,軍 門 に赴 きて 投 ず る に,見(現)に 百 里 の 外 に在 る者 は,     毎 名 銅 銭一 百 文 ・布 二 疋 ・魚 塩 各 五 斤 を 賞 し,百 里 の 内 な る者 は魚 塩各 二 斤 もて す 。   とあ るよ うに,「 聴 撫 」一統 治 権 力 に恭 順 した者 に対 して 年 頭 や 毎 月一 日 ・十 五 日に塩 や 銅 銭 ・   布 ・魚 が 「賞 」 給 され た ので あ る。 これ よ り,塩 の支 給 と停 止 の 政 策 が,ヤ オ 族 を統 御 す るた   めの 有 効 な手 段 と して 重視 され て い た こ とを知 る こ とがで き る。

18)た とえ ば,湖 南 の藍 山 県で は,深 山 に定 住 す る高 山 ヤ オ は,数 十 余 家 を単 位 とす る 「沖 嵩 」   ご と に 「窩 目」 が 居 り,ヤ オ族 を統 轄 して い た。 「倍 目」 は さ らに 山 麓 の漢 族 「揺 官」(「撫 揺   官 」)の 統 属 下 に 置か れ た(「 揺 官 」 は県 下 の東 西 に二人 居 り,明 末 嘉 靖年 間 に ヤオ 族 の蜂 起 を   鎮圧 した 鍾 富光 ・成 世 仁 の 子孫 が各 々地 位 を世 襲 した)。 ヤ オ族 の間 に 紛 争 が 発 生 した場 合,    「倍 目」 が 調 停 した が そ の段 階 で 解 決 され な い と きに は 「樒 官 」 に 訴 え た。 重 大 案 件 につ いて   は 「揺 官 」 が さ らに 県 に報 告 し そ の 裁定 を 受 け る仕 組 み に な って い た(前 掲 『藍 山 県 図志 』,   鍾才 灘 「倍 俗 軟 聞録 」)。類 似 の体 制 は広 東 北 ・西 部 で も広範 に見 られ,ヤ オ族 統 治 に少 な か ら   ざ る作 用 を 果 た した よ うに考 え られ るが,こ の点 につ い て の具 体 的 な 検 討 は別 の 機 会 に行 い た   い 。

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