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平等主義、効率性および制度一平等主義的経済モデルの可能性一

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(1)

研究 ノー ト

平等主義、効率性 および制度

一平等主義的経済 モデルの可能性 一(1)

は じめに

 規範的価値 と しての平等主義

‑1  市場・ 資本主義批判 と平等

‑2  効率性 と平等

‑3  規範 的価値 と しての平等主義

‑4  平等化 され る もの

 平等主義 的経済 の経験

‑1  資本主義 の黄金時代

‑1‑1  成長

‑1‐ 2 雇用 と賃金

‑1‑3  福祉支 出

‑1‑4  所得 の平等化 (以上、本号)

‑2 1970年代以降 の社会民主主義経済

 所得 ベースの平等主義 と効率性

‑1 2つ のモデル

‑2  社会民主主義 の経験

所得 ベースの平等主義 モデルの行 き詰 ま り

V‑1  経験 的事実 :5つの事実 V‑2  理論 的説明

 資産 ベ ースの平等主義 と効率性

‑1  理論的説 明

‑2  民主主義企業 モデル

 結 びに代えて:若干 の理論的 イ ンプ リケー シ ョン

‑23‑

(2)

は じめに

本稿の課題 は平等主義的経済モデルの可能性を検討す ることにある。すなわち、経済的効率性を 高 める平等主義的経済、 あるいは少 な くとも経済的効率性 と両立可能 な平等主義的経済 は可能か 一―こうした課題を、 これまでの経験的および理論的研究両方の成果を基礎に検討することにある。

そのさい、分析の焦点 は両者を結びつける制度的デザインに置かれる。

一般的に、左派の経済学者の規範的目標 は平等主義的経済の実現 一一 たとえば、完全雇用、平等 主義的な所得/資産の分配、資本配分あるいは職場 に対する民主的 コントロール ーー に置かれてき た。 こうした規範的目標か らは、 これまでにい くつかの平等主義的経済モデルが提示 されている。

しか し現在では、そうした経済モデルの信用 は失われ、平等主義的経済モデルの在庫は底をついた、

とい うのが一般的な受 け止め方であろう。

過去30年に及ぶ出来事 は、平等主義的実験が失敗に終わったのではないか、あるいはより限定 し て言えば平等主義的経済モデルが陳腐化 したのではないか、 という認識を生み出 した。 これに続い たのは市場を国家の くびきか ら解 き放す ことを求める主張であり、市場が人間福祉の向上にとって 最適な制度だ という受 け止め方である。 こうした一般的認識の変化を促 したのは主 として次の 3つ の事実であろう。すなわち、社会主義の実験の終わ りとその失敗、いわゆる資本主義の黄金時代の 終焉、そ して社会民主主義 モデルの行 き詰 まりである。

社会主義経済 一一 以前の東 ヨーロッパ諸国 とソビエ ト連邦 一二は、資本主義経済が提供 した生活 水準 に匹敵するほどの生活水準を自国の市民に与えることに失敗 し、1989‑91年において劇的な終 焉を迎えるに至 った。他方、中国は依然 として政治的観点か らは社会主義の標題の下 に入れ られる ものの、1979年以降、市場を志向 した経済改革を推進 している。 これにより中国経済 は最初 に農業 を、ついで工業を転換 させることに成功 したと見 られている。市場志向の改革 は、改革以前の中国 が経験 した以上に高い成長率を もた らしただけではない。同 じ時期、他の経済諸国が達成 した以上 に高い成長率 も実現 したのであった (林 [1997])。

ケイ ンズ主義的楽観主義 は第2次世界大戦後のおよそ25年間にわた り平等主義的経済政策を支え、

いわゆる資本主義の黄金時代 (Marglin and Schor[1990])を もた らした。民間セクターにおけ る賃金の上昇 は国内需要を拡大 し一一国家が資金供給 した社会サービスと移転支出の拡大 と相倹 っ て 一一 完全雇用 と経済成長を促進 したのであった。だが、賃金の上昇 と政府支出の拡大 は失業率の 上昇 とイ ンフレーションを引き起 こし、1970年代初頭 にその幕を閉 じた (Glyn,Hughes,Lipietz and Singh[1990],Armstrong,Glyn and Harrison[1991])。 後 に続 いたのは混合経済 における

「民営化」 と「規制緩和」の波であった。

資本主義の黄金時代が終わ りを告げ、1970年代以降、多 くの先進資本主義諸国が失業 とインフレー ションに苦しむ中、社会民主主義経済、とりわけスウェータン経済の高いパフォーマンスは際だっ

‑24‑

(3)

ていた。 しか もスウェーデンでは、平等主義的イデオロギーに対する強いコミットメントに基づき、

経済的豊かさが、社会化 されたサー ビスの消費 と所得の再分配 (累進課税 と移転支出)の両方をつ うじて公平 に再分配 されていた。だが、1990年代 には一一 失業率か ら評価 した場合 ― 北欧社会民 主主義経済が他の ヨーロッパ諸国に対 して有 していた優位性 は消滅 し、その行 き詰 まりは紛れ もな

いものとなった (Glyn[1998],IverSen[1998b],Vartiainen[1998])。

こうした歴史的出来事の後に残 されたのは次のような一般的な受 け止め方である。すなわち、放 棄 されるべ きは平等主義的経済モデルであり、期待 されるべ きは市場である、 と。言いかえれば、

市場が人間の福祉を促進す る最適な制度であり、市場の失敗 に政府介入のつぎあてをあてようとす る試みはどのような ものであれ、事態を悪化 させるだけだという認識である。

しか し、 こうした‐般的認識 は経験的証拠か ら裏づけられるものではない。た しかに1980年代 に 入 り、福祉国家 は危機の中にあると認識 されている (Glyn[1992],Glyn[1995])。 だが、福祉国家 が成長 に与える効果は依然論争のある点である。たとえば、Perotti[1996]の計量経済学的研究は、

1960年か ら1985年のデータに基づいて限界税率が成長に与えるイ ンパ ク トが負ではな くむ しろ正で あり、 しか もその有意水準がきわめて高いということを発見 している。また、課税だけではな く再 分配 的 な支 出 も成長 と正 に関連 して い ることが見 出 されて い る。 Bowles and Gintis[1998a]

(Fig。 2,p.12)もまた、1979‑1992年期間の先進資本主義経済12カ国 につ いて、労働生産性 (従

業員1人あた りGDP)の年平均成長率 と所得の平等 との間に正の相関を見出 している (両者の単 純相関は+0。321)6

‑般的認識が示すように平等主義的経済モデルが時代遅れの ものとなって しまったのかどうか、

こうした問いに明快な回答 は与え られていない。本稿はこの点に答えることにある、より控えめに 言えば、今なお平等主義的経済モデルに何 らかの可能性を見出す ことができるのか どうか、そうし た点を検討す ることにある。

後 に示すように、第2次世界大戦後か ら今 日までの先進資本主義経済の歴史的経験を振 り返 ると、

経済的効率性を改善 した 一一 少な くとも経済的効率性 と両立 した一一 、 2つ の平等主義的経済モデ ルを見出す ことができる。いわゆる資本主義の黄金時代 (第 2次世界大戦後のおよそ25年)下

先進資本主義経済 と、1970年代か ら1980年代にかけての北欧社会民主主義経済である。本稿の分析 は、そうした 2つ の平等主義的経済の経験 一一 その成功 と失敗 一一 と、それを理論化 した経済モデ ルを対象にする。 さらに、そうした経験の失敗をもとに提案された新たな平等主義的経済モデルを

l Bowles,Gordon and Weisskopf[1991](Fig.14.1,p.223)に おいて も同様の事実が見出されている。そ こでは、先進資本主義経済10カ国において、1979‑87年 期間の労働生産性 (労働者 1人 あた りのGDP)の

成長率 と所得の平等 とが取 り上げ られ、両者の間に正の関連が存在すること、そして両者の単純相関が+0.31 であることが見出されている。平等の尺度 はいずれの研究で も、最高分位20%に対す る最低分位20%の比率 である。

‑25‑―

(4)

検討する。 こうした一連の検討をつ うじて経済的効率性 と平等主義の両立を可能 にす る制度的配置 もしくは経済的ガバナ ンスを追求することに したい。

以下、本稿の議論 は次のように構成 される。第 1に 、 これまで経済理論 一一新古典派経済学に く わえマルクスの市場・ 資本主義批判 ―下 において平等がどのように取 り扱われていたかを検討 し、

そこには平等その ものの理論的位置が見出されないということを確認する。その上で、何故平等主 義が追求 されるべき価値なのか、すなわち如何なる意味で平等主義が規範的価値 たりうるのか とい うことを示す (第2節)。 次いで、 2つ の時期 における先進資本主義経済の経験を観察 し、い くつ かのマクロ経済的指標 に基づ き、経済的効率性 と平等主義的な経済的成果が両立 していたかどうか を確認す る (第3節)。 戦後の先進資本主義経済 の経験を基礎 に、 これまでに、平等主義 と経済的 効率性を結びつける、い くつかの経済モデルが提示 されてきた。 さらにそうした平等主義的経済の 衰退 一一資本主義の黄金時代の終焉 と社会民主主義経済の行 き詰 まリーー とともに、従来の平等主 義的経済モデルに代わる新たなモデルが提案 されて きている。後に示すように、従来の平等主義的 経済モデル ーー 資本主義の黄金時代 と社会民主主義のそれ 一一 のキー概念が「所得」 にあるとすれ ば、新たな代替的なモデルのキー概念 は「資産」 ―一 生産的資産 一一 である。 したが って便宜的に、

前者の平等主義的経済モデルを「所得ベースの平等主義モデル」 と呼び、それに代替的な平等主義 的経済モデルを「資産ベースの平等主義 モデル」 と呼ぶ ことに したい。所得ベースの平等主義モデ ルの検討 にあたっては、 2つ バ リエーションに焦点をあてる。資本主義の黄金時代 もしくはフォー デ ィズムをモデル化 した成長モデル、社会民主主義経済の経験をモデル化 した集権化された賃金交 渉モデルである。 これにより、所得ベースの平等主義 モデルが如何 なる形で経済的効率性の向上 に 寄与 していたのか (あるいは両立 していたのか)、 また、その基軸的な制度が何であったかを明 ら かにす る (第4節)。 次いで「所得ベースの平等主義モデル」 の衰退を経験的および理論的両観点 か ら検討する。そのさい、 とくに重視 されるのは労働生産性の源泉における変化である。そうした 検討 により、平等主義 と経済的効率性を結びつけていた制度が、効率性の障害 に変質 して しまった ことを明 らかに したい (第 5節)。 同モデルの行 き詰 まりを受 け、 その後展開 された資産ベースの 平等主義 モデル ーー とくに民主主義企業モデル ーー を検討す る。 とりわけ、そうしたモデルにおい て生産的効率性が如何に して確保 されるか、 という点に焦点が置かれる。 また、同モデルが抱える 問題点 も一一「労働者協同組合」2の経験等 に基づいて 一― 指摘す る (第6節)。 最後に、以上の理 論的および経験的研究成果の検討を踏 まえ、平等主義的経済 モデル ーー 所得ベースの平等主義モデ ルと資産ベースの平等主義モデル ーー の検討か ら引き出される、い くつの理論的イ ンプ リケーショ

ンを提示することに したい (弟7節)。

2こ こでとりあげられる「労働者協同組合」 はスペインのモ ンドラゴンの経験 (ホワイ ト、 ホワイ ト[1991]、

セクラウ ド [2000])で ある。

‑26‑―

(5)

 規範的価値 と しての平等主義

本節では、マルクスの市場・ 資本主義批判 と新古典派理論 において平等がどのようにとり扱われ ているかを見 ることか ら始める。 マルクスの理論では、そもそも市場 における平等 という課題設定 が成立せず、平等の実現が市場の彼岸 一一 資本主義社会に代替的な将来社会 一―に位置づけられて いる。他方、新古典派理論では、た しかに、市場の中に平等の問題が位置づけられている。だが、

よ く知 られているように、公正、平等を評価す る系統だ った尺度 については合意が存在 しない。そ の意味において規範的問題の取 り扱いが きわめて困難なものとなっている。

理由は何であれ ―一 規範的な問題設定が成立 しない、 もしくは規範的問題 の取 り扱 いが難 しい 一 、市場を前提 とす る場合、平等主義が如何なる意味で規範的価値た りうるか、 とい うことが問 われることはなか った。そこで両理論の平等の取 り扱 いを検討 した後、如何なる理由か ら平等主義 が規範的価値たりうるのかを明確 に しておきたい。

‑1  市場・ 資本主義批判 と平等

マルクスの市場・ 資本主義批判において平等がどのように扱われているか。本小節では、その点 を確認することか ら始めることにしたい。マルクスの理論では、そ もそも市場経済における平等主 義 という問題設定が成立せず、平等主義が市場の彼岸 に位置づけられている。言いかえれば、平等 主義 という規範的課題が市場そのものの否定 によって解決 されるという論理構造のために、規範的 課題が市場の否定 という課題 に置 き換え られている。そのか ぎりでは平等主義 という規範的課題の 重荷か ら解放 されていると言えよう3。 ぁぇて言えば、そ うした規範的課題 は、事実上、放棄 され ていると言 って もよいであろう。 したが ってそ もそ も、平等主義が規範的価値たりうるか、 という ことが問われることはない。

本稿の課題 は、すでに言及 したように、経済的効率性 と整合的な平等主義的経済モデルは可能か という点 にあり、 これは言いかえれば、市場の中に平等の理論的位置を確立 しようとする試みで も ある。 こうした課題設定は、マルクス理論の立場か らみれば、そもそ も成立 し得ないものであろう。

1844年の『経済学・ 哲学草稿』において も、後期の『資本論』 ―一 いわゆる物神性論 一― において さえ、市場の彼岸ではな く市場その ものの中に規範的課題の解決 一―平等の実現 ―一 を見 ることは ない。

『 経済学・ 哲学草稿』 の第1草稿Heftlにお いて、 マル クスは「 疎外 された労働 と私有財産 3松井 [1999]は この点を的確に次のように述べている。「 マルクスは、社会 には適度の希少性 と個人間の利

害の対立が存在す るというヒュームの『 正義の環境』が、階級対立 とエゴイズムに基づ く資本主義 に特有の 状況だ と考え、生産力が飛躍的に増進 し民主的な意思決定が可能 となる共産主義社会 においては、解消 され ると考えていた。 したが って、階級闘争の課題 は、権利や平等 といった法的観念 に拘泥することな く、資本 主義社会その ものを廃絶 して共産主義社会へと移行することとされた」(松 [1999]、 133ページ)

‑27‑

(6)

Entfremdete und Privateigentum」 の関係を基礎 に「国民経済学」批判を展開 している。そうし た批判 は疎外の克服 という規範的課題を明示的に担 ってお り、マルクスにおいて規範的課題が如何 にして解決 されるかを理解する上で有益な事例である。マルクスはまず第 1に 「国民経済学」の出 発点が私有財産 にあることを確認す る。その上 で私有財産の「本質」を次のように理解する。「私 有財産 は、外化 された労働の、すなわち自然や自分 自身にたいする労働者の外的関係の、産物であ り、成果であり、必然的帰結なのである」(s.372、 邦訳102ペー ジ)、 と。他方、追求 されるべ き将 来社会については次のように述べている。共産主義 はそうした「人間の自己疎外 としての私有財産 の積極的止揚」(s.389、 邦訳130ページ、傍点原文)である、 と。

このように私有財産 と共産主義を理解するマルクスにとって「共産主義の基礎 としての平等」(s.

424、 邦訳160ページ)は私有財産が止揚 された世界 において実現 されるものである。同 じことであ るが、「分業 と交換 とが私有財産を基礎 に している」(s.433、 邦訳175ページ)以上、そ もそ も、平 等 は「分業 と交換」(=市)において実現 されるものではない。それは「私有財産」 したが って

「分業 と交換」が廃棄 された後に、すなわち市場の彼岸 にその固有 の場所を有す ることになる。 こ うしたマルクスの論理構造 においては、「外化 された労働」すなわち「私有財産」を上揚す ること が同時に疎外 された労働の克服、平等の実現 に結 びつけられる。 こうして『経済学・ 哲学草稿』の マルクスにおいては、平等の実現 は市場の否定 (正確 には、その基礎たる「私有財産」の止揚)に

置 き換え られ、規範的課題の解決 という重荷か ら解放 されることになる。

後期マルクスも、初期マルクスと同 じように、資本主義批判 一一 より狭義 には市場の批判 一― を 展開するさい、「労働」 に規範的機能を与えている (遠 [1988])。 こうした点 はとりわけ「商品」

章の有名な物神性論の中に見出される。マルクスの理解する商品世界 (=市)の構造を確認する ことか ら始めよう。そ うした構造理解 は商品章第4節の物神性論の中の以下のような叙述か ら読み とることができる。

「生産者 たちは自分 たちの労働生産物の交換 をつ うじては じめて社会的 に接触す るよ う になるのだか ら、彼 らの私的諸労働の独 自な社会的性格 もまたこの交換 においてはじめて 現れ るのである。言い換えれば、私的諸労働 は、交換 によって労働生産物がおかれ労働生 産物を介 して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、初めて実際に社会的総労働 の諸環 として実証 されるのである」(s.87、 邦訳136ページ)。

ここには明示的な形では貨幣は出て こないが、 こうした交換関係 は一一 労働の社会的連関への言 及を別 にすれば 一一 われわれの日常的な経験か ら容易に理解で きる関係である。そうした意味では この構造 は商品交換当事者の日常的意識に現実的なものとして出現する。すなわち、商品・ 貨幣関

‑28‑

(7)

係を出発点 として、その過程をつ うじては じめて労働の社会的連関が「実証」 される (正確には、

当事者 には販売 と購買である)。 言いかえれば、商品世界 (=市)の基本的構造 は、商品・ 貨幣 の交換過程を介 して事後的に労働が社会的連関を構成するものと理解 される。

だが、 マルクスは、 こうした商品世界 (=市)に対 し、「呪物崇拝」(s.86、 邦訳136ペー ジ)

の世界 といった批半J的な表現を与えている。そ うした認識を支えるのは、商品世界に対する次のよ うな理解である。

「商品形態 は人間に対 して人間 自身の労働 の社会的性格 を労働生産物その もの対象的性 格 として反映させ、 これ らの物の社会的な自然属性 として反映させ、 したが ってまた、総 労働 に対す る生産者たちの社会的関係を も諸対象の彼等の外 に存在す る社会的な関係 とし て反映させるということである」(s.86、 邦訳135ページ)。

「異種の諸労働の同等性 という社会的性格 を、 これ らの物質的に違 った諸物 の、諸労働 生産物の、共通な価値性格 という形態で反映される」(s.88、 邦訳138ペー ジ)

日常的な経験を省みれば、即座 に理解できるように、市場では価値 ―一 より正確 には価格 一一 を 有する財・ サービスが交換 される。交換の成立の前提 には、財・ サー ビスが、交換に先立 って、価 値 という形態を有することになる:すなわち、先 に確認 した商品世界の基本構造である。 ところが、

上述の 2つ の引用か ら理解できるように、財・ サービスの交換を可能 にす る価値 という形態 は「人 間 自身の労働 の社会的性格」「異種 の諸労働の同等性 とい う社会的性格」 の「反映」だ と捉え られ ている。労働の社会的性格が労働そのものにおいて現れず、価値 という形態 一一 もしくはそ うした 価値 という形態をまとった商品の関係 一―において現れ る、その意味において、 これは「置 き換え QuidprOquO」 (s.86、 邦訳135ページ)であり、「奇異な形態verruckte Form」 (s.90、 邦訳141ペ )である。 したが って、「共同的な、すなわち直接 に社会化 された労働」(s.92、 邦訳144ページ)、

もしくは「 自由な人々の結合体」 ―― そこでは自由な人々は「共同の生産手段で労働 し自分たちの た くさんの個人的労働力を自分で意識 して 1つ の社会的労働力 として支出する」(s.92、 邦訳145ペ )一―の実現 は、「置 き換え」「奇異な形態」を否定すること、同 じことであるが、商品交換 (=

市場)の廃棄を意味す ることになる。そ うした「置 き換え」や「奇異な形態」 は市場 に固有の もの であり、市場を否定することが「 直接に社会化 された労働」や「 自由な人々の結合体」の回復 とな る。後期マルクスにおいて も、規範的目標の実現が市場の否定 に直結 し、市場の彼岸 に置かれる。

こうした市場 もしくは資本主義批判の論理構造 は、市場その ものの中における平等 という規範的課 題 とは相容れないものであろう。マルクスの市場 もしくは資本主義批判 は、ボールズとギ ンタスの

‑29‑

(8)

言葉を借 りれば、平等主義を、社会主義に「里子」に出すに等 しいことである4。

‑2  効率性 と平等

市場の失敗が存在 しない場合、 自由競争市場 はパ レー ト効率的である。 しか し、たとえ競争経済 が効率的であるとして も、それによって もた らされる所得分配が望 ましいものではない、 と受 け止 め られ ることがあるか もしれない。そうした場合、経済的効率性 と所得分配に対する結果が比較、

評価 されなければな らない。 しか し、如何なる状態を もって公正な資源配分 と呼びうるか。 よ く知 られているように、新古典派経済学 には系統だった評価を可能にする尺度について合意 は存在 しな い。

いま、2人の個人か らなる簡単な経済を考えてみよう。図 Ⅱ‑1はこの経済における効用可能性 集合を描いたものである。効用可能性集合のフロンティアはFかGである。新古典派パ ラダイム は競争経済が効用可能性集合のフロンティアの、たとえばA点を実現すると見 る。周知の厚生経済 学の第1基本定理 によれば、ある条件下では競争経済が効用可能性曲線上のある 1つ の点を実現す る、すなわち、パ レー ト効率的配分を実現するという。だが、パ レー ト原理 は、効用可能性曲線上 にあるAや Bのような点をランクづけるための規準を提供 しない。所得分配の問題に関 しては何の 指針 も与えない。

個人2 の効用

F H

個人1の効用

4「ラデ ィカルな平等主義 は今では社会主義崩壊の跡に残 された孤児である。 自由啓蒙の手 に余 る、見捨て ら れた子 どもは、19世紀中頃に社会主義 にひき取 られた。新 しい里親 によって守 られ庇護 され、 ラディカルな 平等主義 は自分 自身の言い分を主張する重荷か ら解放 されたのであった。それというの も、社会主義の里子 としての平等は、未だ見ない資本主義的秩序の後に副次的に生み出されるものであり、それ独 自の理由で現 実の世界の中で道徳的に擁護 されたり、政治的に促進 されるべきものではないと受け止められたか らである。」

(Bowles and Gintis[1998b],p.361)

新古典派パラダイム

‑30‑―

(9)

か りに分配に関する厚生主義的アプローチをとれば、そうした問題を解決す ることはできるか も しれない。だが、周知のように、厚生主義的アプローチ5は、望 ま しい社会状態を選択するさい、

個々人の厚生 に対する評価を唯一の情報 とする。個々人の効用が基数的に測定可能で個人間比較が 可能である場合、資源配分の公正 は、パ レー ト効率的な配分 と、分配 された資源の消費をつ うじて 得 るすべての個人の効用水準が均等であることを要請す る。 これは、究極的には、各個人が受 け取 る所得に対する社会的評価を必要 とするため、当該社会 に一般的な価値観に依存せざるを得ない。

したが って分配に関する厚生主義的アプローチをとったとして も、問題 は依然 として解決されない。

新古典派経済学においては、規範的問題の取 り扱 いはきわめて難 しいものとなっていると言えるで あろう。

ここで、 後 の議論 のために、 簡単 に、 新古典派パ ラダイムに代替的な「 情報」 パ ラダイム (Stiglitz[1993])一一 も しくは「対抗的交換 Contested Exchange」 パ ラダイム (BOwles and Gintis[1988])6̲̲に触れておきたい。新古典派経済学 においては、実現可能な配分を定義する場 合に含 まれる制約 は、資源 と技術だけである。だが、Stiglitz[1993]に よれば、不完全な情報や、

情報の取得に費用を要する場合、あるいは不完備な リスク市場が存在する場合、市場はパ レー ト効 率的ではない。 この場合、所得分配が経済的効率性 にとって重要 となる。新古典派パ ラダイムを特 徴づけて きた分配 と効率性の2分法 は有効ではない。すなわち効率性 と公平の問題 は切 り離す こと がで きないことになる7。 新古典派パ ラダイムの下での厚生分析 はファース トベス トと呼ばれるが、

何 らかの制約 一― 多様な制度的、および政治経済的な制約 一一 を追加することによって、その分析 はセカ ン ドベス トとなる。 こうしたことは、資源 と技術の制約に加え、他の制約を加えた場合、効 用可能性集合が新古典派のそれよりも小 さい、 ということを含意する。それは図 Ⅱ‑1においてH

か らJの効用可能性曲線 として描かれている。 この場合、 自由競争市場 は効率的な結果を生み出さ ない。 これ は効率性 と平等 の両方 を高 めるよ うな政策的余地を残す ものであろう (Putterman, Roemer and Silvestre[1998])。 したが って、 ここでは、平等が効率性 とともに上昇す る方向を

5厚生主義的アプローチの問題点については、たとえば、吉原 [1999]を 参照 されたい。

6こ ぅしたパ ラダイムはポス ト・ ヮルラシアン経済学 と総称 されている。 ワルラス・ モデルが、①選好が外生 的に決定 される、②契約が外生的に執行 される、③経済エージェントが無限の情報処理能力を持つ、 という 点をその特徴 とするのに対 し、ポス ト・ ヮルラシアン経済学 はその仮定の 1つ 以上を否定する。代わって、

限界づけ られた合理性bounded rationality、 不完備契約 一― もしくは完全には執行不可能な契約 一 、嗜 好の社会的起源、価値やコ ミットメン トをとりあげる (Bowles and Gintis[1993b])。

7こ の点 については Bowles,[1985],Bowles and Gintis[1988],Bowles and Gintis[1993a],Bowles and Gintis[1993b],BoWles and Gintis[1999]お よびボウルズ・ ギ ンタス [1999]も 参照 されたい。本稿で採 用 され る交換および市場パ ラダイムは彼 らによって展開された「対抗的交換 Contested Exchange」 パ ラダ イムである。交換 は未解決の政治問題であるという認識である。交換される財 0サ ービスの性格が複雑であ り、あるいはモニター困難であるため、完備 された契約が実現できない、 もしくは第二者 (一般的には国家)

がその契約の履行を強制で きない。そうした場合、契約関係をモニタリングし、執行するためにコス トが必 要 とされ るが、その結果、不効率な資源配分が発生する。 こうしたパ ラダイムについては第 6節 においてよ

り詳細 に取 りあげる。

‑31‑

(10)

見出す ことができる。

‑3  規範的価値 としての平等主義

これまでに見てきたように、マルクスの市場・ 資本主義批判および新古典派経済学においては、

理由は何であれ ――規範的な問題設定が成立 しない、 もしくは規範的問題の取 り扱いが難 しい 一 平等主義が如何なる意味で規範的価値たりうるか、 という基本的な問題が問われ ることはなか った。

そ こで本小節では、平等主義経済的モデルの議論 に先立ち、何故平等主義が追求 されるべ き価値な のかを明確 にしておきたい。価値中立的な観点か ら、所得 もしくは資産を基礎 に効率性 と両立可能 な平等主義経済的モデルを 1つ の実行可能なモデルとして提示することは可能なことか もしれない。

しか し依然 として残 る問題 は、何故平等主義が追求 されるべ き価値なのかという根本的な問題であ る。何故平等主義的政策に賛同するのか、不平等を低下 させることがどうして良いことなのか。

平等主義的政策が所得の再分配をつ うじて貧 しい人々の生活状態を改善す ると信 じ、そ うした理 由か ら平等主義的政策を支持す ることもで きるであろう。功利主義者の観点に立てば、限界効用逓 減 とい う理 由か ら不平等の低下が望 ま しいものといえるか もしれない8。 ぁるいは民主主義者であ れば、平等主義的政策が効果的な民主主義の前提条件だという理由で平等主義的政策を支持するこ とができるか もしれない。

平等が他の目的を達成す る手段 として価値 あるものだという点 についてはすでに多様な理由が存 在す る。だが、 これは、平等主義 それ自体が追求 されるべ き価値であるかどうかを説明するもので はない。平等 はその道具主義的有用性を離れて も、価値あるものだろうか。不平等 は、人間か ら尊 厳 と充実 した生活を追求する能力を奪い、人間的価値の剥奪、不公正および社会的冷遇に結びつ く

ため、一般的に非難 されるべ きものだ と受 け止め られている。われわれは、Hausman[1997]に たが って、平等主義が如何なる理由か ら追求 されるべ き規範的価値なのか、 ここで、その点を明示

しておきたい。

第 1に 、平等 は公正fairnessを確保す るために必要 とされる。分配すべ き便益 もしくは負担が あるとすれば、そうした便益や負担を不平等 に分配することは不公正である。不平等な分配 に対す る正当な道徳的理由が存在 しなければ、公正 は平等を必要 とする。発生する結果が関係する経済主 体の責任ではない場合、そうした結果における格差 はどのようなものであれ公正ではないとい う見 方である。

第 2に 、平等が望 ま しいものである理由は、平等 な扱いが個人の自尊心self―reslectの維持 に不

8功利主義者 は限界効用逓減 とい う理由か ら不平等の低下を提唱す る。富裕な人々か ら貧 しい人々へ、たとえ ばある一定の金額を移転すれば貧 しい人々の幸福well̲fareが、富裕な人々の幸福度の低下分以上 に高 まる ために、富の平等化は全体の幸福を高める傾向にある。

‑32‑―

(11)

可欠なものだ とい う点にある。それは、 マルクスが1844年の『経済学・ 哲学草稿』の中で描いた創 造的な自己実現を想起 させ るものであろう。

3の理由は、平等な処遇が平等な敬意equal respectを 払 うことにつなが るという点 にある。

平等な敬意を払 うということは、すべての人々が自分で考え、本来的に有益な関係や活動に従事 し、

自己の技能や個性を伸ばす能力を持つのだと認めることを意味する。経済的不平等 は、誰 もがその ような能力を持つ という社会認識 と両立 しない、 したが ってそうした不平等は平等な敬意を払 う義 務を侵害す る。

最後 に平等 は友愛fraternityに とり不可欠である。人々の間の連帯 に関す る何 らかの尺度が存 在すべ きであり、社会的交流に対 して如何なる制度的な障壁 も設 けられるべきではない。不平等 は、

友情、 コ ミュニティおよび愛情の障害 となるために疎 まれる。

したが って平等 は他の目標を達成するための手段にとどまるものではない。平等は、公正、自尊 心、平等な敬意および友愛 と結びついているため、本来的に道徳的な重要性を持つ。人々の道徳意 識を損なうものは所得その ものの不平等ではない。その不平等に伴 う重大な価値剥奪、不公正およ び社会的冷遇である。本稿 において、「規範的価値 としての平等主義」 によって意味 され るのは、

まさ しく、そうした意味においてである。

もちろん、平等主義の目的を尊厳 と幸福のより根本的な決定要因に置いたとして も、そのことが、

より公平な社会を追求するさいに経済学の重要性を低下 させるものではないことは言 うまで もない ことである。 というの も、経済的平等 一一所得、資産あるいは厚生等の平等 ――は、平等主義的な 人間生活を形成す るさい、個人の幸福 と尊厳を実現す るための有効な手段を提供するか らである。

‑4  平等化 されるもの

最後 に、次節以降の議論のために、平等化 されるべ き対象の問題に簡単に触れておきたい。

何が平等化 されるべ きなのか。経済学では厚生 welfareが とりあげ られ るのが一般的である。 し か し、厚生には問題がある。第 1に 、厚生を比較するさいの尺度の問題である。第 2に 、比較が可 能 だ と して も、 倫理 的 な観点 か らみて、 それが望 ま しい ことか ど うか、 とい う問題 で あ る (Putterman,Roemer and Silvestre[1998])。

第 1に 、尺度の問題がある。厚生の個人間の比較をおこなうことは可能であろうかどそ して もし 可能だ として も、如何 にして個人間で比較可能な単位で厚生を尺度するのか。上述の厚生主義的ア プローチを除けば、経済学 はこの問題 に対 して 1つ の答えを示 している。一般均衡理論が必要 とす るのは個人間の比較な しに序数的選好 に関する情報だけである。 こうした事実か ら、次のように結 論づけられる。すなわち、個人間の比較 は無意味である、 もしくは不可能である、 と。だが、たと えば、対象の特殊な比重を知 るために対象の色が何であるかを知 る必要はないか もしれないが、 こ

‑33‑―

(12)

れは対象が色を もたないということを意味するものではない。 これ と同 じように、たとえ市場均衡 の理論がそのような情報を必要 としないとして も、個人間の厚生を比較することは意味あることで あり、可能なことであるか もしれない。

第 2に 、個人間の厚生の比較可能な尺度が可能だ として も、個人間で厚生水準を平等化す ること が倫理的に望 ましいものであるかどうかは少な くとも次の 2つ の理由で明 らかではない。すなわち、

周知の「高価な嗜好」 と「安価な嗜好」の問題である。

最初に高価な嗜好の問題を取 り上げよう。いま個人1が個人 2よ りも高価な嗜好をもつ としよう。

すなわち、個人1が個人 2と 同 じ水準の厚生 に達するために、個人2以上 に多 くの資源を必要 とす る。個人 1の 高価な嗜好のために、個人2が個人1と同一の資源を受 け取 る場合 に有す る厚生水準 以下 に、個人2の厚生を引き下げなければな らない。 この場合、個人1と個人 2の 厚生水準を均等 にするとすれば、それは個人 2に は不公平な分配 と受 け止め られるであろう。社会が個人 1を 甘や か していると受 け止め られるであろう。

2の問題 は安価な嗜好の問題である。たとえば、経済的困窮のために自分の行動がいち じるし く制約 される結婚生活を選択 した女性を考えてみよう。彼女 は 1日 中家を掃除 したり、料理を した り、子供の世話を したりしなければな らない。 こうした過酷な状況に対処するため、彼女 は従順な 主婦の選好 一―すなわち、辛い仕事 にもかかわ らず、そこか ら高水準の厚生を引き出す 一一 を持つ ことになる。そうした意味で、従順な主婦 は安価な嗜好を有する。 こうした場合、厚生水準を平等 にするために、そうした主婦に振 り向ける資源を低下 させることは公正なことであろうか。厚生が 個人間で比較可能だ として も、その平等化 は、倫理的観点か らみた場合、かな らず しも望 ま しい も のとはいえないのである。

厚生 その ものを平等化 される対象 とす るには問題がある。そ こで本稿 においては、一般的な方法 に したが って平等化 されるべ き対象を、所得 と資産 とする。た しかに、所得や資産は最善の ものと はいえないか もしれないが、平等を尺度するもっとも簡便な方法であると言 うことはで きるであろ う。 また、所得や資産 は、資源のコントロールや機会にとっての優れた代理変数だと言 うこともで きるであろう9。

 平等主義的経済の経験

いわゆる資本主義の黄金時代 は第2次世界大戦後のほぼ25年間にわたるが、その時代の楽観主義 を育んだのは次のような確信であった。すなわち、民間部門の賃金が上昇 し、それに加えて国家が 資金供給 した社会サー ビスと移転支出が拡大すれば、完全雇用 と経済成長が促進 されるという確信 であった。 この確信を支えたのは、社会・ 制度的側面では「 フォーディス ト・ ベヴァリッジ・ ケイ

9平等化の対象 については、松井 [1999]が 簡潔な整理を与えている。

‑34‑―

(13)

ンズ的妥協」(Boyer[1995],p.21)であ り、 マクロ経済的側面 で は「 ナ シ ョナル・ ケイ ンジアニズ ム」(BOwles and Gintis[1998a],p.14)と 呼ぶ ことがで きるマ クロ経済 モデルで あ った。 国民経 済 の産 出高水準が財 とサー ビスに対す る国内需要 によ って制約 され る下 で、所得分配が平等主義 的 で あればあ るほど (すなわ ち、資本側 か ら労働側 へ の分配 が拡大すれば)、 総需要水準が ます ます 高 まるとい うもので あ った。言 いかえれば、実質賃金 の上昇 と福祉国家 による総需要 の引 き上 げが 経済成長 に帰結す るとい う理解 である。

しか し、 こうした黄金時代の平等主義 と経済成長に対する楽観主義的見方は、1970年代初頭以降、

経済成長が鈍化 し、失業 とインフレが昂進 してい くにつれて悲観主義にとって代わ られることになっ た。そうした中において注 目されたのが北欧社会民主主義モデルである。北欧社会民主主義経済は、

他の先進資本主義経済の多 くが失業率 とイ ンフレの上昇 に悩 まされる中、高水準の雇用 と低水準の 賃金分散 (=賃金 の平等化)を達成 した (Glyn and Rowthorn[1988],Rowthorn[1992a])。 うした経済諸国において見出される共通の特徴 は、平等や連帯 といった価値に対する強いコ ミット メン トである。平等主義的イデオロギーヘのコ ミットメントは、経済成長を損なうことな しに所得 の不平等を低下 させるというマクロ経済的政策 目標に反映されていた。より正確に言えば、平等主 義的価値を実現するための、相互 に補完的で適合的な、 しか も効率的に機能する特有の諸制度 と政 策の組み合わせに体現 されていた。北欧社会民主主義経済が注 目されたのはまさにそうした性格に おいてであった。すなわち、新たな平等主義的経済モデルとしてであった。

本節では、 こうした資本主義の黄金時代下の先進資本主義経済 と1970年代以降の社会民主主義経 済について、 いくうかのマクロ経済的事実を確認 しておきたい。その目的は、経済成長、労働生産 性の上昇 と同時に所得の平等 一一 および関連する雇用 と実質賃金の上昇 一 が実現 されたかどうか、

という点を確認する点にある。

‑1  資本主義の黄金時代

歴史的にみれば、第2次世界大戦後に続 くおよそ25年間は、資本主義経済にとって空前の繁栄 と 拡張の時代であった。 この時期に先立つ戦間期には、労働生産性が上昇すればするほど、雇用は縮 小 した。だが、 この時代には、労働生産性、成長そ して雇用が同時に、 しか も急速に成長 していっ た。雇用の安定的な伸びと実質賃金の規則的な上昇は所得分配における平等を促進 し、労働側に好 ま しい結果を もた らした (BOyer[1988],Glyn,Hughes,Lipietz and Singh[1990])。 た しカヨこ、

こうした事実 は必ず しも平等主義的な所得分配が力強い経済パ フォーマンスを誘発するということ ではない。だが、少な くともある制度的環境の下では 2つ の目標 一一平等主義的分配 と経済的効率 性 一 が両立することを示唆するものか もしれない。

‑35‑―

(14)

‑1‑1  成長

1973年までに先進資本主義諸国Юの産出高は1950年よりも150パーセ ント高 くなっている。それは おおよそ3倍の規模である。表Ⅲ‑1は1820年か ら1973年までの先進資本主義諸国の長期的成長を 概観 した ものである。1950‑1973年期間のGDPの年平均成長率 は4.9パーセ ン トであり、それは、

1820年以降のどの時期 と比較 して も、2倍以上の値を示 している。労働生産性 (1人あた りGDP)

に関 して も、3.8パーセ ントときわめて高 い成長率を達成 している。他の時期 と比較す ると、4倍 近い値である。資本ス トックについて言えば、5.5パーセ ントと驚 くべき程の加速を示 している。

表Ⅲ‑1  長期的成長、1820‐1973(年平均成長率%)

産出高 人口1人あた り産出高 固定資本 ス トック 1820‑1870

1870‑1913 1913‑1950 1950‑1973

2.2 2.5 1.9 4.9

1.0 1.4 1.2 3.8

n.a.

2.9 1.7

5。5

(出)Armstrong,Glyn and Harrison[1991],p.117

Glyn,Hughes,Lipietz and Singh[1990]の 指摘 によれば、黄金時代 のマクロ経済的パ タンの 基本的特徴 は、生産性 と労働者1人当た り資本ス トックの急速かつ並行的な上昇、実質賃金 と生産 性 の並行的的上昇である (p.46)。 実質賃金 と生産性 の上昇のバ ランスの維持 は、一方で、一定水 準の利潤率を保証 し、それによつて高水準の資本蓄積 を誘発 し、生産性上昇の加速化を促 した。他 方では消費 と生産の並行的な拡大を促進 した。 こうしたマクロ経済的パ タンによつて長期にわたる 持続的な成長が可能 となった。

1950‑73年時期の成長 は安定的な もので もあった。GDPの成長率の変動 は以前 の時期 と比較す ると、 きわめて小 さい (Glyn,Hughes,Lipietz and Singh[1990],p.45)。 したが って、生産能力 と需要の不一致が発生 したとして も、それはシステム内部において自己修正 されていたと言えよう。

黄金時代においては、生産のいち じるしい拡大がそれに匹敵す る消費の拡大 とバ ランスを維持 され ていたといえる。

10こ こでいう先進資本主義諸国は、カナダ、 フランス、 ドイツ、イタリア、 日本、イギ リスおよびアメ リカの 7カ国を指す。

‑36‑

(15)

‑1‑2  雇用 と賃金

平等主義 イデオ ロギーに強 くコ ミッ トす る北欧社会民主主義経済 は完全雇用政策 を最優先課題 に 位置づ けていた。 それ は失業が所得 の不平等 を生 み出す もっとも大 きな要因だ とい う認識か らであ っ た。黄金時代 の雇用 を見 ると、雇用 の伸 びは生産 の拡大 ほどで はなか った。被雇用者数 (軍人 を除 )は1952年 か ら1973年 にか けてわずか29パ ーセ ン ト上昇 したにす ぎなか った。生産 の拡大 はどち らか といえば雇用 の拡大で はな く、労働者1人あた りの産出高 の拡大 において表現 されている。実 際、労働生産性 の上昇率 は1年あた り3.3パーセ ン トであ った。

だが、生産 の伸 びほどで はなか った ものの、図 Ⅲ‑1から伺 われ るよ うに、生産 の拡大 は雇用 の 安定 を もた ら した。 実 際、1960‑73年期 間 に は、OECD加盟諸 国 をみ ると、経済全体 の労働生産 性 が年平均成長率 で3.8パーセ ン トとい う大幅 な上昇 を示 して いたが、雇用 も全体 で1.1パーセ ン ト の成長率 を示 してい る (Rowthorn and Glyn[1990],p.219)。

図 Ⅲ‑1  先進資本主義諸国 の生産、

資本 ス トック、生産性 お よび雇 用 1952‑70

240 220 200 180 160 140

120

ツ ク

・°

      

 墨´………

=三 ″″一………

″″´´´´ ´

1952  1954 1956  1958  1960  1962  1964  1966  1968  1970

(出所)Armstrong,Glyn and Harrison[1991].p.118 (注) 1952年=100(対 数表示)

賃金 は個 々の資本 に とって は主 た るコス ト要因 で あ り、 その動 きは企業収益 に と りきわめて重要 で ある。 だが、賃金 は所得 の もっとも大 きな源泉 で もあ り、賃金か らの支 出 は市場 の重要 な ソース であ る。言 いかえれば、賃金 は需要 に とって も決定的な要因であ る。

実質賃金 は1年当 た り3パーセ ン ト強で ほぼ生産性 と並行的 に上昇 していた。 こうした展開 は需 要 したが って市場 の拡大 に とって好 ま しい もので あ った。 しか も、 そ う した展 開 は、実質賃金 と生 産性 の上昇 のバ ランスの保持が利潤率 を も確かな もの とす る以上、個 々の資本 に とって も好 ま しい

‑37‑

(16)

ものであ ったH。

両者 の並行的展開 は、Boyer[1995]が指摘 す るよ うに、

だ とい うことを示す。労働契約 一― 複数年 にわた るもの、

性 の分配 が保証 されて いた2。

中期的にみて分配 シェアがきわめて一定 もしくは各年の もの 一一 をつ うじて生産

‑1‑3  福祉支出

資本主義の黄金時代、福祉国家 は驚 くべ き程の拡大を見た。GDPに占める政府支出 (軍事支出 を除 く)のシェアは、先進資本主義諸国全体で1952年15パーセ ントか ら1973年24パーセ ントに まで拡大 した。 こうした支出の拡大を見たのは左派政権下の経済だけではなか った。実際、1950年 か ら1973年の期間に主要先進7カ国のうち左派政権下にあったのはイギ リス (ウ ィルソン政権1964‑

70年)と ドイツ (ブラン ト政権1970‑3年)だけであ った。だが、福祉支出は他の 5カ 国 一― フラ ンス、 アメ リカ、カナダ、イタリア、 日本 一 でも同様に増加 した。

労働者の生活水準 は賃金所得だけではな く政府による福祉サービスにも依存する。そうしたサー ビスヘの支出は、表 Ⅲ‑2から理解できるように、1960年代 に着実 に上昇 している。民間への政府 支出は、先進資本主義諸国全体で1960年には対GDP比19.2パーセ ン ト、1968年には21.9パーセ ン

表Ⅲ‑2  公的支出、1960‑73(対GDP比)

1960 1968 1973

先進資本主義諸国全体 対民間支出 軍 事 支 出

19。2 6.6

21.9

5。8

24.2 4.1

アメ リカ合衆国

対民間支出 軍 事 支 出

16。8 9.1

19.4 8.8

22.5

5。7 3 - E y,r\o

対民間支出 軍 事 支 出

23.1 4.4

27.4

3.7 28.8

3.4 日本

対民間支出 軍 事 支 出

15。2

0。9

16.0 0.7

18。7

0。7

(ffiffi) Armstrons, Glyn and Haruison [1991], p.187.

11利潤率 は利潤 シェアに依存する。利潤 シェアは生産物賃金の上昇率 に依存 しているが、Armstrong,Glyn and Hrrison[1991]が 示 しているように、生産物賃金は労働生産性 と並行的に上昇 している (p.121)。 た、産出量・ 資本比率が安定化 していたことで利潤率 は一定に保たれたのであった。

12Boyer[1995]に よれば、1969‑73年期間の賃金の生産性弾力性 は、 フランスで0。4、 イタ リアで0.35、 イギ リ スで0.1、 アメ リカで0.30、 ドイツ(西)で1.20、 日本で0.25であった。

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