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研究雑感

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Academic year: 2021

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 初めて古典ギリシャ研究に接したのは半世紀も以 前のことになる。もちろん当時すでに古典ギリシャ にかかわる専門領域でそれぞれ研究が蓄積されては いたが、私の場合はいつもなにか全体としてのギリ シャ文化という大きな文脈を意識していた。それは 古典ギリシャ語の修得を通じて、近代西欧世界の古 典教養主義的伝統をおのずと教え込まれたからかも しれない。その意識は相変わらず今も続いており、

その意味では私は古代ギリシャ哲学の純然たる「専 門家」ではありえていない。つまり、現代における 学問分野や技術分野や政治分野などの専門家たちに 求められているような、自らの研究目標を立て、そ の成果を地道に積み上げて業績を残すことが専門研 究者としての責務であるとすれば、私にはそのよう な責務はほとんど果たせておらず、恥じ入るばかり である。

 周知のように古典ギリシャ世界の合理的で分析的 精神は、自然と人間を研究する哲学も歴史も法律も 医学も科学も、およそ知的な探究の可能性をあらゆ るところで追求し、現代にいたるまでの専門家集団 が輩出する基盤を作ったことは確かであり、しかも その業績は、いまや学問の大衆化・民主化の極度の 進展に伴って大学や研究機関内にとどまらずネット 空間のそこかしこに山積している。このような現状 が悦ばしきものであり、新時代を切り拓くためには 重要な知的財産と見なされるが、そこには二千数百 年前のアテナイ民主制に見られる自負(ペリクレス の戦没者葬送演説を参照されたい)と同じものを見 るような気がする。そしてヨーロッパ・ルネサンス 期におけるギリシャ人文精神の再興に次いで、第二 のギリシャ合理精神の再興時代を迎えているとさえ 思われる。アテナイにつらなる今日の民主制下の学 術的遺産は、人々がそれを確信する程度に応じて今 後の世界の知的枠組みを長く維持してゆくだろう。

 しかし顧みるに、この切り拓かれた道はどこに通 じるのだろうか、それともここはもうどこにも行く 道のない平坦場であり、われわれの分析的合理精神 はこれまでのような展開をこれからもかぎりなく続 けてゆくだけなのだろうか。この種の疑問は実は合 理的で分析的な精神への反省を促すものであり、と くに近代科学の発展に伴って繰り返されてきたもの である。というのも、自然科学に代表される近代合 理精神の華々しい達成も他面では数多くのおぞまし い結果を生み出してきたことは今では誰もが認める ところであり、人間には無償で享受できるものは何 もないのかと疑いたくなるほどの影を投げかけるか らである。そこで期待をもって総合的精神が注目さ れることもあった。ただし、単に分析と総合の対概 念であればそれぞれの学問分野でも用いられており、

今さら指摘するまでもない。ここで言う総合は事物 の総合的把握ではなく、そこに人間存在がふくまれ た世界観を提供するような総合である。もちろんあ くまでも合理的でなければならないから、かつての 宗教が担っていたような世界観が求められているわ けでもないだろう。また近年、多分野を横断する学 際的な学問が提唱されたが、その野心的な挑戦もい ざ実現させようとすると人文学も科学的手法で合理 化されなければ融合もおぼつかず、とても期待に添 えるものではない印象ばかりが残ってしまった。む しろわれわれが求めるのは、分析的精神の暴走を許 さず、分断されてしまった世界の全体を見通すよう な合理的知性ではないだろうか。「善のイデア」と 呼ばれるものを構想したプラトンは、さまざまの学 問らしきものが勃興しつつあった時代にあって、も うそのようなことを考えていたのかもしれない。

 ところがこのような総合・統一にかんする議論は さまざまな反論・反感を買う恐れがある。自由な知 的探究心を抑制すべきではないとか、そんなのは学

―  ―2 研究雑話

研究雑感

人文学部教授 小 林 信 行

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身分を解明することではないだろうか、アリストテ レス的な言い方をすれば第一の出発点を探究するこ とではないだろうか。古代ギリシャのデルポイ神殿 には有名な「汝自身を知れ」と並んで「度を過ごす な」ということばが掲げられていたと言われる。日 本風の言い回しをすれば「天狗になるなよ」という ことにもなるだろう。華やかな達成の影にひかえる 深淵が見えてはいないことを忘れるな、所詮それは 前提の上に構築されたものではないか、という神託 に聞こえてくる。ひたすら物事を解き分けることに 明け暮れる精神を制御するにも知性が必要であり、

世界が分断されていると知覚するにも知性が必要で あることは、分別ある人間ならば気づいていること ではないだろうか。そしてこの知性はほとんど個人 的なものであり、なにか科学的で客観的と言うより も、むしろひとりひとりの道徳的な知性に基づくも のである。

 ところで学問分野での業績もさることながら、ペ リクレス演説にはアテナイ民主制のもとに掲げられ る徳の理念を称揚する一節もある。かれらにとって それは知恵であり、勇気であり、節度とよばれるも のなどであるが、われわれの民主社会にもまたその ような理念があるだろうか。言うまでもなく奴隷制 を社会基盤とした古代民主制と現代民主制の違いは 大きく、それを無視して簡単に道徳や倫理を比較す ることはできない。われわれがかれらのように徳を 高言すれば、それは文字通り高慢の誹りを受けかね ない時代となっているし、ひとりひとりの違いや多 様性が当然視される社会の中で、自らの特質を威 張ってみても仕方のないことだと思われるだけだろ う。むしろ各人の弱点をカバーすることで助け合っ て生きる社会が現代民主制の理念となるべきもので あり、そこから個々人の道徳も導き出されてくるの だと考えられているのではないか。とくにセンチメ ンタルなヒューマニズムが浸透している日本では、

災害をきっかけとして絆とか共生といったことばに 頼った社会理解がスローガンのように掲げられるこ とになっている。しかしこのような思想の広まりは、

平和主義や安心安全で民主的な社会構築を標榜しな

治を主張して民主制に対する嫌悪感を隠そうともし ないプラトンは、絆や共生など安易で快いヒューマ ニズムに走る思想は弱者の論理であり、真に自由な 人間にふさわしいものではない、とヘイト・スピー チまがいの発言をする過激な人物像を描き出すだろ う。そのような論者は、法や秩序の下の平和や安心 が、我が身の保全を図る弱者たちの集団防衛手段に すぎないと議論を展開させるのだが、だからと言っ てプラトン自身が社会の要としての法や秩序を否定 しているわけではない。そこで大前提となっている 民主的社会運営に疑問の目を向けているだけである。

危機的状況の中で多数の人たちが絆や共生といった スローガンに納得してしまうことは否定しようもな い。だがはたしてそれはわれわれの行為規範として 十分なものだろうか。極端に言えば、それは臨戦態 勢にも似た状況下で生み出される擬似的な徳ではな いだろうか(ちょうど戦時下で潔く死んでいく人た ちを無反省に英雄視するように)。あるいは、まだ 分別も定かではない子供たちを教育するときには有 効だが一人前の分別を備えた大人にはただの強制と なることもあるのではなかろうか。危機的状況はわ れわれを不安に駆り立て、右往左往する思いに陥ら せはするが、自由な思考もたらすことは少ないよう に思われる。とくに民衆が社会のあり方に力をもつ ときはそうだ、とプラトンならば言うだろう。不安 や恐怖心は人間を集合させて協力させる面もあるが、

集合した人間は不安や恐怖心を増幅させる面もある。

そのような感情に捉えられたとき、人間の思考は延 命や財産保護の算段に制約され、自由な生き方がで きなくなる。平和や安全や自由が社会の目的となる ことは当然としても、もっと大切なものはそのよう な社会でどのように生きるかであり、そのときこそ 人間の徳の理念も輝くのではないか、とアリストテ レスならば言いそうである。まさか平和な社会に なったとき「明日にでも死ぬかのように食べ、いつ までも生き続けるかのような住まいや財産をもつこ と」に励むようになるのだろうか。それは強欲には 似ていても、とても徳と呼べるものではない。人生 において享受すべきものは人それぞれであろうが、

―  ―3

(3)

やはり自由で平和な時代こそ、どんなに野放図が許 されても恥ずべきことや醜いことには敏感であるべ きように思われる。

 上に記したような二点をめぐる茫漠とした領域に、

キーワードもキャッチフレーズもなく、ただぼんや りとした灯明をかざしつつ、生産的でもない研究精 神を保ちつづけられたことについては、大学という 組織によって提供された貴重な時間のお蔭であると 感謝するほかはない。

―  ―4

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 私が福岡大学に社会学担当の専任講師として赴任 したのは、昭和55(1980)年4月です。以降、40年 間福岡大学に奉職して参りました。東京の大学で学 生時代、大学院生時代を過ごし、大学院修了後は非 常勤講師等をやったのちに、福岡大学に職を得て今 日を迎えました。私はもともと福岡(博多)の出身 ですので、どこにも移籍せずに、実家から福大まで の往復で今日を迎えました。

 大学入学当時は大学闘争の最中で、どこの大学も まともな授業などできない状況でした。私もまわり の人びとも安保反対やベトナム戦争反対のデモに参 加したりしました。昭和44(1969)年に大学臨時措 置法が施行され、次第に大学は平静さ(?)を取り 戻していきました。

研究は、学部時代から T・パーソンズ研究が盛ん で、構造ー機能主義が社会学研究の中心でした。私 はどうもパーソンズの、機能だけで社会システムを 論じ、詳細な領域の説明を捨象する方法に疑問を抱 いていました。私はもともと階級・階層論に関心が ありましたので、それに関連する領域で、調査の可 能な社会移動論(主として職業で社会的地位の移動 をみる)を卒業論文のテーマとして選択しました。

特に世代間(父と子)の職業移動を調査して卒論を 仕上げました。大学院時代は、卒論の延長で、日本 の近代以降の社会移動の大規模な変化の分析を行い、

E・デュルケムのアノミー論からヒントを得て職業 に関する欲望の肥大化とのからみで職業移動をみて いきました。その後研究関心は、R・K・マートンの アノミー論の影響で次第に社会問題・社会病理に移っ ていきました。アメリカ社会では、「金銭的成功」

という名の志望目標(文化的目標)が通階級的に浸 透していながらも、その目標を達成するための「制 度的手段」が社会成員に平等に用意されておらず、

両者間にズレがあり、特に下層階級に手段が欠如し ているというものであり、その破綻した関係のため、

特に下層階級の人びとに緊張や不満が鬱積されて、

窃盗等の短絡的欲求充足を行う逸脱行動がかなり発 生するというものでした。

 その後、ある行動や状態を初めから法的規範に抵 触する逸脱行動とみなして対応するのではなく、規 範自体を疑う社会統制機関の対応や社会の(まわり)

の人びとの対応を問題視する視点や法的規範の成立 や運用に対する疑問をもったラベリング論が台頭し てきました。また、逸脱行動を行った者を即逸脱者 としてみなすのではなく、彼らが自分自身や自分の 行動をどうみているか、自分を非難する人びとをど うみているか、といった逸脱者とされる側の人間自 身の主観を基本点としてみるという視点を重要視す る方法(主観主義)がとられるようになりました。

この視点の台頭は、社会学にとって伝統的な視点を 180度回転させるような大きな意義をもちました。

ピユーリタン的中産階級の価値に基づく逸脱観に反 省を迫るものであったからでした。当時、ベトナム 戦争の帰還兵らによってアメリカで主流の価値に対 して寄せられた疑問に一つの端を発しています。社 会学のみならず、他の社会諸科学、人文諸科学や自 然諸科学にまで及んだこの疑問は、その後伝統的な アプローチをとる立場からラベリング論に対する主 観主義の不徹底をつく批判がなされ、ラベリング論 の立場は揺らぎます。これが社会的構築主義(社会 問題論)への転換に繋がっていきました。例えば、

ある行為が、当初から「犯罪」と決まっているわけ ではなく、その行為をまわりの人びとがどう判断し 対応するかによって社会問題か否かが決まるという 視点に変化していきます。何が逸脱で何が逸脱でな いのか、正常・異常は客観的に決まっているもので はなく、たんに社会の人びとがそう思っているだけ

―  ―5

研究雑感

人文学部教授 平 兮 元 章

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のことではないか、という視点が出てくるのです。

社会において「逸脱」、「異常」と考えられているこ とをそのまま前提にしているだけの社会学の理論や 視点は決して客観的な理論・視点とはいえない。む しろ社会の見方から距離をおいてみることの方が客 観的にみることに近くなり、社会の人びとの見方を 対象化してみることでなければならない、とする考 え方が出てきました。つまり、人びとがこれは問題 だと感じ、何らかのクレイム申し立て行動に出ない 限りは社会問題は成立しないことになります。社会 問題は社会成員によって構築されるとする見方です

(社会が決めるという表現)。しかし、この見方も疑 問なしとはいえない点があります。この事態は、あ る程度社会成員の意思が日常的に反映される社会で あるならば、それでよいのかもしれないが、強権的 な為政者が存在する国家・独裁国家では、社会成員 による社会問題の構築という事態の成立は難しいの ではないでしょうか。社会の人びとの判断だけでは どうにもならぬ客観的な構造的問題から生じてくる 問題には思考を及ぼさなくてもよいのでしょうか。

ラベリング論は方法論的に曖昧なために、現象学と 形式論理学に基づく方法との間で曖昧なまま論をす すめたのです。かつて A・グールドナーが『せまり くる西欧社会学の危機』以降の一連の著作でみせた ラベリング論批判、構造的視点の欠落の指摘、すな わち犯罪の客観的側面である「生産手段の所有・非 所有」にまで遡るべき差別・貧困等々の現実の壁に ぶつかるはずである、という指摘は今日でも通用す る視点であるし、解消されている課題ではないと思 います。確かにラベリング論が指摘しえなかった、

というより、意図的に指摘内容に答えることを回避 した構造であると思われます。

 トマ・ピケティが『21世紀の資本』で指摘した貧 富の二極分解をみても本質的な貧困・差別の構造は 変わっていないと思われます。R・K・マートンのア ノミー論での指摘、文化的目標と制度的手段のズレ によって下層階級には金銭的成功は困難という指摘 に相通ずるものがあると思います。

 今後の研究課題は社会的構築主義の視点があらゆ る社会システムの現況に通用するか否かの検討であ ろうと思われます。

 最後に、研究内容とは直接関係あることではない のですが、近年文部科学省から寄せられる大学に対 する様々な課題に教員が会議や事務的作業に時間を とられすぎて、ゆっくり思索を行う時間が少なくなっ ています。思索する時間が減ると優れた業績は生ま れてきません。この思いが文科省に届くことを祈っ ています。

―  ―6

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 研究雑話を執筆する機会を退職にあたり頂きまし たので、数学との個人的な関りを振り返り、お世話 になった方々へ謝意を表す機会とさせて頂きたいと 思います。

1.九州大学数学科入学と学園紛争

 私が九州大学の数学科に入学したのは今から50年 以上前のことです。入学後半年ほどして学園紛争が 激化し、学生も街頭で度々デモを行っていました。

1年生と2年前期の学生が学ぶ六本松の校舎はスト ライキで封鎖され、授業が行われない状態が何か月 も続きました。ストの間、学生はそれぞれ好きなこ とを勉強していました。私は、そのころ日本語訳が 出版され始めた「ブルバキの数学原論」の中の1冊 である「位相Ⅰ」のファンになりその本をよく読ん でいました。その後、機動隊の力でストが解除され、

慌ただしく進級することになりました。4年生にな ると工藤達二教授のゼミに入り、代数的位相幾何学 を勉強することになりました。工藤ゼミの先輩方は 最新の大変難しい理論を研究して結果を出していま した。実際に研究されている数学に触れて、数学を 少し研究してみようと思い大学院への進学を決めま した。

2.大学院でお世話になった先生方

 大学院のセミナーや集中講義で紹介される理論、

本、論文はどれも大変難しく私には完全には理解で きないものばかりでした。そんな中、京都大学の戸 田宏先生の「赤本」[1]を偶然読み始めたのですが、

この本は基本的な概念がほとんどすべて最初から丁 寧に書かれていて、大変理解しやすかった。この

「赤本」は私にとって困難なく理解できた初めての 専門書でした。この本は球面のホモトピー群の2成

分を19軸(stem)まで具体的に決定したものです。

その後、三村護先生と戸田先生により20軸(1963 年)、三村先生により21軸と22軸(1965年)が決定 されていたのですが、それ以上は当時決定されてな くて、戸田先生の「赤本」の出版から10年以上経過 していました。私はなぜ決定されていないのか知り たくて自分で計算を始めました。計算を始めると確 かに難しい点がいくつかありましたが、23軸と24軸 は完全に決定することができました。この結果を修 士論文にしようとしていたところ、実は三村・森も ほとんど決定していたことが分かり、この結果は三 村・森・小田の共著で出版されました。その後、単 独で計算を続け、大変困難の問題もありましたが、

工藤達二先生は、「計算が行き詰ったところから新 しい理論ができる」こと、理論的に分からない点は 安易に著名な先生に尋ねるのでなく「自分で解決す るまで考え抜く」ことが大切だということを諭して くださいました。この考えはその後私の数学に対す る基本的な姿勢になったと思っています.博士課程 在学中は計算ばかりしていて、結局、31軸まで決定 することができました。最近、宮内敏行先生と向井 純夫先生が31軸に1か所あった不明な点を解決し32 軸を決定しました。このような計算は無限に続ける ことはでませんが、計算をする中で球面のホモト ピー群の2成分に非安定周期族を発見することがで き、それにより、非安定域に特有の周期族が規則的 に存在することが分かりました。非安定周期族の結 果は学位論文になりました。博士課程を中退し、九 州大学の助手に採用していただいたが、続きを計算 する気にはなれなくなっていて、新しい研究をした いと思っていました。そのような時に、工藤達二先 生の一番弟子である福岡大学応用数学科教授の向田 春次先生からのお誘いがあり、1978年4月に福岡大 学応用数学科の講師として採用されることになりま

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福岡大学在外研究員としての体験と共同研究

理学部教授 小 田 信 行

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した。Whitehead概説[2]の最後に、ホモトピー論の 50年を表している「系図」が書かれていますが、そ の中で Toda―Mimura・Toda―Mimura―Mimura・ Mori・Oda―Odaの流れが載せられているのを後で 知りました。また、さらに後に出版されたKochman の本[3]の中で、これら一連の計算はJapanese stems と呼ばれていて、私の計算部分はOda stems と紹介 されていましたが、そのころ私は球面のホモトピー 群の計算はしていませんでした。計算の詳細は[4]

で発表しました。

3.福岡大学応用数学科

 応用数学科は設立8年目ということでもあり、30 代前半の若い先生方が多く、自由な雰囲気の中、一 人で数学を考え続けることができました。また、当 時は外国に研究で行くことはほとんどなかったので すが、応用数学教室では、機会があれば在外研究員 として1年間外国で研究をすることがほとんど義務 化していて、私もそのような状況の中で1990年、40 歳のときに在外研究員として外国で1年間研究する ことが認められました。それまで一人で思いつくま まに色々と数学を考えることが私の数学の研究でし たが、この在外研究員としての経験は今までの私の 数学の研究に対する考え方を一変する体験でした。

このような貴重な機会を与えられたことを福岡大学 に大変感謝しています。

4.在外研究員としての体験とその後の研究  福岡大学在外研究員として1990年に1年間イギリ スのオックスフォード大学の数学研究所で研究を行 う機会に恵まれました。当時数学研究所の所長をし ていたジェイムス先生に快く受け入れていただいた ので、家族とともに1年間オックスフォードで過ご しました。日本人学校はありませんでしたが、小学 四年生と中学二年生の息子は日本人が全くいない現 地の学校にすぐに慣れました。

 ここでは、ジェイムス先生がほとんど毎週セミナー を主宰し、イギリスの内外からの有名な数学者の訪 問・講演も多く、論文や著書だけで知っていた数学 者を知ることができました。セミナーが終わるとジェ イムス先生が皆を引き連れて近くのパブに行き、

ビールだけを飲みながらしばらく雑談をしていまし

た。ここでオハイオ州立大学のマルカム先生と数か 月滞在期間が重なり、知り合いになれたのは幸運で した。マルカム先生と戸田ブラケットに関する共同 研究を行ったことが契機となり、南アフリカのハー ディ先生やドイツのカンプ先生との共同研究ができ ました。また、韓国数学会の会長をしていた高麗大 学のウー先生と研究内容が近かったこともあり、ウー 先生とも共同研究を始めたことから、ウー先生の教 え子であるキム先生、ユーン先生、中国のパン先生 等と共同研究をする機会を得ることができました。

日本の研究者とも積極的に議論を行うようになり、

様々な共同研究をする機会が得られました。多くの 研究者と共著の論文を書くことができたのはオック スフォード大学での研究が大変大きな契機となった と思っています。

 数学では直接会って議論することが研究の進展に は大変重要であるというのが共同研究を通して実感 したことです。幸運にも2007年から2018年の間(高 度化の代表をした2010年を除き)単独で申請した科 研費が3回連続して認められたことは、その間の研 究の進展に大いに役立ちました。

参考文献

[1] H. Toda, Composition Methods in Homotopy Groups of Spheres, Princeton University Press, Prince- ton, 1962.

[2] G. W. Whitehead, Fifty years of homotopy theory, Bull. Amer. Math. Soc. 8 (1983), 1-29.

[3] S. O. Kochman, Stable Homotopy Groups of Spheres: a computer-assisted approach, Springer- Verlag, Lecture notes in mathematics 1423, 1990.

[4] N. Oda, Unstable homotopy groups of spheres, The Bulletin of the Institute for Advanced Research of Fukuoka University, No.44, August (1979), 49- 152.

―  ―8

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 定年退職するに当たり、大学の卒業研究から数え て48年間にわたる私の研究生活を振り返る機会を与 えていただき感謝します。化学という学問には、地 球上に現存する元素や物質から新規の新しい物質を 創り出す合成化学と、様々な測定手法で新規物質の 構造や性質・機能の発現する仕組みを明らかにする 分析化学があります。私の研究は後者になります。

1.学部時代

 私は、戦後の第一次ベビーブーム時代(1947~1949 年)に生まれた団塊の世代です。

 大学入試の時期は大学紛争真っただ中で、東京大 学の安田講堂が学生に占拠されて入学試験が中止に なりました。私は名古屋工業大学工学部合成化学科 に入学しましたが、1年次は学生紛争のために講義 はまともにできない状態でした。3年次になると学 生紛争も下火になりました。4年生の卒業研究の指 導教授は日根文男先生でした。日根先生は電気化学、

特に電解層工学や腐食工学の研究分野で世界的に著 名な先生でした。今でもよく覚えているのは、3年 次の電気化学の講義はすべて英語で板書されて、定 期試験問題もすべて英語で出題されました。幸い、

教科書は日根先生が書かれたものがありましたので 試験はなんとかなりました。今、文部科学省(文科 省)は英語で講義をすることを勧めていますが、日 根先生は50年前にすでに実施されていたことになり ます。4年生の卒業研究では、研究室に納入された ばかりの最新のポーラログラフィー装置の立ち上げ と、その装置を用いた水溶液中での銅クロロ錯体の 平衡に関するものでした。水溶液中に存在する複数 の銅クロロ錯体種が明らかになると、その構造に興 味が湧きました。研究が面白くなり、大学院へ進学 することを決めていましたが、当時の名古屋工業大 学の大学院は修士課程までで、博士課程は設置され

ていませんでした。他大学の大学院入試要項を取り 寄せて研究内容を調べていく中に、東京工業大学大 学院理工学研究科の大瀧仁志教授が溶液中の錯体の X線構造解析をされていることが目に留まりました。

まさに、私が卒業研究で興味を持った研究でした。

2.大学院時代

 当時の大学院入試は、数学、物理、化学、英語、

ドイツ語の5科目でした。夏休みの猛勉強のおかげ で無事に合格しました。合格通知を受け取ってしば らく経った頃に、大瀧先生がわざわざ名古屋まで私 に会いに来られて、新しく大学院総合理工学研究科

(東京工業大学と九州大学のみに認められた学部を もたない大学院)電子化学専攻に移るので構わない かのことでした。当時、東京工業大学電気化学科は 日本の電気化学の拠点で、著名な先生方の面接を受 けました。大瀧研には、私が入学する1年前に日本 電子製の溶液X線回折装置が納入されていました。

溶液のX線構造解析の研究は日本では全く行われて おらず日本の第一号機でした。当時、液体や溶液の X線回折研究は世界でもスウェーデン王立工科大学 のGeorg Johansson 博士と米国のWertz教授のグルー プだけでした。当時は溶液化学のメッカは北欧ス ウェーデンで、大瀧先生は王立工科大学に3年間滞 在されており、その中で Johansson博士から溶液X 線回折の研究を学ばれたことを知りました。博士前 期課程では、第一遷移金属(マンガンから亜鉛)過 塩素酸水溶液のX線回折実験により、水溶液中の水 和金属イオンの構造を決定し、初めて日本化学会の 欧文誌に発表しました。博士後期課程に進学すると 同時に結婚しました。博士後期課程では溶液中の 種々の遷移金属アンミン錯体(金属イオンにアンモ ニア分子が結合したもの)の構造を決定しました。

X線回折データの解析には電子計算機を使用します

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研究生活4 8年間を振り返って

理学部教授 山 口 敏 男

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が、当時は東京大学の大型計算機センターにしかあ りませんでした。また、プログラムは紙のパンチ カードを利用してFORTRAN言語を用いた非線形最 小二乗法プログラムを作成しました。当日朝にパン チカードを移動車に渡して、夕方に結果を受け取る 毎日でした。この計算は今日のパソコンでは数秒で 終了します。博士論文を書き終えて無事に理学博士 の学位をいただきましたが、企業に就職することは 考えていませんでした。大瀧先生は、「学者になる なら、どんな貧乏も覚悟しなさい」と言われたこと を思い出します。その時に子供は2人いましたが、

大瀧先生が心配して東京工業大学(東工大)の教務 補佐員や文部技官の職を手配していただきました。

1年半待ちましたが助手のポストが空かないので、

大瀧先生はしばらく外国に行って待ってくださいと、

先生の友人でスウェーデンのイエテボリ大学の学長

であったGeorg Lundgren 教授に手紙を書いてくださ

り、スウェーデンに留学することになりました。

3.ポスドク時代

 1979年10月から家族4人でスウェーデン西海岸の 港町イエテボリ市に引っ越しました。Lundgren学長 は多忙であったために、無機化学科のOliver Lindqvist 教授が私の指導教授でした。Lindqvist教授はX線結 晶解析の専門家であり、結晶X線解析の研究を学ぶ ことができました。また、Studvikの研究用原子炉に おいて中性子を用いた結晶回折も身に着けることが できました。また、無機化学科には Johansson博士 が使用しているものと同じ溶液X線回折装置があ り、その立ち上げと大学院生を指導することができ ました。また、大学院で「溶液X線回折学」の講義 を開講して大学院生を教育しました。王立工科大学 を訪問して Johansson博士と親交を深めました。彼 の格言「No work is finished until the paper is published」 を思い出します。2年間が経とうとする頃に、大瀧 先生からまだ助手のポストが空かないとの連絡があ り、もう1年滞在を延長することになりました。こ の頃、米国では Stanford線形加速器から加速された 電子を蓄積リングに貯めて強力な放射光X線を用い

る施設(SSRL)においてX線吸収分光法の研究が

始まっていました。イエテボリ大学と併設されてい るチャルマース工科大学物理学科のTord Clarssen 教

授が米国のIBM研究所のJim Boyce 博士と共同で SSRLで超伝導物質のX線吸収分光法の実験をされ ており、私の溶液試料を測定して解析してもらう機 会に恵まれました。3年経った1982年8月にようや く岡田勲助教授の助手のポストが空いたので帰国し てくださいと連絡が入り、東工大の助手としてスウェー デンから東工大に赴任することになりました。文科 省には家族5人(3年目に3人目が生まれたため)

の帰国費用と引っ越し費用を全額負担してもらい、

帰国後の生活を順調にスタートさせることができま した。3年間のポスドク時代に知り合った多くの研 究者がそれぞれの国で教授になっており、私の研究 ネットワークができています。若い研究者には是非 海外で研究する機会を積極的に持ってもらいたいと 思います。

4.助手時代

 1982年10月から東工大の助手として研究活動を始 めました。岡田勲助教授は日本で最初に分子動力学 シミュレーションにより溶融塩の構造やダイナミク スの研究をされた先生です。分子動力学シミュレー ションは大型計算機を用いるために、横浜から岡崎 市の分子科学研究所へ岡田先生の車で通いました。

また、1982年に帰国した年には、つくば市の高エネ ルギー物理学研究所(高エネ研)に放射光実験施設 Photon Factory(PF)が完成していました。X線吸収 分光法の経験があったために、ビームライン担当者 の野村昌治氏(現、高エネ研名誉教授)と共同研究 をすることができました。電解質水溶液を液体窒素 に急速に漬けて生成されたガラス状態の溶液構造や 溶液中の種々の金属錯体の構造を数多く決定しまし た。また、同じ敷地内に陽子を加速して重金属(劣 化ウラン)に当てて発生するパルス中性子を用いる 実験施設(KENS)も同時に完成していました。ス ウェーデンで中性子散乱の経験があることから、渡 辺昇先生や三沢正勝氏(新潟大学教授)と福永正晴 氏(現、京都大学名誉教授)と液体・溶液測定用の 中性子全散乱装置HITの開発に参画する機会に恵ま れました。

5.福岡大学時代

 1986年10月から福岡大学理学部化学科の脇田久伸

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線回折を学ばれ、 また、PFではX線吸収分光法の 研究も始められていました。脇田先生のおかげで、

私は溶液や液体のX線回折や中性子回折・X線吸 収分光の研究を自由にさせていただきました。また、

高椋利幸助教(現、佐賀大学教授)や吉田亨次助教 とは長年にわたり共同研究を行いました。大瀧先生 が代表となり、特定領域研究「溶液の分子論的アプ ローチ」の計画班「反応中間体の構造」に入れてい ただく機会に恵まれました。PFではX線検出器と して医学用に開発されたイメージングプレート二次 元検出器が使用されていました。実験室で強力なX 線を発生される回転陽極X線発生装置にイメージン グプレート検出器を用いた迅速X線回折装置をマッ ク・サイエンス㈱と共同で開発しました。従来の封 入管式X線回折装置では溶液試料の測定に数日間の 連続運転が必要でしたが、開発した装置では測定時 間をわずか1時間に短縮することに成功しました。

このブレークスルーにより、高温高圧条件の超臨界 水(218気圧、374℃以上の水)、水-有機溶媒二成 分溶液、過冷却溶液など、従来測定が不可能であっ た極端条件下の液体や溶液の構造を世界に先駆けて 明らかにすることができました。「水と水溶液」の Gordon Research Conference で「超臨界水の構造」に ついて招待講演をする機会に恵まれました。その後、

制限空間内の水や溶液の構造やダイナミクスの研究、

水アルコール溶液中のタンパク質の折り畳み機構の 研究、最近はエアロゾル液滴の構造の研究に発展し ています。これらの研究業績により、2013年に日本 分析化学会学会賞を、2016年に日本中性子科学会学 会賞を頂き、福岡大学に貢献できたかと思います。

6.英国での在外研究員時代

 福岡大学では1年間の在外研究員制度があります。

2000年4月~2001年3月まで英国のUniversity College London物理・天文学科(John Finney 教授)とBristol 大学物理学科(George Neilson 博士)の研究室に滞 在する機会に恵まれました。英国の大学ではチュー トリアル制度があり、週に1度先生が数名の学生と 会い大学の勉強や生活について指導しています。帰

立っています。

 以上のように、長い間研究生活を楽しく送ってこ られたのは、国内外の恩師や共同研究者、化学科の 仲間、大学院生や卒論生に恵まれた結果です。また、

これまで研究を遂行するため文部科学省・日本学術 振興会・福岡大学やその他財団に資金を提供してい ただきました。最後に、研究推進部を始め事務課の 方々のご協力により、楽しく自由に研究生活を送る ことができました。このような教育・研究の環境を 与えてくれた福岡大学に深く感謝します。

―  ―11

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 昭和55年(1980年)4月1日から福岡大学に講師 として勤務を始めてから、早や40年です。光陰矢の 如し、夢、幻のような時間が経過しました。沢山の 教職員の皆様に助けられ清々しく退職を迎えること ができ、感謝の一言です。

 赴任した当時、所属対抗のソフトボール大会があ り、職員がともに汗をかき、勝利を目指しました。

また、電気工学科では家族ぐるみの潮干狩りを楽し み、良き時代が流れていました。

文科省の教育研究プロジェクトへの対応  平成21年(2009年)度の文部科学省「教育研究高 度化のための支援体制整備事業」に採択され、「福 岡大学ワンキャンパス集積型総合大学の教育研究高 度化推進支援プロジェクト」の1つのテーマとして

「地域に応える防災技術と安全システムに関する総 合的な教育研究」を工学部中心に実施しました。こ のプロジェクトに関連して工学部の教職員7名でド イツの研究機関を視察したことが思い出されます。

 平成24年(2012年)度の文部科学省「大学間連携 共同教育推進事業」に九州大学(幹事大学)、熊本 大学、九州工業大学、福岡大学、福岡工業大学の5 大学連携事業として採択され、「未来像を自ら描く 電気エネルギー分野における実践的人材育成」を目 指し、博士課程前期(修士課程)の大学院生を対象 に実施しました。この事業は本年度も実施され8年 を経過しています。私は、本学の運営担当としてこ れまで8年間本事業に関わってきました。近隣の大 学が連携して人材育成を行う試みは、遠隔授業の実 施、外国人講師の招聘、大学院生の国際会議での研 究発表支援、討論型宿泊研修等、多くの活動を5大 学が協議しながら今も運営を継続しています。特に、

5大学連携教育プログラムは、大学院生の国際化の ために有効活用しました。同時に、多数の外国人講

師の招聘、大学院生の国際会議発表を通じて外国の 研究機関との交流がより一層活発になりました。主 に関連した海外の大学として、タンペレ工科大学、

アイントホーヘン工科大学、ペトロナス工科大学、

天津大学、河北工業大学、華中科技大学、東北電力 大学、西北工業大学、西安理工大学、漢陽大学、

チュラロンコン大学、トロント大学、クワズールナ タール大学、インド工科大学等があります。また、

このプログラムを通して海外で研究発表した本学の 大学院生は35名を超えています。

研究活動について

 私は、6年間東京の大学で過ごした後、九州大学 の電力工学講座で研究活動を開始しました。当時、

工学系の博士課程は関西以西では九州大学のみに設 置されていました。研究内容は、電力分野、特に送 配電系統の高電圧絶縁に関するものです。この分野 の研究は、空気やSF6ガス等の電気絶縁ガスに高電 圧印加して発生した火花放電現象の解明、特に、電 気的特性の測定と放電発光現象の高速高感度撮影が 注目されていました。

 確か、高速高感度放電発光現象を観測するイメー ジコンバータカメラは、九州では福岡大学の高電圧 実験室と九州大学のみが保有して、極めて高価で特 殊な電子カメラでした。学位論文に関する研究では、

このカメラを私が占有して使用できたことは大変幸 運で、当時の指導教員であった赤崎 正則 教授へ感 謝の気持でいっぱいです。

 九州大学の6年間の研究で心掛けたことは、自分 の特色を生かした研究課題を見出すことでした。電 気工学での電力機器の高電圧絶縁設計に重要な電気 絶縁破壊機構のマクロな研究を、電子スウォームの ミクロな電子衝突過程から如何にアプローチするか でした。気体放電物理から電気的絶縁破壊を探る長

―  ―12 研究雑話

4 0年間の大学生活を振り返って

工学部教授 西 嶋 喜代人

(12)

時の上司にあたる常安 暢 教授の絶大な支援をいた だいたことです。

 研究活動の開始のきっかけは、旧4号館にありま した焦点距離1.8メートルの島津製分光器を高電圧実 験室へ移設することでした。この分光器は放電発光 のスペクトル分析に威力を発揮しますが、即使用で きる状態ではありませんでした。回折格子、反射板 等の部品を島津製作所でオーバーホールしてもらい、

やっと0.03 nm のスペクトル波長分解能を達成でき、

空気中の N2ガス分子のスペクトル分光に漕ぎつけ ました。空気中の放電発光から放出された N2ガス 分子の3重項に対応する放射スペクトルが明確に観 測できた時の感激は忘れられません。この分光器と の出会いが、私の生涯の研究を決定づける要因とな りました。

 もう一つの出会いは、スコットランドのグラスゴー にあるストラスクライド大学での1年間の在外研究 の機会をいただいたことです。O. Farish 教授のグルー プは、GIS(ガス絶縁開閉装置)の電気事故原因を 探る基礎的な研究で、高電圧電気絶縁の実験へパソ コンを用いた自動計測を既に導入していたことでし た。昭和60年(1985年)の帰国後、早速パソコンを 用いた自動計測システムの構築に取り組みました。

まだ、GP-IBボードがパソコンに装備されていない

時代です。その後、自動計測のためのパソコン環境 が次第に整備されるようになり、学生と自動計測ソ フトの制作を行い、実験に使用しました。何千回の 高電圧印加による放電データの計測も苦も無く可能 になり、放電の統計的現象の解明に活用しました。

 更なる出会いの一つは、平成17年度(2005年度)

に採択された私立大学教育研究装置等補助金による

「高性能ナノパルス放電プラズマ反応計測・分析器」

です。この計測・分析装置によって、長年の夢であっ た大気中のストリーマ放電の気体温度の計測に初め て成功しました。約5,000回の高電圧印加で発生した 各ストリーマ放電発光をスペクトル分析し、その微 弱高速スペクトル回転強度分布信号をパソコンで累 積計測して、さらにノイズ除去を加えて、S/N比の 高い N2分子の2nd positive system band(0,0)、(0,2)

討から、回転温度すなわち気体温度を精度よく計測 しました。気体放電プラズマの気体温度は、総ての プラズマ化学反応を決める最も重要なパラメータの 1つであることから、世界的に研究が展開されまし たが、観測が極めて困難な大気中のストリーマ放電 プラズマの気体温度の計測は、今でも極めて少ない のが現状です。

 今後、本学の高電圧実験室が、最先端の計測装置 を駆使して、今後も高電圧絶縁の分野の科学的発展 に常に貢献し続けることを期待しています。

地域と共に

 大学の使命として、教育、研究に加え、最近では 地域貢献が加えられています。私は、地元テレビの 取材は基本的に断らないことにしていました。大学 の教員は地域の知恵として活用していただければ、

よいと考えています。雷、静電気そして電気事故に 関して、例えば、テレビ西日本「ももち報道K宣言」、

「ももち浜ストア」、FBS福岡放送「めんたいワイド」、 KBC九州朝日放送「パワーアップ九州」、RKB毎日 放送等の多くの取材を受けました。特に、記憶に 残っているのは、現在も活躍中のFBSの当時新人で あったアナウンサーの方です。放送後、丁寧なお礼 の手紙を受け取りました。その時、素晴らしい女性 で、将来きっと期待されるアナウンサーになられる と実感しました。その他にも、電話による技術的問 い合わせ、電気事故調査の相談や現場調査の依頼が ありました。

 ところで、3年前に公益財団法人「福岡県三次元 半導体研究センター」を急遽、担当することになっ た理由は、前任者の逝去によるものでした。現在、

100年に1度の大変革の車産業、特に、半導体の部 品内蔵技術のパワーモジュールと高速通信に関する 研究開発を、本学の半導体実装研究所と共同で実施 しています。ITSの構築、CASEや MaaSへの対応 に向け多くの技術的なイノベーションが要求され、

地域の産業振興のためにも、積極的に大学が関与す る必要に迫られています。今後、地域と共に歩む大 学であり続けて欲しいと願っています。

―  ―13

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 研究雑話の原稿の依頼を受け、書き始めましたが、

何を主題に置くのか決めかねたまま書きました。ま とまりのない文章となりましたが、自分として皆様 にお伝えして置きたいことを羅列しました。私の40 年間を支えてくれた言葉を最後に述べ、終わりたい と思います。人になれ奉仕せよ

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