研究雑話
初心忘るべからず…4 1年間の教育・研究を顧みて
理学部教授 脇 田 久 伸
1972年、春、本学に理学部化学科講師として赴任 した私は化学の講義や実験を担当する一方、授与さ れたばかりの課程博士論文「希土類元素炭酸塩の合 成的研究」の研究を発展させるべく試薬、器具を揃 えたり、X線回折装置購入の思案をしたりした。
この研究はレアメタルの代表である希土類元素の 含水炭酸塩を合成し、その組成と構造を明らかにし、
希土類元素の存在状態分析を行うものである。後年 この化合物が熱分解により水素ガスを発生する機能 を持つ注目すべき物質となることを当時は知る由も なかった。
合成実験とそのデータ整理、さらに論文作成と3 年はすぐに経ち、やっと論文をBCSJ(日本化学会 欧文誌)に掲載できた。研究者としての 初心忘る べからず を実践したつもりであった。その後助教 授昇進と同時に大学院理学研究科が発足し、新体制 のもと研究テーマの変更を求められ、溶液中の分子、
イオンのX線構造解析をめざすことにした。それ まで含水炭酸塩の沈殿生成を追求していたので沈殿 析出時の溶液内化学種の構造解明こそが結晶生成を 理解する早道であると確信したからである。
そこでまず遷移金属ハロゲノ錯イオンのX線構 造解析をテーマとした。遷移金属イオンとハロゲノ イオンからなる強電解質水溶液内の陽イオンー陰イ オン相互作用を直接観測し、その機能を解明する目 的である。
大学院生が共同研究者として加わったがこの研究 の手法、測定法や解析法が皆目分からない。文献や 解析プログラム探し、測定装置(溶液X線回折装 置)製作とその購入交渉と駆けずり回り、3年目に 何とかデータを得た。しかし解析する上でどう考え ても解からないパラメータがあり、思いあまって院 生の市橋光芳君と東工大の大瀧仁志教授を訪ねパラ メータを見せてもらい、解析を完了できた。初めて
の溶液X線解析論文がBCSJに採択され、ほっとし た。大瀧教授には4、5年後に巡ってきた留学チャ ンスの際、今までの論文をもとに推薦文を書いてい ただき、スエーデンの核廃棄物処理プロジェクトの 資金でストックホルム王立工大博士研究員として一 年間滞在する機会を与えられた。溶液X線解析の 第一人者であったG.Johansson教授の下で同形置換 法を用いて希土類元素イオンの水和構造を解明し、
国際誌に掲載された。第2配位圏をも含む希土類元 素イオンの水和構造を初めて明らかにした研究であ り、環境内に放出された放射性元素の状態解明に手 がかりを与えるものであった。
帰国した1980年代初めは筑波にシンクロトロン施 設(PF)をつくることで関連研究者が集められ、
私も大瀧教授の推薦で参加できた。その会合で東北 大の鈴木謙爾教授から私の溶液X線回折装置でX 線吸収微細構造(EXAFS)スペクトルの測定がで きそうであると耳打ちされた。EXAFS法は現在、
さまざまな分野で構造解析法として利用されている が、当時はまだ海のものとも山のものとも分からな い状態分析法であった。
帰福後、市橋君と装置をいじくり回し測定を開始 した。得られたスペクトルは解析が厄介で、当時関 西で立ち上げられた関西EXAFS研究会に阪大の池 田重良教授の紹介で入会し、理論の研究から始めた。
池田教授は私の恩師であった長島弘三東京教育大教 授と親交があったせいか、急逝された恩師に代わり、
その後何度もお世話いただいた。理論をほぼ咀嚼後、
応用数学科の先生に相談しながら院生の田尻善親君 に解析プログラムをつくってもらった。測定した水 溶液中の銅(!)イオンがヤーンテラー効果により 歪 ん だ6配 位8面 体 構 造 と な っ て い る こ と を
EXAFS法で始めて明らかにした論文としてBCSJ
に意気揚々と投稿した。ところが査読者の大瀧教授
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からおしかりを受け論文作成の要諦を改めて教授さ れた。この時の恥ずかしさは忘れられない。これが 世阿弥 のいう 時々の初心忘るべからず だっ たのだと最近思い知った。この研究の最中、研究室 のトップだった増田 勲教授が亡くなられたため42 歳で教授に昇進し、田尻君の博士論文を主査として 審査した。これが主査を勤めた最初である。
翌1986年秋、東工大から山口敏男博士(現教授)
を研究室に迎え、研究体制は万全となり多くの院生 にもめぐまれさらに多方面の研究をてがけた。
まず、井 幹也君が配位子から合成し、その後、
山下誠一君がPFで測定を行い、構造解明した一連 のニッケル(!)グリオキシム錯体のEXAFS解析 の研究がある。この化合物は配位子の側鎖を伸ばす と液晶性を示すが金属間距離は変化しないことを明 らかにした。この化合物は現在、一次元伝導性が盛 んに研究されている。山下君とは実験室EXAFS装 置開発をベンチャー企業に出向いて行った懐かしい 苦労話もある。この装置開発で多大な協力をいただ いた谷口一雄大阪電通大教授を紹介いただいたのも 池田教授である。
当時助手であった藤原 学博士(現龍谷大学教 授)の下で栗崎 敏君(現本学助教)が難しい合成 と機能・構造を解明し、分析化学への展開を図った 一連の新規ポリアザ錯体の研究がある。この研究は 生体モデル化合物として、そのDNA分解反応が興 味を持たれ、現在も本研究室で引き続き研究を展開 している。
山口博士とは日本では当時大変めずらしかった中 性子回折法を用いて温度や圧力を変えて水の構造解 析を行った。この研究は山口教授がさらに大きく展 開され、世界的な名声を馳せているがここでは割愛 する。
山下君とはDV-Xα法を用いたXANESスペクト ル解析も始めた。EXAFSスペクトルの一部である
XANESスペクトルは解析法がはっきりせずもっぱ
ら指紋法的に用いられていた。そこでこれも池田教 授から足立裕彦兵庫教育大教授(現京都大学名誉教 授)を紹介され、DV-Xα分子軌道法によるXANES スペクトル解析をめざした。DV-Xα分子軌道法は 巨大分子やクラスターの分子軌道計算を精度を落と すことなく短時間で計算できる独創性あふれる計算
法である。
まず、青緑色塗料として有名なフタロシアニン錯 体の金属元素のXANESスペクトルを測定し、その DV-Xα法による解析を試みた。DV-Xα法を用いて 想定モデル分子の理論XANESスペクトルを求め、
実測スペクトルとのフィットを行い解析していく手 法である。この手法で横溝臣智君は板状のフタロシ アニンの分子間相互作用を分子間距離や角度を少し ずつ変えて計算し構造解明を行い、その結果で種々 の物性値を説明できた。松尾修司君の場合はまず、
テトラアザ錯体内銅(!)イオンとカウンター陰イ オンとの相互作用を解明した。さらにこの手法を軽
元素のXANESスペクトル解析に用いる試みを行っ
た。まず、スペクトル測定をローレンスバークレー 国立研究所(LBNL)の軟X線スペクトルビームラ インで行うことから始めた。前出の谷口教授から ビームライン担当官のR.Perera博士を紹介され、毎 年2−3回、数日間の測定時間を得た。創設された ばかりの高機能物質研究所のポストドクターとして 就任した草々の松尾君をLBNLで半年間研究に従 事してもらい、いくつかの重要な論文のもとになる 測定を行ってもらった。そのひとつが水溶液中のア ルミニウムEDTA錯体の5配位構造を始めて明ら かにし、国際誌で評価された研究である。
一方、フタロシアニン錯体の研究は山重寿夫君が XPS分光装置で微弱なシグナルしか示さない価電 子帯まで測定し、フタロシアニンの立体構造解明を この手法で明らかにした。山重君は通常の元素分析 装置であったXPSの有用性を示したばかりか電池 開発で重要なイオン液体中のリチウムイオンのスペ クトルも測定した。このスペクトルは最近、栗崎助 教がDV-Xα法による解析を行い論文とし、国際誌 上で高く評価されている。
最後に松尾君からはじめ坂口奈穂美さん、岩瀬元 希君につづく酸化チタン光触媒の研究がある。ゾル ゲル法を用いた酸化チタン光触媒の調製法を本学の 中野勝之教授から習得することで本研究室での酸化 チタン光触媒の研究が始まった。触媒の研究には反 応過程を追跡することが必須である。当時九大工学 部教授を退官直後の松尾 拓先生に高機能研究所の 客員教授として就任していただき希土類元素を担持 させた酸化チタンの合成と触媒反応解明の研究をス
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タートさせた。松尾名誉教授は光化学反応研究の第 一人者でそのご支援を受けて松尾君が希土類元素の 存在状態を、坂口さんがESRを用いた機能評価を 行い、担持された希土類元素の役割を解明する重要 な成果を挙げた。さらに最近5年間は岩瀬君が山田 啓二本学非常勤講師と可視光応答型非金属ドープ酸 化チタンの新規合成法を開発し、特許を申請すると ともに北大触媒科学センターの大谷文章教授の知遇 を得てアルデヒド分解反応解析を同センターで行い、
3つの論文を国際誌上にまとめた。
以上のなかで名前が出た院生にはいづれも課程博 士号を授与することができた。その外本研究室から は6名の課程博士と6名の論文博士が誕生した。さ らに70名あまりの修士と300名以上の学士が誕生し た。これらの称号取得は研究室の先輩教授や同僚に よる献身的なご指導によることは勿論であるが院 生・学生諸君のたゆまぬ努力の結果によるものであ る。ここで皆様に心から敬意と感謝の意を表したい。
今までの研究評価として日本分析化学会賞を2007年 に授与され、本学からも表彰を受けた。研究室に代 わって深く謝意を表する。
世阿弥の言葉には 老後の初心忘るべからず が 最後にある。大学人としての使命は教育にあること は謂うをまたない。研究に裏づけされた最新の知識 と真理探究の精神を伝える教育を常に心することが 大学に職を得た者の責務であると考えている。
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研究雑話
研 究 雑 感
工学部電子情報工学科教授 首 藤 公 昭
近代的コンピュータの黎明期であった今から70年 ほど前、第二次世界大戦終結後を見越した英米仏は ソ連の原子力、航空宇宙技術に関する情報収集を目 的としてロシア語、英語間のコンピュータによる機 械翻訳の研究に着手しました。これを出発点として、
計 算 言 語 学(Computational Linguistics)、言 語 工 学
(Linguistic Engineering)、自然言語処理(Natural Lan- guage Processing)などと呼ばれる情報技術分野が誕 生し、発達して今日に及んでいます。
日本では1950年代に九州大学工学部の通信工学の 研究者であった故栗原俊彦教授、故田町常夫教授、
大野克郎教授らによって研究が開始され、1960年に 日本で最初の日独英相互機械翻訳機、KT-1(Kyushu Translator1)として実を結びました。これは電気試 験所(現、産業技術総合研究所)の「やまと」とい う英日翻訳システムとならび、斯界の嚆矢とされて います。
私は1965年にその栗原俊彦先生の研究室に大学院 の学生として進学し、1968年に機械翻訳の研究を始 めました。栗原先生は、天才肌の研究者として九大 では有名でした。いつも研究に関する考え事に没頭 されており、しばしば周囲を驚かされました。ある 日、ネクタイを二本締めて大学に出勤されたという のが当時から有名でした。一本締めている上に無意 識にもう一本を締めたまま西新町から箱崎まで気が 付かれなかったという話。我々学生はそのような先 生に呆れながらも畏敬の念を抱いていました。先生 の思考回路は常人の理解の範囲を超えており、先生 とのコミュニケーションには苦労しましたが、そん な先生の元で学べることを誇らしくも思っていまし た。KT-1開発の知見から、先生はとりあえずコン ピュータへの日本語入力を欧米語並みに効率化する 必要があると考えられ、現在では当り前になってい る日本語ワープロ(仮名漢字変換)を着想されたの
です。1966年頃にはすでにワープロ開発の目途を付 けられていました"。しかし、先生は1973年に急逝 されたため、この技術は宙に浮いた格好になりまし たが、沖電気工業、NHKを経て、後のワープロ実 用化に大きな影響を与えました。この事はKT-1の 先見性と併せて、最近、広く知られています#。日 本にキーボード文化をもたらした日本語ワープロの 技術がいかに今日の日本の発展に貢献したかは明ら かでしょう。晩年の栗原先生は、機械翻訳を超えた、
知能を持ったコンピュータ=人工知能の研究に没頭 されていましたが、道半ばで比較的短い生涯を終え られました。もう少し生きておられたら、世界に先 駆けた成果を出されたに違いないと悔まれます。先 生の口癖は「余計なことは考えず、いつも研究者で 居ろ。ヘドが出るまで考えろ。君らは顔色が良すぎ るぞ、勉強はしているのか?」でした。これには弟 子一同閉口しましたが、先生の様にはなかなかいき ませんでした。しかし、その言葉は私のその後の生 活規範となりました。
九州大での機械翻訳研究は、結局、私が引き継ぐ 結果になり、1968年から一貫して翻訳自動化に関す る基礎研究を続けてきました。日本初の商用機械翻 訳システムは1984年にB社から発売されたマイクロ パックという商品でしたが、その基礎的な部分に私 の研究成果が使われました$。在外研究でテキサス 大学(UT)に滞在していた1980−1981年、私はUT の博士課程の学生K氏に私の研究成果を教材にして 機械翻訳の講義を行ったのですが、私の帰国後、K
! 栗原俊彦、黒崎悦明、小西彬光:1966 カナ漢字変換 について(第1報) 昭和41年度電気四学会九州支部連合 大会講演論文集、p57
# 情報処理学会、歴史特別委員会編 2010: 日本のコン ピュータ史
$ この成果はwikipediaの「形態素解析」の項に論文とし て紹介されています。
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氏は米国のW社で私の研究成果をベースにして日英、
英日機械翻訳システムを開発し、そのシステムがB 社の商品として日本で発売されたのです。当時、W 社に私の教え子がいるらしいという噂は耳に入って いましたが、それがK氏であること、K氏が私の研 究成果を使ってシステム開発を行っていたこと、そ して、それが日本のB社から発売されたこと、これ らすべてを知らなかったので、1985年頃だったか、
K氏自身に東京で告白されたときは大変驚きました。
その後の30数年、私は一貫してこの延長線上の研 究を続け、最近、丁度最終仕上げがほぼ終わった段 階で、43年間お世話になった福岡大を去ることにな りました。本当にあっという間でした。故栗原俊彦 先生や一時福岡大で教鞭を取られた大野克郎先生の 教えに沿って、研究第一の生活を目指してきました。
無論、苦しい時も有りましたが、研究上の多少の達 成感を感じながら生活を送ることができたのは大変 幸せだったと思っているこの頃です。
話は変わりますが、近年、少子化、大学の低レベ ル化、中途半端さが憂慮され、大学を研究中心の大 学と人材育成中心の大学に仕分け、それぞれ個別に 専念させる方策が議論されているようですが、さて、
我が福岡大はどちらにエントリするのでしょうか。
私には人材育成中心の大学というのはイメージし難 いですが、専門性の低い「教養大学」のようなもの なのか、専門性だけに特化した「専門学校的大学」
なのでしょうか。いずれにしろハイレベルの研究を 放棄した大学に未来があるのでしょうか。先端研究 と縁の薄い教育が、学部教育といえども可能なので しょうか、そもそもそれは大学という名に値するの でしょうか。
私は、どんなことが在っても研究中心の大学を標 榜できるよう努力すべきだと思います。その為には 若者が憧れるような学問的に優れた研究者を世界か らできる限り多く集めなければなりません。そんな 人が来てくれるはずがないという人がいますが、や りかた次第ではないでしょうか。
大学院を大幅に充実させ、学内の研究成果を世界 に強く発信すること、研究者の雑用を極力減らすこ と、研究の成果、将来性に応じた研究者への優遇措 置を講じること、学生に対する成績評価を厳しくす ることなどが当面不可欠であろうと思います。
要するに、「研究こそが大学の生命線であり、大 学を引っ張る原動力である」という意識を学内に充 満させることが何より重要であると思います。
大学を去るに当たり、福岡大諸賢の御研究成果の 隆々たらんことを心からお祈りします。
2013年2月某日 4号館研究室にて
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