カア・アブ・トゥレイハ西遺跡における板状スクレ イパーの生産工程と編年
著者 早坂 陽一
雑誌名 金大考古
巻 32
ページ 2
発行年 2000‑03‑13
URL http://hdl.handle.net/2297/2816
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・ 供 給 体 制 が 行 わ れ て い た 。 弥 生 後 期 に な る と 、 集 落 単 位 で は な く 、 1 地 域 単 位 で 生 産 ・ 供 給 体 制 が 整 っ た 。 例 え ば 、 金 沢 平 野 で は 、 西念・南新保遺跡からは未製品が出土するが、
そ れ 以 外 の 遺 跡 か ら は 全 く 出 土 し な い こ と か ら も 、 専 門 の 生 産 集 団 が 存 在 し た こ と が う か が え る 。 古 墳 中 期 に な る と 、 ナ ス ビ 形 曲 柄 鍬 が全国的に形・大きさがほぼ統一されてくる。
これは、鉄製 字形刃先を装着することによる U 規 格 化 が な さ れ た 結 果 だ と も 考 え ら れ る が 、 日 本 列 島 の ほ と ん ど の 地 域 を カ バ ー す る 広 域 の 生 産 ・ 供 給 体 制 が な さ れ た と 考 え ら れ る 。 金 沢 市 の 畝 田 ・ 寺 中 遺 跡 か ら 、 規 格 化 さ れ た ナ ス ビ 形 曲 柄 鍬 が 多 く 出 土 し た と い う こ と か ら 、 北 陸 地 方 に お い て も そ の よ う な 広 域 の 生 産 ・ 供 給 体 制 の 中 に 入 っ て い た こ と が う か が える。
カア・アブ・トゥレイハ西遺跡における板状 スクレイパーの生産工程と編年
早坂 陽一
板 状 ス ク レ イ パ ー は 、 先 史 時 代 末 か ら 歴 史 時代初頭(紀元前約 5000 〜 2200 年)にかけて、
レ ヴ ァ ン ト 南 部 を 中 心 に 西 ア ジ ア の 広 域 に 分 布 し て い た 、 フ リ ン ト 製 打 製 石 器 で あ る 。 製 作 技 術 や 用 途 に 、 ま た 時 代 的 ・ 地 域 的 に も 多 様 性 が 認 め ら れ る に も 関 わ ら ず 、 資 料 の 偏 在 と 製 作 址 の 欠 如 と い う 問 題 に よ り 多 く の 問 題 が 未 解 決 で あ る 。 と り わ け 生 産 状 況 に 関 す る 情 報 不 足 、 型 式 論 ・ 編 年 論 な ど の 基 礎 的 研 究 の貧弱さは、覆うべくもない。
ヨルダン南部アル・ジャフル盆地に位置する、
カ ア ・ ア ブ ・ ト ゥ レ イ ハ 西 遺 跡 は 、 過 去 類 を 見 な い 質 量 を 備 え た 板 状 ス ク レ イ パ ー 製 作 址 である。そこで以下の 点から過去の研究の空 2 隙を埋めることを試みた。 )板状スクレイパ 1 ー の 生 産 工 程 の 詳 細 を 、 実 際 の 資 料 を 用 い て 復元し、 )それを基に、とりわけ技術的様相 2 を 睨 み つ つ 、 カ ア ・ ア ブ ・ ト ゥ レ イ ハ 西 遺 跡 に お け る 板 状 ス ク レ イ パ ー の 編 年 試 論 を 構 成 する。
)の分析・考察を通じ、従来の器種認定に 1
は 重 大 な 見 落 と し が あ る こ と が 判 明 し た 。 過 去に「壊れた」として処理されてきたものが、
実 は 生 産 者 の 手 に よ る 意 図 的 な 素 材 分 割 の 所 産 で あ る 可 能 性 が 高 い こ と が 判 明 し た 。 接 合 例 に よ っ て 体 系 的 な 分 割 技 法 の 存 在 が 確 認 さ れ た だ け で は な く 、 そ の 復 元 さ れ た 技 法 に 関 連する遺物も頻繁に検出されたことにより 、 「 断 片 化 」 が 意 図 的 で か つ 汎 用 性 の 高 い 生 産 技 術
で あ る こ と が 判 明 し た の で あ る 。 そ の 見 地 を 得 る こ と に よ り 、 従 来 に は な い 新 た な 視 野 ― 素 材 分 割 技 法 の あ り 方 を 比 較 す る ― が 獲 得 さ れたのである。
) そ こ で 次 に 、 ) で 得 ら れ た 見 通 し を 付 加
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し て 、 カ ア ・ ア ブ ・ ト ゥ レ イ ハ 西 遺 跡 に お け る 板 状 ス ク レ イ パ ー の 編 年 を 試 み た 。 カ ア ・ ア ブ ・ ト ゥ レ イ ハ 西 遺 跡 の 製 作 址 の 年 代 は 、 概 ね 前 期 青 銅 器 時 代 ( 紀 元 前 約 3500 / 3400 〜 年)に位置づけることができるが、年代を 2200
細 か く 限 定 で き る 証 拠 が 不 足 し て い る た め 、 そ れ 以 上 の 時 期 の 細 分 は で き な か っ た 。 し か し 生 産 状 況 は 明 ら か に 時 期 的 な 変 遷 を 示 し て お り 、 そ れ は 特 に 技 術 的 な 様 相 の 変 遷 で あ っ た。カア・アブ・トゥレイハ西遺跡には 件の 3 板 状 ス ク レ イ パ ー 製 作 址 ( 号 遺 構 ・ 号 遺 構 1 3
・ 号遺構)が確認されており、その遺構の前 7 後 関 係 と 生 産 状 況 の 相 違 を 対 照 す る と 、 概 ね 以下のような変遷状況が確認されるのである。
第 期( 号遺構 :素材分割技法が既に適用さ 1 3 ) れ て い る が 、 分 割 を せ ず に 素 材 を そ の ま ま 製 品 化 す る こ と も 多 か っ た 。 ま た 熱 割 れ 剥 片 を 利 用 し た 製 品 は 、 こ の 時 期 の 大 き な 特 徴 で あ った。
第 期( 号遺構 :素材分割技法の適用度が急 2 1 ) 増。量産・浪費を特徴とする生産体制。
第 期( 号遺構 :素材分割技法の独占体制。 3 7 ) た だ し 技 術 的 な 質 は 低 下 し 、 ま た 素 材 の 利 用 度 に 制 限 が 生 じ た た め か 、 過 度 に 分 割 技 法 を 用いていた。
以 上 が 本 稿 の 主 た る 結 論 で あ る 。 一 言 に ま と め る と 、 時 代 が 下 る に つ れ 素 材 分 割 技 法 の 適 用 度 が 増 大 し 、 技 術 の 質 が 劣 化 し て い く と いうことである。
カア・アブ・トゥレイハ西遺跡の板状スクレイパー
卒 業 論 文 概 要
金沢城下町遺跡における漳州窯系陶磁器の 変遷
相羽 重徳
州 窯 系 陶 磁 器 は 明 末 清 初 の 政 権 交 代 の 動
漳乱 期 に 突 如 、 世 界 海 上 貿 易 の 表 舞 台 に 登 場 す る 、 粗 雑 な 焼 き 物 の こ と で あ る 。 我 が 国 で は
「呉州手 「呉州赤絵」などと呼ばれ、西欧で 」
− 3 − は SWATOW WARE ( スワトウウェア ) と 呼ばれる。その生産地やその生産形態などは、
長らく不明とされてきたが、 1993 年の窯跡の発 掘 調 査 を 始 め と し て 、 近 年 の 、 中 国 に お け る 調 査 の 進 展 に よ り そ の 実 体 が 明 ら か に な り つ つ あ る 。 消 費 地 で あ る 我 が 国 で は 、 窯 跡 発 見 以 前 よ り 、 そ の 存 在 は 、 染 付 の 分 類 上 に お い て 認 識 さ れ て い た 。 こ れ ら
漳州 窯 系 陶 磁 器 は 既に知られているように 16 世紀末から 17 世紀に か け て の 遺 跡 で 出 土 す る 。 本 稿 が 対 象 と す る
「金沢城下町遺跡」においても例外ではなく、
州 窯 系 陶 磁 器 の 出 土 が み ら れ 、 ま た 、 近 年
漳の 近 世 遺 跡 の 発 掘 調 査 の 増 加 に 伴 い 資 料 が 充 実 し て き て い る 。 そ こ で 、 そ れ ら の 資 料 を 用 い た 編 年 案 の 提 示 、 景 徳 鎮 窯 系 陶 磁 器 と の 出 土 比 率 の 検 討 を 行 い 、 金 沢 城 下 町 遺 跡 に お け る
漳州 窯 系 陶 磁 器 の 変 遷 を 明 ら か に す る こ と を本稿の目的とする。
本 稿 で は 、 第 一 に 、 生 産 地 で あ る 中 国 福 建 省
漳州 地 区 の
漳州 窯 系 窯 と 製 品 に つ い て 概 観 し 、
漳州 窯 系 陶 磁 器 の 特 徴 を 定 義 し た 。 第 二 に 、 そ の 定 義 に 基 づ き 金 沢 城 下 町 遺 跡 に お け
、 る出土品から抽出した
漳州窯系陶磁器を用い 編 年 案 を 提 示 し た 。 時 期 区 分 は 共 伴 す る 肥 前 陶 磁 器 の 様 相 に よ り 、 Ⅰ 期 か ら Ⅴ 期 に 区 分 し た 。 こ こ で は 、 各 期 ご と の 、 器 型 及 び 組 み 合 わ せ の 変 化 を み て い く 。 同 時 に 、 既 に 発 表 さ れ て い る 各 地 の 編 年 と の 比 較 を お こ な う 。 第 三 に 、 景 徳 鎮 窯 系 陶 磁 器 と
漳州 窯 系 陶 磁 器 の 出 土 比 率 を 各 遺 構 、 層 位 ご と に み て い く 。 計 測 方 法 は 接 合 後 の 破 片 数 計 測 で あ る 。 比 較 対 照として大坂城での比率もみていく。
以 上 の 分 析 を 通 じ て 、 得 ら れ た 幾 つ か の 知 見 を 「 ま と め 」 と し て 第 5 章 に 記 し た 。 す な わち、Ⅰ期( 16 世紀第4四半期)では、大坂城 に お け る 同 時 期 の
漳州 窯 系 陶 磁 器 の 様 相 に 較 べ 、 や や 前 時 代 的 で あ り 、 景 徳 鎮 窯 系 陶 磁 器 との出土比率も低率となっている。Ⅱ期( 17 世 紀 第 1 四 半 期 ) で は 、 出 土 比 率 を 大 幅 に 増 加 さ せ 、 大 坂 城 の 出 土 比 率 に 近 い 値 を 示 す 。 器 型 に 関 し て も 、 大 坂 城 で 新 出 す る タ イ プ が 時 を同じくして金沢でも搬入されており、また、
同 時 期 の 大 坂 城 の 様 相 に 類 似 す る こ と か ら 、
Ⅰ 期 に み ら れ た 大 坂 城 と の 格 差 は ほ ぼ 解 消 さ れ た と い え る 。 Ⅲ 期 ( 1620 年 代 -1630 年 代 ) で は 、 さ ら に 器 型 の バ リ エ ー シ ョ ン が 増 え る 。 城 下 町 に お け る
漳州 窯 系 陶 磁 器 の 比 率 は ほ と ん ど 変 化 は し て い な い 。 し か し 、 金 沢 城 に 近 接 し た 遺 跡 と 城 下 町 の 生 活 遺 跡 で は 様 相 に 格
。 ( )
差がみられるようになる Ⅳ期 1640 年代以降
で は 、
漳州 窯 系 陶 磁 器 の 比 率 に ほ と ん ど 変 化 は み ら れ な い 。 器 型 に 色 絵 の 碗 が み ら れ る 。
Ⅴ期( 17 世紀末)では、良好な資料が得られな か っ た が 、 中 国 陶 磁 器 の 輸 入 割 合 か ら 推 測 す ると、伝世品の可能性が高いといえる。
本 稿 で 提 示 し た 事 柄 は す べ て 、 事 象 の 追 認 で あ る 。 そ れ ら を 通 じ 、 多 く の 疑 問 ・ 課 題 が 残 さ れ た 。 一 部 は 本 稿 中 に も 述 べ た 。 事 象 の 把 握 は 、 研 究 の 第 一 歩 で あ る 。 今 回 、 第 二 歩 目 で あ る 、 そ の 「 要 因 」 に つ い て 、 回 答 を 何 ら 用 意 す る こ と が 出 来 な か っ た 。 ま こ と に 残 念 な こ と で あ り 、 筆 者 の 力 量 の 無 さ を 痛 感 し た 。 よ り 多 角 的 な 視 点 に よ る 検 討 の 必 要 性 を 感じている。
鉄剣の副葬 鉄剣と鉄刀の共伴関係から