ダリン・テネフ
「猫、まなざし、そして死」への応答
大 杉 重 男
非常に興味深いお話を聞かせていただきました。私は日本近代文学を専攻してい ますので、デリダを起点とすると同時に終点にもした「猫」をめぐる世界文学的系 譜学の中に漱石の『吾輩は猫である』が位置づけられるのは、とても刺激的な視点 だと思います。すべてを理解したとはとても言えませんが、猫の視点から書くとい う何重にも不可能な行為についてのテネフさんの分析を聞いて、漱石のテクストに おいて「猫」と「まなざし」と「死」の主題が緊密に関連していることに気づかさ れました。ただ今回のご発表ではデリダ論が中心で、漱石については必要最小限の 言及にとどめていらっしゃるように思いましたので、補足的に漱石のテクストにお いて猫がどのように表象されているのかをふりかえって確認しながらコメントさせ ていただきます。
まず今日のお話を聞いて、私が思い起したのは、『吾輩は猫である』の七章で、
猫が洗湯を覗く印象的な場面です。テネフさんもお読みになっているとは思います が、ここで猫は男湯を覗き「絵にもならない大量のアダムたち」が裸でいるのを目 撃します。これについては今日のテーマの起点と言える、裸を猫に見られるという デリダのエピソードと比較するといろいろなことが考えられそうだと思いました。
たとえば洗湯を覗くに際して猫は、衣服を着ることによって服装の動物となった 人間は、逆に裸になると「猫に劣る獣
けだもの」になると言います。これに対して猫自身は 脱ぐことのできない「毛
けごろも衣」を着ているために裸にはなれず、従って「獣」にもな れません。「動物」より「人間」の方が「獣」であるという論理を展開するために、 「毛 衣」という奇妙な形象が提示されるのですが、この「毛衣」とは、裸でも服でもなく、
「まなざし」を攪乱する非常にあいまいでオブスキュアなものです。『吾輩は猫であ
る』九章の末尾で、猫は「読心術」を発揮して主人の心の中を読むのですが、その
方法は、肉眼で読むのではなく、毛衣を主人の腹にこすりつけることで「心眼」に
主人の心が映るというものであり、ここでは「毛衣」そのものが「まなざし」となっ ているように見えます。このエピソードも、今日のお話にあった見ることの不可能 性としての盲目と認識との関係に関わりがあるのだろうと思いました。
またデリダの猫は雌猫であり、猫と女性とは伝統的に密接な結びつきがあるとい うお話でしたが、『吾輩は猫である』の猫は牡猫です。更に言いますと、ムルも牡 猫であり、ブランショの猫も牡のように見えますが、語る猫は牡であり、沈黙する 猫は雌であるというような一般化はできるのでしょうか。
ただ『吾輩は猫である』の猫は、ムルらとも異なった特異な位相を持っています。
そのことを端的に示しているのは冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだ無い」とい う文章です。テネフさんはこの文の後に続く、人間が猫によってはじめて見られる 場面を非常に象徴的なものとして取り上げていらっしゃいますが、「名前はまだな い」という言葉については、引用されるだけで、特に解釈はされていません。しか し『吾輩は猫である』が猫の「自伝」であることを考える上で、猫に名前がまだな いということは注目すべきことではないでしょうか。名前がないのであれば猫は自 分の書いているこの自伝に自分の名前を署名できないはずです。しかし署名のない
「自伝」とは何でしょうか。しかもこの猫は単に名前がないだけではなく、名前が ないことに自覚的な猫であり、名前がないのに有名になってしまったことに自覚的 な猫です。『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の日本語版が出たので早速 買って読んだのですが、その中でデリダは、創世記を引いて、動物というものの悲 哀、喪失、メランコリーを、名付けることのできない無能力に、見ていますが、名 前をつけられない漱石の猫の語りにも、そのユーモアの影にいつもメランコリーが つきまとっているように感じられます。
私はこの名前がないということを漱石の文化的なアイデンティティの分裂と結び つけたい誘惑を感じます。今日のご発表で、漱石文学は名誉なことに西欧文学の伝 統の一部に加えていただいたのですが、名前のない猫は果して本当にその伝統に十 分に属しているのか。漱石が『吾輩は猫である』を打ち切る一つのきっかけとなっ たのは、それが「カーテル、ムル」の模倣ではないかという指摘が出たことがある とも言います。実証的にどうあれ、この猫はムルより自分を劣った存在であると自 己定義しているのは確かであり、そして猫に名前がないことはこの劣等意識の象徴 ではないか。この猫は名前がないことで、オブスキュアな、日陰者的存在であり、
それは西欧文学の伝統に対する日本近代文学のオブスキュアな、日陰者的位相を示
しているのかもしれません。『吾輩は猫である』に登場する「吾輩」以外の猫は、
三毛子、黒、と名前がついていて、その名前の付け方が、落語に出て来るような伝 統的な日本文化の伝統に則ったものであることも興味深いです。名前のない「吾輩」
は、西欧文学の伝統に対しても日本文化の伝統に対してもオブスキュアな、よく見 えないはっきりしない存在であるとは言えないでしょうか。
このオブスキュアな性格は、猫の性についても指摘することができます。すなわ ち『吾輩は猫である』の猫は「吾輩」と自分のことを呼びます。テネフさんは “humble I ” とおっしゃいましたが、実際「吾輩」は英語ではIと訳されるのが通常のよう です
1。しかし日本語の「吾輩」は決して humble なIではなく、日本語の沢山ある 一人称の中で最も男性的な一人称の一つです。それを男性的ではない臆病な猫が使 うことに、 『吾輩は猫である』の最初のユーモアがあるとも言えます。この猫は「吾 輩」という過度に男性的な一人称を使うことで、自身の西欧的な意味でも日本的な 意味でも「雄」らしくない本質を隠蔽すると同時にあらわにしているのです。
この猫の性的なあいまいさは、猫が裸の男たちを覗いても羞恥を感じない(それ は裸の男たちがたとえこの猫に見られていることを知ったとしても羞恥を感じない であろうことと鏡像的に対応しています)ことにも表れていると思います。雄猫が 裸の男たちを「覗く」という行為を、性的倒錯とは無縁の恥ずべきものが少しもな い健全さにおいて描写することは、漱石にとって裸を見たり見られたりすることが、
デリダの羞恥体験とは異なっていることを示しています。これはもちろん一面では 当時の日本の検閲制度との関係を考える必要があります。猫が女湯を覗く(『吾輩 は猫である』の発表より少し後に逮捕された「出歯亀」という有名な性犯罪者は、
女湯を覗く常習犯だったので「自然主義」に喩えられました)場面を書くことは漱
1 漱石は一九○八年五月一七日の日付が付された〔ヤングに贈りたる「吾輩ハ猫デアル」献 辞〕において、ヤングという人物(アメリカ人と推測されている)に対して次のように書い ている。「Herein, a cat speaks in the first person plural, we. Whether regal or editorial, it is beyond the ken of the auther to see. Gargantua, Quixote and Tristram Shandy, each has had his day. It is high time this feline King lay in peace upon a shelf in Mr Youngʼs library. And may all his catspaw-philosophy as well as his quaint language, ever remain hieroglyphic in the eyes of the occidentals! 」(『漱石全集』
第二六巻に拠る)。この献辞は、漱石が「吾輩」という語を一人称複数の “we” に相当するも のであると考えていたことを示している。“we” は王の自称でも、新聞論説文の一人称でもあ りうる(Whether regal or editorial, it is beyond the ken of the auther to see)。しかし『吾輩は猫で ある』の英訳者たちは、漱石の意図を無視して、「吾輩」を “I” と訳し続けて来た。それは『吾 輩は猫である』の話者である猫を、ガルガンチュアやドン・キホーテやトリストラム・シャ ンディと同格の「猫の王」(feline King)に見立てた漱石のユーモア(と同時に西欧文学に対 する日本人としてのナショナリスティックなプライド)に対する否認でもある。