――目次―― 1,日本石器時代民衆の女神信仰,鳥居龍蔵,Ryūzō TORII,pp.1-20. 2,仏教史上より観たる日鮮の関係,手島文倉,Humikura TEJIMA,pp.21-42. 3,切支丹宗門改めの心理,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.43-66. 4,源氏物語中の宗教観,秋庭萩江,Hagie AKIBA,pp.67-94. 5,学界彙報,pp.95-99. 6,新刊紹介,pp.99-106. 7,木村博士著『原始仏教思想論』に対する諸氏の所感と批評,村上専精/渡辺楳雄,Sensei MURAKAMI/Baiyū MURAKAMI,pp.106-109. Posted in 1922(大正11)年
仰倍醐女の衆民代時各石本月
鳥 居 龍 蘇
我が日本の石器時代︵アイヌ族︶民衆の信仰して屠つ咋宗教は、抑もどんな種類のものでぁ ったであらう?、此の疑問に勤し津田敬武氏も﹃神道起原論﹄に於て、其最初の章の朗で之を 紀るし、また出口米吉氏︵東京人類撃雑誌等︶等も、彼等の残した石棒に裁て之を論じたこと があ♭まし佗。私も今魔で彼等の宗致観の︼つ二つを記して見たい。 私ほ彼等の宗教思想を、其の遺物の上から考察すると、所謂比較宗致壁上で卦琴する 欝ti・ 数旨︵Amini旨︶−岩temi芦も、勝たSh昌呂i旨なども存在して居る楼であるが、是等の紙話 した概論様のものは、何づれ之を他日に述べる事として、嘉には食も英知かなものに就て、昏 て見ようと息ふ。日本石器時代民衆の女癖信仰
−・ユ....__浪六十鮮 卑四鰐 兼併敦轟
H日本石器時代女帝の土偶
●● 私が彼等の遣物に放て、兜づ第一に鼠の附くのほ、彼等の製作した土偶の多数にある弔であ b︰ます。而して是等の土偶によく注意すると、男性︵茅−e︶よらも女性︵慧m已e︶の方が比較的に多いっ否な殆んど女性のもの許わの朗もあゎます。私は是等の串驚から彼等の土偶は男性
よむも寧ろ女性の方を多く作った串が推知せられます。這は箪に土偶のみならす、彼の厚手泥
土器の特有である前面把手の如きも殆んど重く女性であ王∵ます。加之、彼等の掩した土盤の表
面に割せられたるSe拍の如き、叉殆んど絶てが女性であら旦㌔さうすると雷時の民衆は両 性を平面に刻する場合も、又立魁の人後−曾作る場合にも女性の方を表現するを、頗る好んで居った串が知れませう。
彼等が斯くの如く男性の形よぅも、女性の形を作って居るのほ、抑もどんな理由に拉でゞあ
ゎ;ませう9・私は︼般未開人や其の他の例から推しまして、這は暫時彼等の問に盛に女帥信仰 ︵句。巨l巾diく㌻itユ の行はわ霊伸几小、斯く多数なる女形が、土偶や其他の物に表現せらるゝに至った串と忍ばれます。
・・・・・一− 2 ■・・−・仰倍耐女¢舐艮代埠器石本IJ
私は之れの詮蝮として、嘉に賓際の女紳土偶を一つ二つ試に撃げ七見よう。餌ち左は陸奥団
西津軽郡館岡村から侶た土偶で、顔面部ほ駄現して無いが大さは約六寸六分あら、這は株櫨で
手が訣損して無くなつて居ちますが太さは五寸あらます。其の乳部が甚しく突起し、腹部が又 庫 一 群 あつて、腰部にサ ルマタをはいて罵 るのみです。乳弥 の甚だしく大きh仏 工合から明かに女 性である罫を知れ ませう。 ︶ 次はHの土偶 ︵ で、出所は常陸凶 稲敷柑大須賀村、 之れも西南部と爾 ーーー こ㌢ ニニふ故六十節 年四節 究耶故窺 頗る出張って居るのから見れば、之も明かに女性を示したものでせう。 うが、其の多くは宗教上のもので、殊に以上の土偶の如きは、皆時の信仰上の醐像であト︰ませ う、這は殊更に乳部を甚しく突起さし、駁部を蹴る肥満せしめ、陰部さへも現はして居るの 陶 二 第 偶土見訪陛■ご;ミ’ 斯くの如き材料 を醤げると中々多 いが、いづれも大 同小異であらます から、嘉には単に 右二個の女紳士偶 の例を示しまし 。 彼等の土偶の中 には、問より子供 の玩具もあらませ − 4 −
仰信紳女の衆蛇代時碁石本日 で、何物かのジムポルである事が知れます。そして期んな形状が、未開人や舌代の遺物の女紳 像にあるのでも、一層之を確かめる畢が出家ます。文化の駿達した人間から見ると土偶山如き は玩具の枝に見えるが、東関人や原始人には其れは多く紳像になつて居ります。私は是等勅語 斯から之を紳像、殊に女帥像とするもの一で、彼等は常時之を信仰し、之を宜押し、従って紋等 ほ之に按で、何事をか所願したものであると存じます。
0日本石器時代女神の護符
土偶に次て彼等の製作品中、注意すべきは土盤 ︵C㌻y叶≧eエであ、ります。此の土盤は左の 囲の様なもので、物質は寄ら土製で其の形状は概ね長方形または小判形で、上に孔の闘いて居 るものが多い、そしで表面には蔚而や衣服や其紋様などを刻して居わます。 此の土盤は何に使用し化ものである? と云ふに、這は雷時彼等山意歴訪軍曾遊ける馬めの 一種の護符であつて、其孔の開いて居る方は之に紐を通して胸に附け、又孔の無い方の物は之 を懐中するとか、或は藍や袋の中に入れて常に所持するとか、或は家の内に安置したものでせ ぅ、即ち士盤は土偶に於ける如く、一種の神像で、糾私威力のあると信じられて屠ったもので ∂ 二丁薮六十終 年四節 究軒数琉 丁、、... ビ︻−暮しT:, ぜβ “ヽ ーダ せうむ這︰.ェ﹂鵠で申少、ヱゥが他に石 もみ、nノ、叉木の其れもあつ克であら 、予∵ごごつ/ 此の土偶に封せられて居る間桟を 見るに、抑々和賀なつたものがある 土 撥であ・?ますが、要するに、其損初 のら一=ほ人の⋮以南、基地∵示したも ので、之︰h稚かに沌符い糾、基物を 盤・現はしたらのです。之が段々婁化し て沌々に同化せられ、紋標化せられ、 畏彼の鐸形したものは、最初の榊像 と一見関係の無い様なものになつて 仕舞って屠らます。けれども此の点 初の抑揚の物と最後に拉端に違化し ・一−・・− β −.−
仰借耐女¢東民代時碁石本日 た物の中間物を遣いて見るとt全く連絡して仕簸ひますから、錘ち足寄が同一のものであると 云ふ串が知れます。斯くの如き誼祐の寝化は、今日の其れでも知る事が出凍まして、慢令ば守 札等に塞かれた間違や文字が、諾々に⋮咤形して居る串質に持ても知れませう。 以上の護符の家督に刻せられた人後をよく見ると、又殆んど隷て埼東沖でおります。今滋に 示しょした其れで見るも、女性を現はしてはる事が分・りませう。そして此り土ほ上に表現せら れたものは、比較的オジデデルの護符の閲桟と思はれます。即ち這は頭に帽子或は王冠の様な 物を戴き、容貌は柔和なる女性であーりまして、其他は衣服や其紋様を示して屈むます.此の帽 子、王冠標の﹃山.出字形のものは他S土盤を見ると柘々に担形を毒して務ます。 昔時の護符の紳像が女性であるのを見ると、どうしても又土偶の女性と闇係一官有する串が知 れますぐそして叉護符の紳は明かに女所︵若亡l已c diくi已ty︶ であります。果して然らば此り女 紳は土偶の女神と同一の紳であつて、︼方は土偶として立憶に作り、一方は摘帯基地に根羽な 強めに、薄い長方形り続形に作つたもりであるか、這は哀・今の厨では′1−りとも咋lす挙 が出水ませ んが、只だ土盤S護符糾が女紳であると云ふ事は確かであります。 成嬰者は土偶と土嚢と登く同一のもので、其の車間の物がゐるから粂く連涼して止舞ふと申 ー 7’・−
披六十券 年四弟 先軒数余 ますが、私は之と反射で、土偶と土盤とは、もとから明かに別物で、土偶は紳俊英もので主と して家の内またほ岩上、樹下、其他に安置したもので、土盤は、寄ら自身に携醸した\もので すへlノまた使用▲S黙が互に異なつて居らきす。尤も両方とも人像意匠であるから、此の黒から云へ ば、︼寸同じ物の楼でぁるが、這は単に人像園楼人の形であると云ふ上からの茹で、其土偶=紳 像、土盤=、携帯護符と琶別せられて居るから、其の目的に於て大に異なつて居る事が知れま せう¢
①日本石器時代土暮に存在する顔面把手
次に厚手沃土器の土器の把手に節面︵或は人形︶を現はして居るものがあゎ=ます。這は餌ち 左のものが之れで、大さは擢七寸、境六寸八卦ばからで、擬見地は信濃国諏訪であります。 之れも明かに女性であつて、其結髪、装飾の工合でよく分かむませう。這は現に﹃顔面把 手﹄と申ますも、此の土器が破視せす完全でありますと、其山土器の胴部は衣服になつて居っ て、即ち土器其物が︼繹の女性の立随一軍明かに示して居わノます。彼辛が土器に斯くの如く女性 の人像を示して居るのほ、之また紳私的な考から凍て居るもので、此の士舘は他の賢用品とし ー ぎ ー・−・仰信紳女¢衆民代時給石本日 因 四 諒 てよらも、要用以上、何か紳私的Ill 某致上の色彩を有し、之を宗教上の 俵式の際などに使用したものである まいか。斯くの如き例は他の未開人 にもあト=まして、近くはアイヌの熊 郡 祭の際の器具、乃至はギリヤーク、 宙 ブタド、マングソなどの宗数的儀式 把 の際の器具は特別な帥私的な彫刻を 事 施して居わます。私は厚手派土器の 顔面把手のある土器は斯くの如く見 7︼ ヽ 0 ナ、し 兎に角之にも女性が現はされて居 るのは、彼の土偶や土盤の例と同じ く、等しく此の女性ほ女紳と関係を −・■・・タ.・・−■−●
胱六十弟 年四茹 先師政論
有するものらしく恩はれきす。
㈲女神信仰ほ種族的P 群族または家族的・民族的P
以上の如く女紳︵苧己諾肌︶の表現が、彼等の遺物の上に存在して居るのから考へますと、雷 時彼等の間に女輌信仰︵C−1“t。¶GC︵≡窪︶の行はれた串が推知せられます。けれども揖に注意 せねばならぬ事は、此の十和信仰に机串に或最られた家族︵勺⋮〓ユまたは、限られた或氏族 盲a。︶の様な、狭い間にのみわはれたものである? 指た践家族や、戎氏族よりもモット景い 大きな部族、部族︵㌘・⋮−ユの㍑なmに行はれたのである? 碕ほ一層貴い柁族︵学資︶の間 に行はれセものである? 之は葦つ大に椚究して見ねばなゎません。之に放て考へねばならぬ郡は、常時紋章に部疲や群旗があつたか否やゥ・の問超であゎます。
此の閉篭を解繹するには、どうしても柁等の遺践造物の状態から推考せねばなりません。
鹿づ彼等の土器の上か、と試ふと誓丁派某ポ、薄手沫兼帯、乃至は出奥派蓋小冊の三派は存在し
て居h=ます。そして這は又他のものにも各々特色があ、ワます︺忍ば此の三振は、群鉄山相違と 思ひます。しかし各群は.各々同じ氏族であります。 ー JO −・仰借押女の衆民代時さ右手持 第一土偶の存在分布の状態は如何?・と坤すと、土偶の卦布は三河以来、関東や甲州信州に及 び更に、奥羽北梅迫の闊部に及んで居らます。一方飛んで備中にあト︰ます。さうすると女紳の信 仰尊挿は決して成限られた家族や、或限られた氏族のものでなく、殆んと彼等種族の間に行はれ 光信仰の尊挿と見ぬば行7ク、ません、餌ち明かに女神信仰=奪揮は彼等の大きな∴Pib已re−igi− Onであると申てよろしい。 次に女神護符の信仰笛域は、如何?・と申ますと、帥ち土庄存在分布の罷域は土偶の其れほど 虞大でなく、翠範飼は関東から奥羽であゎまして、関東でも武減、常陸が最も多く、他は出へu い併もあh︰ます。又甲州信州は殆んど存在せず、三河、遠江等又之が一つもあ、りません。さう すると此の土製護符の行はれた尾域は狭少であります。而かも之れが存在する場所は、主とし て開東では、薄手沃土器の存在する所のみで、厚手沃土器の春泥する夙には殆んと無いと巾て よろしい。奥羽には所々に之が存在して居ります。さうすると、此の女紳造符の行はれた範囲 グループ は群族に限られたものであらう? 這は他日の研究を要する問題であるが、兎に角基分布ほ土 偶の女紳よぅも院域が狭い聾は明かでぁゎます。 更に顔面把手の女紳約色彩の術はれた霞城は、之れは全く厚手沃土器山群にのみ眠られ托も ■−−・・JJ一−−■−−
奴六十弟 年内夢 先軒数鏡 ので、即ち信巌、甲斐、武顕或は岩代等であらますから、這は厚手択土器の紳恕的の物鰹であ h︰ませう。 是辱の土偶 − 土怜T−よ琴南把手土器等を総括して考へますと、いづれの黙からしても、雷 時彼等の間に、女紳信仰のあつた事ほ明かであゎ︰まして、之れと共に彼等の間には女権︵害○旨rl ユgl丘、母系主義︵M旨r邑ki−1数p︶、婦長制度︵呂賢i⋮喜i・y︶等は、存在して居らなかった9・ 這は典に研究の歩を進めねばなゎませぬ。 タイラー氏︵J¢︼声芦Tyler︰芦e欝wSぎeAgeiプぎrこ1e⋮El−岩冨−諾−︶は英語に、 ﹁女神の信仰は新石訴時代の特徴なら﹄と云はれまし光が、日本の石器時代の民衆も亦政信仰 があらます。 ヽl/
伍歓洲古石器時代の人形
バレチリシック 飲料の台石器時代の、主としてオクリナセアン期︵A象gnge21︶、打ち馴鹿時代には、石製ま たは象牙製の人形が存在して居りますが、是等はいづれも女性であわまして、其の容貌、乳部の 突起や腹部の肥捕、さらに野郎の発達等の如きを示し、女性の特徴をよく現ほして居ト=ます。 ●−・−_jg −何倍紳女¢衆民代時碁石本日 闘 五 弟 形人位女代時器石甘州取 是等の人形は浣致上の物か、路穴︼ 梓の意味なく作ったものか知れない が、是等の人形は、よく偶然にも我 ネオリシック が園新石器時代の土偶の女紳と、よ く似て居hてます。そして互に女性を 作る事を好んだものもよく︼致して 掃わます。
㈲歓洲及びアナウ
の女神 今試みに育代欧罪巳及び西韮細正 方面に於ける女紳信仰の革質一軍毘に 一寸参考として番いて見よう。先づ クレト㍍のミノアン時代遺物の中に ●・−■■・■■Jβ ■−−■読六十ガi隼田節 先研政宗 女紳があゎ′ます。エジプトでは・訂i∽女糾と其仲間のC賢乱があ・ります。女郎の信仰は小訂 加重を通過して戯くゎはれました。仮令ばヂヰナ釦㌣bエフシャンスに放けるArぎi扶も之れ、 ァナトⅥノアでは、巴⋮:プット大女和も之れです。極充アクルタにも此の信仰が行はれ、吏に鎧
するものであらます。此の
ァナウの女紳は正に示す固が之であつて、這は日本着器時代の女神と、偶然によく似て居るで
はあちませんか。相ほ極めて古き時代に、ダ三−ブ、バルカン、ツロアド等からブタギアのエーゼアン殖民地等にかりて女紳の信仰が行はれて拭わました。
闘 六 郎 偶土打女りサブ・ア 西揖トルキスタンのアナク にも女糾信仰があらまし た。此の後部は女榊像むむ って、這はパムペリー氏が ・ソナで穏表せられまし∴。此 りアナウ・S女紳は、地中揖 方面の其れと注い闘係を有 ー Jムー仰信跡女り衆托代時券石本日
原始的の女紳倣及び之に件なつて、ギリシア式の彩色㌧た土器、撮旋形紋様の三串項が等し
く新石器時代に、東南欧雁巴の各地方に準﹂行はれ、ま托是等が芽女yee壷n及びぞceコe昌 両時代にかけて、地中海の束部沿岸に行はれて居った穣です。バットミル︵サラゼポ、ガスー︻ ァ附彗、七夕サルクックTpヰ︶の間に、以上の遺物が発見せられよした結果、藩に彼等地方に其の常時、互に前ヘレニック人とケルト人との間に、交通の邁の開けて居った事が知れま
した。即女紳信仰も従って分布して居ったのです。
東部欧應巴小童油虫の或地方や、さてほエジプトでは新石器時代、文化の頗る強い色彩ある
中心黙であつたらしい。佃ほ締れには、北方のボヘミアや、ブタンジアに其痕跡があhソ▲ヱす。 ベラスジックア1アンでは、女神アテナは常に高い位攫に立って居わ、ヘラやベラスギでほ、大女紳となつて居わょした。彼れ征服者アケアン人の侵入と共に、彼等の食違共は土地の女王を
嬰つセ括果、ま柁其宗致上の信仰は︼挺し、帥ち彼等の男紳ジュースは、土地の東沖と結婚し
まして、最初の信仰思想は消失しました。
更にギリシアと地中海讐序との舌代の信仰に託て串ますと、俸蘭西の海芹を越え北方に行き、
イギリス及びデンマーク︼苛、郎ち考古撃上の所謂巨石通院︵だeg已夢iO察︶n音名且の存在 ■− ヱざ ■・・−・・節 四 年 節 卜 六 戟 究群=改宗 する地帯は、殆んど嘗瞳︼民族の任皇つて居つた横です。そして此の地帯た於て女神︵句e巨巳e せ‡︼liギ︶ の小像︵ヨgl已−戻︶や、基彫刻しゎh物が螢見せられます。此の女画布在の撃賢から、 是等の地方は立た地中海方面と連接せらる㌦ものであゎますノ。けれrしも束庸歓迎巴のダニユー ブ渓谷の周園の地方︵クク一寸ノエ、デヤプラニカ等︶に女紳の小腹は極めで少ない。
以上に披て見ると、地中海を中心としてヤ京女右に古い督に女紳緩仰があつで、其シムポル
として女神像が作られ軍事は、殊に注意すべき畢であむませう。
㈲日本の女神と歓洲及びアナウの女神
我が日本の石器時代の民衆には叉女神の土偶︵或は右隅、木偶︶土盤等があゎます。斯の如 き新石盤時代に於ける普時に女神の神像︵よしんば玩具としても︶の存在する場所は、朝鮮、 砧洲、東部並地利鱒.支部等に於ける同時代の退物には之まで認見した串は無い。さうすると 是年女紳像︵男紳としても︶の存在は賓に我が日本の退路のみであわます。そして此の女糾信仰及び女神像の存在は不可思議にも、中央由油壷のアナクから共以西の地中海及び欧維巴の或
地方︵互石造既存在地方︶の其れと最も類似して屠うます。加之、日本の石器時代の紋様に螺旋 ・− Jβ −−仰借醐女の衆民代時さ石本日 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ︵S冨已︶紋様や赤色に彩色した土器︵PP㌻ted p。t誉ユ がぁかょした。是等の革質及び状騒は 互によく似て居かます。欧洲の学者は.以上の地方で女神信仰の行はるゝ所には、必ず之に件 I、uつて螺旋紋様と、彩色せる土器とが存在し、此の三者は亙に経る可からぎる開係を有すると 申て居h︰ますが、日本にも此の三者が件なつて居らます。殊に日本石器時代、民衆の螺旋状紋 様は、日本附近の同時代民衆の紋様に無い。是等はいづれも幾何撃的紋様であゎノます。さうす ると此の三熊の革質は、日本附近の語地方よらも反って、アナク及び其以西の欧麗巴地方に草 似黙を有って居b;ます、道は吾人の大に注目せねばならぬ所であゎます。 ヽl一一′ 比 結 論 女神信仰の起るのは地母︵苧rt一︰コ互︸leユに閥係一官有します。餌ち這はg叶h−くege訂tiOn乃 至は苧tiliギの翻靂の活動を食信するもので、慣令ば彼等は収獲を枕持するとか、秋冬が死ん で春陽が再び現はれ生る∼とか云ふ極めて幼稚な思想を形成するもので、之れやがて原始的宗 教となるものであらます。そして原始人の敢骨では尊はら女子が地上の植物性収猿から日常の 革までなし、男子は尊はら狩猟と敬啓にのみ.に従事する、ですから女子には土地や土地から生 ・−・・・・J7.・・・・・._
蚊六十弟 年四霹 先折政兼
するものに最も深い流儀が出来るのみ㌍ら卒、之と共に子供密度み叉之む育つと云ふ滋しみも
ある諸熱から原始蔽裔では、どうしでも男子・エTリ=石女子に総ての番が抗しみがわります。殊に彼女の紳詔的と土器作や常時の手仕事、手細工をする上から、遂に知らず減らやの上に、女性
は男性−㌣り偉いものと汀㌻り、之が以上の地上のこ切の天然物、出産、育児等と結び附き、さてこそ女紳の信仰が出家たものであゎます。そして這は幼稚な果菜なるも¢が始めらるゝと、︼
盾其色彩が濃厚に弦つて務ます。
熱ヱ原始散骨を見ると、女子は今日よりも比較的高い位置に立つで居ります。即ち最初の大
概の発見者で又創作者ほ彼女であゎます。奴等の家内の技術や職業の東風着であつで、また創
作者であゎます。彼女は最初の紡績着で、よた稀物師であらます。彼女は精巧な土器作りであ
ります。彼女は最初の本草聾者で、家内の昏着であります。巫人であります。彼女は子供を産
み、また之を養育します。彼女は男子り狩猟で動物性食物を捕ふるが如く、深林に這入って植物
性食物を取ります。また此の植物果貸を鵜ゑたゎ、木の棒の先で盛業をもしきす。之れが糾作
もしますから又澄夫であゎこます。又牧猿物や器物などを交換するもまた彼女の務でゐむます。
斯くの如く原始人の女性は殆んどすべての職業をいたします。されば従って比較的機敏柱頭脂
・・−−・・・Jβ−■−■−仰借紳女の衆民代時さ石本日 の所有者であゎます。 初歩農業の成立ほ、一層出ぎ已=莞呑erの信仰となつて務ます。そして這は土地の総ての果 賓や、恐らくは絶ての生活︵A亡巳且、絶ての出産︵Birth︶を輿ふるものを考ふる串に打て?ま す。這は女紳を生み、之れの信仰と行アク、此のシムポルとして土偶などが出家、何之れが護符 であゎ、女紳意匠ともなつたのであゎこませう。 此の革質から考へて凍ると、我が日本石器時代の民衆は、従って 謬rこ1圭Ot訂r の信仰があ ったものと思ふ、そして女子は今日に残して居る土器作りの主人公として、貸に絶大の技巧を 示して屑わます。そして彼の女紳の土偶を作む、女紳の土製護符を作つ化ものも彼女であらま す。杏な恐らくは多くの製作品は彼女の手になつたであゎませう。彼等信仰の女輌を奉侍し、 且つシヤマン巫として従事しセのも彼女であらませう。 日本石器時代に於ける女所信仰は、何ほ他の之と附屈したもの︵女子の所有耗!融骨の階級 − 鰹絆上の位置等︶ と共に、研究せねば,、仏らません、けれども這はいづれ他日、自分の考を 凝表して見ようと思ひます。 ・−ブタ ー▼
係闘わ排日るナこ見リ エ上ぬ故俳
第五 高麗偶数と日本との関係
盟朝凡そ四官五十年間の件数は、正に爛熟し終れる異質の漸く階敗に近かんとする勢で、往
々、政治上の制限拘束さへ、頂門の一針として加へらるゝ様になつた串は前一言﹁孟が、然し
決して俄然地を掃ふの褒状を呈した謬ではない。否却て、件数的の事業に到っては基前絶後の
盛況を凍したと云って宜い。此の間、支那に在っては宋・元の盛事に雷♭或は入来求法の壁間肝
を流し、或は大束紆巷を請楽して梓行し、元代に摘んでも、紋よゎ氷って焉挺偲を高麗に求め
し者畢こにして止らす。賓に支部係数との交渉は依然として親密を保った着である。又、我園
儒教史上より見たる冒鮮の関係
手 嶋
−・クユ−披六十第 年四節 究軒数袋
に在ってほ平安朝・袋倉期から室町時代の初期に泊ぶ悶に相恩し、我が梯致界は今や漸く移入
漠故の陪代き草して日本たさ㌘∵ぐ・¥︻∵誉㌣学ご讐警£誓、㌫に賢し、汚誉異監・‖迂●祭酉● 良忽i猛然等多くの宗亀高徳を輩出し、︼見知何にも牛島備撃J姦交渉の如しと雄も、不思議にも此の間、晴々の由係は絶たれなかつた。其の最も重要なる老は、備付彼此社務の記銀と、
庶朝未†でり起れる活版術の教則、及び便法が苧こ牛島とを結合しだ事情である。且つ、暗合と
しても不思議に恩はるゝ穏の日監同額偶数内部の粁似は、偽封建骨の三富中心に最も臣昌を密
せる串で、或は寺に事し、或は宮中偶曾を修し、大煎経を供養し、第撞堅調拝の頻繁に行はれ
たる、質に此の時期ほど盛んな時はない。牛島は然らすと鐸も我国に於ては斯る形式方面の徒
らに昌降する裡から、棺桶的の票数改革者が現はる∼は督然である。 〓︶借て、日度肝の社家に放いて見るに、此の間に於ては、前代の何れよぅも交渉疎遠の形であり、且つ断片的の事件記蝕も此度は反封に、﹃高騰史﹄に却て多く残されて居るのは如何な
る繹であらうか。恩之、我国の偶数が漸く我が物と行了りつゝあつた焉めと、︼は宋元怖数との
関係が著しく凝達して居た食め、牛島方面が自然閑却されたのであらう。我国の入宋沙門とし
ては、将塞・騨照・園海・毒牙・安心・普門・折原・浮業・菜食・宗同等その他放怒に退なき程多く、
ー β2 −係獅¢鮮日るナ:見リエ上皮敦伐 宋滑の我に凍朝せる者、道隆・紹仁晶口寧等伺ほ歩くある。又、入元求法沙門としては、固慧・ 徳見・友梅・居中・印元工常習・本浄土善玖・宗然・元光・戚旨・可什・慧廣等の碩鵜飼ほ算に飴り元何 の我に在りし者、慧日・如智。子曇・弘官等望父決して寡しとし祝い。此等は単に日支関係の親 密を表明した一例に過ぎないが、似て朝鮮牛島と我が偶数との交渉.㍍比絞的昧隔された所以を 知るべきである。 牛島の記録に撮ると、高麗文京の三十年︵酉、一〇七六年、白河帝り承保三年︶十月に、日本 の紆俗こ十五人が、高麗の雷光郡に到ら、﹃食祀国王蕃、離成彿像.請赴京以献﹄とて許を得、 首都に赴いて偶像を麒じたと云ふ︵﹃高施史﹄九︶。同じく文宗の三十三年︵我が承暦三年︶十一月 日本の商客藤原其等も高腰に入わ、法螺三十枚、海藻三宮克を鼎王寺に喜捨し、以て王の食め に就香し化と停ふ︵﹃高度史﹄九︶。其の後七年宣宗の三年︵西、一〇八六年、白河帝の應徳三年︶六 月、貯義天、宋より高鷹に蹄朝し澤典及ひ経書一千巷を献じ、又更に遼・宋・日本より四千巻の 善を購集して、共に輿王寺い敢舟都監に於て悉く刊行したと云ふ ︵﹃東園通鑑﹄十八。﹃束史曾 綱﹄五。﹃束ぽ史略﹄六。﹃歴代朝鮮史暑曽一︶。越えて百三十年後、高宗の三年︵西、一二−六年、順 境帝建保四年︶二月には日本の肘、高麗に入って求法認修せる夢見え︵﹃高歴史蜜一十二︶後、後 − ゑ∫ −
批六十節 年四解 党群数涜 深輩帝の軍治元年へ西二二四七年︶には、歴滑法明なる者、我が闇に賽現せる事が停へられて居 る︵﹃日本洞上潮橙録﹄一︶。更に凡そ二十年を経て、元素の閏年︵啓二二大三年、抱山辟弘隻二 年︶六月、我が国の大使如眞、並に入来求法倍等、道俗二百三十人が牛島に漂着したと記して居 るが︵﹃高圧史聖一十五︶、前述の順塞・静照・園海等、入来沙門は此の前後社家して居るから、慣
令此等ではないにしても、同じ目的を待った沙門や商八等が、昔時の入来航路たる揚子江口か
明州かをさして行く途中、風波に漂はれた者と見ゆる。降って歴覗末、事柄元年︵西、一三七五 年、義満牌軍の八年︶、既修輿紡なる者我国に入朝しゎ“が、翌年我が抄門良薬と共に本間に同 行遼辟したと云ふ事である。又翌々年には我が沙門信弘も入監求法を企てセと停ふ︵﹃高殿史﹄ 育三十三。﹃東国文献備考﹄百六︶。然し、上家勢げ元彼此開国社家貯の停杯は殆んど卯でない。 伺ほ之に後る上一十除年、定朝未王恭譲の三年︵西、一三九一年、鼓清勝翠の二十四年︶十ぺ日本簡玄敢・造義。道本等四十鎗人高度に到つで方物一宮奉献し、臣と科して衷を白した串がある。
其の要勲は、彼らに魔王の徳を頗讃した着で﹃天地崇高而博虎、所以接戦蹄物也、日月臆明而
騰照、所以輝聾萬方也、孔孟本仁而租義、研以教養萬俗也、若此三者、古今窄有贅其功者也、
窃聞、高度国王殿下、徳普天地、耶遮日月、進藤孔孟、自舌及今、匹東武囲、草木禽獣、露紘
一 夕才一係防の鮮日るナこ見リエ上皮敦悌 宵其大恩大澤、未有輿殿下牽其功者也、故瑞應有威、踏風量詳、郊薮和鳴、伏念玄敬遠屠日下 実地、空陸空爆、堪不荒股、伯温啓千秋竃歳萬々歳祓﹄などゝ記して居る。恐らく野心注い義 満の底意を受けた着であらう。西山落日の恭譲王に頗徳Jで暑するは皮肉であれ、斯る不心付者 があるから日本の歴史に汚熱が書くことになる ︵﹃高歴史﹄匹l十六︶。翌年歴朝終末の歳六月、我 が国の使者復た高腰に入って減軽を求めて居るが、︵﹃高腰史﹄四十六。﹃東国文献備考﹄官六。︶ 十二月には、串良の国位滑鎚来朝し、倭璃の禁一ぞ乞ふたので、幕府は中津ぉして答啓を作成せ しめ、且つ藩允を答踵鹿として高麗に造はしたと停ふ︵﹃後鑑﹄首︶。此の頃から債鬼の狽板なる 胱、想見するに足る。要之、以上は凝胡桃敦と本朝との交渉紀文の概要であるが、支部に引替 へ此方の■疎遠となれる関係は大暑、明となつたと思ふ。其の到底、前代の何れとも比較になら ぬこと言・恕供花ぬ。 ︵二︶倭罵は既朝中世、嵩宗の初年から李朝建国の初期まで、我が北條民時代の初めより足利 氏の初案に及び、︵四、︼二二五!∵四〇〇年頃迄︶凡そ二百年間、牛島り海流を使易した着で、 其の盛んなる時期に在っでは、垂羅や慶餌。忠清三一道海逸の諸州、悉く其の難に遭ひ、茸州、蛋 峯等の地には、倭兵の城砦を築いて陵守し、市睦呼應して拾民を蒐易した串さへぁる。時には ・−・・・・・・−一夕5・−
年四弟 究軒数采 放六十茅 希女を絹へ従へ、去るに及んで放還する著さへあむ。寧島南部の速戊、Ⅵ漸く影を経つに到る轟 惨禍を被ったので、人民法泉の苫を訴へられし腰朝は、倭怒に依って基の末路を一宿近づけら れね有様である。倭篭の準備は高宗の十二年、我が後堀河帝嘉攣罪年︵西∴こ二五年︶四月に起 る。此の時、逸民の進んで牛島南挽を伎掠する者あら。又肥州松浦の某氏、封島り土民一竺訝駁 して戦艦を賭し、沙島に赴いて季へる串あゎ。金州熊洒の地∵偉観に躍ったので、高宗は朴寅 等ぉ目本に造し、修好を求め侵署を断たんを乞うた。是から以後、摺々と接湧を牛島に教搾す る者相次ぎ、太宰少武藤原賓範や、北條泰時の水ポも殆んど効なく、数十年後、文永・弘安の元蒐 起って後は、我が逸民、亦、報復酬健の魂鷹を練って、牛島に進むに至ったのである。始め倭 民の侵署するや、人物に危害を加へなかつ空か、藤原経光が衆と共に苗脛に投躇して後、金光 教のため誘殺されんとし、避難迂遠してーてりは、鎮西の人士大に激高し、入籍しては城邑を屠 ち、婦女嬰該を梨致し、惨事惜む無きに至った着である。其後、種村上帝の正平七年︵西、一三 五二年︶の蒐掠に於ても、駐兵敗残の後恭客土ほ怖れて、十六年金逸事√我国に汲し、国吉方 物を献じて冠侵を禁せられん事を乞うわ。詭給料軍我が南北陶郎紛乱あるに托して翻するや、 翌年京菜慶は自ら使を高取に致して答鯉し氾。 ■・・・−・クβ −
保菌¢鮮日るた見リ エ上史敦悌 然るに王師事鵬、使者を薄遇し佗ので我が遽民の怒を川見ひ、伎掠愈々甚だしくなつた。彼我 が後亀山帝天授元年には、前述の既修興砧及び座興儒等を日本に派し、海蒐の禁と修交の戟と を求むる研があつたが、義満その野謀を疑憫し彼等を獄に繋いだ。時に前述の辟化貯良柔あ♭. 其の潔白を註し冤罪の繹放を乞うに及び、絡署名めに放免し、翌年良柔と共に土物を添へて脛 朝に邁へした。其後安富常・鄭夢周等も我邦に凍位し、竃肪の雛を切に訴ふる所があつたが、 九州探題今川了俊は、夢周の博識洪阻を愛し大に歓待し、去るに泊んで麓倖・声明・安退位等数 百人を刷還した串がある。了俊は又滑信弘に命じ、軍を率ゐて牛島に入わ、蒐膳の侵盈を防が しめたが、殆んど無効に了つたこと前述の椋である。其後、脛賂朴居士等、防難に努めたが効 なく、漸く攫豊・李成桂の陸軍、郵地の海軍と相呼臆して最後の防戦を努むるに及び朴讃の封 馬暁星と金宗街の大軍蟄凍と粕待って、倭電漸く失勢するに至った。眈にして恭通モ降り李成 桂朝鮮を建つるに及び、京島主を介して大内義弘に通じ、修交を求めたので殆んど牛島沿岸の 難滑ゆるを得たのである。此等浩難の娘披は、我が適地に在、りしは云ふ迄もなく、又必らすし も無親鳥合の衆でもない楼で、九州の於浦・浣・大村・島沖。及び四置¢龍島・村上・家島等の諸家 族は、之が主動指揮者であつたらしい。而して短絡の目的が箪に物資徴収に在つ詑か、復習撥 ニ g7 ∵
読六十第 隼田弟 先軒数浣 憤につたか.、頼れにせよ係数上に及ぼした影響も少くない様に恩はるも。巳に一言しに如く倭
蒐の食め在家した恰もあり、今日牛島の南寧に見ても、各地り寺誌滑博等む中に、之に関する
多くの烙設を持って居る。係数的造物に就ても、今日牛島よりも却∴こし我国に、多く昏睡の遺
物を停へて居るのは、大部分倭蒐の路凍ではなからうか。傍像宣経朱;備具。梵鐘等は少なからす日本に停へて居る。宇佐八略や、播州尾上寺に在る窮郎鐘は、又頼る方法に依て冠兵の貰給
した背かも知れない。遠く金剛山蓮の僻像に就ても、もと、南方に有った者が債鬼の雛を避け
て、北に住持が荘撤した串を樽ふる者がある。倭冠も亦既朝係数衰魯の勢を助長した者と見て
よからう。伺ほ活字の俊明に放ては歴朝末、恭譲王の着であつ克と云ふが、少くも西洋に於け
る夫れに先立つ三十飴年前であつた串は、文化史上髭くべき進歩と云はねばならぬが、之に放
ては李朝に入って設明する串としよう。
終りに歴朝彿致の一端を怨ふ資料として、造物の牛島に現存せる二二古老に放て述んに、浮
兜専有塔及び願文の串は前に︼言したが、其の他では慶餌北濃頓輿に在る太白山洋右寺の無盈
譲殿を見る必要がある。之は木造建築の最古の着で、中に安置する阿膠陀併坐像は此の期の者
としては驚くべく立派な着である。両軸の脱清なると、扶座の姿勢と重く前代の者に劣らす、
一 夕β −係馳の鮮臼るナこ見リ エ上鬼敦例
我が天平期の系統を引いて屠る。無畳霹殿は建築と彫刻とり最を博へる者として第一に指を屈
して宜からう。叉、卒壊の永明寺は日清役で有名な牡丹壷の中腹に在るが、七盈堪の叢中一偶
の八角石蕗を持って居る。高腰胡の彫刻に成る彿像が、塔の姦有に雄った着で、他の部分は破
壊され丁つ詑のである。卒域停車場前、笑子の井の傍に在る六角七暦の石塔と共に、多少元代
の戚化に成わ、偶像・蓬基等彫成の磨滅せざる以前は使物であつたらうと思はせる。繹王寺も
此期に創建された着であるが、今荷ほ宏大学る規模、雄厳なる殿堂¢普を拇還しめて居る。特
に注意すべきほ金剛山の妙音群であらう。妙署群は摺勒菩薩と膵へて屠るが、題朝来、憫劣悪
勒締師︵西、−三二〇−六大︶の登園に成ると云ふ。河に督し空足臓毎に、高さ六十除尺の浮刻坐像で扶座の幅三十験尺に及ぶ。指大雄渾の気、人を呑むの杷、全く克大寺の本音に封する戚が
ぁる。面相せ衣裳。印字等梢々出であるけれども、前面の四角石燈篤と共に、古雅な頗朝の造物
である︵﹃朝鮮舌段間譜﹄第六冊昏照︶。此等に見るも皆時の彿致が次第に形のL言於ても、前代の後を受けで下ら坂にあつた串が忍はるゝ。
第大 李朝係数と日本との椙係
ー ガター年四弟 発駅敦索 枕六十弗 李朝五百飴年の倍数は狙ほ燈の滅感に近づけるが如きか。偶々火花皆敬する事有るら、要之 最後の愈々近きを報ずるに過ぎぬ。此間支部に在っては明朝興起して中島を制威し、薙いて秀 音の文緑・慶長の遠征となゎ、措朝に及んでも朝鮮を併称せん勢を示したので日清の役となら 次には露国の侵略的野心に依って日露役の大我を誘致し、其都度中島は敬嗣の飴勢に招き込ま れぎる串なく、管日の文化重く凍麟され了つ紀。更に著しきは、内部の怒放と内乱の頻撥とで 滑侶は政治に容嫁し俗事に親しみ積弊の・鴬する所、王をして遂に禁止に麓ぬるに禁止を以てし、 制限に重ぬるに制限を以てすべく験儀なくせしめた。此等内外の事情は粕待って牛島偶数を破 滅に導き、明治時代に入って本邦布教家の渡鮮関数あるまで、殆んど塞減の桓に陥没しっゝあ った者と云って宜い。 ︵一︶借て今、此の間に於ける日鮮交渉の状を要越せんに兜づ記すペきは、数回に亘る大蔵経 の誇恋記事を注意すべきであらう。歴朝の中東、大減経の印刻成ってよら、牛島に於ては代々 の王多く之を印行する者出で、今や我が国の垂海措かざる的と成ったので、或は公的に或は私 的に、朝鮮に渡って蕨粒宮請求する者掠出するに至った。賓に室町時代の日鮮交渉ほ之が大部 であると云って宜い。今其の内、主なる者を記すと太剋七年︵西、一三九八年︶、我が後小松静あ −− βク ー
係臨の鮮目るアニ見リエ上史故彿
應永五年八月、足利義満は大内左京を派して朝鮮に向はしめ、大鹿経を求めんとしで告諭を出
し、﹃朝鮮園使者⋮・今牌韓国、⋮︰大蔵経版、⋮︰此方頃年刊之、孔難而未克全備、彼方現
刊者、暮刻棟持、食之不能無希求、以大允我所求︰.︰﹄と告ぐ。左京大夫は渡鮮減軽解凍の目 的を先づ達したらしい︵﹃善隣国賓記﹄中︶。後十除年、太宗の九年︵鱒二四〇九年︶即ち應永十六年六月、足利義持は何周護・徳林を通して復た苑経を求めて居る。最中の撰に成る覆審中には
日く、﹃日本国管領源道格拝覆、⋮︰僕頃創構小利、⋮︰伏聞貴明一大蕨致、鋒蚊流布、償
憐隋邦之乏少、賜以七千軸全備之蕨、則其恩其姦何日而忘之、特浪周謹書記、徳林辣主、奪達
此意。﹄と。此の時も減攣ぞ選ったらしい︵﹃善隣問質記﹄中。同感鑑﹄官二十。﹃足利賓錬彗〓。又 十除年を経て應永廿九年︵西二田二二年︶五月に至り、足利義持、杏を世家に致して日く、﹃源義持浮環、⋮︰党是需繹民放経、骨得如畠、無静銘僻之至、今後有不義之求、蚤請一蕨、欲位此
方之入植頑於現嘗也、筍輿其善、頒以七千悠全備之典、則雄以利賀見甘、未足弟此焉。﹄と。之
を以て見るも前代の求蕨皆満足せるを見るべく、叉此の時の請求も容れられしは翌年の串に見
るも明である。即ち翌應永三十年七月、我国の義詮、尊・齢二倍を法って更に要求して日ふ。
r日本国濃詮、再審啓、⋮︰苺使同、朗需蕨経、輿同踵使同到、書簡可言草⋮今霊造詣位昏 − βJ−・年四霹 究軒数尭 披六十弟
知客、副使齢蔵主、別有靡陳、政事雄損得隅盟凝、要橋畔好、寧可都惜、放資国威経板非︼、
正要請︼蕨砿、安之此方、住僧心蟹任意印旛・︰﹄と。之は乱暴にも粒板哲笛求しセので、之
に勤してて位墓は肯んじなかったらしい。︵﹃寺院国賓記﹄中。餉感鑑百三十六。﹃足利賓録﹄二︶即ち叉翌年應永井一年、世宗り晶簿知客と倍に同線使を放し、珍品と答啓を労したが、遭詮其
の求むる所に逮ふを怒ら、重ねて庶放を求めてやったのが八月である。其覆審には記す。﹃姦
簿知客、輿周波吏倍一軍︰・典雅意折節者.闘犬克之板也、其除珍貸、績如山岳又何用談、⋮︰ 次終夜首位仲免酉堂、再論委曲、君寵俊夫波板流停我囲.何臓若此哉。﹄と、之は重ねて酉通し て版木を乞ふたのである ︵芸円陣国賓記﹂中︶。又その翌年世宗の七年︵西、︼四二五年︶、即ち應永升二年鮮王李絢から審復啓が家たが、内容は再度の所望に臆する挙が出家ぬとある。日く
﹃所常大嶽匪故、只是一本、且予租宗朗停.不可従命、前古巳轟、推照察之。﹄と。如何にも 尤もな詣である︵﹃同前﹄︶。版木に望を断った我が国は、空位宗八年の春にも亦啓を法って赦陛 を求めた︵﹃後鑑﹄宵四十︶。越えて三十除年端宗の三年︵西、一四五五年︶後花園帝の鹿尊兄年 八月、琉球園の使臣、本朝の修道安、共に朝鮮に入って澱鮭を求め︵千国朝貿鑑﹄十。﹃来園文献 備考首七︶、其の翌年、壮観の元年にも我圃からは、建仁寺造螢の薦め経巻を督す可く、使節 −∫乏・−・・・−係闊¢鮮日る丁:見り エ上匁数俳 に去って居る︵﹃後塵﹂首八十九︶ご一年後の世親三年には、大東経ぉ印行して八造の名山に減せ しめ、日本の使者にも漱粒を輿へたので、使伶は春蹄朝して経巻を建仁寺に納めた。︵﹃如是院 年代記﹄。﹃後鑑﹄官九十︼。︶ 其の後二年にして、後花園帝の寛政元年︵西、一四大〇年︶三月に至り、世祖から雷㌘番った。
其の内容は、前年冬、宋威倹・李宗賓を過して大歳粒︼部・法撃義・金剛攣一部・金剛紀拾漆家解
二部.概党攣一部・梼厳脛二部・心攣面。地放攣面・逓信諭二部・永嘉集二部・怒遺歌二件・剋蟹 士書記遣歌二部・高峯錨撃︼部・反謬名琴南・成造記l面等を蘭毒し詑が、我が国使努弼と倍に日本に向ふ海上、不串原風に遭ひ位於或は沈没し、或は行衛不明となつたので、見つかったら
救護して欲しいと云ふ事と、贈呈の経巻、組物、皆紛失せる串は、無事蹄朝した我が国位の紅
生典三郎から報じて凍たに依て明となつた旨とを観めた着である︵芸臼隣国貿記﹄中。﹃蔭涼軒日 蝕﹄︶。また世親の十年︵西、一四六五年︶即ち寛正六年には、貯努蘭が入即して居わ︵﹃来園文献 備考﹄官六︶、其の十年後には足利義政が文明七年︵西二四七五年︶八月に、位憎を成宗に治し、 彿儒経轟並に銅餞を求めた挙がある︵﹃後鑑﹄二百廿一︶。後土御門砕い文明十三年 ︵西、∵四 八︼年︶即ち成嘉十二年に至ら、六月知恩院溜発弘が弟子発動・親密を渡鮎せしめて臓攣ぜ求め ー・・・・・・・・・・ ββ −−年四燐 発駅駿東 読六十弟 たが、二人は翌年七月陛を得て蹄醒、乃ち知恩院に麻したと云ふ萄知恩院縁起﹄ニ︶。二階緑園に 先立ち、五月成宗は別に使を我観に況して経巻を蓬敬して屈む︵﹃後鑑短言H北〓、その閑人月 には吾が薩州人、渡鮮して亦、大衆脛を乞ふたとある︵﹃囲朝常盤﹄十六、﹃東国文献備考官六︶。 叉四年を経たる文明十八年︵西、︼四八六年︶八月、義政は安国寺戴殿のため等整骨座等を成
宗に法って大赦七千巻を求めたが、其の昏には苧っ。﹃両国通好何代無之、海路盈阻、不覚以時
聴問、匪慢也、抑大赦経、菩囲来待銀飯以行之、筍有朋欲必求之上国、盛賜不少、威荷々々、伍
奇書囲越後州、安阻寺、廼北方植庵之地也.以無兢殿為政典臭拳寺務者、慨然有求躍起殿之志、可嘉故、今連荘使等整骨座等、造語其意、儒待頒七千歳、以如麒則所謂民度汝貿従減海出、梱
載而蹄、善隣之賛美大於焉、﹄と︵﹃善隣国賓記﹄下︶。五年後成案二十二年︵西、一四九︼年︶十 月、王、我が国に大蕨を迭駁し、之に答へて居る︵﹃後鑑≒盲五十三︶。此の翌年八月にも、滑 周鏡なる者遭朝鮮衷を制作したl云ふが、恐らく答絶と求辣との要件位であつたらう︵﹃後鑑L 二百五十五︶。此よゎ七年を経て明應八年︵西、一田丸九年︶正月に望む、牌軍義高は貯周麟をし て啓を作らしめ、朝鮮に修正安を送って又大麻を乞はしめた串がある。餌ち臼くF我邦輿貴園修好也久美、⋮︰今迫梓正安首座、以奉使命︰︰我警巴比年多度、不退塾彪、彿字貯庭殆辟壊
ー ∫J・−−・・・・係蜘¢鮮日る丁;見りi上凰散悌
臭、郡長常有経衆之求、開店於索捜、且不求萬、方物財布、鹿允使者之請、京及退方徳之萱
也﹄と︵コ宰隣国箕外記短﹃本朝通鑑﹄。︶、王燕山君は之に封しては庶路を送らなかったらしい。故に復花岡年十月義高改めで肝玉龍を放し、求叔の頗切なる所以を記し、似て應仁兵火の
煉侠にかゝる政経を禰んと申し送った。文の要は郎も﹃凡我凝使修好必需丼経、是何謂也、我
国伽定管安大赦、鰯利民安国之貿、以故曹者我先君常印妓常食幽、報昏日、経板只是一本、観
衆所停、不獲従命、由是允以腸経馬借、社家久尭、警巴攣J亥乱、各寺某所安、十之八九散先兵、国人慄然今遺正龍首座、以需之、督有所開設、発現堆阻海洋、造互舶通交易者⋮姦化之依
然也。﹄と記してある。其の後凡そ九十年、後陽成帝の天正十大年︵西、一五八八年︶.に泊び、日本の囲使卒轟智、滑玄蘇等津鮮して宣剋に通商を乞ひ、翌年に至って蹄朝復命した串があむ
︵r国朝賢麗﹄二十九。﹃小輩外史≒。﹃東国文献備考﹄百六。︶、玄蘇は三年後、天正十九年間三 月にも園位卒駒信と倍に汲鮮して居る。︵コ国朝貿鑑﹄三十。同ふ簿外史ヒ一。︶以上の如く足利氏の百年間、前後十五六回も寂経又は蕨板を朝鮮に求めて居るが、此の外隠れたる求蕨沙門が幾
度渡行したかも計ら難く、高麗版大麻は少なからす公私、我国に輸入停放された繹である。此
専の多くは今‖まで残って居る横である。
・■−・・・・・・・・J5 −−眈六十妨 年四解 究析敦盛 ︵二︶朝鮮に於ける活字の凝明が鹿朝来恭講王の頃にあ㌔西洋の央れよら少くも三四十年先 んじて居る串は前述の楼であるが、其の後李朝太某三年︵西、一四〇二年︶に至り、王は園内に
音符の輝きを憂ひ、銅活を工夫して、内府の銅哲費出し李稜等に命じて、や範を古註詩番左矧
に取らしめ、前後大卒間・ざ以て王の八年丁亥︵西、一四〇七年︶に竣功した。之を丁亥字と耕し 朝鮮銅活の喝矢をなす。次に牡完の二年、庚子︵西、︼四二〇年︶字援を改嫁し、小形正確一ピ食ぶ、之を庚子字主玄ふ。同二十二年には、普隆偶の字を以て鋳改し∵康子字より多少大なる字
鰹を得、﹃通鑑綱目﹄杯を試則した。又十二年を経て文京の二年に泊び、安中大君に命じて壬申
字と名くる者を改成せしめた。次に瑞嘉の未年︵西、一四五五年︶、美希孟揖改鋳に依一〇乙亥早成ゎ、別に郵蘭宗に命じて、冨些兇経﹄印刷の活字を作らした事もぁる。之も乙亥字と名つくるけれ
ども、字鰭前者に劣る着である。仕組は盛んに大麻経を印行したので、鮭典印刷には除程努力
したらしい。又二十年後成宗の二年︵西、︼四七一年︶には、王刑公、駁陽公の字を以て改鋳しだが、小字にして最も精麓即ち辛卯字之である。成宗の廿四年にも亦、支那の字櫨を侃って努丑
字と云ふ者を模刻した。此等数同の活字も、可惜壬辰乱後、或は日本に持ち去られ、或は兵火
に焼失し、散逸殆んど撃ぎ滅する有様となつた。之を補ふため木活の利用も起ったが、字鰹到
一−−・ β℃ −−係踊の郎口るナ:見リエ上姐致傍 屁精緻を製み得ぬは言を待たぬ。最後に新京の九年︵西、〓ハ六八年︶、金佐明の力に扱って 銅餓清字成う、枚鞍館に置いて公私苦痛の印刷に充てたが、之は近代まで教科昏等に位川され た着である。朝鮮活字には、泥活︵陶活︶、木活、銅括等があるが、壬辰役後始めで我閻に活字恕 見るに到わ一、基よb以後徳川時代末まで、西洋式活字の應用せらる∼迄は、寄ら此等に放つ㍍ 着であるから、活版術も亦朝郎に負ふ朗大なるを愚はねばならぬ。此の術一皮樽はるや、彿富 を始め多くの箪朽木が続々と印行さるゝに至り、 聾者の倣と輿法隆致の企とは基だ黍易となつ た脱がある。活字を始め此等の昏糟は今日多く珪って居る。近代の日郎閑係を見る上に、活字 を閑却する串は出家まい。 ︵三︶朝鮮は五和二十六年︵西、一五九二年︶三月から三十二年の未迄、秀吉征鮮の大軍を受け て、八追の天地承めに恩威する大乱を見たが、此の問、老僧共偲各地に起って国難に殉する者 頻出した。中には邁々渡海っ我国に和義の依命を負びて数回往復せる傑滑もある。文祓元年三 月、秀富の大軍各地を揉躇して京城惰るや、再出大師清虚は、老躯ぉ琴して全道叢林に撤を飛 ばし、義兵を立たしめて自ら七十三歳の郡組篤とh与ら、義将千五首を率ひて戦うた。全道五千 の肝兵立っ内、洒浜・巌英・監圭寧の館野大路たむ。霊宝の如きは七百除人と共に、七月種山に −−−・・・・β7 −
披六十妨 年四焼 死研政宗 和軍を防いで悉く敬衣し柁。後英采四十八年、特に彼等選者を怒ったのも尤もである ︵﹃囲朝 賛鑑﹄六十七︶。かくて軍琴二十一年に望む、溶質即ち雁政於雲なる嘩鰐∵五登山に在って汚虚
師の寂を聞き、急ぎ選って閉外に奉旨待命し、日本に渡つで講和を計らんとす。八月、海を渡
って来朝、名古屋城に和を講じ、翌年五月還帆し、六月復命の後十月.師塔を辞しに在った。捻雲の使節となるや、滑紳の詩を航して法る賓多く、我に在っても撰修の牽容を得た。慶長三
年十月、秀普は方鹿寺遽に耳環を築き、翌年六月島津忠恒は、高野山に碑を建て、朝鮮役の彼
我戦友者を追弔した。宣親三十七年三月三日、惟政市び京城を虚し日本に挙八、命を果して翌
年七月捕虜男女三千除人を具して朝鮮に遮った。其の翌年正月にも稔雲は凍朝して居るが彼は
数同社凍したらしい。其の後徳川時代に萱わては、家光の寛永十九年︵西、〓ハ四こ年︶、鮮貯党性が、日本に任せんとして中途老病の故に止んだ串がある外、明治時代まで殆んど重要な俳数
的関係は起らなかった。要之壬辰役後、我が国に於ては活版循を学んで燐典類の印行盛んに行
はれしのみならす、戦士が公私陸得し跨れろ我利品中には係数に関する紡錘めて多いと開く。
亦我が数界を刺した串曙々ではあるが鮮くなからう。
︵四︶明治普代に入っては、日本各宗の貯渡解して布教停造に努めし者多く、之を詳述するは ー・・一 身∂ −−係闊¢鮮日るナ:見りエ上放散彿 紙幅の許さぬ所である。明治十一年十月、東本願寺の曙光鞭を書けて釜山に別院を建て、漸次 に元山・仁川・木浦・京城・光州等に詭政所学校等を建てたが十四年、次で日蓮宗が釜山に滑を放 した。而して日清役前後から牛島に渡って布致する者蟹出し、以上の外、本派本殿寺・畢吉宗・ 浄土宗・臨済宗妙心汲・曹洞宗等多く、京城や各造り主府に説致所を設くるに到わ、今や彿政道 輸入の姿は到る虞見る現象と猛つた。明治四十三年八月、日韓併合の後、朝鮮の滑侶も皇繹に 浴するに至り、翌年六月三日、寺別命の凝布を見、七月八日、三十本山を定められ、梅坪寺の 季晦光は内地に凍って日鮮彿致の連結に運動する朗があつた。其の後、大正l一年八月には、銀 器高貯達磨婆羅なる者、内地まわ朝鮮に入わ餐皇寺に彿舎利を献じ、同四年三月十五日からは 絶督府の企に依わ、小田省吾氏監督の下に、鮮人五十名を使役して海印寺歴版大歳経三部の印 刷を始め、八月竣功して一部を泉涌寺へ奉納して凍た。要之、内地から渡鮮した各宗布教家 も、主として内地人に布教して居るので、直接鮮人数化に資する所少きは暗むべき串である。 侍ほ李朝彿致を終るに臨んで、係数的遺物の二三を許する環むであるが、現存の寺院建築、例 之、金剛山長安寺・樺王寺等の二骨殿堂、其の他多くは此期の革建であるし、建染の近代的標 本は、南大門や東大門・勤政殿・鹿骨検事を見ても邦るから著する。閻畳寺跡の塞水石十三骨塔 − ∫ク ーー
枕六十節 年四鰐 究析政宗 は、元の囁帝が高宗に法った者だとも俸ふるが、賓は世親の十二年︵西、一四六七年︶四月に落 成した着で、壬辰役に倭軍持ち締らんと企てたとも云ほれて居るひ賢に毎優の仰像彫刻は鮮脛 緻密に出家て居る。以上は先づ李朝に於ける係数上の関係大要である。 論
第七 結
上衣の論究に放って、茫々ヒ下千田百年に亘る怖赦免上の日鮮関係を概説したと思ふが、我 が国の彿致が益々大乗の法光を放って居るに拘らす、牛島の併敢は前年漸く盛んに赴いで、後 牛如何に漸哀し凍ったか、而して遂に今や逆紋入の奇象を量するに至った所以一で想見する串が 出家よう。要之、帰敬史上のH鮮交渉は貯尼の衆徒通交を以て最とすべく、既に悌鱒初停の後、 数十年にして我が国俄に、係数囲となゎ得元るも牛島紆0臓物である。推古の朝支那との一交渉 開け、唐・末代多くの我が彿敦各宗は、かの地よら俸授されたとは云へ、牛島との交渉は決して 断えたるに非す。仮令、支那係数との交渉閃けたとて、之を容受する素養を作わ、係数の基礎 を固めて呉れたのほ、支部に非すして朝鮮である。足利時代、牛島との交通は十数回の大赦賂 殊に在ったが、社務の使節・公文審・外国使節の接待杯は、何れも怜侶に待ちし者多く、此の艶 − ヰ0 −岱陥¢鰐口るナこ取リエ上史敦俳
は彼此同じく、近くは栓雲大師が文緑、座長役後に於ける活動にも敬すペく、以て彿数的閑係
が、彼等政治関係に及ばせる戌化効力をも察すペきである。翻って仰散文化の源泉を箪ぬるに、
我が国が始めで外国文化を棒入したのは、三国時代の文明であるを忘れてはならぬ。凍朝の郎
滑は一両、文化の普及宣倦であつた。此と同時に牛島留撃の我が僧侶も、新文化の怜受者で弘
法の傍ら、文撃技塾を敢へ、一般文化の促進に資する朗大であつた。高句駿山品誘。百済の枇
勒。新羅の行蕾等、みな我が免租に侶典噌彩豊・紙葦の技・天文・地理。方絹・併本。易学等を始めて
停へ光恩人である。
其の他多くの彿工晶胤工・寺匠。克工等も、朝鮮牛島から我偶に移入された。古くは紳功皇后
のtニ韓征伐、近くは南北朝よりの傍題、文祓壬辰の役等に依つて取り舞った文化と僻数的追物 の類、之れ亦、直接間接我が文化に寡h仏からぬ影響を投じて屠る。怯ひ凍って此に到らば、吾等は牛島文化の開発復活に十分努力して、昔日の思に酬封すべき焉を威せざるを待ぬ。終りに
指事乳質、行文冗長に失せるを謝し、大方真壁の叱正を乞うて拙く。
− イブ −理心 の ゆ 改 門 宗丹党切
妨 崎
正 治
何時の代でも、思想信仰の追啓には、複雑な敢骨的背景や政治的事情が錯赦してゐるが、そ
の直接の現象として著しいのは、迫聾する側と、せられる者との心理に、大きな隔克わと行退
のあるといふ事箕である。追啓する方から見れば、奇怪な信仰と冒ざす封事に勤して、その信仰
内容がどうも自分の心理と異なる焉に、うそ気味の悪い奴だといふ戚じを抱く。追啓せられる
方では生命にもかへ難い大切な信仰であるから、それに射する魔迫があれば、あるだけ反抗的
に信仰を主張し固守する。此の相互不理解と行違との褒に、衝突ほ蒸す撃しく、壁方の鼠分戚倍
は愈よ昂奮する。﹃迫富の心理﹄は曾て他に述べ化から、今︼々こ∼に繰返さh仏いが、徳川時代に於ける切支丹宗門改めの歴史は、箕にこの﹃迫審の心理﹄の好適例である。
切支丹宗門改め¢心理
一 心β −款六十弟 年円解 党軒数浣
此から述∵品は、十七壮紀の役牛、師ち那鹿から究文、天和に雲ノての宗門改めであるが、
その耕言として、璧方心理の行違を説明する蒜を明治初年から取って鬼、よう。慶應二年から
三年にかけて、長崎郊外浦上に、邪宗門者が二百隼雄潜むで完ことが知れたが、曽纏幕府瓦
解の危機であつたので、長崎奉行は、大鰹そのまゝにして置いた。それから明治政府にいろて
王政−新の御威光を示す焉に、長崎の組療由亨は邪宗門禁制を励行す立方に忘●還めたが、昏局番の中にも、虎置の寛厳については多少の異論もあつた。そこで巌甲読者の手に成った
と恩はれる、長崎市民の建日吉がある︵慶應四年閉画月︶。その望節に口く▼︼﹃罠m未だ深から 、、、1、、1、11、−111−1ヽヽヽざる中、主謀のもの柄三轄も死刑に起せられ侠へば、死は眼前にて、未衣は想像につき、路肥、
きつと、改心仕るべきやと思考位仮につきー警御英断、巌刑の抑璧誓︼同、伏て春恕尉楳彗
︵長崎同番館316︵11︿22竺、ニ百年求、追宰に屈せすに信仰を買いて家た数千人の信者に封して、ヨ鱒洞未だ琵から
ざる中﹄になどいふ考で臨むのが根本の説謬であゎ、死ねば却て天園に生まれるといふ信仰で
堅まつて屠る常に射して、﹃未凍は想像﹄だなどと門違ひの枇察をしてか∼る朗に、乗数者柚力薪の心理状態、人民の心に遣入って見ない心持が、池職なく現れで居る○此の如くにして厳刑
ー ノ= −理 心 の め 改 門 窟 舟支 切 主張者は見音速ひの観察を基礎として、数千人を逮捕し流産に慶し柁が、全く失敗に締して明 治五年六年に描上の信者は﹃放﹄から故郷に掘るを循、今では日太二爪り政党を柑の中央に建て
て居る。
此の如くにして、晃永以衣厳しい宗門改めにも属せす、明治まで信仰を買いたのは、濁り浦 上だけでなく、外清一昔港外の島々、五島金部の外、九州の内地所々にあつたので、幕壁二百 年の禁令も、その綿密周到な瞼馨方法も、此の方面に於ては、完全には成功しへ仏かつたのであ る。そこで、此から進んで、徳川幕府が如何なる方放で﹃宗門改﹄むしたかといふ事蹟と、そ の中に現はれた心理状態とについて観察して見たい。此の禁制追啓は、皇鰻としては、慶長か ら正徳、革保に亙って百年問の悲劇であら、その中で特に人目を惹い柁のは、寛永の島原乱で あるが、こゝにはその末期に﹃残萬剃滅法﹄ともいふぺき政策を祈った時代を観察して見よう。 富永十五年︵−毘∽︶鳥原の薮乱がやつと卒ぐと共に、切支丹の頑張にはこら′∼した幕肘は一 恵Å邪宗門厳禁の歩を進め、致徒の捜索や、外成人注水の禁止や、貴国配見張番朗の設揖二 十除所︶や、大船を作る歩む察するなど、水もおさ讐力策を講じたじ特に同十七年︵−G蓋︶六月、 * * * 心ソ ■・−− メ5 −−・・−班六十第 年四夢 先研数宗 丁†カい. 天川︵空㌻記己の黎︶触が長崎に家たので、大騒ぎむし、軒′㌧巾での琴で掟打して、乗組員の多数 を斬り束ててからは、一野鼠令を敷き、辣舵家井上筑後音数畢皆新に宗門放校に任命した。此 人は、大目附︵大名等の監視役︶の本職と共に宗門改役として、某後二十年間そり衛に皆盲、 邪教禁止の大功螢者となつた。彼が如何なる方琵を講じ平㍗は、段々に説かうが、同年九月長 崎表に簸てた制札には、懸賞方法で冒ポ門番蜃てうど今日警察では能管主義者を﹃生む者﹄と 呼ぶと同じ様に、切支丹宗門者とい、ふこと︶の拭螢を勉め、且つ裏切する賓には義軍で輿へた。 此は、目的の虜には手段を程ばない寄絹琴刀者のやゎ方を能く代表して居る。且つ又支部放で も宗門者を載せて凍れば、船の者を悉く死罪にするといふ苛酷を行ひ、そ¢褒に支那轍の速惑 を哀った者も少なからすあつた。 バテレン 密告賞金の事に関しては、寛永十七年︵−雷ヱには、破天連︵㌢㌣eエを告擬した者には、銀 三首放又はこ官放とし、以下應分となつて︰吊るが、十八年後、薔治元年︵−宗∽︶には相和をし てゐる。その′制札に日く 苦利支丹東門の事。累隼御難馴たりといへども、禰々以て斯紹なく急腔可和改之旨、析仰山慎也︶日払不審なる専有 之侯托ヾ可頼由−Ⅲ之.此以取持.件天運の訴人に鉦武官枚.イル†ンに官枚下さるると蝕も.自今以後ほ、 −− ㌧挿 −・・
地 心 の め 改 門 宗 丹 支 切 一件天連の訴人飯三宮杖 一イル†シ︵ロm岩︶¢訴人鋭武官枕 ︼同宿︵C巳ecF訂tも並に宗門の訴人ほ銀五十杖、又托三十枚、品にエるべき也。 ︵奥利筋骨記第四記簸︶ 此の制札は全国に建てたのであるが、その後五十除年、正徳元年︵−ごこ の制札には、伴天 連の訴人に銀五百枚、イルマン山訴人に銀三宮放とし、且つ一般宗門着でも、﹃品によら銀五百 放下さるペし﹄とある。但し此は、賓でなく、訴人を釣る弟であつたらしい ︵初回の銀三宮枚 も同様と考へられる節がある︶。 兎に角、懸賞方法は、五人組連座の制、併に宗門者でも、自訴は免非といふ定めと相待って、 可打アり有効に行はれたのである。然し、その虜にどれだけ勲等の民が苦められ、且つ範子兄如 の間柄でも、時には互に猥疑心を以て相勤し欠かといふ黙を考へて見れば、その制度が流した 政令的普請の範も推し計られるのである。現に薔清元年︵芸註︶井上筑後守が退職後に整へ記し たと恩はれる﹃宗門穿整式﹄ ︵契列斯督記第五記鰊︶には左の項がある。 一、勒ほ一雨人訴人いたし俣へば御預哉戌侯、後にほ五人六人も数多く不申侯へは、先づ筑合歓仰附、輔々御穿竪¢上に て御預被成候啓 一人にてもtBきもの︵重要琉門番.即ち熊宗門の類︶ね訴人致し焼か.叉ほ鶴きも¢にて無之伐とも.五人六人†人 ー 47 −
披六十解 年四歩 先研敦宗 一、親兄弟伯父伯母親赦ち訴人いh卜し俵へば.如穿竪の上.そ¢科にエリ御頸¢事 ︵夢二十四項︶ 御預け並に籠合といふのは、訴人哀督︶わこた者は、事件落着までは、被告に準じて扱はれる ので飽食に入れるか、又は克典で保証者へ櫛預けになるのである。即ちこゝに現はれてゐる消 息は、︼人や二人の宗門を密告した者の中には、無責任者の者が往々あつた事を示し、その為 に、多人数な訴人して確貸のしるし牢示さない渚は、厳に取扱って獄に投じたのである。その 他罪人でも、浣門者の庭在を知って、それを密告すれば、自分の罪で斬非に誓心ことば免れる とい、ふ︵同上節八項︶如きも、宗門老摘発の虜には法律の正義をも顧みなかつ克といふ重大な滑息 を示して居る。