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龍谷大学佛教学研究室年報 第7号(1994) 002島 香苗「源信の浄土思想について」

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全文

(1)

酒帥口恒の品げ土田山相ゅについて

はじめに 源信(九四二 l 一

O

一七)は、日本の浄土教史において特 筆されるべき人物である。源信の出現以前と以後、特にその 代表的著作である﹃往生要集﹄の登場以前と以後とでは、浄 土教史が大きく画期されたといえよう。 本論文では、源信の浄土思想がどのようなものであったか を探る手掛かりとして、﹃往生要集﹄と﹃阿弥陀経略記﹄の 二書を取り上げることにした。﹃往生要集﹄によって源信の 浄土思想を探ろうとする研究は、従来多くなされてきている。 しかし、﹃往生要集﹄が完成したのは寛和元年(九八五)四 月

3

、源信四十四才の壮年期のことである。源信は七十六 才まで生きており、その間実に三十二年もたつている。﹃往 生要集﹄が源信の代表作であるのは、言うまでもないことで あるが、晩年期の源信が、壮年期と全く同じ浄土思想を抱い ていたとは必ずしもいえないと思うのである。こういった点 から、﹃観心略要集﹄を取り上げて、壮年期と晩年期の浄土 思想の比較をおこなうという試みもなされてきた。しかし、 ﹃観心略要集﹄については、近年その偽撰であることが確定 し

2

、源信の著書として取り上げることができなくなって い る 。 源信晩年の浄土関係の著書として、真撰が確実なのは﹃阿 修士課程二回生 香 苗 島 弥陀経略記﹄である

37

この書は、長和三年(一

O

一 四 ) に書かれており

3

、撰述年次が明らかなものの中では最晩 年の著書である。その序文によると、前親衛藤将軍

3

の 求 めにより、智頴の﹃阿弥陀経義記﹄

5

を分かりゃすく説明 するために書かれたものであるという。しかし、﹁恵心が天 台の阿弥陀経義記に釈然たり得なかった事が、其の阿弥陀経 略記製作の根基的動機であった﹂

3

との指摘もあるように、 内容は﹃阿弥陀経義記﹄の説明を超えて、源信独自の﹃阿弥 陀経﹄への註釈書になっている。また、﹃往生要集﹄大文第 十問答料簡で、﹁日々読諦。不如小阿弥陀経。﹂

g

と述べ て、自ら﹃阿弥陀経﹄を一万巻読んだ

g

という源信にとっ て、﹃阿弥陀経﹄の註釈書執筆は、必然的なことであったと もいえる。従って、﹃阿弥陀経略記﹄は、源信晩年期の浄土 思想をうかがう上で、貴重な書物であると思われる。 こういった理由により、本論文では源信の壮年期と晩年期 の浄土思想の比較をおこなう上で、﹃往生要集﹄と﹃阿弥陀 経略記﹄を取り上げることにしたのである。ただここで問題 になるのは、﹃往生要集﹄が体系的教学書であるのに対して、 ﹃阿弥陀経略記﹄は特定の経の註釈書であるということであ る。執筆目的が異なるために、両書を同じように論ずること はできないともいえる。しかし、特定の経の註釈書であって も、そこには源信の浄土思想の一端があらわれているのであ ワ

(2)

-るから、このような比較を試みるのも意味のあることといえ よ う 。 なお、﹃往生要集﹄から﹃阿弥陀経略記﹄へと至る過程で 見過ごすことのできないものがある。ぞれは二十五三味会の 活動である。これによって執筆活動とは違った実践的な活動 の中で、多くの浄土信何者たちと交わることができたことは、 源信にとって意義深いことであったのではないかと思うので あ る 。 以上のような問題関心のもと、まず、﹃往生要集﹄成立の 前提となった、叡山浄土教の展開について概観し、その上で ﹃往生要集﹄における念仏がどのようなものであったのかを 見ていきたい。次には、﹃往生要集﹄の影響のもとに結成さ れた二十五三味会の組織に関し、従来の理解の仕方について 変更すべきことを提示したい。その上で、二十五三昧会にお ける浄土思想について考察を加えることにする。そして最後 に、﹃往生要集﹄との比較における﹃阿弥陀経略記﹄の浄土 思想ということで、念仏観と信の問題、さらに現生不退転と いったことに注目して、両書の比較をおこなってみたいと思

' つ 。

一、叡山浄土教と﹃往生要集﹄ 最澄(七六七 l 八二ニ)が唐から将来した天台宗には、も ともと後の浄土教発展につながっていく阿弥陀仏信仰が含ま れていた。すなわち﹃摩詞止観﹄のなかで智頴(五三八 l 五 九七)は、常坐三味・常行三味・半行半坐三昧・非行非坐三 昧のいわゆる四種三昧の行法をあらわしており、そのなかの 常行三昧について、﹁但専以弥陀為法門主﹂ ( 1 0 ︼ と し て 弥陀仏を本尊と定めているのである。 さらに天台第六祖の湛然(七一一 l 七八二)に至ると、常 坐三昧の本尊について、﹁諸教所讃多在弥陀﹂

A

l

︼ と し 阿弥陀仏と解釈するようになった。最澄が教えを受けた道蓮 (生没年不詳)は湛然の弟子であり、この湛然の解釈は、道 蓮を通じて最澄にも受け継がれたと思われる。 A 1 2 ︺ 最 澄 ﹃山家学生式﹄のなかで、四種三味を修習せしめることを定 めたが

72

、その堂舎については、最澄存命中に建てられた のは法華三昧堂だけであった。︹

1

2

叡山において、常行三昧が実践されるようになったのは、 最澄の弟子である円仁(七九四│八六四)が、唐から帰って 後のことである。︻占︺円仁は、承和十五年(八四八)に、叡 山東塔に常行三昧堂を建てており︿占てまた﹃慈覚大師伝﹄ 仁寿元年。移五台山念仏三昧之法。伝授諸弟子等。始修 常 行 三 味 。 A 1 7 ︺ と記すように、仁寿元年(八五一)に至って、始めて常行三 味を修している。 ところで、円仁が移した五台山念仏とは、円仁の入唐当時 五台山を中心に流行していた法照流の五会念仏のことである。 これは、末法意識を基底とし、法照の神秘的な体験にもとづ いて、念仏そのものに絶対の価値を認め、慣悔滅罪による浄 土往生の効用を強調するものである。 75 従って、﹃摩詞止 観﹄で説かれたような、此土入証のための止観念仏ではない。

(3)

このことから石田瑞麿氏は、円仁の将来した五会念仏が、そ のまま常行三味として叡山で行われたとする理解に対して疑 問を呈している。

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これに対して速水惰氏は、﹁止観本来 の常行三味が実際に行われたことを証する史料はなく、叡山 の常行三昧が円仁の五台山念仏移植にはじまる以上、日本天 台の常行三昧は、実体において五会念仏法であったと考える べきだろう。﹂と反論している。 A 2 2 一 方 、 佐 藤 哲 英 博 士 は 、 この止観念仏と五会念仏との矛盾について、もともと智競の 念仏思想には、止観念仏のほかに﹃観無量寿経﹄の西方願生 の念仏思想があり、また、法照の五会念仏の思想的根拠は、 むしろ中道実相の正観と相応する天台の事理双修の念仏であ ったために、両者間には共通する要素が内在していたのであ ると指摘している。 A 2 1 円仁は、貞観六年(八六四)に没したが、﹃慈覚大師伝﹄ に よ る と 、 (貞観)七年八月十一日。初行大師本願不断念仏。ハ 22 ︺ とあり、翌貞観七年(八六五)から不断念仏が始まっている。 この不断念仏については、源為憲の﹃三宝絵調﹄のなかで、 念仏は慈覚大師のもろこしより伝て貞観七年より始行へ るなり。四種三味の中には常行三味となづく。

(

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︺ とあり、常行三昧に他ならないことがわかる。そしてこの不 断念仏は、円仁の弟子達に相承されていったのである。 2 2 このような叡山における浄土教の状況は、良源(九一二│ 九八五)が天台座主になり、康保五年(九六八)に横川に常 行三昧堂を建立する

2

5

などして、横川を中心に叡山を中興 していったことにより、更に大きく発展する契機を迎えるこ と と な っ た 。 良源には、著作年代不明であるが、﹃極楽浄土九晶往生義﹄ という﹃観無量寿経﹄の九晶段の註釈書があ否。これは、 ﹁日本天台としては最初の、浄土教に関する著述として注目 さ れ る も の ﹂ 円 ZS とされている。しかし、良源と同時代の千 観(九一八│九八三)の﹃十願発心記﹄が応和二年(九六二) に書かれており、﹁ことによると千観の﹃十願発心記﹄の方 が良源の﹃九品往生義﹄よりも早く撰述されたものではない かとさえ思われる。﹂︻

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︼という指摘もある。ともあれ、十 世紀の半ば頃には、叡山において浄土教が大きく発展してい ったことがわかるのである。ただ、両書ともに﹃観無量寿経﹄ に関する書物であるにもかかわらず、善導の浄土教の影響が 見られないという点が注目される。叡山において善導の浄土 教が受容されてくるのは、寛和元年(九八五)四月に成立し た源信の﹃往生要集﹄及び、それとほぼ同時期頃に成立した と思われる

25

著者不明の﹃西方慣悔法﹄からである。 ﹃往生要集﹄成立の背景の問題に関しては、井上光員氏が、 単なる叡山浄土教の展開という側面からだけではなく、当時 の念仏結社運動との関連においてとらえている。すなわち、 ﹁慶滋保胤を中心とし、大学寮の学生達が発起人となって、 叡山の僧侶との聞に結成された﹂勧学会を念仏結社運動とと らえ、﹁勧学会から二十五三昧会へともりあがってきた念仏 結社の運動を、その精神的環境としてうまれた﹂ものが﹃往 生要集﹄であり、その成立の時期は、﹁勧学会が二十五三昧 会に発展解消した時期だった﹂のであり、﹁その当時実地に おこなわれていたような同信同行の念仏団体の指南の書とし

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-4-ての性質を多分にもっていた﹂ものであると指摘しているの で あ る 。 { 2 2 以上のように、源信の﹃往生要集﹄は、叡山のなかで育ま れてきた浄土教を土台とし、当時の念仏結社運動を背景とし て、さらに善導の浄土教の影響をも受けつつ、成立していっ たものであるといえるのである。 さて﹃往生要集﹄は、その序文において﹁依念仏一門。柳 集経論要文。﹂︿

3

︺と述べているように、念仏による往生を 眼目として書かれた書物である。その構成は、大文第一厭離 犠土・大文第二欣求浄土・大文第三極楽証拠・大文第四正修 念仏・大文第五助念方法・大文第六別時念仏・大文第七念仏 利益・大文第八念仏証拠・大文第九往生諸業・大文第十問答 料簡の十門より成っている。﹃往生要集﹄の眼目が、念仏に よる往生を明かすためのものであるならば、その中心部分は、 当然、往生の正業が説かれている大文第四正修念仏である。 では、この部分で説かれている念仏が、どのようなものであ るのかを、次に見ていきたい。 源信は、正修念仏門の冒頭において、 正修念仏者。此亦有五。如世親菩薩往生論云。修五念門 行成就。畢寛得生安楽国土。見彼阿弥陀仏。一礼拝門。 二讃歎門。三作願門。四観察門。五廻向門。31︺ として、世親の﹃往生論﹄に説かれている五念門をもとにし て、念仏論を展開している。その中でも、作願門と観察門に 関する説明が、詳細を極めていることから源信は、この二門 を重視していることが知れるのである。 先ず、作願門では、道縛の﹃安楽集﹄を引用した上で、 ﹁当知菩提心。是浄土菩提之綱要。﹂ 3 2 ︺として、作願を菩 提心と規定している。そして、菩提心の行相を四弘誓願で説 明している。ここで注目されるのは、この四弘誓願を﹃摩詞 止観﹄にもとづいて、縁事と縁理の二種類に分けて説明して いることである。縁事の四弘誓願とは、(一)衆生無辺誓願 度・(二)煩悩無辺誓願断・(三)法門無尽誓願知・(四) 無上菩提誓願証のいわゆる四弘誓願である。一方、縁理の四 弘 誓 願 と は 、 二縁理願者。一切諸法。本来寂静。非有非無。非常非断。 不生不滅。不垢不浄。一色一香無非中道。生死即浬襲。 煩悩即菩提。:・・(下略 )32 と説かれていくものであり、源信はこの縁理の四弘誓願を ﹁ 最 上 菩 提 心 ﹂ 32 としているのである。ただ、﹃摩詞止観﹄ に説かれる菩提心は、浄土への往生に関して説かれるもので はなく、此土入証のための観心修行の前提としてのものであ る。しかし、源信は、初めに道悼の﹃安楽集﹄の﹁今既願生 浄土故。先須発菩提心也。﹂︿

3

︼という文を引用することに よって、本来は此土入証のための菩提心を、浄土往生のため の因に転じているのである。だが、縁事の四弘誓願は、﹁鑑 不如縁理。此亦有勝利。﹂吉主として、縁理の四弘誓願を上 位とした上で、縁事の四弘誓願にも勝れた利があるとして、 経論を出して説明を加えている。そして、このような菩提心 を前提として、次の観察門が説かれていくのである。 観察門の念仏は、その官頭に、 初心観行。不堪深奥。如十住毘婆裟云。新発意菩薩。先 念仏色相。又諸経中。為初心人。多説相好功徳。是故今

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当修色相観。

33

とあるように、初心の者は深奥なもの、つまりは理観を修す ることが不可能であるので、色相観を修すべきことを述べた うえで、この色相観を別相観・総相観・雑略観の三つに分け て説明している。 別相観とは、先ず阿弥陀仏の華座を観ずる華座観を行い、 次に阿弥陀仏の四十二の相好を順逆に一々観ずるものである。 これについては、﹃摩詞止観﹄と善導の﹃観念法門﹄に基づ いて説かれている。

32

総相観とは、阿弥陀仏の相好を総括的に観ずるものである が、ここでは、仏身の相好光明を観じた後に、仏身の三身一 体観を観ずべきことが説かれている。そして、 所観衆相。即是三身即一之相好光明也。諸仏同体之相好 光明也。万徳円融之相好光明也。色即是空。故謂之真如 実相。空即是色。故調之相好光明。一色一番。無非中道。 受想行識。亦復如是。我所有三悪道。与弥陀仏万徳。本 来空寂。一体無擬

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とあり、阿弥陀仏の仏身に対して、空仮中の三諦具足を観じ、 仏凡一体無磁を説いているのである。別相観が具体的な仏の 相好などを観ずる事観の念仏であるのに対して、総相観の後 半は理観の念仏であることがわかる。 雑略観とは、ただ白遣の一相について観ずるものである。 しかし、これさえも観ずることができない者のために、 若有不堪観念相好。或依帰命想。或依引摂想。或依往生 想応一心称念。

22

として、三想一心の称念が示されている。この称念を口称念 仏ととらえる見方

2

1

)

に対して、普賢晃寿博士は、﹁称念の 称は称名であるが、念は称名に含めて解釈出来ない。﹂とし て、﹁一心称念は常行三昧の口の説黙に出る唱念倶運の念仏 を受けたもの﹂とされている

022

つまり、﹃摩詞止観﹄の 常行三味を説く部分に、 口説黙者。九十日身常行無休息。九十日口常唱阿弥陀仏 名無休息。九十日心常念阿弥陀仏無休息。或唱念倶運。 或先念後唱。或先唱後念。唱念相継無休息時。

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とあり、この唱念倶運の﹁唱﹂が﹁称﹂で、称念の﹁念﹂は ﹁心常念阿弥陀仏﹂とあるように、心で念ずることだという の で あ る 。 以上より、観察門で説かれている念仏は、事観・理観・称 念の三種類であり、なかでも事観について詳述していること から、事観を重視していることがわかる。しかし、観察門の 官頭の文より、理観をより深奥なものとみなしていたとはい え、理観はおろか事観さえもできない劣った者に対して、称 念を勧めているのである。ただ、この称念にしても、単なる 称名ではなく、心に念ずるということが伴ったものでなけれ ばならなかったのである。 ﹃往生要集﹄における念仏で、いま一つ重要であるのは、 大文第六別時念仏において説かれる念仏である。ここでは、 平生のある限られた時に行う尋常の別行と臨終の行儀とに分 けて説かれている。尋常の別行においては、一日乃至七日の 行として﹃観念法門﹄の念仏三昧法が引用され、九十日の行 としては﹃摩詞止観﹄の常行三昧の法が引用されている。 臨終の行儀では、臨終の際の行事について懇切に説いた後

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-6-に、道縛の﹃安楽集﹄の、 各宜同志三五。預結言要。臨命終時。迭相開暁。為称弥 陀名号。願生極楽。声々相次。使成十念。 ( 4 5 を引用した上で、 所言十念。難有多釈。然一心十遍。称念南無阿弥陀仏。 謂之十念。

2

主 として、臨終の十念の念仏について説明している。この称念 については、道縛の十念が明らかに称名であることからして、 称名念仏であるかとも思われる。しかし、そのあとの文で臨 終の勧念を説いているが、ここで勧められている十種類の念 とは、﹁一先応発大乗実智。知生死由来。﹂

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から始まる もので、臨終の行者は、十声の称名念仏だけでよいとされた ものでもなかったようである。 以上、﹃往生要集﹄における念仏についてみてきたが、 ﹁修行方法。多在摩詞止観。及善導和尚観念法門並六時礼讃。﹂

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とあるように、源信は、天台教学と善導の浄土教を融合 した上で、浄土往生の因法としての念仏論を組み立てている。 そして、﹁知予頑魯之者﹂

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の念仏として事観の念仏を重 視し、ぞれさえも堪え得ない者については称念を勧めるなど、 従来の叡山浄土教から大きく飛躍した、独自の思想を展開し ているのである。しかし源信は、理観の念仏を最上とし、称 念についても、単なる称名ではなく、心に念ずることが伴っ たものと考えていたと思われる。ここに天台学僧としての源 信の立場がみられると同時に、彼の浄土思想の限界というも のが見られるのである。 二、二十五三昧会の活動 二十五三味会は、﹃往生要集﹄完成の翌年である寛和二年 (九八六)五月二十三日に横川で発足した

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念仏結社であ る。二十五三昧とは、迷いの生存の状態を二十五に分類した 二十五有を破砕する三昧のことであり、これを発会時の結衆 の数にちなんで会の名称にしたものと思われる。二十五三昧 会がどのような念仏結社であったのかをみていく前に、ここ では先ず、従来の研究で殆ど関心が払われていない二十五三 味会の組織について、特に結衆と結縁衆に注目して考察を加 えておきたい。 ﹃二十五三味根本結縁衆過去帳﹄では、二十五人の根本結 衆・十九人の根本結縁衆に続いて、八十人の結縁衆が出てく る 。 円

B

︼しかしこの八十人には、僧侶だけでなく尼や在家の 男女の名も出てきており、この点について、私は疑問を感じ るのである。というのは、寛和二年九月十五日の目付があり、 慶滋保胤の草になるという︿ 5 4 ﹃横川首梼厳院二十五三昧起 請﹄(以下﹃起請八箇条﹄と略す。)に、 今発心於極楽之蓮台。長結縁於十口之禅侶。尼女在俗非 於此限。宜随競望将以補入。︽

2 }

と記されており、尼女在俗は排除されていたと考えられるか らである。A53しかし、この部分に関して堀大慈氏は、排除 規定とは見ていないようである。

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つまり、﹁尼女在俗は この限りにあらざるも、宜しく競い望むに随って、将に以て 補入すベし。﹂と読むか、﹁尼女在俗もこの限りにあらず。 宜しく::﹂と読むかで、意味が正反対になってしまうので

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ある。それでは、この部分をどう読み取ればよいのであろう か。ここでは、瀬信の撰とされる

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﹃ 二 十 五 三 昧 式 ﹄ 、 ﹃起請八箇条﹄、そして、永延二年(九八八)六月十五日の 日付があり、源信が撰述している﹃横川首梼厳院二十五三昧 起請﹄(以下﹃起請十二箇条﹄と略す。)をもとに、加入者 に関する規定を見ていくことにする。 先ず、加入者の数であるが、﹁点二十五人以為結衆之数。﹂ ︹

5

5

とあり、明確に人数制限をしている。また、﹁若結衆之 中有難遁障者。大衆相共議。随宜可除之。﹂ ( 5 7 ︼ と か 、 ﹁ 若 乗此旨。暴戻違乱者。早出結衆。不為同行。﹂ ( 5 8 ︺ の よ う に 、 たとえ一度結衆となっていても、場合によっては退会させら れるわけである。その他、結衆に関して厳しい規定が並んで おり、これらの規定により、結衆は強い結束を保つよう意図 されたことが推測されるのである。 ところで、﹃二十五三味式﹄・﹃起請八箇条﹄・﹃起請十 二箇条﹄を見ていくなかで気付いたことであるが、﹁結縁衆﹂ という語が出てこないで、全て﹁結衆﹂という語で統一され ているのである。従来の研究では、﹁結縁衆﹂と﹁結衆﹂と いう語の相違に関して、充分な関心が払われていなかったよ うであるが、この二つの語に注目して﹃二十五三味根本結縁 衆過去帳﹄を見てみると、二十五人の根本結衆・十九人の根 本結縁衆というように、どうも﹁結衆﹂と﹁結縁衆﹂という 語を使い分けているように思われるのである。 それでは、﹁結衆﹂とは何をさすのであろうか。これは当 然、禅満から相助までの二十五人 ( 5 3 、つまり二十五三昧会 の発足当初の構成員をさしており、﹃二十五三味式﹄・﹃起 ﹃起請十二箇条﹄に出てくる﹁結衆﹂の人々の 請 八 箇 条 ﹄ こ と で あ る 。 では花山法皇以下十九人の﹁結縁衆﹂とは何か。堀氏は、 ﹃起請八箇条﹄の﹁今発心於極楽之蓮台。長結縁於十口之禅 侶。﹂に注目して、これは寛和二年五月二十三日の発足から 九月十五日までの聞に、根本発起衆の他に、さらに十名の禅 侶が結縁したことを表しているととり、その十名は﹃二十五 三味根本結縁衆過去帳﹄の名前の列記が、結縁順であろうと の推測から、花山法皇以下の十名であろうとされている。そ して、十名の結縁衆以外については、例えば十三番目に名前 の出てくる良範が、寛和二年には五歳であることを指摘して、 寛和二年以後に漸次結縁したものであるとされている。そし て、この結縁を二十五三昧会への﹁入会﹂としてとらえ、 ﹁結衆﹂・﹁結縁衆﹂の語の相違を、発足当初の構成員と追 加構成員との違いとしか考えておられないようである。︻ 6 2 ここで問題になってくるのは、前述の人数制限のことであ る。発足当初の構成員の中で最初に死亡するのは、寛和三年 (九八七)正月十二日死亡の祥連である。︹ 61 ︼ つ ま り 、 九 月 十五日までの聞に﹁結衆﹂の欠員は一人もいなかったのであ る。よしんば退会させられた者がいたとしても、十名もの追 加の余地はない。ところで、﹃梼厳院廿五三味結衆過去帳﹄ の妙空大徳の伝の中に、 近子其臨終、有結衆之望、党照阿闇梨以自処譲之、百三 という記事がある。党照阿闇梨とは、根本結衆の第十九番目 に名前が出くる人である。つまり、妙空は臨終が近づいたと きに、結衆になりたいという希望をもっていたので、党照阿 n D

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闇梨が自分の代わりに妙空を結衆に入れてやったということ である。ちなみに、妙空は根本結縁衆の第五番目に名前が出 てきている。 ここで、先程の堀氏の論に対する疑問が出てくるのである。 妙空は、根本結縁衆の第五番目に名前が出てきていることか ら、寛和二年には二十五三味会に結縁していたものと思われ る。ぞれにもかかわらず、永砕元年(九八九)十一月十一日 の死 A 6 2 が近づくころまで、結衆にはなれないでいたのであ る。そして、結衆である党照がその立場を譲ってやって始め て結衆になれたのである。このことから、﹁結衆﹂と﹁結縁 衆﹂とは、違うものであるということがわかるのである。 また、﹃梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹄の良陳阿閣梨の伝の 後に、﹁結衆外加記二人﹂と記し、その下に割註で、 廿五外院内大衆於結縁事其勤皆同、不可偏一言、非是結衆、 故有別事此中記之、百三 と記してある。ここでも、結縁しているからといって、必ず しも結衆であるわけではないことがわかるのである。ところ で、結衆外の二人が誰であるかだが、平林盛得氏は、この文 章のすぐ後に出てくる良範大徳と仁憤大徳

2

2

の没年が、良 陳より前であることから、この二人が結衆外かと推測されて いる。ただ、この二人が根本結縁衆であることから、当初何 らかの理由でもれて追記されたものではないかとも、考えら れているようである。︿

B

︼しかし、結衆と結縁衆は異なると いうことであれば、この結衆外の二人は良範と仁債をさして いると理解してよいと思われる。 以上のことから、二十五三昧会の組織については、従来考 えられてきたような見方を変更する必要があるであろう。つ まり、二十五三昧会は、厳格な規定を守っている二十五人の 結衆がその核を構成し、その周囲に、よりゆるやかな結びつ きの結縁衆がいるという、複合的な組織であったということ がいえよう。こういう組織なら、結縁衆ということであれば、 尼女在俗がなることも可能であったと考えてよいと思われる。 従って、冒頭に提示した疑問点については、結縁ということ であれば、尼女在俗も制限すること無く、競い望むに従って 補入してよいということであったと結論を出せよう。これで、 ﹃二十五三味根本結縁衆過去帳﹄の後半部分に、比正尼や男 女の在俗者の名前が次々と出てくることについても、納得が いくわけである。但し、結衆になるためには、より厳しい選 考基準があって、恐らく現実問題としては、尼女在俗の場合、 結衆になるのは難しかったのではないかと推測されるのであ る 。 さて二十五三昧会が、どのような念仏結社であったのかを 知るためには、先ず、﹃二十五三味式﹄・﹃起請八箇条﹄・ ﹃起請十二箇条﹄の内容を検討する必要がある。 ﹃二十五三昧式﹄のはじめの部分に載っている﹁梼厳院二 十五三昧根本結衆二十五人連署発願文﹂(以下﹁発願文﹂と 略す。)では、﹃観無量寿経﹄下々晶の文を引用した上で、 此文。足為我等来世之誠証。今相議云。我等合契。互為 善友。最後臨終。相助教令念仏。 ( 6 7 ︺ と記されている。つまり、﹃観経﹄下々晶の文を頼りとして、 臨終には善友が

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いに集って念仏を勧め助け、往生を遂げよ うというのである。﹁発願文﹂は続けて、結衆の数は二十五

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人とすること、病人がでた場合はそこへ行って念仏を勧める こと、平生から同心して浄土の業を修し、毎月十五日には集 まって念仏を行うことなどが記されている。 ( 6 日 ︺ こ れ は 、 ﹃往生要集﹄大文第六別時念仏の記述によっているものと思 われる。更に、﹁発願文﹂の後には、六道の苦相をあらわす 式文が出てくるが、これは、大文第一厭離穣土の記述によっ て書かれていると思われる。これらのことより、二十五三昧 会が﹃往生要集﹄の念仏論を実践するために結成された会で あったことは明らかであろう。 二十五三昧会は、九月十五日に至って、次のような﹃起請 八箇条﹄を定めている。 一、可毎月十五日勤修念仏三昧事。 一、可念仏結願。次諦光明真言。加持土砂事。 一、可調心護道択人補闘事。 一、可建立別処号往生院。結衆病時令移住事。 一、可結衆病問結番暗視事。 一、可点定結衆墓処号花台廟。二季修念仏事。 一、可常念西方。深積功力事。 一、可結衆没後守義修善事。 ( 6 9 ︺ 各条ごとに具体的な内容説明がなされているが、﹁発願文﹂ と比べてみると、第一・第三・第四・第五・第七の各条が、 内容的に共通している。しかし、第二・第六・第八の三カ条 は﹁発願文﹂に対応する部分がないし、﹃往生要集﹄にも依 っ て い な い 。 第二条は、死体や墓の上に加持した土砂をかけると滅罪生 善になるとされる光明真言により葬送を定めたものである。 第六条は、結衆の共同墓地に多種の陀羅尼を安置し、結衆の 死者をそこへ埋葬するということを定めたものである。第八 条は、結衆没後の追善念仏を定めたものである。これらは全 て、結衆が死んだ場合についての規定である。もともと﹃往 生要集﹄は、生者の念仏による浄土往生がその眼目のもので あるので、死者については対象になっておらず、これらに対 応する内容を持っていなかったわけである。﹃起請八箇条﹄ に、このような死者に関する規定が定められた理由に関して は、堀氏が、花山法皇が卒堵婆を立てるように輪旨を下した ことが、直接の機縁になったものと指摘されている。

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︺ 死者に関する規定が加わったことについては不思議でない が、第二条・第六条などの密教的要素の強さには注目させら れる。これは、﹃起請十二箇条﹄についてもいえる。その十 二カ条とは、次のようなものである。 一、可以毎月十五日夜修不断念仏事。 一、可毎月十五日正中以後念仏。以前講法花経事。 一、可十五日夜結衆之中。次第奉供仏聖灯明事。 一、可以光明真言加持土砂。置亡者骸事。 一、可結衆相共永成父母兄弟之思事。 一、可結衆発願之後。各護三業事。 一、可結衆之中有病之時致用心事。 一、可結衆中有病人時。結番通守護問訊事。 一、可建立房舎一字。号往生院。移置病者事。 一、可兼占勝地名安養廟。建立卒都婆一基。将為一結墓 所 事 。 一、可結衆之中有己者時。間葬念仏事。

(10)

-10-一、可不随起請致慌怠之人。損出衆中事。 ( 7 1 ︺ これも﹃起請八箇条﹄同様、各条ごとに具体的な内容説明 がなされている。両起請を比較してみると、﹃起請八箇条﹄ の第一条の規定が第一条から第三条までの三カ条に、同じく 第三条の規定が第五条・第十二条の二カ条に、更に第四条・ 第五条の規定が第七条から第九条までの三カ条に条項が増え、 より詳しくなっている。そして、密教的要素についても、第 二条の光明真言加持土砂の規定は第四条に、第六条の陀羅尼 の問題も第十条に﹁以真言鎮処﹂ ( 7 2 というかたちで踏襲さ れ て い る 。 こういった密教的な要素について、石田瑞麿氏は、﹁光明 真言による土砂加持は、実は源信の思想の上では、一種の残 津に止まり、密教から遠ざかろうとしながらも、これと挟を 分かち切れなかった一面をのぞかせているもの﹂であり、 ﹁捨てきれなかったもの﹂であると指摘されている。円 7 2 一 方、速水惰氏は、この当時の浄土教がむしろ称名念仏中心で あり、密教が支配的な仏教界を背景として、真言陀羅尼と称 名念仏の融合という現象が出てきていたとして、初期の浄土 教の密教的な死霊鎮送の宗教としての性格を指摘している。 そして、源信も念仏結社運動実践に際しては、こうした密教 的死霊鎮送の浄土信仰を否定できなかったのであろうとされ て い る 。 ( 7 2 源信と密教との関係については、﹃梼厳院廿五三昧結衆過 去帳﹄の源信伝に、 又有時間云、和上何意不学真言、答、性非聡敏、亦専念 仏、故難兼功、難不為業、非不貴也、迦楼羅法門之輪、 深以信帰、又久持千手陀羅尼、後更加尊勝陀羅尼、滅罪 之計、只在於斯、

A 7

2

とあり、密教それ自体は積極的に学ばなかったのであろう。 しかし、密教の祈祷の功徳を否定しているわけでもなかった のである。この点に関して和田悌一氏は、﹁源信が、教学と しての真言からは遠ざかろうとしながら、滅罪の為に、真言 陀羅尼を必要としていたことをうかがわせる﹂と指摘されて 、 ヲ @ 。 ︻ 76 ︼ 以上のように、二十五三昧会は、﹃往生要集﹄の念仏論を 実践しようとして結成されたものではあったのだが、その起 請を定める段階では、密教的な死霊鎮送儀礼が加えられてお り、これは、源信をも含めた当時の浄土信何の有り様を窺う 意味で興味深いものがある。 ところで、このような起請を定めた二十五三昧会が、実際 にどのような活動を行っていたかについては、﹃梼厳院廿五 三昧結衆過去帳﹄の記事が参考になる。例えば、最初に死亡 した祥連大徳の伝には、﹁不久受病、結衆結番、昼夜念仏、 結縁最初之勤、衆人皆慰勲也、﹂

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とあり、規定通りの勤 めを行ったことが知れる。また﹁発願文﹂に、没後極楽に往 生できたかどうか知らせるようにとの文がある

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2

が、各伝 ではこの点に大きな関心を払っている。そして、この往生を 決定する臨終に関する詳しい記述は、結衆の目的が臨終正念 であったことをよく伝えるものである。 しかし、結衆の人々にとっても臨終正念は易しいものでは なかったようで、貞久大徳の場合は、修学有勤道心堅固であ ったにもかかわらず、臨終正念できず、自ら地獄に堕る様を

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見ながら死んでいっている。A72一方で、祥連大徳の場合は、 智解精少口業不調であったのに、結縁して善知識に遇えたの で往生は決定したと確信して、臨終正念して死んでいってい る 。 A 8 0 ︺このような臨終の様を見ながら、二十五三味会の人 々は、いよいよ臨終における正念を目指していったのであろ

事 つ 。

臨終正念して聖衆の来迎を受けることが人々の願望であっ たわけだが、この臨終来迎を視覚的に演出した迎講という行 事も横川で行われている。﹃法華験記﹄の源信伝には、 弥陀迎接の相を構へて、極楽荘厳の儀を顕せり八世に迎 講と云ふ V 。その場に集まる者は、絡素老少より、放蕩 邪見の輩に至るまで、皆不覚の涙を流して、往生の業を 結び、五体地に投げて、普提の因を種ゑたり。(?︾ とあり、また﹃山門堂舎記﹄の華台院の項に、﹁小仏者恵心 院僧都為迎講被奉張云々。﹂百三とあることから、華台院 (起請で建立が企画されていた往生院のこと

)

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︼ に お い て 、 僧俗老若から放蕩邪見の者まで含めた信仰が行われていたこ とがわかるのである。 このように、当時の横川では、二十五三昧会の結衆を核と して、その周囲に二十五三昧会に結縁しているいわゆる結縁 衆がいて、更にその周囲には、迎講というより大衆的な行事 に集う人々がいて、僧俗老若男女を含めた一大浄土信何集団 ができていたのである。

﹃往生要集﹄との比較における﹃阿弥陀経略記﹄ の浄土思想 ﹃阿弥陀経略記﹄の内容は、大意・題目・分文解釈の三門 に分かれる。初めに﹃阿弥陀経﹄の大意を述べ、次に経題を 明らかにして、その後で経文を透一解釈している。 源信は、分文解釈門において﹃阿弥陀経﹄の科段を次のよ うに分けている。 序文 正宗ーーイ l 説極楽依正│﹁│略標 一 ﹁ 随 標 広 説 ﹁ 顕 説 教 本 懐 │ 1 正 明 本 懐 ﹁引証助成勧進 流通分 ここで先ず注目されるのは、極楽依正段随標広説において 弥陀の名義を明かすとして、 若作観解。無者即空。量者即仮。寿者即中。仏者三智即 一心具。応知。円融三観之智。冥於円融三諦之境。万徳 自然円。名阿弥陀仏。百三 と述べていることである。無量寿を空仮中の三諦に配し、仏 とは一切智・道種智・一切種智の三智を一心に具すものであ るとして、円融三観の智を、円融三諦の境に冥じて、万穂自 然に円かであるのを、阿弥陀仏と名づけるというのである。 これは、﹃往生要集﹄観察門の総相観に、 三世十方。諸仏三身。普門塵数。無量法門。仏衆法海。 円融万徳。凡無尽法界。備在弥陀一身 0 ・:・(中略): ・・所観衆相。即是三身即一之相好光明也。諸仏同体之相 好光明也。万徳円融之相好光明也。色即是空。故謂之真 円 L 1 A

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如実相。空即是色。故謂之相好光明。一色一香。無非中 道。受想行識。亦復知是。我所有三悪道。与弥陀仏万徳。 本来空寂。一体無擬。

A g v

とあり、弥陀の仏身に法報応の三身、空仮中の三諦を観ずる 三身一体観が説かれていることに通じる。 また、説教本懐段正明本懐において、極楽への往生の正因 を顕すとして、 舎利下至一心不乱是也。意云。若一日二日。乃至若七日。 面向西方。観仏威光。福照十方。無所障擬。称名一心。 念願生彼国土。浄信無疑。応如是修 0 ・ ・ ・ ・ ( 中 略 ) ・ ・ ・ ・ 若欲修深観者。見止観常行三味文。或観無縁慈。是即深 観 恵 。 ・ ・ ・ ・ ( 中 略 ) ・ ・ ・ ・ 但 行 住 坐 臥 。 繋 念 彼 因 。 観 仏 以 無縁慈威光。照十方。称名。一心念深信願生彼。是為往 生 極 楽 綱 要 。 ・ ・ ・ ・ ( 中 略 ) ・ ・ ・ ・ 言 聞 説 阿 弥 陀 仏 執 持 名 号 者。観彼無量光明等義。称名心念耳。今勧勝因。故知是 説。非全遮彼但信称念。 3 6 ) と述べている。若し深観を修さんと欲する者は、﹃摩詞止観﹄ の常行三昧の文を見るか、或いは無縁の慈を観ぜよとして、 以下無縁の慈に関して長々と述べきたった上で、ただ行住坐 臥彼の国を繋念して、仏が無縁の慈の威光でもって十方を照 らすのを観ぜよというのである。そして、これを勝れた因と しているのである。このように﹃阿弥陀経略記﹄もまた天台 教学をもとに、往生の因として理観を勝れたものと重視して いることがわかるのである。 しかし一方で源信は、勝因を勧めるからこのように説くの であって、但信の称念を遮するものではないと述べている。 ここで、もう一度右の文をみてみると、経文の﹁聞説阿弥陀 仏 。 執 持 名 号 。 若 一 日 ・ ・ ( 中 略 ) ・ ・ 若 七 日 。 一 心 不 乱 。 ﹂ について、阿弥陀仏の名を称え、一心に極楽への往生を念願 し、その念願する心は、疑いのない浄信であり、深信であり、 但信であると釈しているのである。ここでの称念は、﹁称﹂ は阿弥陀仏の名を称えることであるが、﹁念﹂は極楽への往 生を念願することであると同時に、それは心の有り様として ﹁信﹂そのものをも意味しているといえよう。一心に念ずる こと、ぞれを源信は﹁信﹂ととらえたのである。 ﹃往生要集﹄では、先に考察したように、称念を理観・事 観に堪え得ない者のために説いていたが、﹁念﹂については、 阿弥陀仏を念ずることであるとしていても、﹁信﹂だとはい っていない。﹃往生要集﹄においては、﹃浬繋経﹄の﹁阿縛 菩提信心為因。﹂百日︺をうけて、﹁修道以信為首。﹂ ( 説いているところや、﹁往生之業。念仏為本。其念仏心。必 須如理。故異深信至誠常念三事。﹂

32

と説いているところ などに、﹁信﹂の問題が取り上げられている。しかし、﹃阿 弥陀経略記﹄において、浄信・深信・但信の称念とたたみか けてくる迫力は、﹃往生要集﹄においては見られない。﹃往 生要集﹄においては、往生の因として念仏を取り上げていて も、あくまで理観が最勝であり、﹁知予頑魯之者﹂

3

1

仏として事観を中心に据え、ぞれさえできない者のために称 念を示すに止まっているのである。 一方、﹃阿弥陀経略記﹄では、やはり天台教学にたって、 理観を最勝とする立場をくずしてはいないが、﹁信﹂による 称念を大きく打ち出しているのである。さらに、説教本懐段

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引証助成勧進の終わりの部分で、﹃阿弥陀経﹄が何故十六想 観を説いていないのかという聞いに答えて、 運念於雌帳之中。決証於塵刺之外。其不知念仏。故今経 不 要 観 。 門 官 2 ︼ と述べているのである。﹃阿弥陀経略記﹄における念仏は、 ﹃往生要集﹄が堅持していた観念の念仏から、信に裏打ちさ れた称名念仏へと、すでに踏みだしているといえるのではな いかと思うのである。 ぞれは、﹃梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹄の源信伝に、 有人、借間云、和上智行世無等倫、所修行法、以何為宗、 答、念仏為宗、又問、諸行之中、以理為勝、念仏之時、 観法身、不、答、只唱仏号、又問、何不観理、答、往生 之業称名可足、本存此念、故不観理、

23

とあることによっても、窺うことができるといえよう。 ﹃阿弥陀経略記﹄の内容で、いま一つ注目されることは、 不退転を現生の益として挙げていることである。すなわち説 教本懐段引証助成勧進において、現当の益を示して勧進を助 成するとして、次のように述べている。 初示利益勧進信受。次示利益勧進願生。此即初也。此亦 有二。初利益。次勧信。言利益者。聞仏名及経名者。有 三益。一現為諸仏護。二現得不退転。三当得大菩提。 円 g4 ︼ つまり、信受の利益を三つ挙げているのであるが、このう ち二番目に示されているのが現得不退転ということである。 この現得ということについては、次の大菩提が当得とされて いることからしでも、現生に得るという意味で使われている と 考 え ら れ る 。 また更に、願生の利益については、 所言益者。一現不退益。二近果往生益。三遠果菩提益。 ︻ 95 ︼ としている。ここで一層明らかになると思うが、往生が近果 で菩提が遠果で、共に未来のことをいっているのに対して、 不退は現在現生においてのことをいっているのである。 それでは、不退転について﹃往生要集﹄ではどのように説 いているのであろうか。大文第二欣求浄土では、西方世界に ついての説明として﹁処是不退。永免三途八難之畏。﹂︻

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と述べており、また同じく﹁彼極楽園土衆生。有多因縁。故 畢寛不退。増進仏道。﹂内

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と述べており、どちらも極楽浄 土の不退をいっているのである。一方、大文第七念仏利益で は、﹃双観経﹄(﹃無量寿経﹄)の備として、﹁其仏本願力 闇名欲往生。皆悉到彼因。自致不退転。﹂︻

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︼ と い う 文 を 引 用している。ここでも、極楽浄土へ到ってから不退転になる の で あ る 。 更に大文第十問答料簡では、 問。彼国衆生。皆不退転。明知非是凡夫生処。答。所言 不退者。非必是聖徳。如要決云。今明不退有其四種。十 住毘婆沙云。一位不退。即修因万却。不復退堕悪律儀行。 流転生死。二行不退。己得初地。利他行不退。三念不退。 八地己去。無功用。意得自在故。四処不退。難無文証。 約理以成。何者如天中得果。即得不退。浄土亦爾。命長 無病。勝侶提携。純正無邪。唯浄無染。恒事聖尊。由此 五縁。其処無退。内

g

(14)

-14-として、﹃西方要決﹄に依って、位行念処の四不退を彼土に おいて論じているのである。そして、浄土は五つの縁がある ために不退であるといっているのである。 以上で知れるように、﹃往生要集﹄における不退転という のは、あくまでも彼土、極楽浄土においての益でしかないの である。﹃阿弥陀経略記﹄において、不退転を現生のものと したことについて、石田瑞麿氏は、﹁源信の思想では極めて 大きな展開であった﹂と指摘し、﹁従来の浄土教思想がなし えなかった障壁が見事に超克された﹂と評価されているので あ る 。 {102 ところで、この現生不退転については、冒頭にみたように 信受の利益として得るものであった。そして、信受というの は、仏名及び経名を聞くということを指していた。つまり、 阿弥陀仏の名を聞き、この﹃阿弥陀経﹄名を聞くということ、 ぞれはそのまま信受ということに他ならないのである。瀬信 は、﹁聞﹂という行為を﹁信受﹂ととらえたのである。先に みたように、源信は、一心に念ずることを﹁信﹂ととらえ、 信に裏打ちされた称名念仏を往生への正因と説いていた。こ こでも、仏名・経名を聞くことを﹁信受﹂ととらえ、それに よって現生で不退転を得ることができるとしたのである。 ﹃往生要集﹄においては、観念の念仏を説き、極楽浄土の 益として不退転を説いている。それに対して、﹃阿弥陀経略 記﹄では、往生の正因としての称名念仏へと踏みだしており、 現生不退転を説いている。この違いについては、﹃阿弥陀経 略記﹄における信の重視ということが考えられるのである。 信に裏打ちされているからこそ、称名念仏でも足りるし、現 生で不退転にもなれるのである。﹃往生要集﹄においても、 信の問題を説いてはいたが、﹃阿弥陀経略記﹄ほどの信重視 へは至っていなかったといえよう。 おわりに 以上、源信の浄土思想がどのようなものであったかという ことについてみてきたが、先ず第一にいえることは、源信が、 天台の学僧であるという立場をあくまでも堅持していたとい うことである。特に、その念仏観においては、観念の念仏、 なかでも理観を最も勝れたものとする考えを、﹃往生要集﹄ だけでなく、晩年の﹃阿弥陀経略記﹄においても、くずして いなかったということである。 ただ、﹃往生要集﹄が、浄土教史において特筆されるもの であるのは、機根を﹁如予頑魯之者﹂ととらえ、そういう者 が往生するための行法として、念仏を位置づけたことである。 そして、その念仏は理観が望ましいが、﹁如予頑魯之者﹂に 相応するするものとして事観を据え、ぞれさえも出来ない者 に対して称念という道をひらいたことであろう。﹃往生要集﹄ がこのような内容をもったものであったからこそ、二十五三 味会をはじめとした念仏結社の人々にとって、指南の書とな りえたのである。 一方、晩年期に著された﹃阿弥陀経略記﹄においては、そ の念仏観に変化が見えるということは、先にみた通りである。 そして、そういう変他をもたらしたのは、信を重視するよう になったからではないかと推測されるのである。

(15)

このように、源信が信というものを重視するようになった ことについては、二十五三味会をはじめとした念仏結社の活 動が大きな影響を与えているのではないかと考えるのである。 そこに集う人々は、必ずしも学徳の高い僧侶であったわけで はない。しかし、皆浄土への往生をひたすら願って、念仏を おこなっていたのである。例えば、前述した祥連大徳の場合 など、二十五三味会の結衆となって善知識に会えたことで、 往生を確信して臨終を迎えている。彼は従来の天台宗でいう ところの行などはできない人であったのである。それがまさ に﹁信﹂によって臨終正念しているのである。祥連大徳伝に は、彼が極楽へ往生したという話が記されている。 ( 1 0 1 ︾当 時の人々は、そのように信じたのである。源信も恐らくそう 思っていたのであろう。このような文字通り﹁信﹂のみによ って往生したと思われる祥連大徳のような人を見て、源信は 一体どのように考えたのであろうか。源信が信というものを 重視していく契機が、このようなところにあったのではない かと私は考えるのである。 源信は、僧坊に寵もって学問のみに打ち込むということを せずに、﹃往生要集﹄において説いた、往生の行としての念 仏を広めるために、念仏結社運動を展開して、積極的に人々 と交わっていったのである。ところが、そういう活動をおこ なっていくことが、今度は逆に源信の思想に大きな影響を与 え、﹃往生要集﹄において説いていた念仏観というものを、 変他させていったと思われるのである。そして、晩年に著し た﹃阿弥陀経略記﹄には、その変化した念仏観がみてとれる の で あ る 。 ﹃往生要集﹄執筆から二十五三昧会の活動、そして、晩年 の﹃阿弥陀経略記﹄の執筆に至る過程のなかに、このような 源信の浄土思想の変化をみることができると思われるのであ る 。 ︻ 註 ︼ ﹃往生要集﹄末文に、﹁永観二年。甲申冬十一月。於 天台山。延暦寺首梼厳院。撰集斯文。明年夏四月。畢子 其功実。﹂とある(﹃恵全﹄第一、二六八頁)。

2

西村岡紹﹁﹃観心略要集﹄成立考(末)﹂(﹃印仏研 究﹄三七ノ二、平成元年三月)。

3

源信の周辺にいた人であると推測される鎮源撰の﹃法 華験記﹄源信伝に、﹁経論の章疏を造り、顕密の教文を 抄づ八小阿弥陀経疏・対倶舎抄・因明四相違疏注釈・同 断纂なり V 。﹂と出ており、この中の小阿弥陀経疏は、 ﹃阿弥陀経略記﹄を指すと思われる。このことからも、 ﹃阿弥陀経略記﹄は、その真撰を疑う必要のない書物で あるといえよう。なお、﹃法華験記﹄の引用文は、井上 光貞・大骨根章介﹃往生伝法華験記﹄(日本思想体系

7

、岩波書庖、一九七四年)一六

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頁によった。 ところで田村芳朗氏は、﹁阿弥陀三諦説は、﹃阿弥陀 経略記﹄にも見られる。無量寿仏について、﹁無とは即 ち空、量とは即ち仮、寿とは即ち中、仏とは三智即ち一 心の異なり﹂と説いているのが、それである。この点 n o 句 E A

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﹃阿弥陀経略記﹄も、いちおう検討を要するといえよう。﹂ (﹁天台本覚思想概説﹂﹃天台本覚論﹄日本思想体系

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、 岩波書底、一九七三年、五一九頁)として、天台本覚思 想との関連で阿弥陀三諦説の問題をあげて、﹃阿弥陀経 略記﹄の偽撰の可能性を述べられている。 田村氏が指摘されている﹃阿弥陀経略記﹄の問題の箇 所は、次のような文章になっている。 於阿弥陀一党語中。含無量光。無量寿義。無量光者 ・ ( 中 略 ) ・ : ・ 無 量 寿 者 。 : : ( 中 略 ) : : 若 作 観解。無者即空。量者即仮。寿者即中。仏者三智即 一心具。応知。円融三観之智。冥於円融三諦之境。 万徳自然円。名阿弥陀仏。 ( ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 四

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一 頁 。 ) つまり、ここでは阿弥陀という一党語に無量光と無量 寿という義が含まれているのであるということを指摘し、 無量光と無量寿について詳しく説明を加えた上で、無量 寿を空仮中に対応させており、阿弥陀に空仮中を機械的 に対応させているわけではない。いわば無量寿三諦説と でもいうような論法になっているといえよう。 この阿弥陀三諦説の問題に関して、次に﹃正修観記﹄ の文章を見ておきたいと思う。すなわち、 観弥陀名字体用。阿字無。故諸法空寂。弥字量。故 万像森然。陀字寿。故中道実相。此三諦中摂一切法。 是故仏音。以三諦摂一切法。不出三諦。 (﹃恵全﹄第て五一七頁。) とあり、阿弥陀を無量寿に対応させた上で、空仮中に対 応させている。つまり、ここでは、無量寿が空仮中に対 応するということは、自明であったが、阿弥陀に空仮中 が対応することは自明ではないので、ぞれをここで説い ているわけである。これは、﹃阿弥陀経略記﹄の無量寿 三諦説が前提となっているのではないかと思われるので ある。従って、﹃正修観記﹄は、﹃阿弥陀経略記﹄より 発展したかたちといえよう。 更に、偽撰である﹃観心略要集﹄における阿弥陀三諦 説の文章を見てみると、 念仏名者。其意云何。謂於阿弥陀三字可観空仮中三 諦。彼阿者。即空。弥者。即仮。陀者。即中也。 (﹃恵全﹄第一、二七八頁。) とあり、ここでは購躍なく阿弥陀の三字に空仮中を対応 させており、﹃正修観記﹄で見られたような、いったん 阿弥陀を無量寿に対応させた上で空仮中に対応させると いう手続きがとられていない。従って、これは﹃正修観 記﹄より更に発展したかたちであるといえよう。 以上のことより、﹃阿弥陀経略記﹄の無量寿三諦説は、 後の阿弥陀三諦説のもとになったことは確かであろうが、 かなり原初的なかたちであり、三諦説が出てくることだ けをもって、偽撰とすることは、早計であると思われる の で あ る 。

2

﹃阿弥陀経略記﹄序に、﹁子時長和三年甲寅暮九日。 害山沙門調信叙﹂とある(﹃恵全﹄第一、三八一頁)。

3

藤原道綱のことと思われる(八木美恵﹃恵心教学の基 礎的研究﹄永田文昌堂、昭和三七年、四三三頁)。

(17)

﹁天台大師智韻の真撰と認むべき浄土教文献は一部も な く ・ ・ ・ ・ 、 ﹂ ( 佐 藤 哲 英 ﹃ 叡 山 浄 土 教 の 研 究 ﹄ 百 華 苑 、 昭和五四年、四四四頁)とあるように、この﹃阿弥陀経 義記﹄も偽撰である。

3

八木莫恵前掲書、一五九頁 0

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﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 二 六 五 頁 。

5

﹃梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹄の源信伝に、﹁奉読大 乗経五万五千五百巻﹂と記したあとに割註で、﹁法花経 八千巻、阿弥陀経一万巻、般若経三千余巻等也、﹂とあ る(平林盛得﹁梼厳院廿五三味結衆過去帳﹂﹃書陵部紀 要﹄第三七号、昭和六

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年 ) 。 なお、平林氏が紹介されているこの﹃過去帳﹄は、 ﹃恵全﹄第一に収められている﹃首梼厳院廿五三味結縁 過去帳﹄の広本にあたり、より多くの会衆の行業と没年 が記載されている。従って、本論文においては、源信伝 を含めて、この﹃過去帳﹄を参照することにした。 ︹ 1 2 ﹃摩詞止観﹄巻二上(大正四六、一二、

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)

。 ︹ 1 1 ︼﹃止観輔行伝弘決﹄巻二之一(大正四六、一八二、 C ) 。

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佐藤哲英﹃叡山浄土教の研究﹄二五頁。 ( 1 2 ﹃伝教大師全集﹄第一、一四頁。 ︹ 1 2 ﹃叡山大師伝﹄(﹃伝教大師全集﹄第五、附録二七頁) には、﹁弘仁三年七月上旬。造法華三昧堂。﹂とあり、 弘仁三年(八二一)に建てられているようである。 なお、この時代の叡山の建築に関しては、福山敏男 ﹁伝教大師時代の延磨寺の建築﹂(﹃日本建築史研究﹄ 続編、墨水書房、昭和四六年)参照。 6 奈良弘元氏は、常行三昧始修の時期について、最澄の 生前か、もしくは円仁の入唐以前であると指摘されてい る(﹁初期浄土教について!とくに、常行三昧始修の問 題をめぐって

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﹂﹃印仏研究﹄一九ノ一、昭和四五年一 二 月 ) 。 ( 1 6 ︺﹃叡岳要記﹄上(﹃新校群書類従﹄第一九巻、一九八 頁)に、﹁大師承和五年入唐。同十五年帰山。新建立常 行三昧堂。﹂とある。福山敏男前掲論文参照。 ( 1 7 ︺﹃続群書類従﹄第八輯下、六九二頁。 ( 1 8 ︺薗田香融﹁山の念仏ーその起源と性格

l

﹂(﹃日本浄 土教史の研究﹄平楽寺書店、昭和四四年)二二頁。 ( 1 2 石田瑞麿﹃浄土教の展開﹄(春秋社、一九六七年)七 四 頁 。 22 速水惰﹃浄土信何論﹄(雄山閣出版、昭和五三年)一 二八│一二九頁 0 24 佐藤哲英前掲書、三四│三五頁。 22 ﹃続群書類従﹄第八輯下、六九六│六九七頁。 22 山田孝雄﹃三宝絵略注﹄(宝文館出版、昭和二六年。 復刻版は昭和四六年)三五四頁。なお、引用は復刻版に よ っ た 。 ︻ 22例えば、相応(八コ二│九一八)に関しては、﹃天台 南山無動寺建立和尚伝﹄の中に、延喜三年(九

O

三 ) に ﹁調供八月不断念仏之壇供。井供養念仏僧侶。兼供満山 之僧。﹂という記事が出ている(﹃新校群書類従﹄第三 巻 、 八 二 四 頁 ) 。 また、遍照(八一七│八九

O

)

に 関 し て は 、 5 ) n E -a A ﹃ 類 緊 三

(18)

代格﹄の中に、寛平四年(八九二)の太政官符として、 ﹁今此寺従去仁和二年(八八六)以降、所修法花三昧阿 弥陀三味等、故僧正法印大和尚位遍照、為国土豊楽法界 利益、起大弘願所始行也、﹂と出ている(﹃大日本史料﹄ 第一編之二、三七頁)。この阿弥陀三味は不断念仏とみ てよいと思われる(佐藤哲英前掲書、四

O

頁 ) 。 円

2

5

﹃門葉記﹄に、﹁法華・常行両堂行法、康保五年二月 廿九日始行、﹂と出ている(﹃大日本史料﹄第一一編之十 二 、 一 六 六 頁 ) 。 常行堂建立の時期について、奈良弘元氏は、応和二年 (九六二)五月以前まで遡れるのではないかと指摘され ている(﹁横川の常行堂建立の時期について﹂﹃印仏研 究﹄二二ノ一、昭和四八年二一月)。

25

石田瑞麿前掲書、八二頁。 2 3 佐藤哲英前掲書、七

O

頁 。

22

﹃西方慣悔法﹄の成立年時に関しては、佐藤哲英前掲 書、一二三 l 一 二 六 頁 参 照 。 円

2

g

井上光貞﹃日本浄土教成立史の研究﹄(山川出版社、 一九五六年。新訂版は一九七五年)一四七 l 一 五 五 頁 。 なお、引用は新訂版によった。 勧学会から二十五三味会への発展解消説に対しては、 堀大慈氏が、疑問を呈されている(﹁二十五三昧会の成 立に関する諸問題﹂﹃京都女子大学人文論叢﹄第九号、 昭和三九年二月)。この間題に関して、速水氏は、諸研 究者の説を整理した上で、﹁二十五三味会は、基本的に は勧学会の念仏結社的面をうけつ々ところに成立したと みることができる。﹂と結論づけておられる(速水備前 掲 書 、 一

O

四 l 一 一 一 頁 ) 。 A 3 n U ︼﹃恵全﹄第一、一頁。 円 3 1 ) ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 七

O

頁 。 ( 3 2 ︺﹃恵全﹄第一、七四頁。 33 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 七 五 頁 。 A 3 2 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 七 五 頁 。 吉三﹃恵全﹄第一、七四頁。 32 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 八 九 頁 。 3 7 ︺﹃恵全﹄第て九四頁。 ︻ 3 日︺普賢晃寿﹃日本浄土教思想史研究﹄(永田文昌堂、一 九七二年﹀一五四頁。

3g

﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 一

O

八 頁 。

22

﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 一

O

九 頁 。 2 1︼例えば、石田瑞麿﹃浄土教の展開﹄一

O

九 ー 一 一 或いは、佐藤哲英﹃叡山浄土教の研究﹄二ハ一頁など。 2 2︼普賢晃寿前掲書、一五六 l 一 五 八 頁 。 2 2 ﹃摩詞止観﹄巻二上(大正四六、一二、

b

)

。 22 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 一 七 二 頁 。

22

﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 一 七 二 頁 。

2

5

﹃恵全﹄第て一七三頁。 27︺﹃恵全﹄第一、二六六頁。 22 ﹃恵全﹄第て一頁。 22 ﹃二十五三味式﹄のはじめの部分に載っている﹁梼厳 院二十五三昧根本結衆二十五人連署発願文﹂の日付が、 ﹁寛和二年五月廿三日﹂となっている(﹃恵全﹄第一、

(19)

三 六

0

1

三 六 二 頁 ) 。

(

5

2

﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 六 七 一 l 六 七 六 頁 。 ( 5 1 ) 慶滋保胤の起草ということについて、佐藤哲英博士は、 ﹁かりにこれを慶保胤の執筆としてもそのパックには瀬 信がひかえており、八箇条に盛られる構想も、必ずや源 信の指示によるものと考えてよかろうかと思う。﹂と指 摘されている(﹃叡山浄土教の研究﹄一三九頁)。 ︻

5

2

﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 三 五 七 貰 。 ︹

5

2

例えば、小原仁﹃文人貴族の系譜﹄(吉川弘文館、昭 和六二年)の五六頁など。 ( 5 5 堀大慈﹁二十五三昧会の成立に関する諸問題﹂。 ︹ 5 5 源信の撰ということについて、佐藤氏は、﹁その原型 こそ源信の著作ではあろうが、法会儀礼として伝承され る聞に種々の異本も生じたようで、﹂と指摘されている (佐藤哲英前掲書、一五O頁)。 ︻ 5 5 ﹃二十五三昧式﹄(﹃恵全﹄第一、三六一頁)。

23

﹃起請十二箇条﹄(﹃恵全﹄第一、三四O頁)。

22

﹃起請八箇条﹄(﹃恵全﹄第一、三五一貫)。 なお、﹁乗﹂の字は、文意から判断して﹁飛﹂の字の 誤植と思われる。 ︹ 5 旦﹃恵全﹄第一、六七一ー六七二頁。 ︻6 2 堀大慈前掲論文、及び、﹁二十五三味会と霊山院釈迦 講

l

源信における講運動の意義

l

﹂(﹃源信﹄日本名僧 論集第四巻、吉川弘文館、昭和五八年)。 ( 6 1 v 平林盛得﹁梼戯院廿五三昧結衆過去帳﹂祥連大徳伝。 平林盛得﹁梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹂妙空大徳伝。 ︿ 6 2 u 6 3 ) 同 右 、 妙 空 大 徳 伝 。 平林盛得﹁梼厳院廿五三味結衆過去帳﹂。 ﹃二十五三味根本結縁衆過去帳﹄では、仁讃大徳とな っている(﹃恵全﹄第一、六七二頁)。 ( 6 5 平林盛得﹁拐厳院廿五三昧結衆過去帳﹂紹介文より。 吉 7 ︺﹃恵全﹄第一、三六一頁。 { 6 2 ﹃恵全﹄第て三六一ー三六二頁 o ES ﹃恵全﹄第一、三四九│三五八頁。 ( 7 0 ) 堀大慈﹁二十五三昧会と霊山院釈迦講

l

源信における 講運動の意義

1

﹂ 。 ( 7 4 ﹃恵全﹄第一、三三九│三四九頁。 ( 7 Z ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 三 四 七 頁 。 A72石田瑞麿﹁﹃往生要集﹄の思想史的意義(﹃源信﹄原 典日本仏教の思想

4

、岩波書庖、一九九一年)四三二│ 四 三 三 頁 。 ︻ 7 5 速水惰﹃浄土信何論﹄一O四ー一二八頁。 (72平林盛得﹁梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹂前権少僧都源 信 伝 。 ( 7 S 和田悌一﹁源信における密教受容について﹂(﹃印仏 研究﹄二O│二、昭和四七年三月)。 ( 7 7 ︺平林盛得﹁梼厳院廿五三味結衆過去帳﹂祥連大徳伝。 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 三 六 一 頁 。 平林盛得﹁楊厳院廿五三昧結衆過去帳﹂貞久大徳伝。 平林盛得﹁梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹂祥連大徳伝。 井上光貞・大曾根章介﹃往生伝法華験記﹄一六O頁。 ﹃新校群書類従﹄第一九巻、一七九頁。 64 ︺ 65 ︺ -20-7 8 ) 79 ︺ 日 ロ ︺ 日 1 ︺

(20)

華台院が、﹃起請八箇条﹄・﹃起請十二箇条﹄で建立 が企画されていた往生院のことであると思われるのは、 次のような点からである。 良陳阿閣梨の伝に、﹁盛源大徳夢云、於花台院修法事、 彼庭南辺招集廿五三味結衆、次第令入室、聞其講師説法 之音、﹂(平林盛得﹁梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹂良陳 阿闇梨伝)とあり、二十五三味会の法事を花台院で修し ていたことがわかる。また、﹃山門堂舎記﹄華台院の項 に、﹁長保三年恵心院僧都建立。・:・(中略)・:・桧皮 葺安置丈六阿弥陀三体。或巻云。尊者妙雲上人所建立也。 ︿仏師尊儀康尚朝臣等三人造之。﹀小仏者恵心院僧都為 迎講被奉張云々。南仏者花山法皇御造立也。︿仏師者朝 覚造之。﹀﹂とあるが、妙雲上人とは﹃過去帳﹄に﹁発 願造丈六阿弥陀仏像、欲為結縁念仏本尊、其功未了其命 早尽、即今花台院仏是也、﹂(平林盛得﹁梼厳院廿五三 昧結衆過去帳﹂妙空大徳伝)という話が出てくる妙空大 徳のことであると思われ、二十五三昧会の結縁念仏の本 尊にするために造立しようとした仏像が安置されている のであるから、華台院は往生院のことであろうと思われ るのである。更に、華台院に安置されていた仏像が全て、 源信・妙雲(妙空)・花山法皇というこ十五三味会の結 衆であった人の造立であったことも、この推測を裏付け るものであるといえよう。 百三﹃恵全﹄第一、四

O

一 頁 。 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 一

O

七 1 一

O

八 頁 。 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 四 一 一 l 四 一 一 一 一 頁 。 ︹ 向 ︾ q v ︼ ︻ 85 ︼ ( 8 6 ︺ ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 四 一

O

頁 。 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 二 一

O

頁 。 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 一 二

O

頁 。 ﹃恵全﹄第一、二ハ

O

頁 。 ﹃恵全﹄第て一頁。 ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 四 三 五 頁 。 平林盛得﹁梼厳院廿五三味結衆過去帳﹂前権少僧都源 信 伝 。 32 ﹃恵全﹄第て四二五頁。 ( 9 5 2 ﹃恵全﹄第一、四二六頁 o EE ﹃ 恵 全 ﹄ 第 一 、 四 九 頁 。 3 7 ︺﹃恵全﹄第一、六一頁。 吉田)﹃恵全﹄第一、一九七頁。 32 ﹃恵全﹄第一、二二七 l 二 二 八 頁 。 ( 1 0 0 ︼石田瑞麿﹁﹃往生要集﹄の思想史的意義﹂四五三頁。 ( 1 D 1 ︼平林盛得﹁梼厳院廿五三昧結衆過去帳﹂祥連大徳伝。 自 由 ︺ 日 目 ︺ 自 白 ︺ 91 ︺ g ヨ ︺

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