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『 大 東 世 語 』「 仇 隙 」 篇 注 釈 稿

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三七﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶ 〔凡例〕一、

稿は、服部南郭﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇の本文と原注に関する

注釈である。一、 注釈は、早稲田大学大学院教育学研究科二〇一七年度科目﹁国文 学演習﹂(堀  誠担当)の受講生(永瀬恵子・戸丸凌太・荻原大

地・倪晨・橘和久)が講読担当話の発表資料に基づいて原稿化した。

一、 底本は、早稲田大学図書館蔵﹃大東世語﹄(寛延三年︿一七五〇﹀

刊)に依り、また典拠に関しては同館蔵本﹃大東世語考﹄(方寸菴漆鍋稿、寛延四年︿一七五一﹀序)を参考にした。

一、 ﹁仇隙﹂篇の都合五話を、︹仇隙1︺のように順次表記した。

一、 注釈は本文の︹書き下し文︺・︹訳文︺、原注の︹書き下し文︺・︹訳 文︺、及び︹語釈︺、︹典拠︺から構成される。一、 ︹書き下し文︺は、原則として底本の訓点を尊重しつつ、適宜こ

れを改めた。

〔仇隙1〕

平總州①在 任。其子余五將軍②。自 奥來省。從兵頗盛。總州屬 疾 不一レ 風。臥竢 之。使 豎搥一レ 腰。遙見 其入一レ 門。指 其兵居首者③ 。示 豎曰。識 渠邪。曰不 知。總州曰。是殺 女父 者。女時幼

知耳。豎泣起。其夜入 仇舍 。殺 之亡。余五忿且恥。初不誰殺 。然已疑 亡豎 。請 總州追問 。總州曰。吾語 之其仇 爾。定是豎所 爲。而女乃問 之。欲 之邪。設人殺 吾。於 女奈何。

父讐 衟也。吾死。女不 必作 吾喪 者也。怒而起。余五慚懼而謝。 早稲田大学  教育・総合科学学術院  学術研究(人文科学・社会科学編)第六十七号  三七―四七頁、二〇一九年三月

『大東世語』 「仇隙」篇注釈稿

堀     誠

(2)

三八﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶

〔書き下し文〕平總州  任に在るとき、其の子  余五將軍、奥自 り來省す。從兵頗る 盛んなり。總州疾 みて風すべからざるに屬 したがふ。臥して之を竢 つ。豎を して腰を搥 たしめ、遙かに其の門に入るを見る。其の兵の居首の者を 指して、豎に示して曰く、﹁渠 かれを識るや﹂と。曰く、﹁知らず﹂と。總州曰く、﹁是れ女 なんぢの父を殺せる者なり。女  時に幼にして未だ知らざ

るのみ﹂と。豎泣きて起つ。其の夜  仇の舍に入りて、之を殺して亡 す。余五忿りて且つ恥づ。初め誰れか殺すことを知らず。然れども已に亡豎を疑ひ、總州に追問せんことを請ふ。總州曰く、﹁吾  之に其

の仇を語るのみ。定めて是の豎が爲 つくる所なれば、而して女乃ち之を問 ひて、之を殺さんと欲するや。設 し人  吾を殺さば、女において奈何せん。父の讐を復するは衟なり。吾死して、女は必ずしも吾の喪を作

さざらん者なり﹂と。怒りて起つ。余五慚懼して謝す。

〔訳文〕平総州兼忠が在任していた時、兼忠の子である余五将軍維茂が陸奥よりたずねて来た。その従兵は、たいそう威勢がよかった。兼忠は病気

で外気にあたれなかった。そこで床に伏して到着を待った。小姓に腰

を叩かせながら、遠くから従兵が門に入ってくるのを見ていた。兼忠は兵の先頭にいる者を指すと、小姓に﹁あの男を知っているか﹂と尋

ねた。小姓は﹁知りません﹂と答えた。兼忠は、﹁あの男はお前の父

親を殺した者だ。お前は幼かったから知らないのだ﹂と言った。小姓は泣きながら立ち去った。その夜、仇の住処に入ると、その男を殺め て逃げ去った。維茂は怒り、かつ恥じた。当初は誰が殺したのかが分からなかった。しかしながら逃げ去った小姓をはやくも疑うと、兼忠に事を追及してくれるようにと頼んだ。兼忠は、﹁わたしはその小姓

に仇敵のことを打ち明けただけだ。確かにその小姓がしでかしたのな

らば、お前はその者を問い探して殺そうとするのか。もし人がわたしを殺したならば、お前はどうするのか。父親の仇を討つのが道理であ

ろう。わたしが死んでも、お前は必ずしもわたしの弔い(報復)をし

ない者なのだな﹂と言い放って、怒って立ちあがった。維茂は、恥じいって許しを請うた。

︹原注︺①兼忠。②維茂。一云。維茂父繁盛。

③字太郞介。

︹書き下し文︺

①兼忠なり。②維茂なり。一に云ふ、維茂の父  繁盛なりと。

③字は太郞介なり。

︹訳文︺①兼忠である。

②維茂である。一説に、維茂の父は繁盛である。

③字は太郎介である。

(3)

三九﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶ 〔語釈〕平總州  平兼忠。生没年未詳。平安時代中期の武人。﹁總州﹂は上総

国・下総国の総称。典拠によると、平貞盛の弟・繁盛の子で

ある。

余五將軍  平維茂。生没年未詳。平安時代中期の武人。上総介平兼忠の子であるが、﹃尊卑分脈﹄では陸奥守繁盛の子とされる。平

貞盛の十五男として養子に入り、のちに鎮守府将軍となった。

十五男(十余り五)であったため、余五将軍と称された。繁盛平繁盛。生没年未詳。平安時代中期の武人。常陸国の豪族。陸

奥守、正五位下。天慶三年(九四〇)、藤原秀郷や兄・貞盛と

ともに平将門の追討に活躍した。奥陸奥。陸奥国。

來省たずねて来る。

豎小姓。したやく。しもべ。

搥うつ。たたく。居首前にいる。はじめにある。

太郞介  伝未詳。維茂が従える随一の郎等か。

亡逃げる。逃れる。追問過ぎ去った昔をたずね問う。問いつめる。追及する。

喪弔い。ここでは、仇討ち、弔い合戦の意か。

慚懼恥じおそれる。恥じいる。 〔典拠〕﹃今昔物語集﹄巻第二十五―四﹁平維茂が郎党殺さるる事﹂。

(永瀬  恵子)

〔仇隙2〕

堀川相國①病革。門有 車聲 。門者通云。公弟大將至。相國平日不 協。聞 之蹶然喜曰。嘻。吾今臨 盡。吾弟尙有 懿親之情 。疇昔之鬩。誠復可 忘。顧當 相見永訣。且語 執政讓代之意 耳。扶起而遲。

俄云。車徑過入 禁門 。相國大忿恥。乃起命 車馬 。著 朝服 而入。

時大將以爲公已薨。欲 速奏 請代事 。既在 上前 。忽見 相國 愕避。相國聲色甚惡。乃跪奏曰。臣今將 終。願一奏 除目 。卽令 賴 忠代 執政 。奪 兼家大將 。以 濟時 闕。行訖。便歸 第而薨②。

〔書き下し文〕

堀川相國  病革 あらたなり。門に車聲有り。門者通じて云く、﹁公弟大將至る﹂と。相國  平日不協なり。之を聞きて蹶然として喜びて曰く、

﹁嘻 ああ、吾今 いま  盡に臨む。吾が弟尙ほ懿親の情有り。疇昔の鬩 げき、誠に復 た忘るべし。顧 おもふに當に相ひ見て永訣し、且つ執政讓代の意を語るべきのみ﹂と。扶け起こされて遲 つ。俄にして云ふ、﹁車徑 ただちに過ぎて

禁門に入る﹂と。相國大いに忿り恥ぢて、乃ち起ちて車馬を命じて、

朝服を著て入る。時に大將以 爲へらく公已に薨ずと。速やかに代事を奏請せんと欲す。既に上の前に在り、忽ち相國を見て、愕 おどろき避く。相

(4)

四〇﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶

國  聲色甚だ惡し。乃ち跪きて奏して曰く、﹁臣  今將に終へんとす。願はくは一たび除目を奏せん﹂と。卽ち賴忠をして執政に代へしめ、

兼家が大將を奪ひ、濟 なりときを以て闕に充つ。行し訖 をはりて、便ち第に歸り

て薨ず。〔訳文〕藤原兼通(堀川相国)は病気が重くなった。門前に車の音が聞こえ、

門番は、﹁弟君の藤原兼家様(大将)がいらっしゃいました﹂と知ら

せた。兼通は普段から弟とは仲が悪かった。このことを聞いて跳ね起き喜んで言った、﹁ああ、私は今命が尽きようとしている。弟にはや

はり近親者としての心情があるのだ。昔の言い争いは本当にまた忘れ

なければならない。考え直して互いに会って永遠の別れを述べて、さらに実権を譲る意向を伝えるのがよかろう﹂と。兼通は助けてもらい

体を起こして弟を待っていた。すると突然、﹁車はそのまま通り過ぎ

て御所に入りました﹂と従者が言った。兼通は非常に怒って恥辱に思

い、立ち上がって車馬の用意を命じて、朝服を着て参内した。このとき兼家は兼通がすでに亡くなったと思っていた。そこで速やかに関白

の後任のことを奏上しようとした。すでに天皇の御前にいたが、思い

がけず兼通を見るや、驚いて立ち退いた。兼通の声や顔色はとても悪かったが、跪いて奏上した、﹁私は今まさに命が尽きようとしていま

す。どうかひとたび除目を奏上させて頂きたい﹂と。その場で頼忠を

関白の後任とさせ、兼家の大将の職を剥奪し、済時をその欠員に充てた。奏上をし終えるや屋敷に帰ってまもなく亡くなった。 ︹原注︺①兼通。九條公師輔第二子。關白太政大臣。謚忠義公。② 初圓融帝母后藤氏。九條相國女也。爲 其兄弟 。遺 書請 帝曰、

執政必用 其次 。故長兄謙德公伊尹、已爲 相薨。其弟忠義公兼 通爲 相、卽堀川公也。大將兼家第三弟。自謂固値 其序 。以不協故 。事至 相忤

︹書き下し文︺

① 兼通なり。九條公師輔の第二子にして、關白太政大臣なり。謚は忠義公なり。

② 初め圓融帝の母后藤氏、九條相國の女なり。其の兄弟の爲に、書 を遺して帝に請ひて曰く、﹁執政必ず其の次を用ゐよ﹂と。故に長兄の謙德公伊尹、已に相と爲りて薨ず。其の弟  忠義公兼通 相と爲る、卽ち堀川公なり。大將兼家は第三弟なり。自ら謂へら

く﹁固より其の序に値ふ﹂と。不協の故を以て、事相ひ忤 さからふに

至る。︹訳文︺

① 兼通である。藤原師輔の第二子で、関白太政大臣となった。諡は 忠義公である。② もともと円融天皇の母后は藤原安子で、藤原師輔の娘である。兄

弟のために、書きつけを残して帝に懇請していった、﹁摂政・関

白は必ず順番通りに任じて下さい﹂と。そこで長男の伊尹は、すでに太政大臣となって亡くなられた。(亡くなられて、)その弟の

(5)

四一﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶ 兼通が太政大臣となった。これが堀川公である。大将の兼家は三男である。兼家は自分で思った、﹁言うまでもなくその順序にか

なっている﹂と。不仲であったために、取り決めに逆らうことに

なった。

〔語釈〕堀川相國  藤原兼通。九二五~九七七。諡は忠義公。平安中期の公卿。

天慶六年(九四三)に従五位下に叙せられ、安和二年(九六九)

正月に参議となる。天禄三年(九七二)十月に摂政太政大臣伊 これ

まさが病気のため辞表を提出すると、兼通・大納言兼家は円融天

皇の前で直ちに摂政を停めることを主張して、次の摂政になる

ことを両者で言い争った。同年十一月に伊尹が没した後、大納言を経ずに内大臣に任じられ、左大臣源兼明・右大臣藤原頼

忠、大納言兼家らを超越し政務の実権を握った。天延二年(九

七四)三月に円融天皇の関白となる。しかし、病気となり、十

月には関白・氏長者を藤原頼忠に譲り、大納言兼家を右近衛大将から治部卿に左遷した。相国は太政大臣の唐名。ここでは関

白の意味。

大將藤原兼家。九二九~九九〇。平安中期の公卿。天暦二年(九四八)に従五位下、参議を経ず安和元年(九六八)に兄兼通を超

越して従三位、天禄三年(九七二)閏二月に大納言と兼通に先

んじて昇進した。同年十月に摂政太政大臣伊尹が病気のため辞表を提出すると、円融天皇の前で権中納言兼通と摂政の後継を 争った。兼通は同年十一月に伊尹が没すると大納言を経ずに内大臣になり政務の実権を握った。そして兼通は貞元二年(九七七)四月に藤原頼忠を左大臣とし、十月には頼忠に関白を譲り、

兼家は同時に右近衛大将から治部卿に左遷され蟄居した。天元

元年(九七八)六月に兼家は再び参内し、十二月に頼忠が太政大臣となるとともに右大臣となった。永祚元年(九八九)十二

月に太政大臣、正暦元年(九九〇)五月に関白となるが直ちに

辞して出家、関白を道隆に譲った。革   病気が重くなること。また危篤になること。

不協  不仲。仲が悪い。

蹶然  驚く様子。慌てる様子。盡   寿命が尽きること。臨終。

懿親  うるわしい情愛を有する親族。近親。

疇昔  むかし。以前。

鬩   言い争い。執政  国政を執り行うこと。またその任に当たる摂政や関白を表す。

上   円融天皇。九五九~九九一。村上天皇の第五皇子。安和二年(九

六九)九月二十三日に即位する。永観二年(九八四)八月二十七日、皇太子師貞親王に譲位。寛和元年(九八五)に病気によ

り出家、法名を金剛法と称し、正暦二年(九九一)二月十二日

に円融寺で崩じた。天皇が三十三歳の壮年をもって崩じたた

め、藤原道隆・道長による摂関全盛の出現をみた。

(6)

四二﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶

禁門  宮城の門。皇居の門。転じて、皇居をいう。除目  平安時代以降、京官、外官の諸官を任命すること。また、その

儀式。

賴忠  藤原頼忠。九二四~九八九。平安中期の貴族。諡は廉義公。天

慶四年(九四一)に従五位下、応和三年(九六三)に参議、天禄二年(九七一)に正三位右大臣となる。同三年(九七二)十

月に摂政太政大臣藤原伊尹が辞表を提出し、その弟権中納言藤

原兼通・大納言藤原兼家が摂政の地位を争った時、伊尹と親しかった頼忠は兼通を支持し、十一月に伊尹が没すると氏長者と

なるが、天延二年(九七四)に氏長者を兼通に譲る。貞元二年

(九七七)十月に兼通が没すると円融天皇の関白・氏長者となり、天元元年(九七八)に太政大臣となる。

濟時  藤原済時。九四一~九九五。平安中期の公卿。小一条大将と称

される。父は藤原師尹、母は藤原定方の女。天徳二年(九五八)

正月に従五位下に叙位。侍従・左近衛少将・左中弁・春宮亮などを経て、貞元二年(九七七)十月に右近衛大将を兼ね、正暦

二年(九六一)九月に大納言に進んだ。長徳元年(九九五)四

月二十三日、正二位大納言兼左近衛大将で没した。九條公師輔  藤原師輔。九〇八~九六〇。平安中期の公卿。九条右大

臣、坊城右大臣とも称される。延長元年(九二三)九月に従五

位下に叙位。侍従・右兵衛佐などを経て、天慶元年(九三八)六月には七人を超えて権中納言・従三位となり、天暦元年(九 四七)四月に右大臣に進み、同九年二月に正二位に叙位された。天暦四年(九五一)七月に、女安子の生んだ憲平親王(冷泉天皇)が立太子したために、師輔は外戚としての地位を固

め、以後子孫は摂関の地位を独占することとなった。九條相国

も同じ。母后藤氏  藤原安子。九二七~九六四。村上天皇の中宮。天慶三年(九

四〇)四月十九日に、飛香舎において成明親王(村上天皇)と

結婚し、同九年に女御となり、天暦十年(九五六)従二位に叙し、天徳二年(九五八)に立后、中宮を称し、選子内親王を出

産した数日後の康保元年(九六四)四月二十九日に、主殿寮に

崩じた。

謙德公  藤原伊尹。九二四~九七二。平安中期の公卿。諡は謙徳公。一条摂政と称す。天徳四年(九六〇)に参議となる。安和の変

直後の安和二年(九六九)三月に大納言となり、叔父師尹とと

もに陰謀の中心の一人と目される。同八月に円融天皇が即位、娘の冷泉女御懐子所生の師貞親王(花山天皇)が東宮に立った。

翌天禄元年(九七〇)正月に右大臣、五月に天皇外伯父として

摂政に任じ、七月に従二位、同二年(九七一)十一月に正二位太政大臣となる。

〔典拠〕﹃大鏡﹄﹁太政大臣兼通﹂。(戸丸  凌太)

(7)

四三﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶ 〔仇隙3〕 兼家臨 終。欲 諸子 。表以爲 代。問 藤有國 。我子誰

其器 。答曰。第二公是也①。又咨 平惟仲。掾史國平等 。咸曰。諸郞君自有 序。於 是表 請長子衟隆 。衟隆遂得 關白 。乃云。

我自适長。得 此不 甚欣 。但亦所 幸者。有 有國 耳。

幾。有國父子被 除名 。乃知 公所一レ 中②。

〔書き下し文〕

相公兼家終に臨み、諸子を擇び、表して以て代と爲さんと欲す。藤

有國に問ふ、﹁我が子誰か其の器に堪へたるか﹂と。答へて曰く、﹁第二公是なり﹂と。又た平惟仲、掾史國平等に咨 ふ。咸曰く、﹁諸郞君

自ら序有り﹂と。是に於いて長子衟隆を表請す。衟隆遂に關白に拜せ

らるることを得たり。乃ち云く、﹁我自ら适長なり。此を得るも甚だ

欣ぶに足らず。但だ亦た幸ひとする所は、有國に報ずることを得ること有るのみ﹂と。幾くも無くして、有國父子除名せらる。乃ち公の爲

に中 てらるることを知る。

〔訳文〕参議兼家は死に臨み、子供達を選んで、(その子を)自分の後継者と

して上奏しようと思った。藤原有国に尋ねていうには、﹁私の子のう

ち、誰がその器量として十分か﹂と。答えて言うことには、﹁御二男(道兼)がふさわしい﹂と。また、平惟仲と下吏の国平などに相談した。 皆が言うことには、﹁御子息には長幼の序があります﹂と。これによって、長男の道隆を後継者として上奏した。道隆は遂に関白に拝命されることができた。そこで言うことには、﹁私は生まれながらにして嫡

子であった。関白を得ても大げさに喜ぶことではない。ただ、幸いな

ことは、有国に報復する機会を得られたことだ﹂と。ほどなく、有国父子は除名された。ここに、道隆に報復されたことが分かった。

︹原注︺①衟兼。② 有國。始事 相公兼家 。以 才幹 任遇 。除名中廢。後復 在 御堂時 。與 平惟仲 共執 事。竝見 任用 。官職累進。人 以爲 一雙 。︹書き下し︺

①衟兼なり。

② 有國なり。始め相公兼家に事 つかふ。才幹を以て任遇せらるるも、除

名中廢せらる。後に復た御堂の時に在りて、平惟仲と共に事を執る。竝んで任用せらる。官職累進し、人以て一雙と爲す。

︹訳文︺①道兼である。② 有国である。当初は相公の兼家に仕えた。才能によって、重要な

役職に任じられて処遇を受けた。除名によって廃された。その後、

また道長の時になって、平惟仲とともに政務を執り、共に任用された。官職は累進した。人は双璧と称した。

(8)

四四﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶

〔語釈〕相公  宰相。参議。

兼家

  ︹仇隙2︺

︹語釈︺﹁大將﹂の項を参照のこと。

代   後継者。

藤有國  藤原有国。九四三~一〇一一。平安時代中期の公卿。父は藤原輔道。秦有時殺害事件に関与して除名されたが、後に許され

る。長徳二年(九九六)には、在国から有国と改名した。

平惟仲  九四四~一〇〇五。父は平珍材。宇佐宮宝殿に封をしたことから、同宮司の訴えにより、権帥の権限を停められる。

掾史國平  掾吏のことか。下級の役人の意。﹁國平﹂は未詳。

郞君  若い貴公子。また、主家の息子を敬っていう言葉。衟隆  藤原道隆。九五三~九九五。父は藤原兼家で、その長男。同母

弟に藤原道兼、藤原道長がいる。子の伊周に内覧の宣旨を受け

て公事を行わせ、伊周に関白を譲ろうとしたが許されず、自

ら関白を辞して再度、伊周の関白就任を奏請するが許されなかった。

适長  跡取り。嫡男。適は嫡に通じる。

除名  有位者の位階・勲等すべてを剝奪し、七年後でなければ再び叙位されないとする律の処分。

御堂  藤原道長。九六六~一〇二七。藤原兼家の五男。外戚となって

内覧・摂政・太政大臣を歴任し、栄華を極めた。関白になった事実はないが、御堂関白と称された。 中廢  中止。中途で止める。

〔典拠〕﹃江談抄﹄巻一―第三十二話﹁大入道殿中関白に譲り申さしめ給ふ事﹂。

(荻原  大地)

〔仇隙4〕

藤隆方①罵 藤實政 曰。僥倖多年。成 得何事 ②。

〔書き下し文〕

藤隆方  藤實政を罵りて曰く、﹁僥倖多年、何事をか成し得たる﹂と。

〔訳文〕藤原隆方は藤原実政を﹁長年幸いに恵まれながら、一体何事をなし得

たのか﹂と罵った。

︹原注︺①左京大夫隆光之子。左中辨備後守。② 實政爲 東宮學士 。老成見 遇。而延久帝在 東宮 久矣。故罵 及 此。實政密言 東宮 。卽位後、隆方被 中失意。

︹書き下し文︺①左京大夫  隆光の子なり。左中辨備後守なり。

② 實政  東宮學士と爲る。老成して遇せらる。而して、延久帝  東 宮に在ること久し。故に罵りて此れに及ぶ。實政  東宮に密かに言ふ。卽位の後、隆方中 てられて失意す。

(9)

四五﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶ ︹訳文︺①左京大夫隆光の子であり、左中弁備後守である。② 実政は東宮学士であったが、年老いてから抜擢された。一方、後

三条天皇は長い間皇太子(尊仁親王)でいたままであった。そこ

で藤原隆方は罵ってこのように言い及んだ。実政は皇太子にこれを密かに話した。尊仁親王が即位して後、隆方はそのことを中傷

されて前途をはかなんだ。

〔語釈〕藤隆方  藤原隆方。一〇一四~一〇七八。平安後期の官人。備中守隆

光の二男。母は但馬守源国挙女。官歴は、寛徳元年(一〇四四)

右衛門少尉に任じてより、蔵人、左衛門少尉兼検非違使、永承元年(一〇四六)従五位下、次いで周防守兼中宮権大進、右衛

門権佐、蔵人備後守を経て、治暦元年(一〇六五)右中弁、延

久元年(一〇六九)権左中弁正四位下、承保二年(一〇七五)

左中弁、承暦元年(一〇七七)但馬守。また、多芸で所能十八を数えたといい、才学を認められて小弁を経ずに右中弁に任ぜ

られ、天喜四年(一〇五六)六月の殿上詩合では詩人に選ばれ

ている。左京大夫  律令制で、左京(平城京・平安京の東半部)の行政・財

政・司法などを司った長官。

藤隆光  藤原隆光。九七三~没年未詳。平安時代中期の貴族。藤原北家高藤流、右衛門権佐・藤原宣孝の子。官位は正四位下・備中 守。各国の受領を歴任した。左中辨

  太政官の判官の一つで、左弁官局の次官。左大弁の次に位

する。

備後守  備後は山陽道八か国の一国。古くは吉備国の一部。大化改新

後に吉備国が備前・備中・備後の三か国に分割されて成立。鎌倉時代は土肥・長井氏が守護、南北朝時代以後細川・山名・毛

利氏などが領有。備後守は備後地方の長官。

藤實政  藤原実政。一〇一九~一〇九三。平安中・後期の公卿。資業の男。母は源重文の女。兄弟に実家・実綱がおり、子に敦宗・

清宗らがいた。長暦元年(一〇三七)文章得業生となり、のち

六位蔵人、式部少丞大内記、東宮学士、文章博士、左中弁、右大弁、蔵人頭等を務め、承暦四年(一〇八〇)八月十四日六十

二歳で参議。

僥倖  思いもかけぬしあわせ。もっけの幸。又、それを求めること。

東宮學士  律令制で、皇太子に経書を講義する官人。延久帝  後三条天皇、第七一代天皇(在位一〇六八~一〇七二)。名

は尊仁。後朱雀天皇の第二皇子。藤原氏の専権を抑え、荘園整

理令発布や記録荘園券契所の設置などを行い、政治の刷新に努めた。

〔典拠〕﹃今鏡﹄﹁すべらぎの上﹂第一﹁司召﹂。(倪  晨)

(10)

四六﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶

〔仇隙5〕

源大將軍。猜 忌廷尉 。遂至 不協 。乃謂 人曰。吾嘗欲 諸弟 堪 將者 遣西征 。豫設 湯匜 。燋 熱其提 。臨 盥呼 諸弟 注。皆駭 其燋一レ 手。舍而退。至 九郞 。手捉 熱提 。神色不 變。徐注

畢。果將有 大功 。然非 久屈 吾下

〔書き下し文〕源大將軍、廷尉を猜忌し、遂に不協に至る。乃ち人に謂ひて曰く、﹁吾

嘗て諸弟の將に堪へたる者を試みて遣はして西征せんと欲す。豫 あらかじめ湯 匜 を設け、其の提を燋熱し、盥 かんするに臨みて諸弟を呼びて注がしむ。皆其の手を燋 くに駭 おどろき、舍 てて退く。九郞に至り、手熱提を捉へて

神色變ぜず、徐 おもむろに注ぎて畢はるに至る。果たして將として大功有り。

然れども久しく吾が下に屈する者に非ず﹂と。

〔訳文〕源大将軍頼朝は衛門尉の義経のことを疑って嫌い、結局は不仲になっ

た。そこで人に言うことには、﹁私は以前、弟達の中で将軍の任に堪

えうる者が誰かを試し、その者に西国を討伐させようとした。あらかじめ湯を注ぎかける容器を準備し、その取っ手を熱し、湯を注ぎかけ

る時に弟達を呼び、その器から湯を注がせた。皆その手を焼くほどの

熱さに驚き、器を放り出して退散した。九郎の番になると、熱い取っ手を握っても顔色を変えず、ゆっくりと湯を注ぎ終えた。案の定、九 郎は将軍として大功を立てた。しかしながら、長らく私の下に屈服する者ではあるまい﹂と。〔語釈〕源大將軍  源頼朝。一一四七~一一九九。父である源義朝が平治の

乱で敗れた際に伊豆に流されたが、その後平氏追討の兵を挙げる。東国武士を糾合して東国での支配権を確立すると、弟の源

範頼と義経らに源義仲を討たせ、更に平氏を滅ぼさせた。武家

政権の樹立を目指して精力的に動き、一一九二年には征夷大将軍に任じられた。

猜忌  疑って嫌う。ねたみ嫌う。

廷尉  衛門佐及び尉の唐名。検非違使と兼任することが多かった。ここでは源義経を指す。

不協

  ︹仇隙 2︺︹語釈︺﹁不協﹂を参照のこと。

諸弟  弟たち。典拠である﹃源平盛衰記﹄によれば、この時試された

のは源範頼(蒲冠者)、小野冠者(小野朝信)、義経の三人であるという。なお、小野朝信は頼朝の弟ではないが、源氏の一門

である。

湯匜  湯を注ぎかける器。﹁匜﹂とは手を洗う水を入れて注ぎかけるための器のこと。

提   取っ手。

盥   上から水を注いでもらいながら手を洗うこと。九郞  源義経。一一五九~一一八九。源義朝の九男であることから九

(11)

四七﹃大東世語﹄﹁仇隙﹂篇注釈稿︵堀︶ 郎と称した。義朝が平治の乱で敗れた後、鞍馬寺に入るが、のちに陸奥の藤原秀衡のもとに身を寄せた。その後、兄である頼朝の陣に加わり、平氏を滅ぼすという多大な戦功を上げた。しかし、頼朝の許可無く後白河法皇から官位を受けたため頼朝と不仲になり、反逆を企てるも失敗。奥州に逃れて再度秀衡を頼る。秀衡の死後にその息子である泰衡に攻められ、自害。

神色  顔色。

〔典拠〕﹃源平盛衰記﹄巻第四十六﹁頼朝義経中違ふ事﹂。

(橘  和久)

参照

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「に桐壺のみかと御位をさり、 朱雀院受禅 有と見るへし。此うち 、また源氏大将に任し

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