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第1章 住宅への視線

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第1章 住宅への視線

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はじめに

序論でも述べたように、佐藤功一は、早稲田大学の建築学科創設間もない大正2年

(1913)に、 「住宅建築」を開設している。大学カリキュラムに「住宅」を導入するとい うことは、日本初の試みであった。このことについては、一般に東京帝大、京都帝大との 差異を持たせるために仕掛けたもの、との理解がなされているようである。しかし、その ような視点のみによる理解は、佐藤と住宅との関わりの本質的意味を抹消してしまうであ ろう。本章では、佐藤功一の「住宅」への視線の特質とその契機について論じてみたい。

第1節 佐藤功一の住宅論

佐藤功一は、住宅に関する言説を多数遺している。その主要なもののほとんどは、『佐 藤功一全集 第4巻』1) に所収されている。以下に、その目次を転記する。

・住宅及び住家の意義とその役目

・動物の家

・住宅史物語

・新婚の家庭に住宅の研究をすゝむ

・蓋・壁・床

・坐法の變遷

・日本人の傳統的住宅観

・寒暑に對する家の形態

・夏涼しい家

・夏居三態

・冬と住宅

・時代の要求する住宅

・室内の光線と空氣と慍度

・文化觀と住宅觀

・近代住宅の傾向

・これからの住宅建築

・住宅の近代的趨勢

(3)

・住宅建築に現はれたる時代の姿

・住宅を中心としての生活改善論

・何んな住宅が健康に適するか

・住宅所感十項

・住宅の本質的及び人文史的考察と耐火建築

・面壁閑話

・片窓録

・小住宅の例二つ

・住宅と庭園

・牆裡雜爼

・建物とあかり

・家の檢分

・別荘と自然

・文化村を見る人の為に

・家相の話

・共同住宅

・郊外住宅と田園都市

・住宅問題と住宅政策

・住宅敷地の選定

・住宅と日光

・窓の話

・窓の構造

・出入口及戸

・住宅間取上の注意

・玄関と衣帽室

・ベランダとバルコニー

・客座敷と床の間

・應接間と客室

・食堂と食卓

(4)

・食堂の装ひ

・臺所の話

・寝室の話

・育兒室

・便所の話

・室のいろいろ長州風呂

・住宅の給水

・住宅の給湯

・住宅の暖房

・住宅の換氣

・住宅の照明

・排水と汚水浄化

・掃除と消毒

以上、本書の目次を通覧しても分かるように、佐藤功一の住宅論は、住宅における生活 の機能的・設備的改善、すなわち換気、照明、採光、防犯、給・排水、空調等の充実といっ た観点にほぼ集約されている2) 。唯一、「食堂の装い」3) において、食堂の意匠的側面に言 及しているのが、例外といえる。実際、『佐藤功一博士』にも「遺稿」として所収された

「住宅及び住家の意義とその役目」4) で佐藤は、次のように論じている。

要するに住宅の目的は、住む者がそれによつて完全に生を營み得る事を第一義とすべ きものである、即ち自然の脅威及び他物からの一切の迫害に對する避難所であると同時 に、其の中に於いて自己及び家族の安息を得て、家政を營み一家團欒の楽しみをなし、

これによって社會に於ける活動の能率を推進し得て、出來る丈長く安寧に長壽を得るこ とでなければならぬ筈である。

一方、「文化觀と住宅觀」「近代住宅の傾向」等、住宅の社会的役割について論究した 文章も所収されている。しかしながら、内容を見ると、何れも先述したような住宅観から 大きく離れたものではないことがわかる。

(5)

「即ち文化住宅とは如何」といふ問題に對して、「文化住宅とは住宅に於いて客間、

食堂、書齋を硝子窓椅子式にし、臺所に出來得る丈け科学的設備を行ふにある」という 言葉を以つて答案として差支ないと思ふ。(「文化觀と住宅觀」5) )

然らばどういふ風に住宅費を増すのであらうか、もつと贅澤な家を造り材料の良い家 を造り形の美しい家を造り、装飾を餘計に附けることであるかといふとさういふことで はないのであります。それならばどういふ事にその費用を使はうとするのかと申します ともつと安全で便利で、衛生的な、明るく氣持の良い、生活に便利な住宅を造らうとい ふのであります。住宅は家庭の容器であります。我々の家庭を容るゝ器物でありますか ら、これをもつと合理的に良いものにしようといふ考なのでありまして、これが住宅に 對する近代的傾向であります。(「近代住宅の傾向」6) )

このように、住宅を「家庭の容器」とし、衛生的で便利な家、すなわち「住みよい」住 宅を科学的に探究すべきであるという意識において、佐藤の住宅観は一貫している。興味 深いのは、「家相の話」7) で、「家相は迷信ではない」としながら、むしろその迷信的な 部分を科学的に解明し、住宅の間取りに生かそうという考え方を示している点や、「近代 的生活」を営む為に、とくに応接間や客間といった公的な空間においては「椅子式」にす べきであることを奨励している点である。特に椅子座の奨励については、先に引用した

「文化觀と住宅觀」等でも述べられているが、「住宅建築に現はれたる時代の姿」に於い て佐藤はさらに、「床の間の利用法の一つとしては床の框を一段高くあげて疊を敷き長椅 子のやうな意味にして、前へテーブルなどを置くのも一案でせう」と述べている。日本建 築史にも造形が深く、「客座敷と床の間」8) という小論で書院造りの歴史と構成について 詳しく論じている佐藤が、床の間を「長椅子」として用いることを提案している点は、異 様ですらある。ここには、住宅を「家庭の容器」とし、徹底的に生活の機能的・設備的改 善を一義とする佐藤の住宅観が顕著に表出しているといえよう。

第2節 佐藤功一と住宅作品

前節で論じたように、佐藤功一の住宅論は、徹頭徹尾「採光」、「給水」、「通風」と

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いった環境・設備面を重視したものであった。一方、建築 家としての佐藤功一は、意外なほどに住宅作品を遺してい ない。しかし、内容を確認し得る住宅作品には、顕著な時 代的傾向が見られ、興味深い。

 次章で「中期」に分類する時代の内でも比較的初期、例 えば、自邸(大正15)、反町邸(同、次節で詳述)といっ た震災直後の作品は、どちらもRC造9)  の直方体を組み合 わせた構成的な作風で、意匠的な要素がきわめて少ない。

内部については見るべきディテールが少なくないものの、

  図3 佐藤功一自邸10)       こと外観に関しては、禁欲的なまでに寡黙なデザインと なっている。自邸では、エントランス部分の無装飾なアー チと若干のステンドグラス程度が「意匠的」な部分として 指摘し得る。まったく同時期に建てられた反町邸について も同様で、南側の三連アーチ以外は、構成主義的な全体像 が支配しており、自邸に通じる禁欲的な意匠となっている。

これらは、前章で論じた「様式」への視線とはまったく独 立した意識で設計されていることは明らかであり、むしろ     図4 同上11)     「構造派」として知られる佐野利器の自邸を思わせる作風と

なっている。

一方、昭和8年以降の作品、足立邸(昭和8)、

田口邸(同9)、林屋邸(同10)等の作品は、

    図5 同上1階平面図12)      図6 反町邸13)

(7)

前述の2作品に比べると、明らかに外観の 意匠に趣向がこらされている。構造は何れ も木造とし、足立邸は洋風のハーフティン バー、田口邸はやはりハーフティンバ−と しながら、垂木・隅木を強調した和洋折衷 としつつ、タイル張りも加味している。林 屋邸は、漆喰及び下見板張りとしており、

和風の色合いが強い作品となった。      図7 足立邸14)  こうした作風の変化は、おそらく前節で

論じた「住宅論」への依拠の度合いの変化 によるものと考えられる。すなわち、比較 的初期の二作品で佐藤は、住宅における重 要因子とした「採光」、「通風」をはじめ とする環境・設備面を徹底した。換言すれ ば、これら二作は佐藤の「住宅論」を直截

的に応用した実験的作品であったと考える       図8 田口邸15) ことができる。その反動として、あるいは

そう した要素を引き立たせるため、外観は 極力意匠的な効果が抑えられたのであろう。

 一方、足立邸をはじめとする作品で佐藤 は、前二作の実験的傾向を改め、意匠に趣 向をこらしている。このような変節の理由 には、佐藤の「自省」があったのではない

か。すなわち、住宅における重要点が環境       図9 林屋邸16)

環境・設備面にあるという持論は維持しつつ、日常の生活を営む上で、やはり様々な意匠 も欠かせないものであると思い至ったのであろう。逆説的に言えば、自邸、反町邸といっ た比較的初期の実験的作品こそ、佐藤功一の「住宅」観を率直に示していると言い得るか もしれない。

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第3節 反町邸

1)施主の反町茂作について

前節でも述べたように、 佐藤功一の遺した住宅作品は思いのほか少ない。そのなかでも、

 反町茂作邸は都内に現存する佐藤功一設計の住宅として数少ないものであり、前述したよ うな比較的初期の作品として、佐藤の住宅観を率直に示したものと考えられる。

本節では、平成5年(1993)7月に行なった実測調査17) 及び、反町家に保管されていた 設計図面などに基づき、反町茂作邸の概要と特質を述べた後、そこにあらわれている佐藤 功一の住宅観について考察する。

まず、本邸の施主である反町茂作氏について簡単に記す。反町茂作氏は、は明治21年、

新潟県に生まれた実業家である。明治44年(1911)に早大大学部商科を卒業した後、東京 動産火災保険株式会社および東新火災保険株式会社の社長、昭和17年(1942)には損害保 険協会理事に就任するなど、保険業界の発展に大きく寄与した人物である。一方、昭和21 年(1946)〜28年(1953)にかけて早稲田大学理事を、同29年(1954)〜35年(1960)

には同じく幹事を歴任する傍ら早稲田大学評議員、商議員を務めるなど、昭和の早稲田大 学史においても重要な役割を果たしており18) 、早稲田大学建築学科の初代主任教授であっ た佐藤功一が反町茂作邸の設計者として選ぱれたことはまず自然であったといえよう。な お、佐藤は昭和6年(1931)に東京動産火災の建築を手掛けている。

2)『最新建築設計叢書』と建物の概要

反町邸の竣工翌年の昭和3年(1928)に「最新建築設計叢書第一期第二十五号 反町邸』

19) が発行されている。本誌は建築資料研究会によって昭和2年(1927)3月に発刊された もので、同会の顧問として、横河民輔、武田五一、そして佐藤功一の3名が表記されてい る。同年12月に発行された第一期合本20) の巻頭書には、監修者の大谷荒太郎によって、

「即ち構造意匠に於て最新なる建築を選び、一建物を一輯に記録し、設計施工の専門知識 の研鑽上、その渇望する所の参考を提供すると同時に、その討究に便ならしめし」とあり、

本誌が建築設計施工の専門家を対象とした本格的な資料集成として刊行されたことが読み 取れる。顧問の一人であった佐藤功一の作品としては第五号に三會堂(昭和2)が扱われ ているが、住宅作品として特に反町邸を取り上げ、詳細な仕様を掲載したことには、この 作品に対する当時の佐藤の自負が表出されているといえよう21) 。本書によれば、反町邸は

(9)

大正15年(1926)8月上旬に起工、昭和2年

(1927)8月下旬に竣工しており、従業職工延 員数は約4,950人であった。

建物は鉄筋コンクリート2階建てで塔屋1階、

地下1階としている。全体的に保存状態もよく、

特に一階部分は照明・家具も含めて旧状をよく とどめている。外部仕上げは腰部を鉄平石張り とし、上部を人造石洗い出しとしている。正面 玄関入口の額縁及び霧除、パラペット上端にテ ラコッタを巡らしている。前述したように、外 観は、南側の三連アーチ以外は、構成主義的な 全体像が支配しており、自邸に通じる禁欲的な

意匠となっている。内部は壁面及び天井を基本   図10 『最新建築設計叢書』表紙 的にプラスター仕上げもしくはモルタルペンキ塗仕上げとしている。床は応接室・居間を チーク材のオイルステイン仕上げとしており、書生室・女中室・児女室(2室)及び納戸に は、佐藤が「履物を脱いで上る床」22) に最適な仕上げとしたコルク張りを用いている。特 に児女室の床仕上では「コルク板を敷詰め其上に敷物を敷」いており、「足當りが柔か」

23) になるよう配慮されている。

 2階には大きな改変がある。当初の図面によれば主人室と主婦室とが日本間とされ、襖 によって仕切られていたが、現状では二室とも洋間で、壁仕切となっている。また、二室 に面したヴェランダが現状ではサンルームとなっているが、これも後補である。全体を通 じて、合理的なゾーニングと動線計画が為されており、佐藤の住宅論の実践をみることが できる。

3)耐火構造の実践

反町邸に保管されていた設計図面は次の7種である。

ア)1,2階及び塔屋平面図 イ)立面図及び断面図 ウ)エ)オ)展開図

(10)

     図11 反町邸居間照明24)         図12 反町邸玄関部分25)               

                                                                                  

   図13 反町邸食堂照明26)  図14 反町邸食堂27)  

               図15 反町邸階段室照明28)  図16 反町邸日本座敷29)        

(11)

       

図17 反町邸一階平面図30) 

図18 反町邸正面立面図31) 

図19 反町邸展開図32)        図20 反町邸配筋図33) 

(12)

カ)構造図(符号詳細)

キ)構造図(床及び柱配筋詳 細図)

これらには設計者佐藤の捺 印を確認することができる。

昭和12年( 1937) の『火 災保険特殊地図』34) には、個々 の建物の構造が記号によって 表記されている。それによれ ば、当時の住宅建築の耐火構 造のほとんどは(倉庫を除け ば)ラス・モルタルによる簡 易耐火構造( ヌ の表記)

であり、反町邸のような鉄筋 コンクリート造( コ の表 記)の住宅は非常に珍しい。

また、『日本都市戦災地図』35)      図21 『火災保険特殊地図』より

によれば、この周辺地域は昭和20年( 1947)5月 25日の空襲被災地に該当している。 一 方、戦後の地図36)  を参照すると、同地域の戦前の建造物は見当たらず、反町邸が一帯地域 の中で焼け残ったほとんど唯一の住宅であることが指摘できる。

佐藤は、RCの住宅について耐震・耐火の面でもっとも優れたものであるとしていたが、

特に火災保険会社取締役の邸宅であり、外壁で8寸という壁厚をもつ全鉄筋コンクリート 造住宅の反町邸において、その堅牢性を徹底し、その有効性を実証していることが理解さ れよう。

前掲の資料図面には構造担当者の署名等は確認できなかったが、同じ昭和2年(1927)

に竣工した佐藤功一設計の大隈記念大講堂や旧早稲田大学出版部事務棟(次章で詳述)と いった早稲田大学関連の建物に内藤多仲の関与を指摘できること37)  、また、近隣敷地に先 駆的な壁式鉄筋コンクリート造建築として知られる内藤の自邸(大正15)があること等か ら、前述したような経歴を持つ反町茂作の邸宅の構造計画においても内藤多仲が関与した

(13)

可能性を指摘できよう。

4)反町邸の建築的特質

さらに反町邸の調査によって得られた建物の特質は、下記の3点にまとめられる38) 。

  R C構造による耐震耐火性の確保と、構造に伴う通風の問題の解決

  ホール中心のプランによる、機能性とプライパシーの問題の解決

  椅子座の導入による生活の改善  これら3点についてそれぞれ考察する。

  R C構造による安全性の確保と、構造に伴う通風の問題の解決

この住宅で最も注目されることの一つは、昭和2年(1927)に建てられたRC構造住宅 であることである。住宅を「避難所」と述べ、都市の耐震耐火住宅の必要性を日頃から主 張していた39)   佐藤が、経済的に可能であったこの住宅において、自分の主張を具現化した ものと考えられる。

さらに、正方形に近い部屋形状、窓と扉の配置、通風が良くないと思われる台所と女中 室の廊下側壁上部、納戸の壁上部と床近くにある通風のための小窓、窓上部の回転窓、客 間天井の換気孔など、通風の問題に対して徹底的な対処をしている。

  ホール中心のプランによる、機能性とプライパシーの問題の解決

反町邸は、1階に客間・居間・台所等を配し、2階を家族の寝室としている。そして、

全体は接客用、居住用、サービス用の3つにゾーニングされ、ホールを通して各部へ連絡 できるようになっている。各部は交差のない動線計画によって明確に区別され、日常の

「生活」を来客に見せないように、また来客による外部からの煩わしさから住人の生活を 守るように工夫されている。また、各部屋は完全に独立しており、「吾々が西洋風の家を 作るという必要の一つはプライベーシイを保つことにある」40)  という佐藤の理念も実践さ れている。

また、台所が南側に配置されている点は、衛生上の問題に加えて、主婦が長時間過ごす 部屋ゆえ、快適に仕事ができるように佐藤が提案していることに合致する41)  。東京女子高 等師範学校・日本女子大学などを始めとして、生活に根差した女子教育を開拓した佐藤の、

(14)

家庭における女性の生活に対する意識のあり方がうかがえる点である。

  椅子座の導入による生活の改善

  前節で述べたように、佐藤功一は、生活改善の方法の一つとして、とくに公的な空間に おける椅子座を奨励していた。反町邸では、2階主人室、主婦室、児女室の1室、納戸、

1階女中室を除いて椅子座式が導入されている。

これは、洋風の椅子座の住宅をべ一スにして和室を導入した形である。導入の具体的な 処理法は、外壁面に関しては、東側の壁と部屋の間に縁側を設け、縁側と部屋は障子で仕 切っている。また、主人室北側壁面には床の間を、児女室南側壁面は出窓として、両側の 壁と一致するラインに障子を取り付けて、和室の意匠が外観に、外観の意匠が室内に影響 しないように処理している。また、部屋と部屋、部屋と廊下の仕切り壁には、真壁に見え るような工夫がされている。この手法は佐藤が行った「住宅教育」の授業を引き継いだ山 本拙郎が提案した「真壁式西洋住宅」 42) にみられる手法と類似している。

反町邸では、和室は和室、洋室は洋室と空間の性質がはっきりと区別されており、一室 内での「和洋折衷」は行われていない。これは、「和風」と「洋風」のデザインの積極的 な融合ではなく、むしろ両者を相反するものとして扱う態度といえよう。

因に佐藤は、部屋の一部を椅子座、一部を高くして畳敷きにして床座にする「一室内折 衷」を提案している43) が、これは、大正9年(1920)に藤井厚二が建てた第2回の実験住 宅から影響を受けた可能性が考えられる。それ以外、デザインの面ではとくに、積極的な

「一室内折衷」を提案する発言は見られない。

同時代の住宅作家であり、佐藤と同様に通風・採光に関して科学的アプローチを見せた 藤井厚二が、住宅の意匠において、デザインを含めたあらゆる面から「一室内折衷」を試 みた44)  のに対し、むしろ佐藤は、床の間などの和室の持つ形式を重視して設計することを 旨とし、和室は和室、洋室は洋室のもつ形式を保持したまま、一つの住宅の中に導入して いる。先に引用した論文45)  で自身述べる「床の間の長椅子化」といった極端な試みは、少 なくとも実作に援用されることはなかったようである。

以上、佐藤功一の現存する住宅作品である反町邸の特徴について述べてきた。外壁に張 られたテラコッタ、窓の形状・配置などにみられる意匠的配慮等、外観デザインにもある 程度の創意は指摘できるものの、むしろこれらの意匠的特質の大部分は、内部の機能が反

(15)

映されたものと捉えるべきであろう。エレベーションは合理的動線を追及したプランから、

窓の形状・配置は室内の採光・通風のため、というように、それぞれが機能に帰着してい る。反町邸に見られるものは、本章で述べてきた佐藤の住宅観、すなわち「家庭の容器」

としての住宅そのものであるといえる。本作品の後、佐藤は住宅の作風を変えていき、や がてハーフ・ティンバーや和洋折衷の外観を試みるようになる。住宅作家としては初期の 作品にあたる反町邸の外観における当時の上流階級住宅の表現としては異質とも言える簡 潔さと、内部空間における機能的・設備的配慮は、佐藤功一の本来的な「住宅」観を象徴 的に示しているといえるのである。

第4節 「住宅」の発見−柳田国男の風景論との連関

以上、佐藤功一の「住宅」観について述べてきたが、こうした視点は、いかなる契機に よって萌芽したのであろうか。大正5年(1916)、佐藤功一は民俗学者の柳田国男ととも に「白茅会」を発起し、弟子の今和次郎をはじめ、大熊喜邦、内田魯庵、石黒忠篤、細川 護立らとともに、精力的な民家調査を行っている。日本における民家研究の嚆矢である。

佐藤と今和次郎との関係については、第4章で詳述するが、ここで述べておかなくてはな らないのは、佐藤功一と柳田国男とのつながりがもつ意味についてである。藤森照信も述 べているように、佐藤は、おそらく、ヨーロッパ留学時代の知友の地理学者、小田内通敏 を通して小田内が創立会員として加わる「郷土会」と接し、同会の主催者であった柳田国 男やそのグループと親交を持つようになったのであろう46) 。この柳田との親交、そして後 の白茅会の活動47)こそが、佐藤功一と「住宅」との結びつきに大きな意味をもったと考え られる。

まず、民家の「発見」。それまで民家は、アカデミックな意味では「建築」として認め られていなかったと言ってよい。川添登は著書『今和次郎 その考現学』48) で、次のよう に記している。

佐藤功一は毎年夏休みに葉山付近の民家の座敷を借りて避暑にいっていたが、ある年 そこで採ってきた漁家の平面、立面、断面を、図面に整理するよう今和次郎に命じると とともに、「これはね、特別古いという建物ではない。けれども昔からの日本人の住い の型だ。でもだれもこういう家の存在を認めていない。これを研究してみようじゃない

(16)

か」といわれた。

柳田国男が「常民」を見出したように、佐藤功一は「民家」を発見したのである49) 。さ らに重要なのが、柳田国男の風景論の示唆するものである。佐藤健二は、柳田の風景論の 特徴の一つとして、「人間のいない山水よりは、農作物が織りなす田園の色彩を重視する、

その設定が社会学的な解読にむかってひらかれていること」を挙げている50) 。このような 指摘は、柄谷行人が指摘する以下のような柳田の特質と同義である。

柳田国男がいったように、風景は「人間が作る」ものである。ここには、「歴史」を、

政治的または人間的出来事としてではなく、「人間と自然の交渉」(柳田)において見 出す視点がある。

「林と野とが斯くも能く入り乱れて、生活と自然とが斯の様に密接して居る処が何処 にあるか」と、独歩はいう。このような「生活」は、柳田のいう「隠れた現実」であり、

「常民」の生活ほかならない。柳田の民俗学は、西洋の民俗学の輸入としてではなく、

そのような『風景の発見』によって見出されたのである51) 。

佐藤健二はまた、前掲の「農作物の光景」という論点を重視し、次のように述べている。

作物がつくりだす光景への注目は、旅行中たまたま目についた偶然というより、生活 様式へ遡及してゆく組織的な観察の一部であろうとした…中略…風景を生活としてみる という論理が、そこにある。「島風景の二様式」という対比で、生活実践のかたちとし ての風景を提示していることも、田園への注目と同じ主張であろう……風景を感じいる 自分の感受を、むこう側から、すなわち生活者の側から感じ直す記述の構築こそ、この 思想家の方法の可能性の実質であり、それは「旅人」としての視覚を生活様式の記述へ と変える変換装置であった52) 。(傍点筆者)

そして佐藤健二は、こうした視点は「日本近代に流布した、名所名勝主義的な風景論 に欠けていた可能性であ」ったと論じている。ここでの「名所名勝」を「様式」に、

「風景」を「建築」に置き換えるとき、佐藤功一と「住宅」との必然的つながりが、柳

(17)

田国男という人物を媒介として、鮮やかに浮上する。

「生活様式としての風景」53) 、あるいは「生活実践のかたち」としての建築、すなわ ち「住宅」を、佐藤功一は発見していた。そして、従来の「名所名勝主義的」な建築論 が見落としていた、いわば「非建築」としての「住宅」、あるいは「生活様式」の科学 的探究としての学の可能性が、新たな体系として現前したのである。「住宅学」の必然 的誕生であった。

小結

柳田国男との出会いに端を発する佐藤功一の「民家」の発見は、柳田の風景論の影響を 色濃く受けつつ、「生活実践のかたち」としての建築、すなわち「住宅」への発見へと佐 藤を向かわせた。そして佐藤は、「生活」を一義とした住宅論を展開し、同時に反町邸に 代表されるような実作を生み出すとともに、女子教育という新たな体系へとその理念を展 開させていく。しかし、建築家・佐藤功一にとって住宅は、他のビルディングタイプと独 立した固有の体系ではなく、むしろ建築そのものの「原風景」であったといえる。そして 晩年にいたり、骨肉化した「住宅」への視線は、庁舎建築をはじめとする大規模建築へと 照射されていくのである。

注記

1) 『佐藤功一全集 第四巻』1941 年、丸善。

2)   後半 に 集中 する 給水、 換気、 照明等の住宅設備に関する論述は、 昭和6年に『住宅建築衛生篇』

(早稲田大学出版部)として出版されたものである。

3) 初出は、『學藝』1923 年6月。

4) 初出は、『アルス建築大講座第7巻 住宅建築』

5) 初出は、『婦人畫報』1922 年9月

6) 初出は、昭和5年(1930)5月 11 日、大阪での講演(会場不明)。

7) 初出は、昭和 12 年(1937)2月の講演(会場等不明)。

8) 初出は、「住宅と庭園」1938 年。

9) 自邸の構造はコンクリートブロック造であったが、いわゆる「中村式コンクリートブロック(鎮ブ ロック)」であったかどうかは定かでない。

10) 前掲、『佐藤功一博士』より。

11) 同上。

12) 同上。

13) 『最新建築設計叢書 第一期第 25 号』1928 年、建築資料研究會より。

14) 前掲、『佐藤功一博士』より。

(18)

15) 同上。

16) 同上。

17)   本調査は、 中川武・ 早稲大学理工学部教授監修の下、米山勇、阿部和夫、石川弥生、市川陽子、

岸未希亜、菊池潤衣の6名が行った。なお本論では、現在も住宅として使用されていることを鑑み、

プライバシーの観点から現状写真は掲載しないこととする。

18) 『紺碧の空なほ青く 近代日本の早稲田 550 人』1977 年、早稲田学生新聞学会。

19) 『最新建築設計叢書 第 1 期上巻』1927 年、建築資料研究會。

20) 同上。

21) 文化女子大学教授 ・ 内田青蔵氏のご教示による。

22) 佐藤功一「住宅の床の話」ラヂオ講演 ・ 家庭講座 (前掲、『佐藤功一全集 第四巻』所収)。

23) 佐藤功一「壁と床と天井」建築工學ポケットブック (同上)。

24) 前掲、『最新建築設計叢書 第 1 期第 25 号』より。

25) 同上。

26) 同上。

27) 同上。

28) 同上。

29) 同上。

30) 反町家所蔵。

31) 同上。

32) 同上。

33) 同上。

34) 『火災保険特殊地図』1937 年、都市整図社。

35) 『日本都市戦災地図』1983 年、原書房。

36) 『(昭和 32 年企画)東京都全住宅案内図帳』1962 年、住宅協会東京支所地図部。

37) 早稲田大学建築史研究室編『旧早稲田大学出版部事務棟調査報告書』1992 年、早稲田大学。

38)   市川陽子、 川添登、 中川武、米山勇「反町茂作邸にみられる佐藤功一の住宅観」(『日本建築学 会大会学術講演梗概集』1994 年9月)。

39)   佐藤功一「住宅 の本質的及人文史的考察と耐火建築」(『アルス建築大講座第7巻・ 住宅建築』

1940 年)、他。

40) 佐藤功一「夏涼しい家」『婦人の友』1924 年。

41) 佐藤功一「台所の話」『住宅と庭園』1928 年。

42) 『住宅』1921 年3月。

43) 佐藤功一「住宅建築に現はれたる時代の姿」『婦人の友』1922 年。

44)   富永謙、 藤岡洋保「藤井厚二設計 の住宅に関する研究」(『日本建築学会大会学術講演梗概集』

1987 年)、他。

45) 前掲、佐藤「住宅建築に現はれたる時代の姿」。

46) 藤森照信「解説」(今和次郎『日本の民家』1989 年、岩波書店)。

47)   因みに、 白茅会での精力的な活動は、 結果的に主催者の佐藤を病床に伏させることになる。「今 和次郎 は、先の白茅会の思い出をしるした文章に、佐藤功一はこの調査で余りに多くのエネルギー を 使ったため、ついに永い静養をしなければならなくなり『以後は、農村がいやになったという表 情 をしているようになった。先駆者の悲しみとでもいうのかも知れない』と書いている」(川添登

『今和次郎 その考現学』1987 年、リブロポート)。

48) 前掲、『今和次郎 その考現学』。

49) 川添登によれば、陶磁器の研究者、愛好家によってつくられた又玄会の機関誌『犬梟』1917 年1 月号掲載 の「逗子と山代の民家」で、佐藤功一は「逗子葉山方面は毎年二三回は必ず行く所である が、注意して見たのははじめてである」と論じている(前掲、『今和次郎 その考現学』)。

(19)

50) 佐藤健二『風景の生産・風景の解放 メディアのアルケオロジー』1994 年、講談社。

51) 柄谷行人『日本近代文学の起源』1980 年、講談社。

52) 前掲、『風景の生産・風景の解放 メディアのアルケオロジー』

53) 同上。

(20)

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