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博士学位論文 概要書

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Academic year: 2022

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(1)博士学位論文 概要書. ヘミングウェイの死後出版作品研究 ――編纂方法とその問題点―― Hemingway's Posthumous Works: Different Editing Methods and How They Deviate from His Original Manuscripts. 早稲田大学大学院教育学研究科 教科教育専攻 杉本 香織.

(2) 本研究の背景と目的. 「アーネスト・ヘミングウェイ」(Ernest Hemingway, 1899-1961)という言葉が今日、マ ッチョで、釣り・狩り・酒をこよなく愛するアメリカのハードボイルド作家のイメージを喚起 させるとしたら、そのイメージは誰によって、いかにして作られたのであろうか。またそれは、 ヘミングウェイの実像とどこまで重なり合い、どこから懸け離れはじめるのであろうか。 ヘミングウェイは生涯、自身の姿を作品に塗り込めた作家であった。幼少期から青年期を扱 った短編小説ではニック・アダムズ(Nick Adams)、また戦争を舞台にした『武器よさらば』 (A Farewell to Arms, 1929)や『誰がために鐘は鳴る』(For Whom the Bell Tolls, 1940) では、それぞれフレデリック・ヘンリー(Frederic Henry)とロバート・ジョーダン(Robert Jordan)と名付けながらも、ヘミングウェイは行動・思想の両面において、部分的だが積極的 に等身大の自分を投影させていった。一方、『午後の死』(Death in the Afternoon, 1932) や『アフリカの緑の丘』(Green Hills of Africa, 1935)などノンフィクションに分類される作 品では、彼は堂々と「ヘミングウェイ」を名乗り、独自の闘牛論やサファリでの狩りの腕前を 惜しげもなく披露した。いずれの場合も、若い頃のヘミングウェイは等身大の自分を投影・発 信することに躊躇する理由はなかったし、たとえ何らかのイメージ操作がされていたとしても、 伝記的事実や関係者の証言との照合を通じて、批評家が作中に潜む「ヘミングウェイ的なもの」 とそうでないものとを峻別することはさほど困難なことではなかった。 ところが 1940 年代半ばごろから、ヘミングウェイの自身を投影させる手法に変化が見られ るようになった。作中における事実と虚構、フィクションとノンフィクションの境界が融解し、 「自伝的小説」や「虚構的回想録」などと表現せざるを得ない作品が主流を占めるようになっ たのである。たとえば小説『海流の中の島々』(Islands in the Stream, 1970)には、登場人 物の名前はもちろん、息子たちの事故死・戦死といったストーリー展開に事実との決定的な違 いがある。しかし主人公で画家のトマス・ハドソン(Thomas Hudson)とその友人で作家の ロジャー・デイヴィス(Roger Davis)には、それぞれ異なる時期の「ヘミングウェイ」が色 濃く映し出されており、それがゆえに「自伝的」と称される。逆に、1953 年にケニアで敢行 したサファリ体験をしたためた回想録『夜明けの真実』(True at First Light, 1999;Under. Kilimanjaro のタイトルで 2005 年に再編纂され出版)にはすべての人物が実名で登場するが、 そこで卓越した狩りの腕前を見せる作中の「ヘミングウェイ」は明らかに虚構である。当時の 彼は視力の衰えが著しく、獲物を仕留める能力が低下していただけでなく、狩り自体への関心. 1.

(3) も薄れていたからである。こうした「ヘミングウェイ」をめぐる事実と虚構の融合は、フィク ション色が極めて強い『エデンの園』(The Garden of Eden, 1986)や、すでにノンフィクシ ョン作品として定着した感の強い『移動祝祭日』(A Moveable Feast, 1964)や『危険な夏』 (The Dangerous Summer, 1985)にも同じように見受けられる。もはや 1930 年代までのよ うに「等身大の自分」をそのまま投影・発信する訳にはいかなくなった、後年・晩年のヘミン グウェイの焦燥感や苦悩が見え隠れする。 そのような事情も影響しているのだろう、いったん筆を執ったものの、途中で執筆を断念す る作品が増えてきたのも同じ 1940 年代半ば以降である。結果的に未完のまま遺されたこれら の原稿は、ヘミングウェイの死後、遺族や出版社による編纂を経て断続的に世に送り出された。 このいわゆる死後出版作品群が、従来のヘミングウェイ文学研究に新たな一石を投じたことは 言うまでもないだろう。男女の性役割の交換や同性愛を描いた『エデンの園』が、ヘミングウ ェイ(作品)におけるセクシュアリティ研究の必要性を促す大きな契機となったことはよく知 られている。しかし、後年のヘミングウェイがいかに自身を作品に塗り込んでいったかという 点に関していえば、死後出版作品群はその苦悩と挫折の軌跡をたどる機会を提供してはくれな い。それどころか、その軌跡の追跡を拒むかのように、さらなる隠蔽に加担している。ヘミン グウェイが実像と異なる「ヘミングウェイ」像を構築しようと行った操作に、編纂者が「編纂」 という操作の上塗りをしているからである。つまり死後出版作品群における作家ヘミングウェ イと「ヘミングウェイ」像の関係性を明らかにするには、まず編纂者による操作方法を分析し てその上塗りを剥がし、ヘミングウェイが生前中断した時点の草稿(オリジナル原稿)を復元 した上で、彼自身が行った操作を検証していく必要がある。 本論文ではこうした経緯から、ヘミングウェイの死後出版作品群を二つの側面から考察する。 1 つ目は、第三者による編纂の方法とその問題点を指摘し、彼らが「編纂」を通じて作り上げ ようとした「ヘミングウェイ」像を明らかにした上で、それとヘミングウェイ自身がオリジナ ル原稿で構築・投影・発信しようとしていた自己像とがいかに乖離しているかを論証すること である。そして 2 つ目は、事実と虚構、フィクションとノンフィクションの境界を融解しよう とした後年・晩年のヘミングウェイが、死後出版作品群の執筆を通じてどのような「独自の自 伝スタイル」を構築しようとしたか、そのメタフィクション的特徴に迫ることである。これら 二つの側面を考察するにあたって用いる具体的なアプローチ、および各章の概要は以下の通り である。. 2.

(4) 研究方法(1)――マニュスクリプト研究/生成批評論的アプローチ ヘミングウェイが遺した膨大な数の原稿は、現在、書簡や写真などとともに、アメリカ合衆 国マサチューセッツ州にあるジョン・F・ケネディ図書館(John F. Kennedy Library)内「ヘ ミングウェイ・コレクション」に収められている。キューバの書斎を復元したという室内には、 手書き原稿、タイプ原稿、カーボン・コピーを含め、書き損じの原稿やメモまでが作品ごとに ファイリングされ、所定の手続きを経れば閲覧できるようになっている。 「ヘミングウェイ・ルーム」の開設は、1964 年にメアリー・ヘミングウェイ(Mary Hemingway)とジャクリーン・ケネディ・オナシス(Jacqueline Kennedy Onassis)との間 に交わされた合意がきっかけであった。二人の亡夫が生前、直接対面することはなかったもの の、ヘミングウェイはケネディの大統領就任(1960 年 11 月 8 日)にあたって入院先のメイヨ ー診療所から祝電1を送り、一方のケネディも翌 1961 年 7 月 2 日のヘミングウェイ死去に際し て、ホワイトハウスから哀悼のメッセージ2を読み上げるなど、公の場での繋がりはあった。メ アリーとジャクリーンは最初の同意から 4 年が経った 1968 年に、研究者に対する原稿閲覧の 許可やヘミングウェイ夫妻の私物公開などに関する具体的な条件を詰め、1972 年以降、メア リーのニューヨークの自宅やヘミングウェイの終の棲家となったアイダホ州ケチャムの自宅、 銀行の貸金庫から次々と原稿類が運び込まれたのである。また、ヘミングウェイ研究の第一人 者であるカーロス・ベイカー(Carlos Baker)やハーヴァード大学ホートン図書館などからも 資料が寄せられ、世界各国からヘミングウェイ研究者が集う宝の場所となったのである。 研究者向けに初めて原稿が公開されたのは 1976 年、そして「ヘミングウェイ・コレクショ ン」が正式にオープンしたのは 1980 年であった。これはオリジナル原稿を研究対象にしたマ ニュスクリプト研究および生成批評の幕開けという、それまでのヘミングウェイ研究史におけ る新たな潮流の誕生を意味した。オリジナル原稿の検証によって出版本に新たな解釈をもたら そうとするマニュスクリプト研究はもちろんのこと、出版された文学テクストを完成品として ではなくあくまで生成し続けるテクストの一形態と見なし、創作のプロセス自体にも目を向け る生成批評は、特にヘミングウェイの死後出版作品研究に有効であろう。なぜなら、そもそも 出版本は編纂者にとってのみ「完成品」であり、ヘミングウェイが遺したオリジナル原稿はい ずれも、何らかの理由で創作を断念した「未完成品」だからである。また「未完成品」のオリ ジナル原稿が発する声には、創作断念の理由はもちろんのこと、彼がいかに自分自身を作品に 織り込むかについての試行錯誤や紆余曲折の軌跡が多分に含まれているにもかかわらず、編纂 という名の操作によってそれが抹消・曲解されているからである。つまり、本来「ヘミングウ. 3.

(5) ェイのテクスト」であったはずのオリジナル原稿が「編纂者のテクスト」へと書き換えられる 過程において、ヘミングウェイの声は弱められ、彼が描こうとした作中人物「ヘミングウェイ」 も編纂者が望んだ「ヘミングウェイ」の姿へと巧みにすり替えられているのである。出版本か ら立ち上がってくるのはヘミングウェイの姿ではなく、むしろ編纂者の姿である――編纂者が いくら原稿の加筆や大幅修正を否定し、自らの存在を消そうとしても、オリジナル原稿の公開 が可能にしたマニュスクリプト研究・生成批評のアプローチによる研究は、それを戯言として 一蹴してしまうほどの威力を持っているといえる。 ところが、ヘミングウェイ作品における初期のマニュスクリプト研究は、出版本とオリジナ ル原稿の語法的な比較に執心し、その差異を指摘するに止まるきらいがあった。出版本だけで なくオリジナル原稿をも「完成品」を見なしたがゆえに、オリジナル原稿に手を入れた編纂者 の変更をすべて過失・無用と結論づけたのである。日本におけるマニュスクリプト研究も同様 で、西尾巖が『エデンの園』のオリジナル原稿調査に従事、出版本との相違点を『ヘミングウ ェイと同時代作家――作品論を中心に』(1999)で公にしたが、やはり双方の差異を指摘する ことに大きな比重を置いている。 しかし 1990 年代半ばに入ると、ナンシー・R・カムリー&ロバート・スコールズ(Nancy R. Comley and Robert Scholes)やローズ・マリー・バーウェル(Rose Marie Burwell)らが、 テクスト間の差異の指摘を越え、マニュスクリプト研究の新たな可能性を提示していった。カ ムリーとスコールズは著書『ヘミングウェイのジェンダー――ヘミングウェイ・テクスト再読』 (Hemingway‟s Genders: Rereading the Hemingway Text, 1994)において、『エデンの園』 のオリジナル原稿を検証、そこからヘミングウェイの性の境界を逸脱したエロティシズムへの 欲望を浮き彫りにした。またバーウェルは『ヘミングウェイ――戦後と遺作』(Hemingway:. The Postwar Years and the Posthumous Novels, 1996)において、それぞれの死後出版作品 がいかなるプロセスを経て執筆され、編纂され、受容されていったかを、ヘミングウェイの伝 記的事実と密接に絡ませながら明らかにした。従来のマニュスクリプト研究の打開を目指して 打たれたこれらの布石は、その後、ヒラリー・K・ジャスティス(Hilary K. Justice)やデブ ラ・A・モデルモグ(Debra A Moddelmog)らに引き継がれ、ヘミングウェイの同性愛への欲 望や authorship の問題等にもメスが入るようになった。 本研究も、出版本とオリジナル原稿との差異を手掛かりに、出版本の検証からは浮かび上が らない解釈を試みる点では、1990 年代半ば以降の研究と同じ系譜に属する。しかしカムリー &スコールズやモデルモグに代表されるように、これまでのマニュスクリプト研究/生成批評. 4.

(6) は、ヘミングウェイのジェンダーおよびセクシュアリティの解明に大きな比重が置かれており、 ヘミングウェイが未出版のまま遺した作品の中でいかに自身を構築・投影しようとしたか、ま たその痕跡が編纂によっていかに損なわれてきたかについては、国内外問わず、ほとんど論じ られてこなかった。オリジナル原稿だけでなく出版本も生成過程のテクストの一形態とみなし、 ヘミングウェイの創作プロセスと編纂者の編纂プロセスを比較・検討することによって、各々 のテクスト生成の意図とそのずれを考察していくのが本論の狙いのひとつである。しかし次項 でも述べる通り、自伝(的小説)に特有の「書く/想起する主体としてのヘミングウェイ」と 「描かれる/想起される客体としての『ヘミングウェイ』」との間にある緊張関係を読み解く ことも、本論文が持つもうひとつの狙いである。. 研究方法(2)――自伝的アプローチ ヘミングウェイは比較的若い頃から自伝への関心を口にしている。ガートルード・スタイン (Gertrude Stein)が『アリス・B・トクラスの自伝』(The Autobiography of Alice B. Toklas, 1933)を出版した際、自分のことを悪く書いた彼女への皮肉を込めて「ぼくも他に何も書けな いような年齢に達したら、回想録でも書くつもりだ」(Reynolds, Final 46)と言い放ったこ とはよく知られている。 自伝にまつわる理論の変遷は、作者(主体)でありながら登場人物(客体)でもある “I” を どう捉えるかについての変遷とほぼ同義である。自伝が「ハイカルチャー」と「ローカルチャ ー」の一線を画すという役割を担っていた 19 世紀の西ヨーロッパでは、前者に属する偉人の 人生を文書に残すことは、その人が生きた時代・国家の業績を後世に残すことを意味した。1907 年にドイツの文献学者ゲオルグ・ミッシュ(Georg Misch)が自伝を “the description (graphia) of an individual human life (bios) by the individual himself (autos)”(5)と定義したことから も分かる通り、自伝のもつ真実性(truthfulness)はもっぱらそこに書かれた伝記的事実の一 貫性の有無に委ねられ、“I” は常に普遍的で、自伝におけるアイデンティティの在り方や自己 定義・自己描写の仕方に疑問が投げかけられることはなかった。 ところが 20 世紀前半になると、“I” を普遍的とする考えから、不安定で説明を要するものと する考えへと変化していった。この背景にはヘーゲルの「自己疎外(Selbstentfremdung)」 論を資本主義体制に応用し、自己が作り出す政治・経済・宗教などの社会的条件にとらわれて、 主体としての在り方を失うと唱えたカール・マルクス(Karl Marx)や、自我を脅かす無意識 の存在を提起したシグムンド・フロイト(Sigmund Freud)らの影響があった。またフロイト. 5.

(7) は言語のもつ中立性や包括性を否定し、言語は常に利害関係に晒されていると説いた。彼は、 主体を経由して記号化された欲望はもはや元の欲望ではないと主張、この主張を受け継いだジ ャック・ラカン(Jacques Lacan)も、言語を通じて表象された主体は本来の主体とは異なる と述べたのである。 こうした流れを受けて、自伝は主体をそのまま投影する/できるものではなく、言語を通じ て構築していくものだとする認識が強くなり、ジョルジュ・ギュスドルフ(Georges Gusdorf) が自伝を “[an act of] reconstructing the unity of a life across time”(37)と再定義するに至 った。またフランシス・R・ハート(Francis R. Hart)も “I” の持つ多面性を “the selected „I‟” と表現、筆者を取り巻くさまざまな要因によって自伝内の “I” が選択され、再現されていくと 説明した。この流れはさらに 1970 年以降、“I” の脱中心化へと視点を移し、ジャック・デリダ (Jacques Derrida)の脱構築や「差延」、ロラン・バルト(Roland Barthes)の「作者の死」、 ミシェル・フーコー(Michel Foucault)の権力論などの理論展開によって、自伝における自 己の存在規定や作家のauthenticityにまつわる従来の理論的概念が解体されていったのである。 では、ヘミングウェイ作品における “I” とはいかなる存在なのであろうか。最初期の作品に 限っていえば、短編における一人称 “I” の語りはそのままヘミングウェイ本人の語りであると 言えるだろう。これはアグネス・フォン・クロウスキー(Agnes von Kurowsky)との失恋エ ピソードを綴った短編「とても短い話」(“A Very Short Story”)を例に説明できる。彼は、 パリ版の『ワレラノ時代ニ』(in our time, 1924)においては一人称の語りで物語を展開、女 性登場人物の名前を「アグ」としていたが、ニューヨーク版『われらの時代に』(In Our Time, 1925)では語りを三人称に変更、彼女の名前も「ラズ」と変えた。これは編集者マックスウェ ル・パーキンズ(Maxwell Perkins)宛ての手紙で説明している通り、アグネスから名誉毀損 で訴えられる危険性を危惧したためであった(SL 469)。ヘミングウェイにとって、アグネス の名前はもちろんのこと、語りの人称を “I” からより客観性の高い “he” へと変更することが、 伝記的事実と作品との距離を広げる手段として有効だったことを示している。しかし単純に “I” から “he” へと変更しただけであったため、結果的にはスコールズに「もともとのテクス トにおける三人称の語りは見せかけであり、テクストが修辞的な目的のために身にまとった疑 似客観性の仮面に過ぎない」(119)と、そのからくりを見破られることとなる。ヘミングウ ェイのこうした「隠れた一人称の語り」(Scholes 116)は結局、“I” と “he” との違いが単に 作者と登場人物との間の距離間の違いだけを意味し、それ以外には何ら意味を持たなかったこ とを示している。. 6.

(8) 一方、死後出版作品群を中心とする後期の作品においては、人称の問題はより複雑で実験的 である。これは、ヘミングウェイが各作品のオリジナル原稿において、自身(あるいは自身を 強く投影させた人物)を表す人称を I や he だけでなく、you を用いて表現しようとしていた痕 跡が多く見られることから推測できる。この背景には、後年のヘミングウェイが、自分自身と 作中人物との距離に加えて、世間が抱く公的イメージとしての「ヘミングウェイ」といった、 派生していく他の自己との距離にも敏感にならざるを得なくなったという事情があるだろう。 後年から晩年にかけての彼は、「パパ」というマッチョなイメージやノーベル賞受賞作家とし ての地位が確立する一方で、度重なる事故や病気が原因で、大衆のイメージから懸け離れてい く自分の姿を目の当たりにせざるを得なくなっていた。それを受け入れたためか、あるいは受 け入れられなかったためか、ヘミングウェイは死後出版作品の執筆過程において、自身の姿を 複数の登場人物に振り分けて投影させたり、作中における「ヘミングウェイ」の人称を I / he / you を使い分けることによって表そうとした。しかしほとんどの場合において、彼はこれらの 使い分けと統一に失敗、結果的には物語の一貫性すらも保持できずに執筆断念へと繋がってし まった。これはヘミングウェイの作家としての技量が不足したというよりは、自身に内在する 自己と大衆向けの自己との間の折り合いをつけることができなかったことを意味するのでは ないだろうか。 本論文のもうひとつの狙いは、人称・名前の使い分けや変更の過程をオリジナル原稿の修正 痕から丁寧に辿り、ヘミングウェイが構築・発信、あるいは隠蔽しようとした多層的な「ヘミ ングウェイ」の様相を明らかにすることによって、彼が目指した独自の自伝スタイルに迫るこ とである。幾度となく繰り返されるヘミングウェイの修正過程を提示することは、同時に、編 纂者がいかに安易に人称や名前を統一してしまったか、その杜撰さも浮き彫りにするだろう。 オリジナル原稿に見られる語句等の修正痕を論の証左にする手法は、マニュスクリプト研究に おいては古くから用いられている王道のひとつであるが、本論文では、それをヘミングウェイ のマニュスクリプト研究ではこれまであまり論じられることのなかったメタフィクション的 特徴の解明に援用する。. 本論文の構成. 本論文は四部構成で、序章および付章を含めて計 9 章から成る。序章に続く第 2 章では、マ ニュスクリプト研究/生成批評を中心に批評史を概観する。また第 3 章では、マッチョな「ヘ. 7.

(9) ミングウェイ」という公的イメージが定着しつつあった 1930 年代から自ら命を絶った 1961 年までの彼の人生と作品を、「ヘミングウェイ」像構築の軌跡を軸として追っていく。第 4 章 以降は、死後出版作品を「ヘミングウェイの死後、初めて公開された遺作」(第三部、6 章ま で)と「雑誌に部分掲載されていたものの、後に再編纂されて出版された作品」(第四部、7 章と 8 章)に二分し、それぞれを執筆順に論じていく。いずれの章も、前半ではオリジナル原 稿の作品世界を提示することに力点を置き、後半ではそれが編纂によっていかに損なわれたか、 ヘミングウェイが到達しようとした自伝スタイルがどのようなものであったかについての考 察を主な狙いとする。最後に付章では、生前に出版されていながら、自伝(的小説)における 主体と客体との同一性という、死後出版作品群と同じ主題をもつ『誰がために鐘は鳴る』を取 り上げる。. 第一部 先行研究 <第 2 章> 第 2 章では、マニュスクリプト研究/生成批評の歴史を略述した後、これらの論が『武器よ さらば』や「キリマンジャロの雪」(“The Snows of Kilimanjaro,” 1936)等の生前出版作品 群においてどのように展開されてきたかを 4 つの側面から総括する。まず前半の 2 つは、主に ヘミングウェイのマニュスクリプト研究の創生期(1970 年代後半から 80 年代中盤)に精力的 に行われたもので、1 つ目は、ヘミングウェイが原稿に遺したメモなどを頼りに、それまで多 義的に解釈されていた作品に一石を投じようとする方法、2 つ目は創作段階における複数の原 稿の相違点を指摘する方法である。また後半の 2 つは、1980 年代後半以降に盛んになった研 究方法で、3 つ目はより細かなレベルでオリジナル原稿に見られる人称の揺らぎや時制の変更 を指摘する方法、そして 4 つ目は revision の過程を検証することによって、作品にまつわる伝 記的事実に疑問を投げかけて検証する方法である。特に後半 2 つのタイプでは、より微視的な 視点で出版本と原稿を比較したり、比較から得たものを従来のヘミングウェイ研究の成果と照 らし合わせるという点において、初期の研究より複層的である。また、死後出版作品群につい ては『エデンの園』を中心に、マニュスクリプト研究/生成批評の変遷を辿る。. 第二部 伝記をめぐる「ヘミングウェイ」構築の軌跡 <第 3 章> ヘミングウェイと 1930 年代以降. 8.

(10) 第 3 章では、「パパ」という愛称が誕生した 1930 年代以降におけるヘミングウェイの人生 と作品を、特に公的イメージとしての「ヘミングウェイ」像の構築と変容に焦点を絞って概観 する。. 1930 年代 ――「パパ・ヘミングウェイ」の発信とメディア ヘミングウェイにとって 1930 年代は、「パパ」という愛称の誕生 が象徴的に示すように、 ハードボイルドの文体を特徴とするマッチョなヘミングウェイ像が確固としたイメージを持 ち始めた時代である。彼のマッチョなイメージは、もちろん 1920 年代に出版された長編『日 はまた昇る』や『武器よさらば』、短編集『われらの時代に』からもその萌芽を読み取ること ができる。しかし 1930 年代は、作品を介してというよりもむしろ、1933 年創刊の男性雑誌『エ スクァイア』(Esquire)への寄稿を通じて、釣りや狩りに興じる「パパ・ヘミングウェイ」 の姿をより直接かつ強力に発信しようとした時期であったといえるだろう。また興味深いこと に、その発信は、自らのスペイン闘牛体験を素材にした『午後の死』やアフリカでのサファリ 体験をもとにした『アフリカの緑の丘』の酷評と表裏一体の関係にあった。非難を浴びた「作 家ヘミングウェイ」と、大魚を手に満面の笑みを浮かべる「パパ・ヘミングウェイ」――30 歳代前半にして自らをおおっぴらに「パパ」と呼び、他人からもそう呼ばれることを欲したヘ ミングウェイは、作品が酷評を受けるたびに「パパ・ヘミングウェイ」を実像から切り離し、 『エスクァイア』を通じてそのイメージを意図的に創り上げ、流布することに躍起になったの である。. 1940 年代 ―― 「ヘミングウェイ伝説」 or 「偽りのタフガイ神話」? ヘミングウェイ文学において 1940 年代は、「空洞の 10 年間」といっても過言ではないだろ う。1940 年 10 月にスペイン内戦での体験を素材とした長編小説『誰がために鐘は鳴る』が出 版されてから、次の作品『河を渡って木立の中へ』(1950 年 9 月)が世に送り出されるまで、 丸 10 年の月日を要したからである。この間、ヘミングウェイが創作活動から完全に遠ざかっ ていた訳ではない。1940 年代前半に第二次世界大戦に関する「陸・海・空の三部作」を構想、 その後「海の部」に相当する作品として『海流の中の島々』の草稿を書いていたし、1946 年 頃には『エデンの園』にも着手していた。しかしいずれも脱稿には至らず、ヘミングウェイの 生前に出版されることはなかった。 ベイカーは伝記『アーネスト・ヘミングウェイ』の中で、第二次大戦直後のヘミングウェ. 9.

(11) イを「戦争と恋愛が、創造の占める場所をやすやすと奪っていた」(Baker, Life 574)と表現 した。なるほど、たとえヘミングウェイ文学における 1940 年代が「空洞の 10 年間」であった としても、戦争や恋愛という別の観点からみれば、第二次世界大戦への様々な関与と二度の結 婚・離婚、そして 18 歳のアドリアーナ・イヴァンチッチ(Adriana Ivancich)への恋心で埋 め尽くされた「激動の 10 年間」であったとも言える 。また 1940 年代は、数々の事故や病気 に見舞われるなど自身の健康を大きく害す一方で、フィッツジェラルドやスクリブナーズ社の 編集者マックスウェル・パーキンズら身近な人たちの死に直面した時期でもあった。. 1950 年代 ―― 乖離するヘミングウェイの自己イメージと「パブリック・イメージ」 ヘミングウェイの三男グレゴリー・ヘミングウェイ(Gregory Hemingway)によると、「50 歳のときにパパはスノッブとなり、偽物になってしまった」(100)。ヘミングウェイ自身も それを自覚していた感があり、1954 年に二度にわたる飛行機事故で重傷を負った後、アメリカ の美術史家バーナード・ベレンソン(Bernard Berenson)に宛てた手紙の中で「あの飛行機 の墜落が果たした役割は、単に、昔の偽りのタフガイ神話を、同じく偽りである新しい不死身 伝説によって置き換えることでした」(Baker, Life 666)と言及している。 1930 年代には『エスクァイア』誌をはじめとした大衆雑誌を利用することによって自らの パブリック・イメージを積極的に創り上げてきたヘミングウェイが、この頃になると「ジャー ナリズム、放送、宣伝、映画の脚本などの仕事に手を染めることは、それによって優れた思想、 くだらない思想もあわせて忘却の彼方に追いやってしまうこと」(Baker, Life 676)になるた め、きわめて愚行だと痛烈に批判するようになった。確かに 1950 年代に入ると、1930 年代の ように、自ら意図的にパブリック・イメージを創り上げることはほとんどなくなった。しかし 今度は皮肉にも、 ジャーナリズムや大衆が「30 年代のヘミングウェイ」像を固持しようとした。 その態度は、二度目のサファリ体験を写真とともに掲載した『ルック』(Look)誌や、ノーベ ル文学賞の表彰状の文言にも明確に打ち出されている。 一方、心身ともに急激に衰えていくヘミングウェイの中には、時を経ても変わらない思いが あった。それは書くという行為が人や事物を永続化させると信じていたことである。彼は 1956 年、第二次世界大戦を題材にした短編をいくつか書き上げた後、バック・ラナムに向かって、 ラナムと第 22 歩兵連隊、そして第 4 師団を「不滅化(immortalized)」(Baker, Life 677) しておいたと誇らしげに語っている。 ヘミングウェイはここにきてようやく、偽りではない等身大の自分を、ジャーナリズムの手. 10.

(12) を借りず創作において「不滅化」しようとしたのである。しかしそれは、大衆によってすでに 不滅化されていたパブリック・イメージ 1930 年代の「パパ・ヘミングウェイ」――とは大き く一線を画していた。ヘミングウェイはそのための最善策を、死後出版作品を含めた 1950 年 代以降の執筆活動を通じて模索していく。. 1960 年代 ―― “crack-up” と進まぬ筆 1959 年 5 月、ヘミングウェイは『ライフ』誌に載せる闘牛の記事(『危険な夏』)を書く ため、スペインへと渡った。1932 年に出版した『午後の死』以来の闘牛記となる今回は、アン トニオ・オルドネスとルイス・ミゲル・ドミンギンが繰り広げる一連の直接対決(mano a mano) を密着取材するというものであった。 しかしこの頃から、ヘミングウェイの常軌を逸した行動が顕著になってきた。『危険な夏』 を書き終えた後、ヘミングウェイはファニート・キンターナ(Juanito Quintana)への手紙の 中で、「今回の無理な仕事(trabajando forzado)で頭が混乱してしまった」(Baker, Life 700) と吐露した。にもかかわらず突然、どういう訳かスペイン再訪を敢行したのである。ヘミング ウェイの言い分はどうであれ、この強引なスペイン再訪が良い成果をもたらすはずはなく、ほ どなくして彼は恐怖感、孤独感、倦怠感、猜疑心、不眠症、罪悪感、記憶力の低下など強度の 神経衰弱および鬱の徴候を示すようになった。メアリー宛の手紙でも「ひどい過労で肉体も神 経もすっかりダメになってしまう(crack-up)のではないかと思う」(Baker, Life 701)と記 し、『危険な夏』の第一回目が掲載された『ライフ』誌を手にしながら、こんな仕事をしてし まったことが「恥ずかしくて気分が悪い(ashamed and sick)」(Baker, Life 701)とほとほ とうんざりした様子を見せたという。 1960 年 11 月 30 日、メアリーらはついにヘミングウェイをミネソタ州ロチェスターにある メイヨー・クリニックで受診させ、そのままセント・メアリー病院に入院させることにした。 翌 3 月にふたたび鬱病の兆候がひどくなり、翌 4 月にはショットガンで自殺を図ろうとした。 数日後、メイヨー・クリニックに再入院、6 月 26 日の退院まで加療が続けられた。そして退 院から 1 週間もしない 7 月 2 日午前 7 時 30 分頃、ヘミングウェイはショットガンで頭部を撃 ち、自ら命を絶った。62 歳になるわずか 19 日前であった。. 第三部 死後出版作品における編纂方法とその問題点. 11.

(13) 第三部では、ヘミングウェイの死後、初めて公開された三作品――『海流の中の島々』『エ デンの園』『移動祝祭日』――を扱う。論文ではいずれの章も、オリジナル原稿で展開されて いる作品世界を紹介した後、編纂者による編纂の方法とその問題点を検証しているが、概要書 では、主に後者を中心にまとめることとする。. <第 4 章> 『海流の中の島々』(Islands in the Stream, 1970) 第 4 章の『海流の中の島々』は、ヘミングウェイが 1940 年代中盤から 50 年代初頭にかけて 断続的に執筆、1961 年の彼の死後、メアリーと出版元のチャールズ・スクリブナー・Jr.によ る編纂を経て、1970 年に出版された「ビミニ」「キューバ」「海上」の三部からなる長編小説 である。結果的に未完に終わったこの作品は、出版当初、『移動祝祭日』に続くヘミングウェ イの遺作として大きな話題になったが、作品自体に関する書評は概して批判的であった。 ベイカーによると、編纂者の一人、スクリブナー・Jr.は、1969-70 年の冬、残されたヘミン グウェイの遺稿の中から、出版が可能なほど体裁を整えており、かつ「ヘミングウェイ・キャ ノン」(Baker, Writer 383)に加えるに値するものを探した結果、『海流の中の島々』の「オ リジナル原稿」に辿り着いたという。彼は、特に本章で扱う第一部「ビミニ」の原稿を、主人 公の人称が一人称と三人称で揺らいでいたり、登場人物の名前が頻繁に変わったりしているこ とから、全体的には「不完全(inchoate)」(Baker, Writer 383)と見なした。しかしそれで も、原稿を一部カットすれば本の体裁が整うだろうと判断、1970 年の春にメアリーとともに編 纂作業を開始したといわれている。 しかし、スクリブナー・Jr.らが編纂した「ビミニ」の「オリジナル原稿」は、ヘミングウェ イが残した「ビミニ」のすべてではない。彼は生前、1945-46 年と 1951 年の二度にわたって ほぼ同じ内容の原稿を 2 つ――EM と OM――書き上げているからである。スクリブナー・Jr. らが編纂材料とした「オリジナル原稿」は OM の方で、筆者が調査した結果、OM 全体の約 2 割(76,851 語→62,748 語)をカットしたことが判明している(作品全体としては 159,596 語 →144,136 語と約 1 割をカットしている)。 スクリブナー・Jr.らが「ビミニ」編纂時にポイントとした中で、特に OM のもつ特色を半 減させたと考えられるものは主に 4 点ある。1 点目は登場人物の名前の揺らぎを解消させたこ と、 2 点目は OM では一人称と三人称で語られていた主人公ハドソンを三人称で統一したこと、 3 点目は下図が示すように、OM11 章(次男デイヴィッドがマカジキと死闘を繰り広げた翌朝 のシーン)をすべてカットしたこと(OM20 頁分)、そして 4 点目は OM16 章と 17 章(ハド. 12.

(14) ソンが次男デイヴィッドと三男アンドルーの事故死の知らせを受けた後のシーン;OM 各 22 頁分, 7 頁分)を大幅にカットしたことである。すなわち登場人物の名前や人称の揺らぎといっ ........ ....... た編纂者が見なした「不完全」な箇所の修正と、作者が当然したであろうと彼らが判断したカ ットが編纂の主軸になっている。 しかし実際には、この「不完全」な箇所にこそ、作者ヘミングウェイの創作上の意図が潜ん でいる。つまり、この作品では過去の出来事や人物をフィクション/ノンフィクションの境界 線上で描く過程で、いかに虚構の(つまり鉤括弧付の)「ヘミングウェイ」を作品内に織り込 むか――この Auto/Biography 創造への希求と試行錯誤、そして失敗の形跡が、形式の面では 名前の変更と人称の揺らぎとなって、また内容・テーマの面では 11、16、17 章となって表れ ていると考えられる。そしてそれを明らかにするには、OM と編纂本の比較だけでなく、EM の分析および EM と OM の比較考察も不可欠となってくる。さらに EM を含めた考察は、同 時にスクリブナー・Jr.らの編纂の問題点をも浮き彫りにする。. 「ビミニ」のオリジナル原稿(OM)と編纂本の語数比較 (単位:語) オリジ. カット. 章. 編纂本 ナル. 比率 (*). オリジ. カット. ナル. 部分. 章. 部分. 編纂本. 比率 (*). 1. 1,155. 0. 1,155. 1.00. 10. 4,826. 38. 4,788. 0.99. 2. 1,951. 0. 1,951. 1.00. 11. 2,795. 2,795. 0. 0.00. 3. 3,558. 9. 3,549. 1.00. 12. 5,380. 260. 5,120. 0.95. 4. 10,649. 2,400. 8,249. 0.77. 13. 7,737. 2,979. 4,758. 0.61. 5. 8,422. 340. 8,082. 0.96. 14. 806. 0. 806. 1.00. 6. 1,295. 0. 1,295. 1.00. 15. 640. 28. 612. 0.96. 7. 5,446. 231. 5,215. 0.96. 16. 3,301. 2,048. 1,253. 0.38. 8. 3,339. 0. 3,339. 1.00. 17. 1,126. 1,126. 0. 0.00. 9. 14,425. 1,849. 12,576. 0.87. 計. 76,851. 14,103. 62,748. 0.82. (*1): 編纂本の語数/オリジナル本の語数 (OM をもとに筆者作成). EM については、ローズ・マリー・バーウェルが OM と比較しながら詳細に紹介しているの を除いて、これまでほとんど論じられていない。しかし彼女もスクリブナー・Jr. 同様、人称. 13.

(15) に揺らぎが見受けられることや登場人物の名前が変更されていることはいずれも注目に値しな いと断定している(62)。さらに彼女の論考は、EM と OM の比較にとどまっており、スクリ ブナー・Jr.らによる編纂方法やその問題点には及んでいない。 そこで本章では、カットされた語数がもっとも多い「ビミニ」セクションを取り上げ、OM がもつ特色を損ねたと考えられる上記 4 点の中から、まずスクリブナー・Jr.が「不完全」さの 最たるものとして挙げた一人称と三人称の揺らぎと登場人物の名前の変更に焦点を当て、そこ から浮かび上がってくるヘミングウェイの創作意図をEMとOMの比較を通じて考察している。 そしてその後、ヘミングウェイのその意図が色濃く反映されていながら編纂によって大幅ある いは全カットされてしまった OM11 章および 16、17 章の考察に移ることにより、OM から編 纂本への編纂の問題点にも触れている。. <第 5 章> 『エデンの園』(The Garden of Eden, 1986) ヘミングウェイの没後 25 周年にあたる 1986 年に刊行された『エデンの園』は、彼が 1946 年から 59 年にかけて断続的に執筆した約 16 万 8,000 語におよぶ原稿を、スクリブナーズ社の 依頼を受けたトム・ジェンクスの手によって大幅に縮小されて世に送り出された作品である。 『エデンの園』は男女の役割を交換させた性の試みや同性愛、そして肌を黒くすることへの執 着を扱っていることから、これまで主にジェンダー、セクシュアリティ、人種の視点から多角 的に読まれてきた。またこれらはジェンクスの編纂方法やその問題点と絡めて議論されること も多く、たとえばモデルモグは同性愛およびトランスジェンダーの観点から新たなヘミングウ ェイ像を捉えなおす過程において、ジェンクスの編纂を「文化的に構築されたヘミングウェイ 像のレンズを通して作品を濾過した」(59)と強く批判している。またカムリーとスコールズ も、 ジェンクスがオリジナル原稿の終盤に頻出するマリータの場面を大幅カットした点に着目、 彼の編纂によりマリータが主人公デイヴィッドをより「正常」(102)でエロティックな生活 に戻す印象を与えることに成功したと指摘している。 しかしこうしたジェンダーや人種の見地に立つ解釈が、ジェンクスによってカットされた部 分から読み取れるすべてではない。下図は「ヘミングウェイ・コレクション」に所蔵・保管さ れている『エデンの園』のオリジナル原稿(#422.1)をもとに筆者が作成したもので、編纂本 をオリジナル原稿の章分け(全 51 章)に準じて区切り、各章のオリジナル原稿の語数を 1 と した場合の編纂本の語数を比率で表したものである。平均値は 0.39、つまりジェンクスは全体 の 61%をカットしたことになる。このようなグラフで表すと、ジェンクスが意図的に大幅削除. 14.

(16) を行った箇所が、ニック&バーバラ夫妻の場面(緑色:6、8、10、12、13 章)やカムリーら が論及したマリータの場面(黄色:29、37-39、47、49-51 章)に限らないことが判明する。 たとえば、本章で取り上げる若手作家アンドルーの登場場面(14-16 章)やキャサリンが夫に 髪を ivory 色に染めることを強要する場面(36 章)も、ジェンクスによって大胆にカットされ ている。またヘミングウェイは生前、この作品を書き上げられなかった場合を想定して「仮の 最終章」および「仮の最終章、別バージョン」(#422.2)という暫定的な結末を二つ書いてい る。バーウェルによれば、この「仮の最終章」は 1950 年 5 月に書かれたという(105)。具体 的に執筆中のどの時点で書かれたかについては、オリジナル原稿 25 章(編纂本 11 章に該当) に「16/11/58」というヘミングウェイのメモが残されていること、「仮の最終章」ではマリー タが一切登場しないこと、そしてオリジナル原稿 24 章(編纂本 10 章)で初めてマリータが登 場し、作品全体が新たな局面を迎えることを考慮すると、「仮の最終章」はマリータを登場さ せる前、23 章以前に書かれたと推測できる。実際に「仮の最終章」が作品に組み入れられなか ったとしても、執筆途中のヘミングウェイの脳裏に『エデンの園』の結末として想定されてい たものであることから、作品理解の手がかりのひとつとして大きな意味を持つと考えられるだ ろう。. The Garden of Eden 編纂本の語数比率. 1.00 象物語. Marita 登場. 0.90. 原稿焼失. 1958年 11月16-19日 執筆のメモ書き. 0.80 0.70. 黄:Marita 大幅削除. 緑:Nick&Barbara. 0.60 比率 0.50 平均 0.39. 0.40 0.30 0.20 0.10 0.00 1. 3. 5. 7. 9. 11. 13. 15. 17. 19. 21 23 25 27 29 31 章(Original Version の章立てによる). 15. 33. 35. 37. 39. 41. 43. 45. 47. 49. 51.

(17) ところがジェンクスは、編纂にあたってヘミングウェイの「ビジョン」 (Bruccoli, “Interview” 83)の正しい理解が必要だったとインタビューで語り、実際に「仮の最終章」に目を通したこ とを認めているにもかかわらず、この「仮の最終章」を編纂本にまったく組み入れていない。 この最終章は主に時間と記憶を主軸に物語を展開している。1 つ目の「仮の最終章」は、精神 に破綻をきたしたキャサリンが夫デイヴィッドに「覚えてる?(Remember?)」 というひと 言を繰り返しながら幸せだった日々を振り返るも、アフリカに行った記憶だけは完全に失って いるという話である。また 2 つ目の「仮の最終章」は、アンドルーがニック&バーバラ夫妻と ともに過ごした日々を一人称で綴った回想録となっている。 ジェンクスによって細かくカットされた 14-16、36 章および二つの「仮の最終章」から浮か び上がるのは、ヘミングウェイが描いた「デイヴィッド」とジェンクスが作り上げた「デイヴ ィッド」には大きな乖離があるということ、そしてジェンクスが完全に削除したアンドルーに もヘミングウェイの「ビジョン」の多くが託されているということである。つまりアフリカ物 語や書評をキャサリンによって燃やされながらも、さらに良い作品を書こうと前向きになった 編纂本の「デイヴィッド」は、ヘミングウェイが生前に意図した「デイヴィッド」と大きく異 なっている。 そこで本章では、二つの「仮の最終章」におけるいくつかの出来事に着目しつつオリジナル 原稿(特に 14-16、36 章)を読み返すことによって、ジェンクスの「デイヴィッド」とヘミン グウェイのそれとの違いを明らかにする。そしてジェンクスによって完全に削除されたアンド ルーに焦点を当て、ヘミングウェイが彼に託した思いを探っている。. <第 6 章> 『移動祝祭日』(A Moveable Feast, 1964) 『移動祝祭日』は、ヘミングウェイが 1957 年から 61 年にかけて断続的に執筆、彼の死後、 メアリーによって編纂された最初の死後出版作品である。1920 年代前半を舞台にした計 20 章 からなるこの作品では、作家として駆け出しだったヘミングウェイの、貧しいながらもフィッ ツジェラルドやスタインらといった先輩作家との親交に満ちたパリ時代が鮮やかに再現されて いる。特に第 3 章で紹介されるスタインのセリフ「あなたたちは失われた世代です(You are a lost generation)」(MF 29)は、ヘミングウェイの最初の長編小説『日はまた昇る』にも用 いられ、第一次世界大戦時に青年期を迎えた世代を象徴する言葉として普及されるまでになっ た。発表当初はおおむね好評で「ヘミングウェイ芸術の真骨頂」(Burwell 154)等の賛辞が 並んだ。. 16.

(18) 『移動祝祭日』は、晩年のヘミングウェイが若かりし日の自身を回想して綴ったものである ことから、これまで non/fiction といったジャンルを巡る議論や、作者ヘミングウェイがいかに /いかなる作中の「ヘミングウェイ」を構築していったかについての考察が盛んに行われてき た。また一方では、「ヘミングウェイ・コレクション」に所蔵されている当作品のオリジナル 原稿と、その編纂本を子細に比較したタヴェルニール=クルバンを筆頭に、バーウェルらによ ってマニュスクリプト研究も行われ、メアリーの編纂方法やその問題点が徐々に明らかになっ ている。タヴェルニール=クルバンはメアリーのフランス語の修正ミスやタイプミス、形容詞・ 副詞の変更等の指摘をはじめ、ヘミングウェイ自身を指す “you” が彼女によって軒並み “I” に統一されたことに触れ、不定代名詞的に用いられている you が I に変更されたことにより、 ヘミングウェイと読者との間の「心理的な繋がり」(Tavernier-Courbin 174)が断ち切られ たと主張した。またバーウェルは、you から I への変更についてはその言及にとどめ、元は第 7 章にあった「<失われた世代>」(“Une Generation Perdue”)が第 3 章に移動された点に 着目、これによりヘミングウェイが意図した「母のように支配的なスタイン」と「親切で寛容 なシルヴィア・ビーチ」の対称性が薄れたと指摘した(164-68)。 『移動祝祭日』は『エデンの園』など他の死後出版作品に比べると、編纂者による大がかり な文章の削除・加筆が最終章を除いて極めて少ない作品である。そのためか、これまで先行研 究で指摘されてきた編纂の問題点には重複する部分が多く、議論が多岐にわたって十分になさ れたとは言い難い。そこで本章では、メアリー編纂の問題点についてさらなる検証・議論を要 する点として、先述の “you” の再定義と “you” から I への統一の弊害、および最終章の編纂 方法の再考を試みている。 まず、“you” の再定義については、当作品において過去時制で現れる you の中でも、特にメ アリーによって I に変更された “you” は、「喪失してしまったかつての自分」を、「執筆現在 の自分」や「過去から継続している自分」を指す I から切り離して、真空パックのごとく閉じ こめておく狙いがあったことを指摘している。この真空パックに閉じこめた “you” は複数の場 面に表出するが、特に頻出しているのは「ベッドの中でハドリーと寄り添っている私」と「オ ーストリアのシュルンツでハドリーとスキーをしている私」である。いずれもハドリーとの感 慨深い思い出として、ヘミングウェイが胸に抱き続けてきたものである。 また、最終章「パリに終わりなし」に見られるメアリーの大幅な編纂については、彼女が作 り上げた最終章が、ヘミングウェイが生前意図していた終結のイメージと大きく乖離している ことを明らかにしている。ヘミングウェイは生前、A.E.ホッチナーに「(このパリ本を)書き. 17.

(19) 終えることができない」(Weber 140)と漏らしたとされている。しかし、メイヨー・クリニ ックでの入院中・退院後に書かれたエンディング原稿には同じメッセージが繰り返し見受けら れ、当作品の幕引きをどうするかについて苦慮していた事実とは裏腹に、彼の中にはすでに明 確な青写真ができあがっていたと推測できる。つまり、ヘミングウェイとハドリーの invulnerable な関係は 1920 年代に一度は破綻してしまったものの、今や破局する前以上に強 固な関係になるかもしれないという、彼の彼女に向けた復縁のメッセージである。ところがヘ ミングウェイのそうした思いが滲み出ている箇所は、メアリーによって丁寧に削除されてしま った。ヘミングウェイがメイヨー・クリニックの入退院を経て、婉曲的だがようやく表すよう になったハドリーとの復縁の願いも、メアリーの編纂によってばっさり切られてしまったので ある。. A Moveable Feast の語数比率 (オリジナル原稿の語数を 1.00 とした場合の、編纂本の語数比率) 2.00 1.80 1.60 1.40 1.20 比率 1.00 0.80 0.60 0.40 0.20 0.00 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9 10 11 12 13 章(編纂本の章立てに準ずる). 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 第四部 死後に再編纂・再出版された作品における編纂方法とその問題点 第四部では、ヘミングウェイの生前に執筆した原稿の一部が掲載されていながら、死後あら ためて編纂して出版された二作品――『夜明けの真実』と『危険な夏』――を扱う。第三章同 様、論文ではオリジナル原稿で展開されている作品世界を紹介した後、編纂者による編纂の方 法とその問題点を検証しているが、概要書では、主に後者を中心にまとめることとする。. 18.

(20) <第 7 章> 『夜明けの真実』(True at First Light, 1999) 『夜明けの真実』は、ヘミングウェイが 1953 年から 54 年にかけて行ったアフリカ・ケニア でのサファリ体験をしたためた原稿「アフリカ日記(„African Journal‟)」を、彼の次男パト リック・ヘミングウェイ(Patrick Hemingway)が全体の約 44%をカットして刊行した「虚 構的回想録(“A Fictional Memoir”)」(TFL のダスト・ジャケット)である。当作品のオリ ジナル原稿は 1971-72 年に、雑誌『スポーツ・イラストレイティッド』(Sports Illustrated; 以下『イラストレイティッド』)に三回に分けて部分掲載されているため、『夜明けの真実』 は再編纂本ということになる。 本章ではまず、パトリックの編纂を『イラストレイティッド』のそれと比較することによっ て検証している。特に作品構成の比較においては、オリジナル原稿を素材に『イラストレイテ ィッド』とパトリックが、それぞれの思惑をもって編纂したことが明確に示されている。元々 ヘミングウェイがこの作品で展開しようとした作品世界は、詳細に描かれる journal(狩りの 日常やアフリカの描写)の枠の中に、fiction の要素(その中でも二大狩猟として「メアリーの ライオン狩り」と「ヘミングウェイのヒョウ狩り」を並列し、その脇にデッバとの関係を添え るもの)と、reminiscence の要素(パリ・スペインでの思い出や、過去の人間関係等)を組み 込んだものであった。二大狩猟である狩りがそれぞれ順に終わった後は、新たに第二のライオ ンの話を展開させようとした形跡が見受けられるが、未完のため状況の提示のみで終わる。 一方、『イラストレイティッド』の編集者による「アフリカ日記」だが、これはタイトルを ヘミングウェイの仮題を踏襲したことに伴って、純粋に二大狩猟だけを並列した構成となって いる。デッバに関しては簡単な人物紹介がなされるだけで、その後のヘミングウェイとの接触 は完全に削除されている。 そして最後にパトリックの『夜明けの真実』だが、これは彼がダスト・ジャケットに “A Fictional Memoir”、 イントロダクションに 「ヘミングウェイの原稿は (中略) 間違っても journal ではない」(TAF 9)と断言していることからも明らかなように、fiction の枠を journal と並 列させんばかりにまで押し上げている。そして「ヘミングウェイのヒョウ狩り」の場面を大幅 に削除し、単なる日常の狩りのひとつとして journal に移行させてしまっている。しかし編纂 後も、ヒョウ狩り実行に至るまでの細かな伏線がいくつか残されており、単に日常の狩りのひ とつとして解釈するには不自然さが残る。これに対しデッバやメアリーが登場する場面は、作 品全体を通じてほとんど削除されることなく残され作品全体の大きな位置を占める。またメア リーのライオン狩りについては、ライオンにとどめの一発を命中させたのは誰かということの. 19.

(21) 真相が、狩りに携わった人物の見解(間違いなくヘミングウェイがとどめを指したという見解) のカットによって曖昧さを増した感がある。 こうして三つの視点からオリジナル原稿と両編纂本を比較していくと、オリジナル原稿を素 材に『イラストレイティッド』の編集者とパトリックがそれぞれ独自の見解をもって編纂した ことがうかがえる。が、同時にそのどちらもがオリジナル原稿とは異なる様相を呈しており、 「単に削除しただけで、新たに独自の文章を付け足してはいない」という編纂者の注釈が、オ リジナルの本質を損なっていないことの表れに必ずしもなっていないことが明らかとなる。 ...... パトリックが受けたインタビューを検証すると、当作品の編纂意図の裏側に、パトリック自 .. 身の fiction 創造に対する希求があったことが分かる。つまり、彼は『イラストレイティッド』 が fiction の要素を取り除いて journal 色に徹していることを利用して、 父ヘミングウェイの 「タ フガイ」のイメージや「テディベア(a child‟s teddy bear)」(TFL 11)を喚起させるメアリ ーとの夫婦愛を、編纂という名のテクスト操作を通じて創り上げようとしていたのである。. オリジナル原稿と True at First Light の語数比較 比率. Maryとライオン. 1. Debba. 0.8 象 ヒョウ. 0.6. 新宗教. 0.4 0.2 0 1. 3. 5. 7. 9. 11. 13. 15. 17. 19. True at First Light の章. また「浮遊する「ヘミングウェイ」――『夜明けの真実』における記憶の操作と自己の再構 築」では、ヘミングウェイ自身の創作プロセスに論点を移す。当作品の執筆経緯に関して重要 なのは、ヘミングウェイがサファリを敢行した時期と、作品の執筆を開始した時期の間に、そ の後の彼の人生を大きく左右する事故と出来事が起きたということである。ひとつはケニアに. 20.

(22) 滞在中、二度の飛行機事故で瀕死の重傷を負ったこと、そしてもうひとつはノーベル文学賞を 受賞したことである。これはつまり、サファリ滞在時の「ヘミングウェイ」と、当時の自分を 傷病に苦しみながら回想するノーベル賞受賞作家としての「ヘミングウェイ」とが大きく乖離 していることを示す。ヘミングウェイがサファリでの実体験の記憶をいかに整理・配置したか を、自伝/回想録の観点から追うことによって、彼が再構築しようとした自己の一端を探る。 そして結果的に、ヘミングウェイが当原稿の中で二つの自己――「想起する自己/主体」と「想 起される自己/客体」――の均衡を保つことができなかったことを指摘、それが物語の執筆断 念に繋がったと結論づける。. <第 8 章> 『危険な夏』(The Dangerous Summer, 1985) 『危険な夏』は、1959 年の春から夏にかけてヘミングウェイが密着取材したスペインでの闘 牛が素材となっている。1932 年に闘牛記『午後の死』を刊行した彼にとって、当作品はその続 編・改訂版の意味合いが強く、『ライフ』誌と交わした契約も「闘牛ルポ」の肩書に相応しく、 “a 5,000-word news article”(Life, Part I)というものであった。『ライフ』誌の狙いはあく まで、ヘミングウェイ独自のアングルで切り取られたスペイン闘牛の現状を、数々の写真と併 せて掲載することであり、 北米新聞連盟 (通称 NANA) の特派員としてスペイン内戦を dispatch に活写した「ジャーナリスト・ヘミングウェイ」の一時的復活を促すものであった。 しかし 1960 年 5 月にアイダホ州のケチャムで『危険な夏』の初校を書き終えた時、その語 数は実に 12 万語を超えていた。ヘミングウェイの言い分によれば、当時のスペイン闘牛界の 二大闘牛士、ドミンギンとオルドネスの関係を、「一方の闘牛士[ドミンギン]が、他方の闘 牛士[オルドネス]によって徐々に追い込まれていく話」(Weber 113)に仕立てようと躍起 になっているうちに、語数が膨れ上がったのだという。これは、ヘミングウェイが一連の闘牛 シーンを自らのアングルで切り取るだけでなく、それにまつわる数々の事柄を自らのフィルタ ーに通して脚色し、思い描く作品イメージに当てはめようとしたことを意味する。こうして仕 立て上げられた『危険な夏』がすでに “news article” の枠を超えていることは言うまでもない が、ここで着目すべきは、この作品に描かれている闘牛士や闘牛シーンの authenticity がそも そも極めて希薄であるという点である。つまり当作品におけるジャーナリスティックな信頼性 は、あくまでノンフィクションという『ライフ』誌から依頼を受けた時点での定義づけに裏打 ちされているに過ぎないのである。 『危険な夏』 に描かれた内容とそのもととなった事実との齟齬を指摘・批判する声の大半は、. 21.

(23) 若き闘牛士オルドネスに対するヘミングウェイの過度の賞賛と肩入れ、そして彼とライバル関 係にあったドミンギンへの批判的な態度に端を発している。ヘミングウェイは二人の直接対決 を「重傷のトラウマを乗り越え、牛角の細工やトリックを決して行わないオルドネス」と、「死 の恐怖に取り憑かれ、演技にも感動がないドミンギン」という二項対立の図式で捉え、常にオ ルドネス優位の話へと作り替えていった。しかし、Hemingway‟s Art of Non-Fiction の著者ロ ナルド・ウェーバー(Ronald Weber)は、オルドネスがそもそもドミンギンと互角に渡りあ えるだけの実力はなかったと指摘(130)、エドワード・F・スタントン(Edward F. Stanton) もオルドネスが牛角の細工やギャラの搾取などの不正に手を染めていたと暴露した(198)。 ヘミングウェイ自身も実はオルドネスの不正行為に気づいていたと言われており、『ライフ』 誌に当作品が掲載された後、二人の闘牛士に対する “the unbalanced treatment”(Oliver 96) を認め、正式に謝罪している。 一方、ヘミングウェイによる『危険な夏』の執筆過程を『午後の死』のそれと照らし合わせ てみると、彼がスペイン滞在中ずっと闘牛(士)に密着していたにもかかわらず、そこでの体 験や記憶が作品にほとんど生かされていないことが分かる。『午後の死』の執筆時には闘牛本 を参考にしてはいたが、彼がスペインで取った闘牛メモをはじめ、自身の実体験やその記憶を 一番の拠り所としていた。しかし『危険な夏』に関しては、ヘミングウェイが観戦ツアーに同 行したビル・デイヴィス(Bill Davis)へ宛てた書簡から、雑誌などの二次資料に大きく依拠 していたことが分かっている。 では事実が脚色され、ヘミングウェイ自身の想起もままならない状況で書かれた『危険な夏』 は、果たして彼の作意を十全に反映し得たのだろうか。また、そもそも当作品における彼の作 意とはいかなるものであったのだろうか。彼自身、スペイン人ジャーナリストでヘミングウェ イの友人でもあったホセ・ルイス・カスティロ=プッシェ(Jose Luis Castillo-Puche)に当作 品が “a bunch of crap”(Castillo-Puche 63)であることを認める一方で、それでもなお “What I‟ve written is Proustian in its cumulative effect…and if we eliminate detail we destroy that effect”(Hotchner 242;下線は引用者による)と、12 万語に及んだオリジナル原稿を『ライ フ』誌掲載のためにカットすることを強く拒んだとされている。 この “that effect”、つまりヘミングウェイが当作品で試みようとしたことについての考察は これまでほとんどなされていないが、それに迫る糸口がオリジナル原稿の後半 3 分の 1 にある というのが私見である。しかしこの後半 3 分の 1 は、ヘミングウェイの存命中および死後の二 度にわたって行われた大幅な編纂作業のいずれにおいても組み入れられることがなかった。一. 22.

(24) 度目の編纂は 1960 年 5 月に原稿が完成した後もはや自力で編集することができなくなってい た彼が、スペイン旅行に同行した友人 A.E.ホッチナーの手を借りて、約 3 万 9,000 語にまで削 除した『ライフ』誌版(1960 年 9 月 5、12、19 日号に掲載)。そして二度目はヘミングウェ イの死後、スクリブナーズ社の編集者マイケル・ピーチの編纂によって新たに編み直されたス クリブナーズ社版(1985 年出版、約 5 万 2,000 語)である。 このオリジナル原稿の後半 3 分の 1 にはヘミングウェイとオルドネスの一体化実現、ドミン ギンの不可視化、“What are you getting to be, Ernesto? A worrier?”(Manuscript, #354a)の 一文からうかがえるヘミングウェイの自己の揺らぎと “Ernest” の消滅など、作品全体の解釈 の土台となるエッセンスが凝縮されている。それらのエッセンスを軸に前半 3 分の 2 を読み返 してみると、ヘミングウェイがオルドネスとドミンギンへ向けた unbalanced な視線の裏側に あるものが前景化されてくる。つまり自己喪失と二人の主要登場人物へ向けた自己派生――ド ミンギンには「目を反らし遠ざけたい現在のヘミングウェイ」、オルドネスには「今のヘミン グウェイの願望の体現者」――である。 ヘミングウェイが自身を複数の登場人物に振り分けて投影させる手法は、死後出版作品群の 特徴のひとつである。たとえば、本論文第 4 章の『海流の中の島々』ではベテラン画家のトマ ス・ハドソンと若手作家ロジャー・デイヴィスに、第 5 章の『エデンの園』においては主人公 で作家のデイヴィッド・ボーンと若手作家アンドルーに、「過去の自分」とそれと向き合う「現 在の自分」が対照的に映し出されている。しかしいずれの作品も、ヘミングウェイの死後、第 三者によって大幅な編纂が行われたため、彼が作品内で展開したこうした手法は出版本から完 全に失われている。同様に、『危険な夏』におけるヘミングウェイの自己分裂の様相やオルド ネスらへの役割付与も、オリジナル原稿をもとにした研究からしか明らかにならない。そうい ったことから本章では、オリジナル原稿の後半 3 分の 1 を軸にしてそれ以前の部分を読み返す ことにより、オルドネスとドミンギンそれぞれに投影された「ヘミングウェイ」像を明らかに するとともに、non-fiction と定義されている当作品の fictional な側面を明らかにしている。. 23.

(25) T he Dangerous Summer 語数比較. 比率. Life Scribner's. 1 Life part 1 終わり. 0.9. Life part 2 終わり. 0.8 0.7 0.6 0.5 0.4 0.3 0.2 0.1 0 1. 2. 3. 4. 5. 6 7 8 章(Scribner's版の章立てに則る). 9. 10. 11. 12. 13. <付章> 『誰がために鐘は鳴る』(For Whom the Bell Tolls, 1940) 本論文では、すでに述べたように、死後出版作品群における「書く/想起する主体としての ヘミングウェイ」と「描かれる/想起される客体としての『ヘミングウェイ』」との関係に着 目している。自伝あるいは自伝的小説の執筆においては、少なくともこの主体と客体とが齟齬 をきたさないことが重要である。後年のヘミングウェイは主体と客体の同一化、換言すれば「自 己の同一化」を実現するために、客体としての自身の描写方法を模索し続け、自身を複数の登 場人物に振り分けて投影したり、一人の登場人物に対して複数の人称を使い分けるなど、さま ざまな策を講じたのである。 ヘミングウェイのこの模索は、死後出版作品群にのみ見られるのではない。1940 年に出版 された『誰がために鐘は鳴る』にも、スペイン内戦の記憶を再構築する過程で「自己の同一性」 を目指しながらも成就できなかったヘミングウェイの姿が読み取れる。そこで付章として、彼 による内戦の再構築ならびに失敗のプロセスを、記憶/記録の操作をキーワードに、歴史小説・ 伝記・自伝の側面から追っていく。以下、付章の概要である。. 1940 年に出版された『誰がために鐘は鳴る』は、ヘミングウェイが北米新聞連盟の特派員と して体験・見聞したスペイン内戦(1936 年 7 月~39 年 3 月)を素材にして書かれている。内 戦中ヘミングウェイは、計 28 におよぶ dispatch のなかで「空間―視覚」的に「現在」の状況. 24.

参照

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