歴史・記憶とディスクール : 朱天心『古都』論
著者 黄 英哲
雑誌名 言語文化
巻 8
号 1
ページ 29‑54
発行年 2005‑08‑25
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007592
歴史・記憶とディスクール
―朱天心『古都』論
黄 英 哲
私たちは傷を癒している時間はない。私たちは鉛筆と消しゴムを奪っ て武器とし、互いに殺しあうのだ。―朱天心「見えない都市」1
一、前 言
外省人第二世代の作家朱天心は、長い間、創作活動を通して外省人の台湾 における位置づけを探求してきた。彼女は外省人と本省人が混雑する社会状 況の中で、一貫してディスクールを通じて台湾のアイディンティティーを問 い続けており、そのディスクールには、歴史への危機感2がはっきり表れて いる。
朱天心は「我が軍人村の兄弟たちを想う」を発表して以来、叙述しながら 議論するという文体で、若者たちが成長して軍人村という「大観園」を抜け 出し、どのように不安定な社会状況や人生や心情に直面したかその過程を描 いてきた。彼女の世代に属する同胞たちは、この父祖の移り住んだ島で、い つなん時、瞬時に生活空間が奪われ、駆逐される運命になるかもしれず、そ のため、異郷を放浪する以外、出口がない。朱天心の鋭敏な感覚は、島のこ うした奇怪な雰囲気を感じ取り、彼女は運命だとあきらめて部屋に閉じこも るのではなく、勇敢にもこの島から放逐されようとしている兄弟姉妹のため に立ち上がって、打ち捨てられた場所に歴史の記憶をたずねようとする。彼 女は汚名を着せられた外省人に新しい記録と解釈を与えるのである3。いっ たい朱天心は何を憂えているのか。
歴史の急激な変化の中で、外省人たちは徐々に本省人と対立する存在とし て目されるようになり、大きな転換を迫られた。政権の交代は元々優位にい
「言語文化」8-1:29−54ページ 2005.
同志社大学言語文化学会©黄英哲
たエスニシティを中心の地位から周縁へと放逐し、その結果、彼等にまつわ るあらゆる記憶は都市の激変とともに解体した。都市は不確定に膨張し、記 憶は曖昧なものとなり、絶対性は消え失せて、個人に残されたのはただディ スクールだけとなった。
ディスクールを通じて自己の記憶を探す旅の中で、『古都』が空間を置き 換えることで、時間の流れを止めようとしたことは明らかである。朱天心は 時間への抗いの中で、一体何を構築しようとしたのか?記憶の中の具体的な 事象がすべて崩れ去り、集団の失憶について恐慌をきたした作家は、主人公 個人の経験と記憶を訪ねる旅を始め、『古都』の中に一種の桃源郷を築こう とした。
本論は、『古都』に顕著である「危機意識」から出発し、ひいては朱天心 の歴史や記憶に対する懐疑と探求、さらにその独特の叙述と語りの方法を通 じて構築された『古都』の意義を考えようとするものである4。朱天心はど のように「他者」という周縁の立場から「本土意識」(台湾人意識)の高揚 する言論の場へと進み出し、どのように自らの存在を弁護するのか?京都か ら台北へ、過去から現在へといった、巧妙な時空変換に注目しながら、歴史 と記憶についてのディスクールによって寄せ集められたイメージの中に、朱 天心のいわんとする失落と探求とを追ってみよう。
二、歴史記憶とアイディンティティー
歴史の記憶と失憶は、近年最もホットな話題となっている。権力の側にい る者は、権力を利用して絶えず歴史を書き換える。そのため歴史の確実性は しばしば疑問視されている。歴史は主観かそれとも客観か5?実際には、こ ういった議論の重点は「プレゼンテーション」の問題にある。結局のところ は視点(すなわち事件)を主とするか、あるいは観者(すなわち人)によっ て歴史を決定するかであり、これもやはり人か智かという未解決の問題なの だ。『古都』の中で、語り手は歴史の解釈をずっと嘲笑諷喩しつづけている。
「政治的な正しさ」のために台湾の歴史を遡る運動は、語り手の嘲笑の対象 となっている。「まさか、あなたの記憶が何の意味もないなんて…」という 言葉は、いわゆる「大歴史」への問いかけであり、「大叙述」をひっくり返
そうという意図もはっきり示されている。小説の中の自己との対話は現実に 起こっている破壊に抵抗する最終的な手段である。自己の記憶を再構築して いく過程で、集団の記憶と失憶に対して、特別な観察と問いかけがなされる。
『古都』における歴史記憶の追求、集団の記憶に対する懐疑とアイディンテ ィティーに対する感覚、それらすべてが故郷と異郷を一挙に結びつけ、過去 と現在の双方の物語に力を吹き込んだのだ。
『古都』のディスクールについて探究する前に、歴史記憶とアイディンテ ィティーの問題を先に整理しておくべきと考える。しかるのちにはじめて、
我々は小説の中に濃厚に表れる記憶や傷逝や懐古といった雰囲気に分け入る ことができるのである。
1.歴史とは何か?
朱天心は小説の冒頭で次のように問いかける。「まさか、あなたの記憶が 何の意味もないなんて…」。決して誰の記憶に意味があるのかなどと言明は していない。「皇民精神」を注入した日本政府の記憶なのか、「反共抗ソ」を 注入して祖国大陸の山河を光復させようとした国民政府の記憶か、それとも
「愛台湾」を植え付けようとした本土論や政治権力を有する政府の記憶かと いったことは言わないのだ。歴史には奇怪な変動性が満ち溢れている。住民 の体験を真実とするのか、歴史に記載された年表や事柄を真実とするのか。
朱天心は記憶の実態が一つ一つ瓦解していくとき、7つの「あの頃…」でも って当時の空、樹木、涙、思い、音楽などの時空の背景を呼び戻し、聴きな れたビートルズやドーン・マックリーンの歌声と雰囲気、それにスベリヒユ、
ランタナ、ヒオウギ、日々草、芍薬、牡丹や南洋杉、羅漢松などのそこに生 い茂っていた樹木や草花に借りて、生きてきた歴史の証を確認するのだ。な らば、記憶とは何によっているのか?朱天心はいう。
工商業資本主義の高度な発展にともない、多くの「思い出のない」新 しい商業区や新しい建物だけがどんどんすさまじい勢いで増える。そ れに対して、記憶とそれによって必然的にもたらされる移り変わる街 や家並みは、同じようなスピードで消えゆき……二度と取り戻せない。
……幾度となく記憶が塗り替えられ、集団はまるで記憶喪失症の人や 地区のようになったというのに、国家の「主体意識」「本土意識」は どこから生まれたのか?中味を勝手に詰め込まれ、何かの道具にされ てしまったとしても何の不思議もないではないか?6
めまぐるしく変わる政治状況と都市生活の中で、朱天心はいわゆる「歴史」
とは集団意識を充填する道具にすぎず、ただ、権力の側にある者が民衆を愚 弄するための包装にすぎないとする。朱天心が強調するのは「記憶の変動性」
である。彼女は、「記憶」に占領されてしまわないように、集団の記憶の植 え付けに対抗して瑣末で個人的な体験を採取しているのだ。そして、めまぐ るしく変動する社会に対抗するため、文字を通じて自己の記憶を再構築する。
時空を超えたディスクールでは、淡水河は長江であったり、淡水はサンフラ ンシスコであったりもする。長江やサンフランシスコを見たことがなくとも、
それらの景色は深く「あなた」の記憶の中に刻まれており、のちにイメージ としてよみがえってくるのだ。
『古都』では語り手である「あなた」を通じて、外省人と本省人といった エスニックグループ対立の無意味さが暴露される。「あなた」の父親は外省 人に属し、母親は本省人に属する。対立を強調する絶対論者たちは、語り手 のような本省人と外省人の両方の血筋を引く者については、どうにも位置を 定めることができずにいる。そのため地位とアイディンティティーの危機は、
語り手である「あなた」に居心地の悪さを抱かせる。歴史は台湾という島国 の民族の混雑が悠久の昔からのものであることを示しているが、国家システ ムの下、このような混雑性は為政者によって優劣がつけられ、集団意識もま た政治的版図によって区分され新たに定義し直される。しかし、その実、
「あなた」という語り手の存在自体がこの分類そのものがでたらめで奇怪か つ妄誕であることを示しているのだ。
「あなた」のこの島についての記憶は母方からきたものである。日本の教 育を受けた母方の祖父と祖母からは、「本土」風を吸収した。たとえば、祖 父の旧台北帝大医学専門学校の同窓会に向かう後ろ姿、祖母と一緒に体験し
た「げんこつあめ」あるいは「蜜漬けグァバ」の味、それから汽車の駅の通 路にあった小さな雑貨店といった記憶は、みな50〜60年代の台湾社会のもの である。しかし、その中の人物のイメージは日本時代から戦後初期のものに すぎない。祖父が祖母を日本語で「ネエサン」と呼ぶこととか、お団子をま るめること、草餅をこしらえて墓参りにいったことなど。こうしたことは、
自分自身の歴史記憶の深処には留まらない。一方、父方の外省人という身分 の発現と自分自身の成長につれて、「あなた」の自我の変容は日を追って深 刻化し、はなはだしくは周縁に身をおいて、同じく異郷からやってきた同胞 と一緒に隅っこで、日を追って敵意をみなぎらせていくこの小島のことを窺 い、存在についての危機意識をつのらせながら、異郷へと高く夢想を飛ばす ことになる。
見上げると、真っ青に澄み渡った大空にようやく点々と色づきかげん の温帯の黄葉が照り映えて、じっと眺めてみると、いったい自分はど こにいるのか、いつかきっとどこそこに行くのだ、たいていは世界の 果ての土地へ、といった夢物語を織りあげるのはわけなかった。先祖 代々の陵墓、一族郎党との団円を捨て、大海原に漕ぎいだして幾多の 危険を乗り切り、天地の尽きる最果ての地に逃げてきたという『諸羅 県志』のなかの言い回しは、あなたのように一九四九年に台湾に渡っ てきた父親をもつ人間を非難するのにばかり当てはまるとは限らない のである。7(清水賢一郎訳『古都』109−110頁)
主人公である「あなた」は、1949年に台湾に渡ってきた子孫であり、この 島のすさまじい変化の中、駆逐されるかもといった不安と苦境に身を置き、
ついには自分の血にこの島の人間の血が混じっていることを忘れてしまう。
「あなた」は、ユーモアと感傷めいた口ぶりでこういう。
死気が染みこんだ草餅を食べるのが嫌でお墓参りにも行かず、お墓参 りから逃れたくて元宵節の前に両親のもとに帰らせてもらい……、こ うして何年もたつうち、本来は自分もお墓参りするお墓のある人間で
あることを忘れてしまった。(清水賢一郎訳『古都』100頁)
このような感情と「あなた」をとりまく環境の矛盾は、小説全体の基調と なっており、「外来」か「本土」かによって歴史の淵源が論じられてしまう ことが鋭く風刺されている。実際、こうした論を唱える者が強調する「歴史」
とは、過去に起こった単純な事実に限らない。重要なのは、彼等が論を唱え て社会の記憶を作り、「過去」の探索に名を借りて現在の人々を呼び覚まし てそれを文献や口承、儀式や祭典、そして記念品によって伝送し、人々の記 憶を凝集させ、集団の追憶行為の名のもとに大衆の凝集力を強めることだ。
それは同時に人々の排他性を強化することでもある。台湾本土論は歴史の淵 源を利用してその言説の合法性を打ちたてようとしているが、朱天心のこの 種の言説に対する反論とは、絶え間なく自分自身の私的な記憶を呼び覚ます ことであり、彼女はこれによって本土論の覇権に対抗しようと企図したのだ。
歴史とは決して「歴史事実」の記憶ではなく、グループが創り出した「過去」
を通じてのイメージである。そしてその中には歴史事件に対する複雑な取捨 選択や修正、あるいは欠落も含まれるのである8。歴史は変動性に満ちてお り、集団の記憶の形成の背後には、つねにより複雑な権力支配や人為的な要 素などといった問題がからんでいる。いわゆる歴史の解釈には人為的な操作 がつきまとうのだ。朱天心は『古都』によって「歴史」の奇怪と虚構とを明 示した。しかし、一方で朱天心自身もまた自ら気付かないうちに、過去の記 憶の栄光を守ろうとしているのだ。それはまた国民党の外省人が文化の覇権 を握っていた時期の記憶であり、別の角度からいえば、本省人の方が今日朱 天心が味わっているような喪失感を抱き、立場を問われるといった境遇に置 かれていたことを意味する。どのような論であれ、立場を替えれば、その守 るものもまたそれぞれ異なる。国民党政権でも民進党政権でも、歴史の解釈 権には多くの意識形態が混入している。『古都』について論じることで深め られるのは、現在の外省人が置かれている問題だけでなく、台湾がこれまで いかにさまざまな記憶を受け入れてきたかという問題でもある。
2.アイディンティティーを尋ねて―集団意識の妄誕
語り手である「あなた」が身をおくことができるのはどこか?外に追い出 され、またどこからきてどこへいくのか知らぬ「異郷の客」のような境遇で は、彷徨を続けざるをえない。島内で優勢にある「在地人」からも受け入れ られず、またいわゆる「故郷」である神州(中国大陸)からも受け入れられ ない。まるで道に迷ったかの武陵の人が、路の遠近を忘れ、昔日の桃源郷を 探しあてられなかったかのようだ。この島国で40歳を迎えつつある中年女性 を遠い旅に駆り立てたのは何だったのか。生まれ育った故地に対しては何の 執着もなく、はなはだしくは、それを異郷のようにも思いこむことでようや く日々を送っている。その最大の原因はアイディンティティーの喪失である。
本省人出身の総統を民族の神に祭り上げる運動の中で、「あなた」が原初に 信じていたものの記憶は突然一夜のうちに否定されて修正され、それどころ か「あなた」が小さいころからよく知っていた民族の救世主も、一夕の間に 民族の罪人となり、台湾を強制占拠したという罪名をかぶせられ、大衆の攻 撃の的となった。ずっと存在すると思われていた事、あたりまえの事実が突 然目の前で瓦解したのである。何も確定的なものはなく、不確実性はこれま で有していたアイディンティティーを動揺させた。アイディンティティーを 喪失した後では、よく熟知しているはずの島でさえ、瞬く間に見知らぬ土地 に変わってしまった。それで、「あなた」はかつてのアイディンティティー を尋ねて遠い旅をせざるを得なくなったのだ。「あなた」はいう。
あの頃からずっとそうだったが、いったいなぜ遠い場所に憧れるのか、
なぜ常にどこか遠くへ高飛びしたい気持ちが離れないのか、自分でも よくわからなかった。……こんな気持ちを、あなたは今まで一度も整 理しようと試みたことはなかったし、敢えて誰かに言う気にもなれな かった。とりわけ、どうかするとすぐ他人様に、この土地を愛してい るかどうかチェックされ、ましてあなたたちのようにこの土地があま り好きでない人間は、いやならさっさと出て行けと言われるようなご 時世には。(清水賢一郎訳『古都』39〜40頁)
「あなた」は、決して自分が遠い所に行きたがる本当の動機を分析しない
し、自分が小島においてどうにも安心していられないことについても分析す るのを避けている。その最大の原因は喪失したアイディンティティーに直面 するのを恐れていることにある。政府が「郷土を愛し、人民を愛する」との スローガンを大々的に提唱する中、「あなた」の精神はこの島から乖離して ゆく。なぜならば、「郷土を愛する」という集団意識というベールの中で、
よく見知っているはずのものが、どんどん崩壊していくからである。政治の 転換という状況、および都会化という環境の変化に直面し、路に迷った武陵 の人−「あなた」は、アイディンティティーの背後にあるものを追い求める。
しかし、そこに発見するのは、国家の集団意識によって造られた幻のアイデ ィンティティーと、島全体に再構築された社会の記憶だけだ。さまざまな立 場のアイディンティティーに関するシンポジウムを通じて、過去の記憶は新 たに修正され、集団の力によって過去がつくりかえられ、それが群集の集団 記憶になっていく9。「あなた」はこんなふうに嘲笑する。
さっさと出て行けとか、どこそこに帰れだなんて、まるで行くべき場 所や帰る場所がちゃんとあるのに、図々しく居座ろうとしているみた い。
……
でも、そんな場所がどこにあるの?(清水賢一郎訳『古都』40頁)
朱天心は、小説『古都』で執政者がこうした歪曲によって集団意識を作り 出すのに対抗するために、文をばらばらにして書くという手法を用いること で、集団意識の妄誕を暴露してみせた。権力者が意識的に作り出した対立と は、民族主義がもたらした省籍の違いによる衝突と矛盾である。これについ て、「あなた」は軽い口調で若いときのことを思い出し、PX(米軍内の売店)
から放出された本物のリーバイスのGパンを買うために晴光市場(外国物資 の集散地)に入っていったことを語る。そこで出くわした異国情緒あふれた クリスマス・プリンや怪しげな香料を使ったパン、バター、ジャム、紅茶、
チョコレートなど異民族を代表する象徴的なもの、それらを将来お金を稼ぐ ようになったら必ず好きなだけ買ってやると誓った。不思議なことに、これ
らは民族主義とは全く無関係だった。その年の暮れに、日本との断交という 国際問題の危機に遭遇すると、若い「あなた」は突然愛国心に胸をたぎらせ、
チョコレート一枚分のお金を拠出するだけではもの足らず、血書をしたため 始めたのだが、そうはいっても日本統治時代の名残の倉庫建築はやっぱり
「あなた」のお気に入りの場所であった。路上では白人で鼻の高い人たちが 相変わらずアヘン戦争後の列強のような態度で、「あなた」の同胞の女性の 腰に手をまわして、触られたその女性が妙な悲鳴を上げていたのだが、「あ なた」はそれに反発を感じたりしなかった。このような、「あなた」の政治 上の信条と生活とは互いに無関係という態度はずっと続き、過度に政治に染 まることもなく、感情の過剰な反応というのもなかった。
しかし、こうした政治上の信条と生活を分離する生き方は、新旧政権交代 後、大きく変化した。「民族」「郷土」が突如として町中に沸騰したことで、
政治上の信条をチェックされることが新生活の中心となった。郷土を愛する 一群が急に現れ、本土のものさしでもって外来の者の愛国度を測ろうとする のだ。さらに外来の者は島国に留まることを望まないエスニックグループで あり、いつでも島(台湾)を裏切って父祖の地(大陸)に帰るつもりでいる のだとしてイメージを造形されてしまった。「あなた」が言いたいのは、こ れらの歴史を捻じ曲げている一味は、外来のエスニックグループに最終的に 帰る処があるとでも本当に思っているのかということだ。これは、語り手で ある「あなた」だけの疑問ではなく、朱天心ら外省人の第二世代が抱いてい る疑問でもある。本当にそんな場所があるのか?アイディンティティーにつ いて全く疑いの余地のない居場所なんて存在するのか?と。朱天心は周縁か らの観察で、為政者による集団意識の創出の妄誕を指摘している。
『古都』は、新旧の政権の集団意識の構造をくり返し対比させている。語 り手である「あなた」はまず回想という形式で学校時代の政府を記述する。
10月31日(蒋介石の生誕記念日)当日は、彼女たちの総統府近隣の学校は優 先的に祝賀行事を参観することができた。当時の「あなた」は、うきうきし ながら、彼(総統)の孫娘のような無邪気さでお祝いのことばを述べ、桃の 形の饅頭をもらっていた。「あなた」は、20年後に当時の情況を回想し、よ うやくハッと気付いたのだ。
二十年後、テレビの国際ニュースで金日成のために心から長寿を祝福 する、あのやらせとも思えぬ人民の笑顔を目にしたとき、あなたはよ うやくハッと気づかされ、あとからあとから溜め息が出たのを憶えて いる。(清水賢一郎訳『古都』111頁)
「あなた」は20年後、政治の転換に出くわし、学生時代に受けた集団化と 強権統治下の思想の組み換えに対して新しい悟りを開いた。「あなた」は当 時、何人かは統治者の愛国教育に感動したり洗脳されたりしなかったことを 記憶している。成長した後の「あなた」は、こういった人たちが自分と同じ 十いくつの年齢でありながら、すでにこういった判断力を有し、彼等がその 後の成長と独立した人格を養ううえで大変多くの無駄足を踏まずに済んだこ とをひそかにうらやんだ。そして時が行き、ほどなくこれらの当時鮮明で崇 高な独自の判断力を有していた同級生のうち、ある者は20年後の「政治的に 正しい」選択で、政客の口調と顔つきで「あなた」に某政党の候補者を支持 するようにと説得したし、ある者は学生時代の台湾独立の主張を棄てて、教 授の誘いを受けて国民党に入るべきかどうかを真剣に悩んだあげく、留学か ら帰国した後すぐに政府機関に入った。「あなた」は突然悟る。いわゆる崇 高で独立した人格は、政治権力の操縦の下ではすでに完全に消滅したのだと。
「あなた」は突然こうした同級生を見知らぬ人のように感じ、「あのころ桃饅 頭をもらおうとしなかった彼女たちは、いま何を考えているのだろう」とつ ぶやかずにはいられない。「あなた」の記憶では、権力の運用や集団の記憶 の再構築と類型化は、新旧の政権の間で全く変わりはない。強権を抑制し権 力者を嫌う人は、後には真っ先に権力に近づこうとする一群となるのだ。
政治アイディンティティーの妄誕を暴露した「あなた」は、さらにいわゆ る「在地化」や「本土化」の虚妄をも再検討する。政治の当局者が繰り返し 歴史の淵源論でもって台湾の遠い記憶を復元し、さらにあらゆる外来の政権 による統治の合理性を抹消しようとするとき、「あなた」は蒋経国時代に台 湾籍の人々を大量に起用した意図を思い起こした。これもやはり「土地に根 を下ろす」的な歴史を作り出そうとしたもので、両者ともに人為的に作られ
た幻なのだ。そして、かの強権的政府に反抗して30年もの間国を離れていた 人々は、時が移り変わって郷土を愛する本土論者たちが権力を掌握するやい なや、彼等が熱愛していると言い張る土地にやはり汚染が深刻な重工業を興 す。やること為すことすべて、かつて彼等が激しく批判し、転覆させた外来 政権と同じなのだ。「あなた」はこうしたことの一切を知悉しており、アイ ディンティティーを尋ねることに幻滅するとのと同時に、集団意識を作り出 すことの妄誕を意識し、遠くに高飛びしたいと思う。『古都』という小説は 国家装置の操縦下の悲哀を痛切に語っている。「あなた」は次のように言う しかない。
この土地から、人々を引き留めるに足るだけの、かけがえのないもの が消え去ったとき、もはや人々は、どうしようもないあきらめに似た 気持ちでその場に留まることしかできない……。新たな統治者も恐ら くこの点に気づいたのだろう。どうりで共同体主義を声高に叫んでい るわけだ。そうすることによって、人々がこの和尚(国家装置、統治 者)の頼みを、和尚の顔でなく、御仏の顔(郷土、同胞)に免じて何 とか聞き入れてほしいと願ってのことに違いない。何しろ後者の政治 的正しさ(PC)に敢えて異議を唱える者などいるはずもないからだ。
実際、あらゆるものに反対する野党反体制勢力ですら、この土地や人 民に対しては、遠まわしな批判のひとことも言った例はないではない か?(清水賢一郎訳『古都』86〜87頁)
上の文は、朱天心の「論文式」の書きかたがよく表れている。彼女自身、政 治や都市の変遷に対して大いに不満を懐いていることがわかる。なぜいつも 朱天心のディスクールの中には「老化」の気分が濃厚なのか、その最大の理 由は、現実の生活の変化に対していかんともしようがないその無力感にある といえよう10。
三、記憶を辿る―一つの都市を再建する
朱天心は『古都』によって「原郷」の記憶を探ろうとしているが、ディス クールを通して、たえず問いかけてもいる。いわゆる「原郷」とはどこなの かと。語り手である「あなた」は、路に迷った武陵の人となり、旅の中でず っと記憶しているものすべてを追い求める。さらに、語り手である「あなた」
は、実体験の記憶でもって社会の集団の記憶の植え付けに対抗し、個人でも って中心の論調に抵抗して個人の記憶史を組み立てることを企図している。
ここでは、語り手である「あなた」の2つの古都を訪ねる旅を通して、朱天 心が『古都』を書くことで記憶の中の都市を再生しようとした意図に迫りた いと思う。
1.失われた「原郷」
『古都』は、安息できる場所を探すことを企図してはいるが、同時に語り 手である「あなた」は、自らに問いかけてもいる。本当に安身立命の場所な んてあるのかと。「あなた」は2つの古都の中で原郷の像を追い求める。し かし、これらの本島(台湾)の原郷と神州(中国大陸)の原郷を有する「あ なた」にとっては、この2つの原郷は時間の経過と、都会の情景の変動の中 にある。外省人第二世代である「あなた」は父親の代の故国についての記憶 はかなり曖昧なものである。父の家や故国についての記憶は、頼りない口述 によって作られたものでしかなく、実際、いわゆる「故郷」の風俗習慣や人 情や世事についても断片的である。「故郷」と「異郷」とは、だいたい奇怪 な関係を呈している。「あなた」が教え込まれた故郷とは、ついぞ記憶の中 には入らなかった地域であり、ただ、地理の教科書の中でしか目にしたこと はなく、「故郷」という符号はついているが、何をも代表せず、この点から いえば、いわゆる「故郷」とは実際のところただの「異郷」にすぎない。あ らゆる原郷の記憶は、おぼろではっきりせず、かなり現実離れしており、外 省人第二世代の悲哀もここにある。そのため、軍人村で成長した人々は、成 長した後も父祖が夢見た「故郷」に帰るという選択肢はなく、アメリカ、あ るいは遠い国といった別の異郷を選び、結局、流浪の旅を続けざるを得ない。
語り手である「あなた」がずっと気にかけてきた親友のAは「あなた」と同 じような境遇で、同じく原郷の記憶は全くない。そのためAはアメリカに行 くことを選び、アメリカで台湾研究を行った。少なくとも台湾よりは異郷で あるアメリカでは台湾というイメージとしての原郷を追憶することができる のだ。「あなた」はAの逃避を理解できるが、一方でまた、こういう疑問も 抱いてしまう。
あなたはAが何を考えているのかよくわからなかった。二十年もの間 一度も台湾に帰ったことがないくせに、研究しているのは台湾だった。
(清水賢一郎訳『古都』43頁)
「あなた」は実はAがなぜ台湾に帰らないかがわかっており、ただ潜在意識 の中で複雑なアイディンティティーに疲れを覚えていて、それでAの行為に 疑問を提出してみたにすぎない。外省人第一世代は永遠に郷愁の味を味わえ るが11、第二世代は虚無的な郷愁を抱いて異郷に逃げるしかない。第一世代 が失ったのは「原郷」だが、第二世代は「原郷」自体の消失ということに直 面しているからだ。
『古都』の中の「あなた」は永遠の郷愁を抱いて、父祖のふるさとの記憶 をたどろうとして結局記憶は架空であるという苦境に陥った。わずかにたど ることができるこの島の原郷の記憶もまた解体の運命に直面している。「あ なた」は中年になって民族集団の失憶について恐慌をきたし、「原郷」を追 い求めるつもりでいて、かえってだんだんと周縁に追いやられている。目の 前にあるのは、歴史の痕跡が年を追うごとに消えていく台北の町であり、
「あなた」の原郷の記憶を形づくっていた古い台北は、どんどん破壊されて いる。「あなた」は時が移り変わったという哀愁とそこに戻ることの気恥ず かしさを恐れている。それで、「あなた」は異郷である京都を原郷のイメー ジとして選び、そこを破壊されていく台北の対極に置いたのだ。同時に「あ なた」は歳月は二度と戻らないということへの憂いに直面し、濃密で激烈な 郷愁を感じるのだ12。「あなた」はあらゆる改変に対して不安と憤りを覚え る。台北をひととおり巡った旅のあとで、「あなた」がなくしたものは多く、
5歳のときの剣潭の記憶や、初めて行ったフェスティバル広場のような動物 園のこども遊園地、空いっぱいの色とりどりの気球やシャボン玉、そして愉 快な音楽は、国賓の接待を専門にする中国の宮殿式のホテルに取って代わら れた。この歓楽は、20年後、「あなた」がカイロに旅行し、渋滞の中から観 光バスの窓越しに、楽しげなバザールを見た時によみがえった。「あなた」
はこれを、道の脇に知り合いを見つけたかのように「窓ガラスに顔をぴった りくっつけたまま、後ろ髪を引かれる思いで恋々とそれを見送った。」この ほか、捷運(台湾のメトロ)の駅が破壊した地平線は、「あなた」の17歳の 時の空に対する記憶をもこなごなにした。醜悪極まりない捷運の駅に対して は、ただただあきれ返るばかりだ。17歳のときに百遍は通った明治橋は、新 しく橋を架け替えるために取り壊され、橋の上の青銅の灯籠は三峡の祖師廟 に置かれた。悠久の歴史をもつ楓香の木さえも切られていた。そこで「あな た」は問いかける。
かつては外来政権のことを批判していた新統治者も、やることなすこ と外来政権と変わりなく、まるで腰掛け気分でおさらばすることばか り考えているように見えた。さもなければ、あのずっと二列に続く、
あなたたち存命中の人間が生まれる以前にすでに存在していた楓香の 並木をどうして平気で切ってしまったりするだろうか。(清水賢一郎 訳『古都』52頁)
若い頃の記憶がどんどん瓦解し、「あなた」の焦燥は日に日に増すばかり だ。『古都』の中で今と昔の対比や過去と現在の衝突は突出して顕著なもの となっている。「あなた」は現在の中に過去を尋ねる。追憶に借りて現実を 敷衍する。時空を違えるなかで、「あなた」はたえず記憶によって過去を再 構築する。若いころの故郷のありさまを追って、たとえば台北の北郊に行っ て若い頃住んでいた軍人村はどこなのかを探す。「あなた」の過去の家はす でに今ではコンビニエンスストアの植え込みとなり、子どものころ駆けずり 回った野山も今ではただ低い山を残すだけになっていた。この時、「あなた」
ははっきり知るのだ。「失われたものはこれだけではなかった…」。失われた
のは「あなた」が若い頃作り上げた「原郷の記憶」である。現実に辿ること ができなくなったことで、「あなた」は、次の世代つまり「あなた」の娘が どのように記憶を形成していくのかと心配になってしまう。次の世代の原郷 とはどんなものだろう。「あなた」はビルの林立する都会の叢林に迷い込む。
どのように娘に「記憶」が確かだということを伝えればいいのか?記憶を失 った「あなた」はもはやかつて生きてきた生命の軌跡の例証を見つけられず にいる。
あなたは娘に、自分たちがかつてこの城市で暮らしていたその生活の 痕跡を伝えようとして、はたと困ってしまった。昔住んでいた村、犬 を埋めた場所、ダンスのレッスンをした教室、無限の記憶に満ちたあ の郊外の二本立て映画館たち、娘の父親と初めてデートをした場所、
あなたと親友が一番好きだった喫茶店、学生時代よく出入りした書店、
結婚したばかりの頃借りていた新しい家……、それどころか、ついこ のあいだ娘が相前後して通った二つの幼稚園さえ(その跡地は主人が ころころ替わり、目下のところは小皿料理の「鵞之郷」だ)、すべて 消え失せてしまっているのだ……(清水賢一郎訳『古都』58〜59頁)
そして「あなた」は憤りかつ憂いながらこのようにいう。「こうしたもの は、絶対に進歩と両立しえないというのだろうか?」「あなた」は、街の過 度の開発や全く歴史的な生活の痕跡を留めない破壊行為に対して心を痛め る。そして「あなた」はもう再び自由に記憶を辿る旅を続けることはない。
一年中スズメやメジロのいっぱいとまるカエデの老木が一夕のうちに姿を消 しているのを発見するのが怖く、また熟知した通りが一夕のうちにまったく 見知らぬ通りになってしまうのも怖かった。「あなた」は恐れを懐いていて、
他人と追憶するのを望まないし、新しいことを覚えることも望まない。また、
帰る路をみつけられなくなるのも怖い。島国に対する失憶という想いを抱い て、「あなた」は京都に流れつき、記憶を失ったときには、京都という古都 を避難所として選ぶ。ほかでもなく、それはこの古都では記憶の変動性が極 めて小さく、四季の変化のほかは、どの家も記憶の中のままである。「あな
た」の感情が京都の人と共鳴するのは、「あなた」と娘がここであなた方に 属する記憶と原郷をつくったからなのだ。
「あなた」はいう。
たぶんこういうことだろう。死の間際、もしもあと少しだけ時間があ り、記憶も微かに残っていて、まだそこか行きたい場所を選べるとし たら、多くの人が何はともあれ急いで病院を抜け出し自分のよく知っ ている場所、たいていはいわゆる家に帰りたいと願うように、あなた は、きっとここを選ぶだろう。なぜって、たとえ微かにせよ人生の痕 跡を留めてきたような場所が存在し、あなたに関係するあらゆるもの がまだそこに存在しているのであれば、恐らくそれらはこの先もずっ と存在し続けていくかもしれず、そうであれば、やがてあなたがこの 世界から消えていくにしても、その意味は薄められるに違いないのだ。
(清水賢一郎訳『古都』80頁)
「あなた」が最後に身を葬る場所として選んだのは異郷の古都―京都で ある。それはそこに「あなた」の人生の痕跡が残っているからである。島国 のあの古都ときたら、毎日のように人々の生活の痕跡を抹消しているのだ。
人々の生活の痕跡を残したがらない所で生活することは、知らぬ城市で生活 することになってしまう。「あなた」の原郷の記憶はこのような城市の中で 一つの孤独な魂となり、解体された建築物の中を漂っている。
2.桃花源を再生する―個人の記憶の延長
語り手である「あなた」は青春の日々の流転によって記憶を再生し、人類 学者に変身して新たに台北のまちの探検をし、個人の記憶をもってばらばら にされた記憶の断片に対抗させようとしている。「あなた」の若い頃の記憶 は、植民地時代の地名を通じてのものだ。たとえば総督府、文武町、本町、
宮ノ下、明治橋などの故地を再訪し、時空を逆転させると、若かったころの 光や喜びがよみがえる。都会化された台北のまちで都市が忘れたもの、棄て たゴミを拾えば、万華鏡の映像を通してその原郷の記憶がよみがえる。朱天
心は青春時代の桃花源を再生させ、これをもって権力を握っている者と対話 することをめざすのである。彼女はかつてこのように言っている。「歴史の 解釈権を握ることをうかがい、横取りすることは、当然台湾に限った現象で はない。ただ、私がこの時、この時期に居合わせたかぎりは、この争いにわ が身のほどをわきまえず参加せざるを得ない。控えめにいえば、個人の記憶 を守るのだ」と13。これによれば、朱天心は語り手である「あなた」の記憶 を取り戻す旅という個人の経験記憶を描くことで、国家という強大なシステ ムが強調する集団意識の言説に対抗することを選択したのである。
語り手である「あなた」の心にずっとあるのは『稗海紀遊』の中のような 野蛮な台湾であり、どのような言説上でも未だ政治化されていないころの島 国である。このことは、同時に、千変万化しながらも実は何の記憶も留めな い台北の街に対する抗いでもある。「あなた」は『古都』の中で、生活の痕 跡が時に従って流動し日々消滅していくのに対して大いに反感を募らせる。
そのため、朱天心は語り手である「あなた」の探求の旅を通して、さまざま な空間の構築を利用して歴史的時間の流れを置き換え、ひいては歴史の流れ を停止させ、時間を倒置させて過去に戻し、失われた桃源郷を再生すること を試みている。こうして「あなた」は空間イメージを寄せ集めて新たに都市 を構築するのである。
「あなた」はまず、異郷である京都に不変の光景を見て取る。それは、小 さな喫茶店のアフタヌーンティーであり、ホテルのサービスである宇治茶の ティーパック、あるいは白川の南に平行して走る四条通のたたずまいや白川 の流れの景色が含まれる。そこに植えられている柳や、しだれ桜、日よけの 簾は、「あなた」に江南を想い起こさせるが、こうした江南の光景とは、「あ なた」の想像の中の記憶であって、実は「あなた」は本当に江南に行ったこ となどない。また、百年以上の歴史を支えてきた清水坂や三年坂、二年坂の 石畳、および清水寺、八坂神社、円山公園、樹齢百年のしだれ桜、南禅寺、
東福寺、東本願寺、二条城、野々宮神社が永遠にそこに存在しているように、
この古都は百年変わらず、「あなた」の記憶もまた何も変わらない。それど ころかこの街のことを熟知しているかのような気分になる。そしてまた、こ れこそが京都が「あなた」の恐れを慰撫する場所である所以なのだ。もうA
を待たないことにして、「あなた」は、熟知した記憶とともに、決然と台湾 に引き返す。
台北に引き返した「あなた」は、手に植民地時代の台北の地図をもって、
その土地にまったく不案内な観光客に化けて、地図を頼りに青春の記憶をた どり、歴史時間を逆さに回して空間を組み立てる。そして、「あなた」はそ こで「あなた」が島国にいたときの専横ぶりとは全く違うタクシーの運転手 に出会う。それはガイドブックに書かれているような笑顔で親切な島民であ る。第三者的な角度から島国を見て、主観的で情緒的な反応を抑制してみれ ば、いつもの新光の大展望台は異郷の摩天楼となり、醜悪な高速道路や飛行 場に落下していく飛行機さえも、異国情緒をたたえたものとなる。「あなた」
は地図にしたがって青春時代にいつも通っていた所、台湾神社、台湾銀行、
第二高等女学校、幸町教会、台湾総督府研究所や、祖父が通った帝大医学専 門部と帝大附属医院、赤十字本部、景福門、東門町、台湾総督府官邸などを 訪れる。これらは「あなた」が高校時代にしょっちゅうブラついた場所であ る。鉄道ホテルの跡地の、今エスカレーターの出口になっているところは、
「あなた」に若い頃バスの定期券を買うために毎月長い行列に並んだことを 思い出させた。表町の後藤民政長官を記念した博物館も「あなた」は若い頃 行ったことがあった。つづいて「あなた」は個人の記憶に導かれるままに、
栄町、新高堂書店やその隣の「三六九」の蒸したての松 の酵母の匂いを 懐かしく思い出した。個人の記憶がよみがえり、台湾銀行、台湾電力株式会 社、総督府図書館、淡水館などが一つ一つ記憶とともに立ち現れ、植民地時 代の地図をひも解けば、過ぎ去った青春のイメージが再び出現する。こうし て直線上の歴史時間は解体して、断片的でバラバラな空間として存在するよ うになり、歴史時間は地理的な映像に転換してゆくのだ。
語り手である「あなた」は感覚にすべてを委ね、かつて「あなた」が醜悪 とみなしていた捷運(台湾のメトロ)に乗って、平屋建ての時代に戻ること を夢想する。藍色の天空の覆いを想像しながら、これによって心は曠遠な思 いに充たされ、「あなた」は個人的に選択した視点によって記憶をつくる。
こうして1970年代の街がついにこの旅の間に誕生した。それは、秋も深まっ た頃の、オリーブの樹の生い茂った地中海の小島のようでもあり、「あなた」
が若い頃想像した江南のイメージかもしれず、その間にも「あなた」ととも に月日は流れてゆく。
「あなた」は街の中で次々とおこる破壊に直面する時、記憶を辿る旅を始 める。熟知した通りを歩いて―それは羅斯福路の第一銀行の後ろの晋江街 145号かもしれないし、浦城街22巷の1号〜7号かもしれないし、ひょっと したら中山北路一段の83巷30弄5条通りの華懋飯店の向かい、あるいは長安 路249号かもしれないのだが、ともかくそこを歩いて、この街の廃墟の中に 過去の滋養を吸収する。朱天心は、繰り返し描写することで、その心に深く 植え付けられた歴史のイメージによって台北の政治文化を検証している。た くさんの失望の中で、朱天心は「あなた」の記憶を敷衍することこそが、洗 い流されて捻じ曲げられた国家意識に対抗することであることを発見し、同 時に自分の記憶を形づくる過程で、壊れかけた都市に対して重いためいきを つく。彼女の悲しみはカール・ビノ(Italo Calvino)の『見えない都市』
(Invisible Cities)の中の言葉に表れている。
たとえ、わたしが記憶の中で2つの別の都市の人でありたいと思って も、やはりそのうちの1つについてしか語ることはできない。なぜな らば、もう一つの都市への追憶は、字に表すことはできず、すでに失 われているから。14
彼女が抱く悲哀とは、文字に表すことのできぬあの都市が結局自分のいる 島であり、もう一つの鮮明な印象の古都が実のところ他郷であるということ だ。
朱天心は「アイディンティティー」にはかなり奇怪な一面があるといって いる。熟知しているはずの台北の生活の痕跡は破壊され、今では未知の、完 全に見知らぬ都市となっている。そして遠い古都である京都は、千年一日の ごとく、人間世界の移り変わりはあっても、「あなた」やあるいはそこに生 活する個々人の生活の痕跡や居場所を見つけることが可能なのだ。そのため、
朱天心はあの都市の「あなた」が熟知し、記憶のあるものはすべて「あなた」
より先に死んでしまったと嘆くのだ。「あなた」は反復して述べている。も
しも死後も生者の世界が予測可能なら、どれだけ人は安心するだろうと。朱 天心は語り手である「あなた」の伝送を通じて、青春の履歴を京都の情景に はめ込む。作家の歴史記憶もまた京都という地理空間を通じて呼び出され、
解体された台北を新たに再建することになるのだ。「あなた」は『古都』の 中で、次のように嘲笑する。「冷えびえとして俗世の埃にまみれずきちんと 保存された古蹟があればそれで満足だというわけではないのだ……」。こう した古蹟の保存のほかに、人民の生活を記録する樹木や建築もまた保存の対 象であるべきだ。人文の古蹟がなく、あるのはただ廃墟、どうにも人が関わ れない古都は、人の心をつなぎとめることはできないのだ。「あなた」は小 説の最後で大泣きして終わっているが、そこにはあの自称「郷土を愛する」
在地人に対する最大の訴えと抵抗がある。「あなた」がつくりあげた桃花源 とは、自己の体験の記憶を異郷の情景にはめ込んだ幻の場所である。語り手 である「あなた」はこの時間と記憶と歴史についてずっと考えつづけ、最終 的にはできるかぎりイメージから抜け出して、ヒューマニティーがあって大 きな変動がなく、あるいは細かく人をチェックしないような穏やかな港で生 きていこうと思っている。
四、結びに代えて―語りと対話の手法
最後に『古都』が採用したポスト・モダンの手法とそれが与えた効果につ いて述べておく。
『古都』のディスクールの特徴としてまず指摘されるのは、第2人称の
「あなた」を叙述の主軸としていることと、地の文に他の文学作品が挿入さ れるという間テキスト性である。この二つは、両者相俟って多次元で開放的 な対話の世界を作りだしている。その意味で、「あなた」の語りとは単なる 語りではなく、対話でもある。「あなた」という言葉の使用は互いに相手に 浸透していくという効果をあげており、「あなた」は読者自身であり、また
「あなた」「わたし」「彼女」といったすべてに共通の呼び名ということもで きよう。
ただし、対話の相手として真っ先に選ばれるのは、読み手である。読者は
「あなた」からの呼び出しによって、作家の思惟の中に入っていくことがで
き、作家の創作過程にも関わることができる15。
この小説の冒頭には、以下のようなI.V.フォスカリーニの言葉が引か れている。
私はサン・マル広場で、空飛ぶ天使の曲芸と、ムーア人のダンスを見 た。だが、愛しき人よ、あなたはそこにいなかった。私は孤独でたま らなかった。
この引用文には作家が読者の参加を求める意図が示されているといえよう。
『古都』には、川端康成の『古都』や、キャンディダ、ザ・フィフス・デ ィメンション、ドン・マックリーン、ブラック・アンド・ホワイトの歌、D.
H. ロレンス、『百花暦』、「桃花源の記」、『台湾府誌』、ソロー、フランク・
ロイド・ライト、フロイトといった多くの作品や名前が登場する。歴史的文 献、植民地資料、地方の県志、哲学的思索など国内外のさまざまな形式の文 献を引用することは、地文と引用とが対話するような効果をもたらしており、
これも多元的な対話という作家の策略である。「百科全書」的な叙述形式、
また順序を逆転させるような叙述は、読者が閲読の途中で、作家の叙述に抗 弁したり同意したり、また作家から知的刺激を受けるといったことを可能に する。ただし、読者がここに参加するのは容易ではない。読者は知識豊かな 作家を相手に、その問題提起を慎重にかつ懸命に考えねばならないからであ る16。『古都』という小説は、作家から対話を求められる小説なのだ。
さらに朱天心は『古都』の中に内外の文学テクスト、たとえば「台湾通史 の序」「桃花源の記」および川端康成の『古都』の文を挿入(間テキスト性)
しているが、これは「見知らぬものにする」という審美的効果を生み出して いる17。「見知らぬものにする」ことによって、これらの古い素材を創作の 中に取り込み、新しい思考を呼び起し、刺激することができるのだ。とりわ け、題名を同じくする川端康成の『古都』は重要な役割を果たしており、朱 天心の『古都』は間テキストによって、京都と台北、今と昔を交錯させてい る。
しかし、このことは、主人公である「あなた」とAとの交錯ということに
も波及している。特に、朱天心が川端康成の「千重子の苗子」か「苗子の千 重子」かわからないというくだりを引用していることは重要である。「千重 子の苗子」か「苗子の千重子」かというのは、暗に「あなた」とAの関係を 暗示しているともいえる。Aは「あなた」の化身であると同時に、「あなた」
とAとはもぎ取られた二つの空間の影像でもある18。朱天心は2つの空間の 影像を捉え、それを交錯させながら重ねて対照させている。Aは青春時代の 象徴であり、また青春を記憶する第一の鏡である。「あなた」とAとは互い に気にかけたり逃げ込んだりすることを相手の鏡の中で演じているのだ。A は「あなた」の化身であり、「あなた」もまたAの化身であり、追憶の中で 曖昧な青春の記憶をもう一度演じるのだ。実際、海外に流浪するという冒険 をしたAは「あなた」が小さな島に押し込められ、いつも遠くへ行くことを 想像することに満足しているが、同時に、小島に暮らす「あなた」は遠いと ころにいるAの郷愁の対象でもある。Aと「あなた」とはまるで双子の姉妹 のように相手を求めて自己の欠落を補うのだ。
『古都』は歴史や記憶によるアイディンティティーというテーマをとりあ げ、外省人第二世代の内的世界に深く立ち入った小説である。ディスクール によって明らかにされた焦慮と憂鬱は、朱天心の複雑に入り乱れた心境をも はっきりと物語っている。『古都』の中の語り手である「あなた」は、自ら のアイディンティティーを探す過程で、時空の倒置を通して、歴史の不確定 性とこの島で確固としたアイディンティティーを探すことの無意味さに気づ く。重要なのは、個人の記憶である。たとえ現実の生活で「あなた」が路に 迷った武陵の人で、ユートピアを求めてそこに到れない幽鬼であったとして も、「あなた」は個人の記憶を再生することで、想像の中の青春の桃花源を 呼び返すことができるはずである。
注
1 『近代の日本と台灣シンポジウム報告集』日本社會文學會主催、2001年12月15、
16日、頁27。
2 朱天心は中国山東省臨 出身。1958年、台湾高雄県鳳山に生まれ、1981年に台 湾大学歴史学科を卒業、中国時報文学賞および聯合報小説賞などを受賞、現在、
作家・社会運動家として活躍中。主著『方舟上的日子』(1977)、『 壤歌』(1977)、
『昨日當我年輕時』(1980)、『未了』(1982)、『我記得……』(1989)、『想我眷村的 兄弟』(1992)、『古都』(1997)、『漫遊者』(2000)など。彼女の作品はロマン幻 想的な小説から転じて現実と政治を直視するものへと変遷した。 錦樹は朱天心 の歴史危機感が深まったことでディスクールにも大きな変化がみられるのだとす る。 錦樹「從大觀園到珈琲館−閲讀/書寫朱天心」(『古都』所収 台北:麥田 出版、1997年5月初版)、頁235-282参照。
3 胡衍南は「想我眷村的兄弟們」という小説の価値について、「一つの歴史の『記 録』と『解釈』とみなせよう。特に夥しい『記憶』が段々と現実に侵食され、忘 れ去られてしまうかもしれぬこの時代に在っては」といっている。全文は胡衍南 著「捨棄原 愁的兩個模式−談朱天心、張大春的小説創作」、『臺灣文學觀察雜 誌』第7期、1993年6月、頁122参照。
4 王 威は、朱天心の小説の中に敘述と議論を混在させる調子を「論文体」と呼 んでいる。王 威「老靈魂前世今生−朱天心小説」(『古都』,台北:麥田出版、
1997年5月初版)、頁10参照。また、『古都』は邦訳(清水賢一郎訳 国書刊行会 2000)が出版されて以後、多くの日本人研究者に注目され、星野智幸・堀江敏 幸・澤井律之・濱田麻矢らによる書評のほか、清水賢一郎「記憶の書」(『古都』
邦訳解説)、星野幸代「草木は語る城市の記憶―朱天心『古都』」(言語文化研究 叢書1『イメージと文化』名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科 2002.3)
などの日本人のすぐれた論考も陸続として発表された。
5 歴史についての客観論者は「視点」を重視し、過去の歴史的事実が存在し、史 料の中に完全な形で残されているものと考える。正確な方法と正確な態度、主観 を入れず、偏見を無くしてこそ安心できるとする。客観派の史学は「過去」をし っかり囲んで、誰にも自分勝手な角度から骨組みを変更できないようにする。こ こから出発すれば歴史的真実は頼りがいのあるものとなり、歴史もまた人々を安 心させる。しかし、歴史の相対論者はそうではないとする。彼等はいわゆる「客 観」を批判し、重心を「視る者」に置き、一切の歴史はみな視る者からきたもの だとする。しかし、いうまでもないが、現在は客観派の史学が相対派の史学を押 さえつけ、争いを引き起こしている。詳しくは李紀祥著『時間 史敘述−史學傳 統與 史理論再思』、(台北:麥田出版、2001年9月)、頁31-38参照。
6 註(1)参照。
7 朱天心著『古都』、(台北:麥田出版、1997年5月初版)。原則として、引用の日 本語訳は清水賢一郎訳『古都』(東京:国書刊行会、2000年6月初版)を用い、
ページを明示した。
8 台湾と中国の歴史上のアイデンティティーをめぐる問題については、王明珂
「臺灣與中國的 史記憶與失憶」、『 史月刊』105期、1996年10月5日、頁35-40を 参照。
9 集団意識の形成とアイデンティティーについては、王明珂著「集體 史記憶與 族群認同」、『當代』91期、1993年11月1日、頁6-17を参照。
10 張頌聖は朱天心の小説のディスクールに「老化(衰老)」の気分が現れる原因を
「古い生活方式と痕跡は眼前からすごいスピードで消えさり、戦乱と貧困を経験 したことない新人類が軽々と登場し、目の前の主流の論にのった間抜けな政客は 戒厳令前の文化の蓄積を全面的に否定する」ことが、朱天心のディスクールに特 有の無力感をもたらしていると結論する。張頌聖著「 望的反射−評朱天心『古 都』」,『文學場域的變遷−當代台灣小説論』(台北:聯合文學出版社、2001年6月 初版)、頁214参照。
11 梅家玲は軍人村文学の研究を発表し、「軍人村の第一世代の住民はもともと長江 の南北から来ており、それぞれ南腔北調の方言をもち、加えて各おの異なる飲食 習慣があり、その出身地域の『広さ』は入り組んでいた。抗日戦と国共内戦の共 同戦争の記憶は、時間上の『深さ』を与えた。……軍人村全体は『家』の延長で、
『国』の縮図でもあり、強固な『共同体』の情感が形づくられた。このとき、『国』
は当然籠に入れた秋海棠程度の版図しかない中華民国であり、本当の『家』( ) は、つまるところ『やはり還りたい』海峽の遥か彼岸であった」といっている。
梅家玲著「八、九〇年代眷村小説(家)的家國想像與書寫政治」、(陳義芝主編
『臺灣現代小説史綜論』台北:聯經出版、1998年12月初版)、頁388-389参照。
12 王 威は「『故 』はただ地理上の位置などではなく、それは作家(読者は、必 ずしも作家と『同 のよしみ』ではない)が求める生活の意味の源であり、作品 の敘事力が発動する媒介なのだ。」と指摘する。王 威著「原 神話的追逐者−
沈從文、宋澤 、莫言、李永平」(『小説中國−晩清到當代的中文小説』台北:麥 田出版、1993年6月初版)、頁250参照。
13 注(1)参照。
14 注(1)参照。
15 唐小兵著「「古都」・廢墟・桃花源外」(劉紀 ・周英雄編『書寫台灣−文學史、
後殖民與後現代』台北:麥田出版、2000年4月)、頁391-401参照。
16 駱以軍は朱天心のこのような知識を集めたディスクール方法には、「読書中に重 層的に重なった叙事によって猜疑や耽溺や、極度の華やかさのあとの悵然とした 感じ、膨大な情報に対する敬服する一方で、虚無感も味わうといった複雑な感じ」
を受けるという。駱以軍「記憶之書」(『古都』所収)、頁36参照。
17 いわゆる「見知らぬものにする」とは、人々が本来よく知っているものを知ら ないものにし、皆が見慣れて珍しくないものを新しい全く見知らぬものの環境の 中において考察し、新しい角度から新しい方法でもって考えるよう誘発すること
である。Fredric Jameson著・陳清僑等譯『晩期資本主義的文化邏輯』、(北京:三 聯書店、1997年12月初版)、頁276参照。
18 前注に同じ。頁41。
参考文献:
朱天心著『古都』、台北:麥田出版、1997年5月初版。
清水賢一郎訳『古都』(東京:国書刊行会、2000年6月初版)
Benedict Anderson著、 叡人譯『想像的共同體:民族主義的起源與散布』,台北:
時報文化、1999年4月初版。
Joyce Appleby、Lynn Hunt等著、劉北城、薛絢譯『 史的真相』、北京:中央編譯出 版社、1999年1月初版。
王 威著『小説中國−晩清到當代的中文小説』、台北:麥田出版、1993年6月初版。
光明『 史與思考』、台北:聯經出版、1991年9月初版。
李紀祥著『時間. 史.敘事−史學傳統與 史理論再思』、台北:麥田出版、2001年 9月初版。
邱貴芬著『仲介台灣・女人』、台北:元尊文化、1997年9月初版。
張京媛編『後殖民理論與文化批評』、北京:北京大學出版、1999年1月初版。
張頌聖著『文學場域的變遷』、台北:聯合文學、2001年6月初版。
陳義芝編『台灣現代小説史縱論』、台北:聯經出版、1998年12月初版。
劉紀 、周英雄編『書寫台灣−文學史、後殖民與後現代』、台北:麥田出版、2000 年4月初版。
劉紀 編『他者之域−文化身 與再現策略』、台北:麥田出版、2001年3月初版。
簡政珍著『語言與文學空間』、台北:漢光文化、1989年2月初版。
附記:本論は2003年6月の日本台湾学会第5回学術大会にて口頭発表した内容に基 づいて再構成したものである。
“Fictional Discourse and Historical Memory: On Zhu Tianhsin’s Ancient Capital.”
Ying-che HUANG
Key words: History, Memory, Discourse