著者 岩佐 久江
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 22
ページ 127‑136
発行年 1970‑03‑20
URL http://doi.org/10.15002/00010904
まえがき
日本における文明史といえば、まず福沢諭吉の「文明論之概略」が広く知られており、その研究も多い。だが史学史上の学問的意義からみれば、田口卯吉の「日本開化小史」のほうをより重視すぺきではないだろうか。たしかに前者は自由・進歩という新しい観点から文明・人民への視野を拡大し、近代的な歴史観をもたらしたが、それは史実の検討・解釈に及ぶ歴史叙述ではなかった。これに対し、後者は新しい歴史観で日本歴史を体系的に考察し、独自の歴史叙述をなした。歴史叙述は歴史観にもとづく。歴史観がなければ歴史叙述もその方法と原理を欠くように、歴史観はいわば歴史学発達のもと、歴史研究の前提である。ことに伝統的な封建史学の克服上に形成される近代史学の基盤には、新しい歴史観が必要だった。さらにその史観による歴史叙述が求められていた。かくてそれは、「日本開化小史」の自序に「史家ノ苦辛〈歴
「日本開化小史」の歴史観(岩佐)
「日本開化小史」の歴史観
代許多ノ状態ヲ蒐集スルニ在ラズシテ其ノ状態ノ本ヅク所ヲ究尽スルーー在ルノミ」とあるように、田口において初めて新史観による新しい歴史叙述が出現したのである。ゆえに「日本開化小史」は史学としての独立性を欠き、封建史学克服から近代史学形成への過渡的なものながら、日本近代史学の源流的存在として、史学史上画期的意義をもつといえよう。
|歴史的・社会的背景
田口卯吉は安政二年江戸に生まれ、慶応二年徒士となったが、のち沼津兵学校に学び、さらに医学を学んだ。明治五年には大蔵省纐訳局で経済史と開化史の研究につき、同七年から自由貿易日本経済論の研究に着手すると共に、翌年ごろから新聞に寄稿して、自由平等政治の確立と経済的自由主義の拡充を提唱した。官を辞して著述・翻訳に従事するようになったのは明治十一年からで、以後在野の立場から「自由貿易経済論」を出版したり、自力
二一七
岩佐久江
法政史学第二十二号 で東京経済雑誌を発行したり東京府会議員になるなど、積極的な行動を続けた。「日本開化小史」は同十年より十五年にわたって書かれた。概観すれば、この時代は藩閥専制・自由民権運動・条約改正交渉の失敗・殖産興業政策のように、政治・経済・外交問題が大きく存在していた。そしてこのころから条約改正交渉などに対する民族的自覚が高まりだしたが、本領が自由主義経済学者だった田口には、資本主義の育成発展上必要な条約改正問題からくる自覚が強くあったのではないだろうか。積極的な経済学者田口が日本文明史を書いたことは、現実に対する行動の一環と考えられる。このことは、たとえば明治八年の「文明論之概略」とくらべても明らかであろう。福沢は現代の日本国民がいかにして文明を進めていくべきかを目的としたが、田口は日本が昔から開化(1)の過程を経てきたことを証一本しようとした。もちろん前者でも文明を進める目的は日本の独立にあるとされたように、民族的自覚はあるが、やはり異質の西洋文明を学びとることが強調され、日本文明の進歩しなかった点が注目された。啓蒙期に書かれた「文明論之概略」と、それからの転換期を迎え民族的自覚が高まる中で書かれた「日本開化小史」との違いの一つは、ここに認められるだろう。この違いこそ、新しい歴史叙述を試みた田口の歴史観に大きな影響を与えたのではないだろうか。次に当時の史学界の状況をふれば、明治二年修史の詔勅により修史事業が始まった。それは史実の考証を中心としたがらも、儒教史学の系統に立って支配層を対象としたもので、官撰主義と歴史的発展の概念の欠如とは近代史学の成立を妨げるものだった。 一二八
本来教学中心の儒学では、歴史は経学の原理すなわち倫理によって考えられ、政治・道徳に奉仕するものとして史学の自律性を認めず、その歴史観は鑑戒である。つまり種灸の変遷も循環にすぎず、歴史は根本において変わらないから、過去の記録は後世の人友に役立つという歴史観である。そこでは社会における個人は顕ふられず、正確な事実の確定が重視されても発展の概念がない。ところで明治錐薪は国際的条件に促進された歴史的変革である。それは個人生活を社会の細胞として表面立たせ、近代的発展をめざすものだった。西洋の純正史学はまだ移植されず、従来の史書が無批判に用いられていたが、歴史は文明の歴史でありその担い手が人民だという新しい考えが、明治初年の啓蒙思想家らによってもたらされた。かくて歴史的蛮単の体験、世界的視野への広がり、文明開化の意識は、歴史の分野を拡大し、進歩の概念による歴史の客観的理解を可能にした。もともと進歩の概念は自然との関係からあらわれたものである。自然は発生・生成。変化・発展過程の統一全体で、それ自体一つの歴史ゆえ、このような自然観によってこそ儒教主義的史学への近代的開拓が試みられるものだった。さらにギゾーやバックルの文明史、あるいはコントやスペンサーやミルの社会学の受容も無視できない。たとえば社会学によって社会現象を認識する科学的方法が応用され、歴史を社会の自律的発展として統一的把握できるようになったのである。だが進歩の歴史観の主体的受容には、日本の歴史が進歩・発展的に考えられねばならないだろう。人類社会の普遍的法則は日本歴史にもあてはまらねばならない。福沢にとって日本文明の開化
は未来への課題だったが、田口にとっては日本文明の進歩を跡づけることだった。日本文明史の叙述は、自由経済主義者田口の現実に対する強烈な主体的態度からもたらされたもので、専門的な歴史研究という目的でなされたわけではない。「日本開化小史」刊行の五年後に、田口は「日本開化小史」などは読書・摘録・質疑・編述をくり返しながら、成るにしたがってこれを発見したので、必ずしも日本開化史を通じての一定の順序構想が立てられた(2)後、それに従ってかいたのでないと述べたが、日本史全体への考察から歴史観があらわれたのでなく、新しい歴史観による新しい歴史叙述だったのである。(1)田口卯吉「日本開化小史」一八九頁。(2)「鼎軒田口卯吉全集」第二巻二九○頁。
二時代区分について
時代区分について検討することは、その歴史観をもっとも明らかにできる方法であろう。ことに「日本開化小史」のそれは、従来と違う全く新しい独自のものゆえ、ここから進めていきたい。まず時代区分の前提からふれば、時代は一つの統一的時間であり、その区分には歴史の質的変化が自覚されねばならない。時代区分は全体に対する一定の方向を認めるような歴史意識において成立し、歴史叙述者の歴史観・世界観・価値観など主体的なものを根拠として成立するもので、その基準は時代区分する人にかかっている。次に古来の史書に対する田口の批判をあげ、その歴史叙述の態
「日本開化小史」の歴史観(岩佐) 度をゑれぱ、「千三百年代より千六百年代に至るまで編纂したりし史類を閲するに、其最も意を注ぎたる所は、歳月日時の詳密、神祇の祭祀、赤雪白維の発現等の類、(中略)絶えて事件の要不要を識別し取捨筆削の智を用ひたる所なぎが如し。(中略)唯々面前に顕はれたる事件を其儘に記載するに止まるの糸。而して其如何なる事情よりして起りし乎に至りては著者全く注意を欠く。蓋し社会事多し、史たるもの唯だ有要の事件を記するに止めざるぺからず。(中略)要するに是等は年表にして歴史にあらざるな(1)り」また「神皇正統記」については「その王家の衰頽、武族の興立等に注目し、其源由を推究するが如き、真に得がたきの書と言(2)ふくし」さらに新井白石については「深く社会の理に注目する所あり。読史余論を著し、日本古来政府興廃の理左述ぶ、後世史家其余沢を蒙る少からず」「古来の俊傑にして、能く開化の理を知れるが故に、古来政府の興廃する理を説きて徳川氏を経緯せんと(3)したるなり」として、歴史の展開を意識し、理を把握して事実を一つの全体的なものへと再構成した白石を高く評価した。「読史余論」の時代区分は中国伝来の編年史体でなく、武家勃興の歴史的段階について合理的・経験的に区分したもので、この「実に拠って事を記す」白石のやり方は田口に受けいれられたようである。ところが福沢の「文明論之概略」では、白石への非難がみられる。「唯日本にて政権を執る人の新陳交代せし模様を見て幾変と言いしの糸のことなり。(中略)其書中に天下の勢変とあれども、実は天下の大勢の変じたるに非ず、天下の勢は早く既に王代の時
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法政史学第二十二号 に定まりて、治者と被治者との二元素に区別し、兵農の分るるに及て益この分界を明にして、今日に至るまで一度ぴも変じたるこ(4)となし」福沢は日本では何》」とも政治的権力に支配されていたので文明が進まなかったとした。この権力偏重を除かねば文明は進(5)主ないという彼の主張は日本文明史への基本的方向を与えたといえよう。では、文明の進歩の目標を日本の独立においた福沢は、過去の治者・被治者の区別に代わる何を考えたであろうか。彼は新しい区分として経済上の生財者と不生財者をあげ、それらは人の智力によるとし、古来日本の財は相応すぺき智力にあわなかつ(6〕たと考えた。つまり歴史の内的発展という視角が与陰えられ、人心と貨財の相関的進歩を対象とする方法が提唱されたのである。この方法と白石の「理による史実の統一的理解」をとりいれ発展させながら、独自の新しい日本文明史を書いたのが田口卯吉であった。「日本開化小史」は神代から徳川時代の終りまでにわたり、六(7)巻十三章から成る。その刊行年月をみれば次の》」とくである。巻之一明治十年九月刊巻之一一明治十一年三月頃刊巻之三不明巻之四明治十二年十月刊巻之五明治十四年七月刊巻之六明治十五年十月刊その構成の特色は、時代を追った構成でありながら、巻之四が巻之一・二・三と時代的に重複して文学を扱っている。つまりほ 一三○
とんど徳川時代にわたる巻之五・六の前に、それまでの人心の発達をふる文学史がある。これを頁数から概算すると、時代的重複部分を除けば、徳川時代とそれ以前の時代についての叙述の長さはほぼひとしく、「日本開化小史」の約半分近くは徳川時代にあてられたことになる。次に田口の歴史についての考えをあげれば、「歴史とは事実を記すものなり。故に事実の種類仁因りて沿革を示さざるべから(8)ず」「史家の辛苦〈歴代許多ノ状態ヲ蒐集スルニ左ラズシテ其状態ノ本ヅク所ヲ究尽スルーー在ルノミ。余此書ヲ記スニ、其ノ悉スペキハ務メテ之ヲ詳力一一シ、其ノ略スベキハ務メテ之ヲ省キ、以(9)テ其ノ情ヲ得ルヲ期セリ」文明史の立場からすれば事実とは文明開化の事実といえようが、田口にとってそれは「漢学の渡りしより、種戈の事件我国に起りしかど、之を慨するに、第一文学の出来し事、第二政府の体(、)裁変りし事、此二つの外に出でじ」であった。ゆ』えに政治と文学が中心にとりあげられた。さらに、日本文明の進歩を認めるなら、開化史の重点はもっともゑずから開化した時代におかれるだ(u)ろう。田口はそれを徳川治世の時代とした。彼はその開化について第十一章で外的進歩のさまを、その後の章で心的発達を述べ、これによって「徳川氏の時、文学の進歩は貨財の進行と併用せし(、)ことを知るべし」「此等の進歩は嘗て政府の保護に因らず、又嘗て外国開化の肋を籍らず、全く日本社会の内に於て自ら進ふし者(、)なり」とした。さらに「智力を発達せしむるものは貨財にして、(辺)貨財を蓄殖せしむるもの人心なれぱたり」「智と情との進歩は文
(、)学の史の最Jも明に一不さぺるぺからざる所なり」「抑』も文学は人の(M)心を顕はす』ものなり」とあるよ尺ノに、文学が重視された。かくて相関的な人心と貨財の進歩を重視した田口は、日本開化史の中に特に文学史を挿入したのではないだろうか。その時代区分は、漢学渡来以後戦国時代までの歴史をほぼ政治史と文学史とに分け、この二つの流れを徳川時代に合流させたと考えられる。なお注目すべきことは、田口が日本の開化を貴族と平民による二種に区別したことであろう。彼は貴族文化の開化に及ぼした弊害を指摘し、西洋の開化は下等社会の開化したものゆえ、日本の〔巧)開化Jも下等社会の開化によるぺ当ロとした。社会の進歩・発展を普遍的なものとするには平民的開化を重視しなければならないlそうしてこそ西欧開化の動因と発展法則を日本にも認められる。この点からふれば、巻之一・一一・三は貴族的開化から平民的開化に至る通史ともふられる。要するに「日本開化小史」の時代区分は、徳川時代以前までの政治史と文学史、そして文学貨財の進歩が併行した徳川時代の開化史と、三部分から成っているようである。このような区分は「理による史実の統一的理解」をめざした「読史余論」と似ている所がある。事実、田口にとって白石のこ(咽)の書は開化史だった。とはい追え、田口における理は社会科学的認識として志向された。(1)田口卯吉「日本開化小史」一○六頁。(2)前掲書一一八頁。(3)前掲書一七八、二○○頁。(4)福沢諭告「文明論之概略」一八九頁。
「日本開化小史」の歴史観(岩佐) 三理について
田口は理について、「開化の進化するは社会の性なることを知(1)(2)ろぺし」「社会の進歩は社会の理なり」「開化の理を窮めんと欲(3)するもの、其然る所以に於て最も注意せざるぺからざるなり」「社会に一定の理ありて、種々の制度の下に種之の作用を為すこ(4)とを解するに難からざるぺきなり」と述ぺたが、種犬の制度とは、王朝・鎌倉政府・徳川政府の制度とあるように、政治における制度を意味する。つまりこれら制度の違いによって社会発達のさまが違う。たとえば徳川時代については、「徳川氏の天下を得る所以のもの、智略遠謀の之を助くるあの固より多しと雄ども、臣下の勇武
一一一一一 (5)前掲書二一一一一頁。(6)前掲書二一九、二一一六頁。(7)小沢栄一「近代日本史学史の研究」一九一頁。(8)田口卯吉「日本開化小史」二五頁。(9)前掲書二一頁。(、)前掲書三五頁。(、)前掲書一八九頁。(、)前掲醤一四五頁。(⑬)前掲書一○三頁。(u)前掲書一○七頁。(巧)「田口卯吉全集」第二巻二八頁。(焔)田口卯吉「日本開化小史」一九三頁。
法政史学第二十二号
(5)を固結し以て之に至らしめしもの多しとす」徳川治世時代の制度は忠義の心によって維持される封建制度ゆえに、それが長く太平のうちに続いたことは「忠義の説社会に発揚するに及びて大に徳川政府の封建制度に衝突するの結果を発せり。何んとなれば我国に於て忠義主義の最も大なるものは、徳川氏に尺すにあらずして、王室を尊ぶにあることは、歴史の明かなるに従ひて一般人民に知られたればなり。(中略)其君に忠なれば封建制度は蟄固なろぺしと錐も、(中略)忠義の教愈よ社会に箸はれ、古昔王朝の盛んなりし歴史愈ょ人智に顕はるるときは、其所謂忠義の気は其君に於てせずして、君の君に於てするの正理たる事を思はしむぺ(6)し」かくて「徳川政府を減したるは、外面にては封建諸侯の力な
るが如く思はるれども其実術擬国の志士封建の遺物なる一団結
に拠りて其目的を連せしなり」田口はこの「勤王の気」すなわち「王室を尊ぶの気風」の発達が明治維新への道を開いたとした。この徳川時代の糸でなく、「開關より歳移り世代りて、人心次(8)第に進歩せしものゆゑ、政府は自ら神教政府の性質を得たり」「鎌倉政府滅亡の事の如きは、嫉妬の心に発し、忠義の感情に潰(9)へ武門の高名心に終る者なり」とあるように、各時代の政治的変遷の解釈が心理的になされ、人心の進歩から考察されている。すなわち田口は各時代の政府の制度と人心との関係によって、各時代の特性を明らかにし、その相違のもとを社会心理的に考察した。彼において歴史の対象は社会・人民から人心にまで広がり、社会の進歩を人心の進歩として把握した。ということは開化の理が心理的なものにもとづいているからであろう。 一一一一一一(、)田口は人心をあらわすJものを文学とし、「神道の発する、仏説の移る、必ず人の天性に於てしかく導く,ものなくんぱあらず、故に(、)先.つ其天性を説きて其発する所以を解す」「文運の進むに従ひ夫の生を保つの天性次第に生長し、生を楽むの心となり、更に進ん(⑫)で快く生計を立てんとの心起るなhソ」と、天性と文学の進歩を結びつけた。そしてこの天性とは「生を保ち死を避くるは、凡ての動物に存する天性なり。(中略)夫の貨財を積んと欲するは生を(囮)保つなり、想像を立て相ひ戒むるは死を避くるな.り」したがってすずめるすず」zざる「人心の文野は貨財を得るの難易と相俟て離れざるJもの〔皿)ならん」となる。要するに、天性とは自愛といえよう。田口はこれにつぎ、「余は自愛をJもって人性個有の.もとと信ぜり。余は人は諸有機体に普通なる保生避死の性質を免かれざることを信ずる.ものなり。余之を其精神上に調査するに(中略)其知心に於て万物の品性を究め、其源因左探ぐる所以等、凡て此性質に出でざるなし。又た之を社会上に調査するに、その国の独立維持する所以、其政府の興廃存亡する所以、其文物の隆賛盛衰する所以、(中(頑)略)其本源を尋ねれば、皆な人の私利心に出でざるな1)」かくて天性にJもとづく人心の進歩は、貨財の進歩を伴い、さらに貨財の発達は人心を発達させ、歴史はその相互作用下に展開するが、それらは政治的変遷と不可分な関係をJもつ。田口は歴史理解の方法として、事実の.もとづくところを究めると序文で主張したが、それは人心の進歩が,もとづくところの天性ということになるだろう。つまり歴史発展の原動力は、時代・階級・民族から抽象された個人の経済的欲望と考えられる。社会に
おける人心の進歩に歴史の動きを認め、人心の進歩を支える貨財の発達に開化をゑるこの独自な歴史観は、日本史学史上全く新しい着眼であった。(1)田口卯吉「日本開化小史」一九三頁。(2)前掲書一八九頁。(3)前掲書一九二頁。(4)前掲書一九三頁。(5)前掲書二一一一頁。(6)前掲醤一九八頁。(7)前掲書二○八頁。(8)前掲書三○頁。(9)前掲書九○頁。(、)前掲書一○三頁。(、)前掲瞥三一一頁。(皿)前掲書四○頁。(週)前掲書一三頁。(u)前掲雷二四頁。(巧)「鼎軒田口卯吉全集」第一一一巻一六一頁。
四西欧思想の受容
田口卯吉は経済学者ながら西欧思想・自然科学などにも広く親しみ、ことに史学の研究には熱心だった。若いころから西欧の新思想を消化し、日本の歴史を反省し、そして現実への積極的行動を続けていた彼によってこそ、初めて体系的な文明史が書かれ
「日本開化小史」の歴史観(岩佐) た。すでにギゾーの「ヨーロッ。〈文明史」は室田充実らによって訳され、バックルの「イギリス文明史」も大島貞益によって訳され、これらの影響によって文明史とか開化史と称する史書は当時続戈とあらわれていたが、田口ほど自国の歴史と西欧の文明史に通じながら日本の開化史を書いた者はなかった。田口は歴史叙述の方法として、一定の立場から社会全体にわたる変遷を推論する史論体をとりあげた。この一定の立場とは理の認識で、彼は社会の進歩は社会の理なりとしたが、それは社会・自然の発達を同一視する古今東西に普遍妥当する理であった。「社会の発達は他の有機諸物の発達と異ならず、今草木に就きて之を例せん。抑も草木の性たる又保生避死の天性を存するが為めに、其生長するや疑ふぺからずと雌も、之を養ふに種灸の方法を以てせぱ、以て堅靭ならしむぺく、以て柔弱ならしむぺく、以て長大ならしむくく以て倭小ならしむくし。之と同じく社会開化の発達すろは社会の性なりと錐も、之左養ふに王朝の制度を以てすると、鎌倉時代の制度を以てすると、徳川政府の制度を以てするとに因りて、文学貨財より風俗人情に至るまで、皆異様の真性を得せしめたり。是に由りて之を観るに、社会の制度を立つものは、
恰も園丁の草木を青つるが如き鮒〕「生を保ち死を避くろは、(中
(2)略)総ての動物に通じて運はざるの天性なり」ゆ』えに田口が拠った社会発展の法則は自然科学の法則にひとしい。ここでは自然法則が社会現象にまで拡大され、社会は有機的統一体として把握された。歴史は社会でありさらに有機体であれば、その発展は有機的相互連関--社会を構成するものの相互関連に認められるだる-一一一一一一
法政史学第二十二号 う。「人の社会に仲間入りするものは素と其便を得て一生を快楽(3)ならしめんが為ならずや」とあるように、社会関係は個人的欲望を達成する手段と考えられた。この歴史観は功利主義的であり、自然法的な社会観につながるので、田口における西欧思想の受容を問題にとりあげよう。明治初年、さかんに紹介されたミル、ギゾー、バックル、スペンサーらの学説は、いずれも十九世紀前半から後半へのヨーロッ。〈変動期における現実的な歴史意識をもち、当時の自然科学の飛躍的進歩を反映した実証主美的史観に立つものだった。ことにバックルは自然科学思想の影響を多く受けて環境の力を重視し、経済事情が文明史上の最大動因と主張して、貨財分配論を説いた。知徳の進歩を環境の力によるものとし、文明史を因果の探求をすぺき科学としたバックルの自然科学的史観は田口に明らかな影響を与えたようだが、方法的にはギゾーからの影響がはるかに大きいらしい。ギゾーは「文明は人間社会の発展と、人間自身の発達から成り(4)立つ」として、社会と個人の発達を相互に結びつけた。そこから「文明史は二様に扱うことができ、二つの源泉からこれをくむことができ、二つのことなった面から考察することができるようで(5)ある」のように、文明史の方法は一方で政治上の発展をみながら、他方で内面的・精神的発達をみた。ギゾーの「ヨーロッ.〈文明史」は文明の内的・外的発達を結びつけ、文明の本質的要素を人心と政治に認めながら、歴史の内面に動いてきたものへの追究に向かったが、内的発達の叙述まで至らなかった。田口も「日本開 一三四
化小史」で、歴史の内的発達という視角に立って相関的史理を究め、政治の章と人心をあらわす文学の章とに分け、ことに徳川時代の開化現象については、第十一章で外物の有様の発達を後章で心理の有様の発達を述ぺた。これらは歴史における外的・内的状態の両面的発達を具体的帰納によって明らかにしうることを説いたギゾーからの影響を含むしのではないだろうか。またJ・s・ミルについてふれば、彼の学説は道徳の基礎を功利に認めたとはいえ、それは倫理の心理学的理解によって、利己的個人における利他的行動の可能性をもつものだった。ミルは、「私は功利というものを、あらゆる倫理問題に関する窮極の帰結と見ている。だがその際の功利は、きわめて広義の、進歩的生物(6)としての人間の永久的利益に基.ついたものでなければならぬ」「子は(中略)功利に基づいている正義をもって、一切道徳の主要部分であり、他に比すべきもののない程神聖な且つ抱束力に富(7)んだ部分だと老』えて居る」と述べ、社会的感情にもと.ついた良心を人間性の一つとして考え、個念人の倫理的自覚を重視し、人間はその本性上心ずしも自己中心的な考え方をしないという人間観をもった。そして社会の進歩のためには個人の進歩が重要となり、さらにそのための思想・行動の自由が必要となり、個人及び個人的精神の自由な発達こそめざされるものとなると考えた。ミルの社会観は、社会は個人の集積・個人の総和という個人主義的社会観であって、制度などを中心とする視点と個別の行為を中心とする視点とをはっきり区別していた。ところで田口もミルの考えに通じた文を残している。「余はこ
れをもって倫理の問題に於ては、自愛をもって他愛より貴重すべきものと認めざるぺからず。故に余一国の良民たるに就いて第一に必要なるものは慈善にあらずして独立独行なりと言い、国人皆(8)な独立独行せぱ世に慈善の必要なしとまでに言巨ふなり」「抑屯人に忍びざるの心とは、憐れなる状態を見る左嫌ふの私利心なり、(中略)されば倫理の情は成長せる私利心なり、幼き時は未だ発せず、自ら愛するの心成長し、其境界広くなりて、而して愈を盛になり、終に他人をして憂へしめず喜ばしめんとの心起るに至る(9)なり」ただし、ミルにおいては個人が重視され、個人の進歩l人間の習性すなわち心的・道徳的能力の改良がめざされたが、田口では人間の天性が重視された。もちろん自然主義者ミルは人間心理の自然を根本的なものとして認めていたが、そこには個の自由の保証こそ、個人ひいては社会にとって重要だという強い主張があった。そのために必要なのが自由な社会制度であり、ゆえに社会への強い要求をもつ。ミルにおける一課題は、個々人を正しく教育して社会的認識と社会的共感を深め、個人が全体の幸福を望むようになることだった。「心的および道徳的能力も、筋力と同(、)様、使用されることによっての承改良される」とミルは考陰えたが、田口においては、「如何なる有様にて草木最も長ずるやを知
らぱ、社会発達の如何肱渦制度の下に於て、最も速なるやを知る
ことまた難からざるくし」と考えられた。草木がもっともよく成長できるのは自然の自由な空気中ゆえ、社会の正状さえ実現すれば、自由放任主義が最上策ということになるだろう。そこでは相関的にあるものはおのずから進歩するl有機体である社会は自「日本開化小史」の歴史観(岩佐) 結び
「日本開化小史」は、日本史学史上、初めて歴史の発展を統一的・法則的に把握する歴史観によってかかれた。田口は歴史の発展を普遍的なものと認めることによって、個的な日本史を把握し 然に発達するlこのように考えれば、個人の経済的欲望を歴史の原動力とした相関的な史理の究明は、自由主義経済論に結びついていく。「欧洲現時の開化は(中略)自由通商の発する所なり、〔、〕即ち平民の発する所なり」とあるように、開化の理による未来への実践は、自由平等政治と経済的自由主義をめざすものだった。田口が自由主義経済論を主張しながら「日本開化小史」を書いたのは当然だったといえよう。(1)田口卯吉「日本開化小史」一九四頁。(2)前掲書二四頁。(3)前掲寳一○一頁。(4)ギゾー「ヨーロヅ.〈文明史」安土正夫訳下巻一八七頁。(5)前掲書上巻三四頁。(6)ミル「自由論」柳田泉訳二八頁。(7)ミル「功利論」柳田泉訳三四五頁。(8)「鼎軒田口卯吉全集」第一一一巻一六一頁。(9)田口卯吉「日本開化小史」五○頁。(、)ミル「自由論」柳田泉訳九一頁。(u)田口卯吉「日本開化小史」一九四頁。(辺)「鼎軒田口卯吉全集」第二巻一一九頁。
一 一 一
五
法政史学第二十二号 たが、その力点はあくまでも内発的論理にもとづく「日本の自主的文明化」の究明におかれたのである。この普遍的方法による個性的・主体的認識において、重視すぺぎことの一つは価値の問題であろう。「日本開化小史」の歴史観では、歴史の対象と目標を社会・人心の進歩におき、歴史事象を人民的・文化的視野にまで広げ、歴史を普遍的・合理的に認識していこうとした。それは西洋文明史に対する主体的な日本文明史をもたらしたといえよう。だが外への対抗、上に対する下からの自主性の強調による主体的認識のためには、普遍的価値をさらに個性的なものとして把握しなければならない。その徹底は国体史学との対決にまで至るだろ(1)う。だが「日本政府の性質は実に神教政治にして」「古代の事を追懐する毎に、神代の偉業を思い出さざるなし。故に王家は日本の人民を統治するの神権を有すとの考は、常に日本人民の心裏を(2)雛るることなく、且つ有機者の首唱する処なり」「唯一の慰むぺきは当時盛んに発達したる、日本は神国なり日本の天子は神孫な(3)り夷狄禽獣と同じからずとの一事にあり」のぎ」とく、田口には国体史学に対立する姿勢がふられない。西欧の新思想に親しふながら、封建制の成立や封建時代から近代への転換に対するあいまいさ、古さなどはおそらくこのためであろう。たとえば福沢がしたような、新しい近代の視点から封建制度が批判されていない。それは一つには実証的方法の不徹底からもたらされたのであろうが、その歴史観11社会の開化はおのずから進化するゆえ、社会が正状ならば自由放任こそ最上策であるとし、貨財分配の点に歴史童ろlにおける精神文化の軽視も一因であろう.自然の発