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難病と向き合う患者の生き方の研究―進行性筋ジス トロフィー成人患者を中心に―

著者 梅崎 利通

学位授与大学 東洋大学

取得学位 博士

学位の分野 教育学

報告番号 甲第128号

学位授与年月日 2005‑03‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00003978/

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第4章 事例研究

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第1節 事例1〜家族の支えと創作的活動を通して「生きる意蜘に覚醒した患者

      の事例

 四肢の骨格筋の萎縮に伴い、身の回りの多くの動作が不可能になっていく筋ジス者のう ち、幼少時から発症し小学生のうちから急激に進行して、二十歳前後で大半が死亡するデ ュシェンヌ型と違って、青年期から成人期にかけて発病する成人の筋ジス者は比較的晩年 まで生きている場合が多い。

 とは言っても、年単位で身体機能は確実に低下していき、家庭で生活していく事も困難 になって、結局その多くは全国の国立療養所に入所し、そこで一一生過ごす事がしばしばで ある。人生の真っ盛りの時期に、突然自分だけに振り懸かってきた難病に、「悲哀、苦悩、

焦燥、虚無、絶望、憤懲」帽などを感じ、生きる望みを喪失してしまう。頼れる親・兄 弟・親戚からも離れて病院を「終の棲家」として過ごさざるを得ない自分の人生に、おそ

らくすべての筋ジス者は「生きる意味」も「生きる目的」も見失ってしまうに違いない。

そしてさらに、日々肉体が衰微し、日常生活の殆ど、例えば他人の手助けも揮る排尿や排 便といった排泄の行為でさえ、他人に頼って行なわなければならない現実に、「生きてい ても何の価値もない」と生きる意欲もなくしてしまうか、またはそういう依存的な生活に 慣れてしまい、何の感情も湧かなくなるほど鈍麻した感覚の生活に堕落してしまう。

 このような絶望の淵に追いつめられ、「日々虚しく生きている」と感じる時でさえ、Viktor EFranklの言葉のように、「どんな条件のもとであれ、人生は意味を持ち続ける」(2)とい う確信を持つ事が出来るのであろうか。あるいは、日常の殆どが介助の病棟生活において さえ、生きがいのある暮らしや人生が真実可能であろうか。

 この節では、絶望のどん底で家族の支えと前向きに専心する行為を通して、「生きる意 味」に覚醒し、難病後に初めて自分の人生の進むべき道筋を見出した事例を取り上げる。

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1.事例概要

 1937年生まれ。2004年現在67歳のAさん。診断名は成人性脊髄性筋萎縮症。頸椎ヘ ルニア症(頸椎の3番と4番)。障害等級は1種1級。現在神奈川県内の国立療養所箱根 病院入院まる13年。家族は62歳の妻と既に嫁いでいる2人の娘と孫5人。

2.個人歴(生育歴と現病歴を中心に)

 面接で聴取したAさんの[記録A]を基に生い立ちと現病歴を個人歴の流れに沿い、

かっ、その時々の心理・気持ち・向き合い方に焦点を当て、特に重要な契機や要因、ない し心理的転機となる大切な事柄と考えられた事象を中心に再構成した。

 また、Aさんは2000年2月に『神様がくれた休暇』という本も自費出版され、その中 でも自分の生い立ちや発病の事、療養生活などに真摯な気持ちを表現されているので、面 接では筆者も本の内容にはあまり深く質問しなかったが、面接記録を補完する意味で、こ の本の中身に描かれている重要な場面の気持ちの記述は《》で引用し、そのページを書 き込んだ。さらに、Aさんが参加している句会誌や出版した句集、小学校での福祉講演会 の記録なども参考にし、一部引用した。

1)生い立ちから結婚するまで(〜25歳)

 静岡県N市に生まれ育つ。小さい頃から特に運動や動作に問題はなく、遊ぶ事は積極 的な子どもだった。かけっこでは長距離は苦手だったが、短距離は普通だった。運動では 当時の男の子がそうであるように野球が好きで、6年生の時、校区内試合で優勝した事も あった。一方、絵は苦手だった。6人兄弟で3番目で次男(兄弟は女男男男女女の順)。

家庭は父母に祖父母の10人家族。父は鳶職であったが、家庭は田甫や畑をやって生計を 立てており、農業をしていた。Aさんが小学校4年生の時、父親は脳卒中に倒れたが、後 に片麻痺ながら家畜(豚)の飼育など、家の農業を手伝うまでに回復した。母親は夫の分 まで毎日働きに働いた。

 田舎では困った時、助け合うのがごく普通の事で、田植えも隣近所みんなで協力して行 なっていた。また、青果市場に出せない野菜などは、「置いておくから」と言って、近所 の人がくれたり、山の畑に荷車を押して登っていく時などは、近所の人が押すのを手伝っ てくれたりした。冬には薪を取りに山に行ったりもした。家の近くには東京都の喘息の子 どもの養護学校があり、そこからの残飯をもらいに行き、その残飯で豚を一頭飼って育て た。餌をやるのが親の仕事だったが、子どもたちも手伝った。豚は大きくなると精肉屋が

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取りに来て良い値段で売れて、家計の助けになった。このように、お互い貧しかったが、

持ちっ持たれつの村落共同体の生活であった。従って、Aさんも小さい頃から自分の事ば かりでなく、人の為に助け合う事を当然で自然な行為と考えて育ってきた。つまり、近所 の人も親も、頼まれたらそれを優先して、他者の為に手助けする、という考え方と行動を

していたので、Aさん自身も自然に身につけ自分の性格と行動様式を形成していった。

母親も優しい母親で、勉強しろ、とは言わなかった。その母親については、Aさんの本を 読むと、こんなエピソードが載っている。戦後間もない頃、父親が脳卒中で倒れ、年老い た祖父母と子供6人を抱えて、家族は食糧や衣服にも事欠くほどで、生活は困窮を極めて いた。その頃、子・供たちを余所に預ける話があったようだったが、母親はある朝、子供た ち全員を集め、「おまえたちは手放さない」、「今は貧乏していても、みんなで頑張ればき っと良くなる」と涙しながら語ったそうだ。Aさんはそんな母親から「決して希望を捨て てはいけない」と教わる。

 15歳。中学を卒業すると、N市郊外にある従業員千人程のK電機という有名な工場に 採用される。同じ中学から10人くらい受験したが、Aさんだけが受かった。本人は今も

「運が良かった」と謙遜する。その年は12人の新入社員が入社する。その当時(1952年 頃)は月給が5000円ももらえ、とても人気があった会社だった。東芝でさえ当時4500円 の給料であり、それをはるかに凌いでいた。K電機では技能者養成所・戦後第一期生とし て教育を受け、設計の仕事をしていた。

 従業員は若い人も多く、スポーツなども盛んであった。Aさんもハイキングやバーベキ ューに参加するうちに、同じ会社に勤める5歳違いのS子さんと知り合うようになった。

《素早い反応と笑顔。はにかむ仕草が印象的(P6)》なS子さんに惹かれ、《やがて二人 で映画やお祭りへ出掛けるようになり恋が芽生えた》。25歳でS子さんと結婚(S子さん は20歳の時)。「大変だけれど、家賃を払うなら家を持とう」と考え、実家の近くにロー ンで家を建てる。そして2人の娘にも恵まれる。家から会社まで10kmぐらい離れていた が、自転車で40〜50分かけて通勤した。

 27歳の時(1964年)、不況と会社の製品事故の影響を受けて給料も上がらず、やむなく 市内のT協会に転職(1964年11月〜1986年3月)。《二人の小さな子どもたちも抱えた 生活は厳しかったが、S子の「何とかなる」という持ち前の明るさと頑張り、勤務先など の支援もあって危機を乗り越えることができた(P7)》。

2)病気が密かに、かっ徐々に進行しながも仕事に精を出して働いていた頃(〜32歳)

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 1969(昭和44)年、32歳の時にバセドー病を患い、東京の病院で手術を受ける。その ほかは取りたてて問題もなく仕事をこなしていた。T協会は県下運送事業所の社団法人と

して運営され、運送事業の改善、運転手の教育などに努め、トラック運転手のために、春 秋の日曜日の午前に講習会を開催するなど、日曜日が出勤となって、休みがっぶれる事も多 く、とりわけ4A、5月が忙しかった。年間で24〜25 Hぐらいしか休みが取れない年も あった。しかし、普段の日は残業もなく、家族との団簗やテレビを見たりする程度で、趣 味らしい趣味もなく、たまの休みには庭木の手入れぐらいしかしなかった。

 初めは15〜20分かけての自転車通勤だったが、やがて自動車を使用するようになった。

勤務は内勤ばかりではなく、車での外回り多く、運動も次第にしなくなった。健康は特に 問題はなかったが、腕から胸、足にかけて徐々に筋力は落ちていたようで、Aさん自身も その事を感じてはいた。歩いていると、知人から「足をどうされましたか」などと聞かれ る事があった。歩く姿を鏡などで映してみると膝から下を投げ出して歩いていて、変だな とは思っていた。気になって幾つかの病院を受診したが、「人により歩き方はいろいろで すから」などと明確な結果が得られなかったので、東京のT大学病院に行く。すると、

大勢の学生の前でパンツー枚の姿にさせられ、歩行やいろいろな動作を要求されたり、そ の様子を写真に撮られたりした。妻は診察のその光景を見ていて、「モルモットにされて しまう」と心配した。Aさんも嫌だったが、病気が治るものなら我慢出来ると考えていた。

その後、妻が入院の手続きをとってくれたものと思っていた。しかし、なかなか入院の案 内が来ないので、遅いなと心配していた。ところが、実は妻はAさんがモルモットにさ れるのが嫌だったので、実際は手続きをとっていなかった。Aさんはその事を後で知る。

 しかし、いっの間にか駆け足が出来なくなり、長く歩く事も苦痛になってきた。また階 段の昇り降りが大変になって、手すりをつかまりながら何とか行なった。手すりがない場 合は、壁を手で伝いながら必死になって昇降した事もあった。それが進行性の病気の前兆 だとは思いもよらなかった。

3)「筋萎縮症」の診断を受ける(47歳)

 1984(昭和59)年。この年の春頃から今までにない疲労感を覚えていたようで、この 頃から病気は急速に進行していたものと思われる。Aさんにとっては仕事がとても忙しく、

かっ責任のある47歳の夏のある日のこと、風邪を引いて職場を休んでいたが、その{ヨ会 議があるため、出勤しようと布団から立ち上がろうとしたところ、力が入らない。まるで 重い布団を乗せられたように体が全く動かない。仕方なく窓枠に掴まって立ち上がった。

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布団も片づけなければと再びしゃがみ込み、布団を持ったが立ちヒがれないL  °1。その時 は妻の力を借りてやっと立ち上がる事が出来た。

 妻は「病院に行ってよく診てもらってきたら」と促したが、休んでいて仕事がたまって いたので、病院に行く余裕はなかった。お盆の後、紹介してもらった静岡県立のS病院 に検査入院し、45日間にも及ぶ検査を受けた。《髄液検査は採取後一・週間近く頭痛など不 快があって起き上がれなかった。筋電図は手や足の筋肉に針を刺して力を入れたり抜いた りの繰り返し。疲れと痛さで拷問でもされているかのように辛かった。筋生検は筋肉の組 織を診るため肩から上腕にかけての…部を切り取った。むしられるような痛さに途中で、

もう一.一本注射をしてもらったりと思っていた以上の厳しい検査だった(Pl2)》。妻は《「今 まで三十年余り一生懸命働いてくれていたので神様が少し休暇を与えてくれたのよ。焦ら ないで…」と慰めてくれるのだが、検査入院は短いものと思い込んでいただけに半月を過 ぎた頃から少しずつ不安になり落ち着かなかった(Pl2)》。しかし、それでもはっきりと

した病名がわからなかった。かわりに、神経内科の権威である大学病院の医師を紹介され

た。

 10月下旬、S病院での紹介状と検査資料を持参し、東京の1大学病院の教授の診察を受 けた。2週間後に結果を聞きに行って、その医師から《「筋萎縮症に間違いありません」

「ベッドに寝ていてはダメです。筋力を維持するために、即リハビリと通常の生活に戻し て下さい」「この病気は進行性の筋肉の病気。将来、手や足が少しずつ弱くなり歩けなく なっていく病気です」「進行が著しくなると疾も出にくく、呼吸困難を引き起こす事もあ ります」「現在は特別な治療薬は有りません」「近親者にこの病気の方はいませんか」な ど、今まで知る由もない病気の説明を受けた(Pl4)》。

 その時は病気の恐ろしさの実感が湧かなかったが、帰りの車の中で「どうか誤診であっ てほしい」と祈るような気持ちであった。診断を下した医師から「筋力を維持するために、

即リハビリを」と言われたので、「訓練を頑張ろう。訓練をしよう。訓練をすれば、筋力 もつく」と、頭は訓練の事しかなかった。厳しい訓練をする事を決意する。長女17歳、

次女16歳の時であった。この時はまだ「筋萎縮症」に対して半信半疑であった。だから ずっと希望を抱いており、本格的に訓練すれば治るものと信じていた。

4)自宅での自主訓練の惨めな日々(47歳)

Aさんは県立S病院で短下肢装具を作ってもらい、休職(]年6ヶ月間)して、自宅

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で訓練を始める。季節は秋になっていた。訓練と言っても、ロフストランド杖を突いて家 の周りや農道を歩くだけであった。その訓練の散歩をしていると、あまりの変わりように 近所の人が「Aさん、如何されましたか?」、rAさん、どうですか?」と声をかけた。 A さんの事を親身になって声をかけてくれる事は有り難い事であるが、そう度々になると煩 わしくなるし、自分が「障害者」になった姿を近所の方に見られたくない、という気持ち が強くなり、出来るだけ人に会わないよう時間をずらしたり、散歩する道を変えたり、狭 い道にしたり、歩く距離を短くしたりした。いわば、健常者や正常な人には劣等感を感じ るようになったのだった。「どうされましたか」など聞かないでほしい、そういう姿を見 せたくないと思うようになった。

 歩行訓練も初めは意気込みがあったが、外は凸凹道や坂道もあったりして、装具をつけ ては歩きにくかった。それに、外を歩くのは一一回りしても30分くらいで終了する。家に 帰ってからは、ぶら下がり健康器にぶら下がったりした。後は足の屈伸などで、すぐ終わ ってしまう。また、雨が降ったり風が強い日は万一の事を考えて外の歩行訓練は中止した。

その後は何もする事がなかった。《時間を持て余し、厳しい訓練とは程遠い生活に気持ち が落ち着かなかった(P17)》。 Aさんは自宅訓練の間じゅう、病気の事が頭から離れなか

った。家にいても、「どうか誤診であってほしい」と、絶えず願っていた。

 昼食のご飯は保温にしてあるので、妻が作っておいてくれた味噌汁などを温めるだけで 済んだ。トイレは洋式トイレのため腰掛ける事は大丈夫だが、立ち上がるのは大変で、ト イレに取っ手を付けた。ただ、困った事は、畳を主にした和式の生活だったので、食事な どは座卓に座ってしていたが、一旦座ってしまうと、いざ立とうとしても立てなかった事 だ。それで、座卓の周囲にある箪笥などに掴まってようやく立ち上がる事が出来た。その ため、立ち上がるのに時間がかかり、電話が鳴っても、来客が来てもすぐに出られず、家 族と話し合って、電話は結局出ない事にした。

 妻は昼間近くの会社に勤めており、2人の娘たちも高校に通っていたので、日中は一人 きりになった。一人で居ると気が滅入ってしまう事があった。特に雨が降っていると尚更 考えてしまう。一人自宅に留まっていると、ストレスも溜まり不安も増大した。しかし、

不思議なのは、家に一人残されて不安が増大しても、決して家族に八つ当たりしなかった 事だ。普通なら、どうにもならないイライラ感やストレスから、家族に当たり散らす事が よくあるけれども、Aさんの場合はそういう気持ちを持ったり、それを家族に吐き出して しまう行動が全くなかった。

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 その頃の落ち込みを如実に示すエピソードとして、チコというスピッツの雑種犬の話が ある。このチコは10年以上家族と一一緒に暮らしてきた飼い犬で、当時、朝と夕方に散歩 させるのがAさんの日課だった。しかし、病気になってからは散歩に連れていく事も叶 わず、歩行訓練の後、家で…人寂しく座っていると、チコは小首を傾けてAさんの顔を じっと眺め、大きな瞳で散歩をねだった。その瞳を見っめていると、Aさんの胸に迫るも のがあり、つい「散歩に連れていけくてごめんね」と、思わず抱きしめてしまった事もあ った。「本当にあの時は切ない思いだった」と、Aさんは今でも思い出す。

 夕方になり、妻か子どもが帰ってくると、やっと孤独感から開放された。やがて、自宅 訓練に関して妻と相談し、このような状態が長く続けば気持ちも心も駄目になり、家族に も負担がかかるので、病院に入って訓練する事にした(結局、自宅での自主訓練は1ヶ月 間しかもたなかった)。そこで、電話帳を見て、リハビリの出来る所に電話したりもした。

縁故もあって、伊豆のJ大学付属病院に入院する事になる。

5)N温泉病院でのリハビリの日々(47〜53歳)

 J大学付属病院には1ヶ月ほどいて、1984(昭和59)年12月、今度はN温泉病院に転 院する。その日はクリスマスの日であった。この病院はリハビリの専門病院で、特に脳卒 中とリウマチの患者が中心であり、Aさんのような神経筋難病の患者は皆無だった。

 訓練はPTとOTを受けた。本格的に訓練をやれば治ると信じていたので、 N温泉病院 に入院したあとも、PTでは訓練をやって元の状態に戻りたいと思っていた。 一一方、 OTで はS先生から切り絵と革細工を教わった(偶然だが、そのS先生というσ)は筆者の教え 子であった)。OTは楽しみだった。物を作って張り合いのある時間だった。

 OTには朝の9時半頃に出ていき、砂嚢を手首に付けて動かしたり、歩行訓練や畳での 起居動作訓練の後、木工の場所の横で革細工をだいたい一一時間程度行なっていた。訓練日 以外の日でも自主訓練はよいという事で、週6日のうち4日間もOTに来て、革細工をし ていた。初めは先生の指導のまま定番のキーホールダーやペンケースなどを作っていたが、

だんだんオリジナルの作品を手掛けるようになってきた。

 仕事をしていた時は、庭木の手入れ以外取り立てて趣味らしい事は何もしていなかった。

AさんはOTで初めて切り絵や革細工に取り組んだ。特に革細工が気に入った。オリジナ ルの作品を製作するのはとても楽しい。「この革で筆入れを作ると、ここをこのように工 夫して……」などと色々考えるようになり、時間を有意義に使うようになった。

 自分のそれまでの人生を振り返ってみて、今まで自分が作った物を他人に見てもらった

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り、人にプレゼントして感謝されたりする経験はなかった。それが革細工をして色々な作 品を製作すると、面白くて、「次はここをこう工夫しようj、「これは誰々に上げよう」

と、張り合いが出てきたとAさんは感じた。《喜ばれる物を作ろう。模様や独自の作業方 法など考え出すと、早く作ってみたいと気が急ぎ、夜なかなか寝付かれないこともあった

(P23)》。毎年ll月には文化祭があり、患者と職員の作品が講堂に並べられ、優秀作品 には金・銀・銅の賞が贈られていた。自分の革細工の作品も銀賞になったりして励みにも

なった。

 一方、PTの先生は若かったという事もあり、ガンガンやる方で、毎回タオルと着替え を持って臨み、汗びっしょりになるくらい訓練をした。しかし、筋ジスという病気の事を 知らなかったようで、脳卒中患者に対するのと同じような訓練をした。Aさんは休日でも

リハビリの延長と思って、他患者と共に病院の裏山まで歩行訓練に出かける事も多かった。

これらの厳しい訓練も「何とかして社会復帰したい」という一念で頑張った。脳卒中の患 者たちもAさんを励ましてくれた。Aさんはとにかく暇な時間を作らないよう心がけて いた。しかし、猛練習の割りには筋力もつかず、かえって疲労が蓄積していった。

 この頃には「誤診であってほしい」という気持ちはもはや持っていなかった。しかし、

昼間はOTで作業をやって気を紛らわす事が出来たが、夜寝ていると病気の事を考えてし まった。また、脳卒中の患者は患側の片手片足が不自由でも、健側の手足で動作が可能だ ったり、杖を突きながらでも歩けるようになる人も多く、大概は元気で退院していき、病 院の玄関でそれを見送るAさんはとても寂しかった。

 1年半の休職期間が過ぎ、1986年3月、21年余り努めたT協会も退職する事にした。

協会支部長が退職の件で病院まで来て下さり、《「長い間ご苦労さん。訓練頑張って早く 良くなるように…」との言葉を残して帰られ、規定とは言え…抹の淋しさを味わった

(P25)》。

 入院2年目(1986年)の秋、発熱と下痢の後、二、三日観察室に収容された。体調を 崩してふせていると気持ちも弱気になった。《静かな病院の夜。病室のテレビ番組で歌番 組、都はるみが唄う『涙の連絡船』「船はいつかは帰るけど、呼んで戻らぬ…」と歌のテ ロップに合わせ声を出さずに唄っていた時、感極まり「船は港へ…。私は家族の待っ家に 戻って暮らすことは、もうできない…。S子、 K子、 J子…。もうできない…」と涙が込 み上げてきて、目頭を押さえるが止めどなく流れ、我慢できなくなって布団をかぶってし まった(P28)》。体調を崩す度に体力も落ち、だんだんしんどくなっていくので、「駄目

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かな」と次第に思うようになっていった。

 一週間程度で体調は回復したが、今までのようには歩けなくなっていた。急激に体力が 低Fしており、PT訓練を再開しても、今度は歩行が極端に困難になり、PTの先生から「私

も辛いが、これ以ヒ歩くのは無理のようなので、車椅子にしましょう」と言い渡されてし まった。そして、とうとう車椅子の身になる。その時は歯を食いしばって必死になって歩 かねばならない苦役から解放されてほっとした気持ちだったが、張りっめていた糸が切れ たように、空しさや悔しさがどっと押し寄せ、「どうして歩けないんだろう」と自分で自 分を責め、PTの先生が立ち去った後も、しばらく岩のように動く事が出来なかった、体調 不良に伴う全身の体力低下。病気の進行が現実となった。それでもAさんを支えてくれ たのは家族の存在であった。「妻や子供との接触をどうするのか」、「革細工の作品を家族 のために作って喜んでもらいたい」と考えた事が心の転機となった。つまり、「家族の支 えがあった事ががんばれた最大の要因だった」とAさんは述懐する。

 また、歩けなくなっても「死にたい」とは思わなかった。歩けなくなったら、何が出来 るかと考えた。例えば、歩けなくなっても車椅子の下に風呂用マットを厚く敷いてその上 に座れば、掴まって立ちヒがれるとわかり、そうしたりした。つまり、「歩けなくなった ら、次に何が出来るか」と前向きに考えた。

6)転院と祝い箸(51〜53歳)

 N温泉病院に入院して満3年を経過し、ソーシャル・ワーカーから「訓練よりも生活を 優先させた方がよいでしょう」との助言があり、1988年1月にN温泉病院を退院し、妻 の勤め先に近いS病院に転院する事にした。

 トイレが気になって転院前に下見に行ったところ、障害者用のトイレは病棟にはなく、

入院患者用のトイレは地下に一一・つしかなかった。しかも、そのトイレの手すりは低くて使 いにくかった。立ち会った医師が「適切な位置に手すりをつけ直して安全にトイレが出来 るようにしましょう」と言ったので、改造してくれる期間を見越して転院したが、結局ト イレの手すりはそのままだった。だから、トイレは必死だった。その時の状況をAさんは 次のように記述している。《排せつに困ったがやるしかない。這うような体勢で移る。崩 れそうになる。必死に手摺りを握り直すなど繰返した。やっと用を足す。終わって車椅子 に移ると疲れがドッとでた(P32〜33)》。こんな状況の病院では生活を優先して長期療 養する事はとても無理だったので、3週間程で他の病院に再度転院した。そこは家とも多 少近くなり娘たちの勤務先とも車で十分程度の距離にあった。その病院は痴呆症の患者が

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多いせいか、あるいはやたらとナース・コールを押す人が多いせいか、看護師はナース・

コールの電源を切っておく事があり、本当に看護師の手助けが必要な時には困った。例え ば、Aさんが消灯前にベッド上で横向きになった際、片足がベッドの横に滑って壁とベッ

ドの間に落ちて挟まり、もがけばもがくほどはまりこんでしまい、ナース・コールを押し ても全然やってこないので為す術がなかった。それで声を大にして叫んだ。その大声をや っと聞きつけて看護師がやってきた。「ナース・コールを切らないでほしい」と嘆願した が、全く状況は変わらなかった。

 やがて二人部屋に移り、空き時間に床頭台やベッドを使い、前の病院で覚えた手工芸を 生かして色々な作品を作った。

 その一・つに箸袋があった。千代紙と爪楊枝で人形を作り、和紙で作った箸袋に貼り合わ せ、金の台紙を入れてセロファンで袋を作製して完成。これは近々結婚する次女のお祝い に「家族が協力してささやかな祝いとしたい」という妻の願いからであった。妻は「これ を結婚式のために作ったら」と既製品の見本を持ってきた。Aさんはそれをばらしてどう 作ってあるかを見て、あとはそれを真似して作った。結婚式には百名くらい出席されるの で、一人当たり三膳分として全部で三百膳作った。そして、1祝い箸」セットとして引き 出物に添えた。Aさんはそれをすべて自分一人で作ったのだった。式に来られた方たちは

「この箸は(素敵すぎて)使えないな」などと褒めた。

7)国立療養所の日々(53歳〜現在)

 ①入院しての決意

 長期間の入院による経済的負担も年々重たくなり、家の近くの病院にいたいという甘え をいつまでも保っ事も出来ず、1990(平成2)年10月、神奈川県内の国立療養所箱根病 院に転院した。《この病院には「筋ジス病棟」があり、大勢の患者さんが療養生活してい

ることはN温泉病院にいた時、OTの先生が付属リハビリ学院卒業生だったため様子も聞 き、入院も当時勧められたこともあった。その時は箱根山を越えて小田原は「島流し」の ように遠く感じ、また自分の将来の姿を見るようでその気になれなかったのが私の本当の 気持ちだった(P41)》。

 筋ジス病棟には気切(気管切開)の患者や重度の人もいて、初めはショックだった。A さんは「悪くなると自分もああなるのかな」なんて考えてしまった。病棟は40名の定床 なのでいろんな患者がおり、慣れるのは大変だったが、病棟では患者同士助け合っていた ので、先輩患者の中にはAさんを助けてくれる方もいて、「私で出来る事は手伝ってあげ、

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共に生きよう」と心に決めたら、自分でも意外なほど抵抗もなく素直な気持ちになり、次 第に病棟生活に慣れていった。例えば、同じ病棟にはSさんという患者さんがいて、そ の方は手が不自由だったので、Aさんが替わりにタオルを絞ってあげたり、洗濯を手伝っ

たりした。

 ②俳句との出会い

 俳句はそれまでの人生で全くやった事がなかったが、病棟には「今まで 度も作ったこ とのない方俳句大歓迎」と書かれた俳句の投句箱があり、ある日の午後、ボランティアで 入院患者に古典を教えに来られている秋月涼先生が「俳句を始めませんか」と訪ねて来ら れ、誘われた。病棟のSさんにも勧められ、入院してまもなく参加する事になった。そ

うして1990年12月発行の22号から誌上句会『風祭』に投句を開始した。

 投句はほぼ隔月毎に一一人3句以内行ない、選考はボランティアの3人の選者の方がされ ていた。入選作品をその句会誌『風祭』に講評共々掲載された。

 句会誌『風祭』40号を記念して1995(平成7)年句集の本が出版され、全投句者75人 の句を一挙掲載し、325ページの『国立療養i所箱根病院誌上句会 風祭 作品集』が上梓

された。Aさんは 母子ともに元気と電話秋暑し 若武者がパパの背に乗り五月晴れ など30句が掲載される。民法ラジオの取材もあり、そのインタビューでは、《「筋ジスの ほか、頸椎ヘルニアの悪化で辛く苦しい時期もあったが、今は俳句やコンピューターグラ フィックス、そして絵を描くなど充実した日々を送っている」「俳句を始めてから四季の 移り変わりや周囲の事柄など敏感に感じ取るようになった」「本も贈り喜ばれました」

(P49)》などと返答する。《また、本を送った方からは『明るさや温もりのある俳句に感 動しました』『皆さんの頑張りに健常者の私はすぐ泣き言を言う。はずかしい。そんな時 はこの本を見ます…』など、何通か礼状が届き、このような反響に『また頑張ろう』と新 たな気持ちになった(P50)》。

 ③油絵

 1991年11月頃、入院筋ジス患者有志による画集『風祭412』が出版された。それを 同じ病棟に入院し、その画集にも絵が掲載されている矢崎さんが 買ってくれませんか と売りに来たので、それを購入し、併せて小田原市内のデパートで開催された原画展を見 学に行った。会場にはこのサ・一一一一クルを指導していらっしゃつた赤岩賢三先生(国画会会員)

が よかったらやってみませんか と誘ってくれた。

 1992(平成4)年、入院して1年あまりの春、絵画のサークルに参加。それまで絵には

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関心がなく、小学校では上手でもなかったし、好きでもなかった。そんな自分でも描ける かどうか心配だった。ます鉛筆画から始めた。「光と陰を濃淡で表すと、絵の中に生命が 宿ったように生き生きとした輝きを感じ、絵の楽しさを覚え、空いている時間の大切さを 知った」と、Aさん。同年6月、市内デパートで絵画展『歩み』に初めて出展する。「額 に入れて飾られると絵が引き立ち、それらしく立派に見えるので嬉しくなった」。《案内 状を送り、来てくれた家族や兄弟は半信半疑で『絵を描くの…』と、驚いた様r一で絵の前 に立っていた。ご来場者との出会いは喜びと感激、感謝の気持ちで一..一杯になった(P57〜

58)》。それからは毎年開かれる『歩み』展に出展している。

 1994(平成6)年1月から油彩を描き始める(Aさん54歳9ヶ月の時)。この頃から腕 の痛みや疲れも強くなり、少し離れたデイケア棟に手動車椅子で絵を描きに行くのも辛く なり、同年4月電動車椅子に切り替えた。すると、行動範囲も広くなり、その威力と有り 難さに感謝した。普通、手動車椅子から電動車椅子に替えるという事はそれだけ身体機能 が低下し病気が進行しているという事を意味しているので、患者の多くは抵抗感を覚える ものであるが、Aさんの場合は何等抵抗はなかった。それは、手動車椅子の期間が長かっ たから、電動に切り替えて手動よりも便利に、かつ機動性が向ヒした利点の方が勝ってい たからでもあった。だから、手動車椅子から電動車椅子に切り替える時には、N温泉病院 で、歩く事が出来なくなり、車椅子を宣告された時の悔しさや無念さは全く感じてはいな

かった。

 Aさんは年間10枚くらい油彩を描いている。という事は、一ヶ月でほぼ1枚の割であ る。一週間に純粋に絵に注げる時間は、月曜日午後の絵画の時間以外に、月曜日午前中と 木曜日午後の時間しかない。車椅子への乗車(午前9時半頃)と車椅子からベッドへの降 車の時間(午後2時45分頃)は規定されているため、一週間内で絵に集中出来る時間は 極めて限定されてしまう。月曜日午後の絵画の時間を除くと、正味3時間半くらいしか時 間が取れない事になる。そうして、4週間で一つの油彩を仕上げる。ある意味では、ハイ ペースとも言えるであろう。それ故、Aさんは出来るだけちょくちょく時間を作ってデイ ケアに来て描くようにしているという。しかし、生きられる時間が限られているから、残 された時間をフルに使って描ききる、というような追い詰められた感じは持っていないと 断言する。「あくまで時間を有効に、有意義に使おうと思っているだけです」と言う。

 勿論、病棟のすべての患者ないし絵画を描いているすべての患者がそうだという訳では ない。患者のなかにも無為に時間を過ごす人もいるし、絵画に参加している人でも月曜日

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(15)

の午後の時間に来て描き、それ以外の時間は全く描いていない人もいる。だから、Aさん のように「日覚めた」患者は多くはないと言えるだろう。病棟で何もしないでただテレビ を観るだけの患者も多く、それらの患者に対してAさんは「何もしないでだらだらと毎

日過ごすのはもったいないな」と感じている。

 「絵を描いていて何が一番いいのですか?」との筆者の問いに、Aさんは「夢中になる 事です。何もかも忘れて夢中になって取り組む事です。その充実感がいいのだと思ってい ます、,描く事によって手指の筋肉も使うので、当然機能の維持にもいいんじゃないでしょ うか」と答えた。とにかく、時間を有意義に使う事だけを考え、空いた時間を作らないよ う心がけている。

 また、色々な作品展やクイズに応募したり、OTジャーナルの表紙絵に応募するのは決 して「採用されたい」という名誉欲のためではなく、次のような考えのもとでの行動であ ると断言する。つまり、「空いた時間を作らないようにし、時間を有効に使って何か目的 を持って生活する事だと思っています。応募したものが採用されなくても構いません。要 は何かに集中する、張り合いを持って生活する、という事だと思います」。

 毎年開催される絵画展『歩み』を介して、多くの人との出会いがあり、知り合いや友人 との再会があり、介助をしてくれる学生ボランティアの青年への感謝もあって、その喜び と感激が明日への希望につながっていくという。Aさんは次のように感謝の気持ちを述べ ている。《私は絵に出会い。このように係わる人、応援してくれる人がいる。絵を描ける と言うことは、何と幸せなことだろうとしみじみ思っている。そして、描くことにより生 活にリズムができた。無心になって描き上げることの喜びと満足感。作品発表と言う数々 の絵画展。絵画展があればこそ多くの出会いがある。会場での再会の喜びと感激が明日へ の希望にっながっていく。絵画展は私達仲間の生きがいにもなっている(93〜94)》。こ

うして、絵を描く事は病院生活の張り合いになった。

 ④頚椎ヘルニア症悪化

 1994年6月、頸椎ヘルニア(3番と4番)が悪化した。梅雨を前にして手の痺れが以 前より強くなり、二、三日前に出来た動作も困難になってきた。例えば《食事の時手に力 が入らず、スプーンがご飯に深く差さらない。上辺を滑るように少ししか乗らなかった。

少しのご飯を口に入れても食べた気がしないし、繰返すうちに疲れてきて『もうsLめた』

とスプーンを手荒に置くことや、食べている姿勢を戻すにも困難なこともあって苛立つこ

ともあった(P63)》。

(16)

 そんな状態が二、二三週間続き、不安と恐怖に怯えたが、一方では自分の悪化していく状 態をさらけ出したくないという意地から、看護師に詳しく状態を告げなかった。6月中旬、

小田原市内のデパートで絵画展『歩み』があり、絵画のメンバーと見学に行った次の日、

いっものように朝食前に食堂に行き、テーブルの上に新聞を広げようとした時と、洗面所 で顔を洗おうとして手を伸ばした時に、二度続けて体のバランスを崩して前へ倒れてその まま起き」二がれなくなった。Aさんは《頭の中は真っ白となり、焦るに焦ったP66)》。《症 状はその日のうちに急激に悪化した。手や足の痺れが一層ひどくなり、自分で動かすこと も出来ず「遂に俺はダメか…」と真剣にそう思った。一日中、症状に耐えながら「このま ま終わる訳にはいかない。何としてでも…」「いや、もうお仕舞い…」と心の葛藤が続い た(P66〜67)》。

 主治医はレントゲンを診て「これはひどいな」と言った。医師も手の施しようもなく、

頸椎の手術を勧めた。妻にも来てもらい、副院長から主治医・病棟師長立ち会いのもと、

症状と手術の説明があった。《「頸椎の三番四番にヘルニアがあり、神経を圧迫している。

脳に近く神経も沢山通っていて難しい手術である」「手術で完全に痺れが治る保証はでき ない」「場合によっては、大学病院へ転院して手術のこともありうる…」等々の説明があ った。そしてf明朝までに手術するか、しないかを知らせて下さい」と言われて部屋に戻 った。私は、「このまま寝たきりの人生は嫌だ。手術をしたい。手術をしてダメならそれ も仕方がない。行動をしないで悔やむよりは…」(P68〜69)》と手術を希望したが、内 心は手術のミスで麻酔のため永遠に眠り続ける事を望んでいた。

 夕方、T看護師がやってきて、手術の危険性の大きい事を告げ、自分も前に頸椎を傷め て入院もし、辛い思いを経験したのでAさんの気持ちはよくわかると言い、自分は手術 はしなかったと告げた。Aさんの気持ちは動揺した。

 次の日妻が来て、《「もうすぐK子(長女)に初めての…。J子(次女)に二人目の赤ち やんが生まれるのよ。たとえ、手足が動かなくても、あなたには見ることも話すこともで きるでしょう」「看護婦さんの言う通り大変な手術です。もう一度考え直して…」(P70)》。

そう言われてAさんは目が覚めた。《「そうだった。手術は止めよう。何という自分勝手 な考え方をしていたのだ…」「家族がいる。これ以上余計な心配をかけてはいけない。た とえ体は動かなくても、K子の言う通り見ることも話すこともできる。止めよう」(P70

〜71)》。Aさんは《家族への思いが胸に迫り、目尻から熱い涙がこぼれ落ちた(P71)》。

 手術をしないと決断したら、気持ちが落ち着き、山の霧が晴れてくるようにすっきりと

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(17)

した心境になり、Aさんはナースステーションにその旨を伝えた。妻は安堵し、子どもた ちの待つ家に帰っていった。

 ⑤切り絵

 OTではオリジナルの切り絵を、 PT訓練では手足の屈伸と軽い運動を行なっている。 N 温泉病院を転院する時、OTのS先生が、「革細工をするのは将来難しくなるでしょう。

ですから、これからは切り絵の方がAさんにはいいかもしれませんよ」と助言してくれ た。その後は病気の進行に伴いその通りになり、革細工は刻印打ちが困難になってきたの で、箱根病院に入院してからはOTでは専ら切り絵のみを行なうようになった。

 OTは週2回の訓練時間(水曜日午後と木曜日午前)は、南の窓側のテーブルに一一人向 かって黙々と切り絵を創作している。切り絵の決め手は絵柄であり、それをAさんは文 化刺繍の柄から鷹や花の図柄を用いた事もあるが、今は自ら考えた下絵を描いている。A さんは「下絵を色々工夫するのが楽しい」と、切り絵の魅力について語る。「(図柄は自 分が独自に考えるので)世界に一つしかありませんからね」と、切り絵も油彩と同様、自 分の独創性が生かせるところに惹かれるようだ。その作品の殆どは、色紙に貼って、額に 入れて世話になった人にプレゼントしている。その事がこの活動を続けている喜びにもな っている。従って、現在特に気に入った作品以外はAさんの手元に残していない。

 OT訓練で作った切り絵を応募したところ、95(平成7)年の『作業療法ジャーナル』

の表紙絵に採用された(3作品)。その後、同ジャーナルには97(平成9)年に水彩画(1 作品)2000(平成12)年に油彩と切り絵各1点ずつ採用された。これらの応募は採用さ れて有名になりたいという名誉欲のためではない。Aさんは応募したものが採用されなく ても特に気にしていない。要は、時間を有効に使って何か目的を持って生活する事だと考 えている。何かに集中する、張り合いを持って生活する、という考えの線上に作品の応募 がある。採用されなくても、次の機会を目指して、また頑張ろうと思っている。

 切り絵をやっていて心理的に満足感がある。この満足感は油彩の満足感とは違うように 感じる。切り絵は図柄で決まるので、どんな図柄を描くか、に独創性が出せる。切り絵は 初めに完成する物がはっきりしていて、それに向けて作り上げていくけれども、絵は始め は真っ白で、だんだん自分で塗りながら作り上げていくところが違っている。だから図柄 を如何に独創的に描くかが大切である。

 ⑥現在のADL能力

 体の中枢に近い肩や股関節、それに大腿や体幹の筋肉の萎縮は顕著だが、末梢の手指の

(18)

筋力と機能は幸いな事に残存しているので、食事動作と書字動作、更には手先を使った絵 画・手工芸(切り絵など)は補助台を使用したり、机の高さを調節して独力で可能。歯磨 き動作は病棟の洗面台の高さが合わないのでやりにくく、ベッド上で行ない自立している。

 粗大な動作に関しては、歩行は不能、ベッドと車椅子との間の乗り移りはリフターにて 全介助、移動は現在電動車椅子で操作は問題なし。入浴・更衣動作は全介助。排泄のうち、

大便はベッド上仰臥位で寝てゴム便器を使用し自力排便し、後始末は看護師により全介助。

尿は昼間はトイレでズボンの前のチャックを自分で開き、尿瓶様の尿器を用いて自力排尿 可能。夜間の就寝中は特に排尿しないで済ましている。 就寝中のベッド上の体位交換(夜 9時、夜H時、午前1時…、午前3時、午前5時)全介助。

 ⑦病院での生活   a.日課

 一一日の生活はほぼ以下の通り営まれている。朝5時起床。6時洗面。7時朝食。8時半 から9時半にかけて検温・清拭・排便・車椅子乗車。9時半からll時半にかけてリハビ リ訓練や趣味活動。12時昼食。13時から14時半にかけて再びリハビリ訓練や趣味活動。15 時車椅子からベッドに降車。17時夕食。]7時半から18時洗面・歯磨き。18時から20時 にかけて仰臥し消灯準備。21時消灯。

  b.一週間の生活

〈月曜日〉午前 自由

く火曜日〉午前 古典講読サークル

〈水曜日〉午前 PT訓練

〈木曜日〉午前 OT訓練(切り絵)

<金曜H>午前 PT訓練

午後 絵画

午後 病棟の入浴日 午後 OT訓練(切り絵)

午後 自由(大概はデイ・ケア棟で油彩)

午後 病棟の入浴日

〈土曜日と日曜日〉午前午後とも予定なし。自由。

  c.年中行事

 Aさんは病院内の催しや活動に出来るだけ参加しようと努めているL、歌のうまい下手は 関係なく、純粋に歌う事を楽しむために病院附属のリハビリテーション学院の学生祭でカ ラオケをしたりと、機会があれば何にでも挑戦し、有意義で思い出深い時を過ごしたいと 思っている[89]。以下に病院内で参加ないし活動していた年中行事等を列挙する。なお、

附属リハビリテーション学院は2003年3月に閉校になったので、閉校になる前の活動で

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(19)

ある。

 4月

5月

6月 7月 8月

12月

患者のハンディキャブの会の市内買い物(リハビリテーション学院学生ボランティア介助)

病棟お花見会(リハビリテーション学院学生ボランティア介助)

リハビリテーション学院学生祭(絵画の作品を出展、カラオケ大会出場)

デイ・ケア棟での合唱団コーラス見学(主婦たちのボランティアグループ介助)

絵画展『歩み』作品出展と見学

デイ・ケア棟での弦楽器演奏会見学(J大付属高校のクラブ活動)

納涼花火大会参加(病院プール脇、リハビリテーション学院学生ボランティア介助)

OTジャーナル表紙絵応募 病棟患者のバス旅行参加

ハンディキャブの会の買い物参加(リハビリテーション学院学生ボランティア介助)

障害者の日に合わせ絵画の作品出展(西湘地区と神奈川県)

病棟クリスマス会参加(病棟主催)

  d.家族のもとへの外泊

 正月と5月の連休と8月のお盆の時に、いずれも2、3泊程度家族のもとへ外泊してい る。次女一家がAさんの家に同居し、次女の夫が外泊の介助を一手に引き受けてくれて いる。外泊に関してAさんは「2泊ぐらいが家族と私の両方にとって一番いいんじゃな いでしょうか。長くても迷惑がかかるし、2、3泊が私にとっても家族にとっても一一番良 い期間だと思います」と述べている。Aさん自身は家族と共に長く過ごしたい心情であっ ても、重度のAさんの面倒を見る事は家族にとって大変な負担になるので、2、3泊が 限度であろうと、Aさんは家族の事を慮っている。だから家族のもとから早・めに病院に戻 っているのが実状である。

 二人の娘にはそれぞれ男の子の孫がおり、ある年の外泊時に孫たちは「おじいちゃん、

どうして歩けないの」と聞いたりした。その時、Aさんは「病気で歩けないんだよ」と答 えた。子どもなので本当の事は大人になるまでわからないだろうが、筋ジスという病気の 事を少しはわかってもらおうと考えている。

 ⑧小学校での講演

 2000年6月27日(火)10:30〜ll:30、静岡県G市の小学校で1年生から6年生ま

での全校生徒を集めて、Aさんの「福祉講演会」が開かれた。 Aさんは油彩と切り絵を持 参して展示してもらい、自らの病気とそれをどう感じ、どう生きてきたかを語った。1時

(20)

間の話だったが、子どもたち、その親御さんたちは真剣に聞いてくれた。あとから父兄と 子どもたちの感想文が送られてきたが、さらにはrAさんにお聞きしたいこと」として32 項目の質問事項があり、それに対してもAさんは以下の通り、逐一丁寧に返答すると共 に、子どもたちの感想文に書かれていた言葉に…人一人優しく返信を認めた。以ドにその 質問と回答を紹介する。

【Aさんにお聞きしたいこと】(質問事項とそれに対するAさんの回答)

1.おちこんだ時、心に残る励ましの言葉は何でしたか。(級外)

  ◆頸椎悪化の時、「たとえ手足は動かなくても見ること、話すことはできるでしょう。

   生まれてくる孫達の元気な顔を見てあげて…」。それまでは自分が辛く、落込み、

   自分の事しか考えられなかった。この言葉で「そうだ頑張ろう。頑張らなくては」

   と思いました。今の私の生き方は「失ったものを数えるより、今、出来ることを生    かそう」です。

2.お子さんやお孫さんとのふれあいで、とくにうれしかったことはどのようなことです

か。(級外)

  ◆二、三年前、五月の連休。外泊の為、迎えに孫達が来てくれた。訓練に行ってい    たので、「じじがいない」と泣き、涙を浮かべて訓練室へ迎えに来たこと。

   孫からの手紙「じいじ大丈夫。桜咲きましたか。っくし見ましたか。たんぽぽ見ま    したか。ぼくはまだ見てません」。返事はしっかり出しました。

3.生活していてどんなご苦労がありますか。(6年)

  ◆①家族の健康、②外出・外泊が…人では出来ない。車・介助者の都合。故に簡単    にできない。

4、どんな絵を描かれますか。絵を描く時、どんな苦労がありますか。また、作品の数を 教えてくださいD(6年)

  ◆風景・カレンダーや写真。静物 バックの色・模様、人物 むずかしい。

   手を台に乗せて…。大きい絵は逆や横に…。描く事に集中。達成感は喜びに…。

   作品数 ジャイアンツの松井選手の背番号と同じ。五十五枚。

5.後悔していることはありますか。(6年)

  ◆子供の頃、もっと勉強しておけばよかった。都市名、歴史上の人物、漢字など…。

6.どんなことが楽しいですか。(6年)(1年)

  ◆散歩は好きです。病院のグランドからの景色。ラジオを聞いたり友達といっしょ

一174一

(21)

7.

8.

9.

 だったり…。

病気になった時、どんな気持ちでしたか。(3年)

◆「訓練を頑張ってしよう」。でも最後には病気の恐れを知りました。

 家族と暮らせなくなり、会社も退職。歩くことも出来なくなった。淋しくもあり、

 辛かった。

いつもどんなものを食べていますか。(3年)

◆普通食(ご飯・うどん・そば・ラーメン)。毎月、誕生会「寿司」。本人にはバー  スディカード付

毎日どんなことをしてすごしていますか。(3年)(2年)

→・学校と同じ。訓練(PT・OT)の時間。月は午後絵の指導。火金、午後風呂。空き  時間は絵(自主)。車椅子乗車は九時半頃〜三時少し前。あとはベッドh。休養、

 手紙、クイズ、次の準備。

10.お風呂はどうして入っていますか。(3年)(2年)(4年)

  ◆風呂用ストレッチャーでベッドから風呂場、洗ってもらい、寝台ごと上下する湯   舟へ。次の人が洗い終るまで。着替えは看護部さんの介助です。

ll,自分でできること、一..一人では困ることは何ですか。(3年)

  ◆手の届く範囲、引掛ける棒で遠くの物も取ることできます。床などに落し物(紙   類)、道路の段差、障害物があると困ります。

12.トイレはたいへんですか。(2年)

  ◆トイレではできない。大便はベッド上で便器。看護婦さんが介助。

13.ふだん何をしてすごしていることが多いのですか。(2年)

  ◆9の回答に同じ。

14.車いすにのっていて(電車の中で)困ったことや良かったこと、うれしかったことは なんですか。(6年)

  ◆車椅子に乗ってから電車に乗ったことなし。

15.生活するときにどんなことが不自由ですか。(3年)(4年)

  ◆鼻をかむことができない。降車後、急用などできたとき。

16、何才からその病気になってしまったのですか。(3年)(2年)(4年)

  →昭和59年、16年前、47才の時判りました。

17.物とかはもてるのですか。(3年)

(22)

  ◆身のまわりの物は大体持てます。

18.寝るとき、おきるときは、どうしていますか。(2年)

  ◆電動ベッドを使用。手元のボタンで寝たり起きたりできます。

19.今一番楽しいこと、悲しいこと、やりたいことは何ですか。また、行ってみたいとこ ろ、会ってみたい人についても教えてください。(4年)

  ◆楽しい事。家に外泊で帰る時、学生さんと外出の時、行事(花見・花火大会・

   コーラス演奏会)

   悲しい事。ll・15・3

   行ってみたい処。東京ドーム 巨人戦    やりたいこと。車の運転

20.今まで一番辛かったことは何ですか。(4年)

  →病気で働けなくなったこと。歩けなくなったこと。

21.絵をどのくらい描いたんですか。また、どんなことを考えて描いていますか。(4年)

  ◆4の回答に同じ。

22.さんぽは好きですか。(4年)

  ÷6の回答に同じ。

23.食事はどのようにしているのですか。(4年)

  ◆テーブルの上に台を置き、腕を乗せて、自分で食べる(外食は介助です)。

24.着替えはどのようにしていますか。(4年)

  ◆10の回答に同じ。

25.健常者と同じように生活するための工夫はありますか。(4年)

  ◆訓練の先生や看護婦さんと相談して、自助具を使うこと。食事の台、引掛けの棒、

   絵の時の台、ファスナーにひもをつけること。

26、絵を描くことはたいへんではないですか。(5年)

  ●4の回答に同じ。

27.電動車椅子はどのくらいの値段ですか。(5年)

  ◆手動車椅子9万〜。リクライニング19万。電動車椅子45万〜。ヒ下できるもの90    万。+改造費(使う人に合わす)私の場合95000。

28,子供のころはどんなことをしているのが好きでしたか。(4年)

  ◆外で遊ぶこと。川で魚を。夏は虫取りや海。テニスボールで三角べ一ス野球など。

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野球が好き。6年生の時、校区内試合 優勝したことも。遊ぶことは積極的。勉強はあま り。でもコツコツ型。おとなしい子供かな(絵も上手ではなかった)。

2g.どうして歩けなくなったんですか。(1年)

  ◆「筋萎縮症」という病気が進行した為(筋力が弱くなる)。

30.今何才ですか。(1年)

  ◆63才(昭和12年生まれ。うし年。祖父・祖母と同じ位かな)。

31.どんなごはんを食べていますか。(1年)

  ◆8の回答に同じ。

32.どんな治療をしていますか。(1年)

  ◆力が落ちないようにリハビリ(訓練)をしています。薬はありません。ifiL MRが細    くなるので、流れをよくする薬を飲んでいます。

 ⑨現在の心境

 病気になり、気がめげた時の立ち直りの秘訣はとにかく「没頭する事である。目の前の 事に」。必要に迫られてやる事を見っけ、それに没頭する事が大切である。遠い先の事は 考えず、今必要に迫られた事をやる。だからテレビをぼおっと観たりする事はしない。テ レビはベッドの横に置かなければならず、顔を横に向けないといけないので、テレビは置 かないようにしている。替わりにラジオをイヤホンで聴いている。

 病気は進行性なので、当然出来なくなる動作も出てくる。その際、「出来なくなってし まった」と気持ちが負けてしまわない事、逃げ出さない事が大切である。その時は泣いて もいいが、諦める事なく、どうしたらそれに替わる動作が可能かと考え、実行して頑張る 事が必要。だから、「人は上を見たらきりがないし、下を見てもきりがない」という諺の ように、不服は言うまいと心に誓って生きている。

 最近は進行はなだらかになっているように感じるが、病気がもしもっと進行し気切(気 管切開)しなければならない事態になったとしても、気切は嫌だから尊厳死を考えている。

勿論家族の事も考えてはいるが、そんなにまでして生きていたくはないと思う。とにかく、

あまり先の事を考えずに、今出来る事を精一杯頑張ってやろうと心がけている。

(24)

3.結果〜病気の進行に伴うAさんの心の軌跡(表9、10参照)

 Aさんの個人歴の重要な箇所の要点を抜き出し表にしたのが表9である。さらに、各要 点毎に共通の内容同士くくり、凡例として色分けし、その心の軌跡をカテゴリー化すると、

①〜⑳の20のカテゴリーに集約出来た。これはさらに1)〜7)の大カテゴリーに分類 された(表10参照)。

 これが結果として筋ジスの病気の発症と進行に伴うAさんの思いの継時的変遷と軌跡

を示していた。

 以下にその概略を大カテゴリー別に述べる事にする。

1)互助

 Aさんの生まれ育った環境は貧しいながらもお互い助け合う扶助精神に富む土地柄だっ た。従って、Aさんも小さい頃からまず他人の事を第一に考え、助け合う事を当たり前と する村落共同体で過ごし、それがAさんの性格や行動規範を形成していった。また、母 親はどんなに貧しくても、希望を失ってはいけない事を教え、後々、Aさんが筋ジスの病 気が進行して精神的に困難な状況に直面しても、絶対に希望を捨てない素地を形作ってい ったと言える。

2)不安

 そんなAさんが30歳代にさしかかって、少しずつ歩き方がおかしいと感じ、かつ他人 も「足をどうされましたか」などと指摘されると何となく不安が募った。

 47歳の時、筋萎縮症の診断を受けた。ショックだったが、一方では「どうか誤診であ ってほしい」と半信半疑であり、訓練をすれば治ると信じていた。

 しかし、現実にはどんどん進行し、休職して自宅で訓練していても一向に改善しないば かりか、周囲の目も気になり、劣等感を感じるようになった。ストレスもイライラも増大

し、惨めで情けなく切ない日々が続いた。

3)病気との空しい闘い

 温泉病院に入院し本格的に訓練を開始した。PTでは猛練習に励んだが、結果は思わし くなく、疲労が蓄積していった。しかし、現実は厳しく、やがて歩行が困難となり、車椅 子の状態になってしまい、落ち込む。

4)張り合いと家族の支え

 一一方OTでは今までの人生では取り組んだ事のない革細工に挑戦し、創作し、工夫を重 ねて作品を製作し、それを家族にプレゼントしたり、文化祭に出展して優秀賞を受賞した

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りして、病気ばかりに眼がむいていた自分が生きる甲斐がある活動に関心と心が向くきっ かけとなった。さらに、Aさんの心を支えてくれたのは家族の存在だった。娘の結婚式に

ささやかな祝いをしたいと祝い膳を作ったりして家族との絆は深まった。家族がいたから 家族のために出来る事を工夫して生きようと考え、それが転機となった。

5)生きがい

 箱根病院に転院し、そこで他患者のために出来る事は手助けし共に生きようと決意した。

そして、院内での俳句や油絵や切り絵の活動を通して、時間を有効に活用し、充実した生 活を踏み出す。その事は満足感や幸せを感じるようになり、絵画展で多くの人に出会った 事が感激と明日への希望と与えてくれた。

6)危機と決断

 そんな中、57歳の時、頸椎ヘルニアになる。あまりのつらさに心は動揺し、万一 の場 合は死も覚悟した。しかし、妻の支えもあり手術しない事を決意したら、心も落ち着いた。

7)今に没頭

 こうして前向きに生きるようになると、時間を有効に使って独創性と創造性の溢れる活 動に没頭するようになった。今出来る事に精一杯取り組み、集中して生きる。その達成感 は喜びになり、明日への活力になった。

(26)

表9Aさんの逐語録の重要な事象部分[]の要点

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幼少の人格形成に寄与した事       人生への向き合い方 ネ       ・家族

a気の進行とその時の心身の状況     油絵 v細工       切り絵

一180一

(27)

表10 Aさんの病気の進行とその時々の心の軌跡のカテゴリー仕

大カテゴリーの番号とその表題 カテゴリーの番号とその表題

1)互助 1 しさと け合い

謦」り

2)不安 ③病気の前兆と不安

C半信半疑 D劣等感 E不安増大

F切なさ

W八つ当たりなし 3)病気との空しい闘い 9訓練過信

フ寂しさと弱気 P1絶望感 4)張り合いと家族の支え ⑫OTの楽しみ

P3家族の支えと決意

5)生きがい ⑭充実感による喜び

P出会いと明日への希望 6脆機と決断 1心の葛藤と動揺

P の支えと決断

7)今に没頭 18独創性と満足感

R家族への思い

@△一 る

一181一

参照

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