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ドキュメント内 学位の分野 教育学 (ページ 86-134)

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       記豪∠4《Aさんとの会話の記録》

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一これからAさんの病気の事や病気になった時の気持ちなどに関してお伺いしたいと思い ますので、よろしくお願いします。まず、小さい時はどうでしたか。特に歩きにくいとい

うような問題はありませんでしたか。

「小さい時から普通に育ってきました。特に変わった事はなかったです。子どもの時は、

男の子がそうであるように、野球やソフトボールなどをやっていました。かけっこに関し ては長距離は苦手でしたが、短距離走は普通だったと思います」

一学校を卒業されてから、本に載っていた沼津市校外の会社に就職されたんですか。

「昭和28年、ちょうど15歳の時、中学を卒業してすぐ市内では有名な国産電機に就職し ました。働いていたのは昭和28年から39年ll月までです。その当時、給料は50001 ilも もらえ、とても人気のあった会社でした。東芝でさえ、当時4500円の給料で、それを遙 かに凌いでいました。自分の学校からも10人ぐらい受験しましたが、私一一人しか受から なかったです。その年は12人の新入社員がいましたj

一じゃあ、Aさんは成績が良かったんでしょうね。

「そんな事はありません」(ちょっと微笑む)

一その国産電機という会社で何をされていたんですか。

「国産電機という会社では、私は主に製図の仕事をしていました。25歳で結婚し、家を

建てて、そこから会社まで自転車で通ったものです。会社は家から10kmぐらい離れてお

り、自転車で40〜50分かかりました。そこでll年働きました1

一そのあとはどうされたんですか。

「昭和39年、27歳の時に、静岡県トラック協会(沼津支部)に転職しました。(昭和39

年ll月〜昭和61年3月)。今度は沼津市内に職場はあり、家から自転車で15〜20分ほ

どだったので、前に比べて通勤が楽でした」

一雨の日はどうされたんですか。困りませんでしたか。

「雨の日は傘をさして出勤しました。特に困りませんでした」

一トラック協会のお仕事は内勤が主でしたか、それとも外回りもありましたか。

「協会の仕事は内勤と外勤の比率が6対4か7対3の割合で、内勤が多かったです。外勤

は主として車で回っていました」

一それからご本に書かれているように、昭和59年8月に発症するまで特に変わった事も

なくお元気だったんですか。

「はい、そうです。昭和44年にはバセドー病を患い そのほかは取りたてて問題はありませんでした」

、東京の病院で手術をしましたが、

一不思議ですね。若い時には全くなんでもなかったのに。

「ただし、徐々に筋力は落ちていたようで、だんだん階段などが大変になってきました」

一私の父の会社にも同じような方がいました。その方は通勤の時、階段などは手すりにっ かまらなければ昇り降り出来なくなり、歩き方も不安定で仕事をするのにも大変そうだっ たと、父が夕食の団簗の時などに話していました。当時、私は大学生で、それほど気にと めていませんでした。また、そんな病気の事は全く知らなかったので、どうしてそうなっ てしまうのか、素人目にはとても不思議でした。

一そして、昭和59年に発症したんですね。

「はい。昭和59年、47歳の時、発症しました。ちょうど長女17歳、次女16歳の時です」

一トラック協会でのお仕事はどうでしたか。

「生活は残業もなく、寄り道もしないで家に帰りました」

一お酒は飲むほうでしたか。

「週末の士曜日に妻とビールー本を二人で飲む程度です。妻はコップ・杯だけで、私が残 りを飲みました。コップ3杯ぐらいです」

一新婚の時立てられた家は広かったのですか。

「家の建坪は15坪程度の平屋です。庭は60坪あり、日曜日には庭の植木の手入れに生活 は精を出していました。野菜よりは庭木が中心です」

一ビールを飲む時は、一杯やりながら巨人戦を観たりしたんですか。

「r・ども達が中高生の頃は、ひいきの巨人戦の野球を観たかったんですが、娘たちは8時 からある ヒットパレード を観たいため、チャンネルを取られてしまい、観る事が出来 ませんでした」(微笑む)

一奥さんは共働きでしたよね。そうすると子どもさんが生まれてからは、奥さんはどうさ れたんですか。

「妻は子どもが出来てから、仕事をパートに替え、子どもが大きくなってからII三職員に切 り替えました」

一トラック協会のお仕事はどんな内容でしたか。

「トラック協会はトラックの運転手のため、春秋の日曜日の午前に講習会を開催していま したので、日曜日が出勤となり、休みがつぶれてしまう事も多かったです。とりわけ4、

5月は忙しかったです。年間で24〜25日しか休みが取れない年もありました。春秋の講

習会はその後春だけになりました」

一そのトラック協会には何人ぐらい勤めておられたんてすか。

「トラック協会の本部には15人、支部には3人です。静岡県内には9支部ありました」

一その後、東大病院に検査を受けに行ったのですね。

「はい、そうです。東大の検査では、学生たちのモルモットになったように感じ、いやだ ったのですが、病気が治るものなら我慢出来ると思っていました」

一Aさんを囲んで色々検査するのを学生さんたちは見ていたんですか。

「パンツ]枚になって写真を撮られたり、色々な動作をさせられたりしました。その後、

妻が入院の手続きをとってくれたものとてっきり思っていたのですが、なかなか人院の案 内が来ないので遅いな、と心配していました。ところが、実は妻は私がモルモットにされ るのが嫌だったので、実際は手続きを取っていなかったんです。その事を後で知りました」

一奥さんはきっとAさんの事をとても考えていたんでしょうね。

「そうかもしれません」

一それからは。

「その後は、昭和59年10月に静岡市内の総合病院を受診しました。勿論、東大での検査 結果の情報も伝えられており、更に検査する事になりました。そして装具(短下肢装具=

SLB)を装着して歩く訓練を開始しました」

一その病院の後はご自宅で治療に励まれたんですね。

「はい。トラック協会を休職し、自宅で訓練を始めました。でも、病気の事が頭から離れ ませんでした。どうか誤診であってほしいと願っていました。そうこうして .一ヶ月間家に いました」

一休職期間はどのくらいありましたか。

「1年6ヶ月ありました」

一その間は経済的に大変だったのではないですか。

「働いている時、保険に入っており、休職中に傷病手当をもらっていましたので、経済的 には困っていませんでした。また、家のローンも既に返済しており、娘たちも働きだした ので、心配はありませんでした。妻もその頃、正社員として既に勤務していたので、私が 休職しても何とかやっていけました」

一その後は。

「自宅休養から伊豆長岡の順天堂大学付属病院に昭和59年II月入院し、そこでPTの訓 練を受けました。しばらくして修善寺の中伊豆温泉病院に転院し、そこでPT・OTの訓練

を受ける事になりました」

〜中伊豆に転院したのはいっ頃だったんですか。

「昭和59年12月です」

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一という事は、箱根リハビリ学院の第…期生の首藤君がちょうど昭和59年3月に卒業し、

4月から中伊豆温泉病院に勤め始めたので、就職後半年たった頃という事になりますね。

「中伊豆1温泉病院では首藤先生に担当していただきました。OT訓練では和紙のちぎり絵 や切り絵や革:細工をやりました。仕事をしていた時は、庭木の手入れ以外取りたてて趣味 らしい事はしていなかったのですが、OTではいろんな事に興味をもって挑戦してみまし た。特に革細工がとても気に人りました」

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゜謝く内か感白院すり面病でた︑°点つにたたらちしつもうまなてるきに見すてきに作出好人製がにををい﹂特の品合たがも作りしろたな張まこつ々とりと作色︑あなでてうがんましよいど今をげ合一﹁工あり

一という事は、病気についてはもう納得されていたんでしょうか。

「誤診であってほしい、という気持ちはもはや諦めました。実際cpk値が高かったんです。

検査の前日なんかには、訓練を休んでみたり、反対に運動して疲れたりしてみて、検査の 値がどう変わるかと思ったんですが、全然変わりませんでした。昼間はOTで作業をやっ て気を紛らわす事が出来ましたが、夜寝ていると病気の事を考えしまいました」

一そうしたこころの変化の転機やきっかけは何だったのでしょう。

「それは、家内と子どもとの接触はどうするのか、家族のために作って喜んでもらえるか、

を考えていくようになった事がこころの転機になったと思います。つまり、家族の支えが あった事がこころの支えになったのではないでしょうか。例えば、娘が自動車の仮免を取 った時、既に免許証がある自分が車の横に座って運転の練習をしたり、中伊豆温泉病院に 面会に来てくれた時、娘が作ってくれたおにぎりを持って病院の庭で一緒に食べたり、妻 も職場の理解が得られ、上司の方も見舞いに来てくれたりしました。そういう、家族の支 えがあったからではないでしょうか」

一それは良かったですね。ところで、中伊豆温泉病院は、確か脳卒中とリウマチ患者が中 心のはずですよね。どうして筋ジスのAさんが入院されたのですか

「はい、そうですね。後から考えてみると、私みたいな病気の者は一人もいませんでした。

私は脳卒中患者とよく一一緒に裏山の方へ歩行訓練に行ったりしました。それらの患者たち も私を励ましてくれました。とにかく、暇な時間を作らないよう心がけました」

一Aさんは元々どんな性格だったのですか。

「性格は元々内向的でしたし、どちらかと言えば耐える性格だったと思います。そして、

仕事をしていた時、頼まれれば自分の仕事を放っておいても人のためにやっていました。

いつもそう心がけていました。このあいだも看護婦さんに用事を頼んだら、 ちょっと待 って と言ってなかなか来てくれない事もありました。勿論、この病院の看護婦さんたち は、忙しいのはわかりますが、ちょっとの事を頼んでも後回しされる事がよくあります。

婦長さんにその事を話しても、なかなか改善されないし、反対にその看護婦さんに恨まれ る事があります。致し方ないのかもしれませんが、自分が仕事をしていた時の事を考える と、どうして人のためにやろうとしないのかな、と思います。人のためにやってあげたり、

人に頼りにされたらいいなと思うんですが……。勤めている人は、頼まれたらうれしいの ではないかと思うんです」

一Aさんのそういう考え方はどこから来ているんでしょうか。

「頼まれたらそれを優先するという考え方と行動は、自然にそう思ってしているだけです。

自分の親もそのように自然に行動していたので、私も当然な気持ちと思って実行していた

までです」

一そうですか。でも実際はなかなか出来ない事ですね。

「そうでしょうか」

一ところで、ご兄弟は何人いらっしゃいますか。

「6人兄弟で、私は三番目です。順序は女男男男女女の順で、次男です」

一ご家族の方は、Aさんが働けなくなってから、働いていたんですか。

「Pどもも妻も裾野市にあるトヨタの研究所に働いていました。妻は現在は働いていませ ん。C型肝炎を患っており、疲れやすいようです。そのため、このごろはあまり病院に面 会に来られなくなりました」

〜今日は時間ですので、この辺で終わりにしたいと思います。どうもありがとうございま

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