本論文ではこれまでの章で、先天的であろうと後天的であろうと、重度の難病に罹患し、
それと対峙して生きていかざるを得ない障害者の人生にっいての検討を加えた上:で、筋ジ スという難病に向き合う成人患者の生き方を分析し考察を加えてきた。筋ジスの「病む苦 しみ」を背負い、「修羅」場を経験した人間が、かけがえのない人生を歩むためにはいっ たいどのような要因や契機が必要だったのか。また、その人生から私たちが学びうる教訓 は如何なるものがあるのだろうか。以下に第1章・第2章・第3章から学んだ知見を織り 交ぜながら、第4章の二人の筋ジス成人患者の事例から得られた事実と、本研究の4つの 課題に対する解答とを結論として詳述する。
1.第1章・第2章・第3章の総括
a.第1章のまとめ
筋ジス成人患者の多くは国立療養所に入院し、そこを「終の棲家」として終生過ごさざ るを得ない事もあり、その人自身が自分の人生を真摯に考え、主体的に人生を切り開いて いく生き方の有りようと質が問われる。しかし、これまで為されてきた筋ジスに関する研 究と筋ジス者自身が著した出版物は、その6割を占めているデュシェンヌ型の小児が主で あり、厚生労働省の研究班(筋ジス第4班)の研究成果報告書を詳細に分析しても筋ジス 成人患者の研究は殆ど皆無であった。とりわけ、筋ジスの総合的研究として長い歴史のあ
る筋ジス第4班の研究手法も、国立療養所の医療関係者が如何にしたら筋ジス患者に援助 を提供し、その生きがいやQOLを向上させるかに終始し、患者自身がその内面の思いを 吐露した事実を分析して研究を行なった例は未だ見当たらない。
b.第2章のまとめ
重い障害を背負った人にとって、「人間全体の立ち直り、生きる力の再獲得」となるの が障害受容である。これは喪失体験という苦難の状況を克服して辿り着いた到達点であり、
その結果、「障害者」であった自己を克服し、一一人の成熟した人間として再出発出来る。
その場合、受傷ないし発症前にたとえ生きがいを有していようとなかろうと、一一+旦障害 者になったならば、苦難の状況を克服し、自分の人生を生き抜くためには生きがいが必須 の条件となる。確かに、重度の障害者になればなるほど身体機能は制約されてしまうが、
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悲嘆と絶望のどん底で生きる意味と価値に気づき、試行錯誤と専心しての追求を通して、
全く新たに生きがいが創造され、健康時には比較出来ないほど創造的、芸術的、思想的に 素晴らしい活動を成し遂げる事が可能となる。この生きがいの創造により、その障害者の QOLは高度に高められる。
一一方、障害者自身の苦悩と克服の道のりは、同時にその親、特に母親の障害受容の道程 とも言える。そして、その過程を通して母親自身も成長し、障害児である自らの子どもの 生きる意義に気づき、やがては広く社会の平和や福祉のために奉仕的な活動をするまでに なる。つまり、障害者もその親も障害を契機にして深く自分の人生に向き合い、その苦し い道のりを経るに従い、人間的に成長し、生きていく事の意味合いに気づくのである。
c.第3章のまとめ
青年期や成人期に発症する筋ジス者は、それまでは全く健康で人生を歩んできており、
健常人と同様に教育や結婚や就職を経験してきた人生の途上で発病し、生活と仕事が困難 になって、すべての社会的・市民的財産を放棄して国立療養所に入院する。その後はよほ どの経済力や社会的地位がない限り、復職困難・経済面の問題・家屋改造の必要性・役割 喪失・外出と外泊の制限、といったハンディキャップの問題の解決は断念せざるを得ない。
従って、身体機能は病気の進行に伴い確実に衰退していき、ADL機能も重く障害され ていけばハンディキャップの問題が大きく障壁として患者にのしかかってくる。それ故、
病院内で新たな生きがいや張り合いを見つけて意義と意味のある生活を見つけない限り、
漫然とした惰性的な生活に埋没してしまう危険性がある。
2004年4月に国立病院が独立行政法人に移行したが、国は依然として筋ジスを重要な 政策医療の一つの疾患と位置づけ、国が責任を持って重点的に取り組む、という方針には かわりはないものの、医療制度が「包括医療」制度になったのに伴い、病院内における筋 ジス医療の質が低下する危険性を孕んでおり、個々人の「疾患と共生する人生への支援」
とどう関係づけていくかが21世紀の課題となってくるものと思われる。
2.課題に対する解答
〈課題1>進行性の病気とわかった時、ないし告知された時、筋ジス患者はどのように感 じ、どのように処したのか。
Aさんの場合、心の中では薄々異常だと感じてはいたが、それを認めたくないという心 理が働き、原因を他に転嫁し、「きっと誤診である1と白分を納得させようとした。この ように事実に眼を向けないで、病気を悪化させる訓練を過度にしてしまい、結果的に追い っめられていく事になる。そして、病気と真に向き合うまで回り道をしてしまう事になっ た。しかし、こういう感情の持ち方はAさんが特殊なのではなく、むしろ普通の人の一一 般的な行動様式であると言えるだろう。誰もがそのように考え、行動しやすいと思われる。
一方、Bさんの場合は、病気について調べ、その重大さにショックを受けたが、治らな いものは仕方がない、ときっぱりと諦め、現実を直視し、生活の基盤作りに眼を向ける事 になった。こういう割り切り方と行動が可能となったのは、現役時代に会社の総務課での 仕事が役に立った。つまり、事実はどうしようもない事なので、先ず事実から出発し、現 実的になしうる最善の方策を選択する方向に視点を向け直した。
人間は出来れば最悪の事態を回避し、それが自分の身に降り懸かる事を避けたい、ない し逃げたいという心理が働く。それは生命の生存欲求とも言えるだろう。事実を認めたく ない場合、普通はAさんのように安易な解決策に逃避していきやすい。ちょうど癌の告 知をするかどうかという重い命題と似ている。癌の場合は本人に告知しないで、本人は知
らないまま、死を迎える事例もあるが、癌を本人に告知し、本人は初めはショックだが、
残された人生と真摯に向き合い、有意義な生き方(と死に方)を選択する事のほうが、本 人にとっては意義のある人生であると思われるのと同様に、難病という現実を告知されて ショックは確かに大きく、その傷口は深く切開されたが、それがきっかけとなり現実に向 き合い、生きていく方向を確かにし、速やかに行動する契機となりやすい。
この宣告や告知は、いわば「権威のある宣言」ωとも言えるものであり、患者の心の 傷口を広げ、絶望の淵に落としめるが、それが現実を直視し、立ち直る契機を与えてくれ た。Bさんの場合、それは上田医師であり、Aさんの場合はN温泉病院でのPTであった。
〈課題2>進行性の病気を受けとめ、克服していく要因や契機は何なのか。
Aさんの場合は紛れもなく、家族の存在と革細工であった。「誤診であってほしい」と、
事実から、いわば逃避していたAさんは、筋ジスだという事実とそれを認めるわけには
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いかないという心理との間の乖離に悩み、やっている事が一向に病気の改善に結びついて おらず、むしろ悪化の一途を辿っていた。そのため、生きる意味も価値も失いつつある時 に、革細工をやってみてその作業に喜びや創意工夫という創造する営みの意義を感じ、か つそれが家族や周囲の者に認められ、感謝され、難病に罹患しても自分の価値と役割は全 然失われていないと悟るきっかけとなった。この時点でやっとAさんはBさんのように 現実に真摯に向き合う事になった。
Bさんには家族の支えも創造的な営みも皆無であった。Bさんは社会人の時、人との交 わりを介して仕事を遂行していた経験から、進行性の病気を身にかぶった自分が、どう世 の中に処していけばいいかと考え、見ず知らずの療養所に入院した後、居場所をまず確保 し、生活の基盤を築いてから、周囲や他者と交渉や連帯・連携しながら生きていこうとし た。勿論、あくまで人には依存しないで、自立して生きていく、というのが若い頃から身 につけた処世術であり、身の振り方であり、それを実践したまでだが、現実を見据え、筋 ジス者にとっての適切な方向性を指し示し、Bさんの考え方に大きな影響を与えたのは上 田医師の助言であった。その助言が決定的な契機となった。
〈課題3>その克服の道筋はどのような受容の過程を経るのか。
Aさんは第4章第1節の考察で分析したように、以下のような障害受容の道筋を辿った。
つまり、第…段階 疑念と不安定期(半信半疑期)、第二段階 ショック期、第三段階 回復への期待と努力期、第四段階 悲嘆と絶望期、第五段階 新しい目標の設定期、第六 段階 生きがい期の6段階であった。代表的な上田敏(2)の障害受容の段階は第…段階 ショック期、第二段階 否認、第三段階 悲嘆、怒り、不安、第四段階 適応、第五段階 再構成の5段階である。上田のモデルは脳卒中など麻痺が目に見える形で明らかであり、
かつ発症後に障害が概ね固定する疾患を想定しており、その場合には比較的該当しやすい が、筋ジスのような徐々に進行する疾患の場合、Aさんのようにだんだん立ったり歩行す
るのが困難に感じるようになっても、初めはそれを運動不足のせいと思ったり、Bさんの 例では脚気と疑ってかかったりと、疑心暗鬼である場合が殆どである。また脳卒中のよう に、明確に片側の手足に麻痺が出現し、他側は正常であるといった、はっきりとした障害 像が理解出来る場合、患側の機能訓練と健側のADL機能向上で、自宅や社会へ復帰して いく可能性は高い。事実、Aさんが入院していたN温泉病院では、リハビリ訓練を終え て退院する脳卒中患者を、Aさんは玄関で何人も見送った。
従って、初めの「誤診であってほしい」という半信半疑の時期に間違って努力したため、