人は誰でも難病に罹った時、大変なショックを受け、落胆し人生を悲嘆する。そして、
その宿命的な命を受け容れ、その後の人生に生きがいを持ちっっ前向きに生きていくのは
「生きる意味」への覚醒{1)を必要とするのは勿論ではあるが、その時でさえ相当な苦悩 の道筋を経なければならないだろう。何よりも、自分にとって残された時間がどのくらい あるのか、それは進行性(悪性)のものか、症状が固定し悪化しない病気か、など色々な 因子によって左右される。いずれにしても、人により、病気により、あるいは障害により、
そのショックの程度と難病への向き合い方は様々であり、事例1のAさんのように、絶 望のどん底を経験した後、家族の支えや芸術・OTなどの創造的活動との出会いが人の生 き方を変えた場合もあるが、これはむしろ幸運な例であって、どの障害者も、どの神経筋 難病の患者も家族に支えられ、かつ、それらの諸活動を通じて生きがいをまっしぐらに進 んでいけるという経験をするとは限らない。
また、いくら家族がいても、難病に罹った身内を親身になって世話しない(出来ない)
場合や、創造的な活動が提供されても何ら関心も興味も示さない患者も有り得る。筆者の 勤務する国立療養所に入院している成人の筋ジス患者を見ていると、支えてくれる家族も おらず、芸術的な活動に参加しない場合が長期に入院している患者には多いように筆者に は思われる。そのような状況の時に、成人の筋ジス入院患者はどのように自らの難病に対 処するのであろうか。また、幸いにして前向きに生きていく事が出来た事例があった場合、
その決定的因子ないし契機はいったい何であろうか。
人間は特に「気」にかかっている事柄に「気」を奪われてしまう事がある。良い意味で は、いわば「精神の集中」であるが、反対に事態が最悪な場合は「気」もそぞろになり、
その不運・不幸に「とらわれ」、目の前の、生きていくという現実に適切に対処出来ずに 自らの進むべき方向性を喪失してしまう。従って、重度の病気や障害を不幸にして背負っ た場合の「心の目」とも言うべき「気持ち」の向け方と生きる意味への気づきの有無によ つて、事後の生き方の有りようと方向性はかなり違ってくるに相違ない。そのよい例が第
2章第2節で示した星野富弘の事例であろう。
この節では、支えてくれる家族もおらず、病院内で芸術的・創造的な活動をしていない が、筋ジスという難病を割り切って前向きに生きようとしている事例を取り」二げる。
1.事例概要
lg34年1月生まれの男性Bさん。2004年1月に古稀を迎えた。診断名は遠位性ミオパ チー。障害等級は1種1級。高校卒業までは札幌で育っ。東京の大学を卒業したあと社会 人として働いていたが、歩行が困難になって仕事を諦め退職。その後都内の病院に半年ほ
ど入院したあと、神奈川県内にある国立療養所箱根病院に1982(昭和57)年、48歳の時 に転院し現在に至る。神奈川県筋ジス協会会員。独身。
2.個人歴(生育歴と現病歴を中心に)
面接で聴取したBさんの[記録B]を基に、生い立ちと現病歴を個人歴の流れに沿い、
かっ、その時々の心理・気持ち・向き合い方に焦点を当てて再構成した。
1)生い立ちから税金の徴収に明け暮れる税務署時代(〜33歳)
家は代々東京の出身だが、父親が北海道大学医学部で学び、そこを卒業したあと、札幌 の病院で医師として働いていた時、Bさんの母となる女性と知り合い、結婚。1934(昭和
9)年、札幌でBさんは生まれる。兄弟は妹1人、弟2人の4人兄弟。
母親は北海道の出身で、母方の家は今で言う教育委員会のような教育関係の仕事をして いた。父親は旧制の学制での明治学院を卒業して北大に進学した。そこで母と知り合った ようだ。父親は開業はせず、医局の指示で北海道内の病院を転々と回らされていて、当然 家族も引っ越しばかりだった。そんな転勤ばかりの父親を見て育ったので、子供は誰も医 者になりたいとは思わなかった(もっとも弟の一人は医学部を出て理学部に入り直し、病 理の仕事をしている者もいる)。勿論、Bさんもそうだった。
終戦後の1946(昭和21)年、12歳の時に旧制中学に入学。その後で学制が新制中学、
そして新制高校に切り替わる。おかげで旧制・新制中学と新制高校には合計6年間在学す る。高校生の時には野球や卓球などのスポーツをしていたが、2年生の時に結核のためか 肺浸潤になり、1952(昭和27)年に卒業したあと、北大を受験した時には健康診断に引 っかからなかったが、不合格だった。弘前大学を受験した時には今度は引っかかり、その 後2年間家でストマイという薬を服用して静養しながらゴロゴロして過ごす。
それが完治して54(昭和29)年、東京に出てきて中央大学法学部に入学。父親は浪人 の時に亡くなったので、親に頼らず自分でアルバイトをして学費と生活費を殆ど稼いでい た事もあり、大学の授業は殆ど出席しなかった。普通車の免許の他に大型車の免許も取り、
築地で運転手の仕事をしていた。余りに精を出して働いたためか、2年間も留年した。法
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学部だったという事もあり、当然在学中の3年生と4年生の時には、司法試験を受けたも のの駄目だった。27歳の時に無事大学を卒業。卒業してからは特に親しかった教授が大 学の行政助手に雇ってくれ、半年くらい大学に通っていたけれど、そのうちに行かなくな る。それでもアルバイトなどをしながら2年間司法試験を受験。しかし、これも不合格と なる。それで司法試験を諦めて国家公務員試験6級を受けたところ、これはすんなりと合 格した。6級というと、今で言うなら「キャリア」に近い身分の公務員であった。 元々 大蔵省を希望していたけれども、成績順に採用されるようで、大蔵省は駄目だったが、結 局国税局に採用される。6ヶ月の研修のあと、「配属はどこがいいか」と聞かれたので、
「生まれ育った北海道を希望します」と返答した。10月には転勤の辞令が出て、最初の 任地は北海道の1税務署になった。そこには課長補佐扱いで赴任する。
担当は税金の徴収の仕事で、出来るだけ税金を徴収する事に専念した。土地の関係者と の付き合いも多く、人間関係にも苦労した。仕事では人間を税金を徴収する対象にしか見 ないようになり、「どうしたら税金を徴収出来るか、取れる所から如何に取ったらよいか」
とばかり考えていた。当然、人間の悪い面だけに目がいってしまい、相手の顔色を見る、
相手の心を疑う、という生活だった。課長はキャリヤーだったが、実際に目星を付けた家 に徴収に踏み込むかどうかは課長補佐のBさんが決断を下さなければならなかった。踏 み込んだ所からは税金を取れるだけ取るが、全部取ったら潰れる場合もあり、出せるだけ に留めたり、今年はこれだけにし、後は来年に回したり、さじ加減をしなければならなか った。その点でも精神的に厳しかった。そして、そんな生活を続けていると精神的にまい ってしまった。
2年たって釧路や根室に短期間で次々に転勤。頻回に転勤する生活に嫌気がさし、中央 大学時代の同級生でP電気の会長の息子がちょうど北海道に遊びにやってきた時に会っ て、事情を説明し、「使ってくれないか」と聞いてみた。その結果、彼の口利きでP電気 に転職する事が出来た。33歳の時であった。
2)総務部で会社人間として猛烈に仕事に遭進したP電気時代(33〜40歳)
P電気に入社したら、その同級生からは「総務で組合対策をやってくれ」と言われる。
P電気は音響関係の会社で、当時日本にいた駐留軍が日本でP電気の機械を買って、それ を本国に持って帰り、それがアメリカで良いという評判になり、輸出が増えた。
当時P電気は所沢や川越に工場があり、組合運動が盛んで、Bさんは会社側の代表の一一 人として工場に乗り込んで、組合幹部とやり合い、賃上げ交渉を上手に収拾する事に腐心
した。賃上げ闘争は3、4日も続き、深夜までかかる事もざらであった。そのうち、どう すれば会社と組合幹部の両者を立てて収められるか工夫するようになる。うまく収拾する のに苦労したが、だいたい頃合いがわかるようになってきて、相手の顔を立てつつ、会社 としてもぎりぎり譲れる線があり、万事うまく収まるよう、かなり色々行なった。両者と も駆け引きや落としどころがあり、かなりあくどい事もした。組合幹部に.一杯奢ったり、
組合活動を切り崩して第二組合を作ったり、いわば体制側として会社の為に頑張った。当 時を振り返り、Bさんは「あんな仕事をずっとしていると、人の心の裏や醜い面を知る事 になり、決して人を信じる事が出来なくなりますね」、「それに、 俺は何をやっているの か と孤独を感じるようになりました。そして、心がすさんできます」と述懐する。
時は経済成長の時期で、静岡の袋井や山形に工場を建てる事になり、ヒ司と一緒にその 県に出かけ、県庁を訪れて担当者と折衝したり、色々な方面と交渉し、一[場を立ち上げた。B
さんたち人事スタッフがまず現地に行き、工場で働く何百人もの人間を集めたり、1年間 あれこれやり、稼働してから東京に戻るので、全部で2年間ぐらい現地に赴任する。工場 を造るとなると、莫大な金が必要で、現地のどの銀行に本社からの資金を一旦預けるかが、
現地の銀行にとっては最大の関心事だった。それ故、それぞれの銀行も凌ぎを削り様々な 攻勢をかけてきた。また、工場の建設に関わった業者に自分の家を建てさせた職員もいて、
この人は問題になり、結局退職せざるを得なくなった。Bさんはそういう攻勢や誘惑には 断固として臨んだので、業者にとってはやりにくい存在だったようだ。しかし、その事が 結果としてP電気でやってこれた理由だったと本人は言う。何しろ、Bさんは同級生だっ た会長の息子(当時は専務になっていた)のおかげで入社出来たので、普通の入社試験を 受けて入った者とは違い、その引け目もあり、人一倍頑張った。P電気はBさんのように
引き抜きや途中入社の人がかなり多かった。
周囲と自分に対するこの厳しさが会社では生き抜く力となっていたが、仕事上での女性 に対する接し方も同様の態度をとったので、職場で好きになる女性は出来なかった。Bさ んは「女性にも厳しかった」と、自分自身を振り返る。例えば、コピーの仕方が悪かった
りしたら、 こんなんじゃ駄目 と突っ返したりした。仕事の厳しさには男性も女性もな いとBさんは考え、かっ実践していた。
組合運動が一段落すると、Bさんの仕事は社員の福利厚生の向上が中心になった。その 後は公害の問題も発生し、その対応に追われたが、これは技術の問題ばかりでなく、法律
も絡んできて、会社としては、そしてBさんとしてはとても難しい問題だったので、苦
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