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日本西蔵学会々報 (54) 001根本 裕史「チベット中観思想における時間論の展開 : 「刹那」の概念を中心に」

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全文

(1)

ベ ッ

中観

思 想

お け る

根本

裕 史

1

問 題 の所

 時間の連続体とそ れを構成する不可分な極小点を め ぐるパ ラ ドッ クスは古今東西の 哲学者達 を悩ませ て き た難問であ り、 チベ ッ トの 仏教思 想家達 も ま た、 そ うし た問題につ いて様々な議 論を展 開 して き た。本 稿 は仏 教において時 間の最 小 単 位 と して立て られ る刹 那 (skad cig ma ) の概念に着目し、 そ れがチベ ッ ト中観思想史を通じて ど の ように理解さ れ て き た か を探るもの であ る(D。

 

既に筆者が論じ てい る ように(2)、ッ ォ ンカバ ・ロサ ンタクパ

Tsong

 

kha

 pa 

blo

 

bzang

 grags

pa

:1357− 1419) 以 降のチベ ッ ト中 観 思 想におい て時 間に関 す る議論と して 注 目 され るの は、 過 去の物 (’

das

 

pa

!zhig 

pa

)が結果を生み出す 能 力 を具え た 効 果 的 事 物 (

dngos

 po )であるか 否 か とい う議論である。すなわ ち、ツ ォ ン カバ は中観帰謬 派が 「効果的事物で あ る 」 とい う独特の理論を立て てい ると考 え た。そ れに対 し、タ クツァン ロ ツァーワ (sTag  tshang lo tsa 

ba

b

1405

)を始 とす他 宗 派学 者 達 は こ の ツ ォバ の見 解 を 厳 し く批 判 したの で ある。  一方、 ツォン カバ 以 前のチベ ッ トの 中観解釈におい て、時間に関す る議論の中心 を占めて い たの は刹那分割可能性を め ぐる問題で あ る。 カダム派の学者チャパ ・チュ ー Phya pa chos  kyi seng  

ge

:1109− 1169 )は中観作品Shar gsum stong  thun に おい て離一多性証因に基 づ く無 自性論証を解説 す る中で こ の 問題を取 り上げ、刹 那が不 可 分の単一体であ ることを否定 してい る。 中観の立場に おいて刹那の単 一 う事 実決 しことで はないが、 チャ パ の 時間論に はもう 一 特徴 。 それは、 彼が 中観派の刹那否定 の論理 を プラマ ーナ文献に おける刹那解釈の中にまで持 ち 込 んでい る という点であ る。

Tshad

ma  

yid

 

kyi

 mun  sel 等に見ら れ るそ う したチャ パ の見解は彼の弟子で あっ たツル トゥ ン ・シ ョ ン ヌセ ン mTshur  ston gzhon nu seng  ge:ca .115(

P1210

)に よっ て批 判 的に言及され、さ らに

ツ ル トゥ ン の下で論理学を学ん だサキャ 派のサ キャパ ンディ タ (Sa skya  

pal

dita

:1182− 1251)

によっ て本格的に批判 される。 サパ ン は

Rigs

 

gter

とその自註   に お い て 唯 識 説 観 派の時間論を批 判 し、刹 那 が 部 分 を 持たない 実在であるこ と を主張する の である。 だが、 サ パ ンの行なっ た批判は、

Rigs

 gterの註釈者達による若 干の コ メン トを 除い て は注 目 を集 め るこ とはなかっ た。そ して、ゲル ク派の論理 学文献や中観文献で は刹那の単一性を め ぐる問題 自体 があまり議論されなくな り、そ れに代わっ て 三時 (

dus

 gsum >の定義や、 未来 と過 去の存在論 的 位置づけ な どをめ ぐる問 題が注 目 を 集め る よ うになるの である。 一3 一

(2)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assoclat 二lon  for  工lbetan  St二udles

ベ ッ 中観思 想に おけ る時 間論の展 開 「刹 那 」 の概 念を中心 に一

 

本稿で は個々の主 張にっ いて詳 細に検討す る余裕はない が、 チャ パ やサパ ン を始め とする チ ベ の代 表 的 な 思 想 家 達が刹 那 をめ ぐる問題に対 して どの よ うなアプロ ーチ をし て き たの か を概論し、 これ ま で明ら か に されて こなか っ た思 想史の 一 と に した

2

 

ュ ー

 

周知の ように

2006

年に出版され た

bKa

 gdams 

pa

 ’i 

gsung

bum

(4>に は カダム派の学者達に

よっ て著 され た貴重 な 作 品 が 数 多 く含 まれて お り、こ れ ま で未解明であっ た チペ ット仏教黎明

期の実 態 を探る上で極めて有益である。 刹那の分 割 可 能 性 をめ ぐる議論はチャ パ

ュ ーキセ

の Sha・・

9

・um ・st・・

8

伽 ・(5)(

109

1

伍〉、・T・h・

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yid

k

・i・mun ・sel(6)(

70

め 伍)、 

Shes

rab ・’

d

zer(7)(

113a9

な どにられる。こ の内、 Shargsum  stong  thun に展 開される議論はマ チ ャ ・

チャ ン ュ プツ ォ ン ド (rMa  

bya

 

byang

 chub  brtson’

grus

:d.1185)の Rigs tshogs rgyan (8>

20b3

猛)に簡 略 化 された形で再登 場 し、一方、論理学作 品である後二者にお け る チ ャパ の見

解はツ ァ ンナクパ gTsang nag  pa

12c

.)の

Legs

 

bshad

 

bsdus

 pa(9)(

122b6

且)に お い て継承

される(10)。 以 下で は、カダム派の刹那解釈の源 流をな した と思 われ るチャパ の解釈にの み着

目 するこ とにし よ う。

t

Shar

 

gsum

 sfo π

9

伽 η

 

Shar

 gsum stong  thun は、中 観自立派の学説を重視した チャ パが 自 身の中 観 解 釈 を体系的に

記述 した 作 品である。 彼は同 書の後 半で離 一多性証 く空性論証を詳 細分 析 し 論証にお け る主 題 所属性 (

phyogs

 chos す な わ ち 「て の事物勝義と して数 性 と多 数 性 を 欠い て い るこ と」 を確立する中で刹那の問題を取 り上げてい る。 彼によれば、ヴァ ス バ ン ドゥ (Vasubandhu )の i 5碩 航

k

12

(11)にかれる極微論批判を用い るこ とで、諸々 の極 微から構 成 さ れる知 識 外 部の対 象が一と多の 自性を欠くこ と を指摘することは可 能で ある。し か し、空 間 的な制限を受けない 知が そ うであるこ と を、極 微 論 批 判に よっ て 論証す る こ と は で き な い。外界対象と知識と を含む一切の事物が空であるこ とを論証 す るた め に は、両者に共 通して 関 係 す る ものであ る 「時 間 」 にこそ 着 目 し、その単数性と多数性を否 定 せ ね ば な ら ない 。つ ま り、少な く と も チャパ に とっ て中観派の立て る離一多 性の理論とは、時間の単数性と多数性 を 否定すること を通じて一切の事物の空性を証明する理論に他 な らないの で あ る。

 

そし て、チャパ は全ての事物が刹那的存在で あること (

dngos

 

po

 tsam  

po

i

 spyi 

la

 skad  cig mas  

khyab

 

pa

じた後、 刹那が無際限 (thug myed )に分割さ れ得るものであること、言 い

換 え れば、刹那が複数の部分か ら構成さ れ て お り単数性を欠い た もの であるこ と を論証する。

彼は次の ような論証式を立て てい る。

skad  cig ma  

la

’ang  thog ma  

dang

 

dbus

 

dang

 

dla

 ma ’

i

 cha 

gsum

 

yod

 

pas

 khyab ste 

1

 snga  phyi

gnyis

 

kyi

 

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gnas

 

pas

 

khyab

 

pa

i

 

phyir

 nyin  mo ’

i

 

dus

 

bzhin

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Shar

 

gsum

 s’on8  th”n,

112

10

11

一4 一

(3)

ベ ッ ト中観思 想に お け る時 間論の展 開 「刹那」 の概念を中心に一 (主張 :)刹那ま た 、 必ず前中後の三部 分 を 有 す る。 (証因 :以 前 と以両者存在 すゆ え 。 (喩例 :の時間の如し。  チャ パ はこ の論証につ い て次の よ うに説 明 する。 ま ず、 刹那は必ず 自身の原因に よっ て生み 出 さ れ る ものであ り、 尚且つ 、生じた直後に は消滅するもの である。 それ ゆ え、 刹那はそれが 未だ存在して いないと、 それが もはや存在しな くなっ た時の中間に存在す る ものであ る。そ し て、 お よそ 以前と以後の二 つ の時 間の間に存 在 するもの は、 必ずそ の内部に前中後の三部分 を有す る。な ぜ な ら、そ う した 遍充関係は日常的に経験さ れ る実例に基づい て容易に知 られる か ら である。 例えば、 夜明 け と 日没の 二つ の時 間の間に挟 まれ た 日中の時間は、夜明けの時間 に接 す る部分 と して の午前、 日没の時間に接す る部分と して の午後、そ して、その間 に ある正 午とい 三つ の部分か ら構成されてい る。このよ うにして、お よ そ以 前と 以後の 二 つ の時間に 挟 ま れて存 在 するもの は必ず三つ の部分に分割さ れ得るの で あ る。従っ て、以 前 と以 後の二 つ の時間の間に存在する刹那 も また、必 ず 三っ の部 分に分 割され 得る とい こ と が結論さ れ る。

 

以 上のチャパ 説 明 、 彼 自身が 引用 するナーガールジ ュ ナ (Nagdrjuna)の

Ratntivalr

 

I

69

72

(12>か ら敷衍れ たの で 。 っ まり、 チャパ は

Ratnavalr

に説か れ る論理を導入 す る ことに よっ て、 離一多性証因に基づ く空性論証を時間に関す る議論と して捉 え直 したのだ と言 える。

2

Tshad

 

ma

 

yid

 

ky

’m ロη se’と

S

わes 旧

b

 

bd

 zer

 

Tshad

〃ma  

yid

 

kyi

 mun  sel はチャ パ の論 理学作品の 一つ である。 こ の作品は

分類 定」 (

lb

11a

)「量の定義 と分 類の決択」 (11a−41b )「現量の決択」 (41b −43b)「比 量の決択」 (

43b

81b

)「論争言葉関す方軌 」 (

81b

96a

)とそれ ぞ れ題され た 五つ の章か ら構成され てい る。 第四章 「比 量

」 において 「共存不可能の対 立 (

lhan

 cig mi 

gnas

 

pa

i

 ’

ga1

 

ba

)」 の

概 念にする解説 (

68ag

 

E

)(13)を 行 な う 中で、チャパ は対 抗 者 (

gnyen

 

po

が排除対象 (gnod

bya

)を どの よ うな 時 間 的 プロ セ ス を 経て退 けるかにっ いて議論してい る (

69a5

伍)。その議 論の派生的 トピック と して扱 わ れるのが、 時間は無際限に分割さ れ得 るか否か とい う問題であ

る (

70a5

飢)。 なお、 これ と同 じ問題はチャパの

P

ハα 〃卿 αv∫η娩 αyα註

Shes

 rab  ’od  zer (113ag

ff

−)で も取 り上 げ られている が、当該箇所に お ける

Tshad

 ma  yid 

kyi

 mun  sel

Shes

 rabod

zer の議論は字句に至る まで ほぼ一致 する(14)。

 チャパ による と、 強力な火 などといっ た 対抗者が寒気な ど とい った 排 除 対 象 を退 ける に は最

短で 三刹那を 必要とす る。第一刹 那に おい て対抗者と排除対象とが集合 (tshogs)し、 第二刹

那におい て後 者が無 能 力に され nus  

pa

 rnyed  

par

 byas) 第三刹那におい て そ れ が退け られ る

ldog

)の であ る。 これ は明 らかに ダル モーッ タ ラ (Dharrnottara)の説を踏襲 した ものである

〔15)

。 しか し、 チャ パ は

な 説 明 を 与 えっ っ

、 実はこれは刹那の無部分性を認め

る実在論者 (

dngos

 

por

 smra  

ba

の説に過 ぎ ない と し ている。 中観派の見解によ れば、時間の

(4)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assoclat 二lon  for  工lbetan  St二udles

ペ ッ ト中観思 想にお け る時間論の展開 「刹那」 の概 念を中心 に一 最小単位で ある刹 那は前 中後の三部分か らなっ てい る。 こ の立場に立っ 場合、 第一刹 那 を三分 割した内の最初の段階に おい て対 抗 者 と排 除 対 象が集合し、 中間の段 階におい て後者が無能力 に され、 最 後の段 階におい てそ れが退け ら れ るとい うこ とが可 能である と認め られる の であ る (16> 。 さらに、チャパ は中観派の立 場に立 脚 した上で 、時間にも空 間にも短 さの限 界は な い と 断言する。

dus

 

kyi

 nges  gzung ni mi ’

dod

 

de

 nges  gzung 

la

 

dus

 

kyi

 mthas  

khyab

 pa yin na 

thog

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i

 

dus

 

la

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 tshad thug pa med  

pa

 

ltar

 cha 

dang

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phye

 

ba

 

la

ang  thung tShad thug

pa

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yin

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1

 

de

 

bzhin

 

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 nam  mkha ’i mthas  

khyab

 pa’

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l

’ang ・th・g・P・m ・

d

 

p

・yin n・〃 (

T

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ma  yid 

kyi

 mun  sel70a8−

9

Shes

 rab

’ od  zer,113b4 )

 

(17) 〔中観の立場におい て時 間に境界を定め るこ とは認 め られ ない。〔も し時間に〕境 界 を定 めること 〔が可能〕ならば 時 間に は必ず果てが 〔ある〕はずであ る。しか し、始まりと終 わ りの ない 時間さの限界が ない ように、 〔時 間 を〕各部分に分割 し ても短 さに限 界は ない。それ と同様に、虚空の果てに至るまで遍満する空間に大 き さの 限 界が ない ように、 極微を各 部 分に分 割 して も小さ さに限界はない の で あ る。

 

こ の記述が意味するの は、 勝 義 と して単 数の事物は全 く存在 しない と い こ とである。当 然 なが ら、 世 俗の レヴェ ル で は単数の事物の存 在 も認め られ る が、 チ ャ パ の表現を用い れ ば

れ は 「有 す単 数 cha  dang bcas pa

i

 gcig>」 で しかない 。 つ ま り、 それは真実と して は単 数と は言え ない ような、 あ く まで仮に認め ら れ た単数に過 ぎ な い の で あ る。 そ して、 単 数 の物が勝 義 と して存 在 し ないな ら ば、そ れ に よっ て構 成さ れ るべ き多数の物 も勝 義と しては存 在しない っ て、勝 義 としてはいかなる事物も存 在 し ない とい う中観派の結 論 が 導かれ る。 以上の ように して論理学説の解 釈に中観の視 点を導入 し てい る点に、チャパ の独 自性を認め る こ と が できるで あろう(18)。

3

 

パ ン

刹 那理解

 

サパ ンは

Rigs

 

gter

第一章の末 尾に おいて刹那の問題 を 取 り上げ、「刹那は諸部分か ら構成さ れ る」 とい う 中観 説 をダルマ キール ティ (

Dharmakirti

)の唯識の立場か ら批 判 してい る (

Rigs

gter

 rang ’ g ret54 .27 鼠;福 田 ・木 村 ・荒井 1989;

52

 

E

)(19)。サパ ンはチャパ の名 や 作 品に言 及してい るので はないが、そこにおい て前提とされてい る のは 明 らか にチャパ の見解であ る。 た だ し、サパ ンが決して 「チャパ の 中観理解」 を批判 して い るので も な け れ ば、「チャパ の時 間論」 を批判している の で もない こ と に注意を要す る。 と言 うの も、 そこ でサパ ンが展開して い る議論とはダル マ キール ティの立場を代 弁 す る形 を取っ て中観派の時間論を批判 した もの で あ り、サパ ンが 自ら理解する中 観 派の時間論につ いて語っ てい る わけで はないか らであ る(20 )。 サパ ンが

Rigs

 gterの当該箇所でチャ パ批 判を意 図し てい た とす るな ら ば、 そ れはチャ パ の 中 観 理解そのもの を批 判 して い るの で はな く、 チャ パ が 「 ィ の論理学説を 中 観の 一6 一 N工 工一Electronlc  Llbrary  

(5)

ベ ッ 中観思 想にお け る時 間論の展開 「刹 那 」 の概 念を中心に一 立 場 か ら解釈 し た」 点 を批 判 してい る のだ と理解せね ば な らない (21)。  さて、 サパ ン は最初に 「刹那は 三部分本体 」 とい う中観派の見解を提示し てい る。 彼によ れ ば、 刹 那の単 一定 す中観理 と

W

廊漉 航

k

12

に説 か れ る極 微の単一 性の否定の論理に等しい もの であ る。し か し、空間に関して適 用さ れ た論理を その まま時間に 関して適用するこ とは で き ない とは言 う(22)。 で は、 な ぜ極微の否定の論理 を その ま ま 刹 那 にして適 用 するこ とがされ ない ので あろうか。 その理由は以下の 偈頌に端 的に示さ れて い る。

rags pa cig char  

bskor

 

bas

 na

1dbus

 

kyi

 rdul phran cha  

bcas

 ’gyur 〃

dus

 gsum cig char mi skyc 

bas

da

 

lta

i

 skad cig cha med  yin

Rigs

 gter,

56

3

6

粗大な物 〔の場合に〕は 〔外側の複数の極微が〕同時に 〔中央の極微〕を取 り囲ん でい る ので、中央の極微は部 分 を 有 す るこ とにな る。〔しか し〕三 っ の時 間は同 時に生 起 し ない の で、 現在の刹那は部分を持た ない もの で ある。  まず、極微の場合に は次の こ と が言え る。物質の最小 単 位 として の極微が複数集合す ること に よっ て粗大 な物が構成されることか ら、一つ の極微の周囲を複数の極微が取 り囲ん で い る と 想定せ ねば な らない しか し そう した合、 中央にある極微は周 囲にある複数の極微に接す る複数の面を有するこ と になるので、 そ れ は複数の部分か ら構成さ れ てい な けれ ばな らない と い ラ ドスが生 じ る。 こ の論法によっ て極微の単 一 定 され ることは、サパ ン も認める所で あ る。 ところが、 彼によれば、 同 じ論理 を時間に適 用 す ることは でき ない 。 なぜ な ら、前 中後の 三つ の時 間は同 時に は生 起 し ないた め、隣 り合っ た 極 微 同 士の場 合 とは違っ て、それ らが相 互に接すること もあり得 ないか らである。 実在する時間は現在の 一刹那の み で あり、 未来と過去の刹那は非実在である。 そし て、 現在の 一刹那、空間的区分る よ うな 仕 方で分 割され 得るもの で は決 してない 以 上の サパ ン の批 判は明 らか に、 「時 間空 間 化」 に伴 う誤謬を鋭 く指摘し た ものである。

 刹 那の単一性 を 唱 え る サパ ン の主 張 はルマ ールテ ィの

Prcunae

:avinis’caya  

II

の 「刹 那

に部 分は存在 し ない 」 (23)とい に基づ く ものである。 Prama ’

t

 avamika 皿 359(24)に見ら れる ように、ダルマ キール ティは離一多性の理論も用い てい る が、サパ ン に よ れば、そ れ は決 して時間が一と多の自性を欠い て い るこ と を帰結するもので はな く(25)、 空間 (

yul

)や 所取・ 能取 (

gzung

dzin

)が一と多の 自性を欠くこと を論じる意図で説かれた もの で あ る。 サパ ンは ダルマ ール ティの見 解 をこのよ うに理 解 した 上で、 その見 解に沿っ た 形で刹那 が 「分 を 持

た ない実在 (cha  med  

kyi

 

dngos

 

po

)」 で あ ることを主張して い るのであ る。

 そ れで は 唯 識 説 を離 れて中観の立場に立っ 合に は、 チャ パ が論じ てい る ように刹那の単

否定さ れ ると に な る ろ うパ ン自身 こ の 対 し明 白答 えて い

いが、ギェ ル ツァ プ ジェ ・ダルマ リン チェ ン (rGyal  tshab 

Oe

 

dar

 ma  rin chen :

1364

1432

)の

Rigs

 

gter

註に は次の ような 興味深い記述が見 られ る。

sems  tsam pa

i

 

lugs

jog

 

Pa

 na !

dbu

 ma  

pa

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 tshul mdzad  

pa

 

yin

 

gyi

rang  lugs la

(6)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assoclat 二lon  for  工lbetan  St二udles

ペ ッ ト中観思 想に お け る時間論の展 開 「刹那

」 の概念を中心に一

rdul dang skad  cig cha  med ’

gog

 nus  su mi  mtshungs  

par

 bzhed 

pa

 ma  

yin

 no 〃 (Rigs gter

D

αr雌 ,

15b6

16al

) 〔こ こ でサパ ンは〕唯 識 派の学 説 を 立て る 中で、中観 派に対 す る回 答の仕 方 を 〔提示〕な さっ てい るので あっ て、 自説と し て 「極微 〔無部分で あ る 刹那部分 こ と を 同 じ よ うに否 定 することは で き ない」 と主張な さっ てい るので はない。

 

こ の釈によると、 サパン の最終的 な 立場は中 観にあるが、

Rigs

 

gter

で は暫定的に唯識説に 立っ た 上で刹那の単一性を主張して い る に過 ぎ ない のだとい うこと になる。ギェ ルツ ァ プ ジェ がいか なる意図を もっ て この ような註釈を施したか は不明である が(26>、 一 を示 唆 す る ものであると言 える。

4

 ゲ

ク派

おけ

那 理

 最 後に、ゲル ク派で の こ の問題へ の ア プロ ーの仕 方 を見るこ にしたい。ゲルク派 を築い た ツ ォ ンカバ は 「色の最 小 や時間の最 短 などにする問答 (

gZugs

 

kyi

 chung  mtha ’ dang d”s

kyi

 thun8 〃mtha ’sogs  las brtsams 

pa

 ’i dri lan) と題され る韻文体の小 品 を残 して い る。 これ は

シ ョン ヌ ・ロ デン (gZhon nu 

blo

 

ldan

とい う学者か らの質問に対 する返 答 と して著さ れ た も の で あり、 物質と時間の最小単位を めぐる興味深い 問題を扱っ てい る。 し か し、 この作品では ヴァ ス バ ン ドゥ の

AbhidharmakOs

’a な どに依 拠 して 毘 婆 沙 師 も し くは経 量 部が認め る時間観が 語られる の み であり(27>、 残 念 なが ら刹那の単 一定 す中観見 解 て は言 及 さ れて い ない。  中観 派の刹 那観に関して は、 ッォン カバ の弟子 ギェ ル ッァプ ジェ に よるRatnavali註sNying

po ’

i

 

don

 gsal (

18a6

 

E

)が注 目される。 同 作 品で は刹 那が諸部 分 を 有 するゆ えに無自性であ る

こ とや、離一多性証因に基づ く無 自性論証などが略説さ れ る が、概ね

R

伽 δvα’rの語釈に終始 してお り、ギェル ツ ァプジェ の独 創 性は見 られ ない   。

 ゲル ク 派の中 観 文 献において刹 那の単一性 を め ぐ る議 論 が 注 目 されて い ない要因の一つ は、 同派の 中観解釈の中で離一多性の理論があま り重要視さ れ てい め と思 わ れる。 チャ ン ド

ラ キール ティ (

Candrakini

)の

Madhya

〃lakO

vatara が 中 心に据 え られたゲルク派の中観研究で は、こ の理論が主要な位置を占め ること はない そ して、離一多性の理論な くしては、刹 那の 単一性 を否定する議論展開されること も あり得 ない の である。 ゲルク派の文献に おい て離

多性理論な ト

ックとして登場するのは、む しろ般若学 ・前段 (phar 

phyin

 skabs

da

皿g po )の関連文献に おいて である。 例え ば ギェ ル ツァ プ ジヱ の rNam  

bshad

 snying  po rgyan

11bl

 

E

や ジャム ヤ ン シェ ーパ の sKabs  

dang

 po ’

i

 mth α  ’ 

dpyod

(38a2 

ff

.)で は

、 ハ リバ ドラ (

Haribhadra

)の

5

ρr’加 に依拠した形で離一多性証 因による無 自性論証が論じ られ る。だ が、その議論の 中で刹 那の問 題は取 り上げられてお らず、カダム派の学者達が残し た成果は全 くそ こに反映されて い ない ま してや、 サパ ン の Rigs gterで展 開 さ れ た批判がゲル ク派の 時 間論に影響を及ぼ すこと も なかっ たの で あ る(29)。 一8 一 N工 工一Electronlc  Llbrary  

(7)

中観思 想に お時 間論展開刹那 」 の概念を中心に一

5

結語

 初期チベ ッ ト仏教の中観解釈に おい て、時間の最小単位と して の刹那を め ぐる問題が大き く 取 り上げられてい た こ とは以 上よ り明らか となっ た 。 中で も刹那の 単 一否定し た ナー ルジュ ナの論法を発展させ る形で、離一多性証因によ る無 自性論証を時間に関す る議論と して 再 解 釈 した チャパ 。 チャパ の理解に よ る と、 真実の観点か らす れ ば時間と は数量化さ れ得ない もの で あり、そのような性格を持っ 時間によっ て支配された全て の存在が 真実 と して は一と多の自性を欠いた もの、っ まり、無 自性なるもの である こ と になる。彼は こ うした中観 派の時 間論をダル マ ール ティ論理学解 釈の中にも適 用 し よ う と試みた。それに対 し、サパ ン はダルマ キールティ説を唯識の立場と捉え、その立場を代弁する形で 「刹那は部分 を有す る」 とす る 中 観 説 を否定 している。 サパ ン の理解する唯識の立場におい て時間とは空間 と異なっ て、分割され得ない 単一の実在である。 こ の 主張が含意するのは、現在の一刹那の心 のみが実在するとい うこ とである。 チャパ の議論とサパン の議論は、 そ もそも各々 の立脚する 思 想的立場が相異なる た め、 内容 的に は必ずし も噛み 合っ て い ると は言え ない が、時 間の最 小 単 位 を め ぐ るアポ リアに関 して彼 らが 展 開 してい る議論は、 哲学的 な視点か ら見て興味深い も の である と言え る。 ツォン カバ 以降の ゲル ク派の学者達が刹 那の単 一 問題にあ ま り関 心 を 払わな くなっ た理由は定かで はないが、こ の問題と密接に関連する離一多性の理論が注 目 され な くなっ たことが その理 由の一つ では ないか とい う仮 説 を提 案 する に留めたい。

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2004.

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Phyapachos

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35

、pp.21−29。 福田  洋一 ・木 村  誠 司 ・荒 井  裕 明 1989  『ベ ッ ト論理学研 究 第一巻 サ キャ ・パ ン ディタ著 『認 識 手に つ い て の    庫』第一章 「対 象」 テクス ト・和 訳 ・注解』、東 洋文庫。 山口 瑞鳳 1988  『ベ ヅ ト・下 (東 洋叢書4)、東京 大学出 版 局。 注 (1)ゲル ク派の文 献に見ら れ る 「刹那 」 の解釈に関して は、拙 稿 「ゲル ク派 に お け る刹那の解 釈と時間

  

論」 (『南 都佛教』 89.pp.12−26 .2007年 )に て詳細な 分 析 を 試みたので参 照されたい。 (

2

) 拙 稿 「 ツォンカバ の中観思 想に おける業果 設 定の根 拠」 (『南 都 佛 教」 84.

pp

.1−16.2004年 〉お

  

よ び‘”ltsong

 kha pa on the Prasafigika View of Time”(『印度 学仏 教 学研究』 56−

3

. pp. 132−6.2008

   年 }を参照 され たい

(3)現 在伝え られてい るRigs gter rang  ’grel bSt果た してサパ ン の真作で ある か とい う問題につ いて は

  古くか ら論争が あ る。例え ばギェ ル ツァプ ジェ は、 「あ る無 知 な 者 (mi shes pa kha cig)」 が Rigs

一12 一

(11)

ベ ッ ト中観思 想に おける時 間論の展 開 「刹 那」 の概念を 中 心に一

  gter本 文と齟齬を き たすパ ッ セージを自註の中に挿入したの であるとし て、 現行の Rigs gter rang    ’grelの正当性を疑っ てい る (Rigs gter Dar  tth,150a2−3. C£ Dreyfus and  Onoda 1994:8)。

(4)bKa ’ gdams  pa ’i gsung ’bum に関し て は井 内2006、加 納2007を参 照。

(5)Shar gsum stong  thun の刊本が既にH . Tauschcr氏に よって編 集さ れ 1999年に出版さ れ てい が、    bKa’gdams pa ’i gsung ’bum 第7巻にもdBu nva ’i de kho na  nyid  bsdus pa (57 fels)の タ イル で   収録さ れ てい る。加 納2007 (note  66)も指摘る よに、 bκ a ’gdams pa ’i gs”ng  ’bum に収録さ

    れ てい る写 本は

Tauscher

氏が校 訂に用いた底本とは 異 な る もの であ る。

(6)Tshad ma  yid 

kyi

〃mun  sel (

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fbls

)は

bKa

 ’ gdcvns pa ’

i

 gsung ’

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8

巻に収 録さ れ てい る。本

  作 品に関して は Kuijp 2003:385,400 を参照。

(7)Shes rab ’od  zerャ パよ るPrα肱 αv5cαyαり、

bKa

 ’ gclams pa ’i gsung’

buaT

8巻

   にTshad〃ma  mam  par nges  pa ’i ’grel 

bshad

(197 

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タ イ トル で収録さ れてい る。

(8>bKa ’ gclams pa ’

i

 gsung’

bum

 

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13

巻に韻 文体

dBu

 tna rigs pa ’i tshogs 

kyi

 rgyan  

de

 

kho

 na nyid   suang  ba ’i rtsa ba (2・fols)

、散 文 体の 自註ttBu  ma  rigspa  

i

 tshogs 

kyi

 rgyan  de kho na nid snang   ba (34・fols)が収 録 さ れい るe な お、同 じ著 者に よ る

T7icid

 pa ’i rgyan ,21a6に言 及 さ れる dBu

   ma ’i

 

de

 

kho

 na nyid gtan 

la

 

dbab

 pa とい う作品は この Rigs tshogs rgyan に相 当す る と推測 され る

    (cf. Wil且iams 1985:207)。

(9) 大 谷 大 学所 蔵の Legs bshad bsdus pa の写 本が 1989年に既に出版さ れ てい る。 

bKa

 ’ gdantS pa ’i

   gsung’bum 第13巻に収録されてい る写 本は これと同一のもの である、

(10)ロ ンチェ ン ・ラ プ ジャム パ Klong chen  rab ’byams pa:1308−64)に帰せ られる Tshtui ma  ’i de nyid

   bsdus pa の冒 頭附近で も刹 那の単一性を め ぐ る問題が扱わ れ て い る が、 そ こ に お いて も チ ャ パ と

   同 様の見 解 が 見 られる (Tshad ma  ’i de nyid bsd”s pa,7、18−8.21>。

(11)Shar gsum  stong  thuni,111.6−8 citing  VS k.12:dnlg gis cig  char  sbyar  bas na * 〃 phra rab  rdul

   cha drug du ’gyur/

1drug

 Po dag ni go gcig na 

1

!gong bu rdul phran tsam du ’gyur 

11

 (*according

  

to Shar gsum stong  thun242a8 ;cig  bar sbyar  ba na  Shar gsum ston8  thuni>C£ VS  k.12:akena

   yugapadyogat p o lat註 s躪 adelatvat  pi sya ma 〃 (「

六 個

   〔の他の極 微 〕と同時に結合してい るな ら ば、極 微 は六 部 分 を持つ こ とにな る。六 個 〔の極微 〕が

    場所を同じくす る な らば、〔極微の集 合体である〕 塊が極微 〔一個〕の大 き さであるこ とになっ て

   し ま う。」)

(12)

Shar

 gsum  stong thun・,124.3−4 (citing RA  1 

69

):

ji

 ltar skad  cig mtha ’yod ltar〃 thog ma  dbus

   kyang brlag par gyis〃skad  cig gsum gyi bdag nyid  phyir

jig

 rten skad  cig la mi gnas 

f

 / Cf. RA

   I69:yath翫 to’sti k§aasyaivam 氤d  adhyarp  ca kalpyat 

1try

互tmakatvEtaasyiva 【p na lokasya

    k學ai)arp sthitib 

11

 

ji

且tar skad cig mtha ’yod pa de bzhin thog ma  dbus brtag go 〃 de ltar skad  cig

  gsurn bdag phyir〃’

jig

 rten skad cig gnas pa min〃 (「刹 那に は終わ りがある ように、始め と中間も

   〔存 在 する と〕考え るべ き で あ る。 こうし て刹 那は 三者を本 体と す る の で、世 間は一刹那の 間存続

    するもの で はない。」)

(13)チャ パ による 「共 存不 可 能

」 に関 する見解はギェ ル ツァプジェ の’6al ’bret gyi mam  gzhag   に おい て言及され、批判 され てい る (’

Gal

 ’

brei

 gyi mam  gzhag,

3a6

 

E

)。

不 可 能対 立

」や

    「

」 一般に関す る チャパ の見解にっ い ては、

Onoda

 1992、 Kellner 1997を 参 照

(14)ゴク・ロ デンシェ ーラプ (rNgog  blo ldan shes  rab :1059−llO9)の Pm 鰄 μ ッ’η’5cαyα註

dKa

’gnas

    mam ・bshadにおい ても対 抗 者が排 除対象を退 けるプロ セス につ いて論じられる が、そこに おい て

  刹 那の単一性 をめ ぐ る問題は議 論さ れ ていない

dKa

 ’ gnCLS rnam  

bshad

280

.呈

5

伍)。そ れ ゆ え、現

  時点で確 言は できないが、Tshad ma  yid 

kyi

〃mun  selや

Shes

 rab ’od zer に展 開さ れ る以下の議論は

(12)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assoclat 二lon  for  工lbetan  St二udles

ベ ッ ト中観思 想に おける時 間論の展 開 「刹 那」 の概念を中心に一

チ ャ パ が初め て導入 した可 能性があると言 えるだ ろ うe

(15)PVinT 205a7−bl等を参照。

(16)中観説 を顧 慮し てチャ パ が 述べてい るこう した見解は、ツル トゥ ン ・シ ョ ン ヌセ ンゲによっ て批

  

判 的に言及さ れ てい る (Tshad〃ma  shes rab  sgrDn  nta 26522 −266.5,)。サパ ン も ま た、 Rigs gter第

   七章 「考 察

」 に おい て こ の見解 を取り上げ、批判を加えてい る (Rig∫ gter rang ’grel,172.12

    ff.)。

17

)ロンチェ ン (

Glo

 

bo

 mkhan  chen 1456− 1532)は 「軌範師 チャ パ を始め とするある者は、極

  微 に 〔小 さ さの〕限 界はない と主 張して い る」 と述べ た 上で、 Tshati ma  yid klyi〃mun  set の こ の箇   所 を 引 用 してい る (Rigs gter nyi ma ,42.11−13)。

(18)セ ル ドーパ ンチェ ン ・シ ャーキャチョク デ ン (gSer mdog  pachen  shaky 負mchog  ldan;1428−1507 >

   は、チャパがダルマ キールティの最 終 的な立場を中観と見な していたこ と を伝え てい る。チャ パ

  

の論理 学 作 品Tshatt ma  yid klyi〃mun  sel や ∫加5泌 ’od  zer に見 られ る刹 那 をめ ぐる議 論は、 そう

   したシ ャーキャチョ ク デン の記述を 支持するもの と言え る (Tshad ma ’byung tshul

,12a2且;15bs

   ff.;17al ff−Cf. JackSon 1987:418.)o

(19)当該 箇 所 に 含 ま れ る議 論は山口

1988

;253−257に お い ても取 り上げられ てい る。

(20)福 田 1989 は、サパ ンが論理 学 作 品 Rigs gterに おい て中観派の立 場に立っ こ と はない という理 解

  

を示し てい る。 サパ ン自身の中観理 解は彼の Thub dgongs rab  gsalな ど に見 られ、そこで は勝義 的   存 在と して の不二知 (gnyis med  kyi shes pa)が否 定さ れ てい る (Thub dgongs rab  gsal

, 62a4. Cf.

    Jackson 1987418−419.D

(21 )Rigs gter rang ’grel 第七章で は そ のこ とが明 確に述べられ る。 Rigs gter rang ’grel,17225− 173.1;

   gang dag chos kyi grags pa’i rnam  gzhag khas len bzhin du skad  cig cha shas can du ’dod pa ni  rigs   pa’i

 ra ba }as ’das pa yin no 〃 (「ダルマ キール ティの規 定を受け入 れつ つ も、 刹那が部 分 を 有 する

   と主張する者は、論理の枠か ら外 れ た 者であ る。」)

(22>Rigs gter rang  ’gretでは、こ こ で否 定さ れ る見解の担い手が 「チベ ッ ト人 達」 とさ れ る。 Rigs gter

   の諸 註釈は これに関して情報を 与 えてい ないが、中観の立場からダル マ キール テ ィの 理 学 説を    捉 え、その論理 学 説の枠組みの 中で刹 那の単一性を否定 し よう と した カ ダム派の学者達 を指し て    い ると思わ れ る。Rigs gter rang  ’grel,55.17−18:’di la bod rnams  rdul dang skad  cig  gnyis ’gog pa’i

   rigs*

 pa mtshungs  pas skad cig cha shas can yin no zhes zer  ba ni mi  mtshungs  te 

1

(「これにつ いて

   チペ ッ ト人達は 『極微と刹 那の両者 を 〔そ れ ぞ れ〕否定す る論理 は共通した もの であるの で、刹 那

   は部 分を有するもの である』 と言 うが、〔そ う した〕共 通性は 〔成 り立 た〕ない。」 *rigs福 田・木

   村・荒井 1989:53;rig Rigs gter rang ’grel)

(23)PVin H、46.20 (mentioned  in Rigs gter rang

gret, 

56

10

;cf.谷2000:106−109):skad cig ma  la cha    shas med  pa’i phyir ro 〃 (那 に部 分は 存 在 しな

。」)

(24)PV m  359 (cf.戸 崎 1985:45−6):bhliv5 yena niriipyante  tadriiparp na asti tattvatatt 

1

 yasmfid ekarn

   anekarp  va niparp teS na vidyate gang gis dngos po rnarn  dpyad na !

1de

 ny 藍d du na  de dngos

   med 〃gang gi phyir na de dag且a〃gcig dang 

du

 ma ’i rang  bzhin med  

11

(こ の偈 頌の読 み を め ぐる

   問題 点は福田 ・木村 ・荒井 1989:76」7さ れい る。サンスク リッ ト原 文に従 え ば 「諸 事物    がある 〔相〕を通じて知覚される時、 真 実と してその相は存 在し ない。 な ぜ な ら、そ れ らに は 一    と多のが存在し ないからである」、ギェ ル ッァプ ジェ やコ ラム パ な どチベ ッ ト人の註釈に従 え ば    「諸事 物 に よ 吟味な らば真 実 諸事 物〕は実 在 し ない。な ぜ    な ら、そ れ らに は一と多の自性が存在しないからで あ る」 と訳せ よう。)

(25)ロ ウォケンチェ ン によ れ ば、 軌 範 師ニ ェ ル パ な ど (slob  dpon gnyal pa la sogs pa)は PV m  359

一14 一

(13)

ベ ッ ト中 観 思 想における時 間論の展開 「刹 那 」 の概 念を中心に一   を 「 自性を 欠 る こ 」 を 説 く もの と解してい るとい う (Rf8∫g∫8r ηy’  ,    43.22−4)。「軌範 師 ェ ルパ と はテン バクパ (Dan ’bag pa)の弟 子ニ ェ ル シク ・ジャムペ ードル   ジェ (gNyal zhig ’ 」  pa’i rdo eを指すと思われる が、詳細は不明である。

(26 )ギェ ル ツ ァプ ジェは若い頃レ ンダーワ ・シ ョン ヌロ ドゥ (ROd mda ’ ba gzhon nu 

blo

 gros:

134819

  

1412

)等に師 事して サ キャ派の論 理学を学ん だが、 その後ツォ ンカバの 弟子とな り、 ゲル ク 派の   見解の下で書か れ た論理学 作 品を多く残し てい る。 ギェ ル ツァ プ ジェ がい つの時 点で Rigs gter 

it

  

を著したか は不 明であ り (Dreyfus and Onoda 1994:2−3 を参照)、 そ れ ゆ え、 彼がいか な る立 場か

    らサパ ン の思想 的立場につ いて論じてい るか も明らか で はない

(27)Dri lan,1a5−2a2dus mtha ’i skad  cig rgyu  tshogs du ma  yis ’bras bu bskyed pa’

i

 yun 

dang

 se gol

  gcig〃rdzogs  pa’i dus la re lngar byas pa 

yi

 

11

 cha  gcig dang ni rdul gcig go’phos dang〃   yam

  pa’i shed  

kyis

 bag nyal *gcig gcod pa’i〃

yun

且a bshad 

pa

’i rnam  

grangs

 mang  yod 

kyang

〃mdor  na

  

de

 ]as thung ba 

byar

 med  pa’

i

 

f

 

1

 

dus

 gcig mtshon  par bzhed nas  de dag gsungs〃 (「時 間の極 限と し

    ての 刹那は、多数の因総 体が結 果を生み出 す時 間、一回の弾 指が完 了する時 間の 1165、法 が〕   一つ の微 分 〔の距 離〕を 移 動 す るのに等 しい 〔時 間〕である 〔。以 上 の〕こ と に基づいて、〔一     刹那とは〕一つ の 眠が断 た れ る時間であるといっ た数 多 くの説 明の仕方があるけ れ ど も、 要 約

    すれば、それ以 上 短 く分 割で き ない単一の 時 間を説 明しようと 〔師ヴァ ス バ ン ドゥは〕お 考 えに   なっ て こ れ ら を お説き に なっ たのである。」 *Read bag nyal ;bal nyag  Dri lan)

(28> ギェ ル ツァプ ジェ は PπM αv加 醜 αyσ註を著し て お り、 その第二 章における

不 可 能

  に関する議 論の中に は、紺 抗 者が排 除対 象を 退 けるプロ セス につ い て の説 明が見 られ る (rNam

  nges Dar .nl, Ja.211b6 ff.)

。 し か し、そ こ に おいて は、チャ パ の Tshtid ma  yid 

kyi

〃mun  sel やShes

    rab  ’od  zer 見ら れような刹那単一性を め ぐ問題は議 論さ れいない

(29)ジャ ムヤン シ ェ ーパ の dBu・ma  chen  mo に は刹那 単一性否定 す中観理論が 略 説される。   ジャ ムヤ ン シェ ーパ によれ ば 「タ クッァ ン ・ロツァ ーワと彼に随 順 す る あ る 者」 は刹 那の無部分性

  を 主 張 してい るとされる。 dBu・ma ・chen・mo ,86b6‘7:yang stag lo dang de’司es

jug

 kha cig na re 

1

    dus mtha ’i skad cig ma  cha med  yin zer 

1

 ’o na 

1

 dus mtha ’i skad Cig ma  chos  can  / cha  med  ma  yin

  par thal!thog mtha ’bar gsum gyi cha dang ldan pa’i phyir /(「さ らに、タ クツァ ン ・ロ ツァーワと   彼に随 順 するある者が 〔次のよ うに〕述べ てい る。『極 小 時 間としての刹 那は部分 を持た ない』 と。

  な らば 次の ようにえ よう。〕 [帰結]極小 時 間として の刹 那一 主題一 は無部分で ない こ と

    にな る。[証因] 前 中後の三部分 を 伴っ てい る ゆ えに。」)しかし、実 際に はタク ツァ ン ・ロ ツァー

   ワ の Legs bshcUt rgya  mtsho に刹 那が諸 部 分を有する とい う理論が説 か れる ことに注 意 を 要 する    (hegs bshad rgンa mtsho ,146.1fLo

参照

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