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F.E.アッシンガーの国際通貨制度論
有 馬 敏 貝U 1 は じ め に 第2次大戦後に構築されたブレトンウッズ体制は,機能上からすると金と当時の国際経 済において圧倒的な力を持っていたアメリカのドルを中心とした国際通貨体制であった。 第2次大戦前の世界経済は,輸入割当,為替管理,二国間協定,ブロック化,高関税, 為替相場の競争的切下げ等々混迷の中にあり,そのような戦前の反省から生まれたのがブ レトンウッズ体制であった。ブレトンウッズ体制の由来は,アメリカのニューハンプシャ ー州ブレ1・ンウッズで,1944年7月22日,連合国通貨金融会議に参加したソ連を含む44力 国が,ブレトンウヅズ協定に同意したことによっている。 ブレトソウヅズ協定は,IMF(国際通貨基金, International Monetary Fund)協定 条文とIMFの姉妹機関であるIBRD(国際復興開発銀行International Bank for Re− construction and Development)の協定条交に対して一般につけられた名称である。 IMF協定条文は,!943年のイギリスの「ケインズ案」とアメリカの「ホワイト案」の 公表により,すでに予示されたものであった。そして最終的に,IMF協定条文はホワイ ト案により忠実に従ったことも周知のとおりである。しかしこのとき提示された「ケイン ズ案=国際清算同盟案」は,1969年に採択されたSDR(特別引出権, Special Drawing 1) Rights)の創出のためのIMF協定条文第1次改正を種々な点で予告していた。 IMFは,国際復興開発銀行より2,3ヵ月遅れて,1947年3月に活動を開始し,1982 年における加盟国数は146力国に達している。しかしながらIMFは加盟国の拠出した資 金を基礎に融資を行う「基金原理」に従うものであり,戦後復興とともに急速に拡大する 国際流動性需要には充分答えることができなかった。 また金の生産量も国際流動性の需要をまかなうほどには増大せず,当時圧倒的な経済力 1) Aschinger [6), S. 19−26.128 彦根論叢第225号
と世界の4分の3の金を保有していたアメリカの国内通貨であるドルの発行により,国際 流動性が供給されてきた。その意味でアメリカは国際通貨を発行する特権,すなわち「国 2) 際通貨発行特権(International SeigniQrage)」を保持していたのである。 しかし戦後復興がすすみ,アメリカとその他諸国との生産力格差が縮小し,ドル不足が 解消した後も,アメリカはこの特権を自由に使い,自国の経済政策を優先させ,金融節度 (monetary discipline)を顧慮することなく国際収支の赤字を出し続けた。 その結果1960年には,アメリカの金準備がアメリカの対外流動債務(外国保有のドル残 高)を下回り,ドル不安が顕在化した。そして国際通貨不安の増大とともに採用された一 連のドル防衛政策は,小手先のものが多く,デフレ政策といった金融節度を必要とするも のは採用されず,ついに1968年3月に金の二重価格制へ移行せざるをえなかった。しかし アメリカの国際収麦赤字は続き,1971年8月には金とドルの交換性停止により,名実とも に国際金為替本位制として運営されてきたブレトンウッズ体制(旧IMF体制)は崩壊し てしまった。 その後1971年!2月の「Xミソニアン協定」により.主要国通貨の多角的調整が行われ, 「ドル本位制」が定着したかにみえたが,円滑には運営されず,ついに1973年2月から3 月にかけて先進主要国は,変動相場制に移行せざるをえず,今日に至っている。 もちろん変動相場制は,1930年代その他の経験が示すように,次の通貨制度に移るまで の過渡的なものであり,きたるべき通貨制度の検討が強く要請されているところである。 そこで本稿では,第2次大戦後のブレトンウッズ体制の検討と改革について先見的な発 言をしてきたスイスのガーレン大学教授アッシンガー(F.E. Aschinger)の論文と著書 を主として検討し,きたるべき国際通貨制度の方向を探ることにしたい。 A ブレトンウッズ体制の位置づけ 1. IMF協定条文におけるドルの地位 原IMF協定条文の見直しの気運が高まりつつあるなかで, IMF協定条文は加盟国す べてに平等であったか否かという議論も根強いものがある。すなわちIMF協定第4条第 1項「平価の表示」における「各加盟国の通貨の平価は共通尺度たる金により,または 1944年7月1日現在の量目および純分を有する合衆国ドルにより表示する」という条:文 を,どのように解釈するかである。 2)詳しくは,拙著〔13〕を参照されたい。〈研究ノート>F.E.アッシンガーの国際通貨制度論 129 この規定がドルを他の通貨とは区別した特別な立場にしているとする主張も根強い。し かしこの条文は,金1オンス=35ドルの価値をドルが保有している限り,各国平価は金で あろうとドルで表示されようと同じ機能を持ち,一般に各国平価はドルで表示されてきた にすぎず,ドルに特別な地位を与えていたわけではないと解釈すべぎであろう。 したがってアッシンガーが述べているように「ドルは,たいていの通貨に対して,平価 3) 決定の際の基準の大きさを表す」といえる。これをさらに明確にいえば,次のようになる だろう。すなわち 「各国の平価は通常ドルで表示されてきた。ドルは国際的な価格の標準(standard)と してニュメレール(num6raire)の機能を果たした。しかし,注意すべきことは,このニ ュメレールの機能を果たしたのは,金1オンス=・= 35ドルの金によって保証された特定のド ルであって,それ以外の価値をもつドルではなかったということである。その意味では真 4) 実の価格の標準はいぜんとして金であった。」 ブレトンウッズ体制におけるドルの地位をさらに鮮明に把握するため}こ,1967年のEC 蔵相会議における論争を検討しよう。アッシンガーによれば,この会議で王MFには二つ の価値尺度があってはならないと解釈したフランスは,前述の規定からドルを特別扱いし ている規定を削り.「各加盟国の通貨の価値は共通尺度たる金により表示する」と改訂す るよう,EC諸国は一致してIMFに提案すべきであると主張した。しかしその他の5力 国は,ドル表示は金の間接表示にすぎないとしてフランスの提案に反対し,これを取り下 5) げさせたそうである。 もしフランスの提案通りにすると,IMF平価は金重量で表さねばならないこととな り,評量貨幣を使わなければならない。このような不便の除去のため,ドルがIMF協定 条文に取り入れられたと考えるべきであろう。 2.金為替本位制とブレトンウッズ体制 アッシンガーは,金為替本位制を採用すると,準備通貨国の事情と行動への従属が避け られないとしている。そして債務関係(Schuldnerverhaltnis)が付着しない金準備調のメ 6) リットをあげて,暗黙ながらブレトンウッズ体制は金為替本位制であるべきでないと考え 3) Aschinger [6), S. 135. 4) 貝ljrt 〔10〕, p.24. 5) Aschinger (1), p. 33. 6) Aschinger (6), S. 114 f.
130 彦根論叢 第225号 ているようである。 これは1930年代の再建金本位制のもとでの金為替本位制崩壊の経験から,特定国通貨を 準備とする金為替本位制を,アッシンガーが排除したものと思われる。その意味からもア メリカの国内通貨ドルに国際流動性供給の多くを依存していたブレトンウッズ体制は,前 述の国際通貨発行特権はじめ,数多くの非対称性(asymmetries)をアメリカにもたらすと ともに,その崩壊もビルトインされていたといえるかもしれない。 T) またアッシンガーは,金為替準備制とブレトンウヅズ体制とは無関係であると主張して いる。確かにIMF協定条文をみるかぎり,ブレトンウッズ体制のあるべき姿として金為 替本位調が規定されているわけではない。 それどころかIMF協定条文では,ドル保有による金為替本位制の成立を排除しようと しているとも考えられる条項がみられる。たとえば第8条第4項の「外国保有の(自国通 貨)残高の交換性」である。 この条項では,8条国となりIMF加盟国としての完全な資格を有する国が,外国保有 の自国通貨残高の交換要請を受け’た場合,相手国通貨か金のいずれかで支払う選択権が与 えられている。相手国通貨は,相手国からの借入れやIMFからの買入れで調達できるも のの,それには限度があり,究極的には金で支払わざるをえない。 したがってこの条項では,相手国通貨か金となっており,ドルその他第3国通貨とは規 定されていない。そこで8条国は,金を最終準備として保有すればよく,とくにドルその 他の金為替をもつ必要はないといえるだろう。 3.ブレトンウッズ体制の金為替本位制化への要因 このようにIMF協定条文では,ブレトンウッズ体制のあるべき姿を金為替本位制と規 定していない。にもかかわらず現実にブレトンウッズ体制が,金為替本位制として運営さ れたのはなぜだろうか。 8) これはアッシンカーが指摘したニュメレーールとしてのドルの役割と無関係ではない。そ して民間取引においてもドルは,もっとも多く利用され,建値通貨の機能を果たした。さ らにドルは国際的な財,用役および資本取引に用いられ,流通手段や決済手段としての機 能を持ち,取引通貨や決済通貨として使用されたのである。 7) Aschinger (6), S. 82. 8) Aschinger [6], S. 135.
〈研究ノート>F.E.アッシンガーの国際通貨制度論 131 またIMF協定において各国の為替相場変動幅は,平価の上下1%に限定された。した がって通貨当局は変動幅を一定限度内へおさえるため,為替相場への介入をしなければな らなかった。そして一般に平価は,ドル表示であったので,通貨当局は為替相場維持のた めドルで為替市場に介入した。よってドルは介入通貨としての機能を果たすようになった のである。 さらにドルを金為替として各国に保有させたのは,アメリカの金とドルとの交換性であ った。ドルは1934年の「金準備法(Gold Reserve Act)」以来,金1オン」〈・=・35ドルと等 価であるとされ,アメリカはIMF加盟国の公的機関に対し,この比率で事実上金交換に 応じたため,各国は金とともにドルを金為替としで保有したのである。 「ドル不足」が解消されない時期には,各国はドルを「利子つき金」として,金よりも 選好する場合が多かったようである。そしてアメリカは,IMFの大幅増資を通じての国 際流動性供給よりも,対英金融援助,マーシャル・プランなどの双務方式による援助,軍 事支出および民問投資の強化により「ドル不足」の解消をはかったのである。 このような種々の要因により,ブレトンウッズ体制は金為替本位制へと変質させられて いったといえるだろう。 4,金為替本位制とロンドン金市場 上述のようにブレトンウッズ体制は,金為替本位制に変質したとはいえ,法鰯的には脆 弱なものであった。なぜならアメリカの金準備法では,アメリカの居住者のみならず外国 の非居住者が保有している民間ドルの金交換は認められていなかった。ただ外国通貨当局 の保有する公的ドルについてのみ金交換が認められていたものの,財務長官が「公共の利 益にもっとも有利と思われる価格と条件」で金を売買するにすぎなかったのである。 しかし1968年3月の金の二重価格制移行まで,ブレトンウッズ体制は事実上の金為替本 位制として運営された。前述のように外国通貨当局の公的ドルは,1オンス=35ドルでア メリカ財務省により無制限に金に交換された。さらにアメリカならびに外国の民間保有 ドルも,Pンドン金自由市場においておよそ1オンス=35ドルの確定価格で金と交換され たのである。 アッシンガーによると,外国の民間ドルの金への確定免換はアメリカ政府の金政策の副 9) 産物であり,なんら貨幣政策的意図によるものではないが,事実として認めざるをえない 9) Aschinger [6], S. 110.
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としている。すなわちアメリカ政府は,民間保有ドルがロンドン金自由市場において,確 定価格で交換されることは,アメリカの法律で認められていないものの.ドルの国際的地 位を維持するうえで,重要な役割を持つことを充分認めていたのである。 第2次大戦後から1954年のロンドン金自由市場再開までの期間は,金よりもドル選好が 強く,アメリカ財務省へ金を売却してドルを購入する要求が強かった。そして1954年から ロンドン金自由市場が再開されたが,ここでの自由市場面格は,アメリカ財務省の金価格 に二=・・一ヨークとロンドン間の金現送費を加算したものとされ,ほぼ1オンス=35ドルが 維持された。 またロンドンの金売買手数料は,アメリカ財務省の手数料の10分目1とされ,民閻金取 引のみならず公的金取引もロンドン市場に誘導しようとしたのである。現実にヨーロッパ 諸国の通貨当局は,ロンドンとアメリカの金価格を比較し,アメリカ財務省よりもロンド ン金自由市場で金を購入したこともあったようである。 その意味でアメリカ財務省とロソドソ金自由市場は,お互いに補完しあい,競争しあい ながら金為替本位制を維持したといえるだろう。ただロンドン金自由市場の安定のため に,1960年まではイングランド銀行が単独で介入していたものの,それ以後は金プール協 定参加国中央銀行が金を売買して介入し,介入に要した金は最終的にアメリカ財務省が負 担していた。したがって国際的な金為替本位欄は,主としてアメリカの金準備により維持 されていたといえるだろう。 Pソドソ金自由市場の再開で各国の通貨当局は,アメリカ財務省かPンドン金自由市場 のいずれかで,ドルと金との交換を行うことができる選択権を与えられることになった。 それとともにアメリカで金と交換できない民間保有ドルも,公的ドルと同じような価格で ロンドン金自由市場で,無制限に金と交換することができたのである。 したがってアッシンガーのいうように,外国の民間ドルの金への確定見換は。通貨当局 の金政策の副産物であるといえるだろう。 皿 金の二重価格制から金・ドル交換停止までの位置づけ 1.金の二重価格制と金交換自粛 一連の国際通貨不安の中で1968年3月に成立した金の二重価格制は,国際金為替本位制 のメカニズムを大きく傷つけることとなった。アッシンガーによれば,1968年3月17日, 金プール協定に参加していた諸国がワシントンで取り決めた金の二重価格制は次のものか・ 〈研究ノート>F.E.アッシンガーの国際通貨制度論 133 10) ら構成されていた。すなわち, ① 各国通貨当局は,民間金市場で金の売買を行わない。とくに民間金市場に金を供給 する通貨当局には,金見換を行わない。 ②各国通貨当局間では,いままでどおり1オンス=35ドルで金を売買する。 ③ 紳士了解事項により,吝国通貨当局はアメリカ財務省に,ドルの引見換を自粛する。 したがって①により民間金市場の価格形成に各国の中央銀行は関与しなくなり,金プー ル協定は事実上廃止されることとなった。そして②により国際通貨ドルの地位を守るた め,ドル離れを防ごうとしたのである。しかし現実には,アメリカの金準備で各国通貨当 局の保有ドルの金交換に応じることはできなかった。そこで③によりアメリカは国際収支 を改善することで,各国中央銀行保有ドルの金交換に応じられるよう努力することを約束 した。そのかわり努力している間はアメリカへの金交換請求を自粛する紳士協定を結んだ のである。 ところが金の二重価格制が成立した後,アメリカは,大量に売却された南アフリカの新 産金をIMFや各国通貨当局に購入させて,それを金自由市場で売却させ,1オンス=35 ドル以下に自由市場価格を引き下げようとした。しかし,ヨーロッパ諸国は金の自由市場 価格下落により金準備に評価損が生ずるのを恐れ,事態を放任させなかったため,アメリ 11) カの思惑どおりにはいかなかった。 そこで1968年末には,IMFが公定価格で南アフリカの新産金を購入することになり, IZ) 民間の金の自由市場価格が公定価格を下限として騰貴する基盤ができることとなった。 2 ドルの金交換無用論への批判 金の二重価格欄成立後,アメリカは金融引締めにより高金利を出現させた。アメリカの 公定歩合は,1968年5,57%,1969年6%と南北戦争以来の高水準となり,プライムレート も各々6.75%,8.5%へ引き上げられた。それとともにアメリカ商業銀行のユーロ・ダラ ー市場からの取り入れが増加し,ユーロ・ダラー金利も暴騰し国際的高金利水準を惹起す ることとなった。 その結果,ヨーロッパ諸国からユーロ・ダラー市場へ資金が流出し,外国保有の公的ド 10) Aschinger [6), S. 127−130. 11) Aschinger (6), S. 128 ff. 12) Aschinger (6), S. 130 ff.
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ルが減少してアメリカの国際収支が統計上改善した。また金交換自粛に難色を示していた フランスは,5月危機におそわれ,金・外貨準備が半減し,フランを切り下げざるをえな くなった。そしてフランスは,ドルの調達のため金をアメリカに売却し,アメリカの金準 備は1969年に10億ドル増加した。さらに金を購入した投機筋は,ユーロ・ダラー市場の金 利高騰により。金自由市場で金を大量に売り,1969年末に金の自由市場価格は,一時1オ 13ノ ン」k・=・35ドルを割りそうになった。 このように金の二重価格制移行後の国際金融情勢は,アメリカの期待どおりに展開した といえるだろう。しかし,これはアメリカの金融引締めと国際的高金利の波及により,一 時的に金選好がドル選好に逆転しただけであり,ドルが本質的に安定したわけではなかっ た。 ところがアメリカでは「ドルは金へ交換されるので価値があるのではなく,金はドルへ 交換されるから価値を持つ」という逆転した理論が金の二重価格制以前から主張され,こ れが金の二重価格制に続く国際金融情勢の裏付けにより,いっそう有力になっていった。 金の二重価格制は,アメリカが国際収支改善に努力するという条件のもとに,各国の通 貨当局が金交換の自粛を約束したにもかかわらず,金交換が永久に停止されたとし,ドル に国際的強制通用力が付与されたかのように解釈されたのである。 このようなアメリカにおける金交換無用論に対し,ドルの金交換自粛にもっとも積極的 に協力した西ドイツ連邦銀行総裁カール・プレッシング(Karl Blessing)は,「われわれ はアメリカに対し,ドルの金交換を強く要求すべきであった。これについて責任を感じて いる」と述べ,金の二重価格制が失敗であったことを認め,固定相場制は「完全なインフ 14) レ造出機械」であるとして,西ドイツは1971年5月変動相場制へ移行したのである。 アッシンガーによれば,「ドル本位制」成立論がアメリカで有力になりつつあった1969 年に,ヨーロッパではドルの金交換停止をすでに予見していたといわれている。そしてア メリカは,デモクレスの剣(Damoklesschwertes)さえあれば,ドルの金交換を停止する 15) ことも,金の窓口を閉じることもできると自信を強めたと述べている。しかしアメリカの この態度は本末転倒したものであることは自明のとおりである。 13) Aschinger C 6], S. 131 if. 14) Aschinger [8), S. 20. 15)Aschinger〔6〕, S.332.ここでいうデモクレスの剣とは,トービン(J・Tobin)がアメリカ に向けられた剣として,過剰ドルをを指していたものである。〈研究ノーート>F.E.アッシンガーの国際通貨制度論 135 3.ヨーロッパ通貨への投機とヨーロッパ諸国の対応 (1)アメリカの政策転換と通貨投機 アメリカのインフレ抑制の金融政策は,1970年になっても期待どおりの効果をあげるこ とができなかった。そして,物価上昇は鎮静化しないにもかかわらず実質成長率はマイナ スとなり,失業率も6%を超える状態であった。そこでアメリカは,1970年の後半より金 融引締め政策を転換し,公定歩合を小刻みに引き下げていった。 またアメリカ商業銀行もユーロ・ダラーの返済を始め,ユーロ・ダラー市場の金利も急 16) 速に低下し,投機資金は金利引下げを渋っていた西ドイツ・マルク,スイス・フラン,カ ナダ・ドル等の購入に向けられた。 通貨投機は,!971年1月のアメリカの大統領経済諮問委員会の「年次報告」が発表され るといっそう激しくなった。この「年次報告」は,ドルを基軸通貨とする当時の通貨制度 において,アメリカ以外の諸国がドルに対する為替平価を設定することにより,逆にドル の対外価値を決定していると主張したのである。 これはドルの対外価値は,金により決定されるという金為替本位制の原理を無視するも のであった。そしてドルの対外価値は,黒字国通貨の調整により決定されることになり, アメリカは国際収支赤字に「優雅なる無視(benign neglect)」の態度をとるようになった 17) のである。 このようなアメリカの対外通貨政策転換が明白になるとともに,ドル切下げの身代り切 上げを予想する通貨投機がさらに激しくなった。とくにユ97!年5月4,5日の2日間で, 西ドイツへ20億ドル,スイスへ6億ドル,オランダへ2億4,000万ドルの短期資金の流入 ユ8) があり,ヨーロッパ主要為替市場は閉鎖に追い込まれたのである。 5月10日の為替市場再開後,西ドイツ,オランダは変動相場制に移行し,フランスは為 替管理を強化し.ベルギーはいままでどおり二重為替相場制を続行してドル流入を阻止し ようとした。これに対し,スイスとオーストリアは平価切上げによって,ドル流入に対処 しようとしたのである。 ②西ドイツ・オランダの対応 西ドイツ,オランダの変動相場制移行は,まだアメリカが金とドルの交換を停止してい 16) Aschinger (6}, S. 306 if. 17) Aschinger E 6), S. 344 ff. 18) Aschinger (6), S. 342 ff.
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ない段階だったので,為替安定義務を放棄したこととなり,IMF協定違反となってしま った。そこでIMF当局は,西ドイツ,オランダに警告を発したのである。 西ドイツ,オランダをIMF協定に違反した変動相場制に追い込んだのは,アメリカの 「年次報告」が主張した黒字国責任論であったが,西ドイツとしては黒字国責任論を受け 入れて変動相場制に移行したわけではなかったようである。 変動相場制にもっとも積極的であったシラー西ドイツ経済相ですら議会報告で,「変動 19)相場制は,アメリカのビナイソ・ネグレク5に対する西ドィッの回答である」と言明して いるところがら類推できるように.変動相場制移行は.金の二重価格制下で各国が金交換 を自粛しているにもかかわらず,アメリカが国際収支赤字を続けたことに対する対策,い わば脱ドル政策であったといえるだろう。 ㈲ スイスの対応 ではIMFに加盟していないスイスは,変動相場制を採用してもIMFから警告を受け る立場になかったにもかかわらず,なぜ変動相場制をとらず,IMF協定にしたがってス イス・フランの切上げでドルの流入を阻止しようとしたのであろうか。 その理由としてアッシンガーは,変動相場制は金融節度をおびやかし,国内インフレ対 策と矛盾すると考えるとともに,アメリカが金の二重価格制の協定により,やがてドルの 20) 金交換性回復を実施すれば,輸入インフレは防げるとスイス当局は考えていたと指摘して いる。 IMF加盟国の西ドイツやオランダがIMF協定に違反し, IMF非加盟国のスイスが IMF協定にしたがって行動したのは,きわめて興味深いことである。 しかし,スイスやオーストリアは前述のように平価切上げにより固定相場制を維持しょ うとしたものの,アメリカは国際収支の優雅なる無視(ビナイン・ネグレクト)を続けた ため,固定相場制を採用している国々に大量のドルが流入した。 そこでこれら諸国は,金交換自粛を放棄せざるをえなくなったのである。とくにスイス は,巨額のドルを金と交換しようとする動きをみぜた。ニクソン大統領はこれを見越して, 1971年8月,ついに金ドル交換停止を実施し,国際金為替本位制は名実ともに崩壊したの である。 19)詳しくは,竹内〔12〕,p.139を参照されteい。 20) Aschinger C 6), S. 332.〈研究ノート>F.E.アッシンガーの国際通貨制度論 137 4.金ドル交換停止と為替安定義務 ところで,原IMF協定第4条第3項には,「為替取引の最高,最低の相場は,直物為 替では平価の上下!%の変動幅を超えてはならない」と規定されていた。いわゆる為替安 21) 定義務が加盟国に課せられていたのである。 しかし第4条第2項では,平価の上下の変動幅を決めて金の取引きを行うことを認めて おり,さらに第4条第4項bで,平価の上下の変動幅を決めて事実上,金を自由に売買し 2零) ている諸国は,上述の為替安定義務を履行しているものとみなすと規定していた。 アメリカはこの第4条第4項bの規定によって,外国通貨当局に限定して金を自由に売 買することにより,為替安定義務を免がれていたのである。したがってアメリカも,金の 売買を停止することにより,当然,為替安定義務が生じてくるのである。 しかしアメリカは,前述した197!年の大統領経済諮問委員会「年次報告」の論理によ り,国際収支の優雅なる無視政策を採用し,為替安定義務を果たそうとはしなかったので ある。 アッシンガーが強調しているように,アメリカが為替安定義務を考えず,ドルの金交換 23) を停止したことは,明らかにIMF協定違反であるといわなければならないだろう。もち ろん,ドルの金交換停止そのものは,アメリカの「金準備法」の違反でも,IMF協定の 違反でもない。ドルの金交換を停止しながら,これに代わる為替安定義務をアメリカが履 行しなかったことが,IMF協定違反であるといえるのである。 ニクソン大統領は金ドル交換停1しに際し,この措置は一時的なものであると声明したも のの,アメリカはその後,金無用論,金廃貨論を提唱することにより,金ドル交換停止を 永続化させる政策をとって今日に至っている。したがってドルの金交換停止は,アメリカ のドルに代わる国際通貨がない状況下で,「アメリカの特権であるドル決済を無制限に可 24) 能とするものであり,国際通貨発行特櫓こ事実上,強制通用力を与えようとする」もので あるといえるだろう。 2!) Aschinger (6), S. 31 fL 22) Aschinger (6), S. 32£ 23) Aschinger [6), S. 33, 109. 24) 松村〔11〕,p.16.
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IV 金とSDRの位置づけ
1. SDR本位制と信認 1960年代のSDRの創設過程において,米英とヨーロッパ諸国が激しく論争したことは 周知のとおりである。論争の核心部分は,米英がドルの流動性を補うべき準備資産を主張 したのに対し,ヨーロッパ諸国はドルの信認に代替する準備資産の創設を主張したといえ 25) るだろう。そして最終的に創設されたSDRは,アメリカの主張に近い流動性増強の手段 の色彩が濃いものであった。 しかし金為替本位:制の時代には,アメリカはSDRをアメリカの金準備不足を補うもの として創設に積極的であったものの,1971年の「年次報告」で「ドル本位制」成立論を主 張するとともにドルの金交換停止により,SDRは不要なものとなった。これと逆にSD R創設に消極的だったヨーロッパ諸国は,「ドル本位制」に抵抗する手段としてSDRを 利用しようと試みたのである。 たとえばアッシンガーによると,1970年から71年はじめにかけて,オランダ,ベルギー がドルのSDR交換を請求した理由を,ドルの金交換停止が予測されるなかで,たとえア メリカが金交換停止を実施しても,いままでの行掛上,ドルのSDR交換は続行するだろ 26) うという期待からSDR選好に出てきたと説明しているごとくである。 ドルが形式的とはいえ金との交換性をもっていた間は,ヨーロッパ諸国では金価値保証 されたSDRより,ドルを選好しようとしていた。しかし金ドル交換が停止されそうにな ると,金価値保証のあったSDRを価値保全のため選好したのである。ところがヨーロッ パ諸国の期待に反してアメリカは,ドルの金交換停止と同時にドルのSDR交換も停止し てしまったのである。 さらにアメリカはドルの金交換停止で,金の公定価格も消滅したような態度をとり, 1971年12月のスミソニアンでの多角的通貨調整では,各国通貨を金でなくドルに対して調 整させようとした。しかし,フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の反対により,アメ リカはドルを金に対し7. 8%切り下げざるをえなかったのである。 27) ところがSDR1単位の価値は35分のユオンスという金価値保証がついていたため,ド 25) Aschinger (6], S. 258 ff. 26) Aschinger {6), S. 153. 27) Aschinger (6) S. 259 ff.〈研究ノート>F.E.アッシンガーの国際通貨制度論 139 ルの金価値が切り下げられるとともにSDRは脚光をあびはじめ, IMF理事会も1972年 2月から加盟国の準備資産をドルとSDRの両方で表示することを決定した。 このようにドルに代わるニュメレールとして脚光をあびたSDRも,1973年2月から3 月にかけての主要国の変動相場制移行とともに,1974年7月には金価値保証が廃止され, 28) その代わりに16力国通貨の標準バスケット表示に変更された。 さらに1981年1月からSDRの価値を表示する標準バスヶヅトの通貨を16力国から5力 国に変更:しJ現在に至っている。また発足当時1.5%だったSDR金利も主要5力国の短 期金融市場金利の加重平均へと国際的な金利の実勢に合うよう引き上げられてきている。 しかしSDRが①価値基準,②決済手段,③資産の保有手殺の3機能を備え,主要な準 備資産となり,金とドルの役割を縮少させるためには,SDRの金交換性の問題 SDR の介入通貨への道を開く問題等々解決しなければならない懸案が出積している。 アッシンガーは,SDR本位制の成立のために必要な条件として, SDRが他の準備資 産を補う(erganzen)だけでは不十分で,他の準備資産にとって代わる(ersetzen)こと 29) が可能となる信認の強化こそ必要であると強調しているが,まさにそのとおりだといえる だろう。 金利の有無と高低だけでSDRの魅力が決まり, SDR本位制が実現できるとの主張も 数多くなされているが,世界政府設立による強制通用力の付与などが行われないかぎり, 金との関係を絶ったSDR本位制の実現は困難であろう。その意味で金の問題は,変動相 場制下にあっても将来の国際通貨制度改革論議において看過することのできない重要な問 題であるといえる。 2,金の公定価格廃止と金復位 1971年8月の金ドル交換停止後も前述したように,ドルの金平価,金のドル建公定価格 は名目化したとはいえ残存し,1978年4月,IMF協定条文第2次改正の発効により,金 の公定価格が廃止されるまで多くの論議を呼んだ。この過程を金の公定価格廃止を最:初に 主張したアッシンガーの所説とともに再検討することは,今後の国際通貨制度改革論議に おいても有意義であろう。 (1)金の公定価格廃止までの推移 28) Aschinger C 8), S. 94−97. 29) Aschinger [3), S. 39.
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ところで前述のように1968年3月,各国の通貨当局は自由市場と金取引を行わないが, 通貨当局間の金取引は公定相場で自由に行うという趣旨の金の二重価格制が成立した。し かし1971年8月の金ドル交換停止後に行われたスミソニアン調整により,交換}生のない通 貨制度が成立したのを契機として,金の自由市場価格が高騰しはじめた。 しかし金ドル交換停止後のアメリカの「金の公定価格」に対する態度は複雑なものであ った。アメリカで強力に主張されはじめた金廃貨論からすれば,金ドル交換停止後名目化 した金の公定価格を廃止するのが自然であった。ところがアメリカは,それと逆に公定価 格の存続を主張し,これにより金が決済通貨,準備通貨として復活するのを阻止しようと したのである。 すなわち金の自由市場価格と公定価格の乖離が大きくなるにしたがって,公定価格によ り行われねばならない通貨当局間の金決済は停止され,各国の金準備は凍結された状態に なってしまったのである。これは共同フロ 一一ト制をとるEC加盟国間の資産決済制に大き 30) な支障を生じさせた。また!973年の第1次石油危機の発生によりEC金保有国は,域内決 済のみならず石油輸出国との決済に金を使用する必要性を痛感し,ついに/973年11月,通 貨当局間の金決済を公定価格で行うという金の二重価格制廃止が,米欧間で合意に達した のである。 しかし通貨当局間の金決済が自由市場価格に近い水準で行えるようになっても,他国と 決済した金を自由市場から補充できなければ,通貨当局間の金取引も制約を受けることに なる。アメリカは金の二重価格制廃止後は,IMF協定第4条第2項の「基金は加盟国に よる金取引のため平価の上下の変動幅を規定するものとし,いずれの加盟国も平価に所定 変動幅を加えた額を超える価格で金を買い入れ,または平価から所定変動幅を差し引いた 額に達しない価格で金を売却してはならない」という規定を持ち出し,通貨当局は公定価 格を超える価格で金を自由市場に売却することはできるが,購入することはできないと主 張し,EC諸国の自由市場価格からの金購入を阻もうとした。公定価格の存在により,金 の自由市場価格の高騰が抑制され,金価格下落を促進し,アメリカの金廃貨論に有利に作 用したのである。 EC加盟諸国は金の公定価格を存続させるなら,公定価格を引き上げるべきであると主 張し,1974年2月のブラッセル蔵相理事会で金価格引上げについて検討をはじめた。これ に対しアメリカは,金の公定価格引上げはドルの金に対する減価を公式に認めることにな 30) Aschinger (8), S. 33 ff.〈研究ノート>F.E.アヅシンガーの国際通貨制度論 141 るとして強力に反対した。 EC加盟諸国は,アメリカの反対に対し金の公定価格引上げの代わりに,名目化した金 の公定価格廃止を1974年5月のEC蔵相会議で決議した。すなわち公定価格廃止により, 通貨当局間の金決済のみならず,金補充のための自由市場からの購入も自由になり,EC 内での決済通貨,準備通貨としての金の役割を高めることが可能になると考えたのであ る。その後のアメリカの反対にもかかわらず,EC加盟諸国は国際会議での公定価格廃止 要求とともに実績をつくり,1974年6月の10力国蔵相会議(アメリカも参加)では.金準 備を自由市場に近い価格で評価替えして担保に入れることが承認され,!975年1月のワシ 31) ントン暫定委員会では,金の公定価格の廃止が決定した。そしてIMF協定条文第2次改 正が発効した1978年4月には,正式に金の公定価格が廃止されたのである。 (2)金価格引上げと金の公定価格廃止についての論争 金の二重価格制成立後金の自由市場価格と公定価格の乖離が大きくなるとともに,ア メリカは,IMFや各国の通貨当局に保有金を自由市場に売却して,自由市場価格を公定 価格まで引き下げるべきであると主張した。これに対しフランスは,公定価格を自由市場 価格の水準まで引き上げるべきだと反論した。 したがってアメリカとフランスの間に,金の自由市場価格と公定価格の乖離をなくする という点では合意があり,その方法に相違がみられるだけ’であったといえるだろう。この ような状態を打開する妥協案として,アッシンガーは直訳〔2〕で最初に金の公定価格廃 止案すなわち金価格の自由化案を提唱した。これは貨幣用金価格の固定制をやめ,変動す 32) る自由市場価格にあわせて貨幣用金を評価替えしていく方法である。 アヅシンガーは,金価格引上げは世界インフレを促進し,分配上の不平等を生じさせる というアメリカの見解に対し,これは金の自由市場価格が公定価格からあまり乖離してい なかった10数年前のことであり,1972年時点では通用しないと批判する。そして金価格引 上げによるインフレ効果は,貨幣用金の評価益と民間退蔵金の放出から主として生ずると 指摘する。前者は金不磁化政策で処理でき,また後者も今日では常時高い自由市場価格で 放出する道がすでに開かれており,貨幣用金価格を自由市場価格まで引き上げてもインフ レを刺激することにはならないと主張している。 このように金の公定価格廃止により通貨当局は,自由市場価格の変動を参考にして,金 31) Aschinger (8), S. 101−104. 32) アッシンガーの金の公定価格廃止案と自己批判による修正案については,Aschinger〔2〕, 〔3〕,〔4〕,〔5〕を参照されたい。
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を自由市場に売却したり,自由市場から購入することができるので,準備資産に占める金 の割合を自由に決定することが可能となるとアッシンガーは指摘する。 しかし金の公定価格廃止論は,アッシンガー自身が認めているように,金の自由市場が 民間需要のいかんによって変動すれば,それにつれて各国の保有している貨幣用金価格が 絶えず変動し,各国の金・外貨準備高が毎日変化する。したがって基準通貨の為替相場が 33) 変動するのと同じ欠陥が生じる。 したがって,金の公定価格廃止で金が通貨当局間の決済通貨として機能を高めていく と,公定価格の確定にすすまざるをえず,公定価格廃止の欠陥を除くには,貨幣用金の確 定つまり金価格の一律変更を行わなければならなくなる。その場合,アッシンガーは新公 定価格を自由市場価格の予想される変動幅より,やや低い水準に決めるべきであるとして いる。しかし,あまり低い水準に決めると二重価格制の復活となり,ふたたび決済通貨と しての金の機能を阻害することになる。その意味では金の公定価格を自由市場価格より高 い水準に決定する必要があるといえるだろう。そうすれば実質的な金の公定価格の大幅引 き上げとなり,金復位への道を開くことになるであろう。 V きたるべき国際通貨制度とアッシンガーの示唆 アッシンガーは,貨幣用金価格の自由市場価格水準への引き上げにより,アメリカは過 剰ドルを清算できるとともに,ヨーロッパの金保有国は金評価益をIMFへ供出し, IM FがSDRを金で清算する方法もあることを示唆しており,注目される見解である。 一般にヨーロッパ諸国の間には,金の公定価格を自由市場価格にまで引き上げることに より,金が凍結から解除されて,決済通貨として金が使用されるようになると,国際通貨 制度改革も完了するという意見が根強い。1979年3月から発足したEMS(欧州通貨制度 European Monetary System)も,その延長線上に位置するものである。 しかし歴史的にみて国際通貨制度が安定していた期間は,ポンドやドルが金の代わりに 決済通貨として使用され,金はあまり使用されなかった。価値尺度機能として金が有効に 機能しているかぎり,国際通貨制度改革は金の使用を最大限に節約することである。 これはカステン(H.Kasten)の言葉でいえば,「金の廃貨(Abschaffung des Goldes) 34) ではなく,金の脱線能化(Entfunktionalisierung ldes Goldes)をすすめる」ということ 33) Aschinger [3), S. 47. 34) Kasten [9), S. 117.<研究ノート>F.E.アッシンガーの国際通貨制度論 143 である。この意味からすると,金の決済機能を高めるため金価格を引ぎ上げるべきだとす るヨーPッパ諸国の主張は,国際通貨制度の進化に逆行するものといえる。ただ国際通貨 制度を安定化させる前提条件である過剰ドルの処理のために,金価格の確定と大幅引上げ はやむをえない措置:といえるだろう。 ところでアッシンガーは,1947年の開業からドルの金交換性停止までに,IMFは226億 ドルの信用供与実績を持ち,アメリカが供与した短期信用を超えていると強調する。IM F信用が中期信用的性格を持つのに対し,中央銀行間信用は短期信用的性格が強い。ポン ドやフラン危機の際は,まず中央銀行間の短期信用で救済され,その後にIMFの中期信 用に切りかえられている。両者の補完関係がなければ、国際通貨危機の救済は不可能であ 35) つたといつも過言ではないとアッシンガーは主張している。 たしかにIMFは,国際信用の最終的担い手としてすでにかなりの成長を遂げていると いうことができる。その意味からすれば将来の国際通貨制度の中心にIMFを置くことは 決して不自然なことではない。国際通貨制度改革論議において,,ブレトンウッズ協定を 全面的に否定することからは,実りある結果が生まれてこない。いま一度原点にもどり, ブレトンウッズ協定の再検討とIMFの見直しが必要とされるといえるだろう。 〔参 考 文 献〕 ( 1 ] F. E. Aschinger, “The General Revision of the IMF”, The Banfeer, January 1968, pp. 28−33. (2] 一, Die Krise des Geteilten Goldmarktes, Nezae Zarcher Zeitung, Aug. 15, 1972. (3) 一, Das Wdhrungssystem in der MetamorPhose, Fritz Knapp Verlag, Frankfurt a. M,, 1972. (4) 一, “One gold price−or two?”, Ezaromoney ,September 1972. pp. 5−Z (5) 一, “The lmplications now for gold”, Euromoney, April 1973, pp. 7−9. (6) 一, Das Wahrungssystem des Westens, Fritz Knapp Verlag, Frankfurt a. M. (1. Auflage 1971) 2. erganzte Au Elage 1973. [ 7 ) 一, riU[6gliche Auswirkungen der Wirtschafts一 und Wahrungsunion auf die Schweiz im hypothetischen Beitrittsfall sowie als ”zugewandter Ort”, iF. E. Aschinger, H. C. Binswanger, H. M. IMayrzedt, O. v. Platen, Der EuroPaische Wdihrungsblock, Verlag Paul Haupt Bern und Stuttgart, 1973, S. 69−89. (s) 一, Das neue Wdhrungssystem−von Bretton T?roods bis 2zcr Dollarkrise 1977, Fritz Knapp Verlag, Frankfurt a. M.,1978. (g) H. Kasten, Der Funktionswandel des Goldes, Fritz Knapp Verlag, Frankfurt a. M., 1970. 〔10〕則武保夫「キーカレンシーの選択」r金融ジャーナル』第154号,1973年6月号。 〔11〕松村善太郎「為替相場制度と世界インフレーション」r追手門経済論集』第15巻第3号,1981 年6月。 〔12〕竹内一郎「為替相場弾力化とEEC」世界経済研究協会編r70年代の国際通貨』至誠堂,1972年。 〔13〕有馬敏則r国際通貨発行特権の史的研究』日本学術振興会,1984年。 35) Aschinger [6), S. 231.