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マツクス・ウエーバー(Max Weber)に於ける『資本主義の精神』の研究

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近代西欧の社会史を締くと﹁プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神﹂と云う有名な問題がある。詳しく云 えば、近代社会の発展過程に於て一つの主導的な役割をもって来た資本主義の精神の誕生に、プロテスタンテイズ ム、特にピュウリタニズムの倫理が重要な貢献をなしたと云うにある。この﹁新教の倫理と資本主義の精神﹂と云う 問題はかなり古くから論究せられ、殊に富、属弓g胃教授によって﹁プロテンタンテイズムの倫理と資本主義の 精神﹂目①胃。味$冨口胃呂の両愚涛試目。。①Hvoの風八・の切属§冒房目5︵澤君吟︶が発表されて以来、一連の研究史 ① を形造りつL現在に及ぶも論争が続けられている。 ② 随って経済史には寧ろ素人である筆者が多くを語る余地はないと思う。併し素人目にも押し止め難い歴史の巨歩と 云うか、激流と云うか、そうしたものがまざノーと感ぜられるのである。勿論、主題の問題は巨きく深く容易に解明

蟇さるべき塁で催い.薯は司呂閏の上雲の篝を間にその篇;籍を三の毒l解義と禁

蕊lに震をし嶬り、そ暮異な曇としての買奎雷精謹母§・員営国冒属;篭につとめ

マヅクス。ウ千1ノーe雷丙君g閏︶に於ける

﹃申

資本主義の精一耶﹄の研究

一、問↑題的視点

m]

田是正

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ようと思う。 こ§に資本主義の﹁精神﹂と呼ぶところの最良の定式化は、論究過程のうちではじめて、しかも主要な成果として 提示されるであろう。さらに研究の問題的視点が︵こ§で問題としている︶君9日の歴史的現象を分析することが唯 一可能な問題的視点であると云うのではない。観点を異にするならば、こ閏でも別なものが﹁本質的﹂な特徴となっ て表われる←ことは一切の歴史的現象と同様である。鷲えて謂うならば、資本主義乃至市民社会は略々十六世紀の裡に ①冨画潤弓呂禺の主張は宗教哲学の権威国目鼻目8農gロによってその名著貝のの3冒偉堅貝gQ関○胃耐昌呂曾 観胃。底のロロ自国昌箇目︵園号冒胴g乞届︶で神学的立場から明かに肯定されている。併し多くの反論を惹起 し国.”胃頁四ロ屍属巴急員の日5日己属§群島目旨⑳自昌閏昌島。旨巴の言。。冨易o胃澤齢員言賦のggロ画津︾ 園甘叩冒日旦目の。ぽ口胃︵らg︶は最初の反論であり、経済史側からも強い反対が起り就中言2口閏のoBgH屈 己閂国○月帰日の︵乞儲︶︾普甘陣自国ロ具目の跨具僧①。$冒呂閂口の口宍g津島の日ロの︵岳髄︶なる反対特別 論文の価値ある見解が出されている。この論争は今日に至るも終結してはいない。最近には画目牌留冒叩︾ 旨.盲日$︾津.殿35︾国.旨.詞o冨罵mop︾就中”・国.弓色司息司丙呂阻。ご鰹且昏の国陥具○9群農の日︾ ︵伊○目○口︶岳湧邦訳﹁宗教と資本主義の興起﹂岩波文庫︶などもこれを論じている。そしてこれらの論者の 立場は如何にあれ冨幽〆司g閂苞耐胃。扇のg員厨昌圃呂涛感冒。gりゐ凪騨八○$汽§洋農の日吊を基点と している。尚、論争史に就て理解を得たいならば、経済学大系虹大塚久雄編﹁資本主義の成立﹂︵河出群房︶。 梶山力訳﹁プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神﹂︵有斐閤︶大塚久雄訳﹁同上﹂︵岩波文庫︶・﹁原 典経済学﹂︵有斐閣︶﹁経済学研究の栞﹂︵一橋大学︶を参考とせられたい。筆者も上掲書を参考文献として使 ②筆者が自身を素人と呼ぶ意味は、法社会学の領域から中国近代史を専攻部門としているために、広義の立場か ら専門的労作と云うほどの意味ではない。過去五年来の研究成果を問うたものである。 用している。

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① 発展の本格的態勢を整え、十九世紀に至って完成した容姿を示すに至るのであるが、其の歴史的個体としての基本的 性格、就中其の形成過程の個体的特質︵所謂初期資本主義︶に関しては史学史上、少くとも経済史学史上、大掴みに ② 云って二つの極めて対雛的な把握の仕方を見出すことが出来るのである。 ①大塚久雄教授﹁近代欧州経済史序説﹂第二篇参照。 ②問題的視点の方法に就て言凰関教授は﹃われわれの観点にとり本質的なものとしてわれわれに現われてくるも ののみが、資本主義の﹁精神﹂という概念の唯一可能な把握でもなければ、またそうである必要もない。これ は方法I現実の事象を抽象的な類概念に当てはめるのではなくて、むしろつねにまたどうしても特殊個体的な 色合いをもつ具体的な発生的関連としてまとめ上げることを目標とせざるをえない﹁歴史的概念構成﹂の本質 に根ざしている﹄︵﹁プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神﹂梶山訳二三頁。大塚訳三八頁岩波文庫︶ ① さて其の一つは、近代西欧の資本主義の発達は人間の感性的な欲求が傳統の倫理的束縛から漸次に解放され、限り なく自己を拡充していく過程に於て倫理的束縛に対する利己主義の自由の、又個人的営利欲の全面的勝利を招来する と云うのであって、吾々はか畠る把握の仕方を﹁解放説﹂と呼ぼう。もっともこ畠で、解放説と呼ぶ中にも極めて様 ② 々なニュアンスの相違の存する事は勿論であるが、そのなかでの代表的なものは、固旦○国g冨廿oであり、とりわけ ③ 特異な体系として椛成せられたものとして国嗣.弓閂ロ29日ご胃の所説をあげることが出来るであろう。 ①こ§で人間の感性的欲求とは経済史に即して云えば、営利欲陣弓胃冨唱閏のことで、若しヤコブ・フッガーに よれば﹁私はまったくちがった考えであり、できるあいだは儲けようと思う﹂の一語や、圃且○国尉貝酋巳Oの 慣用する表現に従えば﹁出来うる限り多額の利潤を獲得せんとする志向﹂$賃ず9口胃旨8日間肝普白眉冒底8

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来る。 ところで其の二は、之と対砿的に近代西欧に於ける資本主義の形成発達は、人間個人の感性的欲求乃至は放縦とし ① ての営利欲が﹁禁欲﹂的倫理の下に圧殺されてゆく過程だとするのである。か§る見解は極めて奇異に映ずるであろ うが、論究の過程に於て明にされるであろうから、こ且では措いて間はない。か&る把握を吾々は﹁禁欲説﹂と呼ぶ

②③

が、その主張者として所謂ハィデルベルグ学派の国.匝厚ロの計門尉○座耐。pそして就中冨幽〆弓呂閏を挙げることが出 ①禁欲的倫理の問題とするところは、就中冨幽糾弓の蔚獄が﹁資本主義の精神﹂v3陣ハロ$肉眉冒房日匡のな る語で呼ぶところであって、その精神的内容は﹁金銭欲はわれわれの知る歴史とともに古と金銭欲の衡動の ために一切をなげうつかの如き営利でもなく、営利心一般でもない。︵前掲大塚訳五三頁︶端的に云えば営利 の﹁倫理﹂であって営利遂行のためには凡ゆる人間的感性的な欲求を抑えすべてを犠牲としてそれに捧げる禁 欲的倫理的態度を指すのであって、こ畠に、吾々は近代西欧に特有な営利の倫理は何故に旧い営利欲とは反対 に近代的生産力の建設を主体的に推進する作用を起したであろうか、と云う大きな問題にぶつかるのである。 ②瞬切陣易庁園。農の。巨目のの目昌の胃の口号Ho胃璽曽ぽ8国周呂のロ芦甘Qの目箇呂昌属眉砕旦 ③冨凹〆弓gの晶冒の胃gのの9画牙呂の国冒置甘Q8吋vの①鷺八烏切肉眉尉房日pRoの切画日日農の跨貝の画蔚の国員 の①弓甘口︶であり、これを﹁資本家精神﹂房昌静幽房建呂①Hの凪の計︶と呼びつ畠、その系譜的起源を商人的冒険 心と個人的な道徳に無関心な気質のもつ冒利錘えと連続的に測ってゆくが如き竺耆のである.lウエ ー。ハー前掲書梶山訳二八頁大塚訳四四頁参照せられたいl ②伊且○陣①口薗ロo亜目の陣艮幽己鳴号の日○号目①ロ肉画凰計巴匙の自画乳]︺閂弓目、。ロ呉庁の目の旨の固の。底甘号岡 の①の。目。宮の亜甸口風冨凰の日ロの角口回周§岸四房目屋の①肩口烏︵田中善治郎訳﹁近世資本主義の起源﹂収録︶ ③園.国・言閂ロのHg日ご胃兵己胃日○律の旨①丙幽凰厨房日ロの恥導qの陣の、切目ロ亜圃H異のH俸冨oロロ●津展ロのH画○日飼の○﹄、。 ●●

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存在した。しか, と云うのである。 近代西欧に於ける資本主義の歴史的特質として、吾々は顕著な利潤追求的性格と遁大な生産力の建設を指摘し得る が、営利的性格の故に生産力の拡充が招来せられたのであるか、或はまた、営利的性格にも拘らず生産力の拡充が招 来せられたのであるか。︵筆者の卑才のためこのような二律背反的な表現では未だ必ずしも正確ではないと思うが、 これが誤謬でないことは論究の裡に瞭かとなるであろう︶而して、この営利と生産力との結びつきの仕方如何が何故 に吾々にとって重要な問題となるであろうか。 吾々が悠久な世界史の流れを洲源してゆくならば営利が必ずしも近代西欧にのみ特有な現象ではなく、多かれ少か れ凡ゆる地域と時代に共通に見出ざれるものである。併し、今少しく精密な省察を加えるならば、等しく営利と呼 ばれながらも近代西欧のそれが、他の諸地域及び諸時代のそれと著しく異った歴史的性格を具えている事を知るので ある。今旨画洲君gのHの特徴的表現を借りるならば、﹃こ&で﹁資本主義の精神﹂という概念を用いるのはこのよう ① な独自の意味においてNある。しかもその場合資本主義とは、いうまでも濯ぐ近代資本主義のことである。何故なら ば、こ畠で論じようとするものが専らそのような西ヨーロッ。ハ及びアメリカの資本主義であることは、問題の立て方 に照らして自明なことだからである。﹁資本主義﹂は中国にも、インドにも、・ハピロンにも、また古代にも中世にも ② 存在した。しかし後にみるように、それらの資本主義には右に述べたような独自のエートスが欠けていたのである﹄ ③ つまり資本主義はシナ、インド、バビロンにも古代にも中世にも存在したI以下これを前期的資本主義と呼ぼう 両の津mご目印の○圏go、厨

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、 ④ lしかし、之等の資本主義は近代西欧の資本主難とその決定的諸特質に於て遠くかけ離れたものであって、吾々は この決定的な差異を究明することが重要な焦点となるのである。 ①こ§で﹃独自の意味に於て用いられる﹁資本主義の精神﹂とは、弓①富民がフランクリンの教説をもって云うと ころの、資本主義的企業家の倫理的側面であって、殊にフランクリンに見られる合法的利潤を職業︵使命︶と して組織的・合理的に追求する精神的態度を﹁近代資本主義の精神滝voの風八。閏目。8日g属呂冒房日5︶ と名けるのであって︵前掲梶山訳五○頁。大塚訳七二頁︶その倫理的色彩をもつ生活の原則と云う性格を指す さて、吾々が資本主義の社会的系譜を﹁かの人類の歴史とともに古い﹂前期的営利欲に洲源することが出来るとすれ ば、それは近代に至って危大な生産力の基礎を打建てたものとして、近代西欧に於ける資本主義の発達は、他ならね ②前掲梶山力訳二八頁。大塚久雄訳四四頁岩波文庫。 ③本文にも論究している如く明かであるが、君g閏教授の言葉を借りて説明しておこう。﹃こ樫にいう資本主義 とはもちろん西洋○冨園の日に独自な近代の合理的経営のそれであって、中国、インド、。ハビロン、ギリシャ ローマ、フィレンツェから現代に至るまで三千年来世界の各地にみられる高利貸、軍需品調達業者、官職I徴 税の請負業者、大商人や大金融業者たちの資本家ではない﹄冨働舛言の富民の①$日日農跨具、胃尉園員 詞呂喧○鼎の昌巳侭蔚自国巳の爵目的筆者も以後これを前期的資本主義、或は言92の特徴的な慣用語に随 って、賎民資本主義勺自慰I属眉津巴厨日目印と呼ばうと思う。 ④冒幽閤弓gの風の①の悶日目巴岸の跨貝の礫園の晩日”呂唱。固のの。碗巨o哩①周。ぐ○号の日の蒔昌甘眼の且○陣の日四国2 己尉跨貝恥日嗣号切目82口のロ周§洋農の日ロの︾甘口関乱風の骨“津9号旨の易呂冒。閂の關呂ざぽの, 餌①日芦国愚員﹄2弓冨即騨鴨切甘農①go且円の8匂具o閏︶詳農の日︾シ日①月間胃鴎の8号昌尉2の葛︵乞瞳︶ のである。 』

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ここに筆者は問題の核心に迫りつき近代西欧の資本主義の歴史的性格の二つの把握11解放説と禁欲説11のうち ② 何れを正しとするであろうか。この問題に対して稿を改めて脈かにしたいと考える。 ①こ畠に﹁人類の歴史とともに古と資本主義と歴史的性格を異にする近代資本主義とは、﹃近代資本主義の拡 張の原動力は何かという問題はまずもって資本主義的に利用されうる貨幣が何処から来たかにあるのではなく て、むしろ何にもまして資本主義精神の発展ということである﹄︵前掲梶山訳五五頁・大塚訳七七頁︶したが って、吾々は言の蔚曙の言葉を借りるまでもなく、貨幣に渇望する﹁衡動﹂といったものの強弱の程度に其 の差別が存するのではない。金銭欲は、われわれの知る入類の歴史とともに古いものであって、近代資本主義 の﹁精神﹂と前期的資本主義精神の差別は﹁営利の衝動﹂とか﹁呪われた黄金の飢餓﹂︵四日5画。旨曾日の“︶ などの金銭欲によって差別されるものではなく、当にここに禁欲説の云う禁欲的プロテスタンテイズムの倫理 ﹁人類の歴史とともに古とところの人間生来の営利欲が、凡ゆる伝統的束縛から解放されつ畠、生産をその掌中に 掌握してゆく過程として確認せねばならない。之が先に﹁解放説﹂と呼んだ見解の経済史的側面である。併し、之に 反して﹁人類の歴史とともに古い﹂営利欲えと連続的に洲源することなく、却って両つの営利の間に系譜上の断絶 ︵厨四国の冨○やぽの︶を確認して、西欧の資本主義の潅大な生産力は、人間生来の営利欲の自由の発現の結果ではなくし ① てそこには﹁人類の歴史とともに古と営利との間に著しい歴史的性格の差異を打出すのである。これが先の﹁禁 欲説﹂と呼ぶものの経済史的側面である。それは筆者が先にも一言した如く、近代西欧の営利おば、人間生来の営利 ●●●G● 欲とは概念的に相違するところの特有な営利の倫理として把え、そこから近代西欧の資本主義の基本的性格を瞭かに しようと試みるものである。 が問題となるのである。 ②筆者が既に述べ来たり、 また以下述べるところが﹁禁欲説﹂の立場にたって叙述されているのではないか、の

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既に指摘したように﹁解放説﹂の云うところは、資本主義の形成を主体的に推進した精神的起動力を﹁出来うる限 り多額の利潤を獲得せんとする志向﹄a周gのロロ画。ロ号B四○のm時日○m冒底のロの①乱口巳であるとして、それを﹁資 本家精神﹂宵§洋画扁爵呂胃餌の弾︶と呼びつ員、当に資本家や企業家がもつ﹁営利心﹂がそれであるとして、而も その系譜を前期的資本のもつ﹁営利欲﹂︵厚言の3,囚のH︶に求めているのである。 先に近代西欧に於ける資本主義の歴史的性格に関して、解放説と禁欲説とを取りあげ、就中旨“x弓の蔚獄教授の 言葉を借りながら鑛者なりに縦説して来た。併し、この点は更に立入って﹁資本主義の形成を根源的に主体的に推進 して来た精神的エネルギーは如何なるものであったか﹂と云う問題に就て考えねばならぬのであって、単に平面的に 問題を叙するだけでなく、立体的にも暗かにしたいと思うのである。しかも、それは所謂﹁資本主義精神起源藝伽の 精神史的な問題えの一つの解答をも用意していると考えられる。 ①﹁資本主義精神﹂なる語は、従来から極めてI訳語としてもl暖昧なものであって、弓のg儲教授の視点は上来 の解説を参照されれば或程度の理解も得ると思うが、ここではさしあたり﹁資本主義の形成を主体的に推進す るところの﹁糖神﹂或は﹁心理的起動力﹂と云う程の意味に用いておき、更にその榊造内容に至っては、以下 の論究の裡に瞭かとされるであろう。 他の途にこれを求めることは出来ないのである。 疑問と指摘を受けるであろう。確かにそうである。併し、筆者が﹁禁欲説﹂の正しさを承認している場合には

二、資本主義の﹁精神﹂

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さて弓の胃教授によれば、その精神的内容は近代西欧に特有な倫理的雰囲気︵エトス園ロ。⑳︶として把えら柚 営利遂行のためには人間の感性的な欲求を抑えつ&、すべてを犠牲にして捧げる禁欲的倫理的態度なのであって、前 期的資本主義︵賎民資本主義︶精神に見られる単なる﹁営利欲﹂とか﹁営利心﹂とは相容れぬ性格をもっているので ある。彼は所謂前期的資本主義との対比に於て、その特徴的な言葉をもって説明している。 ﹃これこそ資本主義以前の人々にははなはだ不可解かつ不可思議であるとともに、不潔で軽蔑すべきことしか思わ れないものである。人間が生産の労働の目的として、莫大な貨幣と財貨を背って墓に下ることのみをひたすら考える ●●■ロ■● ●●●●●℃●●● などということは、彼らには倒錯した衡勤、つまり﹁呪われた黄金の飢餓﹂v曾昌の“。箇箇日の叩八︵傍点は筆者︶の ② 産物と考えるほかに説明の方法がないからである。しかしまた現在の政治・私法・交易の諸制度のもとでは、また現 在の経営形態や経済の特有な術造の中にあっては、こうした資本主義の﹁精神﹂は純粋な適応の産物︵陸邑画のの一目巴と して理解することも可能である。資本主義的経済秩序はこうした貨幣獲得を使命とする﹁職業﹂への献身を必要とし ③ ている﹄のであり、しかも﹃利潤の追求が道徳上賞識に値するのみでなく、義務たる生活態度の内容と考えられたと に迫らねばならない。 ものであるかは、既跨 る。﹁禁欲説﹂の問函 のに他ならず、吾々栓 然るに他方、﹁禁欲説﹂の問題とするところは、近代西欧に於ける資本主義l産業資本l形成を主体的に推進した ところの精神的原動力は、冒幽〆弓§①儲が﹁資本主義の精神﹂vの①冒八Q8門§詳昌の日吊の名をもって呼んだも のに他ならず、吾々はその性格と構造とを歴史的に分析することが、当に禁欲説本来の課題であることを知るのであ る。﹁禁欲説﹂の問題とするところ、就中弓の一︺胃教授が﹁資本主義の精神﹂と呼ぶところの精神的内容が如何なる ものであるかは、既に或る程度は瞭かであろう。しかし、吾々は更に弓g閂教授の問題的視点を抽出してその核心

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いう事実は、どうすればこれを歴史的に説明しうるだろうかl中略I外面的には利潤の獲得を指向するにすぎぬ活動 が、仙人に蕊務として意識されて﹁使命としての職業﹂という範畷にまで榊成されるに至ったという事実は、いかな る観念の世界にその源泉をもつのであろうか。けだしこの観念こそが﹁新しい型﹂の企業家の生活態度の倫理上の基 ④ 礎と支柱とを与えたものにほかならなかったからである﹄ ①弓のびの儲教授が﹁プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神﹂の中で、特徴的に慣用するヨートス﹂に関 する具体的な用語としてしばしば﹁心的態度﹂aの普目目胆︶﹁倫理的態度﹂︵の庁巨、号のぐの呂騨﹄詩のロ︶﹁生活 の仕方﹂︵鈩罵。①暁門のずの画の昏胃目目的︶と云い、そればかりでなく﹁倫理の衣服をまとった一定の生活型式﹂ ︵大塚訳六三頁。梶山訳四二頁︶﹁経営者の魂をうごかしている精神﹂︵大塚訳七六頁︶﹁労働意欲﹂などの表 現をもしている。随って﹁倫理﹂という語がすぐれた規範を意味しているのに対して、その﹁倫理﹂を内側か ら一定の方向に押しうごかしているところの現実のエネルギーとしてとらえうるのではなかろうか。 ②前期的︵賎民的︶資本主義者には考えも及ばなかった倫理的雰囲気に関して、弓82教授によれば︵梶山訳六 一1六二頁。大塚訳八一丁八三頁︶貨幣の独得を人間に義務づけられた自己目的、すなわち使命たる職業と見 るような理解は、どの時代の道徳感情にも背反するものであり、また教会法にも適用されて﹁神によるこぱる 畠は難し﹂eのoも﹄脚8境ぐ冨己○行の胃︶の教条や、利潤の追求を卑賎︵目愚騨且○︶と呼んだトマスの考えな どそれらは一様に営利を自己目的とする行為は根本的には﹁恥蟠﹂︵ご目の且戸目︶として考えていたものであ る。事実、当時の支配的学説は資本主義的営利の﹁精神﹂を﹁卑賎﹂として排斥しており、或はそうでない場 合に於ても倫理上積極的な評価を与えることはなかったのであって、国①ロ︺鱈日冒淳鱈巳農旨のように、それを道 徳的と見るようなことは考えだにもしなかった。 ③冨騨淵弓8の勗目の胃o8m冨画感呂の圃農涛員昌烏働齢の再八号印汽眉冒房日冒の︵梶山力訳五九頁有斐閣。

④前掲ヲロテスタンティズムの倫晉資本主義嘉遡穐山訳杢貢.毒英豐I岩波文塵.

大塚久雄訳八一頁︶

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筆者は﹁資本主義の精神﹂の内容を解説するために先に﹁営利の倫理﹂なる語を用いたが、更に立入ってそれを考 えるに、それは﹃各人が自己の﹁職業﹂活動の内容を義務として意識すべきであると考え、また事実意識しているよ うな義務の観念である。Iこうした観念こそ、実際、資本主義文化の﹁社会倫理﹂に特徴的なものであり、ある意味 ① ではそれにとって椛成的な意味をもつ﹄ものであって、資本主義の精神はすぐれた意味でのエートスとして自らの槻 に菰友なる倫理的諸徳性l勤労・周到・誠実・決断・純潔・謙遜・平静・沈黙の様な一般に禁欲的性格を具えるlを 其の構造契機として包含しているのである。殊に層画意自画蜀愚鳥冒が弓冨急畠8弓の巴昏︼鼬の。厨胃々 のg胃昌昌呂の質の徴8烏︽︽殉。貝冒。底胃昌日冒○ぐ&﹂︾︾の中で﹃友よ此の教えこそ道理である智懸である。l 併し結局のところを云えば君達自身の勤労と質素と周到とに信頼しすぎる事さえ宜しくない。と云うのは、それらは まことに美徳であるが、天の祝福なくしては枯れ萎むものだからだ。それゆえ謙遜に其の祝福を求め給え﹄と云う、 この教示は極めてサデイショナリテイーな内容を吾々に提供していると思われる。 まさに、こきに、資本主義の精神の構造契機としてのエートスが、前期的資本主義から近代資本主義えと推進せし ② めた要因として理解する段階に来たっている。先のエートスの構造契機を形作る倫理的諸徳性︵勤労・節約・周到・誠 実・決断・純潔・謙遜・平静・沈黙︶が、一般に生産力的な性絡を帯びていることで、言g閂教授はこれを﹁世俗内 的﹂︵旨ご禺弓①Eげぽ︶な性格と呼んでいる。これに就ては、フランクリンの自伝及び諸短篇のうちに特徴的に現われ てくる勤労冒昏の働冨質素厳属島噂周到胃且goのの三者に就て考えればよく分る。即ち、勤労の徳性が﹁生産 力﹂拡充の決定的要因たる労働意志の強化を招来するものであることは云うまでもない。質素の徳性は之を掩護し、 凡ゆる個人的消費を切りつめっ月、生活余剰をあげて、生産化する方向に作用するであろう。さらに﹁周到﹂の徳性

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筆者はこふで、上来の論旨を整理し︵浅学卑才のため極めて筆致が暖昧で不要領かと思うので︶さらに一つの問題 を提示して論究しよう。吾々はプロテスダンテイズムの倫理の特性として、次の二点を指摘し得るであろう。︵一︶ ﹄ ﹃ ノ ○ は、此の両者を支えつ塾、拡充されてゆく生産力に合理的・組織的な性格と方向を与えるであろう。すべての基底に あって禁欲的訓練に基いた根強い個人的自発心は、言葉を強めて云うなれば、資本主義の精神の裡に含まれている禁 ③ 欲的諸徳性は、まさしく生産力を近代的合理的な方向に拡充せしめると云う作用を及ぼしていると、云いうるである

①前掲大塚久雄訳五○頁岩波文庫。。

②言82教授の云う﹁資本主義の精神﹂の場合は、勝れた意味における精神︵の①興︶を意味していることは、 およそ先来からの説明で瞭かであろうが、それは何によりも特定の﹁倫理﹂であり、人々を内側から一定の方 向にむかって押し動かしている倫理的雰囲気であり、彼の好んで用いる術語によれば近代西欧に固有な重l トス﹂︵園底8︶なのである。而して、この塁lトス﹂は単なる受動的な﹁心的態度﹂に止るものではな く、彼の表現によれば﹁構成的︵肉○口の冒胃ご︶に作用するところの要因を含んでいるのである。吾々は、 ﹁エートス﹂が単なる社会心理として蟹はなく、深く倫理と関連せしめつ畠捉えられている所以を注意せねば ならない。 ③近代社会に特有な合理主義とか合理的と云うことは、吾々の生活の合理化の究極的観点の下に様々な方向に向 って行われうるものである。﹁合理主義﹂は一つの歴史的概念であり、その中には無数の矛盾が包有されてい る。しかし、こ§に云う﹁合理的﹂な方向と云う場合には、資本主義文化の最も特徴的な一構成要素となって いる﹁職業﹂観念と職業労働への献身とを生ぜしめるに至った合理的思惟と生活は、一体どんな精神的系譜に 連なるものであるかと、云う問題の究明でなければならない。︵前掲大塚訳九四頁を参照されたじ

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さて吾々は右の二点のうち前者の意味するところは極めて暗に理解しうるのであるが、併し後者の場合はさらに立 入って所謂﹁倒錯﹂した考方に就て解説を加えねばなるまい。 而して、禁欲的エートスの資本主義の精神えの継承の意味は、何にもまして、プロテスタンテイズムの倫理的雰洲 気のうちに形成された特有な﹁職業観念﹂︵国の旨貯己のの︾嵐①の風○○罠己巴の質的変化を遂げゆく過程を究明せねば ① ならないと考えられる。プロテスタンテイズムの﹁職業﹂倫理は一方に於て旧い営利欲を徹底的に否定しながら、他 方に於て、生産力拡充による祉会的貢献に対する報酬としての貨幣利得を十分に正当視していたのであり、一般的常 識からすれば、当に﹁倒錯﹂した考えであろう。併し、吾々がこの﹁倒錯﹂したとまで考えられるところの生産の場 に於て獲得される貨幣利潤は、つねに禁欲的諸徳性の実現であり、それが社会的貢献そのものであると理解されるな らば、此の﹁倒錯﹂を経た禁欲的エートスこそ吾々がこ蚤に云わんとする﹁資本主義の精神﹂vの:爵公附病§洋鈎1 房日5に他かならないのである。 髄と化したのである。 タンテイズムそのものL内容概成であり、それらが資本主義の精神の中に柵造的に組入れられつ&、営利のための精 つL、その主要な世俗的構造契機を形作ることになった。即ち〃先に見たような禁欲的諸徳性は、そもそもプロテス 利的な性格を帯びているとは云え、一つの勝れた生産力的なエートスであり、之が資本主義の精神のうちに継承され 類型が生れ出ずる余地を作り出した。︵二︶さらに、プロテスタンテイズムの禁欲的倫理は、それ自体は強度に反営 欲を有効に阻止し、就中、中産的生産者層の精神的雰囲気がそれを閉め出すことによって、却って彼等の裡に新しい まず、プロテスタンテイズムの倫理のもつ徹底的な反営利的禁欲的な性格は、かの﹁人類の歴史とともに古と営利

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①筆者はこ§に 説を試みよう。 ドイツ語の﹁職業﹂国のH具に相当する倫理的色彩をもって表現される外国語は宗教改革︵一五一七年︶以前に は全く見られないところであって、古代に於ては一般に﹁義務﹂の意味に用いられ、ラテン語でば﹁人間の分 業に基く持続的活動﹂を意味している。﹁職業観念﹂に至っても同様であって、例えばアウグスブルグ信仰告 白にしても、それを倫理的色彩として把えることは不可能である。わずかにその二六条氏。固の、の.岳︶には、 ﹁我々が苦業を行うのは恩恵を渡得するための手段としてざはなく、各人がその圃臼具に応じて︵ラテン語で は甘算oぐoo算ごロの日の匡僅日︶命令されている働きを肉体が妨げることのないよう、これを熟練させるため である﹂という表現をとっている。 然るに君gのH教授が用いる倫理的色彩の﹁職業﹂とか﹁職業観念﹂の様な特徴ある用語は如何なる歴史的プ ロセスを通ってきたであろうか。吾々はその基点をルター以前に求めることは出来ない。旨・罰ロ陣①H以前の聖 書翻訳者や説教者もこれを用いてはいない。而して言患の蝿の云う様な近代的な国閂風概念の創造は言語の上 に於ても、まさにそれはプロテスタントのそれに基くものである。即ち一五三○年のアウグスプルグ信仰告白 は、世俗内的道徳のカトリック的蔑視は益なしとのプロテスタンテイズムの教埋を確定すると共に、その中 で﹁各人はその嗣脅具に応じて﹂の語を用いたのであってあたかも一五三○年初葉からルターが各人のおかれ た秩序をますます神聖視するに至ったこと、同時にまた世俗的秩序を神の不変の意志によるものとして、これ を甘受しようとする彼の態度がますます著しく、信仰がますます鋭い形をとるに至ったときである。こ§に僧 侶たる生活えの神の召命の意味のうちに、ルターの場合には世俗内﹁職業﹂︵労働︶としての色調を帯びるに 而して、こ良に、世界史上極めて特徴的な禁欲的プロテスタンテイズムの世俗職業という概念が誕生するので ある。︵勿論その萠芽はウィクリフに見られるが︶そしてそれが、自らの宗教的救いを確認しようとする﹁救 いの確かさ﹂︵。①禺罵昌○忠旨詩5︶の概念や、そうした宗教的意識が﹁勤労﹂︵言含の薗巴にあたえる心理的 至ったのである。 ﹁職業観念﹂嗣閏具の篦$とか﹁職業﹂切間具に就て弓g陽教授の言葉を借りながら少しく解

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資本主義のエートスego伽︶は、近代西欧市民社会に特微な二大社会階級︵利潤目あてに経営に専念する資本家 I企業家iと賃銀目あてにひたすら労働に勤しむ労働者︶を創出し、形成し、その中から近代資本主義の形成と発展 を促進する方向に作用したのである。若し許されるならば、筆者は﹁資本主義のエートスは資本主義の形成を主体的 に推進する精神的エネルギーとなったのである﹂と表言しておこう。そして、こLに弓g胃教授が特に﹁資本主義 の精神﹂なる用語を特徴的に償用する意味が、解放説のいう﹁資本家精神﹂胃§§房爵呂のHQ風の己と相異するこ とは、自ら瞭かであろう。まさしく禁欲説の目的とするところは、近代西欧に於ける資本主義︵市民社会︶の歴史的 性格を把握せんとするものに他かならなかったのである。︵一九五七・九・六︶ 参考文献11筆者はこの論文のために原典︵梶山力訳と大塚久雄訳︶の他に世界歴史事典︵平凡社︶・青山秀夫 ﹁マックス・ウエー・ハー﹂︵岩波新書︶・経済学新大系十二﹁資本主義の成立﹂︵河出書房︶・大塚久雄﹁宗 教改革と近代社会﹂︵みす智書房︶﹁原典経済学﹂︵有斐閣︶﹁経済学研究の栞﹂︵一橋大学︶を参照した。 殊に大塚教授の論説には教えられるところが多かった。 以上、資本主義の雌 結びを述べておこう。 褒賞と云う新しい﹁使命としての職業﹂どいう範嚥にまで構成されるに至ったのである。 l尚詳しくは弓g閏教授前掲書の六七・八九・九○・九七・百一・百二・百八・百九・百十頁︵大塚訳︶を参 照されたいI。 ● ●● 資本主義の精神に関する富、貝君gの暁教授の見解を、筆者なりに敷術しつ閏解説を試みたが、こ﹄に一応

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