八論
25一一『奈良法学会雑誌」第1巻4号 (1989年3月〕説
V
平和の政治倫理学同
目 次 序 言 第一章従来の平和論の根本的欠陥 第一節価値論の欠如 第二節権力論の欠如(以上第一巻一号) 第二章平和の理論的基礎 第一節平和論の前提と課題(以上第一巻二号﹀ 第二節反戦行動の倫理的正当性(以上第一巻三号﹀ 第三節反戦行動の実践的可能性(以上本号) 第三章平和の究極的制度 結 語平
尾
透
第l巻 4号一一26
第三節
反戦行動の実践的可能性
本章第一節の末尾において少し言及したように、ここで言われている反戦行動の実践的可能性とは、具体的行動に おける諸々の(精神的及び肉体的な)困難の克服の可能性ということではなく、人々における戦争回避そのものの受容 の可能性ということである。即ち、(より適確に言えば)戦争の断念に伴って予想される﹁不利益﹂の国民的な甘受の 可能性ということである。そのような可能性が原理的又は(少なくとも)一般的に認められて初めて、反戦行動(態度 も含めて)は実践可能になるというのである。 i l l -それはどういうことであろうか。何を意味しているのであろう か。まず最初に、この点について少し説明しておきたい。 国家間の戦争の普遍的な原因は、言うまでもなくそれら諸国聞の紛争、即ち多少とも相互的な(様々の種類の)利 害の対立にある。むろんかつては、優勝劣敗の社会法則の下、支配者の権力欲に発する、根本的対立をベ 1 スとしな い一方的な侵略がありえたが、その場合でさえ、可能的又は潜在的な対立情況は成立していたであろう。ましてや現 代において、紛争なき戦争は考えにくい。戦争は何らかの利害対立の存在を常にそのプロローグとするのである。 ところで、そのような利害の対立が起こるのは、そもそも人聞が(既述の如く)根本的な意味においてエゴイストで あり、自己の利益を追求するからである。しかも、そうした自己利益の中でも物質的・経済的な利益は最も基本的・ 一般的であるが、国家が主として関りをもつのもその方面なのである。そうである以上、人聞によって構成される諸 々の国家の聞の利害の対立は、人間性そのものに根ざす必然的なものであり、その対立自体は不可避的であると言わ ねばならないであろう。それは各個人の聞におけると同様厳然たる事実であり、否定すべからざる現実なのである。 しかしそれでは、戦争もやはり必然的であり不可避的なのであろうか。戦争が人間の、従って国家のエゴイズムに由来し、そのエゴイズムの相却がこの世の定めであるならば、戦争もまたそうなのであろうか。決してそうではある まい。よほどのことがない限り人々が暴力沙汰の喧嘩をしないのと同じように、そしてしかも、それが権力の介在な くしても一般にそうであるように、国家もまた、そのような意味において平和裡に共存することができるはずである。 各個人におけると同じように、幾許かの倫理的及び合理的な思慮が働きうるはずである。しかし、それによって実際 に共存が可能となるためには、人々がしているように、国家もまた自らの利益追求を多少とも抑制し、相互に妥協し なければならない。そして時には、何程かの犠牲を甘受し一定限の損失を引き受けなければならない。そうした相互 の自己抑制と自己負担こそが、国家内部におけると同様、国家聞の平和を維持するための根本条件なのである。 前節において、戦争に関する公的・全体的思考が否定され、各人の個人的幸福計算の倫理的正当性が認められた。 そして、国家としての戦争の可否を決すべきは、そうした個人的幸福計算の集積であるとされた。しかし、そのよう な計算結果は(既述の如く)各人一人一人の判断次第であり、それが常に戦争を拒否するとは限らない。特に、もし仮 にその計算において、不利益や損失といった平和のための代償、即ち平和の維持(戦争の断念)に伴う各人の負担が、 大きなマイナス要素として算入されるならば(平和によるマイナスが戦争敢行の場合のそれより大きいということは殆どあり 27一一平和の致、治倫理学帥 えないと思われるが、ともかく万一そのように算入されるとするならば)、それは必ずしも反戦に結びつかないであろうり戦 争の放棄が各人に重大な(とりわけ物質的・経済的な﹀不利益を強いるようであるならば、平和の選択は覚束ないであ ろう。従って、戦争を確実に回避するためには、人々が或る程度の不利益の負担に耐えることが必要である。各人が 平和の国家的代償をそれぞれゐ個人的レベルにおいて敢えて受け入れることが必要である。より精確に言えば、仮に 平和が何らかの不利益の負担を各個人に強いることがあるとしても、それを綜合的な幸福論的見地から(従って、究 極的にはそれも自己幸福であるが﹀承諾しえなければならないのである。果して、人々にそれができるであろうか。人
第I巻4号 28 々は平和のために自己抑制を、更には(部分的とはいえ)自己犠牲を、なしうるであろうか。 1 1 1 1 これが、本節で問 題とする反戦行動の実践的可能性ということの趣旨なのである。そのような可能性を論証ないし基礎づけることによ って初めて、個人的幸福計算の思想はその理論的確立を見るであろう。 そこで以下、こうしたテ l マについて検討を加えていかねばならない。ただその場合、明らかに、人間性に関する 一定の総括的判断が避けられないであろう。だとするならば、(﹁序言﹂で指摘したように)それは議論の客観性の見地 からして問題であるかもしれない。しかし、そのような判断自体は(それが如何に位置づけられるかはともかく)そもそ もあらゆる道徳・政治理論の必然的要求である。そして、人間性が多面的・複合的なものである以上、従ってどのよ うな人間観も完全に誤つてはいない以上、或る特定の人間判断の妥当性は、それが位置する理論全体との関りにおい しかも、本節における(また前節においても言及した)人間論は平和そのもの又は戦争その て判定すべきなのである。 ものの問題と直接的且つ抽象的な形で闘っているのではないから、従ってまた、決定的な意味をもっているわけでは ないから、それが(既に指摘したような)従来の(或る種の)平和論と同じ轍を踏んでいることにはならないであろう。 ともあれ、早速その人間論から入っていかねばならないが、人間の自己抑制の可能性に関してまず基本的に次のよ うに言うことができる。それは、人聞は誰でも(焼述の如く)究極的には常に絶対的・徹底的なエゴイストであるが、 殆ど全ての人間は実際の外的行動においてはそれほどのエゴイストではないということである。如何なる人間も究極 的なエゴイズムから免れえないが、 しかし決して我利我利言者ではない。何故なら、 たいていの人聞はかなりの程度 の理性と想像力と愛情とをもっており、それらによって、 エゴイズムの核たる幸福観念の社会化とその追求の合理化 が図られるからである。その結果、多くの人々は自己の行為を制御することができ、 また実際制御しつつ生きている。 なるほど、人間には様々の利己的欲望や反社会的衝動が潜んでいるが、通常はそれらを自己の内面に閉じ込めること
ができるのである。そして、そのような意識的自己制御ということが正に人間の人間たる所以であり、 まただからこ そ 一定の秩序をもった社会というものをこうして形成しえているのである。むろん(既に強調したように﹀その根底 には権力の存在があるが、 しかし大半の人々は自主的且つ自律的に、従って(平常時には)権力を意識することなく ごく自然に、社会生活を営んでいると言うことができる。権力の最終的保障があるとはいえ、概して平穏な社会生活 の持続というこの根本的事実は、人聞の自己制御能力の最も明白な証拠なのである。 ただ、そうであるとすれば、人類の歴史においてこれまで繰り返されてきた、 また日常的に我々の見聞する、 ニE や コ イズムの噴出は何に由来するのか、という疑問が出てくるかも知れない。一体何が人聞の自制力を麻幅押させてきたの であろうか。それは(先にも少し触れたが、略言すれば)第一に、誤った事実認識であり、第二に、誤った価値意識で あり、そして第三に、絶望や不安、更には恐怖といった精神病理的な要因である。およそ普通の人聞が貧欲なエゴイ ストになるのは、それらが作用するからであり、露骨な外的エゴイズムは決して人間の常態的な性質ではない。しか も、それらの要因は我々の努力によって取り除くことのできるものなのである。ともあれ、社会生活の基本的成立が 29一一平和の政治倫理学伺 たいていの人聞が或る程度の不利益を負担する能力を根本的にもっていること、また負担する用意の十分 にあることは、明白である。反戦行動の実践的可能性の問題を論ずるに当って、このような人間認識をまず提出して 示 す 如 く 、 おかねばならない。 こうした一般論に続いて、 より具体的なレベルで次に指摘すべきは、個人の行動は少なくとも国家の(むろん個人 的幸福計算に基づかない﹀行動よりは倫理的(日倫理的に善)だということである。国家の行動は事実として明らかに倫 理的ではない。外見的にさえ倫理的とは言い難い。それどころか、国家は悪や犯罪の最大の主体であると言っても過 言ではあるまい。それは我々の常に目撃するところであり、そしてこれまでの歴史が雄弁に物語っているところであ
第1巻4号一一30 る。なるほど、国家も譲歩し妥協する。時には、協力や援助もする。しかし、国家の行動原理は基本的にも具体的に もエゴイズムである。国家は絶えず自己の利益を求め、その追求を最優先にする。しかも、そこにおける自己利益の 概念は、幸福主義によって大幅に緩和された、またそれによって倒錯化し逆に利他主義化ずることも稀でない、 般 的な個人のそれとは異なる。国家のそれは個人の場合よりもはるかに狭いのである。或は、より適確に言い換えるな らば、個人の普遍的行動原理の根本的概念が最広義の利益、即ち単に精神的でも利他的でもありうる﹁幸福﹂であり、 その(自己の欲求の充足及び自己実現という)限りにおいてのみ、即ちあくまで究極的に、エゴイスティックであるのに 対
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、国家の場合のそれはごく狭い意味における文字通りの﹁利益﹂、特に経済的なそれなのである。個人は利他的 行為を、(厳密にはともかく﹀それ自体自己の一つの幸福とすることができ、従って自発的・積極的になしうる。しか し、国家における譲歩や妥協、それに協力や援助は、(狭義の﹀自己利益のストレートな追求が阻止された場合の消極 的受容であるか、或は自己利益実現のための単なる手段であり(つまり、所謂﹁政治的﹂な思感からする﹁政治的﹂な行為 であり)、従ってそれは常に外圧的・便宜的なものなのである。 それでは、国家行動のこのような直接的エゴイズムは何に起因するのであろうか。どのようなメカニズムによって もたらされるのであろうか o l l l それは、国家というものは人間によって(人聞によってのみ)構成されているにも かかわらずその同じ(一般的な)人間よりもはるかにエゴイスティックであるというまさにその事実が、既に示唆し ているであろう。何故なら、そのような事実は、人間(個人)は国家の下に参集すればよりエゴイスティックになる ということを意味しているが故に、国家という存在形態そのものがエゴイズムを促進するということになるからであ る。国家のエゴイズムの原因は集団化ないし組織化という形式的契機にある。形式的な集団性そのものが人間本来の 穏和なエゴイズムを偏狭にし、更には異常に肥大せしめるのである。このように、個人と、他ならぬその個人から成る国家とではその倫理性に差異があるということから、国家的エゴイズムの由来が推定されうる。そしてこのことは (このこともまた﹀、次に述べる如く(と言っても、ここでもやはり略説に止めざるをえないが)、倫理の根本原理から合理的 に説明することができるのである。 既述のように、価値そのもの及び非倫理的価値の究極的根拠が(自己の)幸福にあるのに対し、倫理的価値のそれ は全体(又は他人)の幸福にある。従って、倫理性を非倫理性から区別するものは、幸福という価値一般の普遍的要 素は(当然のことながら)両者に共通しているから、全体性という形式である。即ち、或る価値内容(何らかの幸福﹀が 全体性という形式を得る場合に、それは倫理性を帯びるのである。そうであるならば、集団や組織の行動というもの は既にそれ自体において一定の倫理性を保有していることになるであろう o 個人の場合には、その行動が倫理的価値 をもつためには、それが(何らかの﹁社会﹂に対して)非利己的又は利他的な内容を(間接的或は一般的にせよ)もつこと が常に要求される。そのような内容をもたない個人的行動が価値を認められることは、決してありえない。個人的エ 31一一平和の政治倫理学倒 ゴイズムが(或る特殊な要因でもないかぎり)常にエゴイズムの自覚とそれに対する択しさを多かれ少なかれ伴っている 所以である。しかし、それに対して集団の場合には、その如何なる利己的行動も(それにもかかわらず﹀それ自体の全 体性の放に一定の(限定的ではあれ)倫理性をもち、従ってその集団のメンバーの中に主観的な倫理性の意識を生ぜし める。そしてその強さは、集団外部との心理的距離に比例するのである。このような、集団における一定の倫理性の 内在的保証は、その行為内容のエゴイズムを正当化し、或は少なくとも、その悪を相殺ないし緩和するであろう o 集 団的エゴイズムに、個人的エゴイズムの如き灰しきどころか、逆に善行の意識すら(例えば、国家や民族に対する献身 に伴うそれ)見受けられる所以である。個人的エゴイズムの水準をはるかに超え、そして時には暴走する国家のエゴ イズム、その罪悪感なき、或は逆に使命感にすら燃えたエゴイズムは、ここにその成立基盤をもっているのである。
第1巻4号一-32 国家行動はこのようなメカニズムに基づいてそのエゴイズムを露にする。従ってそれは、各個人といえども、彼が 国家的見地に立って判断しようとするときには、極めて陥りやすい畏である。戦争に関する人々の思考や対応がこれ までそのような傾向を強くもってきたことは、明らかであろう。人々は一つの全体のもつ内的普遍性に欺かれて、外 的な不寛容や強硬姿勢をそれと意識することなく保持し続けてきたのである。しかし、国家行動たる戦争行為を(そ れにもかかわらず﹀個人の立場に還元して判断しようとする﹁個人的幸福計算﹂においては、そのようなメカニズムは 作用しない。国家的判断においては、それのもつ一定の全体性という形式自体が倫理化の契機となりうるが、個人的 計算においては、その計算内容が全てなのである。そしてそこでは、(始めに基本的人間認識として提示しておいたよう にJ各人は自らの日常的な幸福観と程々の欲望に立脚して、自己自身の利害得失に関してかなり柔軟な態度を示すに 違いない。既にその社会生活において日々実践している如く、多少の負担や我慢は進んで受け入れる用意があるに違 いない。ましてや、その如何が戦争に、即ち自分や家族等をも含む人間の死や極限的な悲惨さに、関っているとなれ ば、なおさらであろう。それ故、我々は個人的計算に対して少なくとも国家的判断以上の倫理性を期待することがで きる。個人的幸福計算はこれまでの国家的・全体的思考には見られない倫理的・非利己的な判断を可能にするのであ る 以上のように、個人的幸福計算に基づく行為判断は、国家行動におけるような限定的倫理性の内在的保証が欠けて いることによって、逆に倫理的志向性をもちうるが、それが唯一の原因ではない。即ち、戦争と平和に関する個人的 幸福計算の倫理的ポテンシャルを高めるものは、そのような保証の欠如だけではない。実は、国家的レベルでは困難 な個人的レベルの倫理性を支える強力な基盤が、もう一つ存在しているのである。しかもそれは、(前述した﹀倫理的 保証の欠如に基づく基盤が単なる思考上の(即ち、錯誤を誘発する契機がないという言わば)消極的なそれであるのに対
し、積極的・実質的なものである。個人的計算の立場は、このような点からしても、国家全体の立場に較べて倫理上 非常に有利な条件を備えているのである。 それでは、その条件とは何であろうか。個人的立場一の積極的・実質的な倫理的優位性とは何であろうか。
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そ 一見大きな国家的不利益も国民一人当りにしてみればたいしたことは れは全く単純な事実であって、 ないということである。即ち、苦しみも分かち合えば軽くなるという自明の理である。何事も国家的レベルで考えれ ば大きく映る。ちょっとしたことが、しばしば非常に重大なことのように見える。しかし、国家という人聞が現実に 存在しているわけではない。その実体は、言うまでもなく一人一人の人間である。従ってその意味では、全国民の (総体としては巨大な)苦痛も一人の苦痛に等しく、もし仮に全国民の死であっても、それは一人の死に等しい。人聞 の感ずる不幸は常に一人分であり、いくら大きくても一人分を超えることは絶対にないのである。そして、少なくと も(国家の主な関心事であり戦争の一般的原因である)物質的なるものは各人に分割することができるし、また分割せざ 一人当りの負担量は全く徴々たるものになるであろう。かくして、たとえ甘受し難い国 一 言 で い え ば 、 るをえない。その場合には、 家的不利益も、実質的な一人一人の人聞に還元してみるならば、決して耐えられないものではないということになる。 33一一平和の政治倫理学帥 しかも、国民の全てが等しく影響を受けるわけではなく、また各人の幸福度には差があるから、内部で調整したり援 助したりすることもできるのである。 このように、集団は自らの負荷をその構成要素(各人﹀に分散することができるから、そもそも集団というものは 不利益の負担能力、従ってまた譲歩余力や包容力が、個人よりもはるかに高いと言うことができる。つまり、集団の もつ潜在的な倫理的行動能力は極めて高いのである。そうである以上、国家は、最も組織化された集団であるという ことも手伝って、個人よりはるかに倫理的たりうるはずである。最も高度な集団たる国家は、難局や危機に際して本第1巻4号一一34 来個人よりも柔軟に対応することができるはずである。それは言わば物理的にそうなのであって、それ故、国家の倫 理的行動に対して人間性や人間能力の面での障害は何もないのである。しかるに、事実において逆であるのは、精神 的な方向づけが適切になされていない、即ち(上述の如く)国家行動が常に国家全体の立場から捉えられているから である。そうではなくて、個人の立場からするならば、国家は個人にとっての巨大な防壁ないし緩衝装置になりうる のであり、従って、(逆に)そのように庇護された個人の集合としての国家は、寛大な人格者ともなりうるのである。 それでは次に、国家のもっそのような能力は何によって規定されるのであろうか。或る国家の倫理的能力の如何を 決めるものは何であろうか。│││それは、最も基本的にはその国家の園内体制の在り方であり、 わけでも特に重要 なのは国民的な一体性の有無である。前述の如く、集団の倫理的実践能力というものが集団性そのものに、即ちまさ に一つの集団であるということ(それによる負担の分散と内部調整)に依拠している以上、それは当然のことであろう。 つ ま り 、 ( 国 民 的 一 体 性 と 言 え ば 、 ﹁ 序 言 ﹂ に お い て 非 武 装 や 中 立 に 関 し て 言 及 し 、 そ れ ら の 可 能 性 と の 相 関 性 を 説 い た が 、 そ れ と 同様に、)国家の倫理的実践能力は、その園内体制が国民の一体性を確保し推進するようなものであればあるほど、大 きくなるのである。集団としての利点を生かすためには、言うまでもなく、人々の間の協力が不可欠だからである。 ( た だ 、 国 民 的 一 体 性 は 外 部 世 界 と の 相 違 の 意 識 を 高 め る こ と に よ っ て 逆 の 効 果 を も っ 危 険 性 が あ る が 、 そ れ は 全 体 的 思 考 と 結 合 す る か ら で あ る 。 個 人 的 計 算 の 立 場 に 立 脚 す る な ら ば 、 一 体 性 は 倫 理 的 行 動 の 強 力 な 基 盤 と な る で あ ろ う 。 ) 更にそれでは、そうした国民の一体性をもたらすのは、どのような体制であろうか。如何なる社会体制がより強固 な一体性を形成するのであろうか。 li--それは、独裁的体制や全体主義的体制がその反倫理性と本質的不安定性か らして容認されえないが故に、 ただ一つしかない。即ちそれは、普遍的な正義に立脚した体制であり、換言すれば、 より自由且つより平等な(即ち両者が何らかの仕方でできるだけ調和した)体制である。(甚だ抽象的だが﹀そのような体制
は明らかに(全てのではないが﹀より多数の国民の、体制に対する満足感を生み出し、そしてそれは、国家への愛着と 相互の連帯感を育むが、それらは当然国民の一体性をもたらすからである。しかも、最も自然な仕方で、従って真に 強固なそれとしてもたらすからである。それ故、国家の(集団性そのものに由来する)潜在的な倫理的行動能力を十分 に顕在化し実効あらしめるためには、基本的に(社会生活の骨格たる﹀政治・経済システムの普遍性の向上が求められ るであろう。ちょうど個人における内的人格と外的行為の関係と同様に、圏内体制の倫理性が高まれば高まるほど、 国家としての倫理的行動能力も高まるのである。 そして、そのようになって初めて、そもそも国家というものが一個の国際的な行為主体として成立すると言えるで あろう。対外的な関係において、(例えば﹀日本はどうとかアメリカはこうとかいう具合に、国家は一体のものとして 常に語られている。むろんそこには、認識上及び生活上の便宜や、そのように想定せざるをえない法的必要性が認め しかし、それらの国家が国民的一体性の裏付けを欠いているならば(全く欠くということはないにせよてそ れらは実態のない単なる総称にすぎない。その場合実際に存在しているのは、国家ではなくて諸々の勢力(階級・団 体・民族・地域など)やバラバラの国民であり、そのような情況の下では、それらを一まとめにして論ずることは本来 ら れ る が 、 35一一平和の政治倫理学帥 で き な い の で あ る 。 ともあれ、普遍的正義に基づく国民的一体性は、国家が平和行動の真に有効な主体となりうるための基本的な条件 である。従って、圏内的な正義の一般的達成と更なる向上は、平和にとって重要な課題であろう。但し、ここで注意 すべきは、それは決して不可欠な条件とか絶対的な前提といったものではないということである。むろん、最低限の 正義は必要であるが、正義なくして一体性なし、 一体性なくして倫理的国家行動なしということ、従ってまた正義な くして平和なしということ、 で は な い 。 ( そ れ は ま さ に 私 が 第 一 章 に お い て 批 判 し た と こ ろ で あ る J たとえ如何なる国家
第1巻 4号一一一36 であれ、それが(曲りなりにも)一つの集団であるか、ぎり、少なくとも個人以上の潜在的負担能力を保有していること は、疑いないのである。それ故、それは現実に存在している全ての国家に妥当する。全ての国家には多かれ少なかれ 既にその能力がある。正義に由来する一体性とはあくまで最も望ましい理想、従って長期的な目標であり、それは、 人々が個人的幸福計算に基づく反戦行動を実践しうるための前提条件というわけではないのである。 それはともかく、国家行動の倫理性は以上のように国民的一体性と、吏には園内的正義と、深く関っているが、そ のような、国家の負担能力を規定し強化する条件の問題についてはさておき、(先述の如く)国家の負担能力そのもの 即ち倫理的実践における国家の個人に対する潜在的な優位性という事実が認められる。国家は各伺人への負担の分散 によって大きな不利益をも受容することができるのである。そしてそうした事実は、逆に国家的・全体的レベルの思 つまり、それはこれまでのような、戦争と平和の問題を専ら国家全体のことと考える一 般的な見方においては、欠落してしまうのである。国家の潜在的能力は個人的幸福計算の視点によってのみ認識する ことができる。自己の利害や名誉に関して著しく敏感であり、従って常に狭量な反応を見せる国家が、実は大変な倫 考によっては見えてこない。 理的ポテンシャルを内在せしめているということが、そのような視点からは見えてくるのである。そうであるならば、 個人的幸福計算は、それが正しく(即ちそれ自体の論理に従って)行われる場合には、国家の﹁重大時局﹂や﹁危機﹂ に対して冷静に対処しうるであろう。人類の﹁大義﹂や世界の﹁新秩序﹂の真の実態を見究めうるであろう。何故な ら、誰もそれらに関して、戦争をしなかった場合の国家的不利益の各人一人一人にとってのマイナスが、戦争の(可 能性としての)極限的なマイナスより大きいとは到底考えないだろうからである。或はまた、戦争をした場合の国家 的﹁利益﹂の各人一人一人にとってのプラスが、戦争の(可能性としての)極限的なマイナスを補って余りあるものと は決して考えないだろうからである。
以上の如く、個人の集合としての国家の損失負担能力という点からしでも、個人的幸福計算が戦争を否定する可能 性、そしてそれを実際に遂行しうる可能性は、極めて高いと見ることができるであろう。 一人一人の国民という国家 の真の実体から見て、(少なくとも純粋の自衛以外の)戦争ほど引き合わない営為、戦争ほど割に合わない所業はないの である。そしてこのことは、先に述べた論点、即ち、戦争の是非を判定する各個人がその心理傾向においては(行動 能力に優れた﹀国家より(逆に)倫理的であるということを考えてみるならば、なおさらであろう。 つ ま り 、 ( そ の よ う な先の論点と合わせて改めて要言しておくと、)個人は一定の全体性に基づく相対的倫理性の保証を欠いているが故に(そ れをもっ)国家よりも一般に非利己的であるということ、 且つまた、個人は国家という集団の一員であるが故に(集団 全体としての)国家に較べて寛容ないし柔軟たりうるということからして、その個人のなす幸福計算が従来の国家全体 的思考より遥かに平和的であることは、容易に推測されうるのである。 しかも、実はそれだけではない。即ち、個人的幸福計算の平和志向に有利に作用する条件は、その二つだけではな ぃ。更にもう一つの看過すべからざる要素が考えられるのである。それは何かと言えば、倫理的な幸福観念の存在で つまり戦争をした場合としなかった場合の白己自身の幸福に関する比較 37一一平和の政治倫理学
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ある。戦争と平和に関する個人的幸福計算、 計算が、純粋に幸福論的見地からのものハ即ち文字通りの幸福計算)であることは言うまでもないが、(前節でも少し言 及したように)その幸福の中には倫理的なそれも当然含まれている。そしてこの場合の﹁倫理的﹂とは、個人的計算で あるから、先に否定した国家全体的思考に基づく集団的なそれではなく、あくまで一個の人間としての、従ってまた 逆に人類的・世界的な地平に通ずるそれである。もちろん、個人的思考といえども集団的呪縛からの完全な脱却は困 難であろうが、個人に徹すればそれだけいっそう普遍的な人間の立場に接近しうると言うことはできよう o そのよう な立場において成立する倫理的幸福としては、例えば、広く人間一般に対する愛・親近感・共感・同情・憐閥・慈悲第1巻4号一一38 またそれら種々の倫理性への関与の意識に伴う満足感や自負心もそうである。ともあれ、単なる人間と 人間の間に生まれるそうした倫理的な心情や意識、及び少なくとも反倫理的でないという確信は、我々の幸福にとつ ありょう て一つの重要な構成要素なのである。社会的存在たる我々は、他人の有様とその自己との関係に強い関心をもたざる な ど が あ り 、 をえないからである。たいていの人間は、そのため、人と争うことを好まない。ましてや、自分と同じ人聞を殺した り傷つけたりしたいとは思わない。自分が不幸になりたくないと同時に、他人を不幸にしたくもないのである。 そうであるならば、そのような倫理的幸福は個人的幸福計算において必ずや大きな役割を果すであろう。そのよう な、人聞の幸福観念の少なからぬ倫理性は、それ自体として反倫理的なあらゆる戦争に対する障壁となるに違いない。 かくして、狭い意味での自己幸福(所謂快楽や利益)の合理的計算と並んで、戦争を否定するためのもう一つの力強い 根拠が存在しているのであり、我々はこの点からも個人的幸福計算に対して平和的な結論を期待することができるの で あ る 。 ただもちろん、このような、 一個の人間としての自然な感情に基づく倫理的幸福は人間の普遍的な性質であるから、 い つ の 時 代 の 人 間 に も 、 またどの国の人々にも、多かれ少なかれ存在してきた。ところが、なるほどそれにもかかわ らず、そのような幸福は戦争の防止に対して全くと言ってよいほど効果がなかった。博愛を標梼する篤信者のそれす らも、同様に無力であった。しかしながら、そのような事実は、幸福計算において倫理的幸福の役割に殆ど期待をか けることができないということを意味するものではない。人間の幸福における、(狭義の)エゴイズムの圧倒的な優位 を示すものではない。人々の倫理的精神が戦争の前に無力であったのは、決してそれが薄弱であったからではなく、 それが(既述の如き)誤った方向に作用してきたからであり、それを正しく導く観念や理論が欠けていたからである。 如何に強烈な正義感も、それが適切に方向づけられなければ、逆に邪心以上の悪行を生み出すであろう。偏狭な倫理
的確信よりは無邪気なエゴイズムのほうがましである。テロリズムや宗教戦争︿又は宗教的戦争)に見られるように、 た ち 独善的な信念ほど質の悪いものはないのである。従って、必要なことは、人々の既に十分強力な倫理的精神が平和に 向けて正しく発揮されうるようにすることであるが、個人的幸福計算という判断形式はそれを可能にするであろう。 少なくとも、その、純粋に個人的な立場の設定は、(これまで見られたような)倫理的意識と戦争との結合を阻止するに 相違ないのである。 そして、そのようにして人々の倫理的意識が正しい方向づけを得るならば、或は誤った方向づけを免れ得るならば、 幸福計算の結果は明らかであろう。人々が自己自身の幸福に関して如何なる判断を下すかは、論を侠たないであろう。 即ちそれは、人々が幸福計算によって自覚的に戦争を肯定することは(例外的な事態を除いて)ないということである。 戦争による幸福が不戦によるそれを上回ること、或は戦争による不幸が不戦によるそれを下回ることは、殆どありえ ないであろう。何故なら、(既に述べたように、単なる利益の観点からしても戦争は最悪の手段であるが、それだけではなく J 39一一平和の政治倫理学的 大多数の人間は、その倫理的意識の故に、敢えて戦争をしてまで自己の利益を追求しようとは(それが可能であるとし ても)しないからである。自分のために人々が殺し合うことを、おそらく誰も望みはしないであろう。自分の幸福の ために、ただそれだけのために、多数の人々が測り知れない惨禍を蒙るのを容認する人は、おそらくいないであろう。 逆に、戦争をしないことによって(する場合に較べて相対的に)少しくらい自分の利益が減るとしても(既述の如く、そ ういう可能性は綜合的に見て緩めて少ないと思われるが、仮にそうだとして)、戦争に伴う数限りない悲劇がそれで回避され かなり多くの人々は、自らの負担がたとえ相当のもの る も の な ら 、 たいていの人聞はそれを甘受するであろう。否、 であるとしても、倫理的幸福の故にやはりそうであるに違いないのである。 このように、倫理的幸福というものの存在と(のみならず﹀人間の幸福にとってのその重要性が認められるならば、
第1巻 4号一一40 幸福計算によって人々が平和的な判断を下す可能性は、極めて高いと言うことができるであろう。本節において明ら かにされたように、集団(国家)の損失負担能力は大きく(換言すれば)各個人一人当りの負担量は少ないが故に、既 に非倫理的幸福の見地からだけでも戦争の否定は(通常)最も合理的であるが、それに更に倫理的幸福というものが 加われば、その根拠はいっそう強化されるからである。 かくして、人々のなずであろう、戦争と平和に関する個人的幸福計算が平和を選択することは、全く明白である。 それに関して、これまでの論述を整理して言えば、次のようになるであろう。まず第一に、殆ど全ての戦争は人聞に とって収支の全く釣合わない馬鹿げた行為である。即ち、仮にその巨大な損失を問わないとしても、戦争が不戦の場 合に較べて全体としてより大きな利益をもたらすことは、まずありえないのである。第二に、もし万一戦争の断念が 人々に何程かの不利益をもたらすとしても、各個人にとってのその負担量は極めて些少である。それはエゴイストで すら十分に受容することができるものなのである。そして第三に、人聞は、特に個人としての人聞は、我々の想像以上 に倫理的である。従って、倫理的幸福を含む綜合的な人間幸福という観点からして、(大半の)人間にとってはたとえ 幾らかの不利益を蒙ろうとも不戦のほうがより幸福なのである。!ーー以上の諸点を認識するならば、我々は(本節 のテーマである)反戦行動の実践的可能性を承認することができるであろう。つまり、反戦行動(又は不戦﹀は我々に とって物質的且つ精神的により有利なもの、倫理的にも非倫理的にも我々により大きな幸骨(又はより小さな不幸)を もたらすものであり、従って原理的に実践可能であると言うことができるのである。