患者が転倒による割箸刺入に起因する頭蓋内損傷により死亡した症例につき,医師が患者の頭蓋内に遺残していた割箸片を看過した過失を否定した事例(前編) : 杏林大学病院頭蓋内割箸片看過男児死亡事件(綿飴割箸事件)に関する請求棄却判決の評価
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(2) 横浜国際経済法学第17巻第2号(2008年ユ2月). 7 本判決に対する評価 一本件刑事判決と本件民事判決との整合性一. (1)過失認定スキームの差異. (2)本件刑事判決の過失認定スキームに対する批判 (3)医療水準の認定 (4)医療事故と刑事訴追の是非 一東京大学医療政策人材養成講座研究班による政策提言に鑑みて一 似上,次号). 第1事実の概要 杏林大学病院頭蓋内割箸片看過男児事故(綿飴;8‖箸事故)とは,1999(平成. 11)年7月1eH(土)の18時頃,東京都杉並区内に所在する.公立の障害者 自立援助施設であるtすぎのき・けやき園が主催した盆踊大会の会場(同閨の 劃庭)で発生した,綿飴の芯棒として使用されていた割箸刺入による,男児転 倒死亡事故である。その概要は次の通りである。本件患児(当時4歳9ヵ月)と 次兄(当跨8歳1ケ月)は,母親(高校教員。父親とともに本件原告)に連れられ. て間会場に出向いた。母親が遊戯券を受け取るため出向いている間に、綿飴模 擬店を担当していた同施設の男性職員は,患児と次兄に対し「試作晶だよ」と 申し向け,綿飴を手渡した。その後,次兄は綿飴を食べ終わり,走り出したと. ころ,患児も,その後を追って走り出したが降雨により滑りやすくなってい た園庭に足を取られて転倒し,蛭えていた綿飴の芯棒の割箸で喉を突き、受傷 した。患児は,直ちに割箸を掴み,これを折りT折れた割箸あ一部を投げ捨て た(この時点で,恵児の頭盟の奥深い所に7.6 cmの割箸片が残存した。因みに,. 投げ捨てられた割箸片の残りは,警察の現場検証の甲斐もなく,未だ発見され. ていない)。その後.母親力S訴外第三者より,患児が怪我をした事実を知ち されて事故現場に現れ,次いで,禧1施設の女性看謹士が駆けつけたところ、患 児は「あ一んTあ・一+ん,え一ん,え一ん」と大きな声を発し,顔面を紅潮させ. て泣き出した。患児は同施設保憧室においても泣き続けており、看護士が「あ一. んしてね」というと口を開けるなどしていたが救急隊が到着する頃には泣 32S.
(3) 耀劉黙鏑辮蹴漢嬬誓碧撒1蕊)した蜘につき・医師力‘患者の頭齢 き止んでいた。救急車内において,救急救命士が救急活動記録票を作成するた め,患児のバイタルサイン(意識レベル・脈拍・瞳孔反応・対光反射・チアノーゼ二. 口唇が紫色になること・顔貌・顔色などの生命兆候)を3回に分けて計測したとこ. ろ、全て正常であった。とりわけ,患児の意識は清明であり,病院はもうすぐ であると申し向けると「うん」と回答した。救命士は,上記検査結果を踏まえ て,患児を軽症と判断し、被告医師が勤務する杏林大学病院第工・1[次救急外 来(軽症患者対応)に搬入し,「意識はいいです」,「割箸は抜けています」など,. 被告医師に対して数項目の申し送りをして引き継いだ。その際,被告医師は, 救命士とともに,ペンライトで傷口を照らし,確認をしたが,傷口は塞がりか けており,止血していたe被告医師は,引き継ぎ後,「どうしましたか?」と,. 母親に対する問診を開始し,禁忌を調べるための,喘息などの既往歴を質問す るなどしたが,母親からは「割箸で喉を突きました」という回答以外に,受傷 機序に関する説明は得られなかった。被告医師が患児に対して「1コを開けて」. というと,患児は開眼して開口した。被告医師は,患部に額帯鏡の光を当てな がら視診・触診・抗生剤の塗布をなしたが,割箸片は筋肉層内に埋没していた ため,異物を視認できず,接触もできなかった。II屋吐の申告については,神経. 学的所見がないことから,救急車酔と咽頭反射に起因するものと判断した。被 告医師は,初診時の診断を口腔内損傷(軟ロ蓋損傷)と判断し,薬剤の処方と. 次回来院期日を指定し、帰宅させた。患児は,帰路父親が運転する車中にお. いて,事故現場付近のファミリーレストランに所用のため立ち寄った際父親 が「寒い?」と質問すると,「寒い」と回答した(同日19時半頃)。また,被告 医師が処方した薬を嚥下した(同日23時頃)。さらに,母親が「(治ったら)お もちゃ買いに行こうね」と申し向けると,「うん」と回答した(翌11日午前6時頃)。. その1 U寺問半後,患児にチアノーゼ{口唇が紫色に変化すること)が発現し,反. 応がないため(同日71時半頃),両親が救急車を要請し,杏林大学病院第皿次救 急外来(重症患者対応)に搬入されたが.すでにCPA−OA(心1]ili停止)であり.. 蘇生措置を施したものの,死亡が確認された(9時2分)。直ちに死因の究明が 329.
(4) 横浜国際経済法学第17巻第2号{2008年12月). なされ,CTを撮るなどしたが,これを確定することはできなかった(木片は CTに写らない)。杏林大学病院は,両親が病理解剖を拒否したことから,所轄 の三鷹警察署に異状死の届出をなし(医師法第21条),初動捜査と死体検案書の 作成のため、捜査官と監察医(束京都監察医務院嘱託医)を招請し,検死をしたが,. なおも死因は不明であった。そこで,事件性の有無を調べるため,患児の遺体 を司法行政解剖に付した。すると,死因は意外にも頭蓋内損傷であり,転倒に より喉に刺した割箸が小脳に達しており,患児自身によって折られた割り箸の 一部が頭蓋内に遺残していることが判明した。両親は荻窪警察署に対して被害 届を提出した。もっとも,剖検医が割箸を発見したのは,口腔を覗いたときで はなくて,患児の頭蓋の頭頂部(額から上の部分)を全て外し,脳実質を全て切. 除し,頭蓋底を露見させた時点であった。その時点にいたってはじめて,厚く. 堅固な頭蓋底(厚さ1cm位)に開いた,左頚静脈孔という直径わずか数ミリ程 度の狭隣な孔から,割箸が小脳に向かって突き出しているのを発見した。割箸 のような異物が口腔内を経て,軟口蓋(口蓋垂,いわゆる喉ちんこが付いている膜. 状の肉質)より身体内に進入し,咽頭側壁の筋肉層を貫通しつつ,あたかもホー. ルインワンのごとく,直径数ミリの左頚静脈孔に固く嵌入し,なお小脳に突き 刺さるという症例は空前絶後であり,学界の最先端レベルにおいてさえも,見 たことも聞いたこともない症例であった(現在においても唯一無二の症例である)。. 第2 請求原因と本件の争点 1 請求原因要旨 本件患児(当時4歳9ヵ月)は,割箸を姪えたまま転倒して軟口蓋に受傷した ため,意識レベルが低下してぐったりしており,診察中にも嘔吐していた。そ して,被告医師(杏林大学病院救命救急センター第工・且次救急当直医・耳朔1固喉科. 専攻医)は,救急隊員より搬送中にもi嘔吐があった事実を申告されていた(筆 者注…以上,過失の前提皐実)。 330.
(5) 患者が転倒による割箸刺入に起囲する頭蓋内損傷により死亡した症例につき,医師が患者の頭蓋内 に避残していた捌箸片を看過した過失を否定した事例(1欝編). ↓. 上記事実を前提とした場合,被告医師は、患児に対する初診の際に,割箸刺 入による頭蓋内損傷を疑うことができた(筆者注…以上,結果予見義務の内容)。. ↓. ゆえに,被告医師は.付添の母親体件原告)に対して受傷機序に関する問 診を試みるべきであり,また,患児の上咽頭部をファイバースコープで観察し,. 又は頭部をCTスキャンで撮影するなどして頭蓋内損傷を確認すべきである。 そして,脳神経外科医師に引き継いで,頭蓋内損傷による頭蓋内圧充進の抑制.. 割り箸除去等の適切な治療処置を行わせるべきである(筆者注…以上,詰果回避 義務の内容)。. ↓ しかし,被告医師は,既往のような診療上の注意義務があるのにもかかわら ず,これを棚怠した(筆者注…結果回避義務の不履行)。. ↓. かような被告医師の過失に起因しt患児は,脳損傷・硬膜下血腫・脳浮腫等 の頭蓋内損傷群により死亡した(華者注…以上,被告医師の過失と患児死亡との間 の因果関係の存在)。. ↓ ゆえに,被告医師は,被告医師の使用者である被告学校法人杏林学園(杏林 大学医学部付属病院)とともに,原告ら2名に対し,債務不履行(民法第415条) もしくは不法行為(民法第709条・1司法第715条)に基づくところの,as 4,480. 万1,983円の損害賠償義務(民法第416条〕と,不法行為成立時からの各支払済. までの年5分の割合による遅延損害金の支払義務(民法第419条第1項・同法第 404条)を負うというべきであるe. 331.
(6) 横浜国際経済法学第17巻第2号(2008年12月). 2本件の争点 (1)過失の前提事実の存否(患児の容態。とりわけ意識の有無). (2)被告医師の初診における過失の有無(頭蓋内損傷の予見可能性と予見義務). (3)死 因・因果関係の有無(救命可能性。患児死亡という結果回避可能性と結 果回避義務). (4)延命可能性の有無(いわゆる期待権侵害). 第3 判決要旨 1 争点1(過失の前提事実). (1)患児の意識レベル. 患児の意識に異常はないとする,救急活動記録票・救急患者データベースNa 1・外来診療録の記載は,患児に付き添っていた母親を含む各関係者の証言と 矛盾しないので、「…被告医師が患児を診察した時点において,患児の意識レ ベルが低下していたと認めることはできない。」(筆者注…判決文のまま). (2)患児の神経学的所見. 患児の瞳孔径や対光反射に異常はなく,四肢麻痺所見も見られないので,被 告医師が患児を診察した時点においてtF患児に神経学的な異常所見があったも のと認めることはできない。また,患児は救急車内・処置室・診察室において 各1回嘔吐しているが,これは別個の原因に起因するものである。. (3)割箸片の刺入経路と遺残状態. 患児の身体内に遺残した割箸片の先端は,ファイバースコープにより圏視可 能な上咽頭腔に突き出ておらず、目視不可能な軟口蓋と1咽頭側壁の筋肉組織の なかに埋没していたものと認めるのが相当である。. 332.
(7) 患者が転倒による割箸刺入に起因する頭蓋内損傷により死亡した症例につき.医師が患者の頭蓋内 に泄残していた割薯片を看過した過失を否定した事例(前編). 2 争点2(過失の有無). (1)医療水準. 「…人の生命および健康を管理すべき業務に従事する者は,その業務の性質 に照らし,危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるが (最高裁ll召和36年2月16日第一小法廷判決・民集15巻2号244頁参照),この注意義. 務の基準になるべきものは,診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療 水準である(最商裁II召和57年3月30日第三小法廷判決・民集135号563頁)。…」(筆 者注…判決文のまま) .. (3)穿通性口腔外傷に関する医療水準. 「…口腔外傷について,治療手順やマニュァル等のガイドラインに則った医 療水準が確立されていると認めるに足りる的確な証拠はない。…」僅者注…判 決文のまま). (4)被告医師の過失. 「…原告らが,被告医師が行うべきであったと主張する診療・治療は,いず れも患児に頭蓋内損傷が生じていることを診断すべき義務を基礎とするものと 解されることから,まず、被告医師において,割箸が刺入したことによる頭蓋 内損傷が生じていることを診断すべき義務するにおいて,割箸が刺入したこと による頭蓋内損傷および頭部打撲等による頭蓋内損傷を診断する義務があった のかどうかについて検討する」(華者注畔‖決文のまま)。解剖学的な理解に照ら. すと,「…軟口蓋から刺入した異物が頭蓋内に到達するためには,頭蓋底を穿 破するルートと,頚静脈孔を通過するルートの2つがあるとされている。」く わえて,「…軟口蓋から刺入した異物が頭蓋底に衝突するなどして衝撃を与え, これにより頭蓋内に損傷が生じることも考えられなくはない」(筆者注・・判決文. のまま)。もっとも,綿飴の心棒に使用するような割箸は先端が鈍状であって 曲折・破断しやすく,反面,頭蓋底は厚く堅固であることから,頭蓋底を穿破 333.
(8) 枇ifi…!垂llオξ経済法学第ユ7巻第2号 (20081JI三12月). するルートは,医学的見地からは予見し難いものである。現実に,本症例にお いても,凶器となった割箸は,まず硬口蓋(軟日蓋の手前に位置する,頭蓋骨の裏. 付けのある部分)に衝突し,裂けて曲がりながら,粘膜組織を引きずりつつ軟 ロ蓋に刺入し,頭蓋の一部である直径数ミリ程度の左頚静脈孔に嵌入したこと からも理解できるところであり,併せて「…頭蓋底の骨折を疑わせる髄液の漏 出」(筆者注…糊央文のまま)もなかった。また,「…割箸状の木片が頭蓋底を刺. 突し,頭蓋そのものを損傷することなく,刺突の際の衝撃が頭蓋骨中を伝播す ることによって頭蓋内損傷が生じるとの医学的知見が確立していたりtこのよ つな症例がi報告されていることを認めるに足りる証拠はない」(筆者注…判決文 のまま)。診察当時における患児の客観的な容態に鑑みても,これを疑わせる症. 状が生じていたことを認めるに足りる証拠はない。すると,臨床医学的見地か らは,本件症例,つまり,頚静脈孔を通過するルートのみが残ることになるが, この前例のないルートが,本件発生当時の医療水準に・鑑みて予見し得たのか否. かが問題となるところt「…頚静脈の損傷を疑わせる大量の出血,頚静脈孔内 の迷走神経・副神経・舌神経のま員傷に伴う神経学的な障害が生じていたことを 認めるに足りる証拠はな」(筆者注…判決文のまま)く,嘔吐・嘔気についても,. 診察当時における患児の客観的な容態に鑑みて,割箸刺入による中枢神経系の 異常以外の原因を排除することができず,また,中枢神経系の異常所見である ことを認めるに足りる証拠もないのでt被告医師が,これを除外診断したこと は,なんら診療上の注意義務に違反するものではない。以上を総合考慮すると,. 「…口腔外傷に関する医療水準や解剖学的・臨床医学的知見,患児の意識レベ ル,バイタルサイン(生命兆候の計測値),神経学的症状等の身体状態,受傷機転. 受傷部位の状態,頭蓋内に残存していた割箸片が確認困難な状態であったこと に・鑑みれば,被告医師において,(筆者注…頚静脈孔を通過するルートを前提とする). 割箸の刺入を原因とする頭蓋内損傷を予見することが可能であったということ はできない」(華者注…判決文のまま)。したがって,被告医師の診察に過失はな いというべきである。 334.
(9) 患者が転倒による割箸刺入に起因する頭蓋内損傷により死亡した症例につき、医師が患者の頭蓋内 に遣残していた割箸片を着過した過失を否定した事例(前編). 3 争点3(死因・因果関係). (1)因果閏係. 「…訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明で はなく,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果発生 を招来した閲係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり,その判定は,. 通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを 要し,かつ,’それで足りるものである(最高裁昭和50年10月24日第二小法廷判 決・民集29巻1417頁参照)。そして,医師が注意義務に従って行うべき診療行為. を行わなかった不作為と患者の死亡との聞の因果関係の存否の判断は、経験則 に照らして統計資料その他の医学的知見に関するものを含む全証拠を総合的に 検討し,医師の当該不作為が患者の当該時点における死亡を招来したこと,換. 言するとt医師が注意義務を尽くして診療行為を行っていたならば患者がその 時点においてなお生存していたであろうことを是認し得る高度の蓋然性が証明 されれば,医師の当該不作為と患者死亡との間の因果関係は肯定されるものと 解すべきである(最高裁平成11年2月25日第一小法廷:1三‖決・民集53巻2号235頁参 照)。」(筆者注…判決文のまま). (2)被告医師の診察と患児死亡との間の因果関係の有無. 本件における因果関係・救命可能性の有無については,ふたつの問題があっ た。まずは,死因を特定し,その死因を医学的に除去することが可能かという 問題であり,つぎに,かりに医学的な除去が可能であったとしても,患児の容 態が急激に悪化して短時間のうちに死亡したという客観的事実に鑑みて,患児 死亡時までに,死因を除去し得たのか否かという問題であつた。これらの点に. つき,本判決は以下のように判示したeまず,死因であるがこれは,純粋な 医学的見解の対立であるため,証拠として採用された供述・証言・書証などの すべての証拠方法上に現われた諸見解を詳しく説明することは,却って錯綜を 招くので,解説の便宜のため,基本的な対立点のみを明らかにする。かような 335.
(10) 横浜国際経済法学第17巻第2号(2008年12月). 見地から当事者の主張を要約すると,原告らは患児の死因につき,JilL腫説を主 張した。これは,割箸刺入による小脳挫傷を出iflLitaとする後頭蓋窩の急性硬膜. 下血腫に起因して左小脳半球が圧迫され,頭蓋内圧が完進したことにより,脳 幹を圧迫するに至り,呼吸中枢機能が停止したことに起因して死亡するに至っ たとする見解であったeこれに対し,被告らは,lfil栓説を主張した。これは, 割り箸が左頚静脈孔に嵌入した際に,静脈が割り箸により閉塞され,」虹流が停. 止した結果,血液の凝固が始まり,そこに血栓が形成され,不可逆的な静脈還 流障害が生じ,これによって小脳のみならず大脳にも脳浮腫(脳実質が血ilEによ りだぶだぶになること)を発生し,頭蓋内圧が充進したことにより脳幹を圧迫す. るに至り,1呼吸中枢機能が停止したことに起因して死亡するに至ったとする見 解であった。両説の根本的な差異であるが,血腫説は,」血腫を除去すれば死因. である脳浮腫を抑制できるので,患児を救命することは可能であったと考える のに対し,」血栓説によると,血栓は一一nc発生すると除去し得ず不可逆的に進行. するから,死因である脳浮腫を抑制することはできないので,患児を救命する ことは不可能であったと考えるのである体症例の場合,」血液溶解剤の使用は,大 出」血を誘引するので禁忌である)。本判決は,いずれかを死因と特定するに足りる. 証拠はないとし判示したが,弁論の全趣旨や各証拠関係に鑑みて,少なくとも,. 割箸刺入により「…左頚静脈は頚静脈孔部において坐滅し,同部から少なくと も,左S状静脈洞にかけて止L栓が形成されるとともに,小脳実質の損傷(深さ3・. 5cm)および小脳損傷部の周囲の硬膜下腔に出血が生じ・脳の腫れ(その原因に ついては,医師の意見が分かれるところであるが,鑑定書=司法行政解剖における剖検. 所見およびその他の医師の意見に照らしT脳浮腫ないし脳晴脹によるものであった可. 能性が高いというべきである)および脳蓋内圧の完進に伴い,最終的に呼吸ない. し循環中枢の障害により死亡したものと認められる」と判示し,医学的な死因 名は格別として,一応の死亡機序を特定したが,併せて「これに至る具体的な 機序は不明といわざるを得ない」と付言した。つぎに,このような死亡機序を 前提として,頭蓋内損傷との診断を前提として,直ちに手術適応との診断をな 336.
(11) 患者が転倒による割箸刺入に起因する頭蓋内損傷により死亡した症例につき,医師が患者の頭蓋内 に泣残していた割箸片を着過した過失を否定した事例(前編). しt手術に着手して.患児を救命し得たのか否かであるが,CTスキャンを施 行すれば,硬膜下血腫までは診断可能であったというべきである。すると,予. 想される治療経過としては,開頭手術の適応可能性を診断するため,ICUに 収容のうえ経過観察に付し,バイタルサインのモニター装着と,1時間ごとの. CTスキャンを施行したものと思われる。そして,手術適応,つまり開頭手術 に着手する契機となるのは,患児の頭蓋内における異物の存在に他ならないの で,経過観察中にt異物である割箸片を発見し得たのか否かについてであるが,. 患児の身体内に遺残していた割箸片は,筋肉層内に埋没しており,目視不可能. であったこと、CTスキャンは,空気の存在を確認し得るとしても,木片の存 在までは確認できないこと,割箸片は患児死亡後,司法行政解剖に付され,脳 実質をすべて体外に除去した時点になってはじめて,口腔側から頚静脈孔に嵌 入した状態で,頭蓋底から脳実質に向かって突き出している状態で発見された こと,患児の意識は,心肺停止に至る1時間半前まで保たれていたことが明ら かであることなどの事1青に鑑みると,心肺停止に至る前に手術に着手した可能. 性は低いというべきである。したがって,当時の医療水準,以上の事実関係を 前提とすると,かりに頭蓋内損傷との診断のもと,予想される治療経過を辿っ たとしても,患児死亡の時点において,一なお患児が生存していた高度の蓋然性 が証明されたとはいえない。. 4 争点4(延命可能性の有無・期待権侵割 (1)期待権侵害、. 「…疾病のため死亡した患者の診療にあたった医師の医療行為が,その過失 により,当時の医療水準にかなったものでなかった場合において,医療行為と 患者死亡との間の因果閏係の存在は証明されないけれども,医療水準にかなっ た医療が行われていたならば,患者がその死亡の時点において,なお生存して いた相当程度の可能性の存在が証明されるときは,医師は,患者に対し,不法 行為による損害を賠償する責任を負うものと解するのが相当であるく最商裁平 337.
(12) 拙浜国際経滴法学第17巻第2号(2008年12月). 成12年9月22日第二小法廷li…lj決・民集54巻7号2574頁)…」(筆者注…判決文のまま). (2)本件患児の延命可能性. f…本件においては,前示のとおり,患児が死亡するに至った具体的な機序. が不明であり,平成11年7月11日午前6時頃から午前7時…30分頃までの約 1時間30分の間に容体が急激に悪化し,心肺停止状態となったこと,延命の ために具体的にいかなる措置を採るべきであったのかについて,これを認める. に足りる的確な証拠がないことにかんがみれば,患児がその死亡の時点にお いて,なお生存していた相当程度の可能性の存在が証明できたということはで きない。」(誰者注…判決文のまま). 第4 解 説 1 医療事故の動向と本件の位置付 甲斐克則教授は,医療事故の動向を,医療過誤訴訟における予見可能性の認 定の在り方を基準として,以下のような4期に分類されている(刑事判例を含む)。 第1期 → 条理を根拠として,抽象的な注意義務を論じていたに過ぎない,戦前から職後のll召. 和30年代(1964年頃)までの時期 第2期 → 事案ごとの個別事情を考慮して,具体的な注意義務の内容を明らかにし始めた,昭 和40年代(1974年頃)までの時期 第3期 → チーム医療による診療科ごとの分業意識を考慮して、各診療科の医師の注意義務の 阻界を問題とし始めた,昭和50年代以降平成10年(1998年}までの時期 第4期 一 「平成11(1999)年は.医療過誤ないし医療事故の問題を考えるうえで象徴的な年であっ た」(錐者註…甲斐レジュメのまま)。「医療事故に対し,国民の多大な関心が集まり,. 医療事故に過失の競合が広く認められ.また,医療事故の届出義務がクローズァッ プされ,さらには大規摸な薬害事故に対応すべく,専門医のみならず,薬剤の製造・ 開発・販売にっいて製薬会社の幹部にも販売中止義務や回収義務を認め,あるいは, その監督について官僚にも過失責任を認め始めた,平成11年以降の時期」(筆者註 ’・・甲斐レジュメのまま). 甲斐教授は、平成11(1999)年1月11日に発生した横浜市立大学病院患者 取違事件を契機としてt第3期と第4期を区別されている1)。甲斐教授の分類 338.
(13) 響鍵警醗鍵鞠㌶瓢繋塁糟繍鵠)した翻に咋邸力三脚蹴 に準拠すると,同年7月10日に発生した本件は,同年申に発生した,上記事 件・都立広尾病院消毒液誤投与事件・東京女子医大心臓ポンプ誤作動事件とと もに,全国規模のマスコミ報道により社会の注目を集めた,第4期に属する罠 事・刑事の医療過誤事件と位置づけることができる。なお,私見ではあるが,. 平成17(2005)年11月における,東京女子医大心臓ポンプ誤作動事件の無罪 判決を契機として,平成18(2006)年3、月の本件刑事事件無罪判決,同年中お ける東部地域病院絞掘性腸閉塞看過男児死亡事件の不起訴処分,平成20(2008). 年2月の本件民事訴訟における請求棄却判決,同年8月における,福島県立大 野病院産科胎盤剥離妊婦失血死事故の無罪判決,同月29日における,同事件 についての検察官控訴の断念という形で,医師の法律上の責任を否定する判決 等が続いていることを考慮すると,医事判例の流れは変わったというべきであ るから,新たな局面としての第5期,つまり,国レベルにおいて,医療事故に おける真相解明を,提訴や,警察や検察といった犯罪捜査機関に委ねることは 妥当ではないことに気がつき始めた時期に入っているように思われる。その背 景には,国レベルにおいて,医療事故の初動調査を,鉄道事故や航空機事故に おける事故調査委員会のような,公設の第三者機関に委ねようとする動きが具 体化しつつあること,また,罹災患者を救済する方途として、医療事故に対す る無過失損失補償制度が取り入れられ始めたことなどを,司法が考慮し,また.. 捜査機関も,かような潮流の渦中に入り,医療事故の初動捜査機関という役割 を終えつつあることを認識していること,などの事情があるように思われる。. 339.
(14) 猫浜国際経済法学第17巻第2号(2008年12月). 2 医療事故の諸類型 医療皐故の態様を分析すると,およそ次のように分類することができる。 医学的判断を{三}三わない1屋療事故→. 積極的不作為型1医療事故→. 医療行為の概念に該当しない行為に起因する事故。例えば. 患者取り迫え・薬剤誤投与など. 本来なすべき診察や治療をしなかったのみならず,してはな らない別異の診察や治療を行ってしまった場合. 消極舶不イ乍為型医療事故一. 本来なすべき診察や治療をしなかっただけであり,他に何ら かの作為を行わなかった場合。例えば,本件. 本件のような消極的不作為型事故においては,積極的不作為型事故のように,. してはならならない別異の診療行為という現実的な作為が存在しないため,こ. の行為を捉えて過失行為,つまり,注意義務違反に基づく行為と捉えることが できない。そのため,医師の内心における判断行為に基づく純粋な不作為を過 失行為と捉え,これを違法性評価の対象とする必要がある。すると,消極的不 作為型事故は,積極的不作為型と異なり,事後の現実の作為が存在しないとい う意昧で,行為の違法性はかなり低い評価とならざるを得ない。そこで,かり に当該不作為を,なおも法律上違法と評価し,違法行為と観念するためには,. 相当程度に強度な作為義務の存在を認定し,なおかつ作為の可能性・容易性を 認定しなければならない。この点につき,前例のない本件の場合,診療の基準 となるべき医療水準が形成されていないことから,被告医師の過失,つまり作 為義務を論じる前提を欠くのみならず,また,患児の救命可能性も,公判廷に おけ・る証言の集積により,正確な事実関係が明らかにされた時点以降における. 医師証人の証言によると,皆無もしくは著しく低いことから,作為可能性,つ まり因果関係の認定についても困難をきたすことが自明であることから,限界 事例というべき症例であった。. 340.
(15) 當酬繍禦嬬瓢繋塁習聯1嬬)した馴・つき・医8酬者の蹴内 5 医療過誤訴訟と過失の認定 過失の成立を否定するパターンには,ふた通りがある。. 過失の成立が否定される場合としては、予見可能性の不存在により否定され る場合と,予見可能であるも結,果回避不可能として否定される場合の2通りが. 考えられる。これを医療過誤訴訟についてみるに,前者の場合,つまり予見可 能性を欠く場合は,直ちに医師の過失責任は否定される。けだし,医師の注意 義務の上限を画するのは,医学が経験科学であることに鑑みて,医療水準,す なわち診察当時における臨床医学の実践であり2},これに照らし,悪しき結果. を予想し得なかったことは,止むを得ないといえるからである。これに対して 後者,例えば,患者が交通事故などで致命傷を負い,瀕死の状態で運ばれてき. たが医師より充分な治療を受けることなく死亡した場合,如何に医師の診察 が不充分なものであったとしても,当該死亡の結果は,医師の診察以前の事故 に起因する因果の流れに過ぎないので,医師が何をすべきであったのかを論じ ることなく,過失責任を否定すべきことになる。ただ.後者の場合,医師の予 見可能性が肯定されている関係上,医師の診療内容如何によっては,医師に対 する非難が決して低くない場合も考えられるところである。そのような遺族感 情は,精神的苦痛に対する慰謝料の問題として解決されるべき問題であり,因 果関係肯定事例,例えば生命侵害事例におし・て認容される損害賠償額の10分. の1程度の慰謝料支払義務を認容することができる,いわゆる期待権侵害の問 題とされている当かような意味において,本件と事案と証拠関係を同じくす る本件刑事事件判決が,あたかも民事判決のごとく,被告人医師の過失を肯定 しつつ、当該診察と患児死亡の結果との因果関係を否定したことは,患児死亡 の結果が被告人医師の診察に起因するものではないとしつつ,なお被告人医師 34ユ.
(16) 描浜国際経済法学第17巻第2号(2008年12月). の過失を論じるという論理矛盾と相侯って,刑法の兼抑性を旨とする罪刑法定 主義の見地からは,きわめて特異な構成というべきものであった。. 6 過失における結果予見可能性の認定 薬害エイズ禍事件帝京大学ルート判決→ ヨ1件当時までに公表されるなどして客観的な存在となっ. ていた論文や学会報告などの「確度の高い客観的資料」 を重視して,事件発生当時の医療水準を認定し,被告人 医師の過失を否定 本 判 決→ 薬害エイズ禍事件判決とほぼ同じスキームにより.事件 発生当時の医療水準を認定し,被告医師の過失を否定 本件刑事判決→ 関係者の供述や証言を重視し.医療水準にほとんど言及. することなく,被告人医師の過失を肯定. 過失における結果回避義務の内容(本件においては,CTスキャンやファイバー を使用すべきこと)は,予見可能性(果たして,頭蓋内損傷を予想しえたのか否か). の有無や程度との梱麗閏係で決められなければならない。けだし,行為者が,. 行為当時の事情に鑑みて.到底想起し得ない回避措置をなすべき注意義務があ るとしたのでは,法が不可能を強いることになり,法が,国民の行動の予測可 能性を担保するための行為規範(行動の自由の限界を示す行動準則)としての役割. を果たし得なくなってしまうからである。従って,裁判所は,行為者が置かれ ていた客観的な状況を前提として,行為者は,どの程度の判断材料を得ていた のか否かを詳細に検討しなければならない。これは,法理論や法解釈の問題と いうよりもむしろ,事実認定の問題であるが,本件においては,原告主張の事 実関係と被告主張のそれが正反対なので,事実認定のあり方が過失の認定を左 右し,ひいては訴訟の帰趨を決することから,争点のひとつとされた。この点 について考える際には,薬害エイズ禍帝京大学ルート事件判決似下,薬害エイ ズ摘事件判決という。束地刑10判平成13年3月28日判時第1763号ユ7頁・無罪・確 定)の芋鵬「スキームが参考になる4)。本判決は,刑事医療過誤に関する判例で. あるが,甲斐克則教授が指摘されるように,民事医療過誤訴訟において形成さ 342.
(17) 患者が転倒による割箸刺入に起因する頭蓋内損傷により死亡した症例につき.医師が患者の頭蓋内 に遣残していた割箸片を看過した過失を否定した事例(前福). れた医療水準の理論は,刑事医療過誤における過失認定にも供し得ることから (註(3〕参照),医療退誤における過失認定は,民事医療過誤において割合的認. 定が可能な点を除くと,民事事件と刑事事件おいて,ほほ同じスキームである といっても過言ではないので,薬害エイズ禍事件判決のスキームは,本件にも. 演鐸できると考えられるからである。この事件において,裁判所は,非加熱製 剤の使用による患者のエイズ罹患・死亡という結果の予見可能性の認定につき,. 関係者の供述や証言は,時の経過により風化し,あるいは確信犯的に変化する 余地があること(薬害エイズ禍発生から起訴まで8年を経過),また,商業的採算. ベースであって,客観的真実よりも視聴者の嗜好に迎合しがちなマスコミの世 論操作による影響も払拭し得ないことなどを理由として,これを重く見ること なく,事件当時までに公表されるなどして客観的な存在となっていた論文や学 会報告などの「確度の高い客観的資料」を重視した。この点,本判決も「確度 の高い客観的資料」を重視して,過失認定の前提事実となるべき患児の意識は,. 救急活動記録票に示されているように「清明」であり,原告らが主張するよう な,意識不明ないし膣朧とした状態ではなかった。また,患児の容態について も,受傷のショジクや泣き疲れなどにより元気がない状態ではあったが,原告 らが主張するような,神経学的な異常所見を示す,ぐったりしていて手足に力. が入らない状態ではなかったと認定した。また,今から9年前に遡る本件事故 当時においては,口腔内損傷の診断のみに基づいて,CTスキャンや鼻咽腔ファ イバ・一スコープ検査を行うべきとする医療水準は形成されていなかったことを. 証明するため,アメリカ合衆国の著名な医学者ラドコウスキーらによる,ロ腔 内損傷患者の診察方法に閨する医学文献ならびに統計的なデータを用い5),口 腔外科医(国立大学歯学部口腔外科主任教授)を証人として申請するなどし,さら. には,わが国においては数少ない小児耳鼻科専門医1を証人として申請し,併 せて同医師が作成した資料やビデオを証拠として申請し.小児耳鼻科医療の実 際についての証言を得た。裁判所は,これらの証拠方法を,その判示中に引用 している.民事医療過誤訴訟において形成された医療水準の理論にあてはめて,. 343.
(18) 横浜[X際経済法学第17巻第2号 (2008年12月). おおむね肯定的に評価し,本件患児の意識や容態に鑑みると、初診時における. ファイバースコープの使用やCTスキャンは不要であり,また,本件症例が開 頭手術の適応例でもなかったと判断した。つまり,過失の前提事実や注意義務 違反の認定については,風化を免れず,また主観に偏しがちな関係者の証言の 信用性に疑問を呈したのであった。以上の薬害エイズ禍事件判決や本判Veに対 し,本件刑事判決は,「確度の高い客観的な資料」の内容とは正反対の認定を した。つまり,過失認定の前提事実としての患児の容態と意識につき「ぐった りとしていて普段とは全く違う様子であること」,あるいは「意識レベルが低 下してぐったりした状態」(筆者注…刑事]判決要旨のまま)と認定し,また,初診. 時における頭蓋内損傷の予見可能性を認定するための前提事実として不可欠で ある割箸の刺入経路につき「割箸は上咽頭腔を通過している」(誰者注…刑事判 決要旨のまま)と認定し,初診ll寺においてファイバースコープを使用すれば割. 箸片を発見し得た,かりに発見できなかったとしても,CTスキャンを施行す れば後頭蓋窩の急性硬膜下」血腫を発見できたはずであるから,これを契機と して開頭手術に着手すれば,割箸片を発見し得たと認定した。しかし,この認 定には,証拠裁判主義の見地からの疑問がある。つまり,証拠として採用され た供述調書・証言のうち,原告母親の証言以外に,患児の「意識が低下」して「ぐっ. たり」としていたことを示す証拠はなく,むしろこれを否定する客観的証拠が 複数存在したこと,またt証拠として採用された供述調書・証言・剖検所見(写. 真を含む)のうちのいずれにも、割箸片が目視可能な上咽頭腔に突き出してい たことを示すものは皆無であったこと,また,公判廷における脳神経外科専門. 医の証言に,意識レベルが低下する前に開頭することはない,CTスキャンで は木片を確認できず,せいぜいエァの存在しか判明しないので,それだけでは 直ちに開頭することはない,硬膜下血腫の診断のみで直ちに開頭することはな い,などの証言が複数存在したこと,換言すれば,硬膜下血腫の診断のみで開 頭手術に着手すると証言した専門医は皆無であったからである。それにもかか わらず,裁判所が,患児は「意識が低下」して「ぐったり」としていた事実, 344.
(19) 響霊酬闘禦麟芒瓢纏窪糟満1蕊)し焼例につき・1哀師聴者噸内 休日夜間救急外来め初診において.割箸片は目視可能なのでファイバースコー. プを使用するべき症例であった事実,CTスキャンをするべき症例であった事 実,開頭手術適応との判断をなすべき症例であった事実などを認定したことは,. 到底経験則や公知の事実として説明し得るものではないことは当然として, 自由心証主義(証拠の証明力の自由評価)があくまで「確度の高い客観的資料」 の存在を前提とすることを忘れているとの諦りを免れないであろう。また,「確. 度の高い客観的資料」を顧みることなく,関係者の証言を偏重して前提事実を 構成し,被告人医師の過失を肯定したことは,医療水準の客観性・行為規範性 の観点からは,前例のない症例に関する先例の在り方として問題があるといえ よう。. (後編につき,本誌第17巻第3号). 【註釈1 1) 甲斐教授の分類につきT明治大学法科大学院シンポジウム「医療過誤刑事責任∼注意義務の. 明確化をめざして」における次の報告(2006年4月2呂日).甲斐克則「基調報告 医療過 誤刑事貰任における注意義務述反について」,医療過誤における過失認定に言及した報告と して,山室巫「医療過誤刑事貰任∼元裁判官の立場から」,飯田英男「刑事医療過誤の最近 の動向」,ならびに.同じく甲斐教授の分蕪につき,明治大学法科大学院シンポジウム「医. 療と法 医療過誤と刑事責任の現在」における次の報告(2004年5月8日),甲斐「刑事医 療過誤の近年の動向と問題点⊥医療過誤における過失認定に雷及Lた報告として.飯田「医 療過誤と刑事責任の現在」. 2)医療水準とは,臨床医学の実践レベルを表わす概念であり.医師の注意義務の限界を画する 基準として,主に民事医療過誤の領域において形成されてきた概念である。そこで,この概 念を.刑班医療過誤における過失の認定に供し得るか否かであるが,前掲甲斐教授の報告に よると,過失の認定が若干厳格化されることを除けば,ほぼそのまま刑事過失の認定に供し. 得る旨記載されている。なお.民事医療過誤訴訟における医療水準の判例理論は,1960年 代から70年代にかけて多発した.未熟児網膜症に対する診療の是非をめぐる一連の訴訟の 場において形成された。つま1),いわゆる未熟児が出生した場合,その成育を維持するため,. 保育器に収容して酸素吸入を施すのであるが一定の確率で網膜症を発症することが不可避 であり,場合によっては失明に至る症例が散見された。ただ.当時における肌科・小児科の 学会レベルにおいては,光凝固法という先端治療法を施せば,失明の危機を画避できること が知られ始めていたが,開業医のレベルにおいては未だ周知していなかった。そのため,光 345.
(20) ]黄i兵国際経i斉法学第17巻第2←華チ(2008ゴ{三12月). 凝固法を実施しないことに起因する未熟児網膜症が多発し,医療機閲の過失貰任を問う訴訟 が頻発したのであった。判決は区々に分かれていたが,浪終的には,光凝固法の有用性を確 認した班生労働省の通達を機緑として(1975年),かかる通達を境として,それ以前の事例 を過失なし,以後の事倒を過失ありと認定することによi) +一連の訴訟に終止符を打った。. 医療水準に言及した判例の酷矢は,京大輸血梅毒ユ1「件(最一小判昭和36年2月16日集第. 15巻第2号244頁)であるが,その後前記未熟児網膜症に関する一連の判例によって鞘 級化され,医療水準を正而から問題として,前述した光凝固法の実施は困難であったとして. 被告の過失を否定した判例として,未熟児網膜症高山日赤事件(最三小判昭和57年3月30. 日判タ第812号177頁)と,未熟児網膜症1昭和47年1]f件〔最二小判平成4年6月8日民集 第49巻第6号1499頁)があi),反対に,仮凝固法の不実施を根拠に被告の過失を肯定した. 判例として,未熟児網膜症姫路E赤事件(最二小判平成7年6月9日判タ第1571号51頁) がある。なお.ペルカミンS那件{最三小判平成9年2月25日民集第29巻第9号1417頁) は,医療水準の理論の派生原則として,医師の研讃義務を認めた点で注目されている。つま り.医療水準は医師の注意義務の限界を画する概念ではあるも,単なる臨床現場の医療慣行 を表わしたものではないので.医療慣行に従っただけでは免責されず,医師が医療慣行を超 えようとする研鐙義務を怠ったと認められる場合には,なお過失責任を肯定するべきである と判示した点で,姫路日赤事件判決の趣旨を敷行した判決といえる。なお,医療水準に関す る最新の文献として,山口斉昭「医療水準一注意義務の基準」伊藤文夫=押田茂美編署「医. 療事故紛争の予防・対応の実務一リスク管理から補償のシステムまで」47頁(新日本法規 2005).同「医療事故と医療過誤(民事)」甲斐克則編著「ブUッジプック医事法」78頁(信 山社2008}。. 3)期待権侵害論の淵源・沿革・比較法的考察については,商畑順子「「損割概念の新たな一 視点一 Perte d’une Chance論が提起する問題を通して一」法と政治第35巻第4号641頁 (1984).澤野和博「機会の喪失理詮について(1)」早稲田大学法研論集第77号99頁(1996}.. 同(2)同第78号95頁(1996),同(3)同第80号87頁{1997),同第81号163頁(1997), 商波澄子「米国における『チャンス喪失論」(一)」北大法学論集第49巻第6号39頁{1999),. 同(二’完)第50巻第1号138頁(1999)など。また,期待椛侵害論に関する総論的な先 行業績は多数存在するが.故新の文献としては,小賀野晶一「医療皐故訴訟における因果関係」. 伊藤文夫・押田茂實編 医療事故紛争の予防・対応の実務一リスク管理から補償システムま で一79頁(新日本法規2005〕,植草桂子「医療事故訴訟における損害論一延命利益・期待権・. 機会喪失等一」前掲伊藤’押田103頁があり,現時点における判例・学説の動向を,図表を 交えて分かりやすく整理している。なお,最商裁判例のリーディングケース(詰求認容}は. 「切迫性急性心筋梗塞により死亡した患者について,医師が適切な初期治療を行っていれば. 急性膵炎と齪診することなく,患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の. 可能性があるとされた事例」(最二小判平成12年9月22日民集第54巻第7号2574頁)で ある。本判例につきt平沼高明「医師の過失と患者の死亡との聞に因果関係が存在しない場 合と医死の不法行為の成否」塩崎勤編著「医療過誤裁判例の研究」17頁(民事法柑報センター 2005) 346.
(21) 響醗ぽ撒鞠蕊臨謬馨塁聾繍嬬)した酬こつき一長働囎の麟内 【参考文献1 山川一陽 「医療事故の概念とそれによる医療機関・医師の責任」前掲伊藤=押田3頁 高都道彦 「医療従事者の刑事責任」前掲イ]遜=押田14頁 平沼高明 「医師の責任からみた専門家責任」平沼著「専門1:1’C任保険の理論と雲務」83頁 (信山it 2002),「医師の刑事責任」同著「医事紛争入門」79頁(労働基準調査会 1997). 西内岳「医療事故」平沼高明先生古稀記念論築「損書賠償法と責任保険の理論と実務」 27頁(信山社2005) 若松陽子 「医療過誤訴訟の到達点」若松著「歯科医療過誤訴訟の課題と展望新Lい医療の展望 を求めて」19頁以下(世界思想社2005) 大谷 實 「医療事故と刑J・M≡t任」加藤一郎=森島昭夫編「医療と人権医師と患者のよりよい. 関係を求めて」405頁(有斐問1984) 小林充=香城敏麿「刑事事実認定一一裁判例の総合研究一」 (上) (下) 〔判タ社1993). 小林充=植村立郎「刑1惇1[実認定重要判決50選補訂版」上・下(立花書房2007). 【補遺1 本件刑]」[裁判につきt東商刑8判平成20年11月20日は,検察官の控訴を棄却し,被告人医師 を無罪とした。なお,原辞は,被告人医師の過失を肯定しっっ.控訴審である本判決は、被告人 医師の過失をも否定し無罪の結識を導いている点において,原審判決と異なる点に注意するべき. である。また,同年12月1日,東京高検は遺族佃に対し.上告を断念する意向を伝えた。これ. に対し,遺族側は約2400名分の署名を集め,同月2H,これを東京高検に提出し,上告を促す 運動をしたが(読売新聞同年12月4目付夕刊).東京高検の意向は変わることがなく,上告期間 の経過により(同年12月4日),被告人医師の無罪が確定したe. 347.
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