r田舎芝居」をめぐって 天明七年刊の「田舎芝居」は、 洒落本の 通史が語られる場合、 常に見のがすぺからざる一冊として取り上げられて来た洒落本で あり、 恐らくこれからもそうであろう。 .. . 硝かにこの、 作者自らが野夫本と称する小本一冊は、 単なる洒 落本と言って片付けろだけでは済まぬ何程かの
r
国を抱えている こと、 既に諸先学の説かれる通りである。 本稿では、 そのよう9「田舎芝居」が示唆する諸問図を、 いま 一度整理する為に、 その前段階と言うぺき基礎作業のひとつを行 . な う。即ち、「田舎芝居」の持つ、 ほめ営菜・序•本文・校語・ 後序・祓という構成のうら、 作者万象卒の手に成る本文及び序以 外に記された、 竹杖為軽•森殿亭万倍・天竺老人・千差万別・七 珍万宝・狐面堂柳郷という戯号 が、 すぺて作者の仮号では9<、 この時点で実在すろ戯作者のものであることを証し、 そのことの河
)
意味について些か考察を加えたし 一、 竹杖為軽万象亭の門人たち
・ 、. 万象亭の戯号とじては、 天明二年中成立のr江戸花洞老」に云t 殿万象も竹つゑ為軽翁と改て、 砧此道にわけいらん事を思ふ」と (注2) あるのが時期的に早く、 天明三年正月刊の「万載狂歌集」にこ の 号で三首が載る。r江戸花海老」や「閲山人判取帳」の記印から、 万象亭が、 いわゆる天明狂歌痘に参加したのは天明二年中(恐ら く秋に雑された戯作者の会)のことと思われるのであるが、 翌三 年正月には、 芝辿を中心に狂歌壇の軍鉛たらを加えた「絵本見立 仮笞尽」を編み、 同四月二十五日には両国河内屋で著名な宝合の 会を主佃しており、同年七月刊とされる「狂歌師細見」 でも、 ニ 十四名を擁する一派の頭領に四かれる(その中には次代の江戸狂 歌壇を荷う狂歌師が少なくなかった)。狂欧坦に顔を見せてから 僅か一年程の問にこれだけ派手な働きが出来た のも、 奥医桂川家 の出であることによるところが大きいだろう。 但し、 r狂歌師細 見」の分類は多分に遊戯的な気分が弥く、 そこに兄えろ万象序一 門の多く は同年四月刊のr狂歌知足振」には載らず、 「万載狂歌 集」「梧和歌後万戟氏」(天明五年刊)「狂宮鶯蛙巣」(同上)1
石
上
敏
-34-とい った狂歌巣にも取られていない。 ' ともあれ、 以後竹杖為軽の戯号は、竹杖翁等の変化を含めて 「落 菜降狂歌月並摺」全^明三年)r老莱子」「万象平戯作濫閣」「従* 以来記」「太平楽記文」「狂文棒歌撰」r小紋裁」(天明四年) 「売鉄砲挑灯具屈」「徳和歌後万戟集」 「狂苔鶯蛙渠」「宝山金 (注8) 銀酎討」「俳優嵐」(天明五年)r吾要曲狂歌文 血」 (天明六年 ) や「狂歌狂文貼交帖 』「蜀山人判取帖」と、 狂歌・戯作を問わず に用いられている。 従来、 竹杖為軽は森島中良の狂名である、 と されることが多 かったが、 彼自身には竹杖為径を狂歌に限って用 いると いう意識はない。( 「さうは虎巻」 の刊 年は留保。) さて、 天明四年刊の賀表紙「 万象亭戯作濫旭」で万象亭の戯号 を披露してか らは、 竹杖為軽の号が記されることは漸減していく のであるが、 こと狂歌に関しては「語和歌後万載集」「狂言鶯蛙 集」「吾妾曲狂歌文印」 と、 相変わらず竹杖為軽の名 で取ってい る。 これらと殆んど時を因かずに天明七年r狂歌才蔵集」r古今 狂歌袋」にもまた竹杖為軽の名が見えるのである が、 これは二世 竹杖為軽. 本禍の文脈に即せば、「田舎芝居」胄頸 で 掛合 いを演 ずる片割れの竹杖為経であった。 ' 天明六年刊の万象亭作とされる黄表 紙は` 「 阿房者哀待」「大 笑止名の鐘入」 「ほ消塔の瞑』r仮名手本混9我」「七福神伊達 の船遊』「四天王刑棘鬼噺」rもAんじい」以上七 部が 知られる が(但し「仮名手本混9我」は年表類に記されるのみであり、 未 見J‘ • このうら 「 阿房者 寝 待 」 (一冊)の五丁 褒 には「万象亭門 人/竹杖すかる作」と記されている。 これだけでは万象卒の趣向 とも考え得るのである が、 その下に見える魯判総)そ‘ 万象亭が 用いた例はない。 の みならず「田舎芝居」の口 絵に描かれた竹杖 為経の、 扇子と沼物にこの田判が見出せるのであ る。 箪者の知る 限りでは孤本である、 大東急記念文叩政『阿房者衷待」 は 袋入 本 であるが、 年表類からこの作が天明六年刊であることは疑い得な い。 即ら、 既にこの時点で、 竹杖為軽の戯号 は中良の手を荏れて いたので あっ た。 翌天明七年刊の江戸名所絵*r絵本あつま鋭」上務五丁衷には、 「二代目竹杖為軽」と記され、 二批為軽の存在は確実とな る。 こ の絵本を出んだ万象亭は、序文と付録「江一戸名所取組」を撰す る のみで、 本編の狂歌・狂文は「名にし江戸絵師に策を揮はせ。 江 戸ッ子の江戸訛を添しめて」(序)と、 門人たちに任せている。 よって下巻 七丁斑の「竹杖為軽」も二批為軽と見るぺきであろう。 同年刊「狂歌才蔵渠」には、 竹杖為軽作二首、 万象亭作四首が 収められる。 このこ とが見過されて来たのは、 例えば「狂歌角カ 草」(天明四年刊)に同一人の二つの戯号(大の鈍金無.述莱舟 橘)が載り、 「万載狂敢災』が 「狂歌百首歌合」における池田正 式一人二役の狂名平郡実柿・布留田造を二つながらそのまま採る といった例、 或いは修辞的杞慮によって一渠中に様ざまな表記を 用いて狂名を記す恨例などによるものと思われる が、 この場合は -
35-まだ春の寒さにとけぬはなの先梅さへ営の頬 かぶり して 残宮 9 , 明ら かに、為軽と万象亭が別人である ための世き分けに他ならな い。同年刊のr古今狂歌 袋」につけば、事限は更にはっきりする であろう。前年刊の当代著名狂歌師一覧r吾妾曲狂歌文庫」の増 補新版というぺきこの絵本には 、百人のうら四十番目に万象亨、 九十二番目に竹杖為軽の肖像が見出せ るのである。こ の絵本の性 , 質に鑑 れ ば、同一人の囮出は考えら れ ない。 以上の点より、「田舎芝居」の竹杖為軽 が万象亭 の仮号ではな く、実在の門人の ひとりであ ることが知られる。とすればまた、 r古今狂歌袋」やrオ蔵集」に戟る「皆人のみどりと呼べる禿松 大夫にならん色ぞ見 へける」「おひねりの包むに余ろわが思ひな ど投げやりに人のなすらん」といった狂歌は、 初代竹杖為軽の作 ではなく、「狂歌袋」の為軽肖像も、中良の像として掲出 するこ とは出来なくなる。 前述のように、二世為軽の初兒は天明六年正月刊r阿房者疫待」 であろ。この時期、 のちの判者森縫亭、山閣堂、花江戸住らを差 し口い て為軽の号を譲られた者とし て適当な名を、筆者は今 のと ころ 挙げることが出来ない。た だ、r古今狂歌袋」の通人風の肖 像、就中手にした因面に見える譲紫の玲5 ) ら、相当の 通人として 閲らした人物に述いないと空想するのみであ る。しかし この二代 目 、 少なく とも為軽の 号を用いては 、余り活躍をすることもなく、 •この号は 二世で途切 れた。 ' 話を万象亭に戻せば、彼は この戯号を僅々数年用いただけで手 雛してしまったわけである。後 出 r無駄酸辛 甘」 のいう、 年に 及んでは、行な述中 を 免れ 、 会へも不レ出して、狂名をけづ る」こ との、具体的現 われのひとつと 言えるだろうか。 確か に、既 に狂歌師としても、頭株の一人と目されていた竹杖為軽の譲号が、 どれ程かの混乱を齋したであろうことは想像に難くないが、この 淡白さは、彼自g艇々楊言する江戸っ子の芙学でもあったのだろ うし、潟物入りの狂歌攻登場から漸く尻すぼみになる、彼の狂歌 へのOO心をも 物語っている ように思われる。 二、森羅亭万倍 万象卒の晩年、文化五年の秋か冬にむかれたと思しき随箪r反 古籠」夷の紋の条に、「其狂習を見たる古老の話せし由、故人一 粒万倍語りき」と の一節が見える。「狂歌才蔵巣」には、 倍の作として、以下の二首が載る。 (巻第一) 鷹狩 くさかれの山のこしよりたつ品の羽音に鷹のへをはな つらん (巷第六) 見立てを用いてきれいにまとめる か、逆に ことさら尾節に傾く の が為経の 狂歌 の 特徴であり、その意味ではよく師風を伝える狂 歌 一粒万 「盟凶
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36-であるが、それはともかく、 この万倍がr田舎芝居」の掛合いで 為軽の相手を勤めろ森羅亭万倍である。 天明六年刊の黄表紙r無束話親宝」五丁裏 には、 「月池門人森 紐亭ぶ」と記される。この世判で志がまた、「田舎芝居」 口絵で森羅亭万倍の掲げた扇に見える(因みに羽磁は卍散らし、 沼物は卍つなぎ)のである。r無束話親玉」は翌年「噺錦画従長 崎強飯」と改団され、 売れ残りを思わせるのであるが、 管見の限 りでは、 この他に彼の戯作を知 らない。同笞に付された万象亭の むた 序に「予か番新の森羅亭万倍か無話書きなり」と見え、 「オ蔵集」 以前の狂歌集等にもこの名は見出せず、万別・万宝より後の弟子 であろこ とが知れる。 にも拘わら ず彼らを押さ えて森羅卒の 号を 得たについては、 他の門人たらが町人 であったのに対して万 倍が 武門にあったからではないか。究政改革と ともに この号 が消える ことが、 それを証するように思われる。 士んばぃ さ て 、森詔 亭を冠した 万倍は、「絵本あつ ま鋭」では「万葉意」 と表記され、 以後見え なくなる。 同笞には真頴も載り、 万菜意と 万葉亭の関係を考えろ必要はないが、七珍万宝が森羅亭を名采る 寛政五年以前には、 森蘊亭万倍は完全に 戯作界とは緑を切ってい たと考えてよいであろう。 或いは「反古籠」に「故人一粒万倍」 とあるよう に、早く没したのでもあろう か。 いずれにもせ よ、万 象卒の後年の随筆に、天明期の戯作者や狂歌師が現われることは 少なく、それだけに 一粒万倍の名 が彼にとっ て鮮明であったこと、 親しいつなが りのあった であろうことを思わせるのであるが、 そ の実名や経歴 となると、 二世為軽と同様、皆目見当がつか ない 。 以上二節で見て来た ように、「田舎芝居」の巻頭を飾るほめ言 菓の掛合いに立ったのは、 決して名前だけの木偶人形ではなく、 万象亨の実在の門人であ った。ところ が、 この門人たらの実在を 見えにくくしたのは、かの「屎海道中膝栗毛」の呼び水として名 高い享和元年刊r田舎芝居」中本型改版の罪であっ た。 そこでは、 天明七年初版におけろ二世為軽•森殺亭万倍のほめ言薬を、 「竹 杖万倍」一人のせりふに改めてしまったの で ある。 こ の間僅かに 十四年。 いかに小本一冊のことであろと はいえ 、天明と享和の間 に横たわろ寛政とい う時代について考え ずにはおれない。 ところが、 享和のこらら側から、戯作の椋乱期天明の彼岸に目 を設らしていろひとりの戯作者がいた。「膝 栗毛」の作者その人、 他でもない十返舎一九である。 三、 狐面堂柳郷 「田舎芝居」 とりわけ中本型改版の、「膝栗毛」への彩輯につ いては、既に 何度か指摘されて来た。 よって、 本節では「田舎芝 居」と 「膝栗毛」との、言わば人閻
oo
係的な接触点について述ペ てみたい。 狐面幽柳郷は、 万象亭門人としては特異な戯号である。 万の一-37-字を含まず、 かつて 万象亭の用い てい た号でもなく、 四字成語で もない。恐らく、 彼の入門した頃には、 既に万象亭が門人たらの 戯号で万字尽くしをするような戯作への情熱もしくは遊び心を持 てなくなっていたことを示して いると思われる。 この戯号の初見 は、 天明六年十一月の後序を持つ(七年正月刊か)万象乎の洒括 本「福神粋語録」であり、 万倍の登場より更に遅い。 またこ の人 物の、 この戯号での戯作は、 策者の知る限りでは宙かれた形跡が ない。しかし、 「田舎芝居』の役処は、 万象亭の当代洒落本批判 を紐返した「4「世に行るゞ晒落本の。或は妓の耳の垢。 又は娼の 隣の脂を穿竪仕たるよふな。片づんだる物とは殊な り 9 云々とい う祓者の位溢と、 前述の二人や天竺老人・千差万別より派手であ る。 そ の署名は「風来山人之孫弟子」と、 序に呼応して もおり、 「福神粋語録」後序に記されろような頻繁な出入り故、 天明六` 七年の頃特に万象亭に 可没がられ たのであろう 。柳郷の住む馬喰 町から万象平の住む築地まで は、 四分の三里程の距離である。(柳 底には柳橋が掛けてあるのだろうし、 狐面堂は御面視でもあるの だろう。柳橋から猪牙舟の船頭に御面倒かけろのだろうか、 と思 わず穿ってもみたくなる9 さて、 「田舎芝居」「福神粋話録」そして「絵本あ つま船」と、 天明七年に万象亭の周辺にの みそ の名を見出すことの出来る狐面 堂柳橋であるが、 彼の用いた「卍扇」の印が、 数年を経て数回 ・ ( 注5) 記される。 第一に究政年間の刊とされる洒落本「面芙知之裡」、 そして享和四(文化元)年刊の「膝栗毛」三細であ る。 前者は自 序末の「南朝山人酔中識」に 並ぺて 「卍扇」と「笑人」の印、後 者は「消冷卒笑丸」の右屑に「品川」左下にFU扇」と陰刻の至' 田笑人」。 古典文学全集の頭注で中村幸彦氏が言われるように、 南朝山人と消冷亭笑丸とは同一人 として間違いあるまい。 Igl題は、 品川に住すろ笑丸と日本橋馬喰町の柳郷との限係である。 箪者は、 これら三宙の年代が一世代の間に十分収まること、 他にこの印を 用いた江戸戯作者を知らないことに加え、「面美知之姓」口絵(笑 丸面)と「福神粋語録」口絵との相似よ り、 笑丸(南朝山人)と 柳邸とは同一人であると考える。「福神粋語録」 口絵に著名はな いが、.柳郷面である可能性が瓦い。 万象亭の洒落本 (他のジャン ルを含めて も)の中でr福神粋語録」と「田舎芝居」の挿画は他 に見られぬ画風を示 す。 これ ら二.由に関わった万佐亭の門人は柳 鯰と天竺老人の二人だけであり、 二街の箪工を柳郷が勤めている ことが明らかである。 この時期、 万象ヰの戯作の面工を勤める可 能性のある面師を挙げれば、 先ず政美そして式上亭柳郊、 消長・ 翌困・歌磨・政菰といったととろだ が、 このうちの誰の 画とも認 め難く、 また彼らであれば署名の記さ れる碓率が店い。加えて「福 神枠語蹂」「田舎芝居」は板元が異な るのに も拘らず面工は同一 人と思われ、 特に前者の口絵に描かれた万象亭の肖像は、 彼のみ なら ず彼の宙斎を知らねば宙けないような写実的なものである。 これらの条件を勘案するに、 二苔の画エとして考えられるのは、
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38-この ように 、内容・方法に関すろ「田舎芝居」 と「膝栗毛」の 近密さに加え{r田舎芝居」と「膝架毛』をつなぐ人物の存在を のである。 作の確論」 抑郷以外になく、その両は笑丸画と記された「面美知之姓」のロ (注7) 絵とよく似通うのであろ。 ここで卍扇の見えるもう一例、「 膝栗毛 」 三編の前年享和三年 刊一九作黄表紙「+闘杜野狐復 讐」 序文に「+返舎の あるじ野‘丁 仇肘美談を狐色なろ黄表紙に著し足が始に 言加へよ と乞ふ」とあ .る 笑丸の口吻を考えると、一九の方から笑丸に近づいて行った風 に見 ・←廷 08 ) これはつま り、一九がわざわざ「膝栗毛」の跛を笑丸 (注7) に乞うたことを示してはいないか。笑丸即らか つての 狐面堂柳知 が、一九が規範と仰ぐ「田舎芝居」への 、実際の参加者であり万 象亭の門人 であったが 故 に。 先に筆者が述ぺた人間関係的なr田舎芝居」 と「膝栗毛」との 接触点 とは、この ことを指す。「膝梨毛」初編の凡例には「館伴 冠砕叫が峙臥函謬%叫鯰 、 そ の曲磁公
5
匹砂 す 」との一条が 掲げ られ 、哨恥iiす益窃口百ヽ こ 如紺芍叫 を 専 に す 。 故 知知訳のふk
」云々と続く。同二扁にも「四配 の訛宮方話の まヽを記し て、其おかしみ5
囮i
す」と見える。「只可咲を専とすぺし」と は、「田舎芝居」序に設縮した万象亭の戯作論の核心に他ならな かった。確かに「膝深毛」の出発に 当って、一 九は万象亭の「戯 (「田舎芝居」序)を自らの方法として摂榜している 想定すれば、これら 二書の関係が改めて哀付けられろのではない だろうか。 四、天竺老人 竹杖為説と同様、この戯号もまたかつて万象亭のものであった。 天竺浪人(諒内)が没した翌安永九年刊 の「金の なる木」序、r風 来六部渠」序に「下界隠士 天竺老人」と記してから天明三年まで 用いられた。ながく天竺浪人と混同されて来たが、林 若樹氏の 指 摘以後区別される。r其女意図」(天明元年刊)r太平楽巻物」 「当世召通記」r蛇蜆冑大通』(同二年刊)といった洒落本「万 象亭戯作濫翔」文中などにこの戯サが見えるが、この号を用いて いた頃に洒落本の作が多かったのであって 、 洒枯本用の戯号だっ たというわけではない。そして、天明 三年の大田南畝編源内逍文 梨r飛花落葉」祓に「風素山人遺弟下界閑士天竺老人」と記し、 『絵本見立仮誓尽」で「天竺名人9竹杖為軽」と改号を表明して以 来、この号は用いられなくなろ。 ところが、前出「福神粋語録」には、四年振りにこの戯号が見 られる。この天竺老人が 、「 田舎芝居」に後語を記した二世天竺 老人 であった。「福神粋語録」序の卍に 也の古判がこ のことを証 し、後述「作 習酒佐字」五丁衷にP-住m天竺老人」と見えろ。 二世天竺老人は「狂歌師細見」 即ら天明 三年の時点で既に万象 亭の社中に加わってい ろ。その頃からの戯号は千鶴万亀、後には -39-専ら万
m
亭を用いた。 狂歌壇にて活躍すろ花江戸住である。「絵 本あつま鍍」には「万印亭花江戸住」、「古今狂歌袋」「オ蔵渠」 には「花 江戸住」で賊り、同じ天明七年には袋入本「作習酒佐字」 が出されろ。r狂歌画像作者部類」によれば「江戸住俗称山口政 吉号万“亭住銀座町」とのこと。 のち感和卒鬼武の.「旧奴帖」に 序を寄せ、 千鶴 阻万“の名で玩本「久笞野石文」(文化五年刊) を苔くなど、 長く戯作界に関わりを持った人物であったが、 二世 天竺老人の号が記されたのは、 実作で は万象キの序文を持つ r作 習酒佐字』 のみ であり、 この名にふさわしい滑柑本や 洒落本 は宙 かれ た形跡がない。 (r旧観帖 A 序は高木元氏の御示教によ ろ。 ) このように、 天竺老人・竹杖為軽•森縫亭という戯号を、天明 五、六年頃次つぎと門人 に譲ってしまった万象亨は、 天明七年刊 の戯作から告様御存知という極幼な戯号を使い始めろ。 冗談にし ても、かな り思い切った冗談であ ろ。 いま詳しく述ぺる余裕はな いが、 この戯号に象徴されるような 万象ヰの「田舎女の大口に似 た無神経な健全さ」(中村幸彦氏r戯作論」)もしくはその擬暖 から、 俺が俺がの後期戯作界までは、あと一歩の距難ではないか。 千差堂万別、 千差亭万別とも。 せんしゃ(じ ゃ)まんべつと訓 みたい。 最も古くからの門人である。 次の七珍万宝と並んで「稗 五、 千差万別 史億説年代記」「 戯作 外阻鑑」に載り、「日本文学大辞典」「日 本古典文学大辞典」も一項を立て ろ。 また東喜望氏「千差万別と その戯作」( 「文学研究」50)も備わるので、 ここ では万象卒と の関わりを中心に述ぺたい。 万象卒の洒裕本r当世芍通記』(天明二年刊)股がこの戯号の 初見である。 翌年の宝合の会では、 主他者万尿平の門人とし て 狂 歌師迎中の知遇を得たものと思われる。 万別の出品は「こがらし の太刀」、 「 狂文宝合記」に「万象4門人千差万別蔵」と記す。「狂 欧師細見」には万字屋(竹杖為軽)に「よろづわかつ」と見える。 また「万象亭戯作濫閣」には、春町の「猿蟹迫昔噺』道成寺所作 平の場面を摸した、 よく知られる石僑所作事の掲而に門人を代表 して登出。万象の販に「突出し新造作者」とあろ「無駄酸辛甘」 (天明五年刊)が、 広範な 知識を支えとした佳作であったのにも 拘らず以後彼の洒落本は刊されず、 黄表紙も 天明八年から究政六 年にかけて四作と少ない。洒落本大系解題で山口剛氏 は、 洒落本 「 猫射 雄 子 」 (突政十一年刊)の万別の祓に「我弟鹿馬軸 」 ' とあ ることから、 正癒鹿馬輔を万別の弟かとされたが、 詳細は不明。 箪者はこの「我弟」、例えば万象亭が源内の「遺弟」と記した如 き一種の親しみの表明と考えろ。 天明八年 から西表紙の作が出さ れ、 その戯作活動に究政改革の 影囁が見られぬことから、 町人であろことは間違いないであろう。 また、 戯作の紺といい質といい随分斑気が 感じられる。 彼が万象 40-前記「稗史億説年代記」「戯作外国鑑 j に加え「近世物之本江 戸作者部類」「戯作者小伝」にも載り、 その素性・経歴の明らか なの が、 七珍万宝(まんぽう)、 後の二世森羅万象である。(匹t 羅亭」については万倍がおり三世3この門人については 、 優 に一 稿を成すだけの事踏を持ち、 詳細は別の機会に譲りたいと思う。 「狂歌師細見」がその名の見える最初で ある。 天明八年(年表 類は天明七年刊「陰徳両万吉事計」 を褐げる が未見)以来、 専ら 黄表紙 を書き、 筆者の知る 限り では、 二十六作を数える。 洒落本 「美止女南話」咄本「落咄はつわらい」等にも筆を染めた。寛政 五年から 森羅亭を名乗るが、 究政八年以降は黄表紙の作が止み、 六、 七珍万宝 亭門人を称した頃には、 万象亭はまだ狂歌連中との交わりは践く、 他の門人たち が狂歌をよくしたのに対して 、 万 別は狂歌を詠んで いない。 即ら宝合の会への参加にも拘らずそれ以後天明狂歌壇の お祭り騒ぎとは自ら一線を画した気配が感じられる。 このように 考え来ると、 前掲論文で東氏の言われる、 医師か蘭学 者かとい う 推測も肯け る ところがある。彼の入門当時の万象亭の輿味の対象 から考えて、 同学の士とい うより遊び仲間という言い方のほうが 適切なつき合いだったのではなかろうか。 ところで、 「田舎芝居」での千差万別 は、 天竺老人と並んで校 含8) 語を付すという、 余りばっとしない役回りであった。 狂歌活動一本となった。 以後、 天明三年頃から 万象亭を介して知 友であった、 四方歌垣の片腕的存在 として四万側の判者 をつとめ、 宗匠位を得ている。 早く寛政四年には、 万宝門人と称する見得坊の黄表紙「為恐肝 心堪忍袋」 が出ているが、 以後見得坊の名は見えない。 文化十二 年刊「四 方歌垣翁追善集」には二 世万象とは別に万宝の名 が見え、 これは二世七珍万宝 であろう。 万宝の狂歌は既に「オ 蔵集」に 二首収まるが、 万象亭・ニ世天 竺老人・ニ世竹杖為軽が載る「古今狂歌袋」には選ばれていない。 彼は「田舎芝居」 では後序を苔いている。 これも柳郷の祓と同 様、 「神代巻日天照世界の親王速素盛烏尊の悪晒落を疎ませ給ひ。 一 41 大用閣の磐戸隠れより以来。 世は湘雲のめった晒落。 次第/\に ― 増長し。 五月鈍如無駄田を小冊にさへ宙著はして。世に行はるA もの八百ガン巻。 何レも似たり寄たり にして。 阿那面白き趣向も なし3云々といった、 序の焼き直しである。 ただ万宝は、 主張を 実作で示すぺ<洒落本「美止女南話」(寛政二年刊)を掛いたの であったが、 万象亭の模倣の域を出るものではな かった 。 この他に、 「狂欧師細見」では、 北尾派の両師政美(鍬形淋斎) ・政油(山東京伝)が万字屋に属し、 戯作者岸田杜芳・南柚笑楚 満人、 浄荊璃作者双木千竹・中田林七•吉田ニ―•豊竹茶里丸、 狂歌師鯉滴昇・帝野横好らの名が見 え、 関而音人や小簾管伎、 宝
蹂小亀も万象亭に近しかった。岸田杜芳や鹿都部其領 は、 太平有 象・柄江万治と、 それぞれ万象の一字ずつをとった戯号を持って いた程である。 芝廼屋山賜ももと大井千尋と名乗って万象傘下に あったし、 三陀題法師も天明期には千秋万歳という万象門の狂歌 師であったと思われる。 . さ て、 彼ら については暫く措き、 「田舎芝居」に戻れば、 以上 見て来たように、 こ●に名を連ねた竹杖為軽•森題平万倍・天竺 老人・千差万別・七珍万宝・狐而堂柳郷は、 すべて万象亭の実在 の門人であった。 万象字を加えて七人、 と話を進めたいが、 その 前に序を記した風来山人門生無名子と作者万象亭を等号で結んで おく必要がある。 無名子とは、 「里のをだまき評」(安永三年成)祓、「菩捉樹 之弁」(安永七年刊)祓、 前出「金のなる木」と、.万象亭がまだ 源内門にあった安永期に用いていた戯号であ り、 宝歴十一年成、 含9) 「飛花落葉」に収められる「木に餅の生弁」がその出処である。 この戯号は門人に譲られた 形跡を見ないし、 r金のなろ木」以 後、 この戯号が見られるのは、 後にも先にも「田舎芝居」序のみ . で ある。 無名子と同様、 風来山人も門人に 譲られろことはなく、 後になって万象亭自身がこの号を 名乗ってもいる。彼の源内に対 すろ思い入れは並大抵のものではなく、.晩年に至ろまで繰り返し ・て追慕が語られ、 最晩年には突然源内の浄瑠璃作者としての戯号 福内鬼外を名乗るなど、 源内のものをそのま ま受け継いだ戯号は、 手離すことをしなかっ た。 よって、. 源内とも っ とも関わりの深い 無名子の号も、門人に譲ることは しなかったと考え る。 その無名 子はr田舎芝居」序で、 「予が只弟子の万象亭」と一応仮構しな がら、 末尾では「そこは万象平気なものなり 1 と正体を顕わして いろし、柳郷と万宝が専ら復唱してい ろのは、 序で無名子の己う いへる 「予か兄弟子の万象亭謂事あり。」以前の部分な のである。 万象亭が「風来山人門生無名子」をこ こで名乗ったのは、翌年 含 & のr風来仮名文選」の序に端的に表われているよう に、 いま一度、 風来山人の正統を声高に表明しておきたかっ た からに他なるまい。 彼の当代洒落本批判は、 百菓を換えれば「源内に伺れ」というこ とであった。 かくて 、 万象亭を加えて七人の戯作者たらは、 r田舎芝居」と 相前後して租か れた「福神粋語録」と細き合った戯作の世界で、 天明七年のお正月に、七福神の気分が味わえろ、 という仕掛けで あ っ た 。 そしてそれ以上に、 これから万象亭一門の目ざす、 戯作の方向 性を示した、 言わば宝船の旗上げの気分 も、この一冊の小本に は 込められていたに 違いない。 で なければ、 どうしてこれだけの周 到さで、 当代洒落本批判を満載する必要があっただろう。結果的 に見れば、 この年六月の定信老中珀任で森を開けた新しい時代の 風に、万象亭は戯作の口を襟まねばな らず··「田舎芝居』の主張 は、 それが捨て科白であったかのような貌を見せて断ち切
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。-42-以後万象一門の戯作には見るもの少なく、 京伝を箪頭とする新し い戯作の前になす術を持たなかっに。 . 本稿の内容だけから万象亭の姿勢云々を導き出すことは到底出 来ないが、 一点のみ言えることがある。 一人の人間が幾つかの仮 .号を用いて成した一甚と、 たとえ門人 であろうと 、そ れが 戯作で あろうと、 何人かの人物が同じ方向を向いて成した l 宙とでは 、 述った把え方をする必要がありはしないか。 (注) ー、 現在最も信穎に足る日本古典文学大 辞典及び洒落本大成の解 囮で水野稔氏は、 そ れぞれ竹杖為軽•森羅亭万倍、 竹杖為経・ 天竺老人が万象亭の仮号で あるとされる。 . 2、・日付の明らかな最も早い例は、 同年+月十三日成 「屁放大神 大御伝」に見える「竹杖翁為軽」。(天理善本叢苔蜀山人集) 3 、 r狂歌新 玉 集」にも 。 また粕谷宏紀氏 ・ 「石川雅望研究」 は 「絵本八十宇治川」にも「竹杖為軽」で載るとされるが未見。 4、 吉原角玉屋の遊女汲紫。 京伝の洒落本「ほ城鎖」には、 義之 の流れをくんだ能街故に太夫の位をつぎ「廓中にならび無き艶 色也」、 後出r無駄酸辛甘」は、 女郎の芸尽しの箪頭に漿紫の 墨絵を挙げる。 5、 加賀文印蔵の 「根無草曾我和物」+五ウ. r可然苦者楽種」 (「笞目年表」は入木とす る が )一オにも 朱印の「卍扇」が見え るが 、「笑丸作」の印と同じく、 製本よ り後に捺され たもの。 r花 闘戦梅魁」 i オの「笑丸誌」も同様である。 6 、 一九と笑丸の交遊等 につい て は、 更に検討を加えたい 。 7、 一九作 「榔討変術巻』の後摺本を笑丸作とするr書目年表」 の説は、 改窪本(国会本)を見たものであろう。 8、 洒落本大成第十八巻解図に紹介される「白狐通廷`」の序に は「千差万別天竺老人」との署名が記されるとのこ とであるが、 これらは同一人の二つの号ではあり褐ず 、 こ のことは中野三敏 氏の召われる偽撰の0の傍証ともなり得よう。 9、 この年中良は八オ。そこに描かれる無名子が彼であるとは考 えられない。 同様に明和五年刊r法陰悶逸伝」(この年中良十 五オ)の無名禅師も微妙なところである。 10、 既に自作を発表しに<い状況の万象卒がヽr飛花落菜」の序 朕等を削り、 自らの序を掲げ て 行な�った改題再板 。その序は 「田 舎 芝 居 」序の主旨に通ずる 。 11、学燈社版日本文学全史で中野三敏氏は、 「田舎芝居」序を洒 落本に対する絶紹状ととらえられたが、 叩者はむしろ逆に、 言 わば挑戦状と考える ものであろ. 0本稿は昭和五十九年度岡山大学国臣国文学会(六•三)におけ る口頭発表をもとに、 同年十二月二十八日に礎稿を得たものであ る 。 (東京都立大学大学院研究生) -