• 検索結果がありません。

近代日本の家庭教育に関する一考察(そのI) : 士族の「家」意識,とくに立身興家思想との連を中心として

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "近代日本の家庭教育に関する一考察(そのI) : 士族の「家」意識,とくに立身興家思想との連を中心として"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)近代日本の家庭教育に関する一考察 (そ. のⅠ). 一士族の「 家」意識,とくに立身興家思想 との 連を中心として一 林. 小. A. Study. 輝. 行. Rearing. of Home. Japan. in Modern. (Part I) Teruyuki. KoBAYASHI*. A. S tJA4M thesis. This and tents. light. bring. to. (1) dren.. parent's. home. the. paper. to. it・s. brief. children rai. and. and. perpetuity. on.. and. their. on. (2). cbildren・ its. and. methods. its. For. rearing・. a. as. written. the. actual. of the. part. of. conditions. it's. bone. was. rearing. rigorously・. so. home. between home. pendence. its. bone. of. conditions. influences. in. Japan modern It's conJapan・. rearing in. modernization. between. relationship. we. purpose. parent. (4) differences. contents・. chil-. classe.s. biographies・. many. utilized. and. among. auto-. reminiscences. is. inqulre. relations. to. rearing. in. and occupations biographies and tried. actual. of. subject. expectatins. (3) the. This. a. on. the. follows.. as. are. inquire. to. aims. RY. For. strongly as. pride. self-support, It resulted. in. development. going. of. taught. they a. of. member long. a. ancestral. way. in. an. to. a. Meiji. Ⅲ. 教. 結. 語. 育. 方. and. a. or. children. 法. *教育学教室(°ept.. of. Education). 育. 内. (2)個性尊重主義 容. success. spirit. house. abouse. 次. (1)厳格主義. in. brought. Ⅰ親の措いた人間像 教. to. by. 論文の意図と課題. Ⅱ. and. panents. ancestral. found. Japan・. modern era. house. house・. 目. 序. their. in. rearing. ex-samurai. founding and influence Confucian. rearing. example,. bone. on. study the. or. by. up. success. their inde-. courage, as. We. consider In life・. the. ex-samu-. in. life. for.

(2) 50. 小. 序. 林. 意図. 輝. 行. と課題. 本稿は近代日本における家庭教育を実態史的に把捉し,究極的にほ家庭教育の未来像確 立への志向性をもちつつ,それが日本の近代化の過程のなかでいかなる役割,機能を果し てきたかを,その実態の把握に力点をおき・究明せんとしたものである。周知のように古 くから家庭ほ人間形成の最も基本的な場として様々の分野から研究対象としてとりあげら れてきた。 その主要な一つほ心理学的分野からのアプローチであり,他の一つほ社会学的分野から. の接近であるo前者は,家庭における人間関係(親子関係,同朋関係など)や親の態度と 子どものパーソナ1)ティ形成との関連の追求などをその中b課題とし,後者は家族構造論 にその研究の重点をおき,そこにおける家族の価値規範,価値体系からパーソナリティへ の影響をその主たる関jbの対象とする。. また,これとほ別に,近年政治学,社会学の分野から日本の近代化のプロセスにおいて 家族の果した役割に注目し,家族にスポットをあてた多くの労作がうみ出されている1,. 更に,こうした隣接諸科学からの家庭への接近とは別に,教育プロパーの領域,とくに. 教育社会学を究める人々によって社会学的手法をもって家庭の教育機能の構造的特質,衣 庭における子どもの社会化(socialization)いう問題が関心の対象としてとりあげられる ようになってきた乏)0 このように様々な領域からそれぞれ独自の視点とアプローチをもって,こうした家庭へ. の接近が試みられ,それらは各領域においてほかなりの成果を生み,独自の価値と機能を 十分に示してきたが,しかしそうした諸研究がなおわれわれを十分満足させえないのは,. 近代日本の家庭においていかなる人間像が親の胸に抱かれ,そこにいかなる教育が行なわ れたか,という問題を全く看過してきたことによるといってよい。. こうした問題の解明が特に重要なのほ,近代日本の家庭が子どもの′<-ソナリティ形成. にとって決定的な機能を果たすと同時に,その社会の存続にとっても重要な機能を果たし てきたからである。しかもこうした伝統的家族秩序の維持と再生産の実態の把握なくして ほ,近代日本の家庭がその近代化に果した役割を正しく理解することはとうていできない し,また真の家庭教育のあり方,家庭教育の未来像の確立もありえないといってよいであ ろう。. そこでこの研究ほ,そうした課題のもとに近代日本の家庭教育の実態をさく小り,それが 日本の近代化に果たした役割を明らかにするために,次の諸点からその分析を試みた。 1)親の措いた人間像 2)親子関係. 3)教育方法と教育内容 4)教育の階層差,職業差. すなわち,親がいかなる人間像を抱き,いかなる親子関係のもとで,いかなる方法をも.

(3) 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ). って,いかなる内容の教育を施したかという視角からの考察によって主として当時の親の 教育期待・意識の実態に力点をおき,更に,それらが近代日本の社会においていかなる機 能を果したのかを究明せんとした。その方法として,主として自叙伝など二百数十人の伝 記を資料として用い,それらの分析をとおして実態の析出を試みた。なお,自叙伝などの 伝記に関する資料的価値の問題は稿を新たにする予定ゆえ,ここでほ,自叙伝などの善か れた時期,状況,叙述の態度・傾向といった諸点を分析に際し十分考慮に入れて,できう るかぎりその客観性をもたせるよう配慮したことを記すにとどめたいo ところで,ここに掲げた拙稿ほ,こうした研究のごく一部として,士族の「家」意識, とくに立身興家思想との関連において,明治期における士族の家庭教育を考察の対象とし たものである。立身興家思想との関連においてこれをとりあげた理由は,まず第1に立身 興家思想が士族の家庭教育の指導理念であったこと,第2にこうした指導理念ほ,明治政 府が上から唱導した立身出世主義3'を下位-浸透させる媒介的役割を果したこと,第3に・ こうした立身興家思想のもとに行なわオ1た家庭教育が,明治政脚こよって公認され,模範. として国民大衆の前に提示されたこと4',の主として三点からであるo 最後に,本稿は論文として冗漫になるのもかえりみず,可能なかぎり当時の実態を生の 言葉で伝えんとしたのほ,そうした生の言葉のもつ迫力の喪失を惜しんだためばかりでは なく,伝記資料の使用についてきたんなき批判と御教示を乞わんがためでもあるo. Ⅰ.親の描いた人間像 明治5年,富国強兵政策を国是とし,国民の均質化を急務と自覚した明治政府ほ,四民 平等の近代的な「学制」を施行した.しかし,それが所期の目的を達するた捌こは,そこ. に何らかの国民の側からの自発性を必要とするoそうした下からの自発性喚起の手段とし て,明治政府によってとられたのが,立身出世主義にほかならない5'o周知のように「被 仰出書」に示された「学制」の精神は,立身出世主義的学問観で貫ぬかれており,また地 方段階における勧学の手段としても,この立身出世主義は盛んに使われている6'o ところで,こうした上からの立身出世主義の教育政策に対し,下からそれに呼応し,そ. れを支える基軸としての役割をになったのが士族の家庭における親たちであったoたとえ 第Ⅰ表. 私立米沢中学校入学者族籍8). 51.

(4) 52. 小. 林. 輝. 行. ば,明治6年に行なわれた東京の40の私塾生徒身分調査によれば,士族80%,平民16 %,華族3%という分布を示している7'oまた他の教育機関においても士族の占める割合 は極めて高いものであったo例えば,私立米沢中学校入学者の族籍分布をみると,第Ⅰ表 20年まで8割以上を常に士族の子弟が占めているo のように明治18年を除き, さて,こうした士族の子弟のおびただしい数の中・高等教育機関への殺到ほ,いうまで もなくそうした教育機関を踏み台として立身出世をし,没落衰退せる「家」を興こさんと するにあったo. すなわち「今日ノ圏百姓モ明日-参議卜為ル可シ」9'という身分的固定観. の打破された社会を背景として,没落衰退せる「家」の再興をかけて立身出世の通路とし ての教育棟閑に進出していったのである。当時,士族の家庭の大部分ほ,明治維新から明 治9年に至る家禄整理,秩禄処分,金禄公債の発行という一連の士族に対する経済政策の 結果,家産の内容が,知行地から現米へ,更に現米から有価証券-と動産化し,家庭生活 はその経済的基盤の喪失から大きな変貌を余儀なくされた10)。しかしながら士族の家庭に おけるその伝統的な「家」意識ほ依然として強く存し,そこでほ公債が人手に渡り,家運 が没落衰退することが先祖に対する不幸の行為と意識され,没落衰退した家の再興が至上 目的として観念されたoそしてその至上目的の遂行者をその子弟の中に見い出し,親は一. 切を犠牲にしてもその至上目的遂行者に尽し,その立身出世を期待し,. 「家」の再興を願. ったのであるo士族の家庭の親たちが,いかにその子弟に「家」の再興を望み,立身出世 を期待したかは,伝記に記された当時の回想が,そうした親の姿を数多く伝えていること からもうかがえる11)。 例えば,明治4年に高崎の没落士族の家庭に生まれた深井英五の 「母は世間並に『えらくなって家を起せ』といふことを口癖のやうにして私を激励した。」12) といった回想や,明治20年,旧前田藩の藩士の家に生まれた横尾惣三郎の 「母は勝気で自分の時代になって家運の衰えたのを何よりも残念で口惜しかったらしい。自分は 末子であったせいか兄弟中一番可愛がっていて,家を興すのはこの子だと考えて一生懸命だった。 -. -炉健にあたりながら『お前の家は昔ほ相当の家柄であったが段々貧乏してきたのだ。お前独 りが楽しみで私は生きておるのだから,しっかり勉強してえらい人になってくれ』と手を握って よく涙声で聞かされたものだ。」13) といった回想からも,そうした没落士族の家庭における親の子に対する期待をうかがうことができ るQ. このように没落衰退した士族の家庭においては,親がその子弟に「家運再興」. 「家名の. 再興」を期待し,立身出世を願っていたことが端的に看取されるが,こうした士族の家庭 における親の立身出世観をみると,それは商人などの家庭にみられる致富をめざした実利. 主義的性格の強い立身出世観14'とほ異なり,多分に武士的,精神主義的性格をもっもので あったoその特色の第1は,立身出世の究極目的が「家」の再興におかれたこと,従って そこにほ強い「家」意識が必然的に癒着していた。その第2ほ,それが学校を通路とし, 官吏,教師,学者,ビジネスリーダー・軍人といった精神的職業,経世済民的職業階梯に おける上昇を意味していたこと1与',従ってこれらの職業において士族の占める比率ほ極め て高く,その全人口中に占める約5%という士族の割合を考慮に入れると,その比率の.

(5) 53. 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ) 第Ⅲ表. 官吏および士族官吏数16) 士族官吏数(人). 百分比(7o) CO. 17,935. 7. 17. 74. ,529 23,976 23. ,. 305. 75 74. 26,970. 74. 53. 68. ,032 59.041. 6ー. 重みほ一層増す(第Ⅱ表参照). その特色の第3ほ,. 「我」の自覚が,同時に国家の独立の意識と密接に結びついていた. こと,すなわち,個人の独立は同時に国家の独立を意味し,そこではむしろ,国家の独立. という公的理念の前提として個人の独立が位置づけられる17)。例えば「あの時代の立身出 世ほ,国家や社会をよくするにほ,まず一家からはじめなければならないという美徳の代 名詞になっていた。」という鮎川義介の回想ほ,こうした性格を端的に語ったものである。 従って,それほ単なる個人的,私的な欲望,幸福追求といえるものではなく,国家的広が. りにおいてとらえなければならぬ性格をもつものとして考えられていた。つまり,そこで は一見矛盾するかにみえる個人的側面,. 「家」的側面,国家的側面からの諸要求が「修身. 斉家治国平天下」という儒教主義的世界観によって公認され,みごとに統一されていたの である。. ところで,こうした立身興家思想を背景として生みだされた立身出世の人間像をめざし て,いかなる教育がいかなる方法をもってなされたのであろうか。. ⅠⅠ.家庭における教育方法 明治期の士族の家庭における教育を教育方法の視点からみると,そこにほ厳格主義と個 性尊重主義という相異なる児童観に支えられた二つの教育方法がみられる。もともとこの 厳格主義的教育法ほその悪しき自然性を矯正するために,厳格な教育手段がとられるべき だとされてきたもので,子どもの自由や自主性を認めないことから,それが親の子に対す る絶対的支配権の思想と結びついて存続してきたものであり,それほ明治期の士族の家庭 において支配的なものであった19)。一方,個性尊重主義の教育方法ほ,こうした厳格主義 とほ対蹟的に,子どもの自然性を善とみなし,子どもの自主性,自発性を尊重し,子ども を一個の自由な人格として認めるという近代的なヒューマニズムの児童観のうえにうちた てられて発展してきたものであり,明治期においては,わずかに一部のインテリゲソチャ の家庭にみられたにすぎない。 (1)厳格主義 まず明治初期における士族の家庭における教育方法がいかなるものであったかを,杉本 銭子の自伝『武士の娘』を通してみよう。.

(6) 54. 小. 林. 輝. 行. 杉本銭子は,明治維新の数年後に越後の長岡の城下町に生まれており,彼女の父は維新 前,国家老の職にあったが,維新後は農業に従事していた.家族ほ祖母,母,兄,姉を加 えて6人,その他下男頭の爺,乳母,二人の女中がおり,いわゆる上層士族の家庭といっ てよい。こうした家庭に生まれた彼女は,兄が出奔したため「家の後継者」として男のよ うな教育をうけたという。すなわち,当時女子が漢籍を学ぶということは,普通行なわれ ていなかったが,彼女ほ六歳の時から寺の僧を師に迎えて四書の素読をさせられている0. その僧の教育方法は極めて厳しいもので,例えば,ある時彼女が学習最中に「ほんの少し 体を傾けて,まげていたひざをちょっとゆるめた」とたんに, 「お嬢さま,そんな気持ち でほ勉強できません。お部屋にひきとって,お考えになられた方がよいと存じます。」と 言って,その師の僧ほ勉強を打ち切ってしまったという。それ故,彼女はその二時間の学 習のあいだほ「畳の上に正しくすわったまま,微動だもゆるされなかった.」21)ほどであ. る。一方,学習内容で彼女が意味などを質問すると,その僧はきまって「よく考えていれ ば,自然にことばがほく小れて意味がわかってまいります」とか「百読おのずからその意を 解す」,. 「まだ幼いのですから,この裏の深い意味を理解なさろうとなさるのは分を越えま. す.」と答えるのが常であった乏皇).そこでほ何を学ぶかという学習内容よりも,いかに学. ぶかという学習態度により以上の重点がおかれていたのである。当時の士族の家庭におい てほ,一般に「いごこちよくしてほ,天来の力を心に受けることができない」と考えられ ていたために,彼女も彼女の姉も,わざわざ寒三十日の問ほむずかしいことを,通常より. 時間も長く勉強させられている。殊に寒の中でも一番寒いといわれている九日目には,東 の空が白むころ起こされて,火の気のない部屋で習字や裁縫などをさせられた。このよう に当時は彼女くらいの「年ごろの子供をさえ,きびしくしつけた」のであり,こうした厳 しい鍛練を通して「生涯の大事をなしとげる力が養われる」と考えられていたのである23). 彼女はこのほか,主として母から女の子のJL、得べきものとして料理,お茶,裁縫,行儀作 法などを厳しくしつけられている.こうしたしつ桝i,例えば,眠る時は必ず「制御の精 神」を意味する「き」の字なりに武士の娘は眠らねばならぬこと,また物をたずねるとき ほ「ひかえめに女らしく」して,男の子のように無遠慮なきき方をしてはならないこと24) といったように,日常生活のすみずみにまで及んでいた。. このような杉本銀子の受けた家庭教育ほ,彼女の家庭が上層武士階級に属するために, 当時の一般的な士族の家庭と必ずしも同一でほない。しかし,反面,上層階級の家庭であ. るために,かえって当時の士族の家庭の模範的なものとして把握しうるのであり,後にみ るようにこうした模範的な家庭教育の形のくずれたものが中・下層の士族の家庭教育であ り,明治中・後期の士族の家庭における教育である。ところで,こうした士族の家庭にお. ける教育を教育方法の視点からみると,次の4点を指摘しうる。 第1に,厳格主義,鍛練主義的教育方法がとられたこと,第2に,それほルーズベネデ. ィクトも指摘したように之5)体罰によるのではなく,子どもほ命ぜられた通りのことをする であろうという親の「平静な揺ぎなき」子どもへの期待によってなされたということ,第 3に,まず何よりも型の習得,習慣の養成が行なわれ,その型や習慣のもつ意味ほ,型の.

(7) 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ). 55. 習得,習慣化によって自然に必然的に把握されうると考えられて,型のもつ意味内容ほ二 義的なものとされていたこと,従って,そこでは,子どもの自主性,自発性の活動する余 地は全くない。第4に,こうした型の教育は,単なる言葉によってなされたのではなく,. 親自身が自ら実践窮行して範を示し,そうしたことの上にたって,日常生活のあらゆる場 面をとらえて,具体的に行なわれたということである。 ところで,こうした士族の家庭における教育方法ほ,明治後半期に至るとかなりの変容. がみとめられる。その第1ほ「平静な揺ぎなき」期待をもってする教育方法が大きく後退 したことであり,第2ほ,それに伴い体罰をもってする教育が増加したことである。 例えば明治27年に富山に生まれた渡辺順三は, 「父はいわゆる武士気質の厳格さで,私へのしつけほきびしかった。私ほ小学校にあがる前から 漢文を教えられた。専日食がすむと必ず父の前に座らされて,あの大きな木版活字の『大学』を読 まされた。足がしびれてくるし,戸外には近所の子供たちの遊んでいる声がきこえてきて早く遊 びに出たくてたまらないのだが,父ほなかなか許してくれない.父ほ笈竹のような細い竹の棒で 一字一字差しながら読むのを,私はそのあとについて読むのだが,しまいにほとうとう泣き出し 『今日ほそれで許してやって下さい』といってくれて,やっと てしまい,そこで母が出てきて, 解放されるのが毎日であった」26)o. と述べているが,この回想にみられる子どもの学習態度と先の杉本成子の学習態度とを比較すれば, その相違ほ明らかであり,第1に指摘した親の子-の期待をもってする教育方法の変容の端的な例 となろう。. 次に第2点に関してほ,明治33年に佐賀県に生まれた市村清の回想にその典型をみる。ある時, 彼が読み方の授業中にいたずらをし,先生のむちを避けて学校から逃げ帰った時,武士出の父のと った態度ほ次の如きものであった。 「母やおじ おばまでが父にわびてくれたが,父はガンとして聞き入れなかった。そして食事も 与えられず,墓地の中のどんく小りの木に荒なわで縛りつけられたo恐ろしさと,ひもじさで泣き わめいたが,ようやく夜ふ桝こなって,今後絶対ひきょなことはしないからと誓わせられて許し てもらった.」27). ところで,こうした教育方法の変容がもたらされた困由をみるに,その背後にほ社会経 済的諸要因が密接にからんでいるが,まず直接的要因として親子間における権威関係の変 化を指摘せねばならない。明治初期の士族の家庭にあってほ,絶対的な親の権威は,親と いう立場にともなう権威と同時に,知識における絶対的優越性という点で名実ともに真の 権威を保持しえたが,明治5年の学制を契機とし,学校教育の普及に伴い,子どもたちの 西欧的科学的知識,合理的精神の獲得により,従来の親の知識における絶対的優越性は崩 れ,親の権威の保持ほ親,家長という位置の権威にのみ依拠せざるをえなくなった。そこ に生起するのは,心服でほなく強制であり,. 「期待を」もってするのではなく,体罰をも. ってする教育方法である。 例えば次のような父親の姿ほ当時の士族の家庭における典型的父親気質をみごとに伝えている。 「父ほあくまで武士道精神をつらぬき,どんなに貧しくとも節をまげなかった。いまどきの若い 人たちには理解できないと思うが,たとえば四つ足は紅毛人種のロにする不浄の食物だとして牛.

(8) 56. 小. 林. 輝. 行. 肉ほいっさい食わなかったし,洋館は毛唐人の住み家だからといってわざわざ回り道をして避け て通ったりした.」28). こうした親に対し,子どもたちのそれに対する姿の一例を土星喬雄(明治29年,東京生まれ) の回想にみよう。. 「私が中学校時代に,中村敬宇の訳書『西国立志編』を読んで,自助の精神が大切だと考えるよ うになってから,祖先がどうだ,祖父や父がどうだ,ということを自慢にするのほ愚人のわざだと 思うようにな」29)った。. これらの回想ほ,父子間における権威関係の変化をあますところなく伝えている。 (2)個性尊重主義. こうした厳格主義の流れとほ別に個性尊重主義の流れがある。こうした教育方法の主唱 者が福沢諭吉であったことは周知のとおりである。彼は自主独立の人間像を掲げ, 「独立 とは先ず他人の厄介たるを免かれ,一切寓事自分の身に引き受けて自分の力に衣食」する ことであると物質的有形の独立の必要を解き, 「然る後に我思ふ所を言ひ我思ふ所を行ふ」 という精神的無形の独立の必要性を強調した。そして一旦独立したら「苛も本心に恥る所 を犯して他に屈すること」があってはならず,また「大事に臨んで節を柾げざるほ無論, 一言一行の徴に至るまでも自分の気に済まぬことを等閑に附」してほならないとし,この 「生命より重」い「一片の独立」を妨げようとするものがあれば, 「満天下の人も敵に取 る可し,親友の交も絶つ可し,骨肉の情も去るべし」30)と説いた。要するに,この独立と いう一議のためには,すべての他を顧みることなく,. 「唯一身の独立を白から信じ,自分. 一身の外には尊ぶ可き老もなし,愛するべき者もなし,仏語に云ふ天上天下唯我独尊と覚 悟して思ふ所を断行す可き」81)だと主張したのであった.. このように,福沢は自主独立,独立自尊の人間像を唱導し,この人問像こそが新しい時 代に要求される人間像であると強調し,伝統的な儒教主義的人間像をするどく否定したの であるo従って彼ほ「文明の家庭は親友の集合」82)であると言い,親は親,子は子として 互に人格を認め,親のために子の犠牲を強いず,また子のための親の犠牲をも排除した。 こうした彼が父としての子どもに対する教育をみると,当時にあっては極めて子どもの 由由・自主性を尊重したものであった。 例えばそのしつけ方ほ, 「温和と活発とを旨として,大抵の処までほ子供の自由に任せるo例えば風呂の湯を熱くして無 理に入れるやうな事はせずに,据風呂の側に大きな水桶を置いて,子供の勝手次第に,ぬるくも熱 くもさせる。全く自由自在のやうなれども,左ればとて食物を勝手に任せて何品でも喰ひ次第にす ると云ふ訳ではないo文子供の身体の活発を祈れば室内の装飾などは迎も手に及ばぬ事と覚悟して, 障子唐紙を破り諸道具に症付けても先ず見逃がしにして,大抵な乱暴には大きな声をして叱ること ほない。酷く剛情を張るやうなことがあれば,父母の顔色を六かしくして呪む位が頂上で,如何な る場合にも手を下して打ったことは一度もない.」38). また彼が留学中の子どもに与えた手紙をみても,こうした子どもの人格を認め個性尊重主義の教 育をとったことが看取される34).. ところで,こうした子どもの個性を尊重する教育方法は封建的意識が根強く残存し,個.

(9) 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ). 57. の自覚に乏しき社会にあってほ,後期になってその数が多少増加したものの所詮一部のイ ンテリゲンチャの家庭の域を出ることはなかった。. ⅠⅠⅠ.家庭における教育内容 明治初期における士族の家庭にみられた教育ほ,急激な社会変革に伴う家庭生活の変化 によって新しき社会-の適応という性格を一面では持ちながらも,一般的には徳川封建社 会以来の武士的,伝統的な家庭教育が支配的地歩をしめていた。そこでほ「家」の永続発 展を中核として,家名の尊重,祖先崇拝といった確固たる価値体系が確立されており,強 大な家長権,男尊女卑の意識が依然として根強く残存した。殊に上層士族の家庭ほどそう した傾向ほ顕著であり,家長を中心として整然とした家庭秩序が維持されていた。こうし. た家庭において行なわれた教育ほ,その家庭秩序の維持と「家」永続という課題に答える ために,日常生活のすみずみにわたる厳しいものであった。初期におけるこうした家庭教 育の姿を伝えるものとして,平沼願一郎と和田英子の二人が受けた家庭教育をあげること ができよう. まず,平沼願一郎は,明治維新の一年前に幕府の親藩であった津山の士族の家庭に生まれ,父が 旧藩の家職をしていた関係から,その子ども時代を藩邸内ですごした。彼の父は維新後といえども 藩主に途中で出会うと下駄をぬいで挨拶をしていたというエピソードに端的に象徴されるように, 彼の家庭においては,依然として旧態依然たる教育がなされていた。例えば,ある時,彼が父と話 をしていて徳川家康と言ったところ,. 「東照宮様と言わねばならぬ」といっていたく叱られたり85),. 嘘をつき,それが判ると「父親に言えば,お前は首を切られる。内緒にしてやるが将来はどうだ」 兄と二人で二,三歳年上の大工 などと言われてひどく叱られたという36)。また彼が十歳前後の現 の子をいじめた時,母から「お前たちほ怪しからぬ,一体武士が四民の上に立つのほどうしてであ るか,彼等の上に立ち,彼等を保護するからである。それを何もせぬのに虐めるとは何事か, 従順の老を虐めるほ武士としてあるまじきことである。大工の処へ行って謝って釆なさい」37)とい って厳しく訓戒されているo このように彼の家庭においては士道が重んじられており道理を説くに個々の行について乾しく戒 められていた。従って彼は「旧藩の主人,又その本家である徳川家康に対しては,忠義を尽くさね 「土という者ほ四民 ばならぬ,少くとも尊敬せねばならぬと言ふ考は,それほ強かった」38'といい, の上にあると言ふ観念ほ維新後もぬけず,百姓町人ほ我々の下だと思っていた」39)と当時のことを 語っているo. ところで,こうした家庭における教育ほ,父が直接手を下すということほほとんどなく,専ら祖 母と母がその任にあたり,両者は厳格な教育をする母とそれをとりなす仲介者の祖母といった具令 にそれぞれ適確な役割分担がなされていた。なあ祖母が極めて教育熱心で,彼に「唐詩選」など 教え,. 「毎晩五言絶句,七言絶句」などを読んできかせたりしていたo. 次に,この期の女子の例として,和田英子の受けた家庭教育をみると,彼女は,松代藩士横田数 馬,亀代子の次女として,明治維新数年前に松代に生まれているo彼女は幼少の頃から「先祖の事.

(10) 58. 小. 林. 輝. 行. を常に申開かされ」行儀や言葉使いが悪かったり,・いやしいことなどをすると,彼女の母から常に 「御先祖様はお大名であった。いかに身分は下って人の家来に成ったとて,行儀や言葉をよくし.む を正しく持たねば御先祖様に対して申訳がない,其様なことをして先ず恥かしいと思はぬか。」40,と いって叱られたoまた彼女をほじめ姉妹ほみな,. 「六七歳の頃から自分の夜具の上げおろしと自分. の衣服丈は始末させられ,彼女らがつまらぬ顔つきでもすると「其様な顔をする様でほ嫁入しても 三日も居られぬo」41'といって戒めたo更にまた睦言に対して,. 「うそを申すほ火の様な物だ。火は 小さいとてすて置桝f・段々大きくなり身をも家をも亡ぼし,人様に迄御迷惑をかける様になる」 といって,. 「一寸したことにても実にきびしき仕置を」した。. また日常の行動に対しては, 「我が心こ恥ぢぬ様な行をせよ」と戒められ,. 「人間は鷺をば烏と言 心が問はば何とこたへん」 「人知らぬ心に恥ぢよ恥ぢてこそ,つひに恥ぢなき身とはな. ひもせめ. りなん」という二首の歌を事あるごとに聞かされ48',また,何事に対しても「人のすることが出来 ぬと申す事が有る物か,出来ぬでほなくしてせぬのだ,おれほ片輪には生み付けておかぬ.」44,とい. って,何事でも人のすることはさせられている。 更に長上の人に対する態度として,. 「如何なる人にても目上の人ほうやまはねばならぬ」と言ひ. 聞かされ, 「どの様な場合にも目上の人に対して口返答する事をかたくいましめられ」. 「何事にても 申付けられたことほ直く小にして,いや相な顔などしてはならぬ」45'と厳しく教えられている. その他処世上の態度としては,. 「恩を受けたことを忘れてほならぬ」ト座の内を見まほせ」. 「知. らぬ事を知ったふりをするな」 「短慮効を奏せず」といって常にいましめられた46,0 ところで,以上のような教育のほか,一家の妻となった後の心得として,第1に, 「高砂のぢぢ ばば」の話を例に引き「どの様にゆたかな身の上になっても,女ほ家を守り物を鹿末にせぬ様心が けねばならぬ」と物を大切にする事を教え,. 「何品にかかはらず役に立たぬものを役に立てるのが 人間の働だ」と言って,例えば衣類などをといたぬき糸を大切にして「幾度でも用いさせ」,とく 時に「決して鉄を使ほせ」なかったという.そーして母親自身「縫うことの出来ぬ一寸二寸三寸の糸 を二つにさき,つなぎ」 第2にほ,. 「種々に色どりをして其糸を横に交ぜ何十反」という反物を織っている47,。. 「借着をするより洗着せよ」という諺をもって,. 「衣服ほ力の及ぶ丈立派にせねばなら. ぬ」が「我が力に出来ぬ事ほ決してしてはならぬ」と「身分相当のなり」をすること48,, 第3には,. 「たとひどのようなささいな品なりとも,人が志して呉れる品は厚く受けて忘れぬ様. にせねばならぬo折を見て此方よりも返しをせねばならぬo」と妻として心得べき世間の義理を教 えている40)o そのほか, ること,また,. 「我が子ばかりを可愛がるのほ鳥けものの愛」であるとして,人の子も同様に可愛が 「人は苦労をするために生まれてきたのだ。楽をするために生まれては来ぬ」故に,. 「一生命のある限り,手足のきく間」働くことといった教えを受けている60,. これら二人の回想にみるごとく,そこでほ主君-の忠が依然として説かれ,嘘言の戒め,. 士としての斡持,祖先崇拝,家名の尊重意識,長上-の絶対的恭順,勤勉,倹約,分限意 請,義理,恩といった伝統的な儒教主義的家庭教育がなされている。こうした教育ほ,明 治初期の士族の家庭を叙した伝記に共通にみられるものであり,従ってこれら二人の回想 は,当時の士族の家庭における教育の一般的姿にかなり近いものであったといってよい。. しかし,こうした教育も,激しい社会変革に抗して全くその整然とした形態を何らの変 容もなく維持することほ所詮望むべくもなく,若干の変容を余儀なくされる。その第1ほ,.

(11) 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ). 59. 何といっても武士社会の解体にともなう士族の経済的基盤の喪失による「家」の没落現象 である。そこでは「家」の断絶という危機意識によって伝統的な「家」の永続という保守 的性格から,一挙に「家」の再興という革新的,開拓的性格に転換し,すべてのエネルギ ーがそこに集中される。勤勉力行という明治型立身出世の典型ほ,まさにそうした過程に. おいて生まれた現象的形態にほかならない51)。 こうした変容した姿の典型を,われわれほ野間清治,渡辺順三の自伝にみる. 野間清治ほ,明治11年,群馬県の没落士族の家庭に生まれた。上総飯野藩の家老の家の三男に 生まれた彼の父は,諸国放浪,諸種転業の後,桐生市近くの新宿村に道場を開き,明治10年頃小 学校が開設されると同時にそこの教師に迎えられたが,その数年後には新進教師の出現によって退 職を余儀なくされ,以後は内職をして細々と生活をたてていた。こうした生活環境の中で少年期を 送った彼ほ,小さい時から「祖父森要蔵の偉かったことや,叔父森寅雄の強かったことや,伯父野 間銀次郎の忠烈な話などを,母から常々聞かされ,. 『お前も他日偉くなるやうに』といわれてゐ」. た5皇)oまた,父からは常々「裸で値打のある人問になれ,着物や持ち物で高くふまれるな」とか 「道を遣る時は表の大道を歩仇真申を堂々と歩け,必要なきに裏道や小路を歩くな,女々しい態 度をするな」と言い聞かされ,また,. 「如何に貧乏してをっても,男子として語らぬことをしては. ならぬ,男子の気慨を漬してほならぬ,大望を殺してほいかぬ」などと言われ,男が女のするよう な仕事をすることをかたく禁じられていた○そしてそれは単に言葉の上だけでなく,父自身・自ら 毎朝早く起きて,新宿村の南七八町の渡良瀬川に出かけ-. -船頭に舟を漕がせて川の真中頃に行き, そこで顔を洗ひ,体を清める。夏でも冬でも,きまって朝はかくの如くで」あったという58'o ところで,月々の掛取りが来ると「父は留守,母が言ひ訳をする」といった生活状態の中にあっ 「早く偉くなって貰」うた糾こ・英語・漢学の先生の て,彼の父ほ彼に「最上の教育を受けさせ」, 所に通わした64,。こうした没落士族の家庭の親たちが,いかにその子弟のために犠牲と献身をもっ てしたかは,賭弓をやった彼に訓戒した父の次の言葉にあますところなく伝えられているo. 「ぉ前の教育のために,家中どんなに苦労してゐるか,特に又母がお前のために,どんなにJ[♪配 し一生懸命になってゐるか,世間では,あの困る中で学校になど永く出しておいて・後々どうする 積りだろうと言ってゐる,それであるのに--」55) そして後の彼の苦学力行はこうした背景から生まれたのであるo 次に明治27年に富山県の士族の家庭に生まれた渡辺順三の場合をみてみようo 彼が生まれた時,彼の父ほ小学校の教師をしていたが,彼が9-10才頃にほ神経衰弱がこうじて 学校を退いていた。彼は神経衰弱になる以前の父から,毎日朝食の後父の前に座らせられて「大 学」などの漢籍の素読をうけたoまた冬など恒薩にはいる場合,彼の場所が決められており・. 「そ. の正面の壁には『難難汝を玉にす』とか『玉磨かざれば光なし』とかいう格言が大きな紙に書いて 貼」られ,また「仰向けに寝ると,ちェうどその上の天井に,算術の九九が書いて貼ってあり」い 「夜ほ父の傍らに寝かされて, 『去年の今 やでも白熱こ目に入るようにさせられていたo更にまた, 夜清涼に侍す』だの『男子志を立てて郷関をいず』だの詩を教えられ,特に菅原道真の話をよくき かされた」というさ6,。ところで,父が学校を退いてからは,母が幼い彼にすべての望を託し常に彼 を教訓した次の言葉に,野間清治の父と全く同じ姿をみるo rもはや生ける屍にひとしい父を介抱しながら,母は幼い私の成長にすべての望をかけていたの 『お前は普通の子供だと思 だろう。母ほ常に『家名の再興』ということをいって私を教訓したo.

(12) 60. 小. 林. 輝. 行. ったら間違いだよoお父さんほこんな情けない姿におなりだし,お前が早く大きくなって渡辺の 家を興さなくてほならぬ責任があるのですo早く大きく立派になっておくれoお前のためにほ, お母さんほどんなに苦労してもいといはしない』と朝に晩に私ほ聞かされた57,. 彼もまたとうして勤勉力行にかりたてられていった一人であった.. ところで,家庭における教育の変容をもたらした第2の要因ほ,砂山両面における西欧 的なるものの家庭生活への浸透であるo洋館,洋室,洋服,洋傘といった衣食住における 洋風の出現,ピアノ,ヴァイオリンに象徴される西欧音楽の登場,さらにほ子どもを人格 をもつ一つの個として認める個人主義思想の流入・これらほいずれもわが国における伝統 的な家庭における教育と本質的にほ相入れない性格のものといってよい。しかし実際にほ, 「少年時代の私たちの家の中にほ,ひどく古いものと新しいものとが同居している状態で あった」58)という回想にみられるように,資本主義社会の発展は,封建制経済下における 生活形態を徐々に変化させずにほおかず,新旧両者ほ間断なき相勉を経ながらわが国独特. な「和魂洋才」的文化受容形態への方向をたどるo平塚らいてう,加藤シズ-は,まさに こうした環鏡下に教育を受けた典型であろう。 まず,明治19年に東京の麹町三番町の士族の家庭に生まれた平塚らいてうの受けた家庭教育を みてみよう。彼女の父は,ドイツに留学し帰国後会計検査院に務めた官吏であり,母は田安家の御 典医の娘であったo彼女ほ,. 「万事がL山の手風で,しかも欧化主革の全盛時代のことでもあり,住. 居もなかば洋風で,とりわけ父の書斎は洋式に装飾され,天井からほ大きな釣りランプがくさりで 下がり,母は洋服を着て, ごしたo従って,そこでは・. -イカラな刺繍や編物をするという雰囲気」59)の中でその幼少時代をす 「日曜日になると」「両親そろって,私たちを」←上野の動物園や小石川. の植物園,氷川田園の蓮華草つみ,団子坂の菊見向島の百花園など」に「遊びにつれていく」と いった近代的なブルジョワ的家庭教育がなされていた60)oまた当時の習慣として,. 「上中流の家庭 の娘はみな趣味として」 「ピアノやヴァイオリン,琴や三味線というように」音楽をやるのが普通 であったから,彼女も「小学校入学の時から,母の手ほどきで琴を習わされ,女学校に入ってから は,姉といっしょに竜岡町の萩岡先生という盲目の有名な琴の師匠の家へ通」わせられた61)。しか しこうした中にあってもやほり行儀作法ほ厳しくしつけられたo例えば客が見えたとき,彼女のお. 辞儀の仕方がよかったとか,悪かったとか,あとで一々批判され」たり,また食卓の作法について も「話をしてほいけない」,. 「足を横に出してほいけない」など「ずいぶん小さい時分から仕込まれ」. ているoまた金銭に関してほ,. `ト番下品なこととして,ロに出すことが許されず,物の価値をき くのも禁物で」あったという62)0 次に明治30年に本郷西片町の旧福山藩の藩屋敷の士族の家に生まれた加藤シズ-の受けた家庭. 教育をみてみよう。 彼女の又は,祖父が明治維新で藤をほなれたため,貧しい生活の中で苦学して大学南校を卒業し, 彼女が生まれた頃ほ,工学士となって輸入の仕事にたずさぁっており,経済的にほ非常に裕福な生 活を営むようになっていたoしかしそうした豊かな生活の中にあって,彼女の「父は貧しかった士 族の暮しについて物語り,つつましやかに暮すということが,一つの絶対的な道徳であるように」 彼女をしつけたo例えば「大学に学んだ頃,一冊の辞書が買へなくて,友人から削て,始めから 終りま℃薄暗い洋燈の下で写してしまったというような」話をして勤倹と努力とを教えられたの.

(13) 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ). 61. であり,彼女は「努力と勤倹ということは,終始一貫して娘時代父から教えられた教訓であった」 と述懐している63)o一方また彼女は,彼女の父が輸入の仕事にたずさわっていた関係上,ヨ-ロツ ・く,アメ1)カに出張したりして持ち帰ったピアノラというピアノを弾く機械を使って「子供の時か ら各国の名曲を聴かせて,西洋音楽に自然に耳を馴らすやうな咲けをも」母からうけた64)。更に解 約してからほ, 「他家へ嫁いで恥かしくないようにと,明けてもくれても」妻としてのしつけを母 からうけた。例えば「毎朝四時半に家の誰よりも早く起きて,広い庭の掃き掃除をし,打水をして, それから家の中に入って,また家の掃除をし,朝食の支度をしている女中の手伝いをし,父の身の まわりの世話をみ,父の出勤後は一間に座って夕方まで和服のお裁縫をするというような生活」を させられた。こうした生活に対し,彼女ほ「結婚生活への出発ほあらゆる重荷を背負うことと,い ろいろの苦しいことを辛抱するということだという夙に解釈して,明るい楽しみを描くというよう な方面は全く抑-られていた」63)と語っている。. これらの二人の回想にみるように,一方でほ西欧的なるものが社会,学校などを通じて 家庭に浸透し,家庭生活の様相ほ初期のそれと比較すれば一変している。しかし,他方で は,そうした西欧的なるものの恩恵を享受しつつも,勤倹,金銭蔑視をほじめ,行儀・作 法など伝統的な厳しい教育が行なわれている。われわれほそこにわが国独特な「和魂洋 才」的文化受容形態の一斑をみる. ところで,こうした士族の家庭において教育された内容をいま少しく吟味する。第Ⅲ. 表は, 100人の士族の伝記にあらわれたものを項目別に整理したものである。伝記という ものの性格上,実際にはこうした内容の教育を受けても,叙述の関心がそこにないために 記述をしないという場合がかなりありうるということを考慮に入れておく必要がある。ま ずこの表から「勇気・気慨」. 「士として・≪家≫の一員としての衿持」. 「独立的態度」の三. 項が頻出数が多く,他をひきはなしていることに気づく。このことは,この三項が子弟を して立身出世に向かわしめるために必要なものとして,親たちが特に力を入れて教育した ものと解釈しても間違いほなかろう。殊にこの三項ほ,立身出世の人間像の構成要素とし. て要求される開拓的性格という条件に十分かなっている。 第Ⅲ表. 士族100人の伝記にあらわれた教育内容 \ 順\. 教. 教育内容1頻出数. 育 内 容. 教 育. 内 容. 漢. 籍. 頻出数. 、. _._1':′二\. 勇. 気,気. 士・. 「家」の一員. 候. としての誇持. 独立的態度 従. 順. 忍. 耐. 睦. 言の戒. 蔑. 倹. 〝. 清. 貧. 行. 誠 長. (・'l!i: I;:E 銭. 勤. 11. 崇尊拝重. 金. 9. の. 序. 卑 怯. の. 戒. 意. 識. 主君-の忠. 視. 限. 恩・義. 作. 手. 幼. 分. 儀. 理. 裁. 24. 法. 6. 習. 花・茶 縫・料 琴. 14. 理. 6 4.

(14) 62. 次に第2点として,. 小. 林. 輝. 行. 「家」意識の滴養が注目される。これほ家父長的家族制度の伝統を. 持つ士族の家庭にあってはむしろ当然のことであろう。なお,一言言及すべきほ,. 「主君. への忠」である。これは明治初期にみられるのみであとは全くみあたらない。このことは,. 士族たちの主君から天皇への意識の転換が容易に行なわれたことを示すものというより, 彼らの社会に対する予見力を指摘した方がはるかに正鵠をえているように思われる。 次に右列の表をみると,男子は漢籍の学習が圧倒的に多く,深浅の別ほあっても,恐ら くほとんどの老が「経世済民」の学として何らかの手ほどきを受けていたものと推察され る。. 一方,女子にあっては,行儀作法,茶,裁縫,料理といった家事遊芸について,中上流 家庭の子女は一通り身につけさせられ,更には,他家に嫁するものとして様々なしつけを. 受けたことは,和田英子,加藤シズ-にみたとおりである66)0. 結. 請. 以上,明治期における士族の家庭教育を,立身興家思想との関連のもとに,親の措いた. 人間像,教育方法,教育内容という視点からそれの実態を考察してきた。これを要するに, 士族の家庭における教育は,立身興家思想によって統一され,制約規定せられていたとい ってよく,大胆に単純化,図式化を試みるならばそれは第Ⅰ図のごとくになるであろう。 「家」の再興,永続発展という目標価 すなわち立身興家思想から希求せられた人間像は,. 値を中核とし,それへの志向性を常に保持し,その内面的構造においてほ,学問,衿持 (士としての玲持,. 「家」の一員としての衿持),気慨・勇気,独立的態度という四つを主. 要な構成要素とし,これら四つの諸要素を支え,補完するものとして,長幼の序をほじめ とした諸々の内容の教育が施されたのである。このように士族の家庭における男子の教育. ほ,立身興家思想によってみごとに統一せられていたのであるが,女子にあっては第Ⅱ図 にみるごとくその「家」的志向性を保持しながらも男子の人間像の構造とほその構成要素 自体にはさほどの相違はみられないが,その構造自体ほ, 「一家を整ふる道」,斡持,従順, 勤倹といった諸要素を支柱とし,. 「他家に嫁するもの」としてそれにふさわしき人間像が. 要求せられ,それにもとづいた教育がなされていたのである。. しからば,こうした士族の家庭およびそこにおける教育は,日本の近代化のプロセスに おいていかなる役割機能をになったのであろうか。第1に,まず立身興家思想の演じた役 割を指摘せねばならない。日本の立身出世主義は,見田宗介も指摘したように62),確かに. それは日本の近代化の内面的推進力として機能したが,しかし同時に,それがもつ体制へ の批判精神の欠落とい,5J性格のゆえに,体制的矛盾を隠蔽し,体制秩序の維持強化という 機能を果たすことになった。立身興家思想を指導理念とした士族の家庭教育は,まさにこ うした性格と機能をもった上からの立身出世主義の拡大再生産の機能を演じたといってよ く,国民大衆のエネルギーを体制内秩序に誘導する尖兵としての機能を果したといわねば ならない。次に第2点として,士族の家庭およびその教育が,国民の模範として民法や学.

(15) 63. 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ) 第Ⅰ図. 士族の家庭における男子の教育 「家」 †. 世. 貧. 儀. ー漢籍の学習. 倹. -礼. -清. -勤. -金銭蔑視. 耐. ----人間像. -分限意識. -忍. 1卑怯の戒め. (主君への). 第Ⅱ図. -嘘言の戒め. 1忠. 家名の尊重 祖先崇拝. -誠. -従. -長幼の序. 順. ⊥. 出. 身. 立. --I-・再興,永続発展. 士族の家庭における女子の教育 他「家」. † 結. 持1. 順-. 倹. -給. -従. 勤. 婚. 家 政. ↑一-. nmT wl. 裁. 料. 縫. 理. ㌔.∴.∴ 芸. 手習読書. 耐. m【Tm. -遊. 気. 忍. 丁行儀作法. 勇. 誠. l. 1. 分限意識. I. 睦言の戒め. 家名尊重 祖先崇拝. 長幼の序. I. 校教育を通じて明治政府に公認され,推奨せられて,一姫大衆の前に提示され,それによ って国民に内在した伝統的家族秩序の維持,強化の機能を果したことである。つまり,士 族の家庭およびその教育が,国家権力の承認によって「擬似理念的」なるものとして国民 大衆の前に姿をあらわし,それによって国民大衆の「主体的自覚の契機」が,まさに「伝 統的価値への傾倒の中に埋没」68)せしめられ,そこに伝統的家族秩序の再生産ないしはそ れへの復帰がなされたのである。.

(16) 64. 小. 林. 輝. 行. このように士族の家庭ならびにそこにおける教育は,日本の近代化の過程において,天. 皇制絶対主義国家と国民大衆との「上下貫通」通路における媒介項としての役割を演じた が,しかしそのた捌こ日本の近代化ほ士族の家庭およびそこにおける教育が背負ったすべ. ての前近代的要素をそのままその内面に持ち込むこととなり,日本の近代社会はいつまで も伝統的秩序の中に就縛せられ,それから解放されることはなかったのである。 註. 1)例えば,神島二郎「日本の近代化とく家〉意識の問題」 (『近代日本の精神構造』岩波書店 昭 和36年所収),石田 雄「家族国家観の構造と機能」 (『明治政治思想史研究』未来社1954 所収),川島武宣『日本社会の家族的構成』日本評論新社 同『イデオpギ-とし 昭和25年 ての家族制度』岩波書店 昭和32年,など. 2)例えば,山村賢明「近代日本の家族と子どもの社会化」 (教育学研究 第28巻第4号所収), 林信二郎「家庭の教育棟能と諸変数」 (教育学研究集録 第7集 東京教育大学所収). 3)立身出世主義についてほ,小川太郎『立身出世主義の教育』要明書房 昭和32年,見田宗介 「日本人の立身出世主義」 (潮 昭和42年11月号所収)参照.特に後者の分析は金凱、. 4)明治31年に公布された明治民法の規定した家族制度は「旧武士層の家族秩序を政府公認の理 想的家族の姿として定着した」 (川島武重『イデオロギーとしての家族制度』 31頁)ものとい われている.. 5)小川太郎 前掲書100貢以下参照. 6) 「去年ノ蒼生-。今年ノ参議。昨日ノ傭夫-今日ノ大輔トナル。」といって村民に説いてまわっ て信州の永山権令の勧学法はその最たるものであろう. (『近代思想史講座4』所収, 7)遠山茂樹「維新の変革と近代的知識人の誕生」 179貢). 8)唐沢富太郎『学生の歴史』 164貢より引用. 9) 「民間雑誌」 (『明治文化全集』第18巻所収, 204頁). 10)士族の生活窮乏の様子ほ,当時の新聞などにもよく伝えられている.例えば,常州の「女房を 遊女に売って除族の所罰」 (明・ 6・ 8・ 22・東京日日) 「帯刀なければ乞食と同然-落ちぶれ ゆく士族」 (明・ 6・ 4・ 26・東京日日),江州地方の「窮迫士族の転落」 (明・ 18・ 4・ 19・日出新 聞),福井県の「士族窮迫」. (明.. 19.. 1.. 31.朝野新聞)など.. ll)明治期の家庭に成長した士族100人を抽出し調査した結果,. 24人がこうした親の姿を伝えて. いる.. 12)深井英五『回顧七十年』岩波書店 8頁. 昭和16年, 13)横尾惣三郎『我が半生を顧みて』農民講道館出版部 12-13貢. 昭和33年, 14) 「男の子ほ上方へ丁稚奉公にやらな出世しや-ん。」という井上貞治郎(明治15年,兵庫県生 まれ)の母の言葉に端的に示されるように,立身出世の階梯たる上級学校に無縁であった商人, 職人,中下層の農民の親たちが希求しえたのは,徒弟制度という封建社会以来の伝統的制度を 通路とした致富をめざした立身出世であった. 15)麻生 誠の調査によれば,明治36年の-1)-ト200人を抽出し分析した結果,各界における 士族の占める割合ほ,官僚627o,ビジネスリーダー23ヲTo,軍人8757o,教授・教育者38o/a, 医者507o'政治家387ち,華族987oとなっている. (麻生 誠『エリートと教育』217免責 23. 16). より算出する).. 「大警視川路利艮君伝」福地重孝『士族と士族意識』春秋社,昭和31年 333京より一部分引用. 17)内田義彦他「知識青年の諸類型」 (『近代日本思想史講座4』所収, 269貢参照). 18) 『私の履歴書』第24巻 日本経済新聞社 282貢. 昭和40年 19)前出の士族100人の調査結果によれば,敢格主義教育方法をとるもの56人と圧倒的に多い. 20)同調査結果によると,個性尊重主義的方法をとるもの8人. 21)杉本成子「武士の娘」 (『世界ノンフィクショソ全集』第8巻所収, 380頁). 378貫. 22)同上書.

(17) 65. 近代日本の家庭教育に関する一考察(そのⅠ) 383頁. 423頁. 25)ル-ス・ベネディクト,長谷川松治訳『菊と刀』下巻社会思想研究会昭和26年, 7見 26)渡辺順三『烈風のなかを-私の短歌自叙伝-』新読書社1959年, 23)同上書. 24)同上書. 27). 174見. 『私の履歴書』16巻14頁.. 352頁・ 28)和田完二『私の履歴書』 12巻 235頁・ 29)土屋喬雄『私の履歴書』 30巻 また平塚らいてうも当時のことを次のように回想しているo. 「日本の家族制度の分解期ともい. ぅべき時代に成長期を過した私ほ,その時代に全盛を極めていた個人主義思想の洗礼をうけた. 当然の結果として,自己以外に一切の権威を認めず,古い祖先などというものを考えたことも (平塚らいてう『わ なければ,また,家族の歴史を知ろうと思ったこともありませんでした・」 たくしの歩いた道』 10頁)こうした回想からも,当時の親子間の断絶の深さの一端がうかが われよう.. 30)福沢諭吉「福翁百話」 31)同上「福翁百鈴話」 32)同上書. 291頁)・. (『福沢諭吉全集』第6巻所収 (同上書 所収435頁)・. 403頁.. (『福沢諭書全集』第7巻所収, 230-231頁)・なお・彼が実際こうした 33)福沢諭吉「福翁自侍」 教育方法をとったことが,明治16年に彼の四男として生まれた福沢大四郎が,その著書『父・ 福沢諭吉』東京書房,昭和34年で語っている・ 昭和28年・ 34)福沢諭吉『愛児への手紙』岩波書店 7頁・ 35)平沼願一郎『平沼膜一郎回顧録』平沼膜一郎回録顧編纂委員会,昭和30年, 36)同上書13頁.. 37)同上書12頁. 38)同上書13頁. 39)同上書11頁. 40)和田英子『我母之朕』信濃教育会埴科部会編,昭和5年,. 3頁・. 7頁.. 41)同上書 3頁. 42), 43)同上書 44), 45)同上書 4頁. 5頁. 46)同上書 7-8貢. 47), 48)同上書 7頁. 49)同上書. 8-10瓦 50)同上書 51)柳田国男『明治大正史一世相第一』東洋文庫,. 52)野間清治『私の半生』千倉書房版,昭和11年,. 222頁参照・ 2貢・. 9頁. 53)同上書 54)同上書17頁. 25見 55)同上書. 56)渡辺順三. 前掲書8貫.. 57)同上書11頁. 44頁・ 58)湯川秀樹『旅人-ある物理学者の回想』角川文庫, 17頁・ 59)平塚らいてう『わたくしの歩いた道』 6見 60)同上書 31瓦 61)同上書 20貫. 62)同上書 3-4頁・ 63)加藤シズェ『汝が名ほ母-わが半生の記』 64)同上書 5頁. 65)同上書17-18頁. 66)奥村五百子ほ「母より受けたる教訓」として次の如くに述べている・.

(18) 66. 小. 林. 輝. 行. 「女は他家に嫁するものなれば,一家を整ふる道を心得置くべきことを肝要なりとて,麹をね せる道より,酒,味噌,醤油の醸造を始め,漬物-g・総ての調理法をば,充分に教へを受仇 読書,裁縫,手車,遊芸なども大体ほ教習し,十三歳の時より一家の着用する衣服は,自分一 人にて引受仇夜も深更に及ぶまで裁縫し決して怠ることなかりき」 (「家庭乃葉」新潟県女子 教育会発行,明治39年9月号). 67)見田宗介,前掲論文. 68)藤田省三『天皇制国家の支配原理』未来社1966, 98-99頁参照..

(19)

参照

関連したドキュメント

以上のような点から,〈読む〉 ことは今後も日本におけるドイツ語教育の目  

1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における

この映画は沼田家に家庭教師がやって来るところから始まり、その家庭教師が去って行くところで閉じる物語であるが、その立ち去り際がなかなか派手で刺激的である。なごやかな雰囲気で始まった茂之の合格パ

婚・子育て世代が将来にわたる展望を描ける 環境をつくる」、「多様化する子育て家庭の

This paper is an interim report of our comparative and collaborative research on the rela- tionship between religion and family values in Japan and Germany. The report is based upon

 ファミリーホームとは家庭に問題がある子ど

 英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき

海に携わる事業者の高齢化と一般家庭の核家族化の進行により、子育て世代との