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パーリ学仏教文化学 (9) - 005金 龍煥「仏陀と形而上学 : 無記説に対する諸解釈を中心に」

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全文

(1)

仏 陀

形 而 上

無 記 説

対 す

諸 解 釈 を 中心

龍  煥

1

。 は

じめ

 

原始 仏 教の研 究が ヨー ロ ッ パ で始まっ た 以 来最も学 者た ちの 注 目をあつ

た 問 題は, 『 原

こ と に

祖釈

牟尼

存 在論

的 問題に関心 を示 さ       (1)

そ れ らを

っ て もい ない とい

こ とで ある』。 この 見 方 に対 して は その

い ろい ろ反 論が提 起 さ れ , ま た新 しい 見解 も発 表れ た が, 現

で       (2) もあい か わ らず 通 用 してい る。

 

こ の 題 は

は原

仏 教の 中心 思 想で ある四諦八正 道, 縁起, 四

法印等

の 位 置つ とも深 くか か わる し, またイン ド思 想 史に お け る仏 教思

の独

性 の 問題 , 後 代 成 立 ・展 開す仏教 思 想 とな が り

問題深 く関係 い る。

 

キ リス ト教におい て神 を否 定 して し まえば, そ れ が宗 教 と して成立 しえな い よ

に, 仏 教 にお い て

釈 尊

悟 り

否定す

る と, その

践 も思 想 も意 味を 失 っ て し まう。 こ の

りが果た して どうい うもの か , それ は釈 尊の 教 えであ る教 法 と ど うい

を もっ てい るか , ま た その教 法の根 本 意 味は

で あ る の

問題は, イ ン ド仏

想 史

心テ ー っ て も過 言 で はない 。

 

しか し, そ れ は過去に終わ っ た問題 では な く, 現 在に お い て も仏

の 中で 生 きる こ

見付

けようとする 人に とっ て も, 宗教と して仏教を

え よ うとする教理 学 者にとっ て も 文 献 ・言 語 ・思想 に興 味をもっ て い る 文 献 学 者 ・思想 家 にとっ て も この 問 題は あい かわ らず問い な お さ れるべ

(2)

 72       バ ー学 仏 教文化 学 きで ある。

 

とこ ろが仏 教 文 献学の 研究は, 文 献上 にお い て, 歴 史 的仏 陀の 思想 を弁別 す るこ とが い か に難

なもの であるか を教 えて れ る し, 一

仏 陀 思 想 ものが

体系

的 ・

理 的に組

さ れてい ない か ら解

におい て

曖昧

と なっ て し まうとこ ろ も

しか し な が ら, 原 始 仏 教の文 献の 中には, 歴 史 的仏 陀の 思 想 が とけこ ん でい るの は

かで ある し, またそれ は断 片 的 な もの では な く一貫 した体 系を持 っ てい る もの で ある と思 う。 もしそれ が仏 陀思 想の 根

的立 場である とすれ ば, 私 見 と して は その可 能性 を 「無記中道

の 中 に

出してい る。

 

無記の 教 説が初期 仏 教の 根 本 的 立場 を決 定 しうる と して も, 資 料論の

E

か       (3) らは, そ れ を

き出せ ない とい う批 判が ある。 恐 ら く

今経

典に

えられて い る, 十

無記

乃至 十四

無記

として ま とめ られ る以

当 長い 成 立

課程

があっ        L4:1 た に ち がい ない 。 しか し な が ら, 仏 陀 が 形 而

E

的 問 題

di

thi

に対 して

論議

した り, ま た そ れ に

分の

見解

える こ とに全 く興 味を示さ な か っ た こ と は 『ス ッ ニ パ ー の 諸

詩句

の 中 か ら

認で きる。 し た が っ て 十 無 記 説が た と え

代 に成立 した と して も, その中には形 而

E

学 的 見解 (

di

hi

) に対 する仏 陀の 基 本 的

姿

勢 が

まれてい ると見て もよい の で はなかろ うか。

 

無 記 説につ い て は初 期 ヨ ーロ ッ パ の仏 教 研 究者 は勿 論, その 後の研 究に お い て も仏 陀と形 而

L学

を論 ずる場 合に は か な らずとい っ て もよい ほ どに言及 さ れてい る。 無 記

は学 者に よっ て は仏 陀 が 形 而上学 ・哲 学 を排 斥 ・拒 否 し た

拠と して 用い ら れた り, またその 反 対の 論 拠 と して も使 用 された りす る。 とこ ろが, 無 記 説の 解 釈の あ り方は この 問題だ けにおわ るの で は な く, 仏陀 の

内 容 教 説位 置 付 け

と密接 に関わ っ て い る。 もし無記が形 而 上 学に対 する完全 な拒 否 を意 味 してい る とすれ ば ,仏 陀の

は,個 人 的 ・心     (5) 理 的次 元の 変 化にす ぎない の になる し, その 教 説 もその 変 化に基づ い た現       (6)

匿界の 再発 見とい う程 度の にならざる を得 ない 。 もしその 反 対 に無 記 が形 而上学の

肖定

意味

し て い る とすれ ば, 仏 陀の

りは絶 対 的, 宇

論 的       (7 な もの にな る が, その 場合には 仏 陀 が形 而上学 的問 題 に対す る自説 を 立て な

(3)

仏陀と形 而 ヒ学

73

かっ た理 由 を

明 しなけれ ば な ら ない 。 こ の 二 つ の相 反した

解釈

学者

た ち の 自恣 的 見 解に よる とい よ りも, 原 始 仏 教の

文献

が その 二 つ の

解釈

の 可 能性 を初めか ら秘め て い る と見 るの が よ り妥 当で ある。 形 而 上

の 問 題 に 対す る 仏 陀の 思

的立場が どい う もの か とい う疑 問は実は近

仏教

に おい て

まっ たの で はな く

経典

によれば

釈尊

に あっ たの であ り,その 端 を伝 えて い

無記

か か わ

。 その

料が どれ ほ ど歴 史 的 史実 を反 映して い る か とい う問題 はある が , その 内容

討 し て 見る と仏 陀の 形 而上

に関する

曖味

態度

に疑 問を投 げ

けて い       (8) るの は, 仏教々

範 囲

の 人々 に及ん で い る こ とが分か る。 教団の 出 家比

E

さえ も形 而上

的問 題 に沈黙 を守る仏 陀の 真 意が理 解で ず, 直

問をする場 合 もあり, 比 丘の 問で論 議 する場 合 もある。 また

が 出家 比 丘 に, 外 道 遊 行 者

paribbajaka

仏 陀

や その

問 す る場 合が   (9) 見 える。 例 え ば, 『

含 経

905

) には ,智 恵 第一 とい わ れる

多外 道

ねて

て, 「如 來 四

」 に対 して

問 する が,

舎利 弗

は た だ 『

言説。 此是

記cl: と答えるだ けで あ る。 そ して

摩訶

迦葉の 居 場 所 に行 っ て, 『何 因何 縁 匿

不 記 説 。 後 有生死。 後 無 生 死…』 云々 と

問 を してい る。 こ れ ら は

な くとも原 始 仏教 教 団の

におい て さえ も,

無記

真意

が 時に は 正

に理 解 され て い な か っ たこ とを

える もの と して

け止め て もよい の で はない で あろ うか。

2

し た と

解 釈

 

ヨ ー ロ ッ パ の仏 教

の 中で 仏 陀と形 而上学に関 する既

学説

を恐 ら く始めて批

し た人がヘ ル マ ン ・ベ

Hermann

 

Beckh )

は な あろ うか。 彼は著 書 『仏 陀』

Der

 

Buddha

 

1916

刊) の 中で 『近 代の 研 究 者た ちの い こ れ等の 問 を拒絶 したこ と

記 説 ) に よ り仏 陀が形 而 ヒ

問 題に対 して

冷淡

っ た と

推察

する こ と , すなわ ち, か かる

題が

仏 陀

に とっ て 問題とは な ら な かっ た と仮

するこ と は こ の点を充 分       (10> 理解せ ぬ もの で ある』 と述べ てい る。 そ して その 沈 黙

無 記

の 意 味が否 定

(4)

 

74

                          ハ ーリ学仏教 文化 学 的 な もの で は な く, 積

的な 一一一 。 J 宗 教 に おい て 々 に説か れ る か の 最 高精 神 的な もの は, 仏 陀に とっ て は

黙で っ た

H

Beckh

 

p

173)

と し 『この

黙の 意

を正 しく理

する こ と は仏 教 を全

と して理解 す るの に極めて重 要で あ る』

II

. 

Beckh

p

161

)と言っ てい る

 

それで は仏 陀が なぜ

形 而

学 的質

沈黙 (

無記)

したの か, その 理

を 説 明せ ざる を得ない ン トの 認 識理論 を前 提に してその

に当 た っ て い る。

 

に とっ て は頭 脳に結び付い た思

の 範 囲 を出ぬ の は当然であっ た。 (中 略)

 

・方 仏 陀は通常 の ,経 験 的 思 考 (我々 の 言葉で 云 えば, 頭 脳 に結 び 付い た思

考)

を超越 し, 克服 す るこ と を 正 しくその 使

と してい る。 されば こ そあ らゆ る思 弁の 拒 絶 をしたの で あ り, 抽

哲学

的思

に よっ て は

最高

の 宇 宙 並びに八間の 秘 密に達 し得ぬ と宣言 したの で ある。 感 性 に結び付い た 低 級な思

が絶 望 的に落 ちて い る矛盾を解 くの は論 理 的思

で は な くただ

意識

bodhi )

の みで ある』

H

. 

Beckh

, 

pp

168

169)

 

こ こで 「最

宇宙

並びに人間の秘

」 と はすな わち形 而 ヒ学 的 実 在の こ とで あ り, 日

的 ・

的思

そ れ達 し得 な それ が 仏 陀

黙 の

つ 意

こ とで あ る。 その か わ り仏 陀は 「

高次

bodhi

」 に よっ て実

に到達 し よ う と した とベ ッ クは見てい る。 ベ ッ クは カ ン ト の認 識 理

提に仏 陀の

記の

度を

解釈

しなが ら, 一 方では両 者の 相 違 点 を は っ き り

ち 出 してい る。 カ ン トは与 えられ た

識の

囲 内の 認 識の 限 界を 理 論的 に示 し,

性に結び付い た 思考, 即ち, 「 純 粋理性」 の 範 囲 内で は高

意味

で の

実在

識 に到

す る こ とが不可

で あるの を論 證 し, 形 而 ヒ

認識

対象

として

排 除

したの に

し,

仏 陀

えら れ た

識の

形式

え得る道, 実践を教えるこ とに よっ て 実在の 認 識 (高 次の 認 識 )に到 達 し よ

とす る

 

H

Beckh

, 

p

.ユ

70)

Q

 

彼が 「仏 陀は極め て 深い 内 面 い て 形 而 上

素質

して い た』 (

H

Beckh

, 

p

168

)とい うの は この よ うな意 味に お い て であ り, また 『

(5)

      仏 陀 と 形 而 上 学       

75

精神 的指導者

たる もの で仏 陀程 にあらゆる哲 学 的思

を全 く

拒 否

した者は, 稀で ある』 (

H

Beckh

, 

p

175

,) と云っ た時, 哲 学 的思

の 拒

と は形 而上 学その ものの 拒 否では な く, 形 而上学が求め る

真 実在

に至 る

方法

と して の 論 理的思

考 (

性に結び付い た思

考)

拒 否 を意

す るこ とになる 。 そ うする と結 局, 仏 陀は形 而上学 的 実

に至る

方法論

的転

を は か っ た と見るの が

見方

で ある。

 

仏 陀が形 而

k

実在

を認め て い る と見る論 拠 をベ ッ ク は

Udana

 

p

81

で見 出 して い る。 そ して こ の 実

に対 する 「高 次 の 認 識」 を 厂

高次

bodhi

」 で

る と し, それ を

定義

して, 「即 ち あ ら ゆ る

識は仏

の云

う意

味で は相 対 的な もの で あ り, .一一 の 意識の 段 階に とっ て の み

存在

する の で あ る。 あ る段 階の 矛盾はす ぐ次の 高い 段 階に おい て

消滅

する。 あら ゆる矛 盾 を

滅させ る総

的な意識は菩提

bodhi )

で あ り, 聖な る

無 花

よ り

徴 化 さ れ てい る仏 教 特 有の 神 秘で ある』

H

Beckh

, 

p

170

と述べ てい る。 こ れ に よっ て 彼が言 う

高次

の 意 識

bodhi

)が

超 合

理 的で , 神 秘 的 な もの と して 理 解さ れて い こ とが わ かる。 その 結 果, 仏 陀に よっ て 説か れ た教 法の 意義 は 『実践 的

的目的達 成 に有 効 適 切 と信 じ た限 りにおい の み, 概 念 及び抽

的に

わ さ れた

H

Beckh

, 

p

172

) として規

して い る。 こ れはい い か えれば,

陀の教

は論 理 的 思

に よっ て 説 明 不可

な 「高 次 の 意識」 に関 する もの で は な く, それ に人々 を到 らせ る

段 (方法 論

と して

か れ た とい

こ とに なる。

 

こ の ベ 仏 陀

Der

 

Buddha

)よ り二

後に出版 され たの が ロ ーゼ

ン ベ ル グ

 

Otto

 

Rosenberg

 

仏 教 哲 学 問 題』

 

Problemy

buddhiskoj

 

Filosofi

1918

年 刊

で ある。 ロ ー グ が ッ クの 著 書 を

んだか

か は

確 実

で は ない が ,彼の 無 記 に対 する見 解はベ ッ ク と非 常 に類 似 して い る。 彼 は仏 陀 が 形而上学を否 定 し た と見る学 者 と して

Oidcnberg

Walleser

, 

de

 

la

 

Vallee

 

Poussin

, 

Rhys

 

Davids

0

. 

Rosenberg

, 

p

68

名 前 を あ げ, こ れ らの ヨ ー W

ッ パ の

初期

の仏 教研 究 者が この ような見 方に偏

ら ざる を得 なか っ た当 時の 思 潮 を鋭 く

指摘

して い る点 (

0

Rosenberg

, 

p

(6)

 76       −∠

S

−:−

L

!ニアゴム孝攵文工し学

73

)は注目に値 する。

 

ロ ーゼ ン ベ ル グ は

教 と し て の仏教が神々, 魂や 総じて形 而上学的問題,

の 問 題 及び現 睚倫 理の 極 限に対 して 関心 を示 して い い とい こ とに 疑問 を抱い て は い る が, 「仏 陀 が形 而上 学 的問題 に関わ ら なか っ た とい う証 明は

して

確 実

な もの で は ない

0

Rosenbcrg

, 

p

69

と見て, 前 述 し た

学者

の見解 を批 判 して い 無 記 説仏 陀実 在対 す問 題無 関 心 あ っ たこ との 証 明で は な く, か え っ て こ れ らの

問題 を

熟慮

し, そ れ を全く

定 的に め られ た見地の とで観 察 した とい う証 明で ある と言っ て い る (

0

Rosenberg

、 

P

69

 

この決 定 的に

め られ た見地 が なにか を彼は具 体的に説 明 して い ない が , 一 方で は仏 陀が無 記の

を とっ た理 由に対 して 『それ らが形 而上学 的で あるか らで はな く, 仏 陀の 形 而 ヒ学 的見 地で

観察

する な ら ば, そ れ

に解答 する こ とは論理 的に不 可 能だ か ら で ある』 (

0

Rosenberg

, 

p

73

) と述べ て い る。 した がっ て , 決 定 的に定め られ た見 地 と形 而上学 的見 地が ほ ぼ 同 じ意

使

わ れ て い るの が 分 か る。 形 而上

は 『

真実在或

い は

存在

の 問 題へ の 問い とロ ーゼ ンベ ル グ は

定義

してい る が, こ の

義か らす る と形而上

的 見 地 と は仏 陀が

験 し た

真実在

地と

こ と が で きる で あ ろ う。 そ して その 見地に立っ て 見る と形 而 ヒ学 的問 題 に対す る

言 的な

判 断を下 す こ とが論理的に 不 可能で あ り, そ れ が無

意とい

こ とであ る。 こ の

見方

か らする と,

仏陀

拒 否

し たの は

形 而

L

学 自体

で は な く, 形

におい て

め る

に対す る 問 い の

仕 方

を否

したこ とである。

 

こ の よ う な ロ ーゼ ンベ ル グの 形 而上学 的 見地 は前述 したベ

高次

識 (

bodhi

相 当す

る。 また そ れ に

方法

として の

否定

す る

点等

は 互 い に

似 してい る が,

場合

E

的見地 と教 法 との 関係 につ い ては具 体的 な言 及 を してい い の であ る。

 

こ の 両 者が仏 陀と形 而 上

に関

る従

解釈

の 問 題

指摘

しい 釈 を試み た よ うに, 和 辻哲 郎 博 士は従 来の 研 究 を批 判 し, 自分 の 独 自の 見

      (11)       (/2) を原 始 仏 教の 「根 本 的立場」 と し て発 表 し て い る。 博士は従 来の 学 者の 見解

(7)

      仏 陀と形 而

L

学      

77

を, 「 ダ は

哲 学

退 け , と

くの

学者

が 主

する』 と ま とめ , それに対 して, 『々 の取 り扱 資 料か ら か く も裁 然 歴 史 的 ッ ダを 規定 し得るか。その

身は果た して哲 学的 思索を排 斥 してい るか.(和 辻,

p

9

 

問 を なげか けて い る。 そ し て主 に オ ル デ ンベ ル ク (

H

Ordcnberg

) を批 判 しな が ら, 仏 陀は 『哲 学 的思 索 を排 斥

和 辻,

p

90

)と い

う自説

論證

しよ

る。

 

士 は仏 陀の 思想 に対す る オル デ ンベ ル クの 主 張を 引 用

辻 ,

pp

9

 一

91

) してい る が, その 内

を整理 してみ る と,

 

1

) 事物

究極

根 拠

Cletzen

 

GrUnde

 

der

 

Dinge

)を

探 求

し, 綛 識 する

    思想 体 系 とし て の 哲 学では ない こ と。

 

2

)解 脱とは事

の 偉 大なる秩 序の 把 捉であ り, 解 脱に関する

囲 内にお    い て哲 学 的 思索があっ た と認める こ とで ある。

 

これ に よ る とオル ン ベ ル クは事 物の 究 極の 根 拠 を認 識 するこ と (哲 学

事象

の偉 大なる秩 序の 把 捉 と して の

脱 とを別 個の 領 域 と して

て い る。 とこ ろが和 辻博 士は両 者が 同 じで あ るこ とを

證 するこ とに よっ て, 『仏 陀 は哲 学 的思索を排 斥 して い ない とい う 自説を

裏付

け ようとする。 まず博士 は ヒ

見解

して

の 三つ の

問 を

提起

して い る (

辻,

p

93

)c

 

)経典

中の ブ ッ ダ は果た し て 「

事物

究 極

につ い て 答 えて お ら    ぬ であろ うか 。

 

2

オル デ ンベ ル クの い わ ゆる 「

事象

秩 序

物の

    拠 と し て説か れ たの で は ない で あろ うか。

 

3

)形 而 ヒ学 的 問題にブ ッ ダ が答 えられ な かっ た の は そ れ が

真実

の 認 識に ,

   

す なわ ち

事象

秩序

わ ざるが ゆえで は な か ろうか。

 

博 士は い 論 拠 和 辻

pp

93

95

) を提 示 した

, 仏 陀 が形 而

E

学 的 問題 に答え なか っ たの は実 践 的理 由か らで は な く ,

1

−−

Q

認識

に役 立 たぬ こ と と, こ の 種の 問題は 二律 背 反に基づ い てい るの で

解決

不 可

で あ       q3 ) る こ と とい 二つ の 理 由か らで ある とす る。 こ こ で

に注 目に価 す るの は , 真 実の認識 がほか な らぬ原 始 仏 教の 基本 的教 義で る無我 ・五 蘊 ・縁 起 ・ 四

(8)

 78       パ ・一リ学 仏 教 文 化 学 諦で る とい こ とで あ る

和辻,

p

97

。 こ れ を オ ル デ ンベ ル ク は解 脱に よっ て把 捉 さ れ る

事象

の 大い なる

と して

け 臣め てい たが ,

士 は こ れ らが同時に 「

事 物

究 概の 根 拠」 で あ り, 真の 哲 学 的問 題で あ る と したの である。 そ れ故に仏 陀は哲 学 的 問題 を さ けたの で は な く, 形而上学 的問題 が

学 的 問題 で は ない が故に答え な かっ た とい うこ とで

る。 し か しなが ら

哲学 的

問 題 が

事 物

究極根 拠 , 則 ち真 実

を問 題 とする な らば, それ こ そ形 而上学 と霞わ ざる を得ない 。

士 は 「 形 而上学 的 問題」 と の 混 乱 を避ける た め か, その 意図 は は っ きり しない が, 形 而上学とい う言 葉       (14) を使っ て い ない 。 い ずれ に せ よ, 仏 陀は

実在

対す

真実

の認 識か ら,形 而 上学 的 問題 を否 定 した こ とで あっ て, 形 而上

学 自体

を否

し たこ とに は なら ない とい うの が

士の 見

で あ る よ

である。

 

その

実在

対す

認識

十 は 『パ ウ ロ に よっ て神の 智 恵 と

ば れて い る ような神秘的な, 超 感

的な もの の認識 で は な く,無我 ・五 蘊 ・縁起 ・ 四

とい

ご と き原理 の

に ほ か な らぬ』 (和 辻,

p

94

)と断定 してい る。

 

前 述 した ロ ー ゼ ン ベ ル グの 「形 而

E

学 的 見 地 の 「

高次

の 意 識 (

bodhi

)」,和 辻博士の 「真 実の 認 識」 はそ れ ぞ れ言葉は違っ て い て も , そ れ が仏 陀の

を示し, またそれ が究 極 的実 在の 認 識にか か わる もの と して無 記の

意味

を見 直し た

で は 三

とも共 通 して い る。 しか し

りに対 する見 方 の相 違か ら仏 陀の教 法 に対 す る評価 と位 置 付け が

非常

なっ てい る点は

過で きない .

 

宗 教 た り , ま た論理 的思考が 及 ば ない 神 秘 等と して考えてい る こと か ら, 教 法を

次の 意 識の 内容とし て は 見ず, か えっ て そ れに人々 をい たら しめ るた めの

手段

と して見てい た。 しか し和 辻 博一ヒは真 実の 認 識 を

秘 的な もの で は なく,原理 的 ・合 理 的な もの と して 見

,その 原 理 に 対す る真の 認 識 が,即 ち教 法である無 我 ・五 蘊 ・縁 起 ・ 四諦で ある とい の で る。

 

中観

研究 者

で ある, ム ルテ ィ (

T

R

. 

V

. 

Murti

と長 尾 雅人博 士が       (15) 中観 的 立場 か ら無 記の 意

を検 討 する論 考 を同じ年

1955 年)

に発

し て い

(9)

イム「;と形Ili∫1・学 79 るの は不 思

な…致で あ る。

 

ム ル テ ィは中観 哲 学の 体

を正

に理解するた め には仏 陀の 沈 黙が持つ 意 義を 適 切 に評価 する必 要が ある と見る。 彼は 『部 経 典

CUIa

Malunkya

Sutta

に基づ き, ヨ ーロ ッ パ の 仏 教 研 究 者 に よ っ て なさ れ た三つ の 解 釈

practical

), 不 可 知 論 的

agnostic

否定

的 (negative

  

に対 し それ が仏 陀の教 えお よび仏 教 諸 学 派の 教

ピ ー致 しな い こ とを

指 摘

する (

Murti

, 

p

37

)、,

 

こ れ らの 解 釈に対 して, 僕

に対 す る根 本 的評価 と しての

学を前 提 と しない 生 き方 をわれ ら は

て ない 』

Murti

, 

p

37

と し,

仏 陀

践 的教 え の

背後

哲学 的

を認め て い る。 した がっ て

は仏 陀の 無 記につ い て 『そ れ は形而 対 す 無 知

は当 代の 哲 学 的 思

しか っ た だ けで は な く, 自ら が優 れ た形 而上

学者

であっ た。 彼は鋭い 分 析 によっ て 理

独 断的性向

効 化 し, 超越 す る 立場 に至 っ た。 彼の 思 弁 的形 而上学 に対 する拒 絶は慎重で, 変わ らぬ もの であ り,批 判 自体が 彼に とっ て

学で ある』 (

Murti

, 

p

47

, cf. 

p

8

) と評 価 して い る。 とこ ろ が こ の ような解 釈の 背景に は, 仏 陀が浬 槃 (絶對 者)の実 在 を疑わ ない こ と と, ま た そ れ が形 而 ヒ学 的 実在 (絶 對 者 )に か か わ る もの とい うのが前 提さ れ て い る。 問 題はこ の 実 在の性 質を どの よ

規定

す るかに よっ て その 見

れ るが ,ム ル ィ は 仏 陀の 無 記に 対 して, 『彼 の 沈 黙 は 無 制 約 的 実 在 (

Unconditioned

Reality

わすこ との で きぬ 性

対す

自覚

と して 解 釈 さ れ

る』

Murti

, 

p

48

) と述べ て い る。 こ の 解 釈は絶

実在 (

Brahman

 

Atman

を規

ない もの と して 見る ウバ ニ シ ャ 見 方と類 似 して い る し, そ の 結 果 彼 は無 記の 態 度 を

絶 對 者

非概念

的 知 識

く手

で ある と

て い る。

 

こ れ はい い か えれ ば , 理性が

の 究極 の 根 拠 を 見出すた め に現

を 超 え よ うとす る時, 是

も ない 矛 盾に陥 らざる を

ない の で 仏 陀はそ れ を

っ て理性よ

に立っ て これ を

解決

し よ

とする。 それ が仏陀の 批 判主 義的

観点

で あ り, ま た弁 証 法で ある

Murti

, 

p

40

) とい うの が ム ル テ ィ の

(10)

 

80

      パ ・リ 学 仏 教 文

で ある。 しか しこの 解 釈は文 献 的

付 けを持た ない こ とか ら,

が ヴェ ー ダ ー ン タ (

Vedanta

) 的

伝 統

に基づ な が ら

代の 中観 哲 学乃至 カ ン ト 哲 学 的立場を仏 陀 に無理 強い に押 しつ た もの と して 見 ざる を えない 。

 

長尾 雅 人

士はム ル テ ィ とは異なっ て , 仏 教 思 想 史の 展 開の 中か ら, 無 記 を解 釈 し,特 に龍樹思想との 関わ りに おい て無 記の

意 を

付け よ うとする。 そ れは仏

思 想

の展 開が仏 陀以

の 思想 的一

性 と

一 を保 っ てい る とい う

提に基づい て い る。

  博

士 は 無記の 態 度 を取る思 想 的立場がい か なる もの で あっ た か は,仏 陀に よっ て 十分 に

展 開

され ない ま まに残さ れ た が, 龍 樹 にあっ て は, か か る仏 陀 の立場は

般若

ばれ る

知 的な立 場に立つ の で あ り, その 智の

容が空 性 と して

け 取 ら れ た と見て い る 長 尾,

p

445

)。 そ して 『龍 樹の 空は, 実に仏 陀の

黙 の

内容

を顕

に し,それ に肉付け を与えた とい うべ きで ある』 (長尾,

p

455

)と述べ い る。

 

もう

 

一方で は,

士は

大乘経

論 に広 く現れて い る真 理観 に注 目して い る。 す なわち 『起 信 論 』 の 「離 言

真如

」,

華厳哲学

の 「 果

不可

:,

禪宗

の 「

外別伝, 不立文 字」 等 (長 尾,

p

444

は , と もに究極 的 真理 が不可説,不 可思 議で 言 葉 と概 念を超越 した もの と見てい る こ とか ら, そ れ を もっ て逆に 無 記の 意 味 を問い

め よ

とす る。 『の こ

な る , そ れ に対 する不信 頼が, 十四無 記に対 する理解の重 要な鍵と なる とすれ ば ,同 時 にそ れは仏 陀の 場 合の

法に先立 つ 菩 提 樹 下 における躊 躇 と沈 黙 と を説 明 す る もの であろ う』 (長 尾,

p

444

 

この よ うに長 尾 博 圭は後代 大乘 仏 教 哲 学 (形 而上学

の展 開か ら振 り返っ て , その

をた だせ ば仏 陀が

して形 而 ヒ学 ・

哲学

斥し たはずが ない と い

う論

理 で もっ て仏

の 思 想 的 立 場 を見 きわ めて い る。

 

も し仏 陀 が 形 而 至哲 学 排 斥 し た あ り , ただプ ラ グマ テ ィ ッ クな意 味で の み沈 黙 を守っ たの である な ら ば

に龍樹 の 空観を通 じ て 無 着や 田親 の 唯 識 哲 学が展 開せ られ, 遙か に天

厳の

学が 生 み出 さ れ た か を,了 解 する に苫 しむで あろう』 (長尾,

pp

454

455

と し

(11)

       仏 [と 形 而 ヒ学        81 い るが, こ れ は どこまで も後

の仏 教 思

開に基づ い た

要請

で あ て , かな らず しも歴 史 的

事実

とは 限らない の であ る。 原 始仏 教の 資 料が 限 ら れて い る とい う制 約とその 思想の 瞹 昧な

を補 うた め , 仏 教 思 想 史の 広い

視点

で 無 記の意 味を検 討す る こ とも, た しか に 一方 法であ る が ,後 代の 解釈や 思

を歴 史 的仏 陀に

しつ け る危 険性 が る こ と を 認

 

L

述べ

た ち 無 記 主 な

究は , その

方法

と解 釈の 方に おい て

少相 違が ある と して も, 共 通に

初期

の ヨ ー ッ パ の仏 教 研 究を 批 判 し, 仏 陀の

りに注目 して,仏 陀が決 して形 而上学 的 実 在を否

し な か っ た こ とを証 明 し ようと し い る。

3

を否

た と見

解 釈

 

以 ヒの よ うな 反 論が な されて た に も かか わ らず,仏 陀が 形而上学 を否 定 ・拒 否 し た とい

ヨ ーロ ッ パ の イヱ、教 研 究

以 来の見解 も依 然 と して主

されて きた。

 

水野弘元

.七は著 書 1

原始仏教

』 の 中で 「

教とちが う原 始 仏教

想」 と題 して原 始 仏教が形

上学 を否

した 埋由につ い て次の よ

に論 じて い る。

 

1

)この ような形 而上

的 問題 (卜

無記)

は,我々 の 認識や経 験の

  

るの で ある か らである

水野 ,

p

99

)、、

   

形 而上学 的な もの は ,時間空 問の中にある現 象 界で はな く,

経験

を超

  

え た もの で っ て我々 が

直接

こ れ を経 験 した り認 識し た りす るこ との

  

ない の であるか ら, これ につ い て是 非の 判 断を下すこ とが出 来 ない

  

か らで ある

野,

pp

93

94)

v

 

2

この よ

な形 而

E

学 的 問題が解 決 さ れ

た と して も, それ は我々 の不

  

安 苦 惱の

に は何 等の に も立た ない か らで あ る

p

100)

 

こ の 二 つ の 理 由の 中で,

2

)はある程 度経 典

を もっ て い る とい え る が,

1

)の場 合は

経典

の 中にこれ を

付 ける論拠 を見 出 しに く 。 博 士は 理 由

1

に関 連 して , 『こ の 而 上学 否 定の 陀の 立場は,

も カン トが

(12)

82

ノC−・リ〔学 イム孝文 イヒ’予二 以 前の

哲学 説

として の 唯 物

など を ば,

験の

方にある問 題で あ るか ら, 解決 不可

の 形 而上学で ある と して , こ れを排 斥したの に似て い

野,

p

100)

っ て い しか し な が ら

1

)の 理 由は経 典 に論 拠が な い こと か ら, こ れ はカ ン トの 認 識理

に基づ い て の水 野

十自

解 釈 とい わざるを得 ない 、,

 

カ ン トの

識 理 論 に

影響

され, それ で もっ て

記の 意 味 を解 釈 した の は, お そ ら く前述 した ベ ッ クか ら

ま りム ル テ ィ を経て

士に受 けつ な が れてい るの で はない か と思 う。 しか し博士は両 者と は 正反 対の 結 論に た ど り つ い て い る。 カ ン トの 認識 理 論と は, 基

的に形 而上

的実 在は認 識の 限 界を超 え てい るか ら入間の 知 性に よっ てはつ か むこ とがで きない とい うこ とで ある。 こ れ を ジ ャ ヤ テ ィ ラ カ 〔亅ayatillckc ) は 「 合 理 的 不 可知 論 (rational 。

g

。 。、

i

i

1

と して 分 類 してV・る. ・の 論理 か ら す ると, 謙 の 限 界 を 超 えた とこ ろ に形

的 実

が あるべ あ り れ を カ ン トは 「物 自体 (

Ding

 an  sich と言っ てい る し,ベ ッ ク もム ル テ ィ もそ れ ら し き もの を 認 め て い た。 と こ ろ が

士は 『原 始 仏 教

勿論

派 仏 教で も, 形 而上

的 実 体 と して の 存 在 は認め ない か ら で あ る』

野,

p

90

)と か, 『… … そ はすべ

十 無 記 , 十 四

記 ) 形 而 ヒ学 的 の

論 を問題 にする の で ある。 原 始仏 教で は, 最 初か ら こ の

形 而

を排 斥 した の であ る』

〔水 野,

p

96

) と述べ い る こ とか ら, そ うい う存 在を認め て い ない こ が わかる。 そ うす る と

存在

もしない に対 して

1

の 理 由をつ け るの は論理 的誤 謬であ る。

 

れ に せ よ博 士は こ の ような見 方か ら 『

形 而 , 世 界 と人生の

的存在につ い て , これ を極め て

客観

考察し た の である』

野,

p

104

)と述 べ い る。 この 考

果が す なわ ち縁 起 説 ・ 四諦説 ・四

印 等の 教 法で ある とい うこ と と なる

 

水 野博士の この よ うな観 点は, 初 期 仏 教の 根 本 的立場を 『形 而 否 定 現 実の

凝 視』 と見る 三枝 充 悳 博士 と相当 類似 して い る。 三枝 博士 は ,

ウパ ニ シ ャ ッ ドが現

後に ブ ラ フ マ ン とア ー トマ ン の よ うな絶 対 的原 理 を立て る一一一一t元的形而 上学で あるの に対 し, 初期 仏 教 経 典にあらわ れる型 は

(13)

仏 陀 と 形 而 ヒ学

83

「「 にか ひ とつ の 原 理 を立て, そ れに基づ い て 一 切 を説 明 し よ うとする

度 に

する拒 否 とい う型 を とJ 枝 充 悳 , 『期 仏 教 21978 , 

p

43

と語 っ て い る。 そ してこ の よ うな形而 上学の否 定の 態

が明 瞭に現 わ れて る の が 無 記であ る とする,、

 

†劇 二は

形 而

につ い , 『す な わ ち , り ま て多 様 な存

者 が あ り, そ れ らに関 する多 様な

験 的 認 識を私た ちは

つ けれ ども , さ らに その

多様

ひい て は相

対性

世 界にい る

た ちが その

多様

性 ・相対 性の背

の を

めて , 唯 一 (も し くは少 数

で絶 対 的な原 理 ともい べ き もの を志 向す る とこ ろ に形 而 ト学の め る場 所が ある』 (三枝,

p

39

と述べ て い る。 こ の 定 義か らする と

述 した形 而

E

定とは , われ わ れが 日常 的 に

経験

・認 識する

存在

在 者 (現

界 )の背 後に は そ れをそ れ と して存

せ しめる もの

原 理)が ない とい うこ とで ある。

 

だが 私 見 と しては ,無 記に この よ

な形而 ヒ学の

の態 度が 明瞭に現れ てい る とは瓜 えない し, また無記関係の資 料 に この よ う な解釈 を

裏付

る よ うな個 所が あ る とも認めに

い 。 とこ ろ が 博 十は 「 現

直視

に対 して , それ を浬

に結 び

けて

の よ うに説明 して い る

 

す な わ ち , ッ ダの さ とっ たニ ル ヴ ァ …が い っ た ん 日

的 ・自然 的 な 陛俗の

排 除超 越か ら , 真の 意

で の 現

の 直視一肯 定, お よび その

現実

に おける

法 (

dharma

 

dhamma

の 実 践へ こ と え ば , 一

の 「

」 と 「還」 とが実現 した もの で ある』 (三枝,

p

596

)。

 

あ く 間と して, 現 実を まの あた り, しか もその ままに じっ と直視 し , その な かで

を内に抱き, 欲 望 に目の 眩む 人間に対 して その

の消 滅,欲 望の 超 克を現 実の 世にお い て実現 し, 理想の 境であるニ ル ヴ ァ ー ナ を天 上の どこか に論 ずるの で は な く, こ の 現実におい て獲 得 し よ うとする もの で あっ た

三枝 ,

p

189

)。

 

こ こ で涅 槃 とは, す な わ ち 人間の 日常 的 ・白然 的態 度 としての 苦 惱 と

望 (渇 愛

, 執

着等

を根 本 的に

服 する こ とによっ て

, そ れ まで とは違 う, 現 実へ の

洞察

い たるプロ セス を意味 してい る ように見 える。

(14)

 

S4

       パーリ学仏教 文化 学 述 した形

否定

と合わ せ て

える と, 涅槃 とはい わ ゆる煩 惱の克服 に よ る現 実へ の 認 識 とい う意 味に も なる。 ま た仏 陀の 教 説

教 法 )とは

現実

視 ・凝

の 産物で あ り, それ こ そ が涅

の 内容で ある と理 解 さ れてい る。 博 士は諸

資料

で ,

く, ま た最 も重 要な教

と して,

  

無 常 一苦一無 我

五蘊 説を

  

る もの は滅 する。

   無記

・四

八 正 道 ・縁 起 説 を挙 げて い る

三枝,

pp

598

599

 

博士 の こ の よ

な涅 槃観 は生死 (現 象

と涅 槃

実在 ) を究 極 的には一つ である と

る こ とになるから, 非 常 に中

的だ と言わざるを得な い だろ う。 また接 近 方

い て は前 述の和 辻 博士 と異 なっ て も, 釈

の 悟 りの 内

を 原 理 的 ・合理 的に見る

は相 当 類似 して い る。

4

形 而

対 す る仏 陀

立場

 

これ まで

討して きた,

仏 陀

形而

の 問題 に対 する相 反 した解 釈は与 え ら れ た

資料

の 取 扱い 方と

学者

そ れ ぞ れの 思 想 的立場 と見

に よ っ て

影響

さ れ て い る の も 否 定 で き な い ま た 形 而

t

学 的 理 論

見 解,

di1thi

metaphysical  

discussion

, theory

而 上

的 実 在 (satya , metaphysical

reality

を弁別 して い ない ことに よ る混 乱 もある ように思わ れ る。 た しか に 原 始 仏 教の

資料

の 中には一般 的意 味の

的論 議が なさ れてい ない し, ま た その よ うな

問に

記の 態 度を とるこ とも

事実

る。 しか しそれ を もっ て形 而上学的実 在まで否 定 した と見る の は

理的

飛躍

と言わ ざる を得 ない 。

 

そ れ に比べ る と, 最

初期

の 仏 教 は 『哲 学 説 と ら わ れ ない 立場 に た っ てい る』 (rti村元 , 『原 始 仏 教の 思想21 , 中村 元 選 集 決

定版 第15

巻, 

p

197)

と か 「当時 論議 されて い 形 而学 的 問 つ い 与 える こ と を拒 否 た』

元,

p

2G8 )

と述べ る中

士の 見 解は あま り主観的解

を加 えずに,

献の 内容を客観 的に

えよ

と して い る,,

(15)

      仏 陀と形 而上学      

85

 

前 述 した長尾 雅人

士 は, 無 記の態 度 を取 る思 想 的 立場がい か なる もの で あるか は, 仏 陀に よっ て は十 分 展 開されず,

龍樹

によっ て さら に体

的思想 と して まとめ ら れ た と見てい る。 しか し私 見 と して は ,

45

年 間説 法 し続 けら れた釈 尊の 教 えは , その 当 時の思想 的状 況 に制 約 さ れて い た と し , それ 自

と しては,

の説 明 を必

とし ない ほ ど

完全

な 図式 を もっ て い たの で は ない か と思

。 この最 も基 本 的 立場の 一 無 記 中道 」 の 中に現れ て い る。 小論では紙 面の 関係上 , 無記 を中心 に論 ずる こ と にする。

 

陀が形 而

h学 的

di1thi

して

記の 態

を とっ た理 由 をめ ぐ っ て は以上の よ うに色々

解釈

さ れて きた が , 形 而上

学 的

問題 ・理

論 (

ditthi

白体 に対 して 仏 陀が どの ような見 方を もっ て い た か につ い て は深 く

議論

され るこ と はなかっ た。

 

記 関係 諸

の 中に異 学修 行者 たちが形 而上

的見 解を 主張 する よに なる理 由 を述べ い る部 分がある。 その 基

本形

の み を整 理 する と次の 七 に分       U7冫 類で る。

 

1

)五

につ い て の 無知

『 別 訳 雜阿含』

197

, 「雜 阿

963

 

2

五蘊につ い て の執

着 (

SN

44

3

6

Vol

4

, 

pp

384

391

      ・c18)

 

3

と五

の 集 滅 道

につ い て の 無 知

 

4

)五 蘊と五 蘊の

集滅

につ い ての

無知 (

958

      (]9)

 

5

)五 蘊に

対す

有身見

 

6

に対 する有

SN

44

7

VoL

 

4

 

pp

391

395

 

7

>非 如 理 作 意

ayonisomanasikara

)(

AN

.工

0

1

 .

93

Vol

5

 

pp

185

189

 

こ こ で

7

を除 けば, 結 局五蘊と六

する無 知 と執 着 そ してあや ま っ た執 見が 形 而 上学 的 見解 を引 き起 原 因 る こ と を 。 五 蘊 と六根 とはすなわち個

体存

在の こ とであ り, そ れに対 する無 知と

執着

の 現わ れ が煩悩で ある とす れ ば 形 而学 的 見解

根底

にあるの は煩悩 とい こ と になる。

 

こ の 見 方か らする と, 形 而

H学 的見 解

di

hi)

が究 極 的 実 在に対す る認 識にか か わっ てい る よ うに見 え も , それ はた だ空 虚な概

体 系で 煩 悩の も

(16)

86

      パ ・リ学 仏 教 文 化 学

うひ とつ の変型 にす ぎ ない 。 仏陀はこ の 煩

の 除去に よっ て こ そ, 形

的理論

ditthi

が求め る究極的実

の 認識 と, 瓏

限 ・不

全 (

苦)

を根 源 的に 克服 す るこ とがで きる と思っ たの では な か ろ うか。

 

中 部 経 典

Cala

Malunkya

Sutta

の 毒 矢 に射 られ た男の 比喩は 単な る比 喩 にす ぎる もの で は な く, その 中には仏 陀の 人聞観が反 映 さ れてい る に ち が       (20〕 い 矢 は 「ス ッ タニ パ ー 煩悩 と渇愛の

徴 として用い られて い

   〔

生 きとし生 け る もの は

終極 におい て 違 逆に会 うの を 見て , 私は不快

  

になっ た。 又私はその

生ける もの どもの

心の 中に見

煩悩

の 矢が

  潜

んで い る 0)を見 た。

      (

Sn

938

   〔

煩 悩の

矢 を抜 き去っ て , こ だわ る こ と な く, 心の 安らぎを得た な ら ば,

  

あ らゆる

し み を超越 して , 悲 しみ な き

とな り,

浬槃

する。

                                      (

Sn

593

 

の 矢に

ら れて, 迫 っ て来る死 を待つ 状 況にあ りな が らも, 煩 悩の 要

を満た す こ と に

る だ けで ,

根源

で あ る煩

除去

に は 関心が な い それ が こ れ ら経 典に示 され て い る仏 陀の 人 間

で は な かろ うか。 仏 陀は時に自分 を箭 醫 (

Sallakatto

) と呼ん だ こ ともある。 これ は仏 陀 自身が 人 間の 煩 悩 矢 ) を治 療 する医 師 とい う自覚 を持っ てい た こ とを意味 す るの で る。

 

入 間 に対して こ の ような洞 察を持っ てい る仏 陀に とっ て 煩 悩の 除去に直

か かわ りの い ,

何 なる知 識 と理 論 もそ れは無 意 味で 時 問の 浪

にす ぎ     t21 II なかっ た。 し か しなが ら, 当時の 思想 家た ちは

自の 形 而上学 的 見解 に安 住       〔22)

して

ditthi

 

paribbasana

), そ れが 真理 (

Sacca

)である と主張 し,見 解 を異

にする人々 と論 爭 を繰 返 した。 こ の ように見解に安 住 して, そ れに よっ て 清

に な る と か, 知 識 に よ っ て (

fiarpena

)苦

が除 去で きる と

える 人 を, 仏 陀は有 見 者

ditthin

) (

SN

789

)である と呼ん だこ と もある。 それ に反 して 「 ッ タニ パ ー 理想 的 求

道者

と し描か れ い る

羅 門は既に得た見

Sn

800

, い か なる

見解

に も固

し ない

Sn

802

とする。

   婆

羅門 は 正 し く知っ て, 妄 想分 別 にお もむ か ない 。 見解 に流さ れず (na

(17)

イム

1

乾 と汗彡而

i

ゾ学t

87

  

di

thi

 sarin

も な じ ま ない 。

は 凡

の 立て る

々 の

見 解

を知    っ て心に と どめ ない 。 他の 人々 はそれに執 著 して い るの だ が。 (

Sn

911

 

形 而上学 的 兇解 (

d

1

)の 本 質に対 し て , こ の よ うな洞 察 を仏 陀が持っ てい た とすれ ば ,如 何なる形 而上学 的

問に対 して も, そ れ に答えるこ とが 全 く無 意 味 なこ と にらざる を得 ない 。 そ れ がす なわ ち無 記で はない だろ う か。 こ の 無 記の 原初 型を

す もの と して 「 ッ タニ パ ー 偈 頌 をあ げて お きたい 。

  

(特

的 見 解 を もっ て 論 争 し「こ れの みが真 理で あるとい う人々

  

が あ る な らば,

らに言 え, 「

争が起こ っ て も 汝 と

対論

す る

  

は こ こ にい い 」 と。

      

Sn

832

) 註 [’1〕

0

RQgenberg

, 佐々 木現 順 訳 『仏 教哲学 問 題 』 1976 , 

p

67

. 〔2)

0

Rosenbcrg

(上掲 書

p

68

)は 「 仏陀が形 而上学 を拒絶 し た」 とい う見 解を取

 

る論 者に,

Deussen

, 

Oldenberg

, 

Walleser

, 

de

 

la

 

Vallee

 

Peussin

, 

Rhys

 

Davids

等 を

 

E

げてい る。 こ の 見解に対 する主 な 反 論 は 小 論で取 り扱 う

H

Beck

, 

O

. 

Rosenberg

,  和辻哲郎, T , R . V , Murti, 長尾 雅 人等の論 文があ り, 最 近の 論文と し て は, 袴谷

 

憲昭 1釈 尊私 見 .1 (日本仏 教 学 会 年 報

50

,『仏 陀 観 』 1984,

pp

19

45

> が あ 。 こ  れに反して,

Raddhakrishnan

,水野弘元 ,一三枝 充悳 ,宋 木 剛博 (「東 洋 理 思 想r,

 

1980, 

pp

31

36

)等仏 陀 形 而拒 否,排 斥 し た 見 方 っ てい る。 〔3) 川彰 「原始仏教の定義の 問題」 (仏教研 究 ,創刊 号,昭

45

)p .

6

. 霞

 

中村元 順 始仏 教の 思想.亅 1 (中村元選集 決定版 第15 巻)

p

.197 . 〔51 ウパ ニ ド と 初 期 仏は と も無 明 avidya 」 の概 念を採 用 して い る が,  前者は無明 を宇宙論的レヴ」 ル におい て考える傾 向が あ り, 初期 仏教は無 明をた だ

 

心理 的レ ヴェ ル におい て のみ 認 め る。無明 は 個 人 的存在

  

「有

bhava

)と 生 (

jati

 

の基 礎 と考えら れ て い る、、

V

. 

P

. 

Varma

Early

 

Buddh

{sm  and  

its

 

Origin

.1973 , 

p

 

89

. (6) こ の よ う な解 釈の代表的 な もの と して,三枝充悳博 士の を 上 げてお き たい

 

PP

.11− 12参照。 〔7} こ のを裏付ける論拠とし て よ く引用さ れ る の が

Udana

(p .

81

)と

Itivuttaka

p

 

37)で あ る。 羽渓了 諦 氏 ( 「仏 教 中 心 」, 宗教研 究, 新

1

1

号 ,

pp

58

59

 は仏 陀の 自内証の法を 「 ャ ッ ド の 形

r

ヒ学との 関係の 中で解 釈 し よ う と

参照

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