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駒澤大學佛教學部研究紀要 71 - 004吉村 誠「中国唯識における聞熏習説の展開」

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駒澤大學佛敎學部硏究紀要第七十一號   平成二十五年三月 一二三

一、序言

  唯 識 に お け る 悟 り は ア ー ラ ヤ 識 の 転 依 に よ っ て 説 明 さ れ る が、 そ の 機 縁 と な る の が 聞 熏 習 ( śruta-vāsanā ) で あ る。 熏 習 と は、 香 り が も の に 移 る よ う に、 経 験 が ア ー ラ ヤ 識 に 印 象 づ け ら れ、 そ の 結 果 が 力 と し て 持 続 す る こ と で あ る。 善・悪・無記のあらゆる行為がアーラヤ識に熏習されるが、なかでも仏の教えを聞くという経験は悟りに深くかかわる ため、聞熏習や正聞熏習といって重視される。聞熏習の教義は、無著の『摂大乗論』に詳述されている。しかし、漢訳 された『摂大乗論〔世親〕釈』では、真諦訳と玄奘訳との間で内容に著しい違いがあり、隋唐時代には両者に依拠して 様々な聞熏習の解釈がなされていた。   小稿では、玄奘訳に基づく唯識学派の解釈と、真諦訳に基づく摂論学派の解釈とを比較して、両者の特徴を明らかに するとともに、それらが他学派に与えた影響を検討することによって、中国における聞熏習説の展開を跡付けることに したい。

二、唯識学派の聞熏習説

  1、 『摂大乗論』の聞熏習説   初めに唯識学派の聞熏習説について検討する。玄奘訳『摂大乗論』巻上の所知依分では、聞熏習が次のように説明さ れている。

中国唯識における聞熏習説の展開

 

   

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一二四 A 云 何 出 世 清 浄 不 成。 謂 世 尊 説、 依 他 言 音 及 内 各 別 如 理 作 意、 由 此 為 因 正 見 得 生。 此 他 言 音 如 理 作 意、 為 熏 耳 識、 為 熏 意 識、 為 両 倶 熏。 若 於 彼 法 如 理 思 惟、 爾 時 耳 識 且 不 得 起。 意 識 亦 為 種 種 散 動 余 識 所 間。 若 与 如 理 作 意 相 応 生 時、 此 聞 所 熏 意 識 与 彼 熏 習、 久 滅 過 去、 定 無 有 体。 云 何 復 為 種 子、 能 生 後 時 如 理 作 意 相 応 之 心。 又 此 如 理 作 意 相 応 是 世 間 心、 彼 正 見 相 応 是 出 世 心。 曾 未 有 時 倶 生 倶 滅。 是 故 此 心 非 彼 所 熏。 既 不 被 熏 為 彼 種 子、 不 応 道 理。 是 故 出 世 清 浄、 若 離 一 切 種 子 異 熟 果 識、亦不得成。此中聞熏習、摂受彼種子、不相応故。 B 復 次、 云 何 一 切 種 子 異 熟 果 識、 為 雑 染 因、 復 為 出 世 能 対 治 彼 浄 心 種 子。 又 出 世 心 昔 未 曾 習 故、 彼 熏 習 決 定 応 無。 既 無 熏 習、従何種生。是故応答。従最清浄法界等流正聞熏習種子所生。 C 此 聞 熏 習、 為 是 阿 頼 耶 識 自 性、 為 非 阿 頼 耶 識 自 性。 若 是 阿 頼 耶 識 自 性、 云 何 是 彼 対 治 種 子。 若 非 阿 頼 耶 識 自 性、 此 聞 熏 習 種 子 所 依、 云 何 可 見。 乃 至 証 得 諸 仏 菩 提、 此 聞 熏 習 随 在 一 種 所 依 転 処、 寄 在 異 熟 識 中、 与 彼 和 合 倶 転。 猶 如 水 乳。 然 非 阿 頼耶識。是彼対治種子性故。 D此中、依下品熏習成中品熏習、依中品熏習成上品熏習、依聞思修多分修作、得相応故。 E 又 此 正 聞 熏 習 種 子 下 中 上 品、 応 知 亦 是 法 身 種 子。 与 阿 頼 耶 識 相 違、 非 阿 頼 耶 識 所 摂。 是 出 世 間 最 浄 法 界 等 流 性 故、 雖 是 世 間 而 是 出 世 心 種 子 性。 又 出 世 心 雖 未 生 時、 已 能 対 治 諸 煩 悩 纒、 已 能 対 治 諸 嶮 悪 趣、 已 作 一 切 所 有 悪 業 朽 壊 対 治。 又 能 随 順 逢 事 一 切 諸 仏 菩 薩。 雖 是 世 間、 応 知 初 修 業 菩 薩 所 得、 亦 法 身 摂。 声 聞 独 覚 所 得、 唯 解 脱 身 摂。 又 此 熏 習 非 阿 頼 耶 識、 是 法 身 解 脱 身 摂、 如 如 熏 習 下 中 上 品 次 第 漸 増、 如 是 如 是 異 熟 果 識 次 第 漸 減、 即 転 所 依。 既 一 切 種 所 依 転 已、 即 異 熟 果 識 及 一 切 種子、無種子而転、一切種永断。 F 復 次、 云 何 猶 如 水 乳。 非 阿 頼 耶 識 与 阿 頼 耶 識 同 処 倶 転、 而 阿 頼 耶 識 一 切 種 尽、 非 阿 頼 耶 識 一 切 種 増。 譬 如 於 水 鵝 所 飲 乳。 又如世間得離欲時、非等引地熏習漸減、其等引地熏習漸増、而得転 依 ( 1 ) 。 A 云 何 が 出 世 の 清 浄 は 成 ぜ ざ る や。 謂 く 世 尊 説 く 、「 他 の 言 音 と 及 び 内 の 各 別 の 如 理 作 意 と に 依 り、 此 れ を 因 と 為 す に 由 り て 正 見 生 ず る を 得 」 と。 此 の 他 の 言 音 と 如 理 作 意 と は、 耳 識 に 熏 ず と 為 す や、 意 識 に 熏 ず と 為 す や、 両 つ な が ら 倶 に 熏 ず と 為 す や。 若 し 彼 の 法 に 於 て 如 理 に 思 惟 す れ ば、 爾 の 時 に 耳 識 は 且 ら く 起 こ る を 得 ず。 意 識 も 亦 た 種 種 に 散 動 す る 余 識 の 間 へだ つ 所 と 為 る。 若 し 如 理 作 意 と 相 応 し て 生 ず る 時 に は、 此 の 聞 に 熏 ぜ ら れ た る 意 識 と 彼 の 熏 習 と は、 久 し く 滅 し て 過 去 し、 定 ん で 体 有 る こ と 無 し。 云 何 が 復 た 種 子 と 為 り て、 能 く 後 時 の 如 理 作 意 と 相 応 す る 心 を 生 ぜ ん や。 又 た 此 の 如 理 作 意

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一二五 と 相 応 す る は 是 れ 世 間 心 に し て、 彼 の 正 見 に 相 応 す る は 是 れ 出 世 心 な り。 曽 て 未 だ 時 と し て 倶 に 生 じ 倶 に 滅 す る こ と 有 ら ず。 是 の 故 に 此 の 心( 意 識 ) は 彼 の 熏 ず る 所 に 非 ず 。 既 に 熏 ぜ ら れ ず し て 彼 の 種 子 と 為 る こ と、 道 理 に 応 ぜ ず。 是 の 故 に 出 世 の 清 浄 は、 若 し 一 切 種 子 な る 異 熟 果 識 を 離 る れ ば、 亦 た 成 ず る を 得 ず。 此 の〔 意 識 の 〕 中 の 聞 熏 習 は、 彼 の 種 子 を 摂 受すること、相応 せざるが故に。 B 復 た 次 に、 云 何 が 一 切 種 子 な る 異 熟 果 識 を、 雑 染 の 因 と 為 し、 復 た 出 世 の 能 く 彼 を 対 治 す る 浄 心 種 子 と 為 す や。 又 た 出 世 心 は 昔 よ り 未 だ 曽 て 習 は ざ る が 故 に、 彼 の 熏 習 は 決 定 し て 応 に 無 か る べ し。 既 に 熏 習 無 く ん ば、 何 れ の 種 よ り 生 ず る や。 是の故に応に答ふべし。最も清浄なる法界よ り等流する正聞熏習種子 の生ずる所なり。 C 此 の 聞 熏 習 は、 是 の 阿 頼 耶 識 の 自 性 と 為 す や、 阿 頼 耶 識 の 自 性 に 非 ず と 為 す や。 若 し 是 れ 阿 頼 耶 識 の 自 性 な ら ば、 云 何 が 是 れ 彼 の 対 治 の 種 子 な ら ん や。 若 し 阿 頼 耶 識 の 自 性 に 非 ざ れ ば、 此 の 聞 熏 習 の 種 子 の 所 依 は、 云 何 が 見 る べ き や。 乃 いま し 諸 仏 の 菩 提 を 証 得 す る に 至 る ま で、 此 の 聞 熏 習 は 一 種 の 所 依 の 転 ず る 処 に 随 在 し、 異 熟 識 の 中 に 寄 在 し て、 彼 と 和 合 し て 倶 に転ず。猶ほ水と乳との如し。然も阿頼耶 識に非ず。是れ彼の対治の種子の性なるが故に。 D 此 の 中 に、 下 品 の 熏 習 に 依 り て 中 品 の 熏 習 を 成 じ、 中 品 の 熏 習 に 依 り て 上 品 の 熏 習 を 成 じ、 聞・ 思・ 修 に 依 り て 多 分 に 修 作して、相応を得るが故に。 E 又 た 此 の 正 聞 熏 習 の 種 子 の 下・ 中・ 上 の 品 と は、 応 に 亦 た 是 れ 法 身 の 種 子 な り と 知 る べ し。 阿 頼 耶 識 と 相 違 し、 阿 頼 耶 識 の 摂 す る 所 に 非 ず。 是 れ 出 世 間 の 最 浄 な る 法 界 よ り 等 流 す る 性 な る が 故 に、 是 れ 世 間 な り と 雖 も 而 も 是 れ 出 世 心 の 種 子 の 性 な り。 又 た 出 世 心 の 未 だ 生 ぜ ざ る 時 と 雖 も、 已 に 能 く 諸 も ろ の 煩 悩 の 纒 を 対 治 し、 已 に 能 く 諸 も ろ の 嶮 悪 趣 を 対 治 し、 已 に 作 す と こ ろ の 一 切 の 所 あ ら ゆ 有 る 悪 業 を 朽 壊 対 治 す。 又 た 能 く 一 切 の 諸 も ろ の 仏 菩 薩 に 逢 事 す る に 随 順 す。 是 れ 世 間 な り と 雖 も、 応 に 初 修 業 の 菩 薩 の 得 る 所 も、 亦 た 法 身 に 摂 せ ら る と 知 る べ し。 声 聞・ 独 覚 の 得 る 所 は、 唯 だ 解 脱 身 の み に 摂 せ ら る。 又 た 此 の 熏 習 は 阿 頼 耶 識 に 非 ず し て、 是 れ 法 身 と 解 脱 身 と に 摂 せ ら る れ ば、 如 如 に 熏 習 の 下・ 中・ 上 の 品 次 第 に 漸 増 し、 是 の 如 く 是 の 如 く 異 熟 果 識 次 第 に 漸 減 し 、 即 ち 所 依 を 転 ず。 既 に 一 切 種 の 所 依 転 じ 已 れ ば、 即 ち 異 熟 果 識 と 及 び 一 切 種子とは、種子無くして而も転 じ、一切種永えに断ず。 F 復 た 次 に、 云 何 が 猶 ほ 水 と 乳 と の 如 か る や。 阿 頼 耶 識 に 非 ざ る も の と 阿 頼 耶 識 と 同 処 に 倶 に 転 じ、 而 も 阿 頼 耶 識 は 一 切 種 に 尽 く る も、 阿 頼 耶 識 に 非 ざ る も の は 一 切 種 に 増 す。 譬 え ば 水 に 於 て 鵝 の 飲 む 所 の 乳 の 如 し。 又 た 世 間 の 欲 を 離 る る を 得

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一二六 る時に、等引地に非ざる熏 習漸減し、其の等引地の熏習漸増して、而も転依を得るが如し。   す な わ ち、 A 出 世 間 の 清 浄、 す な わ ち 悟 り を 成 就 す る に は、 仏 の 教 え を 他 者 の 発 す る 言 葉 や 音 声 ( 言 音 ) と し て 聞 き、 道 理 に し た が っ た 思 索 ( 如 理 作 意 ) を し て、 正 見 を 得 る こ と が 必 要 で あ る。 聞 く こ と は 耳 識、 思 索 す る こ と は 意 識 のはたらきであるが、その経験が熏習され種子として保持されるのは、一切種子を保持する異熟識、すなわちアーラヤ 識である。   B し か し、 ア ー ラ ヤ 識 は 世 間 の 染 汚 の 因 で あ り、 こ れ を 除 去 ( 対 治 ) す る 出 世 間 の 清 浄 の 種 子 が か つ て 熏 習 さ れ た こ とはない。その種子は、清浄法界から等流する正聞熏習によってはじめてアーラヤ識に生じるものである。   Cそれでは正聞熏習種子は、アーラヤ識の自性といえるであろうか。それはアーラヤ識と対立しそれを除去するもの であるから、アーラヤ識の自性とはいえない。したがって正聞熏習種子はアーラヤ識に内在されることはなく、それに 「寄在」して、それと共に存続する。それは水と乳が自性は異なるが共存するようなものである。   D正聞熏習は下品・中品・上品と向上する。それは、仏の教えを聞き、思索し、修行することで智慧が得られるから である。   E正聞熏習種子は「法身種子」ともいう。清浄法界から等流するため、世間の法でありながら、出世間の心を生じる 種子である。出世間の心がまだ生じない時にも、煩悩や三悪趣や悪業を対治し、仏・菩薩に逢って仕えさせる。また、 正 聞 熏 習 種 子 は 法 身 と 解 脱 身 に 所 属 す る こ と か ら、 正 聞 熏 習 が 次 第 に 増 す ご と に ア ー ラ ヤ 識 ( 異 熟 識 ) は 次 第 に 減 じ て ゆき、ついには転依する。   Fこのようにアーラヤ識とそれと対立するものとは共存するものの、アーラヤ識は尽きるがそれと対立するものは増 えてゆく。それはハンサ鳥が乳の混ざった水から乳だけを飲むようなものである、という。   こ の よ う に、 『 摂 大 乗 論 』 の 聞 熏 習 説 は、 悟 り を 成 就 す る た め に は 仏 の 教 え を 言 葉 や 音 声 と し て 聞 き、 道 理 に し た がって思索し、修行することが必要であり、その経験が正聞熏習種子としてアーラヤ識に「寄在」して、正見すなわち 智慧を生じる因となるというものである。聞熏習は所知依分のほか所知相分の随所に説かれている。悟りに至るための 教義はその他に説かれていないことから、聞熏習説は『摂大乗論』における悟りの構造を示す重要な理論といえる。

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一二七   しかし、この理論にはいくつかの問題があり、それらについて明確な解釈が示されているとは言いがたい。染汚の因 で あ る ア ー ラ ヤ 識 と 清 浄 な る 種 子 と は、 「 寄 在 」 と い う 説 明 が あ る と は い え、 ど う し て 共 存 す る こ と が で き る の で あ ろ うか。また、仏の教えを聞くという経験、すなわち聞熏習はあらゆる衆生に平等にあり得るが、どうして悟りは一切衆 生に平等ではなく、菩薩・独覚・声聞・凡夫などの差別が生じるのであろうか。   2、 『成唯識論』の聞熏習説   『摂大乗論』の聞熏習説の問題に一つの答えを与えるのが、 『成唯識論』巻二の初能変 (アーラヤ識に関する議論) の中 にある本有・新熏・合生の三義である。ここではアーラヤ識に保持される種子には有漏種子と無漏種子があるが、それ らは本有であるか新熏であるか、また種姓の差別は本有種子によるものなのか新熏種子によるものなのか、という問題 が議論され、以下の三つの解釈が示されている。 一 切 種 子 皆 本 性 有、 不 従 熏 生。 由 熏 習 力、 但 可 増 長。 … 中 略 … 諸 有 情 類 無 始 時 来、 若 般 涅 槃 法 者、 一 切 種 子 皆 悉 具 足。 不 般 涅槃法者、便闕三種菩提種子。如是等文、誠証非一。…中略…此等証、無漏種子法爾本有、不従熏生。…中略… 種 子 皆 熏 故 生。 … 中 略 … 無 漏 種 生 亦 由 熏 習。 説 聞 熏 習 聞 浄 法 界 等 流 正 法 而 熏 起 故。 是 出 世 心 種 子 性 故。 有 情 本 来 種 姓 差 別、 不由無漏種子有無。但依有障無障建立。…中略… 種 子 各 有 二 類。 一 者 本 有。 … 中 略 … 二 者 始 起。 … 中 略 … 其 聞 熏 習 非 唯 有 漏。 聞 正 法 時 亦 熏 本 有 無 漏 種 子、 令 漸 増 盛 展 転 乃 至 生 出 世 心。 故 亦 説 此 名 聞 熏 習。 聞 熏 習 中 有 漏 性 者 是 修 所 断。 感 勝 異 熟。 為 出 世 法 勝 増 上 縁。 無 漏 性 者 非 所 断 摂。 与 出 世 法 正 為 因 縁。 此 正 因 縁 微 隠 難 了。 有 寄 麁 顕 勝 増 上 縁、 方 便 説 為 出 世 心 種。 … 中 略 … 依 障 建 立 種 性 別 者、 意 顕 無 漏 種 子 有 無。 … 後 略 ( 2 ) 【 本 有 義 】 一 切 種 子 は 皆 な 本 よ り 性 有 り、 熏 ず る に 従 ひ て 生 ず る に は あ ら ず。 熏 習 す る 力 に 由 り て は、 但 だ 増 長 す る の み な る べ し。 … 中 略 …「 諸 も ろ の 有 情 の 類 は 無 始 の 時 よ り 来 た、 若 し 般 涅 槃 法 の 者 な ら ば、 一 切 の 種 子 皆 悉 く 具 足 せ ん。 不 般 涅 槃 法 の 者 は、 便 ち 三 種 の 菩 提 の 種 子 を 闕 く 」 と。 … 中 略 … 此 等 の 証 に 由 り て、 無 漏 種 子 は 法 爾 に 本 よ り 有 り て、 熏 ず る に 従 ひて生ずるにはあらず。…中略…

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一二八 【 新 熏 義 】 種 子 は 皆 熏 ず る が 故 に 生 ず。 … 中 略 … 無 漏 の 種 の 生 ず る も 亦 た 熏 習 す る に 由 る。 〔『 摂 大 乗 論 』 に 〕「 聞 熏 習 は 浄 法 界 よ り 等 流 す る 正 法 を 聞 き て 熏 じ 起 こ る 」 と 説 く が 故 に。 「 是 れ 出 世 心 の 種 子 の 性 な り 」 と い ふ が 故 に。 有 情 は 本 よ り 来 た 種姓差別なりといふこと、無漏種子の有・無に由るにはあらず。但だ有障・無障に依りて建立す。…中略… 【 合生義】種子に各おの二類有り。一つには本有。 …中略…二つには始起。 …中略…其の聞熏習は唯だ有漏のみには非ず。正 法 を 聞 く 時 に も 亦 た 本 有 無 漏 種 子 を 熏 じ、 漸 く 増 盛 な ら し め 展 転 し て 乃 し 出 世 心 を 生 ず る に 至 ら し む。 故 に 亦 た 此 れ を 説 き て 聞 熏 習 と 名 づ く。 聞 熏 習 の 中 の 有 漏 性 の 者 は 是 れ 修 所 断 な り。 勝 れ た る 異 熟 を 感 ず。 出 世 の 法 の 為 に 勝 れ た る 増 上 縁 た り。 無 漏 性 の 者 は 非 所 断 に 摂 め ら る。 出 世 の 法 の 与 に 正 し き 因 縁 た り。 此 の 正 し き 因 縁 は 微 隠 に し て 了 じ 難 し。 有 る と こ ろ 〔『 摂大乗論』 〕には麁顕にして勝れたる増上縁に寄せて、方便もて説きて出世心の種と為す。 …中略…障に依りて種性の別を 建立するは、意は無漏種子の有無を顕はすなり。…後略   先ず本有義では、一切の種子は本来アーラヤ識にあるものであり、熏習はそれを増長するのみで種子を生じることは ないという。悟るものには有漏種子と無漏種子の両方があるが、悟れないものには無漏種子 (声聞・独覚・菩薩の菩提種 子 ) が な い。 種 姓 の 差 別 は こ の 無 漏 種 子 の 種 類 や 有 無 に よ る。 し た が っ て、 無 漏 種 子 も 本 来 ア ー ラ ヤ 識 に あ る も の で あ り、熏習によって新たに生じるものではないという。   次 に 新 熏 義 で は、 一 切 の 種 子 は 熏 習 に よ っ て 生 じ る と い う。 し た が っ て、 無 漏 種 子 も 熏 習 に よ っ て 生 じ る も の で あ り、 本 来 ア ー ラ ヤ 識 に あ る も の で は な い。 『 摂 大 乗 論 』 に は、 清 浄 法 界 か ら 等 流 す る 正 法 を 聞 く こ と で 正 聞 熏 習 が 起 こ り、その種子が出世間の心を生じると説かれている。また、種姓の差別は無漏種子の種類や有無によるのではなく、二 障 (煩悩障・所知障) の有無によるという。   最 後 の 合 生 義 で は、 有 漏 種 子 と 無 漏 種 子 に は そ れ ぞ れ 本 有 と 始 起 ( 新 熏 ) の 両 方 が あ る と い う。 ま た 聞 熏 習 も、 有 漏 種子を熏じるだけではなく、本有無漏種子をも熏じる。すなわち、聞熏習にも有漏と無漏の二つがある。有漏の聞熏習 は、修所断であり、出世間の法の増上縁となる。この聞熏習は有漏種子を新たに熏じるのみで、出世間の法の親因縁と なることはない。これに対し、無漏の聞熏習は、非所断であり、出世間の法の親因縁となる。それは聞熏習が本有無漏 種 子 に 熏 じ、 本 有 無 漏 種 子 が 次 第 に 増 長 し て 出 世 間 の 心 が 生 じ る と い う こ と で あ る。 無 漏 の 聞 熏 習 は 分 か り に く い た

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一二九 め、 『 摂 大 乗 論 』 は 有 漏 の 聞 熏 習 に こ と よ せ て 正 聞 熏 習 種 子 が 出 世 間 の 心 を 生 じ る と 説 い て い る が、 こ れ は 方 便 の 説 で ある。また、種姓の差別が二障の有無によるというのも、無漏種子が分かりにくいことから説かれたもので、真実には 無漏種子の種類 (声聞・独覚・菩薩の無漏種子) や有無によるという。   こ の よ う に、 『 成 唯 識 論 』 で は 本 有・ 新 熏・ 合 生 の 三 義 を あ げ、 前 二 者 を あ わ せ た 合 生 義 が 正 義 と さ れ て い る。 す な わち、種子には有漏種子と無漏種子の二つがあり、無漏種子にはさらに本有無漏種子と新熏無漏種子の二つがある。ま た、聞熏習にも有漏と無漏があり、有漏の聞熏習は有漏種子とともに本有無漏種子をも増長させるという。この合生義 の趣旨は、本有無漏種子が出世間の心を生じることの論証にあ る ( 3 ) 。したがって、新熏無漏種子のみを説く新熏義と、そ の 証 拠 と さ れ る『 摂 大 乗 論 』 の 聞 熏 習 説 は、 合 生 義 の 本 有 無 漏 種 子 説 と 矛 盾 し な い よ う に 解 釈 し 直 さ な け れ ば な ら な か っ た。 そ れ が、 『 摂 大 乗 論 』 に は 正 聞 熏 習 種 子 が 出 世 間 の 心 を 生 じ る 種 子 で あ る と 説 か れ て い る よ う に み え る が、 そ れは有漏の聞熏習をもちいた方便の説であり、真実には無漏の聞熏習が本有無漏種子に熏じて出世間の心を生じる、と いう『成唯識論』の解釈なのである。   あ ら ゆ る 聞 熏 習 が そ の ま ま 出 世 間 法 の 種 子 ( 正 聞 熏 習 種 子 ) と な る わ け で は な く、 無 漏 の 聞 熏 習 を 受 け て 増 長 し た 本 有 無 漏 種 子 の み が 出 世 間 法 の 心 を 生 じ る と い う こ の 解 釈 は、 『 摂 大 乗 論 』 の 聞 熏 習 説 に 制 約 を 加 え る も の と い え る だ ろ う。この解釈によれば、聞熏習はあらゆる衆生に平等にあるが、本有無漏種子の種類や有無によって種姓の差別が生じ る、と説明することが可能になるからである。   そ れ で は、 ア ー ラ ヤ 識 と 無 漏 種 子 が 共 存 す る こ と に つ い て は、 『 成 唯 識 論 』 で ど の よ う に 説 明 さ れ る の で あ ろ う か。 『成唯識論』巻二のアーラヤ識の所縁を説くところに、次のような文章がある。 諸 種 子 者、 謂 異 熟 識 所 持 一 切 有 漏 法 種。 此 識 性 摂。 故 是 所 縁。 無 漏 法 種、 雖 依 付 此 識、 而 非 此 性 摂。 故 非 所 縁。 雖 非 所 縁、 而不相離。如真如性、不違唯識。 諸 も ろ の 種 子 と は、 謂 く 異 熟 識 の 持 す る 所 の 一 切 の 有 漏 法 の 種 な り。 此 の 識 性 に 摂 め ら る。 故 に 是 れ 所 縁 な り。 無 漏 法 の 種 は、 此 の 識 に 依 付 す と 雖 も、 而 も 此 の 性 に 摂 め ら る る に 非 ず。 故 に 非 所 縁 な り。 非 所 縁 に 非 ず と 雖 も、 而 も 相 離 せ ず。 真 如 の性の如く、唯識に違は ず ( 4 ) 。

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三〇   す な わ ち、 異 熟 識 ( ア ー ラ ヤ 識 ) は あ ら ゆ る 有 漏 種 子 を 保 持 す る が、 そ れ は こ の 識 に 内 在 し て、 所 縁 と な る。 こ れ に 対し、無漏種子はこの識に「依付」するが、この識に内在することはなく、所縁とはならない。しかし無漏種子はこの 識 を 離 れ て あ る わ け で は な い。 そ れ は 真 如 が こ の 識 を 離 れ て あ る わ け で は な い と い う こ と と 同 じ で あ る。 し た が っ て 「 た だ 識 の み が あ る 」 と い う 教 理 に 違 反 す る こ と は な い、 と い う。 無 漏 種 子 は ア ー ラ ヤ 識 に 内 在 せ ず「 依 付 」 し て い る と い う こ の 説 明 は、 『 摂 大 乗 論 』 の「 寄 在 」 と い う 説 明 と ほ と ん ど 同 じ で あ る。 た だ し、 有 漏 種 子 が ア ー ラ ヤ 識 の 所 縁 となるのに対し、無漏種子は所縁とはならないという説明は、新たに加わったものとして注目される。   3、道倫『瑜伽論記』に見られる聞熏習説   玄 奘 が『 摂 大 乗 論 』 を 翻 訳 し た の は 貞 観 二 十 三 年 ( 六 四 九 ) 、『 成 唯 識 論 』 を 翻 訳 し た の は そ の 十 年 後 の 顕 慶 元 年 ( 六 五 九 ) で あ る ( 5 ) 。『成 唯 識 論 』 は『唯 識 三 十 頌 』 に 対 す る 複 数 の 注 釈 を 編 集 し て 翻 訳 し た も の (糅 訳 ) で あ り、 そ の 内 容 に は 玄 奘 が 正 義 と み な し た 解 釈 が 示 さ れ て い る。 『 成 唯 識 論 』 の 中 で『 摂 大 乗 論 』 の 聞 熏 習 説 を 制 約 す る よ う な 解 釈 が 正 義とされたということは、それ以前に玄奘門下の唯識学派において『摂大乗論』の聞熏習説をめぐる何らかの問題が生 じ、玄奘がそれに対する解答を示さなければならないという事情が存在していたことを窺わせる。   唯識学派では聞熏習説についてどのような議論が行われていたのであろうか。それを知る資料として、初期の唯識学 派の議論が保存されている道倫の『瑜伽論記』の中にある新熏・本有・合生の三義の解釈を取り上げてみたい。 西 方 三 説。 若 依 勝 軍 所 説、 無 別 姓 種 姓 体。 但 彼 身 中 二 種 障 有 可 断 義、 云 立 本 姓 住 種 姓。 後 時 値 善 知 識、 聞 法 発 心 求 菩 提 等、 地前熏成有四聞熏。初従福分有漏善、漸修成道分、道分漸修増長、熏成無漏種子、名習種姓。即生無分別智等。 若 依 護 月、 立 有 本 有 法 爾 無 漏 種 子、 為 姓 種 姓。 後 対 十 信 聞 法 発 心、 従 現 行 心 資 発 本 種 令 其 増 勝、 即 名 習 種 姓。 拠 本 有 義 辺、 名姓種姓。由修増長、名習種姓。明於後時更不新熏成種。於旧種一体義説、地前即有二種種姓。 若 依 護 法、 地 前 雖 彼 有 漏 聞 熏 資 導 本 種 増 多 如 薑 芽 等、 体 是 本 有 種 類、 総 属 本 姓 住 種 姓。 是 則 地 前 無 有 無 漏 習 種 姓 体。 但 従 姓 種姓、生於初地初念無分別智。此智起已即熏成種、方是無漏習種姓体。若論有漏習種地前即 有 ( 6 ) 。

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三一 西 方 に 三 説 あ り。 【 新 熏 義 】 若 し 勝 軍 の 所 説 に 依 れ ば、 別 に 姓 種 姓 の 体 無 し。 但 だ 彼 の 身 中 の 二 種 障 に 可 断 の 義 有 り て、 本 姓 住 種 姓 を 立 つ と 云 う。 後 時 に 善 知 識 に 値 ひ て、 法 を 聞 き 発 心 し て 菩 提 等 を 求 む。 地 前 に 熏 成 す る に 四 の 聞 熏 有 り。 初 め 福 分 の 有 漏 善 に 従 ひ、 成 道 分 を 漸 修 し、 道 分 漸 修 増 長 し て、 無 漏 種 子 を 熏 成 す る を、 習 種 姓 と 名 づ く。 即 ち 無 分 別 智 等 を 生 ず。 【 本 有 義 】 若 し 護 月 に 依 ら ば、 本 有 法 爾 無 漏 種 子 有 り て、 為 に 姓 種 姓 有 り と 立 つ。 後 に 十 信 に 対 し て 聞 法 発 心 し、 現 行 の 心 に 従 ひ て 本 種 を 資 発 し て 其 を し て 増 勝 な ら し む る を、 即 ち 習 種 姓 と 名 づ く。 本 有 の 義 辺 に 拠 り て、 姓 種 姓 と 名 づ く。 修 に 由 り て 増 長 す る を、 習 種 姓 と 名 づ く。 後 時 に 於 い て 更 に 新 熏 し て 種 を 成 ぜ ざ る を 明 か す。 旧 種 に 於 い て 一 体 の 義 な れ ば、 地 前 より即ち二種の種姓有りと説く。 【 合 生 義 】 若 し 護 法 に 依 ら ば、 地 前 に 彼 の 有 漏 の 聞 熏 資 導 し て 本 種 増 多 す る こ と 薑 芽 等 の 如 し と 雖 も、 体 は 是 れ 本 よ り 有 種 の 類 な れ ば、 総 じ て 本 姓 住 種 姓 に 属 す。 是 れ 則 ち 地 前 に 無 漏 の 習 種 姓 の 体 有 る 無 し。 但 だ 姓 種 姓 の み に 従 ひ て、 初 地 の 初 念 に 於 い て 無 分 別 智 を 生 ず。 此 の 智 起 こ り 已 れ ば 即 ち 種 を 熏 成 す。 方 に 是 れ 無 漏 の 習 種 姓 の 体 な り。 若 し 有 漏 の 習 種 を 論 ず れ ば、地前に即ち有り。   ここには、西方に三説ありとして、新熏・本有・合生の三義が紹介されている。   新 熏 義 で は、 勝 軍 に よ れ ば、 「 性 種 姓 ( 本 性 住 種 姓 ) 」 の 体 に 差 別 は な い が、 二 障 の 可 断・ 不 可 断 に よ っ て「 性 種 姓 」 の差別がある。聞法・発心して地前に四つの聞熏習が無漏種子を熏成すると「習種姓」となり、これが無分別智を生じ るという。   本 有 義 で は、 護 月 に よ れ ば、 本 有 法 爾 の 無 漏 種 子 ( 本 種 ) が あ り、 お そ ら く そ の 種 類 や 有 無 に よ っ て「 性 種 姓 」 の 差 別がある。十信以後に聞法・発心して本種を開発するものを「習種姓」というが、後者は新熏によるものではなく前者 と一体であり、地前から二つの種姓があるという。   合 生 義 で は、 護 法 に よ れ ば、 地 前 に は 有 漏 の 聞 熏 習 が 無 漏 種 子 ( 本 種 ) を 増 長 す る が、 ま だ 有 漏 種 子 を 体 と し て い る た め「 本 性 住 種 姓 ( 性 種 姓 ) 」 に 所 属 す る。 初 地 の 初 念 に 無 分 別 智 が 生 じ て 無 漏 種 子 を 熏 成 す る よ う に な る と、 無 漏 種 子を体とするようになるため無漏の「習種姓」に所属する。なお、有漏の「習種姓」は地前からあるという。

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三二   こ の 三 義 の 解 釈 は、 「 本 性 住 種 姓 ( 性 種 姓 ) 」 と「 習 所 成 種 姓 ( 習 種 姓 ) 」 と い う 観 念 を 用 い て い る と こ ろ に 違 い は あ る が、その趣旨は『成唯識論』の三義の解釈と一致しているといえる。おそらく『成唯識論』が翻訳される以前に、玄奘 が講義などで弟子たちに語った内容を記録したものと思われる。ところが、玄奘の弟子たちの中には、この三義を独自 に 解 釈 し た 者 も い た よ う で あ る。 次 に あ げ る の は、 同 じ『 瑜 伽 論 記 』 の 中 に あ る、 玄 奘 の 翻 経 院 で 証 義 を 務 め た 神 泰 (―六四五―六五七―) の解釈である。 泰云、勝軍師、唯立新熏習。故真如是所縁縁、無漏初起、唯従正智所作種子生。初無漏不従因縁生。 護月等、唯立本有熏習。本有熏習性証真如。是本有熏習所縁縁。此熏習名真如所縁縁種子。聖道初起従此生也。 戒 賢 師、 立 新 旧 二 熏 習。 旧 熏 如 護 月 等 釈。 雖 本 有 旧 熏 習、 若 無 新 熏 習、 旧 熏 不 能 生 聖 道 故、 新 旧 和 合 方 能 生 聖 道。 新 旧 熏 習 性智縁真如。故言、出世間法、従真如所縁縁種子生也。摂大乗論、聞熏習与解性和合。一切聖道皆従 生 ( 7 ) 。 〔 神 〕 泰 云 く、 【 新 熏 義 】 勝 軍 師 は、 唯 だ 新 熏 習 の み を 立 つ。 故 に 真 如 は 是 れ 所 縁 縁 に し て、 無 漏 の 初 め て 起 こ る と き は、 唯 だ正智の所作に従ひて種子を生ずるのみ。初めの無漏は因縁より生ぜず。 【 本 有 義 】 護 月 等 は、 唯 だ 本 有 熏 習( 旧 熏 ) の み を 立 つ。 本 有 熏 習 は 性 と し て 真 如 を 証 す。 是 れ 本 有 熏 習 の 所 縁 縁 な り。 此 の熏習を真如所縁縁種子と名づく。聖道の初めて起こるは此れより生ずるなり。 【 合 生 義 】 戒 賢 師、 新 旧 の 二 熏 習 を 立 つ。 旧 熏 は 護 月 等 の 釈 の 如 し。 本 有 旧 熏 習 あ り と 雖 も、 若 し 新 熏 習 無 く ん ば 旧 熏 の 聖 道 を 生 ず る こ と 能 は ざ る が 故 に、 新 旧 和 合 し て 方 に 能 く 聖 道 を 生 ず。 新 旧 の 熏 習 の 性 智 は 真 如 を 縁 ず。 故 に〔 『 瑜 伽 論 』 に 〕 言 く、 「 出 世 間 の 法 は、 真 如 所 縁 縁 種 子 よ り 生 ず る な り 」 と。 『 摂 大 乗 論〔 釈 〕』 に、 「 聞 熏 習 と 解 性 と 和 合 す。 一 切 の 聖 道は皆〔此れ〕より生ず」といふ。   すなわち、新熏義では、新熏によって無漏種子が初めて生じるときには、因縁によらず、ただ真如を所縁縁とする正 智 の は た ら き に よ る と い う。 本 有 義 で は、 本 有 熏 習 ( 旧 熏、 本 有 無 漏 種 子 に 相 当 ) は 真 如 を 所 縁 縁 と す る こ と か ら 真 如 所 縁縁種子ともいい、聖道はここから生じるという。合生義では、新熏と旧熏とが和合して聖道を生じるといい、その証 拠として、 『瑜伽師地論』の「出世間の法は、真如所縁縁種子より生ずるなり」という文と、 『摂大乗論釈』の「聞熏習

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三三 と解性と和合す。一切の聖道は皆な此より生ず」という文が引用されている。この記述が事実であれば、神泰は五姓各 別説を認めながら、種子や熏習については玄奘とは異なる解釈をしていたということになる。   神 泰 が あ げ た 合 生 義 の 証 拠 の う ち、 『 瑜 伽 師 地 論 』 の 真 如 所 縁 縁 種 子 に つ い て は 既 に 別 稿 で 考 察 し た ( 8 ) 。 こ こ で は『 摂 大乗論釈』の引用文について検討することにしたい。この文章は真諦訳の『摂大乗論釈』のみに見られるものである。 これに依拠した神泰の解釈は、後述するように、玄奘以前に行われた摂論学派の聞熏習説に通じるものであり、また唯 識学派を批判する一切皆成論者の立場を助けるものでもあ る ( 9 ) 。このことは、玄奘が『成唯識論』において『摂大乗論』 の聞熏習説に制約を加えたのは、摂論学派による聞熏習の解釈を払拭し、一切皆成論を抑制するためであった、という ことを予想させるものである。

二、真諦訳『摂大乗論釈』の聞熏習説

  摂論学派の聞熏習説の典拠となった真諦訳『摂大乗論釈』の文とは、どのようなものであろうか。真諦訳『摂大乗論 釈』には玄奘訳には見られない注釈が数多く含まれているが、聞熏習説についても独自の注釈が施されている。先ず、 神泰が引用した、転依を説明する本文に 対する注釈である。 F論曰、猶如世間離 欲時、不静地熏習滅、静地熏習増、世間転依義得成、出世転依亦爾。   釈 曰 … 中 略 … 由 本 識 功 能 漸 減、 聞 熏 習 等 次 第 漸 増、 捨 凡 夫 依 作 聖 人 依。 聖 人 依 者、 聞 熏 習 与 解 性 和 合、 以 此 為 依。 一 切 聖 道皆依此 生 )(( ( 。 F 論 じ て 曰 く、 猶 ほ 世 間 に 欲 を 離 る る 時 に、 不 静 地 に 熏 習 滅 し、 静 地 に 熏 習 増 し て、 世 間 の 転 依 の 義 成 ず る こ と を 得 る が 如 く、出世の転依も亦た爾なり。   釈 し て 曰 く … 中 略 … 本 識 の 功 能 漸 く 減 ず る に 由 り、 聞 熏 習 等 は 次 第 に 漸 く 増 し、 凡 夫 の 依 を 捨 て て 聖 人 の 依 と 作 る。 聖 人 の依とは、聞熏習と解性と和合し、此れを以て依と為すなり。一切の聖道は皆な此れに依りて生ず。   すなわち、本識の働きが次第に減ずるにつれて、聞熏習は次第に増してゆき、凡夫のより所を捨てて聖人のより所を

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三四 得る。聖人のより所とは、聞熏習とアーラヤ識の「解性」とが和合したものをいう。あらゆる聖道はみなこれによって 生じる、という。ここだけでは「解性」の意味は明らかではないが、同論の巻一にあるアーラヤ識は「解を以て性と為 す」という解釈と関係があると思われる。その文は次のようである。 論 曰、 此 初 説 応 知 依 止。 立 名 阿 黎 耶 識。 … 中 略 … 如 仏 世 尊 阿 毘 達 磨 略 本 偈 中 説。 此 界 無 始 時、 一 切 法 依 止。 若 有 諸 道 有、 及 有得涅槃。 釈 曰、 今 欲 引 阿 含 証 阿 黎 耶 識 体 及 名。 阿 含 謂 大 乗 阿 毘 達 磨。 此 中 仏 世 尊 説 偈。 此 即 此 阿 黎 耶 識 界。 以 解 為 性。 此 界 有 五 義。 一 体 類 義。 一 切 衆 生 不 出 此 体 類。 由 此 体 類 衆 生 不 異。 二 因 義。 一 切 聖 人 法 四 念 処 等、 縁 此 界 生 故。 三 生 義。 一 切 聖 人 所 得 法 身、 由 信 楽 此 界 法 門 故 得 成 就。 四 真 実 義。 在 世 間 不 破、 出 世 間 亦 不 尽。 五 蔵 義。 若 応 此 法、 自 性 善 故 成 内、 若 外 此 法、 雖 復 相応則成 故 )(( ( 。 論じて曰く、此の初めに説く応知依止は、立てて阿黎耶識と名づく。 …中略…仏世尊の『 阿毘達磨〔 経〕 』の略本の偈の中に 説けるが如し。 「此の界は無始の時より、一切法の依止にして、若し有れば諸道有り、及び涅槃を得ること有り」と。 釈 し て 曰 く、 今『 阿 含 』 を 引 き て 阿 黎 耶 識 の 体 と 及 び 名 と を 証 せ ん と 欲 す。 阿 含 と は 謂 く『 大 乗 阿 毘 達 磨〔 経 〕』 に し て、 此 の 中 に 仏 世 尊 は 偈 を 説 け り。 此 れ 即 ち 此 の 阿 黎 耶 識 の 界 な り。 解 を 以 て 性 と 為 す。 此 の 界 に 五 義 有 り。 一 つ に は 体 類 の 義。 一 切 衆 生 は 此 の 体 類 を 出 で ず。 此 の 体 類 に 由 ら ば 衆 生 異 な ら ず。 二 つ に は 因 の 義。 一 切 の 聖 人 の 法 た る 四 念 処 等 は、 此 の 界 を 縁 じ て 生 ず る が 故 に。 三 つ に は 生 の 義。 一 切 聖 人 の 所 得 の 法 身 は、 此 の 界 の 法 門 を 信 楽 す る に 由 る が 故 に 成 就 す る を 得。 四 つ に は 真 実 の 義。 世 間 に 在 り て も 破 せ ず、 出 世 間 に も 亦 た 尽 き ず。 五 つ に は 蔵 の 義。 若 し 此 の 法 に 応 ず れ ば、 自 性 善 なるが故に内を成じ、若し此の法を外にすれば、復た相応すと雖も則ち を成ずるが故に。   す な わ ち、 『 大 乗 阿 毘 達 磨 経 』 の 偈 頌 に あ る「 界 」 と は ア ー ラ ヤ 識 の こ と で あ り、 「 解 」 が そ の 本 性 で あ る。 「 界 」 に 体 類・ 因・ 生・ 真 実・ 蔵 の 五 義 が あ る、 と い う。 こ の 五 義 の 内 容 は、 『 勝 鬘 経 』 や『 仏 性 論 』 の 如 来 蔵 の 五 義 に 基 づ く ものであ る )(( ( 。そこでは、それぞれが如来蔵・正法蔵・法身蔵・出世蔵・自性清浄蔵とされている。このことから、先の 「 解 性 」 と は 解 脱 と し て の 本 性 と い う 意 味 で あ り、 具 体 的 に は ア ー ラ ヤ 識 に 自 ず か ら あ る 如 来 蔵 と し て の 性 質 を い う も

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三五 のである、ということが推察される。   次に、聞熏習は「法身種子」を生じるという本文に対する注釈である。 E論曰、是聞熏習若下中上品、応知是法身種子。   釈 曰、 何 法 名 法 身。 転 依 名 法 身。 転 依 相 云 何。 成 熟 修 習 十 地 及 波 羅 蜜、 出 離 転 依 功 徳 為 相。 由 聞 熏 習、 四 法 得 成。 一 信 楽 大 乗。 是 大 浄 種 子。 二 般 若 波 羅 蜜。 是 大 我 種 子。 三 虚 空 器 三 昧。 是 大 楽 種 子。 四 大 悲、 是 大 常 種 子。 常 楽 我 浄、 是 法 身 四 徳。 此 聞 熏 習 及 四 法、 為 四 徳 種 子。 四 徳 円 時、 本 識 都 尽。 聞 熏 習 及 四 法、 既 為 四 徳 種 子 故、 能 対 治 本 識。 聞 熏 習 正 是 五 分 法 身 種 子。 聞 熏 習 是 行 法 未 有、 而 有 五 分 法 身。 亦 未 有 而 有 故、 正 是 五 分 法 身 種 子。 聞 熏 習 但 是 四 徳 道 種 子。 四 徳 道 能 成 顕 四徳。四徳本来是有。不従種子生、従因作名故称種 子 )(( ( 。 E論じて曰く、是の聞熏習に下中上品の若きは、応に是れ法身種子なりと知るべし。   釈 し て 曰 く、 何 れ の 法 を 法 身 と 名 づ く る や。 転 依 を 法 身 と 名 づ く。 転 依 の 相 は 云 何 ん。 十 地 と 及 び 波 羅 蜜 と を 成 熟 し 修 習 し て、 出 離 し 転 依 す る 功 徳 を 相 と 為 す。 聞 熏 習 に 由 り て、 四 法 成 ず る を 得。 一 つ に は 大 乗 を 信 楽 す。 是 れ 大 浄 の 種 子 な り。 二 つ に は 般 若 波 羅 蜜。 是 れ 大 我 の 種 子 な り。 三 つ に は 虚 空 器 三 昧。 是 れ 大 楽 の 種 子 な り。 四 つ に は 大 悲。 是 れ 大 常 の 種 子 な り。 常 楽 我 浄 は、 是 れ 法 身 の 四 徳 な り。 此 の 聞 熏 習 と 及 び 四 法 と を、 四 徳 種 子 と 為 す。 四 徳 円 な る 時 に、 本 識 都 て 尽 く。 聞 熏 習 と 及 び 四 法 と は、 既 に 四 徳 の 種 子 と 為 る が 故 に、 能 く 本 識 を 対 治 す。 聞 熏 習 は 正 に 是 れ 五 分 法 身 の 種 子 な り。 聞 熏 習 は 是 れ 行 法 未 だ 有 ら ざ る に、 而 も 五 分 法 身 有 り。 亦 た 未 だ 有 ら ざ る に 而 も 有 る が 故 に、 正 に 是 れ 五 分 法 身 の 種 子 な り。 聞 熏 習 は 但 だ 是 れ 四 徳 道 の 種 子 な り。 四 徳 道 は 能 く 成 じ て 四 徳 を 顕 は す。 四 徳 は 本 来 是 れ 有 り。 種 子 よ り 生 ぜ ざ るも、因に従ひて名を作すが故に種子と称す。   玄 奘 訳 で は「 法 身 種 子 」 に 対 す る 注 釈 は な い が、 真 諦 訳 に は こ の よ う に 詳 し い 注 釈 が あ る。 す な わ ち、 聞 熏 習 は 大 常・大楽・大我・大浄という法身の四徳を生じるが、四徳は本来アーラヤ識にあるものであり、聞熏習は法身の四徳を も た ら す 種 子 で あ り、 五 分 法 身 種 子 ( 戒・ 定・ 慧・ 解 脱・ 解 脱 知 見 の 五 法 を 身 体 と す る 者、 す な わ ち 如 来 の 種 子 ) で あ る、 という。法身に常楽我浄の四徳があると説くのは『涅槃経』や『仏性論』であり、後者では四徳が如来法身の四波羅密

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三六 であるとされてい る )(( ( 。こ のことから、法身の四徳もまた如来蔵思想に基づく説明であることが分かる。   最後は、依他性 (玄奘訳の依他起性に 相当) との関係で熏習を説く本文に対 する注釈である。 論曰。依他性有幾種。… 中略…若略説有二種。一繋属熏習種子。 釈 曰。 此 先 明 依 他 体 類、 従 二 種 熏 習 生。 一 従 業 煩 悩 熏 習 生、 二 従 聞 熏 習 生。 由 体 類 繋 属 此 二 熏 習 故、 称 依 他 性。 若 果 報 識 体 類為依他性、従業煩悩熏習生。若出世間思修慧体類、従聞熏習 生 )(( ( 。 論じて曰く。依他性に幾くの種有るや。…中略…若し略説すれば二種有り。一つには熏習する種子に繋属す。 釈 し て 曰 く。 此 れ は 先 づ 依 他 の 体 類 を 明 か す に、 二 種 の 熏 習 よ り 生 ず。 一 つ に は 業 煩 悩 熏 習 よ り 生 じ、 二 つ に は 聞 熏 習 よ り 生 ず。 体 類 は 此 の 二 の 熏 習 に 繋 属 す る に 由 る が 故 に、 依 他 性 と 称 す。 若 し 果 報 識 の 体 類 を 依 他 性 と 為 さ ば、 業 煩 悩 熏 習 よ り 生ず。若し出世間の思修の慧の体類ならば、聞熏習より生ず。   すなわち、依他性の体類は二種の熏習によって生じる。業煩悩熏習は果報識の体類を生じ、聞熏習は出世間の思慧・ 修慧の体類を生じる、という。これは熏習には汚染と清浄の二種があるという説明であるが、玄奘訳には二種の熏習と い う 注 釈 は な い。 一 方 で、 『 大 乗 起 信 論 』 に は 染 法 熏 習 と 浄 法 熏 習 と い う 二 種 の 熏 習 が 説 か れ て お り )(( ( 、 こ の 注 釈 と 内 容 が一致する。ここにも如来蔵思想との類似を見ることができる。   以上のような注釈が真諦の用いた原本にあったのか、それとも真諦や別人によって付加されたのか、という問題は重 要であるが、ここではそれに立ち入らず、これらの注釈が中国でどのような解釈を生んだのかということを考察するこ とにしたい。

三、摂論学派の聞熏習説

  1、慧遠『大乗義章』に見られる聞熏習説   真諦訳の『摂大乗論釈』は六世紀後半に中国北地に伝えられ、それまで『十地経論』を学んでいた人々を中心に隋か ら 唐 初 に か け て 盛 ん に 研 究 さ れ た。 地 論 学 派 か ら 摂 論 学 派 へ の 移 行 期 に 著 さ れ た 浄 影 寺 慧 遠 ( 五 二 三 ― 五 九 二 ) の『 大

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三七 乗義章』には、 『摂大乗論釈』の聞熏習説がいち早く取り入れている。 依 他 性 中、 修 亦 有 二。 一 観 人 空。 二 観 法 空。 於 此 二 中、 先 起 聞 慧。 聞 二 無 我、 熏 於 本 識。 本 識 被 熏、 成 聞 熏 習。 於 本 識 中、 有 真 有 妄。 真 受 浄 熏、 妄 受 染 熏。 真 受 熏 已、 転 熏 無 明、 令 無 明 薄。 無 明 薄 故、 於 無 明 中、 無 始 積 習 我 見 種 子、 随 而 漸 薄。 此 種 薄 已、 起 阿 陀 那、 我 執 漸 軽。 此 執 軽 已、 起 於 六 識、 我 見 亦 軽。 此 見 軽 已、 起 聞 転 勝。 以 此 転 聞、 還 熏 本 識。 如 是 展 転、 以 末 熏 本、 本 還 熏 末。 思 修 亦 然。 以 末 熏 本、 壊 本 識 中 我 見 種 子、 成 就 出 世 法 身 種 子。 以 本 熏 末、 遮 断 起 惑、 増 長 浄 行、 乃 至 究 竟 )(( ( 。 依 他 性 の 中 に、 修 す る に 亦 た 二 有 り。 一 つ に は 人 空 を 観 ず。 二 つ に は 法 空 を 観 ず。 此 の 二 の 中 に 於 い て、 先 に 聞 慧 を 起 こ す。 二 無 我 を 聞 し、 本 識 に 熏 ず。 本 識 熏 ぜ ら れ て、 聞 熏 習 を 成 ず。 本 識 の 中 に 於 て、 真 有 り 妄 有 り。 真 は 浄 熏 を 受 け、 妄 は 染 熏 を 受 く。 真 は 熏 を 受 け 已 り、 転 た 無 明 に 熏 じ、 無 明 を し て 薄 な ら し む。 無 明 薄 な る が 故 に、 無 明 の 中 に 於 て、 無 始 よ り 積 習 す る 我 見 の 種 子、 随 ひ て 漸 く 薄 す。 此 の 種 薄 し 已 ら ば、 阿 陀 那 を 起 こ す も、 我 執 漸 く 軽 す。 此 の 執 軽 し 已 ら ば、 六 識 を 起 こ す も、 我 見 も 亦 た 軽 す。 此 の 見 軽 し 已 ら ば、 聞 を 起 こ す こ と 転 た 勝 る。 此 を 以 て 転 た 聞 し、 還 た 本 識 に 熏 ず。 是 の 如 く 展 転 し、 末 を 以 て 本 に 熏 じ、 本 還 た 末 に 熏 ず。 思 も 修 も 亦 た 然 り。 末 を 以 て 本 に 熏 ず れ ば、 本 識 の 中 の 我 見 の 種 子 を 壊 し、 出世の法身種子を成就す。本を以て末に熏ずれば、惑を起こすことを遮断し、浄行を増長し、乃し究竟に至る。   慧 遠 に よ れ ば、 依 他 性 ( 玄 奘 訳 の 依 他 起 性 に 相 当 ) に お い て 二 空 ( 二 無 我 ) を 観 察 す る が、 そ の 中 で 聞 慧 を 起 こ す。 二 空 の 教 え を 聞 い て 本 識 ( ア ー ラ ヤ 識 ) が 熏 ぜ ら れ て 聞 熏 習 が 成 立 す る。 本 識 に は 真・ 妄 の 二 つ が あ る。 真 識 が 浄 熏 ( 浄 法 熏 習 ) を 受 け、 妄 識 が 染 熏 ( 染 法 熏 習 ) を 受 け る が、 後 者 の 浄 熏 が 聞 熏 習 で あ る。 真 識 が 浄 熏 を 受 け る と、 次 第 に 無 明に熏じてそれを減ずる。本識の無明が減じると、無始より積み重ねられた我見の種子が減じ、我見の種子が減じると ア ー ダ ー ナ 識 ( 玄 奘 訳 の マ ナ 識 に 相 当 ) に お け る 我 執 が 減 ず る。 ア ー ダ ー ナ 識 に お け る 我 執 が 減 じ る と、 六 識 に お け る 我見が減じ、我見が減じると聞くことが優れてゆく。このように教えを聞くにしたがい、本識が熏ぜられる。これが聞 慧 を 起 こ す こ と で あ る が、 思 慧・ 修 慧 も ま た そ の よ う に し て 起 こ る。 こ の よ う に、 六 識 か ら 本 識 ( 真 識 ) に 浄 熏 が あ れ ば、 本 識 ( 妄 識 ) に あ る 我 見 の 種 子 を 壊 し て、 出 世 間 の「 法 身 種 子 」 を 成 就 し、 煩 悩 の 生 起 を 遮 断 し て、 浄 行 を 増 長

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三八 し、やがては悟りに至る、という。   ここでは真諦訳『摂大乗論釈』の三性説や八識説によって、聞熏習が本識に熏じて法身種子を成就させ聞慧を生起す る 過 程 が 説 明 さ れ て い る。 慧 遠 は、 聞 熏 習 と い う 浄 熏 が、 本 識 に お い て 出 世 間 の 法 身 種 子 を 成 就 す る こ と を、 「 末 を 以 て 本 に 熏 ず 」 と 繰 り 返 し 説 い て い る。 し か し、 本 識 に 真・ 妄 が あ る と い う 考 え や 浄 熏・ 染 熏 と い う 観 念 は、 『 摂 大 乗 論 釈 』 そ の も の よ り も、 む し ろ『 大 乗 起 信 論 』 の ア ー ラ ヤ 識 に 真 ( 心 真 如 ) ・ 妄 ( 心 生 滅 ) が あ る と い う 考 え や 浄 法 熏 習・ 染法熏習という観念に基づくものである。特に浄熏を受けた真識がさらに無明に熏じる点や、その過程を「本還た末に 熏ず」と説くところは、 『大乗起信論』の浄法熏習 (真如熏習・妄心熏習) による解釈であると言えるだろう。   た だ し、 以 上 の 記 述 で は「 法 身 種 子 」 の 解 釈 が 不 明 瞭 で あ る。 慧 遠 は、 「 法 身 種 子 」 が 浄 法 熏 習 を 受 け て 新 た に 生 じ る と 考 え て い る の で あ ろ う か。 そ れ と も 法 身 種 子 は ア ー ラ ヤ 識 に 本 来 あ る と 考 え て い る の で あ ろ う か。 こ れ に つ い て は、 『大乗義章』の中で次のように述べられている。 次 将 六 識 対 於 本 識、 明 相 熏 発。 彼 六 識 中、 起 染 起 浄。 所 起 染 過、 熏 於 本 識。 彼 本 識 中 所 有 闇 性、 受 性 染 熏、 成 染 種 子。 種 子 成 已、 無 明 厚 故、 引 生 六 識、 於 六 識 中、 染 過 転 増。 如 是 展 転、 積 習 無 窮。 於 六 識 中、 所 修 善 行、 熏 於 本 識。 於 本 識 中、 仏 性 真 心、 名 為 解 性。 解 性 受 彼 浄 法 熏、 成 浄 種 子。 浄 種 成 已、 熏 於 無 明、 無 明 転 薄。 無 明 薄 故、 変 起 六 識、 於 六 識 中、 起 善 転 勝。如是展転、乃至究 竟 )(( ( 。 次 に 六 識 を 将 もっ て 本 識 に 対 す る に、 明 相 熏 発 す。 彼 の 六 識 の 中 に、 染 を 起 こ し 浄 を 起 こ す。 起 こ す 所 の 染 過、 本 識 に 熏 ず。 彼 の 本 識 の 中 に 有 る 所 の 闇 性、 性 に 染 熏 を 受 け、 染 の 種 子 を 成 ず。 種 子 成 じ 已 ら ば、 無 明 厚 き が 故 に、 六 識 を 引 生 す る に、 六 識 の 中 に 於 て、 染 過 転 うた た 増 す。 是 の 如 く 展 転 し、 積 習 す る こ と 窮 り 無 し。 六 識 中 に 於 て、 修 す る 所 の 善 行、 本 識 に 熏 ず。 本 識 の 中 に 於 て、 仏 性 真 心 を、 名 け て 解 性 と 為 す。 解 性 は 彼 の 浄 法 熏 を 受 け、 浄 の 種 子 を 成 ず。 浄 種 成 じ 已 ら ば、 無 明 に 熏 じ、 無 明 転 た 薄 な り。 無 明 薄 な る が 故 に、 六 識 を 変 起 す る に、 六 識 の 中 に 於 て、 善 を 起 こ す こ と 転 た 勝 れ た り。 是 の 如 く 展 転し、乃し究竟に至る。   こ こ で は、 六 識 と 本 識 と の 関 係 に 染・ 浄 の 二 つ が あ る こ と が 説 か れ て い る。 す な わ ち、 六 識 に お け る 染 過 は 本 識 の

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一三九 「 闇 性 ( 妄 心 ) 」 に 熏 じ、 染 法 種 子 を 成 就 す る。 染 法 種 子 に よ っ て 本 識 の 無 明 が 増 す た め、 六 識 を 起 こ す と き に 染 過 が 増 える。これに対し、六識における善行は本識の「仏性真心」すなわち「解性」に熏じ、浄法種子を成就する。浄法種子 が無明に熏じて無明が減るため、六識を起こすときに善行が増える、という。   慧遠はここで、本識には「 闇性 ( 妄心) 」と「 仏性真心」との二つがあり、後者が『 摂大乗論釈』の「 解性」であると 考 え て い る。 し か し、 ア ー ラ ヤ 識 に は 真 心・ 妄 心 が あ り、 真 心 が 仏 性 で あ る と い う 考 え は、 『 摂 大 乗 論 釈 』 に は な い も のであり、やはり『大乗起信論』の所説に基づくものである。   このように、慧遠の『大乗義章』の記述からは、真諦訳の『摂大乗論釈』が中国北地に伝えられた当初から、如来蔵 思想、特に『大乗起信論』にひきつけて解釈されていたことが推定される。   2、摂論学派の聞熏習説の特徴   摂論学派の聞熏習説を詳述するまとまった資料は得られない。そこで、以下、複数の断片的な資料からその特徴を推 察することにしたい。   敦 煌 本 の『 摂 大 乗 論 』 の 注 釈 書 に は、 摂 論 学 派 の 聞 熏 習 説 が 散 見 さ れ る。 先 ず、 『 摂 大 乗 論 章 』 に は、 次 の よ う な 記 述がある。 三 摂 浄 者、 此 障 生 滅 門 中 本 識 之 中、 摂 浄 不 浄 品。 以 能 持 染 浄 両 種 種 子 故。 故 縁 生 章 云、 善 悪 種 子、 二 姓 明 了。 染 浄 為 二。 業 惑 種 子、 名 之 為 染。 聞 熏 種 子、 名 之 為 浄。 四 言 簡 浄 者、 簡 取 生 死。 四 果 名 浄 品 法、 以 為 本 識。 聞 熏 習 等、 属 他 法 身、 非 本 識 摂。故出世浄章云、聞熏習非阿梨識性、摂属法身及解脱 身 )(( ( 。 三 つ に は 浄 を 摂 す と は、 此 の 障 生 滅 門 の 中 の 本 識 の 中 に、 浄 不 浄 品 を 摂 す る な り。 能 く 染 浄 の 両 種 の 種 子 を 持 す る を 以 て の 故 に。 故 に〔 『 摂 大 乗 論 』〕 縁 生 章 に 云 く、 「 善 悪 の 種 子、 二 姓 明 了 た り。 染 浄 を 二 と 為 す 」 と。 業 惑 種 子、 之 を 名 づ け て 染 と 為 す。 聞 熏 種 子、 之 を 名 づ け て 浄 と 為 す。 四 つ に は 言 く 浄 を 簡 ぶ と は、 生 死 を 簡 び 取 る な り。 四 果 を 浄 品 法 と 名 づ け、 以 て 本 識 と 為 す。 聞 熏 習 等、 他 の 法 身 に 属 す れ ば、 本 識 に 摂 せ ら る る に 非 ず。 故 に〔 『 摂 大 乗 論 』〕 出 世 浄 章 に 云 く、 「 聞 熏 習 は阿梨識の性に非ず、法身と及び解脱身とに摂属す」と。

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一四〇   ここには、生滅門の本識に染・浄の二つの種子があり、聞熏習の種子は浄の種子であること、聞熏習そのものは本識 に 属 さ ず 法 身 に 属 す こ と な ど が 説 か れ て い る。 ア ー ラ ヤ 識 を 真 如 門 と 生 滅 門 に 分 け る の は、 『 大 乗 起 信 論 』 の 所 説 に 基 づくものである。また、同書の別の個所には、次のような記述もある。 言 釈 名 義 者、 以 麁 資 細、 名 之 為 熏。 細 持 麁 分、 目 之 為 習。 熏 習 不 同、 有 其 四 種。 一 名 資 熏。 二 名 熏 成。 三 名 熏 転。 四 名 熏 顕。 /言資熏者、真妄等法、更相資助、名曰資熏 。故起信論中、名真如熏、熏真如等。 /言熏成者、六七二心、起於染浄、熏 彼 本 識、 成 染 浄 種 子、 名 為 熏 成。 故 熏 習 章 云、 能 熏 者 相 続 短、 所 熏 者 相 続 長。 六 七 間 起、 名 之 為 短。 本 識 相 続、 目 之 為 長。 / 言 熏 転 者、 本 識 先 已 被 熏、 成 染 浄 種 子。 後 為 聖 道 令 所 熏、 染 種 漸 滅 浄 増、 名 為 熏 転。 故 寂 滅 相 中 云、 不 浄 品 永 改 本 性、 浄 品 永 成。 本 性 名 為 転 依。 / 言 熏 顕 者、 法 性 本 浄、 為 分 別 惑 覆、 名 有 垢 真 如。 修 無 分 別 智、 息 去 惑 妄、 本 浄 始 顕、 成 無 垢 真 如、 名 為 法 身。 故 出 世 浄 章 中、 本 論 云、 聞 熏 習 是 法 身 種 子。 釈 論 解 云、 法 身 四 徳、 本 来 是 有。 不 従 種 子 生。 従 因 作 名、 名 為 種子。五分法身、是四徳了因。信心・波若・三昧・大悲、与彼五分法身作生因。種子名従因作 名 )(( ( 。 言 く 名 義 を 釈 す と は、 麁 を 以 て 細 を 資 たす く、 之 を 名 づ け て 熏 と 為 す。 細 の 麁 分 を 持 す、 之 を 目 し て 習 と 為 す。 熏 習 同 じ か ら ず、 其 れ に 四 種 有 り。 一 つ に は 資 熏 と 名 づ く。 二 つ に は 熏 成 と 名 づ く。 三 つ に は 熏 転 と 名 づ く。 四 つ に は 熏 顕 と 名 づ く。 / 言 く 資 熏 と は、 真 妄 等 の 法、 更 に 相 ひ 資 助 す る を、 名 け て 資 熏 と 曰 ふ。 故 に『 起 信 論 』 の 中 に、 「 真 如 熏 と 名 づ く 」、 「 真 如 に 熏 ず 」 等 と い ふ。 / 言 く 熏 成 と は、 六 七 の 二 心、 染 浄 を 起 こ し、 彼 の 本 識 に 熏 じ、 染 浄 の 種 子 を 成 ず る を、 名 け て 熏 成 と 為 す。 故 に〔 『 摂 大 乗 論 』〕 熏 習 章 に 云 く、 「 能 熏 は 相 続 す る こ と 短 か く、 所 熏 は 相 続 す る こ と 長 し 」 と。 六 七 間 起 す、 之 を 名 づ け て 短 と 為 す。 本 識 相 続 す、 之 を 目 し て 長 と 為 す。 / 言 く 熏 転 と は、 本 識 先 に 已 に 熏 ぜ ら れ、 染 浄 の 種 子 成 ず。 後 に 聖 道 の 為 に 熏 ぜ ら れ、 染 種 漸 滅 し 浄 増 す る を、 名 け て 熏 転 と 成 す。 故 に〔 『 摂 大 乗 論 』〕 寂 滅 相 の 中 に 云 く、 「 不 浄 品 は 永 え に 本 性 を 改 め、 浄 品 は 永 え に 成 ず 」 と。 本 性 を 名 づ け て 転 依 と 為 す。 / 言 く 熏 顕 と は、 法 性 は 本 浄 な る も、 分 別 の 為 に 惑 覆 せ ら る る を、 有 垢 真 如 と 名 づ く。 無 分 別 智 を 修 め、 惑 妄 を 息 去 し て、 本 浄 始 め て 顕 は れ、 無 垢 真 如 を 成 ず る を、 名 け て 法 身 と 為 す。 故 に〔 『 摂 大 乗 論 』〕 出 世 浄 章 の 中 に、 本 論 に 云 く、 「 聞 熏 習 は 是 れ 法 身 種 子 な り 」 と。 『 釈 論 』 に 解 し て 云 く、 「 法 身 の 四 徳 は、 本 来 是 れ 有 り。 種 子 よ り 生 ぜ ず。 因 に 従 ひ て 名 を 作 し、 名 け て 種 子 と 為 す。 五 分 法 身 は、 是 れ 四 徳 の 了 因 な り。

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一四一 信心・波若・三昧・大悲を、彼の五分法身の 与 ため の生因と作す。種子の名は因に従ひて名と作す」と。   ここには熏習に資熏・熏成・熏転・熏顕の四種があることが説かれている。資熏とは『大乗起信論』の染法熏習と浄 法熏習のこと、熏成とは六識と第七識が本識に熏じて染浄の種子となること、熏転とは浄種が増えて染種が減り転依が 起こること、熏顕とは本来清浄なる本性が現れて法身となることであるという。これは『大乗起信論』と『摂大乗論』 の熏習説を総合した解釈である。   別の敦煌本である『摂大乗論疏』には、次のような記述がある。 聞思種子所熏解性、有解言、是真浄法身。…真浄心為法身義、並果徳 耶 )(( ( 。 聞・思の種子の熏ずる所の解性を、有るもの解して言ふ、 「 是れ真浄法身なり」と。 …真浄心を法身と為すの義、並びに果徳 なるか。   す な わ ち、 聞・ 思 の 熏 習 に よ る 種 子 が 熏 ず る 本 識 の「 解 性 」 を、 あ る 者 は「 真 浄 ( 心 ) 」 や「 法 身 」 で あ る と 言 う が、 「 真 浄 心 」 も「 法 身 」 も 果 徳 で は な い だ ろ う か、 と い う。 こ れ は ア ー ラ ヤ 識 に 解 性 が あ る と し て も、 清 浄 な る 真 心 や法身は証果の功徳であり、悟る以前に現われるわけではない、という意味であろう。これも如来蔵思想による聞熏習 の解釈が流行していたことを窺わせる記述である。   次に、隋の摂論師である道奘は、 「四種黎耶」を立てていたという。 青州道蔵寺道奘法師。…中略…立四種黎耶、聞熏、解性、仏果等 義 )(( ( 。 青州道蔵寺道奘法師。…中略…四種黎耶、聞熏、解性、仏果等の義を立つ。   す な わ ち、 道 奘 は ア ー ラ ヤ 識 に 四 種 あ る と し て、 聞 熏・ 解 性・ 仏 果 を 論 じ て い た、 と い う。 ア ー ラ ヤ 識 の 四 種 と 聞 熏・解性・仏果との関係は不明であるが、アーラヤ識の解性と、聞熏習や仏果との関係が論じられていたことは推測で

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一四二 きる。   また、隋末唐初の摂論師である僧弁 (五六六―六四二) は、次のように説いたという。 又弁法師云、聞熏与解性和合、転成聖人 依、故入発心住 也 )(( ( 。 又た〔僧〕弁法師云く、 「聞熏と解性と和合して、転た聖人の依を成ず、故に発心住に入るなり」と。   す な わ ち、 聞 熏 習 と ア ー ラ ヤ 識 の 解 性 と が 和 合 し て 聖 者 の よ り 所 と な り 発 心 住 に 入 る、 と い う。 こ れ は『 摂 大 乗 論 釈』の解釈のそのものである。   さ ら に、 円 測 ( 六 一 三 ― 六 九 六 ) の『 解 深 密 経 疏 』 に よ れ ば、 唐 初 期 に な る と、 こ れ ら の 解 釈 が 真 諦 自 身 の 説 と み な されるようになっていたことが窺える。 真 諦 三 蔵、 依 決 定 蔵 論 立 九 識 義。 如 九 識 品 説。 … 中 略 … 第 八 阿 梨 耶 識、 自 有 三 種。 一 解 性 梨 耶。 有 成 仏 義。 二 果 報 梨 耶。 縁 十八界。…中略…三染汚阿梨耶。縁真如境起四謗。即是法執而非人執。依安慧宗、作如是 説 )(( ( 。 真諦三蔵、 『 決定蔵論』に依りて九識義を立つ。九識品に説くが如し。 …中略…第八阿梨耶識に、自ら三種有り。一つには解 性 梨 耶。 成 仏 の 義 有 り。 二 つ に は 果 報 梨 耶。 十 八 界 を 縁 ず。 … 中 略 … 三 つ に は 染 汚 阿 梨 耶。 真 如 の 境 を 縁 じ て 四 謗 を 起 こ す。即ち是れ法執にして人執に非ず。安慧の宗に依りて、是の如き説を作す。   すなわち、真諦は九識義を立て、アーラヤ識に「解性」 「果報」 「染汚」の三種があると説いた。解性は成仏に向かう 性質、果報は前世の果報としての性質、染汚は法執などの妄念を起こす性質であるが、これは安慧の解釈によるもので ある、という。唐初期の摂論学派ではアマラ識を立てる九識説が有力となり、真諦が九識義を立てたという言説が流行 し て い た )(( ( 。 し か し、 ア ー ラ ヤ 識 の 種 類 に つ い て は、 道 奘 が 四 種 を 立 て て い た よ う に、 摂 論 学 派 の 中 で も 複 数 の 見 解 が あったことが推測される。したがって、この三種も真諦に仮託した摂論学派の一つの解釈とみるべきであろう。   これらの資料から、摂論学派では、真諦訳『摂大乗論釈』に説かれる聞熏習とアーラヤ識の「解性」との和合や、聞

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一四三 熏 習 に よ っ て 生 じ る と い う「 法 身 種 子 」 に 注 目 が 集 ま り、 ア ー ラ ヤ 識 の 真・ 妄 や 解 性・ 果 報 な ど の 種 類 が 議 論 さ れ、 『大乗起信論』のアーラヤ識説や熏習説に引きつけた如来蔵思想による解釈が行われていたことが推測され る )(( ( 。   3、摂論学派の聞熏習説の影響   摂 論 学 派 の 聞 熏 習 説 は、 同 時 代 の 智 顗 ( 五 三 八 ― 五 九 七 ) や 吉 蔵 ( 五 四 九 ― 六 二 三 ) の 著 作 に お い て も 言 及 さ れ て い る。先ず、智顗の『法華玄義』には、次のような文がある。 菴 摩 羅 識 即 真 性 軌。 阿 黎 耶 識 即 観 照 軌。 阿 陀 那 識 即 資 成 軌。 … 中 略 … 若 阿 黎 耶 中、 有 生 死 種 子、 熏 習 増 長、 即 成 分 別 識。 若 阿 黎 耶 中、 有 智 慧 種 子、 聞 熏 習 増 長、 即 転 依 成 道 後 真 如、 名 為 浄 識。 若 異 此 両 識、 秖 是 阿 黎 耶 識。 此 亦 一 法 論 三、 三 中 論 一 耳 )(( ( 。 菴 摩 羅 識 は 即 ち 真 性 軌 な り。 阿 黎 耶 識 は 即 ち 観 照 軌 な り。 阿 陀 那 識 は 即 ち 資 成 軌 な り。 … 中 略 … 若 し 阿 黎 耶 の 中 に、 生 死 種 子 有 れ ば、 熏 習 増 長 し、 即 ち 分 別 識 を 成 ず。 若 し 阿 黎 耶 の 中 に、 智 慧 種 子 有 れ ば、 聞 熏 習 増 長 し、 即 ち 転 依 し て 道 後 の 真 如 を 成 ず る を、 名 け て 浄 識 と 為 す。 若 し 此 の 両 識 に 異 な ら ば、 秖 た だ 是 れ 阿 黎 耶 識 な り。 此 れ も 亦 た 一 の 法 に 三 を 論 じ、 三 の 中 に一を論ずるのみ。   ここでは、第九アマラ識・第八アーラヤ識・第七アーダーナ識を立てる摂論学派の九識説が述べられた後、アーラヤ 識 の 中 の 生 死 の 種 子 が 起 こ る と 熏 習 が 増 長 し て 分 別 識 ( ア ー ダ ー ナ 識 と 六 識 ) が 成 立 し、 智 慧 の 種 子 が 起 こ る と 聞 熏 習 が 増 長 し て 浄 識 ( ア マ ラ 識 ) が 成 立 す る、 と 説 か れ て い る。 こ れ は『 大 乗 起 信 論 』 の 染 法 熏 習・ 浄 法 熏 習 よ る『 摂 大 乗 論釈』の熏習説の解釈である。染法熏習により分別識が成立するという解釈は、慧遠の染法熏習がアーダーナ識の我執 や六識の我見を増やすという解釈に類似する。浄法熏習により浄識が成立するという解釈は、アーラヤ識の解性が転依 してアマラ識が現れるという意味であろう。いずれも摂論学派の熏習説であるといってよいであろう。   次に、吉蔵の『中観論疏』には、摂論学派におけるアーラヤ識や聞熏習の解釈が伝えられている。摂論学派のアーラ ヤ識の解釈についての記述は、次のようである。

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中国唯識における聞熏習説の展開(吉村) 一四四 摂 大 乗 師、 以 八 識 為 妄、 九 識 為 真 実。 又 云、 八 識 有 二 義。 一 妄、 二 真。 有 解 性 義 是 真。 有 果 報 識 是 妄 用。 起 信 論、 生 滅 無 生 滅、合作梨耶体。楞伽経亦有二文。一云、梨耶是如来蔵。二云、如来蔵非阿梨 耶 )(( ( 。 摂 大 乗 師 は、 八 識 を 以 て 妄 と 為 し、 九 識 を 真 実 と 為 す。 又 た 云 く、 八 識 に 二 義 有 り。 一 つ に は 妄、 二 つ に は 真 な り と。 有 る も の は 解 性 の 義 を 是 れ 真 と す。 有 る も の は 果 報 の 識 は 是 れ 妄 用 な り と す。 『 起 信 論 』 に、 「 生 滅 と 無 生 滅 と、 合 し て 梨 耶 の 体 と 作 る 」 と い ふ。 『 楞 伽 経 』 に も 亦 た 二 文 有 り。 一 つ に は 云 く、 「 梨 耶 は 是 れ 如 来 蔵 な り 」 と。 二 つ に は 云 く、 「 如 来 蔵 は 阿 梨耶に非ず」と。   すなわち、摂論学派の人々は、八識が妄、九識が真であるという。また、八識には真・妄の二つがあり、解性が真、 果 報 が 妄 で あ る と も い い、 そ の 証 拠 に『 大 乗 起 信 論 』 の ア ー ラ ヤ 識 説 を あ げ て い る。 九 識 説 と 八 識 説 の 二 つ が あ る の は、 『 楞 伽 経 』 に「 ア ー ラ ヤ 識 は 如 来 蔵 で あ る 」 と い う 文 と「 如 来 蔵 は ア ー ラ ヤ 識 で は な い 」 と い う 文 の 二 つ が あ る か ら で あ る、 と い う。 『 楞 伽 経 』 の 文 は、 前 者 が 八 識 説、 後 者 は 九 識 説 の 証 拠 と し て 引 用 さ れ て い る の で あ ろ う。 吉 蔵 の 記述には、摂論学派の人々が八識説と九識説の両方を説いていたことや、アーラヤ識を真・妄や解性・果報に分ける解 釈をしていたことが反映されている。   また、摂論学派の聞熏習の解釈についての記述は、次のようである。 摂 大 乗 師 明、 六 道 衆 生 皆 従 本 識 来。 以 本 識 中 有 六 道 種 子 故 生 六 道 也。 従 清 浄 法 界 流 出 十 二 部 経、 起 一 念、 聞 熏 習 付 著 本 識。 此 是 反 去 之 始。 聞 熏 習 漸 増、 本 識 漸 減。 解 若 都 成、 則 本 識 都 滅。 用 本 識 中 解 性、 成 於 報 仏。 解 性 不 可 朽 滅。 自 性 清 浄 心、 即 是法身仏。解性与自性清浄心、常合究竟之時、解性与自性清浄心、相応一体。故法身常、報身亦常 也 )(( ( 。 摂 大 乗 師 の 明 か す に、 六 道 の 衆 生 は 皆 な 本 識 よ り 来 る。 本 識 の 中 に 六 道 の 種 子 有 る を 以 て の 故 に 六 道 に 生 ず る な り。 清 浄 法 界 よ り 流 出 す る 十 二 部 経、 一 念 を 起 こ さ ば、 聞 熏 習 本 識 に 付 著 す。 此 れ は 是 れ 反 去 の 始 め な り。 聞 熏 習 漸 く 増 さ ば、 本 識 漸 く 減 ず。 解〔 性 〕 若 し 都 すべ て 成 ず れ ば、 則 ち 本 識 は 都 て 滅 す。 本 識 の 中 の 解 性 を 用 て、 報 仏 を 成 ず。 解 性 は 朽 滅 す べ か ら ず。 自 性 清 浄 心 は、 即 ち 是 れ 法 身 仏 な り。 解 性 と 自 性 清 浄 心 と、 常 に 合 し て 究 竟 す る 時、 解 性 と 自 性 清 浄 心 と、 相 応 一 体 す。 故

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