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駒澤大学佛教学部論集 43 005佐藤 秀孝「明庵栄西の在宋中の動静について (上) : 第一次入宋と重源および阿育王山広利寺をめぐって」

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Academic year: 2021

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駒澤大學佛教學部論集   第四十三號   平成二十四年十月 七一

  明 庵 栄 西 ( 千 光 法 師 、 葉 上 房 、 一 一 四 一 ─ 一 二 一 五 ) と い え ば 、 平 安 末 期 に 二 度 の 入 宋 渡 航 を 果 た し た 日 本 僧 と し て 知 ら れ て お り 、 と く に 二 度 目 に 南 宋 に 渡 航 し た 際 、 浙 江 の 禅 林 に お い て 臨 済 宗 黄 龍 派 の 禅 旨 に 触 れ 、 逸 早 く 臨 済 宗 の 法 統 を 日 本 に 将 来 導 入 し て い る 。 も っ と も 栄 西 の 再 入 宋 に 先 立 っ て 、 近 江 ( 滋 賀 県 ) の 比 叡 山 延 暦 寺 の 天 台 僧 で あ っ た 覚 阿 ( 一 一 四 一 ─ ? ) が 早 く に 入 宋 し 、 杭 州 ( 浙 江 省 ) 銭 塘 県 の 北 山 景 徳 霊 隠 禅 寺 に お い て 臨 済 宗 楊 岐 派 の 瞎 堂 慧 遠 ( 仏 海 禅 師 、 一 一 〇 三 ─ 一 一 七 六 ) に 参 じ 、 そ の 法 門 を 伝 え て 帰 国 し て い る )( ( 。 ま た 達 磨 宗 ( 日 本 達 磨 宗 ) の 大 日 房 能 忍 ( 深 法 禅 師 ) が や は り 門 人 の 練 中 ・ 勝 弁 を 明 州 ( 浙 江 省 ) 鄞 県 の 阿 育 王 山 広 利 禅 寺 に 使 わ し 、 同 じ く 楊 岐 派 ( 大 慧 派 ) の 拙 庵 徳 光 ( 東 庵 、 仏 照 禅 師 、 一 一 二 一 ─ 一 二 〇 三 ) の 法 門 を 間 接 的 に 日 本 に 伝 持 し て い る 。 こ の よ う に 厳 密 に は 覚 阿 と 能 忍 が 宋 朝 禅 を 最 初 に 日 本 に 導 入 し た 僧 で あ り 、 栄 西 が 必 ず し も 日 本 へ の 禅 宗 の 初 伝 者 と は い い 難 い 面 も 存 し よ う 。 し か し な が ら 、 覚 阿 の 法 統 は 後 世 に 伝 わ る こ と な く 断 絶 し て お り 、 能 忍 の 場 合 は 師 資 面 授 に よ る 真 の 伝 法 相 承 と は い い 難 い 面 が 存 し た こ と か ら 、 現 今 で は 栄 西 を も っ て 日 本 禅 宗 な い し 日 本 臨 済 宗 の 始 祖 の ご と く 捉 え る 見 方 が 一 般 化 し て い る 。   栄 西 が そ の 生 涯 に 歩 ん だ 足 跡 と 彼 の 日 本 仏 教 史 上 に お け る 位 置 付 け を 語 る 上 で 、 入 宋 渡 航 を 通 し て 禅 宗 を 相 承 し た 事 実 は 欠 く べ か ら ざ る も の で あ り 、 こ れ を 抜 き に し て 栄 西 を 語 る こ と は で き な い で あ ろ う 。 栄 西 の 二 度 に 及 ぶ 入 宋 に つ い て は 、 こ れ ま で 不 明 確 な 部 分 も 多 く 、 と り わ け 在 宋 中 の 細 か な 動 静 に つ い て は 、 い ま だ 論 じ 尽 く さ れ て い る と は 言 い が た い 面 が 多 々 存 し て い る と い っ て よ い 。 と く に 近 年 で は 栄 西 を あ く ま で 生 涯 に わ た っ て 台 密 の 密 教 僧 で あ っ た と し て 捉 え る 見 方 が 中 心 と な っ て お    

明庵栄西の在宋中の動静について(上)

       

  

第一次入宋と重源および阿育王山広利寺をめぐって

  

  

  

  

  

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七二 り 、 在 宋 中 の 記 事 を 含 ん だ 禅 僧 と し て の 栄 西 の 真 面 目 は 端 に 追 い や ら れ て し ま っ た 感 す ら 存 す る 。 し か し な が ら 、 栄 西 が 日 本 仏 教 史 上 に 大 き く 評 価 さ れ る 所 以 は 、 密 教 僧 と し て の 活 動 面 も さ る こ と な が ら 、 南 宋 代 の 禅 宗 を 伝 来 し て 『 興 禅 護 国 論 』 三 巻 を ま と め た 点 に あ る と い え よ う 。 栄 西 は 密 教 僧 で あ っ た こ と が 歴 史 上 に 高 い 評 価 を 残 し て い る の で は な く 、 あ く ま で 入 宋 し て 禅 宗 と く に 臨 済 宗 を 日 本 に 伝 来 し た 事 実 を も っ て 世 間 の 注 目 を 集 め て き た と 見 な け れ ば な ら な い 。   本 稿 で は 栄 西 の 二 度 に わ た る 入 宋 求 法 の 軌 跡 を 諸 史 料 を 通 し て 詳 細 に 窺 い 、 栄 西 が 入 宋 し て 宋 代 禅 宗 と 触 れ 合 っ た 際 の 衝 撃 や 、 在 宋 中 に 訪 れ た 禅 寺 、 本 師 で あ る 黄 龍 派 の 虚 庵 懐 敞 ( 生 没 年 未 詳 ) の 事 跡 、 懐 敞 と の 問 答 機 縁 や 師 資 関 係 、 在 宋 中 の 詳 細 な 行 動 な ど を 整 理 す る こ と に よ っ て 、 栄 西 が 実 地 に 参 学 見 聞 し た 十 二 世 紀 後 半 に お け る 南 宋 浙 江 の 禅 宗 に つ い て 論 ず る も の で あ る 。 す で に 栄 西 の 入 宋 に 関 し て は 、 米 田 真 理 子 「 栄 西 の 入 宋 ─ 栄 西 伝 に お け る 密 と 禅 ─ 」 ( 勉 誠 出 版 『 海 を 渡 る 天 台 文 化 』 に 所 収 ) と い う す ぐ れ た 研 究 が 存 し 、 本 稿 は 米 田 氏 の 二 番 煎 じ と い っ た 感 を 免 れ 得 な い が 、 私 な り に 一 通 り 栄 西 在 宋 中 の 動 静 に つ い て 論 じ て 見 る こ と に し た い 。

西

  栄 西 の 入 宋 渡 航 や 在 宋 中 の 動 向 お よ び 帰 国 に 際 し て の 将 来 物 な ど に つ い て 考 察 す る 上 で 第 一 等 の 史 料 と し て 重 要 な の は 、 栄 西 自 身 が 著 述 や 文 書 の 中 に 書 き 残 し た 記 載 で あ ろ う 。 栄 西 の 主 著 で あ る 『 興 禅 護 国 論 』 三 巻 の 中 に は 、 彼 が 在 宋 中 に な し た 動 向 を 伝 え る 記 事 が 随 所 に 散 見 さ れ る 。 ま た 『 興 禅 護 国 論 』 に 付 さ れ る 「 未 来 記 」 に も 南 宋 の 仏 教 と く に 禅 宗 に 関 す る 記 載 が 見 い 出 さ れ 、 特 殊 な 事 情 を 伝 え て い る 。 さ ら に 『 出 家 大 綱 』 一 巻 と 『 日 本 仏 教 中 興 願 文 』 一 巻 お よ び 『 喫 茶 養 生 記 』 二 巻 な ど に 載 る 記 事 も 貴 重 な 参 考 史 料 と な ろ う 。   い ま 一 つ 栄 西 に は 『 栄 西 入 唐 縁 起 』 一 巻 が 伝 え ら れ て い る が 、 そ こ に 「 祖 師 自 作 」 と あ り 、 本 文 の 冒 頭 部 分 に は 「 今 行 年 七 十 五 歳 」 と 明 記 さ れ て い る こ と か ら 、 真 に 最 晩 年 に 至 っ た 栄 西 が 七 五 歳 で 自 ら こ れ を 撰 述 し た の で あ れ ば 、 栄 西 が 最 晩 年 に 当 た る 建 保 三 年 ( 一 二 一 五 ) に 著 し た も の で 、 往 年 の 入 宋 参 学 に 関 す る 事 跡 を 知 る 上 で 貴 重 な 史 料 と い う こ と に な ろ う 。 た だ し 、 『 栄 西 入 唐 縁 起 』 の 史 料 的 価 値 と な る と 若 干 問 題 を 含 ん で い る よ う で あ る が 、 近 年 、 そ の 史 料 的 な 価 値 や 意 義 づ け が 増 し て い る )( ( こ と か ら 、 私 と し て も こ れ を 第 一 次 史 料 と 捉 え て 積 極 的 に 活 用 し て い く も の で あ る 。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七三   つ ぎ に 栄 西 自 身 が 著 し た も の で は な い が 、 栄 西 に つ い て 記 し た 伝 記 史 料 も 重 要 で あ ろ う 。 栄 西 に 関 し て は い く つ か の 伝 記 史 料 が 伝 え ら れ て お り 、 そ れ ら に 記 さ れ た 入 宋 お よ び 在 宋 中 の 記 事 も ま た 一 連 の 流 れ と し て 貴 重 な 動 向 を 窺 う こ と が で き る 。   栄 西 の 伝 記 を 知 る 上 で も っ と も 基 本 と な る 伝 記 史 料 は 、 鎌 倉 末 期 に 臨 済 宗 聖 一 派 の 虎 関 師 錬 ( 海 蔵 和 尚 、 一 二 七 八 ─ 一 三 四 六 ) が ま と め た 『 元 亨 釈 書 』 巻 二 「 伝 智 一 之 二 」 に 載 る 「 釈 栄 西 〈 建 仁 寺 栄 西 〉」 の 章 で あ ろ う 。『 元 亨 釈 書 』 は 栄 西 が 亡 く な っ て 一 世 紀 あ ま り を 経 て 編 纂 さ れ て い る が 、 師 錬 は 栄 西 の 記 事 を 克 明 に 調 べ 上 げ 、 か な り の 紙 面 を 割 い て 詳 し い 記 載 を な し て い る 。 と り わ け 、 入 宋 の 経 緯 や 在 宋 中 の 行 動 な ど に 関 し て 栄 西 の と っ た 順 路 が 大 ま か に 窺 わ れ る 点 で 重 要 な も の が あ ろ う 。 と り わ け 、 栄 西 の 第 一 次 の 入 宋 帰 国 に 関 し て は 、 同 じ 『 元 亨 釈 書 』 巻 一 四 「 釈 重 源 」 の 章 も 重 要 で あ り 、 栄 西 と 行 動 を 共 に し た 俊 乗 房 重 源 ( 南 無 阿 弥 陀 仏 、 入 唐 三 度 聖 人 、 一 一 二 一 ─ 一 二 〇 六 ) の 事 跡 も 考 慮 し な け れ ば な ら な い 。 ち な み に 重 源 の 伝 記 面 に 関 す る 各 種 の 記 載 も 重 要 で あ り 、 と り わ け 『 玉 葉 』 巻 三 八 「 寿 永 二 年 〈 癸 卯 〉 春 秋 夏 」 の 「 正 月 二 十 四 日 」 の 条 に 載 る 、 重 源 が 九 条 兼 実 ( 後 法 住 寺 殿 、 月 輪 殿 、 一 一 四 九 ─ 一 二 〇 七 ) に 語 っ た 台 州 ( 浙 江 省 ) の 天 台 山 の こ と や 明 州 の 阿 育 王 山 の こ と に つ い て も 、 重 源 が 栄 西 と と も に 体 感 し た 貴 重 な 内 容 と い え よ う 。   つ ぎ に 『 続 群 書 類 従 』 巻 九 輯 上 ( 巻 二 二 五 ) な ど の 僧 伝 史 料 に は 「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 と 「 洛 城 東 山 建 仁 禅 寺 開 山 始 祖 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 が 収 め ら れ て お り 、 と も に 栄 西 に 関 す る 単 独 の 伝 記 史 料 と し て 重 要 で あ る 。 と く に 「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 は 記 事 内 容 こ そ き わ め て 簡 略 で は あ る が 、 入 宋 し た 明 全 ( 仏 樹 房 、 一 一 八 四 ─ 一 二 二 五 ) が 本 師 栄 西 を 顕 彰 す る た め に 臨 安 府 ( 杭 州 ) 都 税 務 の 官 僚 虞 樗 に 依 頼 し た も の で あ る 。 た だ し 、 明 全 は 宝 慶 元 年 ( 一 二 二 五 ) 五 月 二 四 日 に 世 寿 四 二 歳 で 明 州 ( 浙 江 省 ) 鄞 県 東 六 〇 里 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 の 了 然 寮 に 示 寂 し て お り 、 そ の 直 後 の 八 月 に 「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 は 天 童 山 景 徳 寺 の 一 角 に 建 立 さ れ て い る 。 虞 樗 が 著 し た 「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 を 拝 見 し 、 亡 き 明 全 の 代 わ り に そ の 立 石 に 立 ち 会 っ た の は 、 明 全 に 随 侍 同 行 し た 門 人 の 道 元 ( 仏 法 房 、 一 二 〇 〇 ─ 一 二 五 三 ) で あ っ て 、 道 元 に よ っ て 石 碑 建 立 の 大 事 業 が 天 童 山 内 で 実 際 に 遂 行 さ れ た も の と 見 て よ い で あ ろ う )( ( 。   お そ ら く 「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 は 天 童 山 景 徳 寺 の 寺 内 で も 栄 西 ゆ か り の 千 仏 閣 の 傍 ら に 「 天 童 山 千 仏 閣 記 」 の 石 碑 に 寄 り 添 う か の ご と く 立 石 さ れ た は ず で あ ろ う が 、 栄 西 に 関 す る も っ と も 早 い 伝 記 史 料 で あ っ て 、 そ の 文 面 の 全 文 は 書 写 な い し 拓 本 の か た ち で 道 元 に よ っ て 日 本 に 将 来 さ れ 、 京 都 東 山 の 建 仁 寺 に 齎 さ れ て 後 代 へ と 伝 え ら れ た も の で あ る 。 こ の よ う に 「 日 本

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七四 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 は 栄 西 が 亡 く な っ て わ ず か 一 〇 年 余 を 経 て 著 さ れ て い る の で あ り 、 記 事 内 容 こ そ 簡 略 で は あ る も の の 、 栄 西 に 関 す る 第 一 等 の 伝 記 史 料 と い う こ と に な ろ う 。 た だ し 、「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 で は 二 度 の 入 宋 を 一 度 の ご と く に ま と め て お り 、 ど ち ら の と き の 行 動 で あ っ た の か と い う 問 題 も 含 ん で い る た め 、 記 事 内 容 を 精 査 し た 上 で 使 用 し な け れ ば な ら な い 。   さ ら に 栄 西 に 関 し て は 「 洛 城 東 山 建 仁 禅 寺 開 山 始 祖 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 ま た は 「 洛 陽 東 山 建 仁 禅 寺 開 山 始 祖 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 と 称 さ れ る 塔 銘 が 伝 え ら れ て い る )( ( 。 こ の 「 洛 陽 東 山 建 仁 禅 寺 開 山 始 祖 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 は 、 室 町 中 期 に 遣 明 使 と し て 入 明 し た 臨 済 宗 仏 光 派 の 堅 中 圭 密 の 請 に 応 じ て )( ( 、 明 の 永 楽 二 年 ( 一 四 〇 四 ) 一 月 に 杭 州 ( 浙 江 省 ) 銭 塘 県 の 上 天 竺 寺 ( 正 式 に は 上 天 竺 霊 感 観 音 教 寺 ) の 前 住 で あ っ た 天 台 宗 の 古 春 如 蘭 ( 支 離 叟 ) に よ っ て 撰 述 さ れ た も の で あ る 。 古 く こ の 塔 銘 は 建 仁 寺 の 開 山 塔 院 護 国 院 ( 栄 西 の 塔 頭 ) の 一 角 に 立 石 さ れ た も の で あ ろ う 。 栄 西 が 示 寂 し て 二 世 紀 近 い 歳 月 が 経 過 し て 後 に 著 さ れ た も の で あ る だ け に 記 事 内 容 に は 問 題 も あ ろ う が 、 撰 者 の 古 春 如 蘭 が 中 国 天 台 の 教 僧 で あ り )( ( 、 こ の 塔 銘 に し か 見 ら れ な い 記 事 も 存 し て い る こ と か ら 、 在 宋 中 の 動 向 を 知 る 上 で は 重 要 な 伝 記 史 料 と い っ て よ い で あ ろ う 。   ま た 栄 西 の 門 流 に 当 た る 黄 龍 派 ( 千 光 派 ) の 龍 山 徳 見 ( 真 源 大 照 禅 師 、 一 二 八 四 ─ 一 三 五 八 ) が 編 集 し た 『 黄 龍 十 世 録 』 に は 、 徳 見 の 法 嗣 で あ る 無 等 以 倫 が 撰 し た 「 日 本 国 京 師 東 山 建 仁 千 光 禅 師 栄 西 」 と 題 す る 伝 記 史 料 が 収 め ら れ て い る 。『 黄 龍 十 世 録 』 と は 黄 龍 派 の 派 祖 で あ る 黄 龍 慧 南 ( 普 覚 禅 師 、 一 〇 〇 二 ─ 一 〇 六 九 ) か ら 栄 西 に 至 る 一 〇 世 代 の 祖 師 の こ と ば を 収 録 し た 禅 籍 で あ る )( ( 。『 黄 龍 十 世 録 』 に 載 る 栄 西 の 伝 記 史 料 は 、 先 に 述 べ た 『 元 亨 釈 書 』 の 栄 西 章 の 記 事 を 簡 略 化 し た か た ち で ま と め ら れ た も の で あ る が 、 徳 見 と 以 倫 は 黄 龍 派 に 属 し て 、     明 庵 栄 西 ─ 釈 円 房 栄 朝 ─ 蔵 叟 朗 誉 ─ 寂 庵 上 昭 ─ 龍 山 徳 見 ─ 無 等 以 倫 と 次 第 相 承 し て い る こ と か ら 、 南 北 朝 期 に 栄 西 の 遠 孫 の 人 々 が 栄 西 を ど の よ う に 見 て い た か を 知 る 上 で も 貴 重 な 伝 記 と い え る 。 と り わ け 、 徳 見 は 入 元 し て 実 地 に 法 祖 栄 西 ゆ か り の 史 蹟 を 遍 歴 し て お り )( ( 、『 黄 龍 十 世 録 』 に は 随 所 に 徳 見 が 収 集 し た 貴 重 な 黄 龍 派 と 栄 西 に 関 す る 事 跡 が 記 録 さ れ て い る 。 ち な み に こ の 『 黄 龍 十 世 録 』 に 所 収 さ れ る 栄 西 の 伝 記 史 料 は 、 江 戸 期 に 京 都 建 仁 寺 で 高 峰 東 晙 ( 魯 峰 、 一 七 一 四 ─ 一 七 七 九 ) に よ っ て ま と め ら れ た 栄 西 関 係 史 料 集 『 霊 松 一 枝 』 上 巻 に も 収 録 さ れ て い る )( ( 。   そ の ほ か に 江 戸 期 の 僧 伝 や 禅 宗 燈 史 と し て 、 黄 檗 宗 の 高 泉 性 潡 ( 曇 華 道 人 、 大 円 広 慧 国 師 、 一 六 三 三 ─ 一 六 九 五 ) が 撰 し た 『 扶 桑 禅 林 僧 宝 伝 』 巻 一 「 京 兆 建 仁 寺 明 菴 西 禅 師 伝 」 が 存 し 、 臨 済 宗 大 応 派 の 卍 元 師 蛮 ( 独 師 、 一 六 二 六 ─ 一 七 一 〇 ) に 『 延 宝 伝 燈

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七五 録 』 巻 一 「 京 兆 東 山 建 仁 寺 明 菴 栄 西 禅 師 」 の 章 と 『 本 朝 高 僧 伝 』 巻 三 「 京 兆 東 山 建 仁 寺 沙 門 栄 西 伝 」 が 存 し て お り 、 そ れ ぞ れ 簡 略 な が ら 在 宋 中 の 記 事 が 載 せ ら れ て い る )(( ( 。   ま た 栄 西 に 関 す る 近 年 の 成 果 と し て 、 多 賀 宗 隼 『 栄 西 』 ( 吉 川 弘 文 館 『 人 物 叢 書 〈 新 装 版 〉』 ) が 存 し 、 栄 西 の 生 涯 に 関 し て 詳 細 な 考 察 が な さ れ て お り 、 在 宋 中 の 動 向 に つ い て も ま と ま ら れ て い る 。 高 木 豊 ・ 小 松 邦 彰 編 『 鎌 倉 仏 教 の 様 相 』 ( 吉 川 弘 文 館 刊 ) に は 船 岡 誠 「 栄 西 に お け る 兼 修 禅 の 性 格 」 の 論 功 が 存 し 、 そ の 中 に も 「 入 宋 の 意 義 」 と し て 「 第 一 次 入 宋 の 意 義 」「 第 二 次 入 宋 の 意 義 」「 入 宋 の 意 義 」 が ま と め ら れ て い る 。 中 尾 良 信 『 日 本 禅 宗 の 伝 説 と 歴 史 』 ( 吉 川 弘 文 館 「 歴 史 文 化 ラ イ ブ ラ リ ー 一 八 九 」) に も 「 栄 西 は 禅 僧 か 天 台 僧 か 」 に も 「 二 度 の 入 宋 と 禅 の 受 法 」 と い う 考 察 が 存 し て い る 。 さ ら に 最 新 の 成 果 と し て 米 田 真 理 子 「 栄 西 の 入 宋 ─ 栄 西 伝 に お け る 密 と 禅 ─ 」 ( 吉 原 浩 人 ・ 王 勇 編 『 海 を 渡 る 天 台 文 化 』 に 所 収 ) が 存 し て お り 、「 栄 西 の 思 想 」「 栄 西 の 伝 記 」「 大 陸 で の 動 向 」「 再 び 天 台 山 へ 」「 栄 西 の 足 取 り 」「 入 宋 の 目 的 」「 栄 西 の 密 と 禅 と 」「 新 た な 栄 西 像 に 向 け て 」 に 分 け て 論 じ ら れ て い る 。 ま た 福 岡 市 博 物 館 開 館 二 〇 周 年 記 念 『 栄 西 と 中 世 博 多 展 』 ( 二 〇 一 〇 年 、 福 岡 市 博 物 館 刊 ) は 、 新 出 史 料 を 含 め た 栄 西 に 関 す る 最 新 の 貴 重 な 図 録 で あ る 。

西

  栄 西 は 十 二 世 紀 の 後 半 に 二 度 の 入 宋 渡 航 を 果 た し て い る が 、 そ も そ も 栄 西 が 入 宋 し た 当 時 の 浙 江 禅 林 は 如 何 な る 状 況 に あ っ た の で あ ろ う か 。 こ の 点 に つ い て 諸 史 料 を 通 し て 窺 っ て み る こ と に し た い 。   金 国 の 乱 入 に よ る 北 宋 末 期 の 動 乱 で 、 建 炎 年 間 ( 一 一 二 七 ─ 一 一 三 〇 ) に 江 南 に 南 宋 が 建 国 さ れ た こ と に よ り 、 多 く の 官 僚 士 大 夫 が 新 た に 行 在 所 ( 仮 の 国 都 ) と な っ た 杭 州 ( 浙 江 省 ) や 南 宋 第 一 の 港 町 で あ っ た 明 州 ( 浙 江 省 ) を 中 心 と す る 浙 江 の 地 に 赴 い て い る 。 し か も 臨 済 宗 や 曹 洞 宗 の 禅 僧 ら も 動 乱 の 難 を 逃 れ て 浙 江 ・ 江 蘇 ・ 福 建 な ど の 地 に 集 約 す る か た ち で 移 動 し 、 当 地 の 大 刹 に 在 っ て 化 導 を 敷 い て い る 。   栄 西 が 入 宋 す る 直 前 に は 、 紹 興 二 七 年 ( 一 一 五 七 ) 一 〇 月 に 明 州 鄞 県 東 六 〇 里 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 の 住 持 で あ っ た 曹 洞 宗 ( 宏 智 派 祖 ) の 宏 智 正 覚 ( 隰 州 古 仏 、 宏 智 禅 師 、 大 覚 、 一 〇 九 一 ─ 一 一 五 七 ) が 示 寂 し 、 こ れ を 追 う か の ご と く 隆 興 元 年 ( 一 一 六 三 ) 八 月 に 杭 州 餘 杭 県 西 北 の 径 山 能 仁 禅 院 ( 後 の 興 聖 万 寿 禅 寺 ) の 住 持 で あ っ た 臨 済 宗 楊 岐 派 ( 大 慧 派 祖 ) の 大 慧 宗 杲 ( 妙 喜 、 大 慧 普 覚

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七六 禅 師 、 杲 罵 天 、 一 〇 八 九 ─ 一 一 六 三 ) も 示 寂 し て い る 。 正 覚 は 坐 禅 を 重 ん じ た 黙 照 禅 を 唱 え 、 宗 杲 は 公 案 参 究 に 依 る 看 話 禅 を 広 め た こ と で 名 高 い が 、 こ の 両 者 を 始 め と し て 曹 洞 宗 真 歇 派 の 大 休 宗 珏 ( 小 珏 、 一 〇 九 一 ─ 一 一 六 二 ) や 臨 済 宗 虎 丘 派 の 応 庵 曇 華 ( 一 一 〇 三 ─ 一 一 六 三 ) な ど 、 紹 興 年 間 ( 一 一 三 一 ─ 一 一 六 二 ) に 活 躍 し た 禅 匠 た ち が 相 継 い で 世 を 去 っ た 直 後 、 栄 西 は 入 宋 し て 浙 江 禅 林 に 足 を 踏 み 入 れ て い る わ け で あ る 。   栄 西 が 入 宋 し た 当 時 、 も っ と も 勢 力 の あ っ た の は 臨 済 宗 楊 岐 派 の 各 系 統 と く に 大 慧 宗 杲 を 派 祖 と す る 大 慧 派 で あ り 、 こ れ に つ い で 曹 洞 宗 と 臨 済 宗 黄 龍 派 そ れ に 雲 門 宗 が 互 い に 篠 木 を 削 っ て い た 状 況 に あ っ た と い っ て よ い 。 十 二 世 紀 の 後 半 は ま さ に 大 慧 宗 杲 の 唱 導 し た 看 話 禅 が 浙 江 禅 林 に 大 き く 躍 進 す る 一 方 、 真 歇 清 了 ・ 宏 智 正 覚 に よ る 黙 照 禅 が し だ い に 影 響 力 を 失 っ て い く 時 期 に 相 当 し て お り 、 や が て 臨 済 宗 楊 岐 派 の み が 南 宋 禅 林 を 席 巻 し て い く こ と に な る 。 こ れ と 別 に 教 宗 と し て 天 台 宗 ( 趙 宋 天 台 ) も か な り の 勢 力 を 維 持 し て お り 、 杭 州 ( 臨 安 府 ) や 明 州 ( 慶 元 府 ) ・ 越 州 ( 紹 興 府 ) さ ら に 台 州 の 天 台 山 な ど に 教 寺 が 数 多 く 存 し て い る 。   栄 西 は 二 度 目 の 入 宋 で 臨 済 宗 黄 龍 派 の 系 統 を 受 け 継 い で 帰 国 し て い る が 、 栄 西 が 在 宋 中 に 参 学 嗣 法 し た 虚 庵 懐 敞 は 黄 龍 派 の 最 後 を 飾 る 禅 者 で あ り 、 栄 西 よ り 以 降 に 黄 龍 派 を 日 本 に 伝 え た 禅 者 は 存 し て い な い 。 栄 西 が 帰 国 し た 後 、 黄 龍 派 と 雲 門 宗 は 急 速 に 衰 退 し て お り 、 曹 洞 宗 も 辛 う じ て 法 統 を 保 つ に す ぎ ず 、 や が て 浙 江 の 禅 林 は 臨 済 宗 楊 岐 派 一 色 に 塗 り 替 え ら れ 、 大 慧 派 と と も に 虎 丘 紹 隆 ( 瞌 睡 虎 、 一 〇 七 七 ─ 一 一 三 六 ) を 派 祖 と す る 虎 丘 派 の 諸 派 ( 松 源 派 や 破 庵 派 な ど ) も し だ い に 台 頭 し て い く こ と に な る 。   た だ 、 栄 西 が 在 宋 中 に 黄 龍 派 の 臨 済 宗 を 嗣 承 相 続 し 得 た の は 偶 然 で は な く 、 当 時 、 黄 龍 派 は す で に 北 宋 末 期 の 頃 の よ う な 隆 盛 ぶ り は 薄 れ て 衰 退 の 一 途 を 辿 っ て い た も の の 、 台 州 ( 浙 江 省 ) 天 台 県 の 天 台 山 中 の 平 田 万 年 報 恩 光 孝 禅 寺 と 明 州 鄞 県 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 と い う 二 大 寺 院 を 拠 点 と し て 辛 う じ て 展 開 し 、 宗 勢 を 維 持 し て い た の で あ り 、 栄 西 が 天 台 山 に 上 っ て 万 年 寺 を 訪 れ た こ と が 黄 龍 派 の 日 本 へ の 伝 来 を 可 能 な ら し め た 因 由 で あ っ た と い え る 。

  で は 、 そ も そ も 栄 西 は い つ の 時 点 か ら 入 宋 渡 航 に 対 す る 志 し を 持 つ よ う に な っ た の で あ ろ う か 。 こ の 点 に つ い て 、 栄 西 は 自

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七七 ら 『 栄 西 入 唐 縁 起 』 に お い て 、 十 三 歳 始 登 レ 山 、 座 主 治 山 之 時 也 。 其 後 山 門 与 二 備 中 一 往 復 、 学 二 円 宗 之 法 一。 雖 レ 未 レ 及 二 勤 学 一、 道 交 友 必 有 二 名 誉 一。 然 予 見 二 世 上 幻 法 一、 厭 心 日 増 、 即 廿 一 離 レ 山 、 志 在 二 于 渡 海 一。 中 頃 成 尋 阿 闍 梨 三 河 入 道 以 後 、 入 唐 之 僧 所 レ 絶 也 。 毎 レ 人 雖 レ 語 二 此 事 一、 還 嘲 弄 。 予 意 不 レ 倒 、 見 二 真 言 聖 教 一、 於 二 前 仏 垂 跡 之 地 、 故 仙 遊 行 之 処 一 祈 レ 之 。 宿 願 無 レ 不 二 畢 果 一。 尋 二 処 々 霊 窟 一、 伯 耆 大 山 契 二 此 儀 一。 一 夏 百 日 爰 修 練 、 得 二 唐 本 小 字 経 一。 然 自 知 、 渡 海 之 伴 先 立 来 。 行 年 廿 七 歳 也 。 と 述 べ て お り 、 応 保 元 年 ( 永 暦 二 年 、 一 一 六 一 ) に す で に 二 一 歳 で 比 叡 山 を 離 れ る 際 に は 渡 海 の 志 し が 存 し た こ と を 自 ら 書 き 残 し て い る 。 そ れ が 具 体 的 に 如 何 な る 動 機 に 基 づ い て い た の か は 明 確 で は な い が 、 わ ず か に 「 予 、 世 上 の 幻 法 な る を 見 て 、 厭 う 心 は 日 に 増 し 、 即 ち 廿 一 に し て 山 を 離 れ 、 志 は 渡 海 に 在 り 」 と 語 っ て い る か ら 、 世 法 の 無 常 な る こ と を 痛 感 し 、 こ れ を 厭 う 心 が 日 増 し に 募 っ て 比 叡 山 を 下 り 、 志 し が 渡 海 へ と 向 け ら れ て い っ た と さ れ る 。 し か も 一 世 紀 前 に 活 動 し た 成 尋 ( 三 河 入 道 、 善 慧 大 師 、 一 〇 一 一 ─ 一 〇 八 一 ) の 入 宋 渡 航 が か な り 栄 西 に 大 き な 影 響 を 与 え た も の の よ う で あ る か ら 、 あ る い は 成 尋 が 撰 し た 『 参 天 台 五 臺 山 記 』 な ど を 実 際 に 栄 西 は 閲 覧 し て 啓 発 さ れ た も の で あ ろ う か 。 当 時 、 人 々 に 入 宋 渡 航 の 志 し を 告 げ て も 、 無 謀 な こ と と 嘲 笑 さ れ る ば か り で あ っ た ら し い が 、 栄 西 の 志 し は 挫 け る こ と が な か っ た と 述 懐 し て い る )(( ( 。   栄 西 が 入 宋 す る に 至 る 過 程 に つ い て は 「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 に お い て も 、 年 十 一 、 出 二 家 延 暦 寺 一、 薙 髪 染 衣 、 初 学 二 倶 舎 娑 婆 論 一。 十 三 受 二 大 戒 一、 習 二 天 台 教 観 一。 掩 レ 関 八 年 、 以 為 レ 未 レ 至 、 誓 下 往 二 西 域 一 求 上 レ 。 と 記 さ れ て お り 、 栄 西 は 一 一 歳 で 延 暦 寺 に 投 じ て 剃 髪 得 度 し た と さ れ る も の の 、 一 三 歳 で 比 叡 山 戒 壇 で 受 戒 し て お り 、 こ の 間 、 初 め に 『 倶 舎 論 』『 大 毘 婆 沙 論 』 を 学 び 、 さ ら に 天 台 の 教 観 を 習 得 し た と さ れ る 。 し か も 一 三 歳 か ら 八 年 間 に わ た っ て 山 内 に 籠 っ て 関 を 閉 ざ し て 勉 学 に 努 め た も の ら し く 、 い ま だ 究 め 尽 く せ ず と し て 西 域 に 往 っ て 道 を 求 め る と い う 誓 願 を 立 て た と 伝 え ら れ る 。 こ こ に い う 西 域 が 中 央 ア ジ ア か ら イ ン ド ( 天 竺 ) と い う い わ ゆ る 西 域 の 地 を 指 し て い る の か 、 単 に 日 本 か ら 西 方 の 中 国 ( 南 宋 ) の 地 と い っ た 意 味 で 用 い て い る の か が 明 確 で な く 、 ま た 第 一 次 と 第 二 次 と い う 二 度 の 入 宋 の 目 的 を 合 わ せ て 表 記 し て い る と も 解 せ ら れ よ う 。 少 な く と も 『 栄 西 入 唐 縁 起 』 や 「 日 本 国 千 光 法 師 祠 堂 記 」 を 通 し て 、 栄 西 が か な り 若 い 頃 よ り 日 本 か ら 見 て 西 方 に 位 置 す る 中 国 や イ ン ド に 並 々 な ら ぬ 関 心 を 寄 せ て い た 事 実 が 偲 ば れ る 。   ま た 『 栄 西 入 唐 縁 起 』 に よ れ ば 、 つ づ い て 栄 西 は 入 宋 直 前 の 動 静 に つ い て 、

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七八 其 年 冬 十 二 月 三 日 、 辞 二 父 母 一 赴 二 鎮 西 一、 詣 二 宇 佐 宮 一。 七 日 遇 二 元 三 一、 詣 二 肥 後 阿 素 岳 一。 此 処 是 八 大 龍 王 所 居 也 。 二 七 日 修 練 、 祈 二 渡 海 無 一レ 難 、 一 々 得 二 勝 利 一。 二 月 八 日 、 達 二 博 多 唐 房 一、 未 レ 庸 レ 舩 。 解 レ 纜 之 前 、 安 楽 寺 ・ 天 神 ・ 竃 門 ・ 法 満 ・ 筥 崎 ・ 香 稚 ・ 住 吉 、 如 レ 是 霊 社 、 無 レ 不 二 経 歴 一、 一 々 得 二 度 海 之 感 応 一。 と 書 き 残 し て い る 。 栄 西 は 入 宋 す る 前 年 に 当 た る 仁 安 二 年 ( 一 一 六 七 ) 一 二 月 三 日 に 備 中 ( 岡 山 県 ) 吉 備 津 宮 の 父 母 の も と を 辞 し て 鎮 西 ( 九 州 ) へ と 赴 き 、 豊 後 ( 大 分 県 ) の 宇 佐 八 幡 宮 に 詣 で 、 さ ら に 肥 後 ( 熊 本 県 ) の 阿 蘇 山 ( 阿 素 岳 ) に 詣 で て 一 四 日 間 に わ た り 渡 海 の 無 事 を 八 大 龍 王 に 祈 願 し て い る こ と が 知 ら れ る 。 そ の 後 、 仁 安 三 年 ( 一 一 六 八 ) 二 月 八 日 に 筑 前 ( 福 岡 県 ) 博 多 津 の 唐 房 に 到 着 し た 栄 西 は 、 し ば ら く 商 船 の 出 港 の 都 合 を 待 っ て か こ の 地 に 滞 在 し て い る 。 こ の 間 、 栄 西 は 大 宰 府 を 中 心 に 筑 前 の 安 楽 寺 ・ 北 野 天 満 宮 ・ 筥 崎 宮 ・ 香 椎 宮 な ど の 神 社 ・ 仏 閣 に 詣 で て 航 海 の 無 事 を 一 々 に 祈 願 し て お り 、 入 宋 渡 航 に 対 し て 並 々 な ら ぬ 覚 悟 の ほ ど が 存 し た 事 実 を 窺 う こ と が で き る 。   一 方 、 栄 西 は 『 興 禅 護 国 論 』 巻 中 「 第 五 宗 派 血 脈 門 」 に お い て も 、 予 、 日 本 仁 安 三 年 戊 子 春 、 有 二 渡 海 之 志 一、 到 二 鎮 西 博 多 津 一。 二 月 、 遇 二 両 朝 通 事 李 徳 昭 一、 聞 レ 伝 下 言 有 二 禅 宗 一 弘 中 宋 朝 上、 云 云 。 と 述 べ て お り 、 仁 安 三 年 の 春 二 月 以 前 に 渡 海 の 志 し を も っ て 鎮 西 の 博 多 津 に 到 っ た こ と を 伝 え て い る 。 そ の 中 で も 禅 宗 と の 関 わ り で ひ と き わ 注 目 を 引 く 内 容 と し て 、 二 月 、 両 朝 通 事 の 李 徳 昭 に 遇 う に 、「 禅 宗 有 り て 宋 朝 に 弘 ま る 」 と 伝 え 言 う を 聞 く 、 と 云 云 。 と い う 記 事 が 存 し て い る 。 二 月 に 栄 西 は 博 多 津 に て 日 宋 両 国 の 通 事 ( 通 訳 ) で あ っ た 李 徳 昭 と い う 人 物 と 出 会 う 機 会 を 得 )(( ( 、 こ の 人 か ら 宋 朝 で 禅 宗 が 広 く 流 布 し て い る 事 実 を 伝 え 聞 い て い る 。 李 徳 昭 と の 出 会 い は 、 天 台 宗 の 教 僧 と し て 入 宋 渡 航 を 決 行 せ ん と し て い た 栄 西 に と っ て 、 宋 国 に 隆 盛 す る 禅 宗 の 存 在 が よ り 身 近 に 真 実 味 を も っ て 脳 裏 に 刻 ま れ た 記 念 す べ き で き ご と で あ っ た と い っ て よ い だ ろ う 。   ち な み に 『 興 禅 護 国 論 』 巻 下 「 第 九 大 国 説 話 門 」 に は 、 こ れ と は 別 に や は り 両 朝 通 事 の 李 徳 昭 と の 関 わ り と し て 、 謂 語 二 西 天 中 華 見 行 之 法 式 一、 而 欲 レ 令 三 信 行 人 入 二 仏 法 大 海 之 中 一 矣 。 西 天 事 伝 言 有 レ 四 。 一 、 昔 鎮 西 筑 前 州 博 多 津 、 両 朝 通 事 李 徳 昭 、 八 十 歳 之 時 語 曰 、 余 昔 二 十 有 餘 歳 、 於 二 東 京 一 見 二 梵 僧 一、 下 著 二 単 裙 一、 上 披 二 袈 裟 一、 冬 苦 寒 而 不 レ 著 二 餘 衣 一。 明 春 帰 二 西 土 一 曰 、 若 在 レ 此 犯 二 仏 制 一 矣 。〈 宋 乾 道 四 年 、 日 本 仁 安 三 年 戊 子 〉。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 七九 と い う 記 事 も 存 し て お り 、 李 徳 昭 そ の 人 の 事 跡 に つ い て 簡 略 な 記 載 が 残 さ れ て い る 。 仁 安 三 年 ( 南 宋 の 乾 道 四 年 ) の 当 時 、 ち ょ う ど 李 徳 昭 は 八 〇 歳 と い う 高 齢 に 達 し て い た と さ れ る か ら 、 逆 算 す る と こ の 人 は 日 本 の 寛 治 三 年 ( 北 宋 の 元 祐 四 年 、 一 〇 八 九 ) に 出 生 し て い る こ と が 判 明 す る 。 年 齢 的 に 李 徳 昭 は ま さ に 楊 岐 派 ( 大 慧 派 祖 ) の 大 慧 宗 杲 と 同 じ 年 の 生 ま れ で あ っ た こ と に な り 、 当 時 、 博 多 の 地 で 古 老 と し て 重 き を な し て い た 人 物 で あ ろ う 。 し か も 李 徳 昭 は 二 〇 歳 代 の 青 年 期 に 実 際 に 北 宋 の 都 で あ っ た 東 京 す な わ ち 汴 京 ( 河 南 省 ) 開 封 府 に 赴 い た 経 験 が 存 し た こ と が 知 ら れ る 。 李 徳 昭 は 開 封 府 で イ ン ド 僧 ( 梵 僧 ) が 下 半 身 に 単 裙 ( ス カ ー ト の 類 い ) を 纏 い 、 そ の 上 に 袈 裟 を 掛 け た の み の 姿 で 過 ご し 、 真 冬 の 苦 寒 の 中 で も 戒 律 ( 仏 制 ) を 守 っ て か 餘 衣 を 着 せ ず に 我 慢 し 、 翌 年 の 春 に 西 土 す な わ ち 西 方 へ と 帰 っ て し ま っ た 一 部 始 終 を 目 の 当 た り に し た こ と を 、 五 〇 余 年 の 歳 月 を 経 て 二 八 歳 の 栄 西 に 語 っ た と さ れ る 。 こ の 記 事 は 栄 西 が 宋 の 国 の み で な く 、 遥 か 西 方 の イ ン ド ( 天 竺 ) に 対 し て も よ り 身 近 な 存 在 に 感 じ た 機 縁 と し て き わ め て 興 味 深 い も の が あ ろ う 。 あ る い は こ の こ と が 後 に 栄 西 が 第 二 次 入 宋 を な し た 際 に 渡 天 計 画 を 実 行 せ ん と し た 一 連 の 行 動 を 起 こ す 伏 線 と も な っ て い る の で は な か ろ う か 。   ま た 李 徳 昭 は 老 境 に 至 る ま で 日 宋 両 国 の 通 事 と し て そ の 後 も 日 本 と 北 宋 の 地 、 さ ら に 後 に は 日 本 と 南 宋 の 地 と を 頻 繁 に 往 来 し て い た と 見 て よ く 、 入 宋 を 目 前 に し た 栄 西 に 対 し 、 ほ か に も 宋 国 の 情 報 に つ い て 多 く の 助 言 を 与 え た も の と 推 測 さ れ る )(( ( 。 博 多 で こ の よ う な 古 老 の 李 徳 昭 と 知 遇 を 得 た こ と に よ り 、 栄 西 は 入 宋 渡 航 と 宋 国 で の 新 た な 活 動 に 関 し て 他 に 換 え 得 ぬ 貴 重 な 事 前 情 報 を 収 集 し た こ と に な ろ う 。   ち な み に 栄 西 が 入 宋 す る 直 前 の 中 国 側 の 記 事 と し て 、『 仏 祖 統 紀 』 巻 四 八 「 法 運 通 塞 志 」 の 「 孝 宗 」 の 「 乾 道 三 年 」 の 箇 所 に 、 日 本 遣 レ 使 致 二 書 四 明 郡 庭 一、 問 二 仏 法 大 意 一、 乞 集 二 名 僧 一 対 レ 使 発 レ 凾 読 レ 之 。 郡 将 大 集 、 緇 衣 皆 畏 縮 、 莫 二 敢 応 一レ 。 棲 心 維 那 、 忻 然 而 出 、 日 本 之 書 与 二 中 国 一 同 文 、 何 足 レ 為 レ 疑 。 即 揖 二 大 守 一 褫 レ 封 疾 読 、 以 レ 爪 掐 二 其 紙 七 処 一。 読 畢 語 二 使 人 一 曰 、 日 本 雖 レ 欲 レ 学 レ 文 、 不 レ 無 二 疎 繆 一。 逐 一 一 為 レ 析 レ 之 。 使 慚 懼 而 退 。 守 踊 躍 大 喜 曰 、 天 下 維 那 也 。 と い う 記 載 が 存 し て い る 。 こ れ は 栄 西 が 入 宋 す る 前 年 に 当 た る 乾 道 三 年 ( 日 本 の 仁 安 二 年 ) に 日 本 か ら 使 者 が 四 明 ( 明 州 ) の 地 に 到 り 、 書 簡 を 四 明 郡 庭 ( 明 州 府 城 の こ と か ) に 致 し て 「 仏 法 の 大 意 」 を 名 僧 に 問 う こ と を 求 め て い る 。 郡 庭 で は こ れ に 答 え 得 る 僧 を 明 州 地 内 の 寺 々 か ら 募 っ た も の の よ う で あ る が 、 誰 も が 畏 れ を な し て 命 に 応 じ よ う と し な か っ た と 記 さ れ て い る 。 こ の と き 明 州 鄞 県 東 五 里 の 棲 心 崇 寿 禅 寺 ( 後 世 の 七 塔 寺 ) の 維 那 が 名 乗 り を 上 げ )(( ( 、 こ れ に 応 じ て 日 本 か ら の 書 簡 を 丹 念 に 読 ん で 七

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八〇 カ 所 の 疎 繆 を 爪 で 逐 一 に 指 摘 し た た め 、 日 本 の 使 い は 慚 じ 畏 れ い っ て 退 い た と さ れ る 。 こ の た め 棲 心 寺 の 維 那 は 「 天 下 の 維 那 」 と 郡 守 ( 明 州 府 主 ) か ら 称 え ら れ た と 伝 え ら れ る が 、 残 念 な が ら そ の 維 那 の 法 諱 や 後 の 動 向 な ど は 明 記 さ れ て い な い 。   こ の と き 日 本 か ら か ら 到 っ た 使 者 が 具 体 的 に 何 れ の 寺 院 か ら 来 た 僧 で あ っ た の か も 明 確 に 記 さ れ て い な い が 、 お そ ら く 状 況 的 に は 比 叡 山 や 南 都 ( 奈 良 ) の 寺 院 か ら 派 遣 さ れ た 僧 で あ っ た と 見 ら れ る か ら 、 す で に 明 州 と 日 本 仏 教 と の 間 で か な り 具 体 的 な 交 渉 が 開 始 さ れ て い た こ と に な ろ う 。 あ る い は 仁 安 二 年 に 日 本 か ら 入 宋 し た 使 僧 と は 、 時 期 的 に は や が て 栄 西 と 知 り 合 う こ と に な る 俊 乗 房 重 源 そ の 人 で あ っ た 可 能 性 も 否 定 で き な い で あ ろ う 。 も し 、 仮 に こ の 使 僧 が 重 源 そ の 人 で あ っ た と す る と 、 乾 道 三 年 に 南 宋 に 到 っ た 重 源 は 明 州 の 郡 庭 に 書 問 を 呈 し 、 そ の 返 答 を 待 つ べ く 暫 し 明 州 府 城 の 一 角 に 寓 居 し て い た こ と に な り 、 棲 心 寺 の 維 那 が 丹 念 に 問 題 点 を 指 摘 し た の を 受 け 、 そ の 答 え に 愕 然 と し て 失 意 の 中 に あ っ た こ と に な ろ う か 。

  一 方 、 よ う や く 入 宋 の 準 備 が 整 っ た 栄 西 は 二 八 歳 に し て 商 船 に 便 乗 し て 筑 前 の 博 多 津 を 出 航 し 、 東 シ ナ 海 を 越 え る 遠 遊 渡 航 の 旅 を 決 行 し て い る 。 す な わ ち 、『 元 亨 釈 書 』 巻 二 「 釈 栄 西 」 の 章 に は 最 初 の 入 宋 に つ い て 、 仁 安 三 年 夏 四 月 、 乗 二 商 舶 一、 泛 二 瀛 海 一、 著 二 宋 国 明 州 界 一。 乃 孝 宗 乾 道 四 年 也 。 と 伝 え て お り 、『 延 宝 伝 燈 録 』 の 栄 西 章 に お い て も 「 仁 安 三 年 、 乗 二 商 舶 一、 達 二 国 明 州 界 一。 孝 宗 乾 道 四 年 也 」 と 月 日 こ そ 記 さ な い も の の 、 ほ ぼ 同 様 な 内 容 が 伝 え ら れ て い る 。 栄 西 は 仁 安 三 年 ( 一 一 六 八 ) 夏 四 月 に 商 船 に 乗 っ て 大 海 に 航 し 、 四 月 の 内 に 南 宋 の 明 州 ( 浙 江 省 ) の 界 す な わ ち 現 在 の 寧 波 市 の 港 に 到 着 し た こ と が 知 ら れ る 。   日 本 の 仁 安 三 年 は 南 宋 の 乾 道 四 年 に 当 た っ て お り 、 と き の 皇 帝 は 第 二 代 の 孝 宗 ( 趙 、 字 は 元 永 、 一 一 二 七 ─ 一 一 九 四 、 在 位 は 一 一 六 二 ─ 一 一 八 九 ) で あ っ た 。 明 州 の 地 は 東 浙 ( 浙 江 省 東 部 ) の 東 端 に 位 置 し 、 南 宋 代 に は 慶 元 府 と 称 さ れ 、 元 代 に な る と 慶 元 路 、 明 代 以 降 は 寧 波 府 と 改 め ら れ て お り )(( ( 、 古 く よ り 中 国 随 一 の 貿 易 港 と し て 栄 え て き た 地 で あ っ て 、 日 本 や 朝 鮮 半 島 な ど 諸 外 国 か ら 中 国 に 入 る 関 門 と し て 重 要 な 位 置 を 占 め て い た 。 当 時 、 よ う や く 盛 ん と な っ た 日 本 か ら の 入 宋 僧 ら も 明 州 に 到 っ て 僧 侶 の 身 分 を 点 検 さ れ 、 そ の 後 に 国 内 各 地 に 赴 く こ と が で き た の で あ る 。   こ れ に 対 し て 、 栄 西 は 『 栄 西 入 唐 縁 起 』 に お い て 入 宋 渡 航 の 経 緯 に つ い て 「 即 四 月 三 日 解 レ 纜 、 同 十 八 日 放 洋 。 廿 四 日 、 就 二

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八一 明 州 之 津 一 」 と か な り 具 体 的 な 記 載 を 残 し て い る 。『 栄 西 入 唐 縁 起 』 に よ れ ば 、 栄 西 が 筑 前 博 多 津 か ら 纜 を 解 い て 出 航 し た の が 四 月 三 日 で あ っ た こ と が 判 明 し 、 四 月 一 八 日 に は 大 海 に 繰 り 出 し て 洋 上 す な わ ち 東 シ ナ 海 を 漂 っ た 後 に 明 州 の 沿 岸 に 到 り 、 四 月 二 四 日 に よ う や く 商 船 が 明 州 の 津 ( 慶 元 府 港 ) に 着 岸 し て い る こ と が 知 ら れ る 。 こ の 点 に つ い て は 『 興 禅 護 国 論 』 巻 中 「 第 五 宗 派 血 脈 門 」 に お い て 「 四 月 、 渡 レ 到 二 大 宋 明 州 一 と 記 し て い る か ら 、 栄 西 が 四 月 に 博 多 を 離 れ て 海 を 航 し 、 そ の 月 の 内 に 明 州 に 到 っ た こ と が 確 認 さ れ る 。 ま た 『 黄 龍 十 世 録 』 の 栄 西 章 に お い て も 「 仁 安 三 年 夏 四 月 、 乗 二 商 舶 一、 着 二 国 明 州 一。 乃 孝 宗 乾 道 四 年 也 」 と 記 さ れ て お り 、 栄 西 が 仁 安 三 年 四 月 に 明 州 に 着 い た こ と は 広 く 知 ら れ た 事 実 で あ っ た と い え よ う )(( ( 。   と こ ろ が 、「 洛 陽 東 山 建 仁 禅 寺 開 山 始 祖 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 ( 以 下 、 単 に 「 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 と 略 す ) に よ れ ば 「 年 二 十 八 、 夏 五 月 、 乗 二 舶 一、 到 二 州 一 と あ り 、 栄 西 が 入 宋 し た の を 四 月 で は な く 、 五 月 に 商 船 に 乗 っ て 明 州 に 到 っ た と 記 し て お り 、 そ こ に 一 ヶ 月 の 誤 差 が 生 じ て い る 。 な ぜ 「 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 が 栄 西 の 入 宋 を 一 ヶ 月 遅 ら せ て 五 月 と 記 し て い る の か は 定 か で な い が 、 い ま は 『 興 禅 護 国 論 』『 栄 西 入 唐 縁 起 』 お よ び 『 元 亨 釈 書 』 な ど に 記 さ れ た 内 容 の 方 を 是 と し 、 栄 西 が 明 州 に 到 っ た の は 四 月 で あ っ た と す る の が 正 し い で あ ろ う 。 た だ し 、 明 州 の 津 に 着 い た の が 四 月 二 四 日 で あ っ て も 、 明 州 に お け る 栄 西 の 実 質 的 な 活 動 が 五 月 に 至 っ て な さ れ た も の と 見 ら れ る こ と か ら 、 そ れ ら を 勘 案 考 慮 し て 「 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 」 は あ え て 四 月 で は な く 五 月 と 表 現 し て い る の か も 知 れ な い 。   い ま 一 つ 注 目 さ れ る の は 『 随 願 寺 文 書 』 所 収 の 「 播 磨 国 増 位 寺 集 記 」 (「 播 州 増 井 山 随 願 寺 集 記 」 と も ) に 、 長 吏 記 曰 、 長 吏 二 十 代 唯 雅 阿 闍 梨 者 、 大 原 良 忍 之 徒 、 而 俗 姓 未 レ 詳 。 知 能 達 二 顕 密 之 旨 一、 閲 二 大 蔵 経 一 数 遍 、 傍 精 二 儒 書 一 之 沙 門 也 。 長 寛 二 年 、 為 二 金 剛 院 住 侶 一。 仁 安 三 年 、 与 二 明 庵 一 共 入 宋 。 嘉 応 二 年 帰 朝 、 梵 本 法 華 経 請 来 。 文 治 元 年 、 賜 二 院 宣 一、 勤 二 三 会 之 講 師 一、 任 二 僧 都 一。 文 治 四 年 、 撰 二 法 華 密 義 抄 二 十 巻 一。 建 久 元 年 、 辞 二 長 吏 職 一、 昼 夜 不 レ 臥 、 而 常 入 二 阿 字 観 一。 建 久 三 年 五 月 二 日 、 入 二 禅 定 一 而 寂 。 在 レ 職 十 二 年 。 と い う 記 事 が 存 し て い る こ と で あ ろ う 。 そ の 内 容 は 播 磨 ( 兵 庫 県 ) す な わ ち 現 今 の 姫 路 市 白 国 に 存 す る 天 台 宗 の 増 位 山 医 王 院 随 願 寺 の 第 二 〇 代 長 吏 と な っ た 唯 雅 ( ? ─ 一 一 九 二 ) の 事 跡 を 記 し た も の で あ る )(( ( 。 唯 雅 は 俗 姓 も 定 か で な く 生 ま れ た 年 も 伝 え ら れ て い な い が 、 融 通 念 仏 宗 の 光 静 房 良 忍 ( 聖 応 大 師 、 一 〇 七 二 ─ 一 一 三 二 ) の 門 人 で あ っ た と さ れ る 。 問 題 は 唯 雅 が 仁 安 三 年 に 明 庵 す な わ ち 栄 西 と と も に 入 宋 し た と 伝 え ら れ る こ と で あ っ て 、 こ れ が 史 実 と す れ ば 、 唯 雅 は 良 忍 と の 関 係 か ら し て も か な

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八二 り の 年 齢 で 入 宋 し た こ と に な り 、 し か も 「 明 庵 と 共 に 入 宋 す 」 と あ る か ら 、 栄 西 と 同 じ 船 で 入 宋 渡 航 し て い る わ け で あ る 。 た だ し 、 唯 雅 は 三 年 間 に わ た っ て 在 宋 し 、 嘉 応 二 年 ( 南 宋 の 乾 道 六 年 、 一 一 七 〇 ) に 帰 国 す る 際 、 梵 本 『 法 華 経 』 を 南 宋 か ら 請 来 し た と さ れ る 。 お そ ら く 入 宋 し た 当 初 は 栄 西 と 行 動 を と も に す る こ と が 存 し た か も 知 れ な い が 、 や が て 栄 西 と は 別 行 動 を 取 っ た も の と 見 ら れ 、 栄 西 の 帰 国 に 際 し て も 同 行 す る こ と は な か っ た わ け で あ る 。   栄 西 と 同 時 に 入 宋 し た 日 本 僧 と し て 唯 雅 が 存 し て い る こ と か ら 、 栄 西 が 単 独 で 入 宋 し た の で は な く 、 何 人 か の 同 輩 と と も に 商 船 の 都 合 を 待 っ て 南 宋 へ と 渡 っ た ら し い 事 情 が 窺 わ れ る 。 唯 雅 が 何 を 目 的 と し て 入 宋 し た の か は 明 確 で な い が 、 梵 字 で 書 か れ た 『 法 華 経 』 写 本 を 日 本 に 持 ち 帰 っ て い る こ と か ら 、 南 宋 の 地 か ら 写 本 や 刊 本 を 日 本 に 将 来 す る の を 目 的 と し て 航 海 し て い る こ と に な ろ う 。   ち な み に 播 磨 の 増 井 山 随 願 寺 で は 仁 安 三 年 ( 一 一 六 八 ) に 平 清 盛 ( 六 波 羅 入 道 、 法 名 は 静 海 、 一 一 一 八 ─ 一 一 八 一 ) が 金 堂 な ど を 造 改 築 し て お り 、 そ の 頃 に 唯 雅 が 入 宋 し て い る こ と か ら 、 あ る い は 唯 雅 は 平 清 盛 の 依 託 を 受 け て 入 宋 し て い る の か も 知 れ な い 。 唯 雅 は 文 治 元 年 ( 一 一 八 五 ) に 院 宣 に よ っ て 三 会 の 講 師 を 勤 め て 僧 都 に 任 ぜ ら れ 、 文 治 四 年 ( 一 一 八 八 ) に は 『 法 華 密 義 抄 』 二 〇 巻 を 撰 し た と さ れ る 。 建 久 元 年 ( 一 一 九 〇 ) に 長 吏 の 職 を 辞 し て 昼 夜 に 横 に 臥 せ ず 、 常 に 阿 字 観 を 修 し て 建 久 三 年 ( 一 一 九 二 ) 五 月 二 日 に 坐 脱 し た と 伝 え ら れ る 。

  で は 、 乾 道 四 年 四 月 に 明 州 府 港 に 着 岸 し た 直 後 、 栄 西 は 具 体 的 に 如 何 な る 行 動 を 取 っ た の で あ ろ う か 。『 興 禅 護 国 論 』 巻 中 「 第 五 宗 派 血 脈 門 」 に は 、 四 月 、 渡 レ 海 到 二 大 宋 明 州 一。 初 見 二 広 慧 寺 知 客 禅 師 一、 問 曰 、 我 国 祖 師 伝 レ 禅 帰 朝 、 其 宗 今 遺 缺 、 予 懐 レ 興 レ 廃 故 到 レ 此 、 願 開 二 示 法 旨 一。 其 禅 宗 祖 師 達 磨 大 師 伝 法 偈 如 何 。 知 客 答 曰 、 達 磨 大 師 伝 法 偈 曰 、 云 云 。 又 問 曰 、 我 日 本 国 有 二 達 磨 大 師 知 死 期 偈 一、 真 偽 如 何 。 知 客 答 曰 、 所 レ 喩 之 法 、 乃 小 根 魔 子 妄 撰 二 其 語 一 也 。 夫 死 生 之 道 、 在 二 吾 宗 一 本 以 二 去 来 生 死 平 等 一、 初 無 二 生 滅 之 理 一。 若 謂 レ 知 二 其 死 期 一、 是 欺 二 吾 祖 之 道 一、 非 二 小 害 一 乎 。 久 聞 、 日 本 国 仏 法 流 通 。 幸 逢 二 吾 師 一、 須 レ 奉 二 筆 語 一。 然 人 有 二 華 夷 之 異 一、 而 仏 法 総 是 一 心 。 一 心 纔 悟 、 唯 是 一 門 。 金 剛 経 所 レ 謂 、 応 無 レ 所 レ 住 而 生 二 其 心 一 也 。 欲 レ 知 二 源 流 一、 請 垂 二 訪 及 一。 当 二 一 一 相 聞 一、 広 知 二 祖 師 之 道 一、 非 三 小 乗 知 見 所 二 能 測 度 一 也 、 云 云 。 于 レ 時 宋

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八三 乾 道 四 年 戊 子 歳 也 。 と い う 問 答 が 載 せ ら れ て い る 。 明 州 港 に 到 着 し た 直 後 に 当 た る 四 月 中 に 、 栄 西 は 商 船 を 降 り て 明 州 府 城 内 の 寺 々 を 巡 っ た も の ら し く 、 お そ ら く そ の 一 環 と し て 広 慧 寺 も 訪 れ て い る の で あ ろ う 。 こ の と き 広 慧 寺 に お い て 応 対 に 当 た っ て く れ た 知 客 と の 間 で 栄 西 は い く つ か の 問 答 を 交 わ し て 居 り 、 そ の い く つ か の や り 取 り を 栄 西 は 『 興 禅 護 国 論 』 に 収 め て い る わ け で あ る 。 知 客 と は 知 賓 と も 称 す る 職 位 で あ り 、 禅 寺 で 来 客 を も て な す 接 待 長 に 当 た り 、 六 頭 首 の 一 と し て 西 班 ( 西 序 ) の 第 五 位 に 列 し て い る 。 当 時 、 明 州 に は 日 本 や 高 麗 な ど 諸 外 国 の 僧 侶 が 来 訪 す る 機 会 が 頻 繁 に な り つ つ あ っ た だ け に 、 府 城 の 主 要 寺 院 に お い て も 知 客 の 職 位 が し だ い に 重 要 度 を 増 し て い た こ と と 思 わ れ る 。   一 方 、『 元 亨 釈 書 』 の 栄 西 章 に お い て も 、 広 慧 寺 の 知 客 と の 問 答 と し て 、 初 戊 子 之 行 、 明 州 広 慧 寺 知 賓 之 者 問 曰 、 子 之 国 有 レ 禅 乎 。 対 曰 、 我 邦 台 教 始 祖 伝 教 大 師 、 伝 二 三 宗 一 而 帰 。 方 今 台 密 正 熾 、 禅 滅 者 久 矣 。 西 承 レ 乏 之 者 也 。 恨 二 祖 意 之 不 一レ 矣 。 故 航 レ 海 来 、 欲 レ 補 二 禅 門 之 缺 一。 不 レ 知 得 麼 。 知 客 又 英 衲 也 、 頗 多 二 発 益 一。 と い う 記 事 が 載 せ ら れ て お り 、 こ の 記 事 は 後 代 の 『 延 宝 伝 燈 録 』 に お い て も 、 偶 会 二 広 慧 寺 知 客 一、 問 曰 、 日 国 有 レ 禅 麼 。 師 曰 、 我 邦 台 教 始 祖 伝 教 大 師 、 伝 二 台 密 禅 一 而 帰 。 今 台 密 鼎 盛 、 禅 滅 久 矣 。 我 今 航 レ 海 、 将 レ 補 二 闕 典 一。 不 レ 知 得 否 。 知 客 曰 、 子 欲 レ 得 二 祖 師 禅 一、 抛 二 下 従 前 知 見 一、 発 二 大 機 用 一。 精 砺 積 レ 年 、 自 然 有 二 契 当 分 一。 と 継 承 さ れ て お り 、 同 じ く 『 本 朝 高 僧 伝 』 に お い て も 、 会 二 遇 広 慧 寺 知 賓 之 僧 一、 与 レ 之 相 語 。 問 曰 、 日 本 有 レ 禅 乎 。 西 曰 、 我 邦 台 宗 始 祖 伝 教 大 師 、 延 暦 末 年 入 レ 唐 、 伝 二 台 密 禅 三 宗 一。 今 台 密 鼎 盛 、 禅 滅 久 矣 。 故 航 レ 海 来 、 不 レ 知 得 否 。 知 賓 曰 、 子 欲 レ 究 二 祖 師 禅 一、 抛 二 下 従 前 知 見 一、 発 二 得 大 機 一。 精 砺 積 レ 年 、 自 然 有 二 契 当 分 一。 西 聴 而 心 服 。 と 記 さ れ て い る 。 字 句 の 内 容 こ そ 若 干 な が ら 相 違 す る も の の 、 や は り 『 元 亨 釈 書 』 を 受 け る か た ち で 栄 西 が 広 慧 寺 の 知 賓 ( 知 客 ) と 問 答 し た こ と を 伝 え て い る 。 こ れ ら の 記 事 の 状 況 か ら す る と 、 明 州 に 着 い た 栄 西 は し ば ら く の 間 は 明 州 府 城 に 留 ま っ て 近 隣 の 寺 院 を 参 観 散 策 す る こ と に 努 め て い た も の ら し い 。 お そ ら く 南 宋 へ の 入 国 に 際 し て 度 牒 ( 得 度 証 明 書 ) や 戒 牒 ( 受 戒 証 明 書 ) を 提 出 し て 日 本 か ら の 入 宋 僧 で あ る こ と を 検 閲 さ れ 、 身 分 が 保 証 さ れ て 許 可 が 下 り る ま で の 期 間 を 明 州 城 内 に 在 っ て 待 機 し て い た の か も 知 れ な い 。   と こ ろ で 、 こ の と き 栄 西 が 訪 れ た と さ れ る 広 慧 寺 と は 、 明 州 府 城 東 南 一 里 に 存 し た 禅 寺 の こ と で あ り )(( ( 、『 宝 慶 四 明 志 』 巻 一

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八四 一 「 郡 志 」 の 「 寺 院 〈 禅 院 〉」 に 、 万 寿 院 、 子 城 東 南 一 里 。 在 レ 唐 為 二 慧 燈 院 一。 咸 通 十 三 年 、 史 君 周 景 、 捨 二 廨 宇 一 以 建 、 仍 捨 レ 田 以 充 二 常 住 一。 聞 諸 朝 而 賜 レ 額 。 皇 朝 開 宝 八 年 重 建 、 太 平 興 国 七 年 、 改 二 崇 寿 一。 政 和 八 年 四 月 、 改 二 広 慧 一、 専 充 二 啓 建 祝 聖 道 場 一。 建 炎 四 年 、 火 二 于 兵 一 重 建 。 嘉 定 十 三 年 、 再 火 又 重 建 。 或 謂 、 慧 字 従 レ 彗 従 レ 心 、 于 レ 星 皆 火 讖 、 也 為 二 寺 額 一 不 レ 利 。 郡 為 聞 二 于 朝 一。 紹 定 元 年 正 月 十 三 日 、 有 レ 旨 賜 二 今 額 一。 是 日 、 東 南 廂 火 、 環 レ 寺 皆 延 燎 、 而 寺 独 存 。 人 咸 異 レ 之 。 本 寺 常 住 田 一 千 四 百 五 畝 、 山 一 百 一 十 畝 。 と 記 さ れ て お り 、 当 時 、 明 州 府 城 の 主 要 な 禅 院 の 一 つ で あ っ た 広 慧 禅 院 ( 広 慧 禅 寺 ) す な わ ち 後 世 の 万 寿 禅 院 ( 万 寿 禅 寺 ) の 変 遷 が 知 ら れ る 。 唐 の 咸 通 一 三 年 ( 八 七 二 ) に 史 君 の 周 景 が 廨 宇 ( 役 所 ) を 寺 に 改 め て 慧 燈 院 を 建 て 、 常 住 田 を 喜 捨 し た の に 始 ま る 。 北 宋 代 に 重 建 さ れ て 崇 寿 院 と 称 さ れ 、 さ ら に 広 慧 院 な い し 清 凉 広 慧 禅 寺 と 改 め ら れ て 啓 建 祝 聖 道 場 に 充 て ら れ て い る 。 建 炎 四 年 ( 一 一 三 〇 ) に 兵 火 に 焼 け た 伽 藍 が 重 建 さ れ て お り 、 嘉 定 一 三 年 ( 一 二 二 〇 ) に も 再 び 火 災 に 見 舞 わ れ て い る 。 そ の 後 、 紹 定 元 年 ( 一 二 二 八 ) に 至 っ て 「 慧 」 の 字 が 火 に 因 む こ と か ら 、 火 難 を 避 け る べ く 万 寿 院 ( 万 寿 寺 ) と 改 め ら れ て い る 。 し た が っ て 、 栄 西 が 到 っ た 当 時 は 明 確 に 清 凉 広 慧 寺 と い う 名 称 が 通 用 し て い た の で あ り 、 栄 西 自 身 が 「 広 慧 寺 」 と 表 記 し て い る の は 歴 史 的 に も 正 し い こ と に な ろ う 。   栄 西 が 日 本 か ら 到 っ た 頃 、 広 慧 寺 に 住 持 し て い た 禅 者 と し て は 、 曹 洞 宗 の 宏 智 正 覚 の 高 弟 で あ っ た 広 慧 法 聡 が 住 持 と し て 活 動 し て い た 事 実 が 知 ら れ 、 同 じ く 曹 洞 宗 真 歇 派 の 足 庵 智 鑑 ( 一 一 〇 五 ─ 一 一 九 二 ) や 臨 済 宗 黄 龍 派 の 慈 航 了 朴 な ど も こ の 寺 に 住 持 し て い る )(( ( 。 了 朴 は 曹 洞 宗 の 宏 智 正 覚 の 後 を 受 け て 第 二 〇 世 と し て 天 童 山 の 興 隆 に 尽 力 し た 人 と し て 名 高 く 、 栄 西 が 第 一 次 の 入 宋 を な し た 頃 に は す で に 天 童 山 の 住 持 と し て 活 躍 し て い る が 、 栄 西 と 直 接 の 交 流 は 存 し て い な い よ う で あ る 。 一 方 、 智 鑑 は 曹 洞 宗 の 系 譜 上 で は 日 本 の 道 元 に と っ て 師 翁 に 当 た る 禅 者 で あ り 、『 攻 媿 集 』 巻 一 一 〇 「 雪 竇 足 菴 禅 師 塔 銘 」 に よ れ ば 、 乾 道 八 年 ( 一 一 七 二 ) か ら 淳 煕 四 年 ( 一 一 七 七 ) ま で 広 慧 寺 に 住 持 し て お り 、 後 に 明 州 奉 化 県 の 雪 竇 山 資 聖 禅 寺 に 住 持 し た こ と で 名 高 い 。 了 朴 が 退 住 し て 後 、 智 鑑 が 入 寺 す る ま で の 間 に 広 慧 寺 に 住 持 し て い た と 見 ら れ る の が 宏 智 門 下 の 広 慧 法 聡 で あ り 、 栄 西 が 到 っ た 頃 に 相 当 す る も の と 推 測 さ れ る )(( ( 。 さ ら に 嘉 定 年 間 ( 一 二 〇 八 ─ 一 二 二 四 ) に 至 る と 、 虎 丘 派 ( 破 庵 派 ) の 無 準 師 範 ( 仏 鑑 禅 師 、 一 一 七 七 ─ 一 二 四 九 ) が 嘉 定 一 三 年 ( 一 二 二 〇 ) 三 月 に 清 凉 広 慧 寺 に 開 堂 出 世 し て お り 、 嘉 定 一 六 年 ( 一 二 二 三 ) 春 ま で 住 持 し て い る か ら 、 明 州 府 城 に お け る 名 刹 の 一 つ と し て 機 能 し て い た こ と が 知 ら れ る 。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八五   で は 、 栄 西 が 明 州 広 慧 寺 の 知 客 と の 間 で 交 わ し た 問 答 と は 果 し て 如 何 な る も の で あ っ た の か 、 問 答 の 具 体 的 な 内 容 に つ い て 考 察 し て み る こ と に し た い 。 は じ め に 『 興 禅 護 国 論 』 に 載 る 両 者 の や り 取 り で あ る が 、 最 初 の 問 答 を 書 き 下 し て み る な ら ば 、 お よ そ つ ぎ の ご と く な ろ う 。 初 め に 広 慧 寺 の 知 客 禅 師 に 見 え 、 問 う て 曰 く 、「 我 が 国 の 祖 師 、 禅 を 伝 え て 帰 朝 す る も 、 其 の 宗 、 今 は 遺 缺 せ り 。 予 、 廃 せ る を 興 さ ん こ と を 懐 う が 故 に 此 に 到 る 。 願 わ く は 法 旨 を 開 示 し た ま え 。 其 の 禅 宗 祖 師 の 達 磨 大 師 の 伝 法 偈 は 如 何 ん 」 と 。 知 客 、 答 え て 曰 く 、「 達 磨 大 師 の 伝 法 偈 に 曰 く 、 云 云 」 と 。   こ の と き 広 慧 寺 に お い て 来 客 の 栄 西 に 応 対 し た 知 客 が 具 体 的 に 如 何 な る 系 統 の 禅 者 で あ っ た の か は 定 か で な く 、 法 諱 や 道 号 の 類 い も 何 ら 伝 え ら れ て い な い 。 仮 に 広 慧 法 聡 の 門 人 と す れ ば 、 あ る い は 曹 洞 宗 宏 智 派 の 禅 者 で あ っ た か も 知 れ な い 。 栄 西 は 知 客 に 対 し て 最 初 に 自 ら 「 我 が 国 の 祖 師 、 禅 を 伝 え て 帰 朝 す る も 、 其 の 宗 、 今 は 遺 缺 す 」 と 述 べ て い る か ら 、 日 本 に 禅 宗 を 伝 え た 祖 師 と し て 具 体 的 に 天 台 宗 の 最 澄 ( 伝 教 大 師 、 七 六 七 ─ 八 二 二 ) が 存 し た 事 実 を 明 確 に 認 識 し て い た こ と が 知 ら れ る 。 栄 西 自 身 の こ と ば と し て 「 予 、 廃 せ る を 興 さ ん こ と を 懐 う が 故 に 此 に 到 る 」 と あ る か ら 、 衰 退 し て し ま っ た 禅 を 再 び 興 隆 せ し め る べ く 宋 朝 に や っ て 来 た こ と を 栄 西 は 明 確 に 知 客 に 対 し て 語 っ て い る 。 こ の 内 容 が 史 実 と す れ ば 、 栄 西 は 第 一 次 の 入 宋 で 日 本 で 廃 れ て し ま っ た 禅 の 宗 旨 を 参 学 す る た め に 南 宋 の 地 に 赴 い た こ と に な ろ う 。   さ ら に 栄 西 は 知 客 に 対 し て 禅 の 法 旨 を 開 示 す る よ う 迫 っ て お り 、 第 一 に 禅 宗 初 祖 で あ る 菩 提 達 磨 の 伝 法 偈 に つ い て 問 い 質 し て い る 。 こ の と き 知 客 は 栄 西 に 対 し て 達 磨 が 示 し た 「 吾 本 来 二 茲 土 一、 伝 レ 法 救 二 情 一、 一 華 開 二 葉 一、 結 果 自 然 成 」 と い う 伝 法 偈 に つ い て 逐 一 に 説 明 し た も の ら し い が 、 残 念 な が ら 『 興 禅 護 国 論 』 で は 具 体 的 な や り 取 り の 記 述 は 省 略 さ れ て い る 。   こ の 栄 西 自 ら 語 っ て い る と こ ろ に よ れ ば 、 最 初 に 入 宋 し た 時 点 か ら 栄 西 は す で に 禅 宗 の 存 在 を 十 分 に 認 識 し て い た こ と に な り 、 決 し て 何 ら の 知 識 も な く 渡 航 し た の で な か っ た こ と を 窺 わ し め よ う 。 そ れ は 博 多 で 李 徳 昭 か ら 聞 い た 禅 宗 の 情 報 な ど を 遥 か に 越 え た 内 容 で あ っ て 、 栄 西 と し て は 入 宋 以 前 か ら 禅 宗 に 対 す る あ る 程 度 の 知 識 な り 、 中 国 仏 教 に 関 す る 情 報 な り を 確 実 に 身 に 付 け て い た と 見 な け れ ば な ら な い 。 ま た 入 宋 当 初 に 広 慧 寺 と い う 禅 刹 を 自 ら 訪 れ て 禅 宗 に 関 す る 情 報 を 積 極 的 に 吸 収 し て い る こ と は 、 栄 西 が か な り 禅 宗 へ の 拘 り を も っ て 南 宋 で の 活 動 を 開 始 し た こ と を 裏 付 け る も の と い っ て よ い 。   一 方 、『 元 亨 釈 書 』 の 栄 西 章 も 若 干 な が ら 内 容 が 相 違 す る も の の 、 こ れ を 書 き 下 し て み る な ら ば 、 お よ そ つ ぎ の ご と く な ろ う 。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八六 初 め 戊 子 の 行 に 、 明 州 広 慧 寺 の 知 賓 の 者 、 問 う て 曰 く 、「 子 の 国 に 禅 有 り や 」 と 。 対 え て 曰 く 、「 我 が 邦 の 台 教 の 始 祖 伝 教 大 師 、 三 宗 を 伝 え て 帰 る 。 方 に 今 、 台 ・ 密 は 正 に 熾 ん な る も 、 禅 の 滅 す る こ と 久 し 。 西 、 乏 し き を 承 く る の 者 な り 。 祖 意 の 全 か ら ざ る を 恨 む 。 故 に 海 に 航 し 来 た り 、 禅 門 の 缺 く る を 補 わ ん と 欲 す 。 知 ら ず 、 得 ん や 」 と 。   や は り 『 元 亨 釈 書 』 に お い て も 、 広 慧 寺 の 知 賓 ( 知 客 ) と の 間 で 交 わ さ れ た 類 似 の 問 答 が 収 録 さ れ て い る 。 戊 子 は 日 本 の 仁 安 三 年 ( 南 宋 の 乾 道 四 年 、 一 一 六 八 ) の こ と で あ り 、 こ の 問 答 が 第 一 次 入 宋 の 時 に な さ れ た こ と が 明 記 さ れ て い る 。 最 初 に 知 賓 す な わ ち 知 客 が 栄 西 に 対 し て 日 本 に 禅 が あ る か 否 か を 尋 ね て い る 。 こ れ に 対 し て 、 栄 西 は 日 本 の 天 台 宗 始 祖 で あ る 伝 教 大 師 最 澄 が か つ て 明 確 に 台 密 禅 す な わ ち 天 台 ・ 密 教 ・ 禅 の 三 宗 を 伝 来 し た こ と を 示 し 、 さ ら に 天 台 と 密 教 は 日 本 で 盛 ん で あ る が 、 禅 が 行 な わ れ な く な っ て 久 し い こ と を 告 げ て い る 。 注 目 す べ き は 栄 西 が そ の 乏 し き 禅 を 自 ら 継 承 す る 者 と 称 し て い る こ と で あ り 、 祖 師 意 が 行 な わ れ て い な い こ と を 歎 い て 日 本 か ら 海 を 渡 っ て き た 点 を 強 調 し 、 禅 門 が 欠 け て い る の を 補 う こ と を 目 指 し て い る 点 を 知 客 に 告 げ て い る 。 末 尾 の 「 知 ら ず 、 得 ん や 」 と い う の は 、 果 し て 自 分 の よ う な 者 で も 禅 の 宗 旨 を 伝 え 得 る こ と が で き る で あ ろ う か と 、 自 ら を 卑 下 し つ つ も 知 客 に 問 い 質 し て い る こ と ば で あ る 。 こ れ に よ れ ば 、 栄 西 は 第 一 次 入 宋 の 折 り か ら 天 台 と 密 教 に 禅 を 加 え る こ と を 目 的 と し て 渡 航 し て い る わ け で あ り 、 こ の 点 は 栄 西 の 第 一 次 入 宋 を 語 る 上 で 重 要 な 示 唆 を 与 え る も の で あ ろ う 。   つ づ い て 『 興 禅 護 国 論 』 に よ れ ば 、 栄 西 は よ り 具 体 的 な 内 容 を 知 客 に 問 う て お り 、 又 た 問 う て 曰 く 、「 我 が 日 本 国 に 達 磨 大 師 が 死 期 を 知 る の 偈 有 り 、 真 偽 は 如 何 ん 」 と 。 知 客 答 え て 曰 く 、「 喩 う る 所 の 法 は 乃 ち 小 根 の 魔 子 が 妄 り に 其 の 語 を 撰 す る な り 。 夫 れ 死 生 の 道 は 、 吾 が 宗 に 在 り て は 本 よ り 去 来 生 死 の 平 等 な る を 以 て 、 初 め よ り 生 滅 の 理 無 し 。 若 し 其 の 死 期 を 知 る と 謂 わ ば 、 是 れ 吾 が 祖 の 道 を 欺 く こ と 小 害 に 非 ざ る か 。 久 し く 聞 く 、『 日 本 国 は 仏 法 流 通 す 』 と 。 幸 い に 吾 が 師 に 逢 う 、 須 ら く 筆 語 を 奉 る べ し 。 然 し て 人 に 華 夷 の 異 な り 有 る も 、 而 も 仏 法 は 総 べ て 是 れ 一 心 な り 。 一 心 纔 か に 悟 れ ば 、 唯 だ 是 れ 一 門 な る の み 。 『 金 剛 経 』 に 所 謂 る 、『 応 に 住 す る 所 無 く し て 、 而 も 其 の 心 を 生 ず 』 と な り 。 源 流 を 知 ら ん と 欲 せ ば 、 請 う て 訪 及 を 垂 れ た ま え 。 当 に 一 一 に 相 聞 す べ し 、 広 く 祖 師 の 道 を 知 る こ と 、 小 乗 の 知 見 に て 能 く 測 度 す る 所 に 非 ざ る な り 」 と 云 云 。 時 に 宋 の 乾 道 四 年 戊 子 の 歳 な り 。 と 書 き 残 し て い る 。 す な わ ち 、 栄 西 は 日 本 に 知 ら れ て い た 達 磨 の 「 知 死 期 偈 」 に つ い て 広 慧 寺 の 知 客 に 真 偽 の ほ ど を 問 う た の で あ る 。 達 磨 の 「 知 死 期 偈 」 と は 、 達 磨 が 予 め 死 期 を 知 っ て 詠 じ た と 伝 え ら れ る 偈 頌 で あ り 、 京 都 栂 尾 の 栂 尾 山 高 山 寺 に 所 蔵

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明庵栄西の在宋中の動静について(上) (佐藤) 八七 さ れ る 「 達 磨 和 尚 秘 密 偈 」 と い う 古 文 書 に よ れ ば 、「 知 死 期 偈 」 の 内 容 と は 「 纔 覚 三 池 無 二 滴 瀝 一、 次 於 二 波 底 一 光 一、 無 常 須 聴 二 髏 頭 鼓 一、 得 レ 方 知 二 日 亡 一 」 と い う も の で あ る )(( ( 。 こ れ を 書 き 下 せ ば 「 纔 か に 玉 池 に 滴 瀝 無 き を 覚 え 、 次 に 波 底 に 於 い て 神 光 を 取 る 。 無 常 に し て 須 ら く 髏 頭 の 鼓 を 聴 き 、 数 う る を 得 て 方 め て 幾 日 に 亡 ず る か を 知 る 」 と 読 む べ き で あ ろ う か 。 先 の 二 句 は 梁 の 武 帝 ( 蕭 衍 、 字 は 叔 達 、 四 六 四 ─ 五 四 九 ) と の 問 答 で 機 縁 な き こ と を 知 っ て 蘆 葉 に 乗 っ て 長 江 を 渡 っ た こ と と 、 や が て 洛 陽 ( 河 南 省 ) 登 封 県 の 嵩 山 少 室 峰 の 少 林 寺 に 到 っ て 門 下 に 神 光 す な わ ち 二 祖 慧 可 ( 太 祖 禅 師 ) を 得 た こ と を 述 べ て い る 。 ま た 後 の 二 句 は 髑 髏 の 鼓 を 叩 く 音 を 数 え て 、 達 磨 が 自 ら の 死 期 を 知 っ た と い う 内 容 で あ る が 、 そ の 故 事 の 典 拠 は 定 か で な い 。   広 慧 寺 の 知 客 は 達 磨 の 「 知 死 期 偈 」 を 小 根 の 魔 子 が 妄 り に 撰 し た 偽 作 に す ぎ ず 、 達 磨 の 道 を 欺 く も の と し 、 そ の 弊 害 が 小 さ く な い こ と を 指 摘 し て い る 。 さ ら に 知 客 は 日 本 が 仏 法 の 流 布 し た 国 で あ る こ と を 伝 え 聞 い て い た と し 、 栄 西 に 会 っ て 筆 談 で 何 で も 問 い に 答 え る 姿 勢 を 示 し て い る 。 お そ ら く 南 宋 第 一 の 港 で あ っ た 明 州 に お い て は 日 本 の 情 報 が 遠 く 海 を 越 え て 頻 繁 に 齎 さ れ て い た は ず で あ り 、 広 慧 寺 の 知 客 も 日 本 仏 教 に 対 し て か な り の 知 識 を 備 え て い た も の で あ ろ う 。 こ の 点 、 後 に 示 す が ご と く 栄 西 が 到 る 前 年 に 日 本 の 仏 教 界 か ら 質 問 状 の 類 い が 明 州 の 地 に 届 け ら れ て い る の も 考 慮 し な け れ ば な ら な い 。 ま た 知 客 は 仏 法 に お い て は 中 国 ( 中 華 ) と 日 本 ( 東 夷 ) の 違 い は な く 、 と も に 一 門 で あ る 点 を 強 調 し 、『 金 剛 般 若 波 羅 蜜 多 経 』 の 「 応 無 レ 、 而 生 二 其 心 一 」 の 語 句 を 引 用 し て い る 。 つ づ け て 知 客 は 栄 西 に 禅 の 道 を 参 究 し 、 祖 道 を 知 り た い の で あ れ ば 、 一 々 に 尋 ね る よ う に と 勧 め て い る 。 こ の と き 栄 西 が さ ら に 詳 し く 禅 宗 に つ い て 問 い 質 し た の か 否 か は 定 か で な い が 、 入 宋 当 初 か ら 栄 西 は 禅 宗 に 触 れ る 機 会 を 得 て い る わ け で あ り 、 禅 の 教 え を 伝 え た い 気 持 ち も 早 く か ら 存 し た こ と が 窺 わ れ る 。   ま た 『 元 亨 釈 書 』 に は 「 知 客 又 た 英 衲 な り 、 頗 る 発 益 す る こ と 多 し 」 と あ り 、 英 衲 と は す ぐ れ た 衲 僧 の こ と で あ る か ら 、 栄 西 に と っ て 広 慧 寺 の 知 客 は き わ め て す ぐ れ た 人 物 と し て 受 け 止 め ら れ た こ と が 知 ら れ 、 上 記 の 問 答 の ほ か に も 発 益 す る と こ ろ が 頗 る 多 か っ た と 伝 え ら れ る 。 と り わ け 『 延 宝 伝 燈 録 』 や 『 本 朝 高 僧 伝 』 で は 、 知 客 の こ と ば と し て 「 子 、 祖 師 禅 を 得 ん と 欲 せ ば 、 従 前 の 知 見 を 抛 下 し 、 大 機 用 を 発 せ よ 。 精 砺 し て 年 を 積 め ば 、 自 然 に 契 当 の 分 有 ら ん 」 と あ り 、 知 客 は 栄 西 に 祖 師 禅 を 究 め る よ う 勧 め た こ と に な っ て い る 。 栄 西 が 南 宋 の 禅 僧 と し て 最 初 に 触 れ た の が 広 慧 寺 の 知 客 で あ り 、 こ の 人 物 が 栄 西 に 及 ぼ し た 影 響 に は か な り の も の が 存 し た と 見 て よ い で あ ろ う 。

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