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駒澤大学佛教学部論集 29 017金子 宗元「後期中観派の無自性論証(2) : Abhisamayalamkaraokaに見られるMu bshi skye ba hgog pahi gtan tshigsについて」

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全文

(1)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

38

) 後 期 中観 派の 無 自性論 証 (

2

) (金 子 )

     

後 期 中観 派

無 自性

論 証

2

A

餉 細

〃zαyσ

1

α 辮 梅 短 oん4 に 見ら れ る

Mu

 

bshi

 g. 

kye

 

ba

 

hgog

 pahi gtan  tshigsに つ い て一

は じ め に

  本 稿

目的

は,

前稿 (

曹 洞 宗研 究 員研 究紀

』 第

29

号 掲

載 予

1 ,

本 稿

に於 い て は,

拙 稿

1

略 記 )

き, ハ リバ ド ラ (

Haribhadra

,  ca .

800

A

D

.)の

著 作

, 『現 観

荘 厳

論 光 明

(〆

1

肋 磁 〃3α

y

畆α耀 ん伽 σ

10

航 )に 見 ら れ る

四選

肢の 生 起 を否 定 す る証 因

(mu  

bshi

 skye  

ba

 

bgog

 

pa

i

 

gtan

 

tshigs2

に 基づ く無 自性 論 証 を, 詳 細 に

明 する こ とに あ る。

  従

っ て

稿で は, 先 行 業

の 確 認, 及び, 筆 者 の後 期 中観 思 想 研 究 に対 す る

問題

し て は, 前 稿 と重 複す る故, 再 び細 説 す る こ と は控 え たい が, そ の 要 旨の み を述べ て お こ う。 こ の

観荘 厳 論光

当該箇 所

す る従

研 究は, 後 期 中観 派 の 学 匠 達 に よ る

ル マ キ ー ィ (

Dharmakrti

600

6603

図 式

解釈

さ れ て き 。 そ うした先 行

績 に対 し て

筆 者

い た

意 識

と は, 「

後 期 中観

派の

匠 達 は,

ル マ キ ー ィ の 認 識 論 と

よ り,

い 影

を受 けてい るの に も拘わ らず, 他 な らぬ 彼 自身 を

批 判

してい とい

な ど あ り

たの か ?」 とい う疑 問

を発 す る もの で あ る。 詳 し くは, 拙 稿 (

1

), 就 中,

1

序 

一 後期 中観思 想 研 究 に お け る視 座一

を参 照 され た い 。

5

 

各 論

3

 

一 多 因一 果 説 批 判

 

 

稿

い て は,

別 論

Sa

y

α

dvayavibha

 

dega

14

, 及 びそ の 自註の ジ ュ ニ ー ナ ガル バ (

Jfianagarbha

700

7604

論 述

因一

果説 》 批判

の 祖 述

所 迄 に関 して考

し た。

る にハ リバ ドラ は,

前掲

に 於 い て

認 し た 記 述

15

直 後

に, シ ャ ー

SAntarak

lta

725

7885

諦 分 別 論 細 疏 』6 (

S

  α伽α 励 加 勿

g4

ρ祕 勲

か ら, 更 に 一

513

(2)

駒澤大 學佛教 學 部論集 第

29

卒 成

10

10

39

) 以 下 の

な反 論を引 用, 紹 介 して い る。

17

〕 [

A

APV

. 

W

pp

9706

〜s , 

V

pp

54929

−L3i . 

SD

 

VP

, 

P

Sa

19a8

19b2

 

D

Sa

29a5

 ”6.天 野7 ;

pp

32745

}9  

Ecke18

pp

13034

’−3s

論 】結

果 を生ぜ し め る もの

janayitrT

 

karyasya

は, 集 合 (samagrt )で

  

あ り, そ して,

結 果が ,

そ れ

即ち, 集 合

の 随 伴 と排 除 に

順 す る こ

   

と (anvaya −vyatirekanuvidhayita −, rjes su 

hgro

 

ba

 

dah

 

ldog

 

Pahi

 rjes su

  

byed

 

pa

 

nid

に よっ て,

果の

異 と

非相

異 とい う こ の 両 者 が

imau

   

karyasya

 

bhedabhedau

) ,

集 合

] 相

異 と

非相

異に 随 順 す る こ と は,

    穏 当 (

catura , 

bzo

 

ba

) なの で は ない の か 。 こ の

に, ど うして , そ れ ら

    [

即 ち,

結 果

相 異

非相 異]

因を もた ない もの と

るで あろ うか 。

 

こ れ は,

前稿

記 述

15

認 し た

結 果 の

異 と

非相 異

は, 原

相 異

と 非 相 異 に対 し て, 随

と排 除の 両 者に観 待 しつ つ ある もの で は ない

故 に

, 因を も た ない もの と

る で あ ろ う。 (

karanabhedabhedav

 anvayavyatirekab ・

hyam

 anapek amapau  

karyasya

 

bhedAbhedav

 ahetukau  syatam9 )」 とい う

中観 派に よ る 《多 因一 果 説 》 批 判 に対す る反 論 と して , シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ が

介 し た もの で あ るが , こ こで 注 目す べ き は, 対 論 者 側 は, 原 因が 多な る も の, 即ち,

異 は もつ が ,

非 相

違 は も た ない の に対 して , それ に よ っ て も た ら さ れ る

結 果

が一 な る もの で ある な らば,

異 を も た

, 非 相 違 をもつ こ と に成 っ て し ま うとい う

矛 盾

解 消

する

に,

集 合 (samagrt >

と い う

概 念

を 導 入 して い る

で あ る1° 。 即 ち

《集合

(samagrr )》 は, そ れ を

成 して い る 「諸々 の

集 合

して い る もの

samagra

」 とい

よ り見れ ば,

なる もの ,

ち, 相 異 を もつ もの で 一 纏

集 合

samagrt )

と い う

観 点

よ り見 れ ば, 一 る もの, 即ち ,

異 を もた ない もの と

な る

因に も

非相

違が成 立す るこ と の 根 拠 と し て, 《

集 合

(samagrt )

とい う

概 念

を利 用 して い るの で あ る。 そ し て, こ の

え る こ とで, 結 果の 非

違が, 原

の非

違 に随 順 し, 結 果の

相 違が, 原 因 を もた ない もの と成 る とい う過 失を排 除 し よ う と意 図 し た もの と思わ れ る。

 

こ の

に , 「結 果 を 生 ぜ し め る も の

janayitrT

 

karyasya

)」を 「集 合 (samagrt )」 とす る見

に 関 して, 天野宏 英 11 氏 は, 以 下 の様な 『量 評 釈 自註 』 一

512

(3)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

40

) 後期 中観派の無 自性 論 証 (

2

) (金 子 )

Prama

’nava ’rttikasvav  r 

tti

け る ダル マ キ ー ル テ ィ の

論 述

紹 介

して い

る。

18

 [

PVSI

/ , 

pp

2318

〜22

論 】

さて , そ うで

るな らば, どう して,

違 して い る

共働 因

か ら

bhin

  

nat  sahakarinah

, 

lhan

 cig  

byed

 

pa

 tha  

dad

 

pa

 

las

) [

な る

] 結

   

するのか 。

も, 眼 と

等か ら,

す る

]様

に 。

答 論

一 な る もの が, そ れ

即 ち, 生ぜ し め る こ と

自性

と す る もの で あ

  

り, 生 ぜ し め る もの で あ る こ と は,

如 何

な る もの も決 して

い の で あ る

  

(na  vai  

ki

甲cid  ekarp  

janaka

tatsvabhavam

。 そ うで は な く (

kirp

 

tu

   

hon

 

kyah

, 集

(samagri , 

tshogs

 

pa

)が, 生 ぜ しめ る もの (

janika

  

skyed  

par

 

byed

 

pa

なの で あ り, そ れ

即ち, 生ぜ し め る こ と

を 自

   

とす る もの (

tatsvabhava

)な の で あ る。

な らぬ そ れ

即 ち,

集 合 ]

  

は, 推 理 され る (anum †

yate

)の で ある。 ま た ,

な らぬ その

集 合

は,

  

性 を 確 立 す る こ とに よ っ て (svabhava −sthitya

果 の 所

依 (

agraya

  

karyasya

) なの で ある。

な らぬ そ れ 故に ,

々 の 共 働 因 も, 順

を待

  

っ こ と無 く (aparyayena , rnam  

grahs

 med  

par

),

結 果 を

生ぜ し め る

   

の で ある。

 

こ の

記 述 〔

le

い て も

らか な

に, ダル マ キ ー ィ は, 「生ぜ し め る もの (

janika

《集 合

(samagri >》 と定 義 し て い る。 従っ て, そ の意

に於い て は, 先 に

認 し た記 述

17

の所

を, ダル マ キ ー ィ の 見 解に 似す る もの と言 うこ と も可

で あ ろ う12。

 

然 しな が ら, 記 述

17

に見 ら れ る学

が,

の見

と全 同で あ る と

看做

す こ と は不 適 切 で ある と思わ れ る。 とい うの も, 私 見 に依れ ば, こ の 「集 合 」 に

して も, 少 な くと もシ ャ ー ン タ ラ ク シ タ とハ リバ ドラ に は,

ル マ キ ー ィ の 見

を意 識 しつ つ も, 彼

自身

批判

し よ う とい う意

か っ た

に思わ れ る か ら で ある。 そ れ は, 以 下 の 二 つ の理

に よっ て で ある。

 

第一 に, 既 に

前 稿

い て,

記 述 〔

2

確 認

し た 『八

千 頌 般 若 経 』

Ast

− asahasrikaprajfia −

paramita

三 十一章の 一一節が

か れ た 意 図を

明す る

で, ハ リバ ドラ は, 以

に述べ てい た。 一

511

(4)

後期中観派 の 無 自性論 証 (

2

) (金子 ) (

41

19

〕 [

APV

. 

W

pp

96924

‘25 , 

V

pp

5492

ト 22

    

総 て の も の の

和 合

に 基 づ い て,

色 が 施 設 さ れ る (sarvesam

salpayggagg

hlabdaUpl

bd

 

h

  :

ajl

fi

apy

 

{}

t

1

とい う こ の こ とに よ っ て も, 施 設 的

色 を 示 す こ と

prajfiaptika

−§abda −nirdega

に よ っ て,

集 合

(sama −

grT

, 

tshogs

 

pa

か ら,

実 義 的

な 生 ぜ し め る も の の

自 性 (

tattvikam

janaka

svabhavarp

, 

yafi

 

dag

 

par

 skyed  

pa

 

po

りi

 

iio

 

bo

 

yin

 

pa

) を排

て い nirasyati ) の で あ る。

 

註 釈 対 象

と な っ た記

述 〔

2

い て は,

和 合

(samayoga

」の

は 見 ら れ る もの の,

《集 合

(samagrf )

とい う

は存

し ない 為, こ の ハ リバ ド ラの

述は, シ ャ ー ラ ク

多 因一 果 説

批 判 に於い て, 記 述

17

な形で 登 場 す る

集 合

とい う語 を意 識 して述べ ら れ た もの と推 測 出 来 る が, こ こ で留 意す べ き点 は, 彼 に は, 「和 合 」や 《集 合 》 と い う概 念 を 否 定 し よ うとい う意 図 見 ら い こ と で ある。 そ うで は な く, その 《集 合 》が 「実

義 的 な (

tattvika

) 生ぜ しめ る もの の

janaka

・svabhava )

を もつ もの

で あ る と看 做 す

見 解

を否

し よ うとし て い るの で ある。

 

一 方, これ に

して ダル マ キ

ィ は,

《集 合》

す る 「生ぜ し め る も

の の

自性 (

janaka

−svabhava

)」

実 義 的

な もの

tattvika

)」

と は,

看 做

て い な か っ た と

測さ れ る。

と な れ ば, 記

述 〔

18〕

に於い て,

は,

集 合

生ぜ し め る もの

janika

」で あ り,

そ れ

即ち, 生ぜ し め る こ と

性 と す る もの (

tatsvabhava

)」 と し な が ら も, 「推理 さ れ る (anumtyate )

もの で ある と述べ て い るか らで ある。

理の

対 象

は,

な らぬ

自 身に とっ て 共 相 (samanyalakSa a)で あ り, 世 俗 有 (sarpvrtisat )で ある か ら, 「実

な も の (

tattvika )

」で は あ り

な い で あ ろ う13。

っ て,

一 に こ の事 に基 づ い て も, シ ャ ー ラ ク シ ハ リバ ドラが 批 判 対 象 と して い る記 述

17

に見 られ る学 説 は, ダ ル マ キ ー ィ の 学 説に類 似 し て い る もの で は あ るが, 全 同で は な い の で あろ う。

 

第二 に, 記 述

17

に 見 ら れ る

学説

は, ダル マ キ ー ィ 自身の

学 説

と矛

す る こ とを指

す る こ とが出 来 る。 既 に述べ た

に, 記 述

17

の 意 図は,

なる原

に も

非 相 違

立す る こ との

根 拠

と して ,

《集 合 (

samagrt

とい う 一

510

(5)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (

42

) 後 期 中観 派の 無 自性論 証 (

2

) (金 子 )

概 念

入 する こ と に あっ た と思わ れ る が, ダル マ キ ー

自身

は, 既に確 認 し た

前 稿

記 述

16

滴論 』 (

Hetzabindu

記 述

に ,

《集 合》

を 「

違 した

特 質

を もつ もの

vilaksana )

定 義

す る

, 記

述 〔

17

な対 論 者 側の立 場 に立 つ の で は な く,

ろ, そ れ を批 判 す るシ ャ ー ン タ ラ ク シ タ, ハ ラ側の 立 場っ て い る と思わ れ るの で あ る。 従っ て, 記述

〔16〕

再 度 確

認 し てお こ う。

16〕

(再 出 )

HB

, 

pp

20

*ls〜

pp21

*1°

論 】何

らか

る もの (

kirTicid

, cuh  zad

は,

相 違

し た種 類 の もの か らで あ

  

っ て も

vijatlyad   api

,  rigs  mi   mthun  

pa

 

las

 

kyafi

), 生 じつ つ ある

  

bhavat

, 

bbyufi

) こ とが 経 験 されるの で ある。 例 え ば (

tadyatha

, 

dper

 

.na

糞 等

か ら

go

−mayfideh , 

ba

 

lafi

 

gi

 

lci

 

ba

 

la

 sogs  

pa

 

las

  

等 (§

alakadih

, §a 

IU

 

ka

 

la

 sogs  

pa

)が

生 じつ つ ある

な もの で あ

   る。

答 論

し た種 類 の もの か ら生起 する こ と は, 無い の で ある (na  vijat τ

yad

  

utpatti

, rigs  mi  mthun  

pa

 

las

 

llbyufi

 

ba

 ni ma  

yin

 

te

)。

〜 (

略 )〜

      何

と な れ ば, その 様で ない な ら ば (anyatha ), 相 違 し た特 質 を もつ 集

  

か らで あ っ て も (vilaksana  

a

 a 

i

 sama  r 

a

, 

tshogs

 

pa

 mtshan  

fiid

 mi

hdra

 

ba

 

las

 

kyah

, 相

し た特 質 を も た な い 結 果が生 起 す るな ら ば (a一

vilaksana −

kary

δ

tpattau

, mtshan 面

d

 mi  

hdra

 

ba

 ma  

yin

 

hbyu

血na ni), 原 因の相

非 相違

か ら,

果の相

非相 違

する こ とは

]無

の で ある

na  

karana

bhedabhedabhyam

 

karya

bhedabhedau

っ て

iti

ら ゆ る もの

vigva

に とっ て の ,

相 違

非 相 違

は, 因 を もた な い もの (a −

hetuka

, r  umed   a) と

る で あ ろ う。

 

とい の も (

tatha

 

hi

相 違

か ら,

生 起

す る こ と は

く,

っ て ,

非 相

違 か らで あっ て も,

非相

違 は,

生 起 し

な い の で あ る。 そ し て, そ れ

ち,

相 違

非相 違 ]

よ り

排 除

さ れ る

自性

は,

如何

な る

もの も無 い (

tad

−vyatiriktag  ca  na  

kagcid

 

bhava

−svabh va , 

de

 

las

 ma

gtogs

 

pabi

 

dhos

 

pobi

 

ho

 

bo

 

fiid

 

kyafi

 

bgall

 

yah

 med  

pa

。 従っ て, 諸 法

は, 因を もた な い もの

と成る

故 に , 常に , 存 在す るか, 或い は, 存

し な い もの と

る で あ ろ う。 何 とな れ ば, 観

さ れ べ き もの (apek §

ya

(6)

後 期 中観 派の無 自性論 証 (

2

) (金子 ) (

43

tos

 

par

 

bya

 

ba

存在

し ない か らで ある。

と な れ ば,

法は,

観 待

する こ とに よっ て,

らか

じる

もの

kadacitka

, res  

bgab

 

ba

るか らで あ る。

 

傍 線の 下 線 部 に

目 さ れ た い が, こ こ で は, 明 ら か に

《集 合 (

samagri

)》

し た特 質 を もつ もの (vilak §apa )

説 明

し た 上 で, そ の

《集 合 》

か ら, 一 結 果 , 即 ち, 「相 違 し た 特 質 を も た な い

果 (a −vilaksana −

karya

)」が 生 起 す る と想 定 し た場 合 の 過 失を追

して い る の で あ る。 そ の根

的 な過 失が ,

点線

の下

線 部

に 示 さ れて い る .

で あるが, こ の

あらゆ る もの に とっ て の ,

違 と

非相

違 は, 因 を も た ない もの と成 る で あろ う。 」 とい う言 明 が , 既 に確 認 し た記述

17 〕

の 論 旨, 就 中, 「ど うし て , それ ら

即 ち, 結 果の

異 と

相 異

因 を もた な い もの と成 る で あろ うか。」 とい う言明 と,

立 す る もの で ある こ と は , 説 明す る迄 も な い で あ ろ う。

に, ジ ュ ニ ャ ー ナ ガル バ , 《多 因 一 果 説 》 を論 破す る

, こ の

記 述 〔

16

答 論 】

の 部 分 , 即 ち, ダル マ キ ー ィ 自身の

か ら述 べ ら れ た 理

全 面 的

依 拠

て い る こ と も, 既に 前 稿 記 述

15

認 し た通 りで あ る。

 

っ て,

17

られ る

見 解

が , ダル マ キ ール テ ィ

自身

の 見

全 に一 致す る もの で は な い こ と は 明 白で あ り, ダル マ キ ー ル テ ィ

自身

の見

は,

中観

派の

る立場 に近 い もの で あ っ た と推 測 され る。

 

さて, そ れ で は,

17 〕

をシ ャ ー ラ ク シ , ハ リバ ドラ は, どの 様 に批 判 して い る の で あろ うか 。 今 こ こ で は, ハ リバ ドラ の

述 に よっ て

認 し て お こ う。

20

〕 [

AAPV

. 

W

pp

97

 s−−1° , 

V

pp

54931

5502

SDVP

, 

P

Sa

19b2

”−3 . 

D

Sa

29a6

“”7.天野 ;

pp

3279

−i2. 

Ecke

];

pp

131i

”’J「

答 論 】

これ

L

即 ち,

論 】

= 記

17

〕]

心が 無い もの で ある (naitat

  

sa「a「

P

, 

bdi

 ni sfiin 

Po

 

yod

 

Pa

 ma  

yin

 

te

) ’4 。 とい うの も,

合 (samagri )

  

われ る もの は, 諸々 の

集 合

して い る

samagra

もの よ り

別 個

な もの

   

と して は,

如 何

な る もの も

存 在

し な い 15 の で あ り, そ うで は な く (

kim

  

tarhi

, 

hon

 

kyafi

な らぬ

集合

して い る

法が

合」

とい う言 葉 に よ

っ て語 ら れ るべ き もの なの で ある (samagra  eva  

bhavah

 samagrr −

Sabda

一 一

508

(7)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

44

) 後期 中観派 の 無 自性 論証 (

2

> (金子 )

vacyah , 

tsho

 s

 

a rnams  

kyi

 

fio

 

bo

 

fiid

 

tshogs

 

pahi

 s ras  

brjod

 

par

 

bya

ba

 

yin

’6

。 そ して , そ れ ら

即 ち, 集 合 して い る諸 法

は, 相 互 に 排 除さ

れ る

自性 (

paraspara

−vyavrtta −svabhava , 

phan

 

tshun

 

ldog

 

pahiho

 

bo

を もて る もの で あ り, 眼

な る

異 してい る もの と して

存在

しっ っ あ るの で あ る。

 

点線

の 下 線 部 は, シ ャ ー ラ ク

諦 分 別

細 疏 』 て は れ ない もの で あ り, ハ リバ ドラが 独

足 した と思わ れ る記

で ある。 こ の

20 〕

の 意 図 は, 《

合 (samagrD 》 と は, 「他 ならぬ 集 合 して い る諸 法

samagra

 

eva

 

bhavah

か な く, そ れ らは, 厂相 互 に 排 除 され る 自 性

paraspara

−vyav

tta

−svabhava

)」

を もて る もの で あ るが 故 に ,

相 異

し て い

る もの

bhinna

)」 に

な ら な い , とい うこ とを示す こ と に あ る と思わ れ る。 即 ち, 記 述

17

に於い て対 論 者 が,

な る原 因に も非 相 違が成 立す る こ と の 根 拠 と して 導入 し た 「集 合 」 も,

々 の

相 異 し て い る」,

集 合 して い る

法 」 を 示 す もの に他な ら ない に, 必 ずし も過 失を

排 除

ない , とい う こ と を 示 し た もの と思わ れ る。

 

こ の様 に,

集 合 (samagrt )

を,

集 合 して い る

法 」 と

釈 し, そ れ ら を 「

異 し て い る もの 」に 他 な ら な い

置 付 ける立場 は, 既 に

認 し た記 述

16

に於い て, ダル マ キ ー ィ が,

集 合

(samagri >

を 「

違 し た

を もつ もの (vilaksana )

明す る立 場 に , 一 致 す る も

で あろ う。 即ち, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ は, ダル マ キ ー ル テ ィ の 見

踏 襲

して い る の で ある。 シ ャ ー ラ ク タ は , 記

述 〔

20

け て, 以 下の

な批 判 を

示 して い

21

〕 [

A4PV

. 

W

pp

970io

“’i3 , 

V

pp

5502e3

。≒

SDVP

, 

P

Sa

19b3

〜4 . 

D

Sa

29a7

.天 野 ;

pp

327

’z〜14 . 

Eckel

pp

1314

−−s.

     

もし も,

集合

して い る諸 法が ,

相 異 し て い な い , 眼 識 とい う結 果,

   

即 ち, 一 な る も

な ら な , 生 ぜ し め る こ と (upa −

  

janayitum

)が 可 能 で ある な らば, そ の

に は,

眼 等 と は

別 個 な

集 合

  

の 内部 に存 す る (samagry −antarantah ・

patin

大 地

]集 合

し て い る

  

法 も, 眼

を生ぜ し め る こ と を, どうして

さ ない の か。

(8)

後期 中観派の 無 自性 論証 (

2

) (金子

45

 

こ こ で も,

点 線

の下

線 部

は, シ ャ ー ラ ク シ タ の

諦 分

論細 疏 』

て は見 られ な , ハ リバ ドラ が独 自に補 足 した と思わ れ る記 述で あ る。 こ の 記 述

21

で, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ は, 記 述

20

に 於い て示 し

た,

集 合 (

samagrD

は,

な ら ぬ

集 合

し て い る

諸 法 (

samagra   eva

bhavah

)」で し か な い , と い う 見

よ り更 に

み 込 ん で,

別 個 な 集

(samagry −antara )」 に迄, 言及 してい る。 こ の記述だ け を見 る な らば,

々 , 議 論が 飛 躍 し たか の 如 き印 象 を受 け る が, 恐 ら くシ ャ ー ラ ク シ タ の意 図 は, 何 らか 或 る結 果 を 生 起 す るべ く 「集 合 して い る諸 法 」 を, その 目 的 毎 に 《集 合 (samagri )》 とい う

枠 組

みで 捉え る こ とを, 排 除す る こ とに あっ た と思 わ れ る。 即ち, こ の

箇 所

は,

因 一

果 説

批 判

す る

目的

と し

, あ く まで, 「

互 に 排 除 さ れ る

性 」を もつ

集合

して い る

法 」の レ ヴ ェ ル で 議 論を展 開 し た か っ た 為で あろ うと思 わ れ るの で ある。 こ の 様 な私 の理

は, 記 述

21 〕

く, 以 下の

議 論

に よっ て も

示 され る と思わ れ る。

22 〕 [

Sl

Vl

〕 , 

P

Sa

19b4

. 

D

Sa

29a7

. 

Eckel

pp

1319

−i3

論 】 [

別 個

集 合

部 に

す る,

集 合

して い る もの は,

そ れ

即 ち, 眼

  

よ り相 異 して い る もの で あるが故 に,

眼 識 を

生 ぜ し め な い の で あ    る。

答 論

同様 で ある (

de

 

bshin

 no ) 。

23

〕 [

AAPV

. 

W

pp

970io

−i3, 

V

pp

5503

』5.≒

SDVP

 

P

Sa

9b4

. 

D

Sa

29a7

.天 野 ;

pp

327i5

pp

328i

反 論 】 大 地 (

ksiti

, sa ) 等 は, 眼等 よ り相 異 し て い る こ と (

bhinnatva

)に よ

  

っ て,

眼識 を

生ぜ し め な い の で あ る。

も,

互 に

相 異

し て い る

自性

を もつ もの で あ り, ど う して , 生 ぜ

   

し め るの か, と

ら れ るべ きで あ る。

 

シ ャ ー ン タ ラ ク シ に よ る記

22

は,

非 常

潔 に

べ られ た もの で あ る

に, ハ リバ ドラ に よ る

23

は,

も それ を 註

した もの で ある か の

に も 見 受 け ら れ る もの と

っ て い るが ,

私 見

れ ば, こ の

22

506

(9)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (

46

) 後 期 中 観 派の 無 自性 論 証 (

2

) (金 子 ) す るハ リバ ドラ

釈は 正 しい と思 わ れ る故 に ,

こ こ で は, ハ リバ ドラ に よ る記述

23 〕

に則 っ て 論 述 を進 め たい 。

 

さ て, こ の 記

23

い て ,

側 と

側 双 方 に

ら れ る

相 異 して い る (

bhinnatva

, parasparabhinna −)」 とい う語 に

目さ れ た い 。

故 な ら, そ れ に よ っ て , 双 方の 立 場の相 異が浮 彫 とな る か らで ある。 先 ず,

反 論

側 に於 け る 「相 異 」 は, 「大 地 等 」 と い う 《集 合 (samagri )》 と 「眼 等 」 と い う 《集 合 》 との 相 異 」 に つ い て 述べ た もの で あ り, 言 わ ば,

《集 合》

の レ ヴ ェ ル に於 け る 「

異 」 を述べ てい るの に

し て,

答 論

側に 於 け る

異 」は, そ の

」 と い う

集 合 》

部 に

け る, 眼 ・

明 ・

作 意 等

(caksU −rakaloka −manaskarfidi ) と

々 の

集 合

し て

諸 法 (

bhavaり

samagrab )》 が,

互 に 「

して い る 自

を もつ もの で あ る こ とを述べ た もの で あ り

わ ば,

集 合

して い る

諸 法》

の レ ヴェ ル に於 け る 「

を述べ た も の な の で あ る。

っ て, 双 方 の 論 じ る 「

相 異 」

に は , 《集 合 (samagrt )》 の レ ヴ ェ ル に於 け る もの と 《集 合 して い る諸 法 (

bhavah

samagrab )》の レ ヴ ェ ル に於け る もの とい う差 違 が見 られ る の で あ る 。   私 が敢 え て こ の 差 違 につ い て論 じた の は, こ こ に 明 らか に, 個々 の 《集 合 (samagrt )》 を, そ れ ぞ れ 一 ま りに捉 えよ うとする

反 論

側 と, その様 に

解 釈

す る こ とに よ っ て ,

本 来

異 して い る諸 法が

合 して い る に 過 ぎな い も の に於い て,

な る

集 合 》

とい う

非 相

違が

立 す るこ との

根 拠

え ら れ る こ と を

極 力

し よ う と してい る

答 論 】側

意 図

が, 明

把 握

さ れる と 思わ れ るか らで ある。

 

以 上 の

に,

論 】側

ち込ん だ,

《集 合 (

samagri

)》

とい う

概 念

も, ダル マ キ ー ル テ ィが そ れ を

相 違

し た

特 質

を もつ もの

vilaksana

)」

明 し た こ とに恐 ら くは基づ きつ つ シ ャ ー ン タ ラ クシ タ等 に よっ て

集 合 して い る諸 法 (

bhav

samagrah )》 に 他な ら ない の と示さ れ た こ と に よ っ て , 言 わ ば骨 抜 きに さ れ て し まっ た わ けで あ るが ,

二 諦 分 別 論 細 疏 』の文 脈 17 で は,

反 論

側が, 以上 の 様な論 駁 に対 抗 す る為 に, 眼 等だ けが 眼 識を 生 ずる こ と に於 い て確 定 して お り, 大 地 等 は, 眼 識 を生 ず る こ と に於 い て確定 して い ない こ と を

証 す るべ

自性

の 添

(svabhavatiSaya ) とい う概

入 す る こ と に成 るが, ハ リバ ドラ は, そ の

議 論

述 18す る

に, 独

議 論

成, 展 開 して い る故,

本 稿

い て は

先 ず

ハ リバ ドラ の

論 述

に則 っ て

議 論

の展 一

505

(10)

後 期 中観 派の 無 自性論 証 (

2

) (金 子 ) (

47

認 して お き た い 。

6

 

各 論

4

 

因一 果説批 判

 

一 ハ ド ラ は , 記 述

23

けて 以 下の様 な

介 し て い る。

23

〕 [

AAPV

. 

W

pp

97015

 

V

pp

5505

.天 野 ;

pp

3282

論 】 [

眼 等 は, 眼 識 を

〈生 ぜ し め る もの 〉 と い う 自

を もつ (

janaka

   

svabhavya , skyed  

par

 

byed

 

pahi

 rah  

bshin

 

fiid

 

yin

 

pa )

か ら で ある。

 

こ の 記 述

23

に於 い て ,

自性

(svabhava ) に関 す る言 及 が ある こ とにっ い

清 徹

氏 は, 以 下の

に述べ て い る 19 。

24

 

と こ ろ で ,

Jfianagarbha

論 難

1

2° , 

Santarak

ita

の 示 す

  

  〕

論 難

4

21 の展

えて ,

自性

(svabhava ) を巡 る

論 議

をつ け

  

加 え て い る が, そ の理 由 は, 次 の よ うに 考 え られ る。

反 論

  〕

22 で , 果

   

を 生起 し

る諸 原

合 と, そ れ と は

集合

と は

区別

さ れ る, つ

   

ま り果の生起 に対 して効 力の あ る もの と な い もの , と区別 され る が , その

   

区 別 の 根 拠 を

Dharmaklrti

は, 自

(svabhava ) に 求め る わ け で あ るか

   

ら,

Haribhadra

は, その 論 議に言及 す る わ けで あ る。

     

し か し,

中観

派に とっ て svabhava と は, 他に依 存 す る こ と の な い もの

   

で あ り, 因や

に よ っ て

ら れ な い , は ずの もの で あ る。

Dharmakirti

  

は, ある諸 原 因 の集 合

samagri >に 果 を生 起 し

る効

し た svab −

   

hava

が , あ り得 る と考 え る か ら, 中

派 か ら す れ ば, そ の svabhava は

   

作 ら れ た もの とな り, svabhava と は

な い わ け で あ る。 し た が っ

   

て , svabhava と

り は,

一 な

に こ そ, あ り

べ きで あ る。 これ

   

に対 し て, は, 上 に 見た よ うに, 単 一 因の み な らず,

原 因 も

   

の 生

して

用 する 旨 を述べ 。 が し か し, こ の

論 議

は, 結

  

局,

1

と同 じ問 題 に 返 っ て し ま うの で あ る。 そ れ が

論 難

4

に 示

   

さ れ る

事柄

で ある。 こ の 記 述

24

に 示 さ れ る森 山 氏 の

見 解

段 落

, 即 ち, 一

504

(11)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (

48

) 後期 中観 派の無 自性論 証 (

2

) (金 子 )

Haribhadra

は , その論

に言 及す る わ けで ある。 」 迄 の 一 さ れ た 解は, 全 く正 しい もの と思 わ れ る。 然 し な が ら, 第二 段 落 目に 示 さ れ た見

に は, 全 く賛 同で き な い 。

山 氏 は, 「

を 生 起 し

る効 力 を

し た svab −

hava

」, 即 ち, 目 下 の

議 論

で は,

〈生 ぜ し め る もの〉 とい う 自

janaka

− svabhava )」が これ に該 当 す るが , こ の ‘

janaka

−svabhava ’ に対 す る 理

が , 「ある 諸 原 因 の

合 (samagri

に」 「あ り

る と

え る

ダル マ ー ル と, 中

派 と で は,

相 異

して い る とい う

見解

を示 して い る

受 け られ るが, 私 見 に依れ ば, 後 期 中 観 派 は, ‘

janaka

svabhava ’ に

して, ダル マ キ ー ィ の

説 を遵 守 る とわ れ る

っ て, 以 下 に こ の

に つ い て

確認

し て お こ う。

25

 

HB

, 

pp

8

*i6〜

pp

9

*2

諸々 の

子 (sa 

bon

, 

btj

 a)

が, 芽 (myu  

gu

, afikura ) 等 を 〈生 ぜ し

  

め る こ と〉 を

自性

とす る もの (skyed  

pahi

 rafi 

bshin

, 

janana

−svabhava

   

で ある と して も, 水

chu , salila)

な る他の 原 因に 観 待 す る もの で あ る

  

が故 に, 単 独で は (

hbah

 shig  

gis

, 

kevala

),

芽 等

生ぜ し め ない の で

  

あ る。 そ れ と

同様

に , 存 在 (

dhos

 

po

, 

bhava

が,

消滅

す る こ とを 自

  

とす る もの で ある として

も,

消滅

して

hjig

 

pa

, na §e

の原

   

観 待

す るこ とに

成 るで あろ う。

】[

そ うで は

な い の で ある。

とな れ ば,

そ れ

ち, 〈生ぜ し め る

  

こ と〉

性 とす る

等 ]

が ,

芽 等

生ぜ しめ るか らで あ り, そ

  

して,

ぜ し め る もの で は な い も の

a −

janaka

〉 は , そ れ

   [

即 ち, 〈生 ぜ し め る こ と 〉

を 自性 と す る

等]

で は な い か らで ある

  

dehi

 

ho

 

bo

 

fiid

 skye  

bahi

 

phyir

 

la

skyed  

par

 

byed

 

pa

 ma  

yin

 

pa

 

yafi

 

de

  

bi

 

ho

 

bo

 

fiid

 ma  

yin

 

pahi

 

phyir

 ro /

, 

tatsvabhavasya

 

jananad

 ajana −

  

kasya

 catatsvabhavatvat .)。 他な ら ぬ そ れ

即ち , 〈生 ぜ しめ る こ と〉 と

   

い う

自性

を もつ か

に基づ い て, そ の 両 者 の分 位 の , 実 事の 相 異が 決

   

定 さ れ るの で あ る (

de

 

fiid

 

kyi

 

phyir

 

gnas

 skabs  

de

 

gfiis

 

po

 

tha

 

dad

 

par

  

hes

 

te

, ata eva  

tayor

 avasthayor  vastubhedo  ni §ceyah )。

中略 )

   

そ れ故 に, お よ そ

で あれ,

最後

特殊

分 位

を もつ

で あ る

  

もの, そ れ だ け が,

芽 等

を 〈生 ぜ し め る こ と 〉 を

自性

とす る の で

(12)

後 期 中 観 派の無 自性論 証 (

2

) (金 子) (

49

de

 

lta

 

bas

 na  

gnas

 skabs  

kyi

 

bye

 

brag

 

tha

 ma  

gafi

 

yin

 

pa

 

de

 

fiid

 myu

gu

 

la

 sogs  

pa

 skyed  

pahi

 

ho

 

bo

 

nid

 

yin

 no

//

, 

tasmad

 

yo

ntyo ’

vasth −

anavi

§esah  sa evahkuradijananasvabhavah .)。 然 しなが ら,

最 後

な分

よ り

] 前

に生 じ た特

な分 位 を もつ

子 等

は, 原 因の原 因 な の で ある。 〜

 

カ マ ラ シ ー ラ (

Kamala

翻 a ,

740

79523

)は, 『

摂 真 実 論 細

』 (

TattvaLsa

・ mgrahapafijika

に於 い て, こ の

因 一 滴 論 』 記 述 を踏 襲 , 以 下 の 様 に述べ

26

 

1

SP

 

pp

14017

〜22 .

反 論

例 え ば (

yatha

), 種 子 等 (

brjadayah

)が ,

芽 等

を 〈生ぜ し め る こ と〉

  

を 自

と しっ っ あ っ て も (ahkuradi −

janana

−svabha 幅

h

 santo

pi

   等

が,

芽 等

単 独 で 生 じ る こ と は

い の で あ る

na  

kevala

   

janayanti

)。

何 とな れ ば,

な る

の原 因に

待す る もの で あ る か ら

  

で あ る (saliladi  

karanAntarapeksatvat

。 そ れ と同 様 に (

tadvat

), 存

  

が,

滅す る こ と を

自性

と して い て も (

bhavo

 na §vara −svabhavo ’

pD

   消

滅に関 して は (naSe ), 他の 原 因に観 待 す る こ と に成 るで あろ う (

kara

   

nantarapekso  

bhavisyati

o

答 論 】

そ の 場 合, こ れ

即 ち ,

反 論

】]

は 正 し く な い

tad

  etad

  

asamyak )。

何 となれ ば,

最 後

分 位

到 達

し た

種 子 等

だ け が ,

  [

〈生ぜ し め る もの〉 とい う

自性

を もつ こ とが 承 認 さ れ る か ら

  

(antyavastha −

praptasyaiva

 

janaka

−svabhavatvabhyupagamat )で あ

  

の もの は

を 〈生ぜ し め る もの 〉 とい う 自

つ こ と が 承 認

  

な い

nanyasya

) [

か ら で あ る

。 そ れ 故 に (

tena )

, お よ そ

で あ

  

れ, か の , そ れ

即 ち, 〈生 ぜ しめ る もの 〉

自性

とす る もの で あ る もの

   

yo

’ sau  

tatsvabhavah

そ れ は ,

芽 等

生 じ る に

な ら な い

   

janayaty

 eva ) の で あ り そ れ は (asau )

, 他

の 原

因]

観 待

し な い

  

の で ある (na 〜

param

 apeksate ) 。 然 し な が ら

tu

, お よ そ

で あ れ,

  

物 倉 等

す る (

ku

§

aladi

−stho )

種 子

で あ り,

芽 を

生 ぜ しめ な

  

い もの で あ る もの, そ れ は (asau ), それ

即 ち,

を生 ぜ しめ るこ と

502

 一

(13)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

50

) 後期 中観 派の 無 自性 論 証 (

2

) (金 子)

自性

とす る もの で は ない の で ある。 然 し (

tu

), 

L

を生ぜ し め る

の 原 因で ある

に (

karana

karanatvat

), そ れ

即 ち, 穀 物 倉

に存 す

る種子

も, 「原

因」

表 現

さ れ る が (

karana

−vyapade §ah ), 主

な も

の と して で はな い

na  mukhyatah

の で あ

っ て ,

迷乱

い の で あ る (nasti  vyabhicarah )

 

以 上 の記 述

25

と記 述

26

とを比 較 すれ ば明 らか な通 り, カマ ラ シ ー の ‘

janaka

−svabhava ’ に対 す る解

, 即 ち, 厂最 後の 分 位 に到 達 し た

種子 等

だ けが ,

芽 等を

〈生ぜ し め る もの 〉 とい う 自性 を もつ こ と が承認 さ れ る」と い う見 解は, 記 述

25

に 於 け るダル マ キ ー ィ の 学 説を遵 守 し た もの に他 な らず, 更 に , 森 山 氏が 懸 念 して い た 「中 観 派 に とっ て svabhava と は, 他 に 依

す る こ と の な い もの で あり, 因や縁 に よっ て作 ら れ な い , はずの もの で あ る。

とい う点に 関 して も, カ マ ラ シ ー ラ は,

お よ そ

で あ れ, か の, そ れ

ち, 〈生ぜ しめ る もの〉

自性

とする もの

yo

’ sau  

tatsvabhavah

を,

の 原

因 ]

し な い na 〜

param

 ape

ate )」 もの と説 明 して い る。

 

っ て,

24

段落 目

に示 さ れ た森 山氏 の 見

は, 不 適 切 な もの で あ る と

わ ねばな ら な い で あ ろ う。

 

さ て , ハ リバ ドラの

荘 厳

光 明 』に 於け る

議論

に戻 りた い が ,

に 確 認 し た記 述

23

反 論

に 対 して, 彼は, 以 下の

論 】

を提 示 して い る。

, こ こで は サ ン ス ク リッ ト原 文 も提 示 し てお き た い 。

27

AAPV

. 

W

pp

97016

、is, 

V

pp

550s

〜7 .天 野 ;

pp

3282

答 論

 

そ の様 で は ない 。 お よ そ 何 故に で あれ, 他 な らぬ , 〈生 ぜ し め る も

  

の 〉 と は別 個な もの で あ る こ と (

janakanyatva

, skyed  

par

 

byed

 

pa

 

fiid

  

las

 

gshan

 

pa

 

fiid

が, 〈生ぜ し め る もの〉 で は な い こ と

ajanakatva ,

  

skyed  

par

 

byed

 

pa

 ma  

yin

 

pa

で ある と確 立 さ れ るの で ある。

   

そ れ 故に ,

な る も

即 ち,

集 合 (

samagri

に 於 い て , お よそ 何

  

で あ れ, 〈生ぜ しめ る もの 〉 とい う自性 (ekasya  

yo

 

janaka

−svabhavas ,

  

gcig

 

gi

 skyed  

par

 skyed  

pahi

 

fio

 

bo

 

ffid

)が あるな ら ば, そ れ より

除 さ

  

れ つ っ あ る (vyavartamana , 

ldog

 

pa

 na ), 他 の諸々 の もの (apare

は,

  

〈生 ぜ し め る もの〉 と は

ら ない 。

となれ ば, 〈生ぜ しめ る もの〉 よ り,

(14)

後 期 中 観 派の 無 自性 論 証 (

2

) (金 子) (

51

な もの で あ る か らで あ る。 恰 も, 別 個 な法の

な もの で ある。

 

こ こ に 提示 し た拙 訳 の

で, 「

な る も

即ち, 集 合 (samagrf )

に於い

て (ekasya , 

gcig

 

gi)」

し た

分を, 天野

英 氏 は,

(=

子 ) に存 す る24

と訳 し,

訳 の 「

々 の もの (apare )」の 部 分 に対 し て は, 「

の もの (= 地 等 )25」 と う訳 語 を与 え 。 私 見 に 依れ ば, 天 野 氏の 翻 訳 は, 『現

観 荘 厳 論

光 明

に於 け る文 脈 に於い て は, 不 適 切 な もの で あ る故, 以

にそ の 理 由に つ い て

明 し て お き た い 。

 

先 ず初

め に , 天 野 氏 の 翻 訳 が, 全 く根 拠 を も た ない もの で は な い こ と を

告 して お か な け れ ば ならない 。 こ の 箇 所 に

す る天 野 氏 の

業 績

は,

記 述 〔

27

が ,

量 評

釋 』

為 自

比 量

章 」第

170

ab を

素 地

と し た もの で ある こ とを 指 摘 した こ と に あ る。

こ こで は, そ の

為 自

比 量 章 」 第

170

偈 ab を, 直 前 の

註 を, 記 述

28

に, そ して , シ ャ ー ャ ブ ッ デ ィ

Sakyabuddhi

66

  一

72026

)の

量 評 釈 註疏 』 (

P

紹 〃3

α緬 π褫 α

1

掫 )に

ら れ る註

を, カ ル ナ カ ゴ ー ミ ン

Karnakagomin

9

世 紀

10

世 紀27 ) 『量 評 釈 自 註 註 疏 』 (

P

襯 魏

α厩 群 貌α一∫槻 〃ぞ漉

の よ り, 梵 文 を 回

し つ つ , 記 述

29

して お く。

28

 [

PVSV

. 

pp

86i

〜3

   

yat

 

punar

 etad  uktarp  

tajjanako

 

hi

 sa 

tasya

 svabhava

   

yat

 

tasya

 

janakar

rUparp  

tato

nyo  

janakal

katharp

170ab

   

に, お よ そ

如 何

な る事 で あ れ, 以 下 の事 が

ら れ る。 実 に そ れ

  

ち,

A

を 〈生 ぜ し め る もの 〉, それ は, そ れ

ち, 

B

に と っ て の

   性 で あ る。

     

お よ そ

で あれ, そ れ

即 ち,

B

に とっ て の,

A

〈生 ぜ しめ る も

  

の 〉 とい う性 質 な る もの , そ れ よ り別 個 な もの

即 ち ,

C

は, ど う し

   

て, 〈生ぜ し め る もの 〉 で あ ろ うか 。

29

 

PVSI

T

, 

pp

32613

〜15 ,=

P

レ 「

1

[ , 

P

Je

230a1

〜2

   

tajjanako

 

hi

 

tasya

 

§

alya

1

{urasya

 

janako

 

hi

 

sa

 

tasya

 

§

alib

iasya

  

svabh 訌vah

yac

 ca 

tasya

§

alib

asya  

6alyafikurajanakam

 rUpam /

tato

(15)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

52

) 後期 中観派の 無 自性論 証 (

2

) (金 子)

janakad

 rapad  anyah  

prthivyadi

 

janakah

 

katham

 

iti

 

に, それ を 〈生 ぜ しめ る もの〉 (

tajjanaka

)」 と は, そ れ を, 即 ち,

(§

alyahkura

) を く

ぜ し め る もの 〉 で

り,

に,

そ れ

ち,

の芽 を 〈生ぜ しめ る もの 〉

が , そ れ の」, 即 ち,

子 (§

alibi

ja

)に とっ ての 「自性 」で ある。

 

そ して, 「お よ そ

で あ れ, そ れに とっ て の」, 即 ち,

の種子 に とっ て の ,

を 厂〈生ぜ しめ る もの 〉 とい う性 質 な る もの, そ れ

, 即 ち, 〈生ぜ しめ る もの 〉 とい う性 質 よ り,

別 個な もの 」, 即 ち, 大 地 等は,

ど うし て, 〈生ぜ し め る もの 〉 と な ろ うか 。」 とい う意 味で あ る。

 

天 野 氏 に よっ て

指 摘

さ れ て い る通 り, ハ リバ ドラが,

27

を論 じる 際 に, 記 述

28

を素

と した こ と は,

違 い ない で あ ろ う。 然 し な が ら, ハ リ バ ド ラ が ー キ よ る

29

全 く

同様

記 述

28

して

して い た か

か は, ハ リバ ド ラの

展 開

す る文

よ り

判 断

する よ り

に ,

い で あ ろ う。

 

さ て そ れ で は, 記

27

は, ハ リバ ドラ の

論述

い て どの

位 置

づ け が 為 さ れ て い た で あ ろ うか。 抑 も, 記 述

27 〕

直 前

示 さ れ て い た

論 】

で あ る記 述

26

は, 眼

とい う集 合 だ け が, 眼 識 を 生ず る こ とに於い て

確 定

して お り, 大 地 等 とい う

合 は, 眼 識 を生 ずる こ と に於い て は確 定 し て い な い こ と を 示 す

に, 「

論 】 [

は, 眼

〈生ぜ しめ る もの〉 とい う 自 性 を もつ

janaka

−svabhavya )か らで あ る。」 と述べ ら れ て い た。 即 ち, 「眼

」 或い は , 「大 地 等 」 とい う 《集 合 (samagrf )

の レ ヴ ェ ル に於い て,

〈生 ぜ しめ る もの 〉 と い う 自 性

janaka

−svabhava )」の 有 無が 問 題 と さ れ て い た の で ある。

 

従 っ て , 記 述

27

に於 け る ‘

ekasya  

yo

 

janaka

svabhavas

合 (

samagrf )

の レ ェ ル に 於 い て ‘

janaka

− svabhava ’ の 有 を 論 じ た もの と

看做

すべ き で る か ら ‘ ekasya ’ は, 「 一 な る もの

ち,

合 (samagrf

い て

と解 釈す るべ き で ある と思わ れ る。 こ れ に対 して , 天 野 氏 の,

(二

す る

訳 語

は ,

とい う

集 合

の 内 部 に

け る,

集 合

して い る

法 (

bhavab

 samagrab )

の レ ヴ ェ ル に よ っ て 解

し た もの で

るか ら, た とえそ れが

ル マ キ ー ィ の

論述

す る

解釈

と し て

妥 当

な 一

499

参照

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