Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
38
) 後 期 中観 派の 無 自性論 証 (2
) (金 子 )後 期 中観 派
の
無 自性
論 証
(
2
)
−
A
餉 細〃zαyσ
1
α 辮 梅 短 oん4 に 見ら れ るMu
bshi
g.kye
ba
hgog
pahi gtan tshigsに つ い て一金
子
宗
元
は じ め に本 稿
の目的
は,前稿 (
『
曹 洞 宗研 究 員研 究紀
要』 第
29
号 掲
載 予定
1 ,本 稿
に於 い て は,拙 稿
(1
)
と略 記 )
に引
き続
き, ハ リバ ド ラ (Haribhadra
, ca .800
,A
.D
.)の著 作
, 『現 観荘 厳
論 光 明』
(〆1
肋 磁 〃3αy
畆α耀 ん伽 σ10
航 )に 見 ら れ る《
四選択
肢の 生 起 を否 定 す る証 因》
(mubshi
skyeba
bgog
pa
り
i
gtan
tshigs2
)に 基づ く無 自性 論 証 を, 詳 細 に
解
明 する こ とに あ る。従
っ て本
稿で は, 先 行 業績
の 確 認, 及び, 筆 者 の後 期 中観 思 想 研 究 に対 す る問題
意識
に関
し て は, 前 稿 と重 複す る故, 再 び細 説 す る こ と は控 え たい が, そ の 要 旨の み を述べ て お こ う。 こ の『
現観荘 厳 論光
明』
の当該箇 所
に対
す る従来
の諸
研 究は, 後 期 中観 派 の 学 匠 達 に よ るダ
ル マ キ ール テ ィ (Dharmakrti
,600
〜6603
)批
判 とい う図 式の 下に解釈
が為 さ れ て きた 。 そ うした先 行業
績 に対 し て筆 者
が懐
い た問
題意 識
と は, 「後 期 中観
派の学
匠 達 は,ダ
ル マ キ ー ル テ ィ の 認 識 論 と論
理学
よ り,強
い 影響
を受 けてい るの に も拘わ らず, 他 な らぬ 彼 自身 を批 判
してい たとい う事
な ど, あ り得
たの か ?」 とい う疑 問 に端
を発 す る もの で あ る。 詳 し くは, 拙 稿 (1
), 就 中,「
1
序
一 後期 中観思 想 研 究 に お け る視 座一」
を参 照 され た い 。5
各 論
(
3
)
一 多 因一 果 説 批 判
一
前
稿
に於
い て は,『
二諦
分別 論
』(
Sa
!y
αdvayavibha
dega
)第
14
偈
, 及 びそ の 自註の ジ ュ ニ ャ ー ナ ガル バ (Jfianagarbha
,700
〜7604
) の 論 述 に基 づ い た 《多
因一果説 》 批判
の 祖 述箇
所 迄 に関 して考察
し た。然
る にハ リバ ドラ は,前掲
に 於 い て確
認 し た 記 述〔
15
〕
の直 後
に, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ (SAntarak
$lta
,725
〜7885
)の 『二 諦 分 別 論 細 疏 』6 (S
α伽α翼 励 加 勿g4
ρ祕 勲の
か ら, 更 に 一513
一駒澤大 學佛教 學 部論集 第
29
號 卒 成10
年10
月 (39
) 以 下 の様
な反 論を引 用, 紹 介 して い る。〔
17
〕 [
A
.APV
.W
;pp
.9706
〜s ,V
;pp
.54929
−L3i .SD
VP
,P
;Sa
.19a8
〜19b2
,D
;Sa
.29a5
・ ”6.天 野7 ;pp
.32745
}9.Ecke18
;pp
.13034
’−3s.]
【
反論 】結
果 を生ぜ し め る もの(
janayitrT
karyasya
)は, 集 合 (samagrt )であ り, そ して,
[
結 果が ,]
そ れ[
即ち, 集 合]
の 随 伴 と排 除 に随
順 す る こと (anvaya −vyatirekanuvidhayita −, rjes su
hgro
ba
dah
ldog
Pahi
rjes subyed
pa
nid
)
に よっ て,結
果の相
異 と非相
異 とい う こ の 両 者 が(
imau
〜
karyasya
bhedabhedau
) ,[
集 合
の] 相
異 と非相
異に 随 順 す る こ と は,穏 当 (
catura ,bzo
ba
) なの で は ない の か 。 こ の故
に, ど うして , そ れ ら[
即 ち,結 果
の相 異
と非相 異]
が原
因を もた ない もの と成
るで あろ うか 。こ れ は,
前稿
記 述〔
15
〕
に確
認 し た「
結 果 の相
異 と非相 異
は, 原因
の相 異
と 非 相 異 に対 し て, 随伴
と排 除の 両 者に観 待 しつ つ ある もの で は ない[
故 に]
, 因を も た ない もの と成
る で あ ろ う。 (karanabhedabhedav
anvayavyatirekab ・hyam
anapek $amapaukaryasya
bhedAbhedav
ahetukau syatam9 )」 とい う中観 派に よ る 《多 因一 果 説 》 批 判 に対す る反 論 と して , シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ が
紹
介 し た もの で あ るが , こ こで 注 目す べ き は, 対 論 者 側 は, 原 因が 多な る も の, 即ち,相
異 は もつ が ,非 相
違 は も た ない の に対 して , それ に よ っ て も た ら さ れ る結 果
が一 な る もの で ある な らば,相
異 を も たず
, 非 相 違 をもつ こ と に成 っ て し ま うとい う矛 盾
を解 消
する為
に,《
集 合 (samagrt >》
と い う概 念
を 導 入 して い る点
で あ る1° 。 即 ち《集合
(samagrr )》 は, そ れ を構
成 して い る 「諸々 の集 合
して い る もの(
samagra)
」 とい う観
点よ り見れ ば,多
なる もの ,即
ち, 相 異 を もつ もの で あ る が , 一 纏 ま りの 《集 合
(samagrt )》
と い う観 点
よ り見 れ ば, 一 な る もの, 即ち ,相
異 を もた ない もの と成
る為
,多
な る原
因に も非相
違が成 立す るこ と の 根 拠 と し て, 《集 合
(samagrt )》
とい う概 念
を利 用 して い るの で あ る。 そ し て, こ の様
に考
え る こ とで, 結 果の 非相
違が, 原因
の非相
違 に随 順 し, 結 果の非
相 違が, 原 因 を もた ない もの と成 る とい う過 失を排 除 し よ う と意 図 し た もの と思わ れ る。こ の
様
に , 「結 果 を 生 ぜ し め る も の(
janayitrT
karyasya
)」を 「集 合 (samagrt )」 とす る見解
に 関 して, 天野宏 英 11 氏 は, 以 下 の様な 『量 評 釈 自註 』 一512
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
40
) 後期 中観派の無 自性 論 証 (2
) (金 子 )(
Prama
’nava ’rttikasvav rtti
) に於 け る ダル マ キ ー ル テ ィ の論 述
を紹 介
して いる。
〔
18
〕
[
PVSI
/ ,pp
.2318
〜22]
【
反論 】
さて , そ うであ
るな らば, どう して,相
違 して い る共働 因
か ら(
bhin
−nat sahakarinah
,
lhan
cigbyed
pa
thadad
pa
las
) [
一 な る
] 結
果が 生起
するのか 。
恰
も, 眼 と色
等か ら,識
が[
生起
す る]様
に 。【
答 論】
一 な る もの が, そ れ[
即 ち, 生ぜ し め る こ と]
を自性
と す る もの で あり, 生 ぜ し め る もの で あ る こ と は,
如 何
な る もの も決 して無
い の で あ る(na vai
ki
甲cid ekarp
janaka
甲tatsvabhavam
)
。 そ うで は な く (kirp
tu
,hon
kyah
), 集
合
(samagri ,tshogs
pa
)が, 生 ぜ しめ る もの (janika
,skyed
par
byed
pa
)
なの で あ り, そ れ[
即ち, 生ぜ し め る こ と]
を 自性
とす る もの (
tatsvabhava
)な の で あ る。他
な らぬ そ れ[
即 ち,集 合 ]
は, 推 理 され る (anum †
yate
)の で ある。 ま た ,他
な らぬ その集 合
は,自
性 を 確 立 す る こ とに よ っ て (svabhava −sthitya
)
,結
果 の 所依 (
agraya
り
karyasya
) なの で ある。他
な らぬ そ れ 故に ,諸
々 の 共 働 因 も, 順序
を待っ こ と無 く (aparyayena , rnam
grahs
medpar
),[
結 果 を]
生ぜ し め るの で ある。
こ の
記 述 〔
le
〕
に於
い て も明
らか な様
に, ダル マ キ ー ル テ ィ は, 「生ぜ し め る もの (janika
)」
を《集 合
(samagri >》 と定 義 し て い る。 従っ て, そ の意味
に於い て は, 先 に確
認 し た記 述〔
17
〕
の所説
を, ダル マ キ ール テ ィ の 見 解に 類 似す る もの と言 うこ と も可能
で あ ろ う12。然 しな が ら, 記 述
〔
17
〕
に見 ら れ る学説
が,彼
の見解
と全 同で あ る と看做
す こ と は不 適 切 で ある と思わ れ る。 とい うの も, 私 見 に依れ ば, こ の 「集 合 」 に関
して も, 少 な くと もシ ャ ー ン タ ラ ク シ タ とハ リバ ドラ に は,ダ
ル マ キ ール テ ィ の 見解
を意 識 しつ つ も, 彼自身
を批判
し よ う とい う意図
は無
か っ た様
に思わ れ る か ら で ある。 そ れ は, 以 下 の 二 つ の理由
に よっ て で ある。第一 に, 既 に
前 稿
に於
い て,記 述 〔
2
〕
に確 認
し た 『八千 頌 般 若 経 』
(Ast
− asahasrikaprajfia −paramita
)第
三 十一章の 一一節が説
か れ た 意 図を説
明す る中
で, ハ リバ ドラ は, 以下
の様
に述べ てい た。 一511
一後期中観派 の 無 自性論 証 (
2
) (金子 ) (41
)〔
19
〕 [
んAPV
.W
;pp
.96924
‘25 ,V
;pp
.5492
ト 22.
]
「
総 て の も の の和 合
に 基 づ い て,音
色 が 施 設 さ れ る (sarvesamsalpayggagg
!
hlabdaUpl
bd
h
:ajl
fi
!
apy
{}
t
1
)⊥
とい う こ の こ とに よ っ て も, 施 設 的な
音
色 を 示 す こ と(
prajfiaptika
−§abda −nirdega)
に よ っ て,集 合
(sama −grT
,tshogs
pa
)
か ら,実 義 的
な 生 ぜ し め る も の の自 性 (
tattvikam
janaka
−svabhavarp,
yafi
dag
par
skyedpa
po
りi
iio
bo
yin
pa
) を排除
して い る (nirasyati ) の で あ る。
註 釈 対 象
と な っ た記述 〔
2
〕
に於
い て は,「
和 合
(samayoga)
」の語
は 見 ら れ る もの の,《集 合
(samagrf )》
とい う語
は存在
し ない 為, こ の ハ リバ ド ラの論
述は, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ に よる《
多 因一 果 説》
批 判 に於い て, 記 述〔
17
〕
の様
な形で 登 場 す る《
集 合》
とい う語 を意 識 して述べ ら れ た もの と推 測 出 来 る が, こ こ で留 意す べ き点 は, 彼 に は, 「和 合 」や 《集 合 》 と い う概 念 を 否 定 し よ うとい う意 図 は見 られ ない こ と で ある。 そ うで は な く, その 《集 合 》が 「実義 的 な (
tattvika
) 生ぜ しめ る もの の 自性
(janaka
・svabhava )」
を もつ もので あ る と看 做 す
見 解
を否定
し よ うとし て い るの で ある。一 方, これ に
対
して ダル マ キー ル テ
ィ は,
《集 合》
の有
す る 「生ぜ し め る もの の
自性 (
janaka
−svabhava)」
を「
実 義 的
な もの(
tattvika
)」
と は,看 做
して い な か っ た と
推
測さ れ る。何
と な れ ば, 記述 〔
18〕
に於い て,彼
は,《
集 合》
を「
生ぜ し め る もの(
janika
)
」で あ り,「
そ れ[
即ち, 生ぜ し め る こ と]
を自
性 と す る もの (tatsvabhava
)」 と し な が ら も, 「推理 さ れ る (anumtyate )」
もの で ある と述べ て い るか らで ある。推
理の対 象
は,他
な らぬ彼
自 身に とっ て 共 相 (samanyalakSa 阜a)で あ り, 世 俗 有 (sarpvrtisat )で ある か ら, 「実義
的
な も の (tattvika )
」で は あ り得
な い で あ ろ う13。従
っ て,先
ず第
一 に こ の事 に基 づ い て も, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ とハ リバ ドラが 批 判 対 象 と して い る記 述〔
17
〕
に見 られ る学 説 は, ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 学 説に類 似 し て い る もの で は あ るが, 全 同で は な い の で あろ う。第二 に, 記 述
〔
17
〕
に 見 ら れ る学説
は, ダル マ キ ー ル テ ィ 自身の学 説
と矛盾
す る こ とを指摘
す る こ とが出 来 る。 既 に述べ た様
に, 記 述〔
17
〕
の 意 図は,多
なる原因
に も非 相 違
が成
立す る こ との根 拠
と して ,《集 合 (
samagrt)
》
とい う 一510
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
42
) 後 期 中観 派の 無 自性論 証 (2
) (金 子 )概 念
を導
入 する こ と に あっ た と思わ れ る が, ダル マ キ ール テ ィ自身
は, 既に確 認 し た前 稿
記 述〔
16
〕
の「
因一滴論 』 (
Hetzabindu
)
の記 述
の様
に ,《集 合》
を 「相
違 した特 質
を もつ もの(
vilaksana )」
と定 義
す る故
, 記述 〔
17
〕
の様
な対 論 者 側の立 場 に立 つ の で は な く,寧
ろ, そ れ を批 判 す るシ ャ ー ン タ ラ ク シ タ, ハ リバ ドラ側の 立 場 に 立っ て い る と思わ れ るの で あ る。 従っ て, 記述〔16〕
を再 度 確
認 し てお こ う。〔
16〕
(再 出 )[
HB
,pp
.20
*ls〜pp21
*1°]
【
反論 】何
らか或
る もの (kirTicid
, cuh zad)
は,相 違
し た種 類 の もの か らで あっ て も
(
vijatlyad api, rigs mi mthun
pa
las
kyafi
), 生 じつ つ ある(
bhavat
,bbyufi
) こ とが 経 験 されるの で ある。 例 え ば (tadyatha
,dper
.na
)
,牛
の糞 等
か ら(
go
−mayfideh ,ba
lafi
gi
lci
ba
la
sogspa
las
)
,蓮
の根
等 (§alakadih
, §aIU
ka
la
sogspa
)が[
生 じつ つ ある]
様
な もの で ある。
【
答 論】
相違
し た種 類 の もの か ら生起 する こ と は, 無い の で ある (na vijat τyad
utpatti
り
, rigs mi mthunpa
las
llbyufi
ba
ni mayin
te
)。〜 (
中
略 )〜何
と な れ ば, その 様で ない な ら ば (anyatha ), 相 違 し た特 質 を もつ 集合
か らで あ っ て も (vilaksanaa
ai
sama ra
,tshogs
pa
mtshanfiid
mihdra
ba
las
kyah
), 相違
し た特 質 を も た な い 結 果が生 起 す るな ら ば (a一vilaksana −
kary
δtpattau
, mtshan 面d
mihdra
ba
mayin
hbyu
血na ni), 原 因の相違
と非 相違
か ら,結
果の相違
と非相 違
が[
生起
する こ とは]無
いの で ある
(
nakarana
−bhedabhedabhyam
karya
−bhedabhedau
)
。
従
っ て(
iti
)
,あ
ら ゆ る もの(
vigva)
に とっ て の ,相 違
と非 相 違
は, 因 を もた な い もの (a −hetuka
, r umed a) と成
る で あ ろ う。とい うの も (
tatha
hi
) ,相 違
か ら,相
違
が[
生 起
す る こ と は]
無
く,従
っ て ,非 相
違 か らで あっ て も,非相
違 は,[
生 起 し]
な い の で あ る。 そ し て, そ れ[
即
ち,相 違
と非相 違 ]
よ り排 除
さ れ る法
の自性
は,如何
な るもの も無 い (
tad
−vyatiriktag ca nakagcid
bhava
−svabh 盃va ,de
las
magtogs
pabi
dhos
pobi
ho
bo
fiid
kyafi
bgall
yah
medpa
)。 従っ て, 諸 法
は, 因を もた な い もの
[
と成る]
故 に , 常に , 存 在す るか, 或い は, 存在
し な い もの と
成
る で あ ろ う。 何 とな れ ば, 観待
さ れ べ き もの (apek §ya
,後 期 中観 派の無 自性論 証 (
2
) (金子 ) (43
)】
tos
par
bya
ba
)[
即 ち,因
]
が,存在
し ない か らで ある。何
と な れ ば,諸
法は,[
因
に]
観 待
する こ とに よっ て,何
らか或
る時
に[
生
じる]
もの(
kadacitka
, resbgab
ba
)
と成
るか らで あ る。傍 線の 下 線 部 に
着
目 さ れ た い が, こ こ で は, 明 ら か に《集 合 (
samagri)》
を「
相違
し た特 質 を もつ もの (vilak §apa )」
と説 明
し た 上 で, そ の《集 合 》
か ら, 一 な る 結 果 , 即 ち, 「相 違 し た 特 質 を も た な い結
果 (a −vilaksana −karya
)」が 生 起 す る と想 定 し た場 合 の 過 失を追究
して い る の で あ る。 そ の根本
的 な過 失が ,点線
の下線 部
に 示 さ れて い る .訳
で あるが, こ の「
あらゆ る もの に とっ て の ,相
違 と非相
違 は, 因 を も た ない もの と成 る で あろ う。 」 とい う言 明 が , 既 に確 認 し た記述〔
17 〕
の 論 旨, 就 中, 「ど うし て , それ ら[
即 ち, 結 果の相
異 と非
相 異]
が原
因 を もた な い もの と成 る で あろ うか。」 とい う言明 と,全
く対
立 す る もの で ある こ と は , 説 明す る迄 も な い で あ ろ う。更
に, ジ ュ ニ ャ ー ナ ガル バ が , 《多 因 一 果 説 》 を論 破す る際
に , こ の記 述 〔
16
〕
の【
答 論 】
の 部 分 , 即 ち, ダル マ キ ー ル テ ィ 自身の側
か ら述 べ ら れ た 理論
に全 面 的
に依 拠
し て い る こ と も, 既に 前 稿 記 述〔
15
〕
に確
認 し た通 りで あ る。従
っ て,記
述〔
17
〕
に見
られ る見 解
が , ダル マ キ ール テ ィ自身
の 見解
と完
全 に一 致す る もの で は な い こ と は 明 白で あ り, ダル マ キ ー ル テ ィ自身
の見解
は,寧
ろ後
期中観
派の採
る立場 に近 い もの で あ っ た と推 測 され る。さて, そ れ で は,
記
述〔
17 〕
をシ ャ ー ン タラ ク シタ , ハ リバ ドラ は, どの 様 に批 判 して い る の で あろ うか 。 今 こ こ で は, ハ リバ ドラ の祖
述 に よっ て確
認 し て お こ う。〔
20
〕 [
AAPV
.W
;pp
.97
s−−1° ,V
;pp
.54931
〜5502
,≒SDVP
,P
;Sa
.19b2
”−3 .D
;Sa
.29a6
“”7.天野 ;pp
.3279
−i2.Ecke
];pp
.131i
”’J「.
]
【
答 論 】
これL
即 ち,【
反論 】
= 記
述
〔
17
〕]
は,
核
心が 無い もの で ある (naitatsa「a「
P
,
bdi
ni sfiinPo
yod
Pa
mayin
te
) ’4 。 とい うの も,集
合 (samagri )と
言
われ る もの は, 諸々 の集 合
して い る(
samagra)
もの よ り別 個
な ものと して は,
如 何
な る もの も存 在
し な い 15 の で あ り, そ うで は な く (kim
tarhi
,hon
kyafi
)
,他
な らぬ集合
して い る諸
法が「
集
合」
とい う言 葉 に よっ て語 ら れ るべ き もの なの で ある (samagra eva
bhavah
samagrr −Sabda
一 一508
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
44
) 後期 中観派 の 無 自性 論証 (2
> (金子 )vacyah ,
tsho
sa rnams
kyi
fio
bo
fiid
tshogs
pahi
s rasbrjod
par
bya
ba
yin
)’6。 そ して , そ れ ら
[
即 ち, 集 合 して い る諸 法]
は, 相 互 に 排 除され る
自性 (
paraspara
−vyavrtta −svabhava ,phan
tshun
ldog
pahiho
bo
)を もて る もの で あ り, 眼
等
な る相
異 してい る もの と して存在
しっ っ あ るの で あ る。点線
の 下 線 部 は, シ ャ ー ン タ ラ クシ タ の『
二 諦 分 別論
細 疏 』に於 い て は 見 ら れ ない もの で あ り, ハ リバ ドラが 独自
に補
足 した と思わ れ る記述
で ある。 こ の記
述〔
20 〕
の 意 図 は, 《集
合 (samagrD 》 と は, 「他 ならぬ 集 合 して い る諸 法(
samagraeva
bhavah
)」
で しか な く, そ れ らは, 厂相 互 に 排 除 され る 自 性(
paraspara
−vyav ;tta
−svabhava)」
を もて る もの で あ るが 故 に ,厂
相 異
し て いる もの
(
bhinna
)」 に他
な ら な い , とい うこ とを示す こ と に あ る と思わ れ る。 即 ち, 記 述〔
17
〕
に於い て対 論 者 が,多
な る原 因に も非 相 違が成 立す る こ と の 根 拠 と して 導入 し た 「集 合 」 も,諸
々 の「
相 異 し て い る」,「
集 合 して い る諸
法 」 を 示 す もの に他な ら ない 故 に, 必 ずし も過 失を排 除
し得
ない , とい う こ と を 示 し た もの と思わ れ る。こ の様 に,
《
集 合 (samagrt )》
を,「
集 合 して い る諸
法 」 と解
釈 し, そ れ ら を 「相
異 し て い る もの 」に 他 な ら な い , と位
置 付 ける立場 は, 既 に確
認 し た記 述〔
16
〕
に於い て, ダル マ キ ール テ ィ が,《
集 合
(samagri >》
を 「相
違 し た特
質
を もつ もの (vilaksana )」
と説
明す る立 場 に , 一 致 す る もの と言
い得
る で あろ う。 即ち, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ は, ダル マ キ ー ル テ ィ の 見解
を踏 襲
して い る の で ある。 シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ は , 記述 〔
20
〕
に続
け て, 以 下の様
な批 判 を提
示 して い る。〔
21
〕 [
A4PV
.W
;pp
.970io
“’i3 ,V
;pp
.5502e3
。≒SDVP
,P
;Sa
.19b3
〜4 .D
;Sa
.29a7
.天 野 ;pp
.327
’z〜14 .Eckel
;pp
.1314
−−s.]
もし も,
[
集合
して い る諸 法が ,]
相 異 し て い な い , 眼 識 とい う結 果,即 ち, 一 な る も の に
他
な ら な い も の を , 生 ぜ し め る こ と (upa −janayitum
)が 可 能 で ある な らば, そ の時
に は,[
眼 等 と は]
別 個 な集 合
の 内部 に存 す る (samagry −antarantah ・
patin
)
[
大 地等
の]集 合
し て い る諸
法 も, 眼識
を生ぜ し め る こ と を, どうして為
さ ない の か。後期 中観派の 無 自性 論証 (
2
) (金子 ) (45
)こ こ で も,
点 線
の下線 部
は, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ の『
二諦 分
別論細 疏 』
に於
い て は見 られ ない もの で あ り , ハ リバ ドラ が独 自に補 足 した と思わ れ る記 述で あ る。 こ の 記 述〔
21
〕
で, シ ャ ー ン タ ラ ク シ タ は, 記 述〔
20
〕
に 於い て示 した,
《
集 合 (
samagrD》
は,「
他
な ら ぬ集 合
し て い る諸 法 (
samagra evabhavah
)」で し か な い , と い う 見解
よ り更 に踏
み 込 ん で,「
別 個 な 集合
(samagry −antara )」 に迄, 言及 してい る。 こ の記述だ け を見 る な らば,少
々 , 議 論が 飛 躍 し たか の 如 き印 象 を受 け る が, 恐 ら くシ ャ ー ン タ ラ ク シ タ の意 図 は, 何 らか 或 る結 果 を 生 起 す るべ く 「集 合 して い る諸 法 」 を, その 目 的 毎 に 《集 合 (samagri )》 とい う枠 組
みで 捉え る こ とを, 排 除す る こ とに あっ た と思 わ れ る。 即ち, こ の箇 所
は,多
因 一果 説
を批 判
す るこ とを目的
と してい る為
, あ く まで, 「相
互 に 排 除 さ れ る自
性 」を もつ「
集合
して い る諸
法 」の レ ヴ ェ ル で 議 論を展 開 し た か っ た 為で あろ うと思 わ れ るの で ある。 こ の 様 な私 の理解
は, 記 述〔
21 〕
に続
く, 以 下の様
な議 論
に よっ て も指
示 され る と思わ れ る。〔
22 〕 [
Sl
)Vl
〕 ,P
;Sa
.19b4
.D
;Sa
.29a7
.Eckel
;pp
.1319
−i3.]
【
反論 】 [
別 個
な集 合
の内
部 に存
す る,集 合
して い る もの は,]
そ れ[
即 ち, 眼等
]
よ り相 異 して い る もの で あるが故 に,[
眼 識 を]
生 ぜ し め な い の で あ る。【
答 論】
同様 で ある (de
bshin
no ) 。〔
23
〕 [
AAPV
.W
;pp
.970io
−i3,V
;pp
.5503
』5.≒SDVP
,P
;Sa
ユ9b4
.D
;Sa
.29a7
.天 野 ;pp
.327i5
〜pp
.328i
.]
【
反 論 】 大 地 (ksiti
, sa ) 等 は, 眼等 よ り相 異 し て い る こ と (bhinnatva
)に よっ て,
[
眼識 を]
生ぜ し め な い の で あ る。【
答
論】
眼等
も,相
互 に相 異
し て い る自性
を もつ もの で あ り, ど う して , 生 ぜし め るの か, と
語
ら れ るべ きで あ る。シ ャ ー ン タ ラ ク シ タに よ る記
述
〔
22
〕
は,非 常
に簡
潔 に述
べ られ た もの で あ る為
に, ハ リバ ドラ に よ る記
述〔
23
〕
は,恰
も それ を 註釈
した もの で ある か の様
に も 見 受 け ら れ る もの と成
っ て い るが ,私 見
に依
れ ば, こ の記
述〔
22
〕
に対
一506
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
46
) 後 期 中 観 派の 無 自性 論 証 (2
) (金 子 ) す るハ リバ ドラの解
釈は 正 しい と思 わ れ る故 に ,今
こ こ で は, ハ リバ ドラ に よ る記述〔
23 〕
に則 っ て 論 述 を進 め たい 。さ て, こ の 記
述
〔
23
〕
に於
い て ,【
反論
】
側 と【
答論
】
側 双 方 に見
ら れ る「
相 異 して い る (bhinnatva
, parasparabhinna −)」 とい う語 に着
目さ れ た い 。何
故 な ら, そ れ に よ っ て , 双 方の 立 場の相 異が浮 彫 とな る か らで ある。 先 ず,【
反 論】
側 に於 け る 「相 異 」 は, 「大 地 等 」 と い う 《集 合 (samagri )》 と 「眼 等 」 と い う 《集 合 》 との 間の 「相 異 」 に つ い て 述べ た もの で あ り, 言 わ ば,《集 合》
の レ ヴ ェ ル に於 け る 「相
異 」 を述べ てい るの に対
し て,【
答 論
】
側に 於 け る「
相
異 」は, そ の「
眼等
」 と い う《
集 合 》
の内
部 に於
け る, 眼 ・色
・光明 ・
作 意 等
(caksU −rakaloka −manaskarfidi ) と い っ た諸
々 の《
集 合
し て い る諸 法 (
bhavaり
samagrab )》 が,相
互 に 「相
異」
して い る 自性
を もつ もの で あ る こ とを述べ た もの で あ り ,言
わ ば,《
集 合
して い る諸 法》
の レ ヴェ ル に於 け る 「相
異」
を述べ た も の な の で あ る。従
っ て, 双 方 の 論 じ る 「相 異 」
に は , 《集 合 (samagrt )》 の レ ヴ ェ ル に於 け る もの と, 《集 合 して い る諸 法 (bhavah
samagrab )》の レ ヴ ェ ル に於け る もの とい う差 違 が見 られ る の で あ る 。 私 が敢 え て こ の 差 違 につ い て論 じた の は, こ こ に 明 らか に, 個々 の 《集 合 (samagrt )》 を, そ れ ぞ れ 一 纏 ま りに捉 えよ うとする【
反 論】
側 と, その様 に解 釈
す る こ とに よ っ て ,本 来
,相
異 して い る諸 法が集
合 して い る に 過 ぎな い も の に於い て,同
一 な る《
集 合 》
とい う非 相
違が成
立 す るこ との根 拠
が与
え ら れ る こ と を極 力
回避
し よ う と してい る【
答 論 】側
の意 図
が, 明瞭
に把 握
さ れる と 思わ れ るか らで ある。以 上 の
様
に,【
反論 】側
が持
ち込ん だ,《集 合 (
samagri)》
とい う概 念
も, ダル マ キ ー ル テ ィが そ れ を「
相 違
し た特 質
を もつ もの(
vilaksana)」
と説
明 し た こ とに恐 ら くは基づ きつ つ , シ ャ ー ン タ ラ クシ タ等 に よっ て《
集 合 して い る諸 法 (bhav
碑
samagrah )》 に 他な ら ない もの と示さ れ た こ と に よ っ て , 言 わ ば骨 抜 きに さ れ て し まっ た わ けで あ るが ,「
二 諦 分 別 論 細 疏 』の文 脈 17 で は,【
反 論】
側が, 以上 の 様な論 駁 に対 抗 す る為 に, 眼 等だ けが 眼 識を 生 ずる こ と に於 い て確 定 して お り, 大 地 等 は, 眼 識 を生 ず る こ と に於 い て確定 して い ない こ と を論
証 す るべ く,自性
の 添性
(svabhavatiSaya ) とい う概念
を導入 す る こ と に成 るが, ハ リバ ドラ は, そ の議 論
を祖
述 18す る前
に, 独自
に議 論
を構
成, 展 開 して い る故,本 稿
に於
い て は先 ず
ハ リバ ドラ の論 述
に則 っ て議 論
の展 一505
一後 期 中観 派の 無 自性論 証 (
2
) (金 子 ) (47
)開
を確
認 して お き た い 。6
各 論
(
4
)
一
多
因一 果説批 判一 ハ リバ ド ラ は , 記 述
〔
23
〕
に続
けて 以 下の様 な【
反論
】
を紹
介 し て い る。〔
23
〕 [
AAPV
.W
;pp
,97015
,V
;pp
.5505
.天 野 ;pp
.3282
.]
【
反論 】 [
眼 等 は, 眼 識 を]
〈生 ぜ し め る もの 〉 と い う 自性
を もつ (janaka
−svabhavya , skyed
par
byed
pahi
rahbshin
fiid
yin
pa )
か ら で ある。こ の 記 述
〔
23
〕
に於 い て ,自性
(svabhava ) に関 す る言 及 が ある こ とにっ い て ,森
山清 徹
氏 は, 以 下の様
に述べ て い る 19 。〔
24
〕
と こ ろ で ,
Jfianagarbha
の〔
論 難1
〕
2° ,Santarak
寧ita
の 示 す〔
反論
〕
〜〔
論 難
4
〕
21 の展開
に加
えて ,自性
(svabhava ) を巡 る論 議
をつ け加 え て い る が, そ の理 由 は, 次 の よ うに 考 え られ る。
〔
反 論〕
22 で , 果を 生起 し
得
る諸 原因
の集
合 と, そ れ と は別
の因
の集合
と は区別
さ れ る, つま り果の生起 に対 して効 力の あ る もの と な い もの , と区別 され る が , その
区 別 の 根 拠 を
Dharmaklrti
は, 自性
(svabhava ) に 求め る わ け で あ るから,
Haribhadra
は, その 論 議に言及 す る わ けで あ る。し か し,
中観
派に とっ て svabhava と は, 他に依 存 す る こ と の な い もので あ り, 因や
縁
に よ っ て作
ら れ な い , は ずの もの で あ る。Dharmakirti
は, ある諸 原 因 の集 合
(
samagri >に 果 を生 起 し得
る効力
を有
し た svab −hava
が , あ り得 る と考 え る か ら, 中観
派 か ら す れ ば, そ の svabhava は作 ら れ た もの とな り, svabhava と は
言
い得
な い わ け で あ る。 し た が って , svabhava と
言
う限
り は,単
一 な因
に こ そ, あ り得
べ きで あ る。 これに対 し て, は, 上 に 見た よ うに, 単 一 な 因の み な らず,
他
の諸
原 因 も結
果の 生
成
に対
して作
用 する 旨 を述べ たので ある 。 が し か し, こ の論 議
は, 結局,
〔
論難
1
〕
と同 じ問 題 に 返 っ て し ま うの で あ る。 そ れ が〔
論 難4
〕
に 示さ れ る
事柄
で ある。 こ の 記 述〔
24
〕
に 示 さ れ る森 山 氏 の見 解
の中
,第
一段 落
目迄
, 即 ち, 一504
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
48
) 後期 中観 派の無 自性論 証 (2
) (金 子 )「
〜Haribhadra
は , その論議
に言 及す る わ けで ある。 」 迄 の 一 節に示 さ れ た見 解は, 全 く正 しい もの と思 わ れ る。 然 し な が ら, 第二 段 落 目に 示 さ れ た見解
に は, 全 く賛 同で き な い 。森
山 氏 は, 「果
を 生 起 し得
る効 力 を有
し た svab −hava
」, 即 ち, 目 下 の議 論
で は,「
〈生 ぜ し め る もの〉 とい う 自性
(janaka
− svabhava )」が これ に該 当 す るが , こ の ‘janaka
−svabhava ’ に対 す る 理解
が , 「ある 諸 原 因 の集
合 (samagri)
に」 「あ り得
る と考
え る」
ダル マ キー ル テ ィ と, 中観
派 と で は,全
く相 異
して い る とい う見解
を示 して い る様
に見
受 け られ るが, 私 見 に依れ ば, 後 期 中 観 派 は, ‘janaka
−svabhava ’ に関
して, ダル マ キ ー ル テ ィ の 示 した学
説 を遵 守 して い る と思わ れ る 。従
っ て, 以 下 に こ の点
に つ い て確認
し て お こ う。〔
25
〕
[
HB
,pp
.8
*i6〜pp
.9
*2]
【
反論
】
諸々 の種
子 (sabon
,btj
a)等
が, 芽 (myugu
, afikura ) 等 を 〈生 ぜ しめ る こ と〉 を
自性
とす る もの (skyedpahi
rafibshin
,
janana
−svabhava)
で ある と して も, 水
(
chu , salila)等
な る他の 原 因に 観 待 す る もの で あ るが故 に, 単 独で は (
hbah
shiggis
,kevala
),[
芽 等
を]
生ぜ し め ない の であ る。 そ れ と
同様
に , 存 在 (dhos
po
,bhava
)
が,[
消滅
す る こ とを 自性
とす る もの で ある として
]
も,消滅
に関
して(
hjig
pa
, na §e)
[
他
の原因
に
観 待
す るこ とに]
成 るで あろ う。【
答論
】[
そ うで は]
な い の で ある。[
何
とな れ ば,]
そ れ[
即
ち, 〈生ぜ し め るこ と〉
]
を自
性 とす る[
種
子等 ]
が ,[
芽 等
を]
生ぜ しめ るか らで あ り, そして,
[
芽等
を]
〈生
ぜ し め る もの で は な い も の(
a −janaka
)
〉 は , そ れ[
即 ち, 〈生 ぜ し め る こ と 〉]
を 自性 と す る[
種
子等]
で は な い か らで ある(
dehi
ho
bo
fiid
skyebahi
phyir
la
/skyedpar
byed
pa
mayin
pa
yafi
de
bi
ho
bo
fiid
mayin
pahi
phyir
ro //
,tatsvabhavasya
jananad
ajana −kasya
catatsvabhavatvat .)。 他な ら ぬ そ れ[
即ち , 〈生 ぜ しめ る こ と〉 とい う
自性
を もつ か 否 か]
に基づ い て, そ の 両 者 の分 位 の , 実 事の 相 異が 決定 さ れ るの で あ る (
de
fiid
kyi
phyir
gnas
skabsde
gfiis
po
tha
dad
par
hes
te
, ata eva
tayor
avasthayor vastubhedo ni §ceyah )。〜
(
中略 )
〜そ れ故 に, お よ そ
何
で あれ,最後
の特殊
な分 位
を もつ[
種
子等
]
で あ るもの, そ れ だ け が,
芽 等
を 〈生 ぜ し め る こ と 〉 を自性
とす る の であ
る後 期 中 観 派の無 自性論 証 (
2
) (金 子) (49
)(
de
lta
bas
nagnas
skabskyi
bye
brag
tha
magafi
yin
pa
de
fiid
myugu
la
sogspa
skyedpahi
ho
bo
nid
yin
no//
,
tasmad
yo
’ntyo ’
vasth −
anavi
§esah sa evahkuradijananasvabhavah .)。 然 しなが ら,[
最 後
の特
殊
な分位
よ り] 前
に生 じ た特殊
な分 位 を もつ[
種子 等]
は, 原 因の原 因 な の で ある。 〜カ マ ラ シ ー ラ (
Kamala
翻 a ,740
〜79523
)は, 『摂 真 実 論 細
疏』 (
TattvaLsa
・ mgrahapafijika)
に於 い て, こ の『
因 一 滴 論 』の 記 述 を踏 襲 して , 以 下 の 様 に述べ て い る。〔
26
〕
[
1
「SP
pp
.14017
〜22 .]
【
反 論】
例 え ば (yatha
), 種 子 等 (brjadayah
)が ,芽 等
を 〈生ぜ し め る こ と〉を 自
性
と しっ っ あ っ て も (ahkuradi −janana
−svabha 幅h
santo’
pi
)
,[
種
子等
が,芽 等
を]
単 独 で 生 じ る こ と は無
い の で あ る(
nakevala
janayanti
)。[
何 とな れ ば,]
水等
な る他
の原 因に観
待す る もの で あ る か らで あ る (saliladi
karanAntarapeksatvat
)。 そ れ と同 様 に (tadvat
), 存在
が,消
滅す る こ と を自性
と して い て も (bhavo
na §vara −svabhavo ’pD
,消
滅に関 して は (naSe ), 他の 原 因に観 待 す る こ と に成 るで あろ う (kara
−nantarapekso
bhavisyati
)
o【
答 論 】
そ の 場 合, こ れ[
即 ち ,【
反 論】]
は 正 し く な い(
tad
etadasamyak )。
[
何 となれ ば,]
最 後
の分 位
に到 達
し た[
種 子 等]
だ け が ,[
芽等
を]
〈生ぜ し め る もの〉 とい う自性
を もつ こ とが 承 認 さ れ る か ら(antyavastha −
praptasyaiva
janaka
−svabhavatvabhyupagamat )で あ り,
他
の もの は[
芽等
を 〈生ぜ し め る もの 〉 とい う 自性
を もつ こ と が 承 認 され
]
な い(
nanyasya) [
か ら で あ る]
。 そ れ 故 に (tena )
, お よ そ何
で あれ, か の , そ れ
[
即 ち, 〈生 ぜ しめ る もの 〉]
を自性
とす る もの で あ る もの(
yo
’ sautatsvabhavah
), そ れ は ,[
芽 等
を]
生 じ る に他
な ら な い(
janayaty
eva ) の で あ り, そ れ は (asau ), 他
[
の 原因]
に観 待
し な いの で ある (na 〜
param
apeksate ) 。 然 し な が ら(
tu
)
, お よ そ何
で あ れ,穀
物 倉 等
に存
す る (ku
§aladi
−stho )[
種 子]
で あ り,[
芽 を]
生 ぜ しめ ない もの で あ る もの, そ れ は (asau ), それ
[
即 ち,芽
を生 ぜ しめ るこ と]
502
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
50
) 後期 中観 派の 無 自性 論 証 (2
) (金 子)を
自性
とす る もの で は ない の で ある。 然 し (tu
),L
芽
を生ぜ し め る]
原
因の 原 因で ある
故
に (karana
−karanatvat
), そ れ[
即 ち, 穀 物 倉等
に存 する種子
]
も, 「原因」
と表 現
さ れ る が (karana
−vyapade §ah ), 主要
な もの と して で はな い
(
na mukhyatah)
の で ある 。従
っ て ,迷乱
は無
い の で あ る (nasti vyabhicarah )。以 上 の記 述
〔
25
〕
と記 述〔
26
〕
とを比 較 すれ ば明 らか な通 り, カマ ラ シ ー ラ の ‘janaka
−svabhava ’ に対 す る解釈
, 即 ち, 厂最 後の 分 位 に到 達 し た[
種子 等]
だ けが ,[
芽 等を]
〈生ぜ し め る もの 〉 とい う 自性 を もつ こ と が承認 さ れ る」と い う見 解は, 記 述〔
25
〕
に 於 け るダル マ キ ール テ ィ の 学 説を遵 守 し た もの に他 な らず, 更 に , 森 山 氏が 懸 念 して い た 「中 観 派 に とっ て svabhava と は, 他 に 依存
す る こ と の な い もの で あり, 因や縁 に よっ て作 ら れ な い , はずの もの で あ る。」
とい う点に 関 して も, カ マ ラ シ ー ラ は,「
お よ そ何
で あ れ, か の, そ れ[
即
ち, 〈生ぜ しめ る もの〉]
を自性
とする もの(
yo
’ sautatsvabhavah
)」
を,「
他
[
の 原因 ]
に 観待
し な い (na 〜param
ape陶
ate )」 もの と説 明 して い る。従
っ て,記
述〔
24
〕
の第
二段落 目
に示 さ れ た森 山氏 の 見解
は, 不 適 切 な もの で あ る と言
わ ねばな ら な い で あ ろ う。さ て , ハ リバ ドラの
『
現観
荘 厳論
光 明 』に 於け る議論
に戻 りた い が ,前
に 確 認 し た記 述〔
23
〕
の【
反 論】
に 対 して, 彼は, 以 下の様
な【
答論 】
を提 示 して い る。今
, こ こで は サ ン ス ク リッ ト原 文 も提 示 し てお き た い 。〔
27
〕
[
AAPV
.W
;pp
.97016
、is,V
;pp
.550s
〜7 .天 野 ;pp
.3282
.]
【
答 論】
そ の様 で は ない 。 お よ そ 何 故に で あれ, 他 な らぬ , 〈生 ぜ し め る も
の 〉 と は別 個な もの で あ る こ と (
janakanyatva
, skyedpar
byed
pa
fiid
las
gshan
pa
fiid
)が, 〈生ぜ し め る もの〉 で は な い こ と(
ajanakatva ,skyed
par
byed
pa
mayin
pa
)
で ある と確 立 さ れ るの で ある。そ れ 故に ,
一 な る も
の
[
即 ち,集 合 (
samagri>
]
に 於 い て , お よそ 何で あ れ, 〈生ぜ しめ る もの 〉 とい う自性 (ekasya
yo
janaka
−svabhavas ,gcig
gi
skyedpar
skyedpahi
fio
bo
ffid
)が あるな ら ば, そ れ より排
除 され つ っ あ る (vyavartamana ,
ldog
pa
na ), 他 の諸々 の もの (apare)
は,〈生 ぜ し め る もの〉 と は
成
ら ない 。何
となれ ば, 〈生ぜ しめ る もの〉 よ り,後 期 中 観 派の 無 自性 論 証 (
2
) (金 子) (51
)別
個
な もの で あ る か らで あ る。 恰 も, 別 個 な法の様
な もの で ある。こ こ に 提示 し た拙 訳 の
中
で, 「一 な る もの
[
即ち, 集 合 (samagrf )]
に於いて (ekasya ,
gcig
gi)」
と訳
し た部
分を, 天野宏
英 氏 は,「
一
者
(=種
子 ) に存 す る24」
と訳 し,拙
訳 の 「他
の諸
々 の もの (apare )」の 部 分 に対 し て は, 「他
の もの (= 地 等 )25」 とい う訳 語 を与 え て い る 。 私 見 に 依れ ば, 天 野 氏の 翻 訳 は, 『現観 荘 厳 論
光 明』
に於 け る文 脈 に於い て は, 不 適 切 な もの で あ る故, 以下
にそ の 理 由に つ い て説
明 し て お き た い 。先 ず初
め に , 天 野 氏 の 翻 訳 が, 全 く根 拠 を も た ない もの で は な い こ と を報
告 して お か な け れ ば ならない 。 こ の 箇 所 に関
す る天 野 氏 の業 績
は,記 述 〔
27
〕
が ,『
量 評釋 』
「為 自
比 量章 」第
170
偈
ab を素 地
と し た もの で ある こ とを 指 摘 した こ と に あ る。今
こ こで は, そ の「
為 自
比 量 章 」 第170
偈 ab を, 直 前 の自
註 を, 記 述〔
28
〕
に, そ して , シ ャ ー キ ャ ブ ッ デ ィ(
Sakyabuddhi
,66
一72026
)の『
量 評 釈 註疏 』 (P
紹 〃3卿
α緬 π褫 α1
掫 )に見
ら れ る註釈
を, カ ル ナ カ ゴ ー ミ ン (Karnakagomin
,9
世 紀〜10
世 紀27 )の 『量 評 釈 自 註 註 疏 』 (P
襯 魏吻
α厩 群 貌α一∫槻 〃ぞ漉嫌
の よ り, 梵 文 を 回収
し つ つ , 記 述〔
29
〕
に確
認
して お く。〔
28
〕
[
PVSV
.pp
.86i
〜3.]
yat
punar
etad uktarptajjanako
hi
satasya
svabhavaり
yat
tasya
janakar
卩rUparptato
’
nyo
janakal
}katharp
/
170ab
更
に, お よ そ如 何
な る事 で あ れ, 以 下 の事 が語
ら れ る。 実 に そ れ[
即ち,
A
]
を 〈生 ぜ し め る もの 〉, それ は, そ れ[
即
ち,B
]
に と っ て の自
性 で あ る。お よ そ
何
で あれ, そ れ[
即 ち,B
]
に とっ て の,[
A
を]
〈生 ぜ しめ る もの 〉 とい う性 質 な る もの , そ れ よ り別 個 な もの
[
即 ち ,C
]
は, ど う して, 〈生ぜ し め る もの 〉 で あ ろ うか 。
〔
29
〕
[
PVSI
/T
,pp
.32613
〜15 ,=P
レ 「1
[ ,P
;Je
.230a1
〜2.]
tajjanako
hi
tasya
§
alya
血1
{urasyajanako
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sa
tasya
§
alib
て
iasya
svabh 訌vah
/
yac
catasya
§alib
苅asya6alyafikurajanakam
rUpam /tato
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
52
) 後期 中観派の 無 自性論 証 (2
) (金 子)janakad
rapad anyahprthivyadi
janakah
katham
iti
/
「
実
に, それ を 〈生 ぜ しめ る もの〉 (tajjanaka
)」 と は, そ れ を, 即 ち,稲
の芽
(§alyahkura
) を く生
ぜ し め る もの 〉 であ
り,実
に,「
そ れ[
即
ち,稲
の芽 を 〈生ぜ しめ る もの 〉]
が , そ れ の」, 即 ち,稲
の種
子 (§alibi
−ja
)に とっ ての 「自性 」で ある。そ して, 「お よ そ
何
で あ れ, そ れに とっ て の」, 即 ち,稲
の種子 に とっ て の ,稲
の芽
を 厂〈生ぜ しめ る もの 〉 とい う性 質 な る もの, そ れ」
, 即 ち, 〈生ぜ しめ る もの 〉 とい う性 質 よ り,「
別 個な もの 」, 即 ち, 大 地 等は,「
ど うし て, 〈生ぜ し め る もの 〉 と な ろ うか 。」 とい う意 味で あ る。天 野 氏 に よっ て
指 摘
さ れ て い る通 り, ハ リバ ドラが,記
述〔
27
〕
を論 じる 際 に, 記 述〔
28
〕
を素材
と した こ と は,間
違 い ない で あ ろ う。 然 し な が ら, ハ リ バ ド ラ が, シ ャ ー キャ ブ ッ ディ に よ る記
述〔
29
〕
と全 く同様
の解釈
を, 記 述〔
28
〕
に対
して為
して い た か否
か は, ハ リバ ド ラの展 開
す る文脈
よ り判 断
する よ り他
に ,知
る術
は無
い で あ ろ う。さ て そ れ で は, 記
述
〔
27
〕
は, ハ リバ ドラ の論述
に於
い て どの様
な位 置
づ け が 為 さ れ て い た で あ ろ うか。 抑 も, 記 述〔
27 〕
の直 前
に提
示 さ れ て い た【
反論 】
で あ る記 述〔
26
〕
は, 眼等
とい う集 合 だ け が, 眼 識 を 生ず る こ とに於い て確 定
して お り, 大 地 等 とい う集
合 は, 眼 識 を生 ずる こ と に於い て は確 定 し て い な い こ と を 示 す為
に, 「【
反論 】 [
眼等
は, 眼識
を]
〈生ぜ しめ る もの〉 とい う 自 性 を もつ(
janaka
−svabhavya )か らで あ る。」 と述べ ら れ て い た。 即 ち, 「眼等
」 或い は , 「大 地 等 」 とい う 《集 合 (samagrf )》
の レ ヴ ェ ル に於い て,「
〈生 ぜ しめ る もの 〉 と い う 自 性 (janaka
−svabhava )」の 有 無が 問 題 と さ れ て い た の で ある。従 っ て , 記 述
〔
27
〕
に於 け る ‘ekasya