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東欧の歴史

ユーゴスラビアの歴史がわかる本

歴史本ネット

池田かおり

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目次

はじめに... プロローグ... 第1章   ユーゴスラビアとは... 第2章   古代バルカン半島の歴史... 第3章   中世バルカン半島の歴史... 第4章   東方問題のはじまり... 第5章   第2次バルカン戦争... 第6章   第1次世界大戦... 第7章   第1のユーゴスラビア... 第8章   第2次世界大戦/戦争の中の戦争... 第9章   第2のユーゴスラビア... 第10章  チトー死後... 第11章  コソボ紛争... 第12章  コソボ内戦... 第13章  コソボ、NATO の空爆... 第14章  唯一の平和な独立スロベニア... 第15章  クロアチアの悲劇... 第16章  アドリア海の真珠の危機... 第17章  再び戦争へ... 第18章  ボスニアの悲劇... 第19章  暴かれた収容所... 第20章  ユーゴスラビア消滅に向けて... エピローグ 旧ユーゴスラビアの楽しみ方...

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はじめに

はじめに、この書籍は楽しくそして簡単に歴史を身につけることができるようにデザイン されております。 この書籍にあります読書バージョン(人物相関図/地図入り)のみをお楽しみいただいて もよろしいですし、またはエピローグ(最終章)に記載いたしました未公開商品サイトに アクセスしていただき、音声バージョンをお楽しみいただくこともできます。 注意 キンドルリーダーで音声をお楽しみいただくためには、特定の設定をなさっていた だかなくてはなりません。 詳細に関しましてはエピローグの未公開商品サイトの mp3 ファイルの開き方 をご参照 ください。 音声バージョンは音声をお聞きいただきながら、添付の人物相関図をご利用いただくこと により、ご自分なりの資料が出来上がるようになっております。 ぜひともエピローグに記載しております未公開商品サイトにアクセスしていただき、人物 相関図の pdf ファイルをプリントアウトし、音声をお聞きいただきながら人物相関図にご 自分なりのメモをお書き留めください。 この作業により、忙しい日々をお過ごしの皆様が、読書バージョンをお読みいただかなく とも、通勤中、リラックス中に音声バージョンを一度お聞きいただくだけで全ての情報を まとめることができるようになっているのです。 音声が聞こえないなど、ご不便があった際には 歴史本ネット rekishibonnet@rekishibon.com へご連絡ください。 読書好きな方で、音声ではなく、この先の読書バージョンゆっくりとお楽しみになりたい 方はぜひともこの先の読書バージョンをおたのしみください。

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プロローグ

青い海、イタリアの香り、クロアチア

宮崎駿監督映画紅の豚のモデルと言われるドブロブニク

サッカーの名監督オシムを生んだボスニア・ヘルツェゴビナ

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百一匹わんちゃんで有名なダルメシアン犬、この犬の発祥地ダルメティア地方

今のイギリスエリザベス女王が王位を継ぐきっかけとなった、シンプソン夫人で湧いた ヌーディストビーチ

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今では日本人観光局に大人気のクロアチアを含むこのもとユーゴスラビア。 いったいどのような歴史をたどったのでしょうか??

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第1章   ユーゴスラビアとは

7つの国境6つの共和国5つの民族4つの言語3つの宗教2つの文字1つの国ユーゴスラ ビア。 7つの国境、それはイタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリ シャ、アルバニア 6つの共和国 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテ ネグロ、マケドニア 5つの民族 スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人 4つの言語 スロベニア、セルビア、クロアチア、マケドニア 3つの宗教 キリスト正教、キリストカトリック、イスラム 2つの文字 ラテン文字、キリル文字(ロシア) 旧ユーゴスラビアを構成する国々はいずれもヨーロッパの南東部、バルカン半島にありま す。 バルカン半島とは西にアドリア海、南に地中海、東にエーゲ海と黒海を望む半島で、山地 のあいだにゆるやかな平野部がちらびり、北部を流れるドナウ川によって、他のヨーロッ パの国々と隔てられています。

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バルカン半島はヨーロッパとアジアが出会う場所です。 よって、歴史の中で常に重要な役割を演じてきました。 500年以上もの間オスマン帝国(トルコ)とハプスブルク帝国(オーストリア)に支配 されていたため、今でもその影響がはっきりと残っているのです。 19世紀、オスマン帝国の力が弱まると、バルカン半島はイギリス、オーストリア、ハン ガリー、ロシア、など大国の関心の的となりました。 そのため、バルカン半島ではたえず政治的な思惑がうずまくこととなり、ついにオースト リアの皇位継承者(ハプスブルク家)、フランツフェルディナントの暗殺事件を引き起こす ことになるのでした。 これがきっかけで1914年7月、第一次世界大戦が起きることとなったのです。 1918年に大戦がおわり、オスマン帝国とハプスブルク帝国がほろびると、がれきの中 からユーゴスラビアという新しい国が生まれたのです。 こうしてユーゴスラビア、南スラブを意味する言葉、という名前のとおり、ほとんどが南 スラブ人の血を引く、というものの、実際には歴史的な背景や言語、文字、宗教などがこ となるさまざまは民族が一つの国に一緒に住むこととなってしまったのです。 これがこの国の悲しい歴史の始まりとなり、その後繰り広げられた民族浄化の悲しい戦争 は世界中にニュースとしてながれるのでした。 ところがそんな民族浄化の戦争が繰り広げられていた頃、そう、日本はバブルとミレニア ムに溺れていた頃なのでした。

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どれだけ多くの日本の方がこの戦争の悲惨さをおぼえていることでしょうか? そんな旧ユーゴスラビアの歴史をひも解いてゆきましょう。

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第2章   古代バルカン半島の歴史

バルカン半島に最初に住み着いたのは、紀元前2000年頃のギリシャ人。 そして紀元前1200年頃にはアルバニア人がこの地域に移住し、さらに6世紀から7世 紀頃には北方からたくさんの南スラブ人が入ってきたのです。 南スラブ人はバルカン半島の様々な地域に住み着き、数世紀の間にそれぞれの文化や伝統 や考え方によって、別々のグループに分かれました。 スロベニア人やクロアチア人は半島の北西部に落ち着いてローマカトリック教徒になり、 ラテン文字を使うようになりました。 セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人は東部や南部に住み、セルビア正教徒になっ てキリル文字(ロシア文字)を使っていました。

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第3章   中世バルカン半島の歴史

14世紀、イスラム教徒のトルコがバルカン半島におしよせて、セルビアはオスマン帝国 の一部となったのです。 1463年、オスマン帝国はクロアチア人とセルビア人の住むボスニア・ヘルツェゴビナ も制服、ボスニアの多くの人々は税金を許してもらうためにイスラム教に改宗しました。 こうしてボスニアではイスラム文化が発展し独特の建物や習慣、民間伝承を作ることと なったのです。 一方スロベニアとクロアチアは別の運命を辿りました。 16世紀のはじめまでにはハプスブルク帝国の支配下に入ったのです。 1690年オスマン帝国の支配を嫌ってコソボのセルビア人のおよそ7万が北方にあるハ プスブルク帝国をめざして移住を始めました。 いなくなったセルビア人の代わりに、コソボにはアルバニア人がやってきて住むように なったのです。 こうして様々な民族の集団が入り交じって暮らすことになったのです。 このとき民族をわける境界線が国境と一致しなかったことはあとあとの紛争の一因となる のでした。 19世紀の初めにオスマン帝国の支配が緩みだすと、帝国の支配下にあったバルカンの民 族は独立に向けて動き始めます。 1830年ギリシャが反乱を起こして独立を勝ちとると、つづく数年の間に、自治公国と なったセルビアで民族主義が高まりました。

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1844年、イリヤガラシャニンは指針と呼ばれる文書をだし、バルカンに住むセルビア 人はすべて大セルビアのもとに団結し、オスマン帝国の支配から脱するべきだと述べまし た。 一方クロアチアでは権利党の指導者がハプスブルク帝国からの独立を訴えました。 さらには1876年ブルガリア人がオスマン帝国に反乱。 ブルガリアといえば、そう日本の国技、相撲のヒーロー琴欧州関の故郷。 しかしこの反乱は容赦なく沈められ、わずか1ヶ月の間に、1万2000人ものブルガリ アのキリスト教徒がオスマン軍に殺されました。 そして1877年、ロシアがイスラム勢力からキリスト教徒を守るという名目でオスマン 帝国に宣戦布告をするのです。 この戦争はロシアが勝利し、ロシアの保護のもとマケドニアを含む、ドナウ川からエーゲ 海に至る、大ブルガリア公国が作られるとこになりました。

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しかしバルカン半島におけるロシアの影響力の拡大をおそれた、イギリスとハプスブルク 帝国の思惑もあって、1878年にひらかれたベルリン会議で、この大ブルガリア公国を 3つにわけるなど領土の再分割が行われたのです。 このなかでボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア•ハンガリーに統治され、領土を縮 小したブルガリア、マケドニアは自治を、セルビアとモンテネグロは独立を認められたの です。

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第4章   東方問題のはじまり

オスマン帝国の力が弱まるにつれて、東方問題が起こってきます。 オスマン帝国が完全に支配力をなくしたら、バルカン半島はどうなるのでしょうか?? ヨーロッパの大国はこの問題に対し、それぞれの思惑を持っていたのです。 オーストリア•ハンガリーはオスマン帝国崩壊がバルカン諸国にあたえる影響を食い止め ようとしていました。 もし帝国が滅びて次々と独立する国がでれば、自国の人々も同じことをしはじめると分 かっていたのです。 ロシアはバルカン諸国をオスマン帝国の支配から解放したがっていました。 バルカンに住む多くの人々と同様、ロシアの人々もスラブ人だったからです。 バルカン諸国が独立すれば、ロシアとよい関係をつくることができ、地中海へ出るのが楽 になると。 イギリスはぜひともオスマン帝国を守りたいと思っていました。 もしある国が他の国を犠牲にして、バルカンで領土を広げるようなことになれば、力のバ ランスが崩れ、戦争になるだろうと考えたのです。 1912年オスマン帝国の新しい政府がマケドニアの自治をみとめない法律をだすと、ギ リシャ、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアはオスマン帝国を永久にバルカン半島から 追い出すためのバルカン連盟を結びました。 これが1912の第1次バルカン戦争。

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第5章   第2次バルカン戦争

第1次バルカン戦争でセルビアはコソボを獲得。 その後マケドニアをどうするかを巡って、セルビア、ギリシャ、ブルガリアの間で争いが 起こりました。 マケドニア。 1913年の第2次バルカン戦争において、ブルガリアはセルビアとギリシャに攻撃を仕 掛けました。 結果、マケドニアはブカレスト条約によって、セルビアとギリシャとブルガリアの間で分 けられることになったのです。 そんな中、オーストリアは徐々に力をつけてきたセルビアを警戒し、こらしめる機会をう かがい始めていました。 そしておきた‘ぶた戦争’。 セルビアは豚の輸出を主な収入源にしていました。 1906年から1911年にかけて、オーストリ•アハンガリーはセルビアからブタを買 うのをやめたのです。 ところが、セルビアはこれに対する仕返しとして、オーストリア•ハンガリーからの輸入 を拒否し、ギリシャと取引を始め、収入をなくすどころか、かえって増やしてしまったの です。 このブタ戦争はセルビアとオーストリア•ハンガリーの溝をいっそう深めることになりま した。

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そんなおり、ボスニア・ヘルツェゴビナではセルビア人民族主義が領土的野心を抱いてい たのでした。 この地の民族構成は42%がセルビア人、34%がイスラム教徒、21%がクロアチア人 で半数近くをセルビア人が占めていたのです。 セルビア人はこれらのセルビア人を統合して大セルビアを実現することを狙っていたので すが、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ統合は彼らの運動にとって大打撃だった のです。 これが禍となり、ドイツを背後に持つオーストリアとロシアを背後に持つセルビアは衝突 を待つばかりの情勢だったのです。 この一触即発の状況の中で、1914年、6月28日、オーストリアのフランツフェル ディアンント大公のボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボへの訪問が行われた のです。 彼はかの有名なハプスブルク家エリザベートシシーの夫、フランツヨーゼフ皇帝の甥で、 皇太子ルドルフの突然の自殺の後、帝位継承者となっていたのです。 大公はこのサラエボ訪問中、セルビア人民族主義者により暗殺されるのでした。 これがサラエヴォ事件。 そしてこの事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発したのです。

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第6章   第1次世界大戦

こうしてバルカンに戦争の火の手が上がるのですが、戦争を局地化しようとするオースト リアのもくろみとは互い、それは拡大の一途をたどってゆくのでした。 サラエボ事件の一ヶ月後、オーストリアはセルビアに対して宣戦布告。 それにつれて、セルビア側のロシアは総動員令を発動。 一方オーストリア側のドイツはロシアに次いでフランス、イギリスに対して宣戦を布告し たのです。 欧州諸国はこうして次々に戦争に巻き込まれ、参戦国はさらに日本やアメリカにも広がっ てゆきます。 これが第一次世界大戦。 そんな中1916年、11月21日、フランツヨーゼフ皇帝が86歳で死去。 68年の治世に幕。 彼の後はサラエボで暗殺されたフランツフェルディナントの甥、カール1世によって次が れました。 当時オーストリアは、軍事的には必ずしも劣勢という訳ではなかったのです。 問題はこの間にオーストリアが、ドイツへの軍事的依存を決定的に強めていったことでし た。 もともと両国の間には、戦争の目的に関して大きな食い違いがありました。 オーストリアは当初この戦いをバルカンの局地戦争にとどめたかったのです。 しかしドイツはこの戦争は欧州における英仏との覇権争いの戦いであり、しかもドイツは 中立国潜水艦への攻撃を行って、17年アメリカの参戦まで招いてしまうのです。 まるで第二次世界大戦中、寝ている虎を起してしまった日本と同じではないでしょうか? こうしてオーストリアはドイツに引きずれれる形で、戦争の深みにはまっていくのです。

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オーストリアもついに休戦協定を受託。 皇帝カール1世は退位し、ウィーンでオーストリア共和国の宣言が行われました。 そしてハプスブルク家はその終末を迎えます。 大戦終結とともにハプスブルク帝国は解体され、オーストリア、ハンガリー、チェコスロ バキア、ユーゴスラビアが独立。 残りの領土は、ルーマニア、ポーランド、ソ連、イタリアへと併合されたのでした。 そして1918年12月1日、セルビア(コソボを含む)クロアチア、ボスニア、スロベ ニア、モンテネグロ、マケドニアが合体。 ブルガリアをのぞく南スラブ統一国家がはじめて建国されたのでした。 そしてセルビア国王アレクサンダル1世が国を治めることになりました。 これにより南スラブ国家、セルビア•クロアチア•スロベニア王国の誕生です。

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第7章   第1のユーゴスラビア

当時の国際社会からは、南スラブ民族というただ一つの民族の国家と見なされましたが、 実際は違っていたのです。 セルビア人、クロアチア人、スロベニア人はそれぞれ歴史や宗教、言語が違う異なった民 族意識を持っていたのです。 この民族意識の違いからの対立は、まず国のあり方をめぐる議論としてすぐに現れたので す。 議論がおきたその根底には、権力を公平に分けることができず、数の多いセルビア人が議 会や国の政治を握っていることへの、クロアチア人やスロベニア人たちの不満があったの です。 中央政府が直接国をおさめるのではなく、連邦制をとるべきだと。 いくつかの地方がそれぞれの政府を持ち、中央政府は国防と外交にのみ責任を持つべきだ と主張したのです。 激しい議論が交わされ、ついに1928年、モンテネグロ人が議会で5人のクロアチア人 議員を狙撃するという事件が起こりました。 アレクサンダル1世は議会を解散し、国をひとつにまとめようと、1931年まで自ら独 裁政治を行い国名もユーゴスラビアに変更。 しかし対立は続くばかり。 そしてとうとう1934年、アレクサンダル1世がフランスのマルセイユでマケドニア人 により暗殺。 その後はいとこのパブレ公が議会を軽視した政治を続けました。 こうして1939年、ドイツのポーランド侵攻を発端に第2次世界大戦が勃発したとき、

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第8章   第2次世界大戦/戦争の中の戦争

1941年ナチス•ドイツがユーゴスラビアに侵攻。 ドイツ軍はまたたくまにユーゴスラビアを制服。 クーデターにてパブレ公のあとを次いだ若い国王ペータル2世は、1ヶ月もたたないうち に国外に亡命。 こうしてナチス•ドイツの同盟国イタリアにより支配が始まるのです。 このイタリアのファシストをまねて作られたクロアチアのファシスト集団 ‘ウスタシャ’。 そしてナチス•ドイツの支配下で作られたクロアチア独立国の支配をまかされたのが、こ の ‘ウスタシャ’ の指導者アンテパベリッチでした。 ‘ウスタシャ’ はクロアチアに住む少数民族に対し、民族浄化と呼ばれている強暴な迫害 を繰り返しました。 何千人ものセルビア人、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)たちが殺されたのです。 キリスト正教徒のセルビア人達は、キリストカトリックへの改宗をせまられ、拒むと命を 奪われたのです。 まさに無軌道きわまりない、残酷な殺戮が行われたのでした。 こうしたナチスの支配と戦うために、2つの抵抗組織が生まれました。 ミハイロビッチを指導者とするセルビア人の ‘チュトニク’ とチトー率いる社会主義者 を中心とした ‘パルチザン’ です。

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国王に再び国を治めさせようとする ‘チュトニク’ に対し社会主義共和国をつくろうと 考えていた ‘パルチザン’ もちろん意見が一致するはずもなく、この二つのグループは  ‘ウスタシャ’ やドイツ軍と戦いながらも、たがいに争い始めたのです。 それはまさしく、戦争の中の戦争。 やがて ‘パルチザン’ が優勢となり1943年秋にはチトーは30万の軍隊を率いてい ました。 ユーゴスラビアはまだ占領されたままでしたが、臨時政府を作れるほどの力を持つように なりました。 そしてイギリスやソ連の助けを得て、チトーはじょじょにドイツ軍を追い出しにかかった のです。

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第9章   第2のユーゴスラビア

1945年チトーは ‘第2のユーゴスラビア’ を作り上げました。 新しいユーゴスラビアは連邦制をしく社会主義の国で、チトーはすべての南スラブ人が友 愛と統一のもとに共存し、民族間の憎しみが過去の物になることを望みました。 またチトーの掲げる社会主義は経済の面で個人が会社を興すことをある程度許していまし た。 特に旅行業界は特別で、アドリア海岸線は海外からの旅行地として有名で、多くの観光客 が訪れたのでした。 さらにチトーはユーゴスラビアの多くの人々が、当時の他の社会主義国より良い暮らしが できるように、日用品などの輸入を認めてもおりました。 終身大統領のチトーが力をもっているあいだ、ユーゴスラビアは1つにまとまっていたの です。 子供達は学校であらゆる南スラブ人の歴史や文化を学び、ナショナルチームは国中からス ポーツ選手を集め、誇りを持って素晴らしい成果を上げていたのです。 もちろん社会主義政府を批判することはできませんでしたが、さまざまな民族がそれぞれ

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の場所で平和に共存していたのです。 とはいうもののいくつかのわだかまりは残っていました。 例えば、共和国の中でも最も豊かだったスロベニアとクロアチアは、自分たちの稼いだお 金の一部が南のより貧しい地域にまわされることを快く思っていなかったのです。 1971年から72年にかけてクロアチアはユーゴスラビアから独立を求める運動を起こ しました。 チトーはこれを沈め、危機を脱します。 そして1974年には新しい憲法を制定。 この憲法は、チトー、共産主義者同盟(共産党)、連邦人民軍を統合の絆としつつ、6つ の共和国と2つの自治州にすべて独自の憲法を認め、政治、経済、社会の面できわめて大 きな権限を与えたものでした。 そして民族や共和国間のバランスを取りながら、このような穏やかな連邦制の要となった のが、やはり終身大統領であるチトーの存在だったのです。 彼の名残はいまでも旧ユーゴスラビア随所で見ることができます。 今では日本人観光客であふれるスロベニア、ブレッド湖。

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この湖のほとりに今も建つ、チトーの大きな別荘。 今でもみんなに愛されているチトー。

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第10章  チトー死後

1980年5月4日、チトーは87歳でこの世を去りました。 彼は生前に、彼の死後はユーゴスラビアを集団大統領制にするよう言い残していました。 つまり、6つの共和国と2つの自治州から1人ずつ代表を出し、8人で国を治めるととも に、メンバーの一人が1年交代で順番に元首の役目をつとめるようにと。 まるで今のスイス連邦のような完璧で理想的な体制。 しかし、すぐに8人の代表の間で、深刻化するユーゴスラビアの経済問題をどうするかと いう議論が起きたのです。 チトー時代、日用品などを輸入したり、工場を造るために行った他国からの借金は莫大な ものになっていたのです。 さらに物価はどんどんあがるというのに、給料はかわらず、、、 これを解決するため、政府は紙幣を発行。 しかし事態はますます悪化し、1987年までにインフレーションは年率200%に達し ていたのです。 物価が1年で3倍になるということです。

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年あたりのインフレ率地図 紫色:デフレ状態 紺色:0 - 2% 水色:2 - 5% 緑色:5 - 10% 黄緑色:10 - 15% 橙色:15% - 25% 赤色:25%以上 CIA調べ、調査年度は国ごとに異なる 供給が需要を大幅に下回ることによって発生するインフレ。 たとえば第二次世界大戦終戦直後の日本(1946 年)では 300%強のインフレ率を記録しま した。 また、ジンバブエでは、政策により白人農家が国外に追い出され、農業構造が破壊された ことによる極度の物不足が発生、最終的に 2 億 3000 万%という超ハイパーインフレーショ ンとなりました。 ジンバブエでは 2009 年 2 月 2 日、1 兆ジンバブエドルを 1 ジンバブエドルに、桁数にして

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12桁を切り下げる処置を講じました。

今でもジンバブエに行くと、とてつもない桁の紙幣を1アメリカドルで売っている地元の 人が多々おります。

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第11章  コソボ紛争

アルバニア         セルビア そんな中、1980年代、‘大セルビア’ を作ろうという考えが復活し、セルビア人の間 で民族主義の波が高まります。 そのきっかけとなるのがコソボでの事件。 コソボはセルビア共和国に属する自治州で、170万のアルバニア人と、20万人のセル ビア人が住んでいた、ユーゴスラビアでも最も貧しい地域でした。 ここは中世セルビア王国の中心地であり、当時の遺跡やセルビア正教の教会などが現在で も数多く残っているところ。 そう、セルビア人にとっては聖地なのです。 そしてオスマン帝国支配時に移住し、イスラム教に改宗したアルバニア人にとっても、自 分たちの先祖がセルビア人が移住する前、6世紀頃に住んでいたと信じる昔ながらのアル バニア人の土地。 そう、両者にとってなくてはならない土地だったのです。 よってアルバニア人達は数のすくないセルビア人に支配されることを快く思わず、セルビ ア人を攻撃し続けていたのです。

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作物は焼かれ、人々は襲われ、暴行されたり、殺害されたり。 コソボ内のセルビア人はベオグラードのセルビア政府に助けを求め、1987年セルビア 大統領のイバン•スタンボリッチは、友人のミロシェビッチをコソボの様子を調べるため に送ったのです。 セルビア共産主義者同盟の指導者だったミロシェビッチは、それまでコソボのセルビア人 の問題にほとんど関心をもっていませんでした。 ところが、コソボの首都プリシュティナのはずれのコソボ平原に、彼を迎えようとたくさ んのセルビア人が集まっているのを見たとたん 「ユーゴスラビアとセルビアは決してコソボをあきらめない!!」 たちまち英雄となったミロシェビッチは、民族主義の高まりが、自分の政治的な野心をか なえるのに役立つと気づいたのです。 ミロシェビッチはユーゴスラビア連邦軍の力を借りて、スタンボリッチを追い落とし、1 989年にセルビア共和国の大統領となるのでした。 そして1989年、憲法の修正に伴い、コソボはそれまで持っていた政治、経済、社会の 面での権限を大幅に縮小され、セルビア共和国に直接支配されることになったのです。

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ミロシェビッチは、セルビアがユーゴスラビア連邦を支配することを目指していたのでし た。 他の共和国は警戒し、自らの権限を主張しはじめ、これが様々な問題が起きるきっかけと なったのでした。 この背景には、1989年のベルリンの壁崩壊のように、東ヨーロッパでの社会主義政権 が相次いで倒れていったことが一つの要因となるのでした。

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第12章  コソボ内戦

1989年をもちセルビアに直接支配されることとなったコソボ。 もちろんアルバニア人側が黙っているはずもなく、1990年に激しい抗議デモ勃発。 セルビアはコソボに戦車を送って戒厳令をしきました。 一方アルバニア人は ‘コソボ共和国’ をつくり、独立を宣言。 さらに急進派のアルバニア人はコソボ解放軍を作り、1997年、コソボの独立をめざし てゲリラ活動を開始したのです。 セルビア人のパトロールを待ち伏せて攻撃、または警察署を襲撃。 これに対しセルビア人はアルバニア人市民を襲って仕返し、何千人ものアルバニア人を村 から追い出したり、家に火をつけたり、、、 その後コソボ解放軍がしだいに町や村を支配し始めると、セルビア政府は1998年コソ ボに大規模な攻撃を開始。 コソボのアルバニア人の約2000人が死亡し、25万人がアルバニアやマケドニアに逃 げ込むのでした。 アメリカは軍をひき停戦に応じないなら、NATO 空軍がセルビアを攻撃するとミロシェ ビッチに警告。 ミロシェビッチがこれを受け入れると、さまざまな国の人々からなる、2000人のコソ ボ検証団が停戦を監視しました。

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しかし、セルビア軍が引き上げると、今度はコソボ解放軍が入ってきて、コソボの大部分 を支配。

怒ったミロシェビッチは再び軍を送り、また戦争が始まるのでした。 異民族同士の殺し合いのくりかえしで、コソボは大混乱に陥るのでした。

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第13章  コソボ、NATO の空爆

1999年、コソボのラチャク村でセルビアによる45人のアルバニア人殺害事件が発生。 これを機に NATO が、民族浄化をやめないならばセルビアに空爆を行うと警告。 これを受け、ミロシェビッチは和平会談に応じます。 3週間に及ぶ話し合いの結果、コソボ解放軍はコソボが自治を取り戻し、平和維持のため の多国籍軍がコソボに送られるという案を受け入れ、戦いをやめることを承知しました。 しかしミロシェビッチは多国籍軍受け入れを拒み、さらにセルビア人による民族浄化は続 くのでした。 NATOはコソボからコソボ検証団を引き上げさせ、セルビアおよびコソボ内の目標に向け て空爆を開始。 セルビアの防空システムや兵器工場への空爆が始まりました。 しかし現状はますます悪化の道をたどり、さらに多くのアルバニア人がコソボから逃げ出 し、とうとう40万人ものアルバニア人が難民キャンプで暮らし始めたのでした。 そしてとうとうセルビアの首都、ベオグラードへの空爆が行われたのです。 1999年セルビアは和平案を受け入れ軍を撤退。 コソボの治安は、5万人の国際部隊、コソボ平和維持部隊が見届けることとなったのです。 こうして78日間に及ぶ空爆が中止。 やがてコソボに入ったコソボ平和維持部隊は、セルビア人とアルバニア人がふるい合った

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暴力を目の当たりにすることになるのです。 和平案の受け入れにより、紛争やそれにともなうセルビア人の攻撃をさけて、国外に非難 していた多くのアルバニア系難民が帰ってきました。 その一方で、今度はアルバニア人の仕返しを恐れ、20万人のセルビア人やロマがコソボ を逃げ出してセルビアへ避難しだしたのです。 実際アルバニア人の過激派組織である、コソボ解放軍の武装解除が不十分であったことも あり、コソボ内に残ったセルビア人はしばしばアルバニア人の仕返しによるテロにさらさ れるのでした、、、、、 これが、日本がバブルに溺れ、そしてその後のミレニアムで浮かれていた時代の話です。 ほんの10年ほど前の戦争、、、、、、、

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第14章  唯一の平和な独立スロベニア

1990年1月、国の将来について話し合うために、ユーゴスラビア共産主義者同盟の大 会が開かれました。 この頃には、クロアチアとスロベニアは共産主義者同盟以外の政党を作ることを許してお り、春に選挙を控えていたのです。 セルビアのミロシェビッチはユーゴスラビアを連邦のままにしておきたい。 しかしスロベニアは独立し、連邦を抜けることを主張。 意見は一致せず、ユーゴ統合の要の一つであった共産主義者同盟は分裂。 その前のチトーの死とあわせて、連邦制の土台は大きく揺らいだのでした。 12月、スロベニアで国民投票が行われると、大多数の人々が独立に賛成。 スロベニアとクロアチアは、ユーゴスラビアからぬける意思をはっきり示したのでした。 1991年6月25日、独立を宣言すると、スロベニアはすぐにオーストリア、ハンガ リー、イタリア、クロアチアとの国境にたつ柱から「ユーゴスラビア」の標識をはずし、 「スロベニア」と改めたのです。 ここへきてセルビア人の支配する、ユーゴスラビア連邦軍がついに動き始めました。

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首都リュブリャナの通りに戦車があらわれ、軍隊がスロベニア人のたてた国境の柱に襲い かかったのです。 上記は有名な竜の橋 想像がつきますでしょうか?今では日本人観光客が必ず訪れる、あのリュブリャナがほん の10数年前戦車で攻撃されていたのです、、、 しかしすでに戦いの準備をしていたスロベニア人は、勇敢に応戦。 これに対し、連邦軍側はスロベニアの軍事力を侮っていたため、自滅。 戦争開始からわずか10日後、ヨーロッパ共同体(EC)によって停戦が取り決められ、終 戦。 ユーゴスラビアのほかの共和国と違い、スロベニア人が人口90%近くを占めるスロベニ ア内にはごく少数のセルビア人しかおらず、ミロシェビッチもスロベニアが抜けることを 受け入れざるをえなかったのです。 1992年1月、スロベニアは EC によって独立を認められ、1992年5月には国連へ の加入を許されたのでした。

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これは本当に、ユーゴスラビア内での唯一の平和な独立。 しかし隣村で生まれていたら、クロアチア。

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第15章  クロアチアの悲劇

クロアチア         モンテネグロ チトー政権の下で、クロアチアに住むさまざまな民族は平和に共存していたのです。 宗教や文化の違いはありましたが、クロアチア人と、人口の12%を占めるセルビア人と は、おおむね仲よく暮らしていたのでした。 ところが、トゥジマン大統領になると、クロアチアで民族主義が復活し、事情がかわって きたのです。 (彼の名を付けた大橋、ドブロブニク手前にて) トゥジマン大統領はクロアチアに住むセルビア人をないがしろにし、彼らの生活はつらく なる一方。 政府関係につとめていたセルビア人は職を奪われ、さらにセルビア人が使わないラテン文 字が国の正規の文字になり、さらには公的な書類を得るためには、クロアチア人の血を引 くという証明書が要求されるようになったのです。 多くのセルビア人が国を離れる一方、セルビア人によるクロアチア人への襲撃がおこなわ れ、緊張が高まり始めたのでした。

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そして1991年、クロアチアがユーゴスラビア連邦からの独立を宣言すると、クロアチ アに住むセルビア人が武器をとり激しい内戦が始まったのです。 セルビア人とクロアチア人は互いに武装した過激な民兵のグループを形成。 セルビア人グループは第2次世界大戦中の抵抗運動グループ「チュトニク」を名乗り、セ ルビアとともに王国を復活させることを目指したのです。 さらにこの「チュトニク」には、セルビアが牛耳るユーゴスラビア連邦軍が加わるのでし た。 そしてクロアチア人もまた第2次世界大戦中のファシスト集団「ウスタシャ」を名乗り始 めたのです。 この戦争で、セルビア人とクロアチア人は、殺戮や暴力によりそれぞれの地域から相手を 消し去る「民族浄化」をそれぞれ行ったのです。 昨日まで仲良く暮らしていた隣人同士が殺戮し合う、、、 日本がまだバブルに溺れていた頃のお話です、、、

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第16章  アドリア海の真珠の危機

1991年10月1日、すでに世界遺産に登録されていたドブロブニクが連邦軍の攻撃を 受けたのです。 5万人のクロアチア人が住み、6000人のセルビア人が住むドブロブニク。 ユーゴスラビア連邦軍の表向き理由は、もちろんセルビア人の救出でした。 ところが本当の理由は、ドブロブニクとその港をおさえることにより、アドリア海への道 を確保し、さらにこの美しい町をあとあとの和平会談での取引に使おうと考えていたので す。 ドブロブニクは海と陸から砲撃を受けました。 人々は連邦軍やセルビアと協力関係にあった、モンテネグロの民兵達から逃げ回ったので す。 ドブロブニクは、モンテネグロとの国境線に位置する町で距離にして車で5分。 そんな隣国から攻撃を受けたのです。 今となっては観光で行き来をするこの二国間。 想像してみてください。

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たったの10数年前、彼らはお互いに殺し合っていたのです。 ツアー中、国境を越えるたびに、クロアチア人ドライバーとモンテネグロ国境警察とのや りとりをこわごわ見ていたことを思い出します。 世界遺産にもなっているドブロブニクへの攻撃は世界に衝撃を与え、テレビや新聞で広く 伝えられました。 世論はクロアチアの見方でした。 しかしそれほど大きく報道はされなかったとはいえ、クロアチア人もまたセルビア人の町 や村を襲っていたのです。 約50万人のセルビア人が暴力から逃れるため故郷を離れました。 この内戦は他の共和国にも連邦の解体をいっそう感じ取らせることとなりました。 1991年9月にはマケドニアが独立を宣言します。 そしてとうとう1991年11月、スイスのジュネーブで和平会議が開かれ、停戦合意に 至りました。 そして独立。 1992年にはセルビア、モンテネグロ両共和国によって新たなユーゴスラビア連邦共和

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第17章  再び戦争へ

独立を勝ち取ったクロアチア。 しかし国土の3分の1はセルビア人に占領され、国は2分されていたのでした。 このセルビア人占領地に派遣されたのが国連の平和維持軍。 これらの地区の武装を解除させ連邦軍を引き上げさせることが任務でした。 ところがクロアチアはこの地区を奪い返そうと、再び攻撃を開始したのでした。 セルビア側もクロアチア側も武器を捨てようとしなかったのです。 しかし1994年、両軍の休戦協定が結ばれると、国際社会との協調の姿勢を示すため、 セルビア共和国のミロシェビッチはクロアチアに住むセルビア人に対し、もうこれ以上の ことはできないと、自分の身は自分で守るよう言い渡したのでした。 1995年5月、クロアチア軍は話し合いではなく、軍事力で問題を解決しようと奇襲を 仕掛けました。 それに応戦して今度はセルビア人がクロアチアの首都ザグレブに砲弾。 国連にこの戦いをやめさせる力はなかったのです。

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8月、ボスニアの助けを得たクロアチアが15万もの軍隊を使って攻撃開始。

セルビア人が支配下においた領土はほとんど奪い返され、セルビア人部隊は市民を見捨て 逃げ出したのでした。

20万人ものセルビア人が国境を越え、ボスニアやセルビアへと逃れました。 これにより第2次セルビア•クロアチア戦争が終結。

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第18章  ボスニアの悲劇

ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビア人、クロアチア人、イスラム人が他の地域と異な り、棲み分けができないほど、混じり合って暮らしていたのです。 別の民族と結婚し、進んで自ら「ユーゴスラビア人」と呼ぶ人もいたのです。 ところが、1992年4月、ボスニアは悲劇的な戦争の舞台となってしまうのです。 ボスニア・ヘルツェゴビナには下記のように3つの民主主義政党がありました。 政党名 民族 党首 民主行動党 モスリム人(イスラム教) アリヤ•イゼトベゴビッチ セルビア民主党 セルビア人 ラトバン•カラジッチ クロアチア民主同盟 クロアチア人 フラニョ•ボラス この3つの党が、数の最も多いモスリム人の指導者、アリヤ•イゼトベドビッチ大統領の もとで、協力して共和国をおさめることになりました。 しかし、1991年、スロベニアとクロアチアで戦争がおこると、ボスニアも不安定にな り始め、3つの民族の間で議論が起きるようになったのです。 ボスニアはユーゴスラビア連邦にとどまるべきか、それとも独立するべきか、、

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セルビア人指導者のカラジッチはボスニアはユーゴスラビアにとどまるべきだと主張。 そしてモスリム人とクロアチア人は、セルビア人におさめられているユーゴスラビアにと どまるよりは、独立した方がいいという主張でした。 そんな中、根も葉もない記事が新聞の紙面を飾るのでした。 「独立すれば、モスリム人がボスニアを支配し、国民にイスラム教を押し付け、ことわれ ば殺されるであろう」 と、、、、、 多くの市民はこれを信じてしまったのでした。 そして同時期に、セルビアからボスニアへ武器がこぼれ始め、ボスニアのセルビア人は じょじょに軍隊を形成し始めてゆくのでした。 イゼトベゴビッチ大統領(モスリム人)はボスニアで戦争が起きることを恐れ、もっとも よい方法は、3民族が力を分け合う形でボスニアを独立させることだと考えていたのです。 国連はボスニアを民族ごとに3つにわけて独立させようとの案を出しました。 しかし、3つの民族は住み分けができないほど混じり合っており、実際問題これはほぼ不 可能な打開策でした。 そして独立を希望するかどうかの国民投票。 もちろん独立を望まず、ユーゴスラビア連邦にとどまることを主張したセルビア人はボイ コット。

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その結果、全人口の61パーセントを閉めるクロアチア人とモスリム人による投票が行わ れ、その結果、99パーセントが独立に賛成したのでした。 そして徐々に両者の間で衝突が繰り返されるようになり、ユーゴスラビア連邦軍はセルビ ア人の保護へ、そして独立後のクロアチアからはクロアチア人勢力を支援するための軍が 送られることになるのです。 1992年4月、セルビア人勢力はボスニアの首都サラエボを包囲。 ボスニアはヨーロッパ共同体(EC)とアメリカによって独立を認められたのですが、これ に対しカラジッチは外国がボスニアのセルビア人の願いを無視したと述べるのでした。 こうしてボスニアは内戦に突入。

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第19章  暴かれた収容所

6月、国連は1000人の国連保護軍を送りますが、国連は戦争を阻止することはできず、 8月までにセルビア人勢力はボスニアの3分の2を占領したのです。 1992年、ボスニアのセルビア人が運営する収容所に多くのクロアチア人、モスリム人 が収容されているという噂が立つようになりました。 8月、アメリカとイギリスの記者がこの収容所を取材。 そして記者達はそこで見た物に目を見張るのでした。 収容所には、民族浄化のためにセルビア人につれてこられた人々が収容されていたのです。 骸骨のように痩せてやつれた捕虜の写真が、世界中の新聞に大きく掲載され、セルビア人 は厳しく非難されるのでした。 収容所では暴行や大量虐殺といった、信じられないほどの暴行が行われ、男性は共同墓所 へ運ぶ死体をトラックに積み上げる作業をさせられたりと、、、 人々はみなこの収容所を第2次世界大戦中のナチスの強制収容所に例えたのでした。 とかくセルビア人への非難が多かったボスニア内戦。 しかしモスリム人やクロアチア人も、セルビア人に対して同じような方法で民族浄化をし

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てきたことを忘れてはいけません。 そしてクロアチア人勢力もモスリム人勢力も同じような「強制収容所」をつくり、セルビ ア人を入れていた事実は大きなニュースにはならず、日本をふくめた世界各地に伝えられ ることはなかったのです。 最初はクロアチア人とモスリム人はともにセルビア人に対抗していたのですが、内戦が長 引くにつれ、セルビア人の支配外の地域を巡ってクロアチア人とモスリム人とが争い始め たのです。 その結果、ボスニア内戦ではこの3勢力による「民族浄化」合戦が繰り広げられることに なったのです。 そして1993年、ボスニア第2の都市、モスタルがクロアチア人により砲撃されたので した。 モスタルは川を境目に2つに分けられていたのです。 西部はクロアチア人、東部はモスリム人。 この川にかかるスターリ•モスト(古い橋)がこの2つの地区の境界線だったのです。 今では日本の観光客も訪れるこのモスタル。

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今となってはかわいらしい素敵な観光都市になっているこの小さなモスタル。 しかしほんの20年前、あの小さな橋を境に砲撃が繰り返されていたのです、、、 1994年、アメリカの仲立ちによりボスニアのクロアチア人とモスリム人とが「ボスニ ア・ヘルツェゴビナ連邦」を作ることに同意。 一方国際的に孤立したセルビア人勢力は1995年、ボスニア東部での地位をたしかなも のにするために最後の攻撃を仕掛けたのです。 しかし北大西洋条約機構(NATO)軍が素早くこれに応え、サラエボのセルビア人勢力の 陣地に空爆を行います。 空爆は3週間続き、ミサイル基地や弾薬庫など20カ所以上の目標が攻撃されたのでした。 つかれきったセルビア人は交渉で戦いを終わらせるときがきたのを悟るのでした。 1995年12月、デイトン和平合意が正式にサインされました。 モスリム人、クロアチア人のボスニア連邦とセルビア人のセルビア人共和国に分けられた 上で、ボスニア・ヘルツェゴビナというひとつの国が出来上がったのでした。 サラエボには複数の民族が一緒にすみ、モスリム人におさめられることとなりました。 デイトン合意に基づき国の大統領には、クロアチア人、セルビア人、モスリム人の代表3 人が共同であたり、交代でその長をつとめます。 ふるさとから追い出された人々は家に戻ることを許され、戦犯は裁判にかけられ、6万人 の NATO を中心とする多国籍軍の兵士がボスニアに送られ、平和が保たれるよう監視する のでした。 こうして20万人の命を奪い、200万人を故郷からおいだすことになったボスニア戦争

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は一応のおわりを告げたのでした。

「内戦に勝ち負けはない。勝者となることはできず、みなが敗者だ。平和こそが勝利なの である。この和平合意はお互いの苦しいゆずりあいのうえに成立したのだ」

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第20章  ユーゴスラビア消滅に向けて

これらの激しい戦争、内戦のあと開かれたのが、ユーゴスラビア国際戦争犯罪法廷。 言うなれば、第2次世界大戦後の東京裁判のようなもの。 この裁判は今のオランダ、デンハーグの国際司法裁判所で行われました。 デンハーグといえば、我々の皇太子妃である雅子さまのお父様が、2013年まで国際司 法裁判所所長としておつとめになっていた都市。 または、今日本人に大変人気なフェルメールの ‘真珠の耳飾りの少女’ が展覧されてい る、マウリッツハイス美術館がある都市。 この裁判にて多くの戦犯が裁かれることになりました。 凄まじいクロアチア内戦の引き金となった、クロアチア大統領トゥジマン。 彼は1999年、国民の反感をかったままガンで死亡。 そしてボスニア内戦の悲劇を助長させたセルビア民主党のカラジッチ。 彼はこの国際戦争犯罪法廷にて戦犯として起訴されました。

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そしてユーゴスラビアのセルビア人大統領ミロシェビッチは、2002年戦犯として法廷 へあがりました。 ボスニアのモスリム代表者イゼトベゴビッチは2000年政界引退。 そして残された第3のユーゴスラビア、それはセルビアとモンテネグロ。 しかしその人口規模の小ささから独立を選択しないで、一旦はセルビアとの連邦を選択し たモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まっていくのでした。 人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営される事になり、この間モ ンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることに なったのです。 これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の発端となるのでした。 2003年 2 月 5 日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、 ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生。 共同国家の弱体化、さらに出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システム を志すも、モンテネグロは独立を主張。 2006年 5 月 23 日に国民投票が行われ、モンテネグロは連合を解消して独立を宣言。 これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロ の独立が確定。 これによってユーゴスラビアを構成していた 6 共和国はそれぞれ完全に独立する事になっ たのでした。

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エピローグ 旧ユーゴスラビアの楽しみ方

音声バージョン、またはこの読書バージョンそして人物相関図は http://www.rekishibon.com/yugo.html よりお楽しみいただけます。 注意 キンドルリーダーで音声をお楽しみいただくためには、特定の設定をなさっていた だかなくてはなりません。 詳細に関しましては上記の未公開商品サイトの ‘mp3 ファイルの開き方’ をご参照くだ さい。 いかがでしたでしょうか? この旧ユーゴスラビアの歴史を知った上で訪れると、きっと平和というものに感謝しなが ら観光ができるのではないでしょうか? 国中に未だに残る戦争の傷跡。 放置された戦車、壁にのこる砲弾のあと、そして人々の笑顔の奥に見え隠れする悲しい顔。 半世紀前のお話ではなく、ほんの10数年前のお話なのです。 2013年ヨーロピアの一国としてヨーロピア連合 EU に加盟を果たしたクロアチア。 これを機にもっと多くの観光客が訪れることとなるでしょう。 平和な独立を果たしたスロベニアの首都リュブリャーナ。

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湖の小島に建つ教会が素敵なブレッド湖

巨大な鍾乳洞ポストイナ鍾乳洞

イタリアにほど近い、そして航海の安全を祈るモルチッチの里リエカ

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黒トリュフに黒ワイン

破壊を免れた世界遺産、透き通る水のプリトヴィツェ

当時の権力者の顔を刻んだシベニク聖ヤコブ大聖堂

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ローマ帝国皇帝の築いた宮殿に造られた町スプリト

ボスニア・ヘルツェゴビナ唯一の港ネウム

砲撃の的となったモスタル

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そしてアドリア海の真珠ドブロブニク ローマ帝国の商業地帯として大変栄えたこの旧ユーゴスラビア。 ゆっくりのんびりとご堪能いただきたい素晴らしい国々です。 このたびは 聞き流しながら楽しく歴史が頭に入る本シリーズ 東欧の歴史/ユーゴスラビアの歴史がわかる本 ご購入誠にありがとうございました。 歴史本ネット 池田かおり

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参照

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