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台 湾 人 の 結 婚 すなわち 内 台 共 婚 は 変 則 的 な 形 式 を 取 った つまり 台 湾 には 戸 籍 がそもそも 存 在 しなかったために 内 地 と 台 湾 の 間 で 個 人 の 戸 籍 上 の 異 動 を 行 うことは 原 則 的 にはできない では 法 律 上 の 連 絡

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Academic year: 2021

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1 はじめに (1) 内台共婚とは 日本帝国期の婚姻制度のもとでは、内地戸籍を持つ日本人(以下、内地人) 同士の婚姻は、1898(明治 31)年に施行された民法(明治 29 年法律第八十九 号)に規定され、戸籍吏へ婚姻届を提出することによって内地人女性は生家 の戸籍から抜かれ、内地人男性の戸籍に記載されると同時に、内地人男性側 の家に入ることになる。つまり、事実上の同棲関係があろうとも婚姻届を出 さない限り認められない届け婚である。これに対して、植民地台湾における 台湾人同士の婚姻は、1901(明治 34)年の台湾総督府臨時台湾土地調査局の 主導による、台湾慣習調査会によって作成された「台湾慣習法」に規定され ていた(台湾総督府臨時台湾土地調査局 1901)。明治民法は 1923(大正 12)年 から台湾でも施行されるようになったが、親族・相続に関する慣習は内地と( 1 ) は完全に異なるため、台湾では民法第四編(親族編)・第五編(相続編)は適 用されなかった(三好 1919:6-8;畠中 1933a:24)。さらに、台湾では住民の 動静を把握する「戸口規則」に基づいて作成された「戸口調査簿」は存在し たが、1933(昭和 8)年 3 月 1 日に「戸籍法」が施行されるまでは、民法に よる戸籍は存在しなかった。このため、台湾人同士の婚姻は内地の民法や戸 籍法に制約されることはなく、婚姻の届出が絶対の要件とはならなかった。( 2 ) つまり慣習による人前式という公開披露宴によって、その婚姻が有効と認め られるという、従前の「儀式婚」が維持された(台湾警察協会 1917:29)。( 3 ) そして、結婚が発生した後に必要に応じて「戸口調査簿」に登録された。 このような内地と植民地台湾における婚姻制度の相違のもとで、内地人と 論文

日本統治時代における「内台共婚」の

構造と展開

嘉 琪

キーワード:内台共婚 国際結婚 植民地台湾と日本 夫婦・親子関係 戸籍制度

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台湾人の結婚、すなわち「内台共婚」は変則的な形式を取った。つまり、台 湾には戸籍がそもそも存在しなかったために、内地と台湾の間で個人の戸籍 上の異動を行うことは原則的にはできない。では、「法律上の連絡がない」 (畠中 1933a:22-3)ことによって、戸籍上の夫婦関係が発生しなかった両者( 4 ) の結婚には、どのような「法的」措置がなされたのか。総督府参事官鼓包美 によると、無戸籍であった台湾人女性が戸籍を持つ内地人男性と「婚姻」し た場合、妻は夫の戸籍の中に正式に入籍されることはなく、夫の戸籍事項欄 内に、台湾人女性との婚姻の旨が記されるのみであった。一方、戸籍を持つ 内地人女性と無戸籍の台湾人男性とが結婚した場合には、内地人女性の戸籍 事項欄に台湾人某男と結婚したという旨が記入されるのみで、内地人女性は 元の戸籍から除籍されることはなかった(鼓 1921:90)。なお、内台共婚は 1933(昭 和 8)年 ま で 内 閣 府 に 法 認 さ れ な か っ た が、田 健 治 郎 総 督 期 (1919〜1923 年)の法務部長長野景徳によると、正当な手続きをすれば、台 湾では「戸口調査簿」に登録され、もうけた子女も嫡出子として登記するこ とが可能であったという(長尾 1920:20-1)。( 5 ) つまり、内地人と台湾人の結婚は法律や戸籍がなくても公・的・に登録された ことが窺えるが、互いの家に入籍できず、戸籍を持っている内地人も自分の 家から除籍されないという制約を有するものである。実際に内台共婚が法律 化されるまで、これらの結婚は台湾総督府の公文書ではカギ括弧付きの「内 縁ノ夫婦」として登・録・されていた。内地人女性は「内縁ノ夫婦」という枠組 みのもとで台湾人の家(jia)に入ることになり、一方、台湾人女性は、妾や 同棲の関係において台湾在住の内地人男性と「内縁ノ夫婦」関係を持つだけ であり、「内縁ノ夫婦」は日本の民法上で存在しないため、内地人男性の内 地の家(ie)に入ることは制度的にできない。なお、このように内地人の 夫・妻の戸籍上において「内縁ノ夫婦」関係さえも記載されないような、内 縁の夫婦関係が多数存在したことは言うまでもなかろう。ただし、この期に は結婚する内地人の戸籍謄本と台湾人の戸口整理簿や履歴書・理由書などを 内地内務大臣に郵送し、特別な許可を得られれば内閣府にも台湾総督府にも 公認される「正当婚姻」として登録するのが可能であった。( 6 ) 1933(昭和 8)年 3 月 1 日に内閣府の同意のもとに台湾人にも戸籍が設置 され、「内台共婚法」も成立することによって、内台共婚をめぐる状況は転 機を迎える。これによって台湾人の民族戸籍が創出されるとともに、戸籍上( 7 )

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の「連絡」ができ、「法律婚」が可能となったのである。すなわち、台湾人( 8 ) 男性と内地人女性が結婚した場合、その台湾人夫の居住地の戸籍吏に届出を 出せば婚姻届が受理されるようになったのである。また、戸籍が内地にある 内地人夫が台湾人妻と結婚した場合は、同じ台湾の戸籍吏に届出をすれば婚 姻が成立することになり、内地人の所属する内地の市町村長に届出を出す必 要はなくなった。( 9 ) (2) 本論文の目的 本稿は、近年の研究動向をふまえつつ、内台共婚に関する資料の新たな開 拓・整理をし、実証研究を通して、日本の植民地統治期における日本人と植 民地人との結婚の研究に貢献することを目指すものである。 植民地統治期における日本人と植民地人との結婚は、植民地化という歴史 的事象を結婚・家族レベルで表象するものであり、この結婚には日本と植民 地の関係性が浮き彫りにされている。従来の研究における主な関心は、どち らかと言えば内地人と植民地人=朝鮮人との結婚である「内鮮結婚」に重点 が置かれてきたが(金 1999:1-46、竹下 2000:51-68、鈴木 2003:166-95、嘉 本 2008:75-95)、近年、内台共婚に関する研究も徐々に見られるようになっ た。 例えば、文学では星名広修が内台共婚を主題とした植民地時代の小説を通 して、植民地支配状況下の台湾人と内地人との間に生まれた「混血児」の悩 みに潜む政治性を説いている(2002:267-94)。法学では陳昭如が、内台共婚 を取り上げて、台湾における国籍の男系優先をめぐる法的属性とジェンダー との関係を考察している(2005:4-25)。歴史学では、蔡錦堂が日本統治時代 における「同化政策」を基盤として、内台共婚を内地延長主義の一つの措置 として捉え、内台共婚の法整備と同化政策との緊密な関係を解明した (2001:4-5)。また、栗原純は台湾統治と法律との関係について「戸口規則」 から「戸籍」への変遷を追い、植民地台湾における戸籍制度の成立の歴史的 経緯を明らかにした。栗原は法律化された内台共婚に絡む相互送籍の問題を 取り上げ、「内台共婚法」の成立と「台湾戸籍法」の制定との関係を検討し た(栗原 2004:267-337)。さらに、徳田幸恵は内地と植民地台湾の家制度の 相違によって、内台共婚における文化交流は具体的な効果を生まなかったと 論じている(徳田 2007:1-95)。これらの研究はいずれも貴重な研究成果で

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はあるが、その全容はいまだに十分に解明されていない。 そのため、本稿では特に社会学的な視点からのアプローチを試みる。具体 的には、結婚をめぐる制度、戸籍制度の変遷・展開を軸として、内台共婚の 特質を夫婦関係や親子関係に焦点を当てて論じる。それを通じて、その夫婦 関係や親子関係が日本(内地)と植民地という関係性のなかで如何なる問題 を内包していたのかを明らかにしたい。同じ帝国臣民でありながら内地人と 台湾人の間に横たわる、戸籍の有無、そして異なる民族であることによる文 化的差異のあり方に注目する。 なお、分析においては、台湾社会における内台共婚の意味を問うために、 内地に存在する「内台結婚」は対象とはせず、もっぱら植民地台湾における 内台共婚に焦点を当てる。また、台湾島(含澎湖島)には、中国の福建省、 広東省から来た華人およびその末裔が多いが、その他の地域から来た漢人や マレー系の原住民もいた。1905(明治 38)年台湾総督府令九三号の戸口調査 規則においては、本島人(台湾人)はモンゴロイドの漢人とマレー人種の蕃 人に分けられ、さらに漢人は、出身地により福建省・広東省・その他の省に 再分化された。台湾漢人と台湾原住民は異なる法律によって植民地政府に支 配されている。「蕃人」は戸口調査の際に、「熟蕃」、「生蕃」の二種に分類さ れた。漢人化した「熟蕃」に対し、「生蕃は高嶽峻嶺に蟠踞する化外の民」 とされていた(三角 1927:73)。 当時の文献では、「台湾人」と記述される場合には台湾人漢族を指してい ることが多いため、本稿では、「台湾人」という用語は台湾原住民を含まな い台湾人漢族という意味で使用する。分析のための実証的データとしては、(10) 日本統治時代に台湾総督府高等裁判所から発行されていた月刊誌『台法月 報』・台湾警察協会発行の『台湾警察協会雑誌』・台湾総督府の公文書・台湾 総督府総務局や官房統計課、官房調査課による人口動態統計・新聞雑誌(主 に『台湾日日新報』、『台湾時報』)を主に使用する。 2 内台共婚をめぐる政策と実態 前節にも示されるように、内台共婚は制度や政策に大きな影響をうけるも のであるが、その観点から見た場合には、基本的に以下の 4 期が存在する。 第 1 期は「無方針主義期」であり、民政開始の 1896(明治 29)年 4 月 1

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日から、民政長官後藤新平が退任した 1906(明治 39)年 11 月 13 日までで ある。第 2 期は「雑婚推進期」であり、後藤新平退任から「和蕃婚姻」を主 導した佐久間左馬太総督の任期を経て、それに続く田健次郎総督により「内 台共婚便宜法」が施行される 1920(大正 9)年 8 月 22 日までである。第 3 期は 1920(大正 9)年 8 月 23 日から 1933(昭和 8)年 2 月末までである。同 時期は台湾総督府側が内閣府の戸籍令の制定を待たずに不完全な手続で共婚 を認可した時期にあたり、「準法律婚期」と呼ぶこととする。その後、「内台 共婚法」が発布された 1933(昭和 8)年 3 月 1 日から終戦までの時期が第 4 期であり、「法律婚期」とする。ここでは、2 期と 3 期をまとめて、3 つの時 期に分けて考察する。 (1) 無方針主義期 1895(明治 28)年 6 月 8 日に植民地となった台湾では、「大日本帝国」に 対する武力による抵抗運動が陸続していた。これに対して 1898(明治 31) 年 3 月に着任した民政長官後藤新平は、1906(明治 39)年までの 8 年 8ヶ月 の在任中、弾圧と懐柔政策とを繰り返した。生物学者でもあった後藤は、内(11) 地人を鯛、植民地台湾人を比目魚と称し、生物学的原則を植民地主義統治に 利用した。すなわち、人類の進化において、台湾人を「比良目の目は頭の一 方についている」と喩え、「鯛の目のように両方につけ替えへることはでき ない」とした。このように、台湾人は内地人より生物学的に劣等とし、台湾 の旧慣習に無干渉とする「無方針政策」を取った(鶴見 1937:24-6)。 この生物学的差異に喩えた思想は、後藤とほぼ同じ時期に台湾総督府参事 官長であり、法制局を主宰する石塚英蔵の議論からも窺える。彼は「国民的(12) 生存競争及同化絶滅」において、「優等人種」のアングロ・サクソンは本国 でも植民地でも「野蛮人種」と結婚しないため堕落しないのであると、イギ リスの植民地統治を事例として論じ、「優等人種」は「野蛮人種」と接触す ると、破滅をもたらす結果がありうるとしている(石塚 1900:169-78)。この ように、この時期の台湾人は内地人とは異なる「人種」として扱われていた。 そして、以上の植民者側の思想を反映するかのように、この期には内台共 婚が生じることはあまりなかった。 領台初期、内地からの移住者として代表的な存在は内地農村の貧困層出身 の内地女性であり、彼女らは内地男性を対象とする性的商売のために渡台し

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た(林 1979:32)。台湾総督府衛生部門は内地での貸座敷の経験を生かし、(13) 速やかに 1896(明治 29)年 6、7 月より台北県、台中県で、娼妓に関する法 令を制定した(林 2007:103)。台湾総督府が行った戸口調査や国勢調査の統(14) 計によれば、内地人女性が台湾で従事した職業は「接客業」、「旅社・飲食 店・洗浴業」が多かったことが看取できる。表 1 が示すように、内地人女性 は一貫して「接客業」・「旅社・飲食店・洗浴業」に従事する割合が高く、全 体の 3 割から 4 割以上を占めていた。 元田作之進は 1904(明治 37)年の総督府内部調査の結果を参考しながら、 台湾在住の内地人男性は 30 代が多いことに対して、女性は 16 歳から 34 歳 までの者が多く、その中でも 25 歳前後が最多数であると述べている(元田 1904:3-6)。元田によれば、内地人の女性数は男性のほぼ半数である。さら に、政府に登録された内地人の芸娼妓酌婦の数は 1,776 人に上り、戸数は 95 戸であった。待合・旅人宿・飲食店・料理店など「魔窟」に鑑札を持ってい ない「醜業婦」と合わせると、その数がさらに多かったと考えられる。 つまり、同時期に台湾へ移住した内地の独身男性、さらに妻子を内地に残 してきた男性は、これらの内地人女性と主には交渉を持ち、他方では台湾人 男性が娼妓を生業とする内地人女性を婚姻の対象にすることは考え難く、内 表 1 内台女性の職業別表(本業者の分) 単位:人 単位(人) 1905 年 1915 年 1920 年 内 地 人 女 性 本業者合計 4,291 10,236 10,851 接客業 1,380 41.02% 2,468 31.88% 遊戯・娯楽業 380 795 旅社・飲食店・洗浴業 4,756 43.83% 台 湾 人 女 性 本業者合計 310,137 467,178 444,433 接客業 571 0.23% 1,404 0.37% 遊戯・娯楽業 143 324 旅社・飲食店・洗浴業 2,597 0.58% 注: 1905 年と 1915 年の臨時戸口調査で行われた調査項目の「接客業」「遊戯・娯楽業」 は、1920 年 10 月 1 日に大日本帝国で実施された国勢調査にはなく、「旅社・飲食店・ 洗浴業」という項目に包含された。 出典: 1905 年は第一次臨時戸口調査、1915 年は第二次臨時戸口調査、1920 年は第一 次国勢調査によるものである。 筆者作成。

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台共婚は発生する余地はあまりなかったのである。 (2) 雑婚推進期・準法律婚期 「内台雑婚」という論説が台湾の雑誌に初めて登場したのは台湾総督府高 等裁判所が発行していた雑誌『台法月報』に 1913(大正 2)年 7 月 20 日に 掲載された「内台雑婚表と雑婚説」が最初であると思われる。著者の中野顧 三郎によると、「内台雑婚が同化的効力を有するものとして政策上最も歓迎 すべく、随て其雑婚が最も崇高なる殖民的行為」である一方、実際に敢行し 難いものであることも否認することができないと論じている。なぜならば、 「内地女の(台湾)本島男と婚するは著しく国民的プライドを毀損する」た めと述べている(中野 1913:35-8)。この時期は、第一期の生物学的側面か ら台湾人との結婚を排除する基本政策から内地人と台湾人との婚姻を承認す る方向へ転換されたが、それは明確な政策があったわけではなく、よって両 者の婚姻は何ら管理されなかった。(15) しかしながら『臺灣人口動態統計』によると、大正前期の内地女性は、最 も多く就業していた接客業以外にも、一般的職業、例えば公務自由業、工業、 農業・畜産・養蚕に従事していた内地女性が漸次的に台湾に入ってきた。ま た、1914(大正 3)年の台湾同化会総裁板垣退助の渡台や、1915(大正 4)年 に成立した台湾同化会をきっかけに、同化ムードが高まった。こうした状況 の中、1918(大正 7)年、「内地延長主義」を主張した内閣総理大臣原敬によ って派遣された田健次郎総督は、1919(大正 8)年 10 月 29 日、初代文官総 督として着任した。田健次郎は「社会上の融和を為すに最も効果あるものは 無論婚姻である」として、融和政策を掲げ、「今日迄は法律の不備に依り、 法規の上では公認出来なかったが、外国人なれば互いに結婚する事を公認し、 却つて帝国臣民間に合法的結婚が出来ないという事は法律上の大欠点であ る」と、内台共婚を合法化し、推進しようとし(田健治郎伝記編纂会 1932: 392)、翌年 8 月 23 日に「内台共婚便宜法」が施行されるまでになった。(16) この中で、表 2 のように、内台共婚は新しい段階にはいる。戸籍上におい て正式な結婚手続きをとる「正当婚姻」及び、すでに最初に言及した「内縁 ノ夫婦」が成長し、準法律婚期の 1920 年代末には、前者が 85 件、後者が 188 件にもなっている(内地人と生蕃との結婚は除く)。全体として、「正当婚 姻」「内縁ノ夫婦」とも「内地人夫・漢人妻」のパターンが多いため、台湾

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女性が内地男性と結婚するという、一種の上昇婚的な結婚パターンが主流で あるが、同時に、この間の社会変化を反映して「内地人妻・漢人夫」が増加 していること、しかも「正当婚姻」において顕著な増加傾向が見られること が注目される。 表 2 内台共婚表 単位:件数 期間 1896 年 4 月 1 日 ∼ 1906 年 11 月 13 日 1906 年 11 月 14 日 ∼ 1920 年 8 月 22 日 1920 年 8 月 23 日 ∼ 1932 年 2 月 28 日 1933 年 3 月 1 日 ∼ 1945 年 8 月 15 日 政策 (台湾総督府) 無方針 主義期 雑婚推進期 準法律婚期 (内台共婚便宜法) 法律婚期 法律 (内地内閣府) 非法律婚 内台共婚法 実態 1912 年 1919 年 1929 年 正当 婚姻 内地人夫 漢人妻 ― 12 12 32 内地人妻 漢人夫 ― 0 1 47 + 6 * 内地人夫 生蕃妻 ― 0 2 0 合計 ― 12 15 79 + 6 * 内縁 ノ 夫婦 内地人夫 漢人妻 ― 109 78 91 + 6 # 内地人妻 漢人夫 ― 31 25 71 + 20 # 内地人夫 生蕃妻 ― 19 18 32 + 2 # 合計 ― 159 121 194 + 28 # 注:*は婿か入夫結婚の数。#は妾の数。空欄の部分はデータがない。    届けて認定されたものは、「正当結婚」となるが、届けでなかったものや届けても認定さ れなかったものは、妾でなくても「内縁ノ夫婦」として統計されている。 出典: 『台法月報』7(7):180、南水生「台湾戸籍法制定」『実業之台湾』(1920:18 9)、台湾 総督府公文類纂「内地人對本島人及生蕃人間ノ夫婦関係調査表」册號 5449 文號 2 第三 1912 04 01(明治 45 年)、台湾総督府公文類纂「昭和四年十月一日現在內臺人間ノ內 蕃 人 間 共 婚 者 關 係 件 」 册 號 11165 文 號 1 1929 01 01( 昭 和 4 年)原 冊 號 20059。 筆者作成。

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徳田幸恵は、1932(昭和 7)年 1 月末から 3 月中旬までの新聞(『台湾日日 新報』、『台湾人士鑑』、『台湾官紳年鑑』、『台湾人士体勢と事業界』)から「内台 共婚」の事例を紹介している(徳田 2007:36-54)。徳田が提示した事例に(17) 1920 年代に結婚した事例と台湾総督府の公文書を加えて再度整理すると、(18) 10 組の夫婦はすべて台湾人夫と内地人妻との夫婦であり、7 組は内地(東京 5 組、横浜 1 組、大阪 1 組)で結婚していた。残りの 3 組のうち、1 人は山形 出身の在台内地人 2 世であり、1 人は台北市会議員と結婚した岐阜出身の女 性であり、1 人は内地父が商売しているアモイで結婚した東京出身の女性で ある。彼女たちの台湾人夫はほぼ全員が内地での留学経験を有し、弁護士あ るいは医師・議員等の裕福層に属する人物であった。また、その内地人妻た ちは牧師の娘や漢人夫の同僚の兄弟や大阪池田町長の娘や軍人家庭の娘など 「まともな」家庭の出身である。このように 1920 年代以降は、台湾社会にお ける上層階層の台湾人夫と庶民の内地人妻という新たな結婚パターンが形成 された。しかも、このパターンでは妻はほとんど「湾妻」と呼ばれる台湾で 生まれ育った内地女性ではなく、内地で生まれ育った女性である。内台共婚 は日本人男性と現地=台湾の女性というパターンを主要なものとしながらも、 台湾人男性と内地女性という結婚も重要な位置を占めることとなった。 また、注目されるのは、「内縁ノ夫婦」における「妾」の存在である。 1929 年の資料では「内地人夫・漢人妻」が 6 件、「内地人妻・漢人夫」が 20 件と記録されている。前者は、台湾人の内縁妻が妾となっている、後者は日 本人の内縁妻が妾になっていることを意味する。中国の伝統には妾制度が存 在し、清朝康煕帝期に初めて中国の版図になった台湾でも妾制度は援用され ている。その後、日本植民地期に至っても、台湾人同士の婚姻に内地の民法 は適用されず妾制度は「台湾慣習法」で容認されていた。妾は配偶者として 認められるものの、正妻と同等の地位にはなく、また自らが生んだ子女に対 する親権を持つこともできなかった(山本 1905:25-32、石橋 1931:13-4、姉 歯 1939:9-17)。しかしながら、妾は台湾の慣習上、夫や夫の親族に対して(19) 一定の冠婚葬祭の礼儀や身分が定められており、台湾総督府が認めた一種の 婚姻形態であった。表 2 が示すように、台湾総督府は内台共婚にも台湾の慣 行に配慮して、内地では非合法とされた「妾を囲う行為」を容認したため、 台湾人にとっては合法の妾も、内地人にとっては非合法の妾も、普通の一夫 一婦の内台共婚もすべて「内縁ノ夫婦」の中に位置づけられていたのである。

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その意味では、「内縁ノ夫婦」の中には、様々な性格の婚姻が内包されてい たことになる。加えてこの妾は、「内地人妻・漢人夫」の結婚にむしろ発生 率が高いから(約 22%)、この期に増加する内地人妻には、台湾の富裕層や エリートと「正当婚姻」する女性を頂点とし、底辺には妾となる女性に至る までの階層化が進んだとも言える。 (3) 法律婚期 準法律婚期には、台湾人は依然として戸籍を持つことができなかったため、 「正式に内台人の共婚はできなかった」(畠中 1993b:12)。「内台共婚便利法」 はあくまでも台湾総督府が一方的に管轄した台湾に向けての政策であり、内 地の司法省が認可したものではなかった。しかしながら、1931(昭和 6)年 の満州事変をきっかけに、日本は中国東北を占領し、中国全土への侵略を開 始した。中国本土に進出するためには同じ漢民族出身である台湾人との一体 化が必要となるため、同化政策に一転した内閣府は、急遽「戸籍調査簿」を 戸籍とした(栗原 2006:47-8)。その結果、1933(昭和 8)年 3 月 1 日をもっ て、台湾人の戸籍制度が確立され、内閣府の制度は総督府の政策と一致する ことなり、法律的効力を有する「内台共婚法」が施行された。 では、新制度の施行によって、内台共婚は増加したのであろうか。総督府 の編集による、「正当婚姻」のみの統計からなる各年度「台湾人口動態統計」 に着目して見ると(表(20)3)、1932(昭和 7)年から 1933(昭和 8)年に婚姻件 数は確かに 17 件から 36 件へと 2 倍に増加している。その内訳は、「内地人 夫・漢人妻」が 2 件から 5 件、「漢人夫・内地人妻」が 15 件から 31 件であ る。雑婚推進期から準法律婚期へという展開の中で成長してきた「漢人夫・ 内地人妻」の勢いの強さを感じ取ることができる。しかしながら 1933 年以 降に着目してみると、「漢人夫・内地人妻」の数は 1933 年が 31 件、1942 年 が 33 件で、その間も 20 件〜30 件前後の状態である。また、「内地人夫・漢 人妻」も年ごとのばらつきはあるものの 5 件(33 年)から 12 件(42 年)へ と増加の傾向にあるが、内台共婚の発生率から見れば、全体の婚姻件数に占 める「内台共婚」率は 1933 年以降は 0.08%から 0.09%台でほとんど変化せ ず、0.1%を超えることはなかった(表 4、図 1)。したがって、法整備が共婚 の増加にプラスの影響を与えたことは事実であるが、1933 年以降の「内台 共婚」の発生率から見れば、大きな効果があったとは言い難い。

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表 3 台湾(本島)人と内地人との正当結婚の婚姻件数 動態統計表 内々 結婚 内台結婚 内蕃結婚 漢蕃結婚 西   暦 和   暦 内地人同士 内地人夫漢人妻 漢人夫内地人妻 合   計 内地人夫熟蕃妻 内地人夫生蕃妻 熟蕃夫内地人妻 生蕃夫内地人妻 合   計 漢人夫熟蕃妻 漢人夫生蕃妻 熟蕃夫漢人妻 生蕃夫漢人妻 合   計 1905 明 38 年 58 0 0 0 0 0 0 0 0 39 15 19 2 75 1906 明 39 年 202 2 0 2 0 0 0 0 0 164 41 97 6 308 1907 明 40 年 236 0 0 0 0 0 0 0 0 147 36 94 5 282 1908 明 41 年 321 2 0 2 1 0 0 0 1 157 36 90 6 289 1909 明 42 年 379 0 0 0 0 0 0 0 0 175 47 120 5 347 1910 明 43 年 344 0 0 0 0 0 0 0 0 156 28 96 8 288 1911 明 44 年 439 1 0 0 0 0 0 0 0 170 28 103 9 310 1912 大 1 年 426 4 0 4 0 0 0 0 0 157 41 119 15 332 1913 大 2 年 458 0 0 0 0 0 0 0 0 168 36 112 9 325 1914 大 3 年 452 1 0 1 0 0 0 0 0 147 24 80 7 258 1915 大 4 年 514 1 0 1 0 0 0 0 0 193 51 145 18 407 1916 大 5 年 634 1 0 1 0 0 0 0 0 184 30 95 9 318 1917 大 6 年 753 1 0 1 0 0 0 0 0 197 40 120 6 363 1918 大 7 年 700 0 0 0 0 0 0 0 0 174 34 174 8 390 1919 大 8 年 674 0 0 0 0 0 0 0 0 186 40 161 7 394 1920 大 9 年 717 1 0 1 0 0 0 0 0 203 47 116 18 384 1921 大 10 年 759 1 7 8 0 0 0 0 0 186 36 122 9 353 1922 大 11 年 701 1 8 9 0 0 0 0 0 158 38 110 12 318 1923 大 12 年 657 3 2 5 0 0 0 0 0 165 34 119 10 328 1924 大 13 年 701 3 5 8 1 0 0 0 1 238 36 137 9 420 1925 大 14 年 563 0 2 2 0 0 0 0 0 174 34 131 10 349 1926 昭 1 年 824 5 12 17 1 0 0 0 1 215 44 149 7 415 1927 昭 2 年 645 6 8 14 0 0 0 0 0 211 38 137 13 399 1928 昭 3 年 692 3 5 8 0 0 0 1 1 213 35 156 8 412 1929 昭 4 年 641 4 9 13 0 0 0 0 0 232 41 157 7 437 1930 昭 5 年 739 1 5 6 0 0 1 0 1 228 44 156 25 453 1931 昭 6 年 757 1 12 13 0 0 0 0 0 211 28 143 12 394 1932 昭 7 年 767 2 15 17 0 0 0 0 0 216 31 153 9 409 1933 昭 8 年 894 5 31 36 0 1 0 0 1 223 42 142 9 416 1934 昭 9 年 759 5 29 34 0 0 0 0 0 221 24 172 11 428

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1935 昭 10 年 775 8 21 29 0 0 0 0 0 233 26 132 10 401 1936 昭 11 年 826 3 22 25 0 0 0 1 1 180 28 135 14 357 1937 昭 12 年 971 9 19 28 1 0 0 0 1 198 25 156 11 390 1938 昭 13 年 798 10 30 40 0 0 0 1 1 180 24 135 11 350 1939 昭 14 年 718 14 24 38 0 0 0 239 168 407 1940 昭 15 年 936 5 31 36 0 0 0 229 159 388 1941 昭 16 年 1022 7 31 38 0 1 1 222 137 359 1942 昭 17 年 1238 12 33 45 1 0 1 229 169 398 注: 1935(昭和 10)年に、 生蕃は平埔族、 熟蕃は高砂族に改称されたため、 1934(昭和 9)年のテー タから反映されていない。   1939(昭和 14)年以降、平埔族、高砂族は一括され統計上に反映されない。 出典: 1905(明治 38)年∼ 1906(明治 39)年の部分は 「臺灣人口動態統計 原表之部』の各年度に よるものである。臨時臺灣戸口調査部出版。 1907(明治 40)年∼ 1915(大正 5)年の部分は 「臺灣人口動態統計 原表之部』の各年度に よるものである。臺灣總督府總督官房統計課出版。 1917(大正 6)年∼ 1918(大正 7)年の部分は 「臺灣人口動態統計 原表之部』の各年度によ るものである。臺灣總督官房調査課出版。 1919(大正 9)年∼ 1937(昭和 12)年の部分は 「臺灣人口動態統計』の各年度によるもので ある。臺灣總督官房調査課出版。 1938(昭和 13)年∼ 1941(昭和 16)年の部分は 「臺灣人口勣態統計』の各年度によるもので ある。臺灣總督府企畫部出版。 1942(昭和 17)年は『臺灣人口動態統計』によるものである。臺灣總督府特務局出版。 筆者作成 0.3 0.25 0.2 0.15 0.1 0.05 0 出典:表 3 を参照。筆者作成。 一 九 四 一 一 九 三 九 一 九 三 七 一 九 三 五 一 九 三 三 一 九 三 一 一 九 二 九 一 九 二 七 一 九 二 五 一 九 二 三 一 九 二 一 一 九 一 九 一 九 一 七 一 九 一 五 一 九 一 三 一 九 一 一 一 九 〇 九 一 九 〇 七 一 九 〇 五 年 % 図 1 内台共婚率

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表 4 内台共婚率 西暦 和暦 内台結婚 すべて結婚の数* 比率(%) 1905 明 38 年 0 8,785 0 1906 明 39 年 2 31,289 0.006 1907 明 40 年 0 33,597 0 1908 明 41 年 2 35,061 0.006 1909 明 42 年 0 35,965 0 1910 明 43 年 0 36,786 0 1911 明 44 年 0 36,985 0 1912 大 1 年 4 37,919 0.011 1913 大 2 年 0 36,167 0 1914 大 3 年 1 33,977 0.003 1915 大 4 年 1 38,586 0.003 1916 大 5 年 1 37,604 0.003 1917 大 6 年 1 38,095 0.003 1918 大 7 年 0 40,902 0 1919 大 8 年 0 38,341 0 1920 大 9 年 1 40,915 0.003 1921 大 10 年 8 40,829 0.02 1922 大 11 年 9 37,831 0.024 1923 大 12 年 5 39,480 0.013 1924 大 13 年 8 42,101 0.019 1925 大 14 年 2 37,603 0.005 1926 昭 1 年 17 46,778 0.036 1927 昭 2 年 14 45,572 0.03 1928 昭 3 年 8 42,679 0.019 1929 昭 4 年 13 46,816 0.023 1930 昭 5 年 6 46,364 0.013 1931 昭 6 年 13 42,468 0.031 1932 昭 7 年 17 43,123 0.039 1933 昭 8 年 36 44,078 0.082 1934 昭 9 年 34 43,450 0.078 1935 昭 10 年 29 46,279 0.063 1936 昭 11 年 25 45,445 0.055 1937 昭 12 年 28 48,672 0.058 1938 昭 13 年 40 51,442 0.078 1939 昭 14 年 38 49,468 0.077 1940 昭 15 年 36 46,112 0.078 1941 昭 16 年 38 44,386 0.086 1942 昭 17 年 45 49,244 0.091 注:*:台湾における本島(台湾)人、 内地人、 外国人の婚姻 の総数(台湾人同士の結婚数も含む) 出典:表 3 を参照。筆者作成。

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3 結婚パターンから見た内台共婚 前章では、時期的な区分により内台共婚をめぐる政策と実態を考察したが、 夫=内地人と妻=台湾人との結婚と、夫=台湾人と妻=内地人の結婚では、 そもそも結婚の性質が異なるので、結婚パターンごとの分析が必要である。 したがって、以下では、それぞれに分けて論じる。 (1) 夫=内地人・妻=台湾人の場合 総督府は結婚を通して台湾人を同化させることを模索するために、1919 (大正 8)年、内台共婚の調査を実施した(表 5)。この調査は計 6 種類あり、 136 組が調査対象者となった。調査では「同化の実を具体的に顕現するこ と」について、婚姻の状態・夫婦の風習・子どもの数・子どもの風習・子ど もの言葉・夫の教育水準・住所などの項目に関する調査が行われた。この調 査を通じて、正当婚姻の当事者である夫婦のみならず、その子(混血児)の 言葉や風習などの側面において、同化が進行していたことが明らかとなった。 「夫婦の風習」や「子女の風習」が全体として「内地風」であったり、「子女 の言語」が「内地語」であったりという傾向が見られたからである。総督府 はこの調査結果を踏まえ、結婚を通して台湾人を同化することができ、「内 台融和」を効果的に実践することが可能であるとし、1920(大正 9)年「台 湾共婚便宜法」を発布したと思われる。 しかしながら、家族における風習文化は、総督府が予想した内地側への同 化効果に反した側面も少なくない。特に内台共婚の主要な形態である「内縁 ノ夫婦」の「内地人夫・漢人妻」パターンでは、総数 78 のうち、「夫婦の風 習」が「内地風」であったのは 27 組(34.6%)にとどまる。「子女の言葉」 が内地語以外(つまり台湾語及び「内台折衷」)であるもの者が 32 人(43%) に達しているからである。「子女の風習」が「内地風」であるケースは 55 人 (74%)に達しているものの、全体としては同化は弱く、特に公用語である 内地語(日本語)を話さなかった点から見ると、完全に同化しているとは言 い難い。このような同化の弱さは、内縁ノ夫婦の関係の持続性や安定性の欠 如に一因があるではないだろうか。 明治 20 年代から大正末まで評論や翻訳・小説の分野で活躍した内田魯庵

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は『台湾百面相』の中で領台初期の台湾を「大抵な道徳君子は一度基隆に上 陸すると、マラリヤに感染すると同時に台湾宗の洗礼を受けて堕落して了 う」(内田 1953:217)と堕落の地と比喩し、台湾に来た内地人を「元来台湾 へ行く奴が官吏なら左遷者か不首尾者、民間なら喰詰者か大山師、先づ人間 の皮を被った貉のやうな奴ばかりだ」と負け組のように扱った(内田 1953: 216)。日本語が普及していないことも一因であるが、表 2 を照らし合わせて 見ると、領台初期、台湾に来た内地人男性は既婚者と考えられる。また、 「内地人夫・漢人妻」からなる「内縁ノ夫婦」においては、1912(大正 1)年 の 109 組から 1919(大正 8)年の 78 組に減少している。1930 年を例にすれ ば、公務自由業と無職業である台湾にいる内地男性は全体の 65.7%に及び数 年台湾で滞在したのち、内地へ戻っていたと考えられ、出入りが激しかった ことが窺われる。来台内地人の激しい出入りという点を考えれば、台湾に赴(21) 表 5 1919(大正 8)年 内台雑婚表* 単位:人 婚姻状態 正当婚姻 内縁ノ夫婦 種類 内地人夫 漢人妻 漢人夫 内地人妻 内地人夫 生蕃妻 内地人夫 漢人妻 漢人夫 内地人妻 内地人夫 生蕃妻 夫婦の数 12 1 ** 2 78 25 18 夫婦の 風習 内地風 内台(蕃)折衷 台湾風 生蕃風 8 4 0 0 1 0 0 0 2 0 0 0 27 22 29 0 20 2 3 0 8 1 4 5 子女の数 36 3 6 74 36 21 子女の 風習 内地風 内台(蕃)折衷 台湾風 生蕃風 36 0 0 0 3 0 0 0 6 0 0 0 55 4 15 0 35 1 0 0 16 1 0 4 子女の 言葉 内地語 内台(蕃)折衷 台湾語 蕃語 36 0 0 0 3 0 0 0 6 0 0 0 42 7 25 0 35 1 0 0 16 1 0 4 注:* 1919 年は雑婚推進期に当たるため「内台共婚表」ではなく「内台雑婚表」とした。   **この内地人妻の職業は教諭である。 出典:南水生「台湾戸籍法制定」『実業之台湾』(1920:18 9)。 台湾総督府公文類纂「内地人對本島人又ハ蕃人ノ緣事關係並ニ本島人對内地人ノ緣事 關係調 表」册號 6665 文號 13、1919 年 1 月 1 日(大正 8 年)、第 1 卷。 筆者作成。

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任している間、台湾人女性との内縁関係を持ち、内地に戻る際に内縁関係を 解消、もしくは関係の自然消滅とも考えられるだろう。 つまり、台湾人女性と「内縁ノ夫婦」関係にあった内地人男性は、流動性 や移動性の高い存在であり、台湾における夫婦関係は強固で永続的ものでは なかったと推定される。このことは表 5 の子どもの数からも看取できる。正 当婚姻の場合には、「内地人夫漢人妻」12 組に対して、その子女の総数は 36 名であるから、1 組の夫婦に平均 3 名の子女が生まれたことになる。また 「漢人夫・内地人妻」の「正当婚姻」は 1 組あるだけだが、子女数は 3 であ る。これに対して、多数派である「内縁ノ夫婦」の「内地人夫・漢人妻」は 78 組であったが、その子女数は 74 名に過ぎない。1 組平均は 0.9 人程度と、 前者の 3 分の 1 にも満たない。「内縁ノ夫婦」の「漢人夫・内地人妻」につ いては組数 25 に対して、子女数 36 人であり、1 組平均 1.5 人弱である。し たがって、正当婚姻に比べると「内縁ノ夫婦」では子どもの出生率が低くな る傾向が一般的にあることは確かであるが、「内地人夫・漢人妻」ではこの 傾向が非常に先鋭に示されている。その理由としては、上述のような日本人 夫の流動性の高さが、このパターンの夫婦関係を不安定性にしていることを 挙げることができよう。つまり、このような特質の夫婦関係のもとでは、家 族生活においても台湾人である母とその子どもの結びつきが重視されること によって、「内地風」ではなく、「台湾風」や「台湾語」が維持されたと考え られる。 一方、内地人男性の立場からすれば、自身の内台結婚の維持や正式化を拒 む要因として台湾の家族文化があった。例えば、男性が女性と結婚する際に 男性側の財力を示す「現金」が求められる台湾の慣行に因む聘金制度がある。(22) しかしながら、当事者の内地人男性には、台湾女性家族に払う「聘金」(結 納金)という、内地人の感覚では「売買婚」と思われる慣習に対する忌避な どの問題があった。「内地の結納の如き意味にて生まれたる物、如くなる」 が、現在になって「売買婚と化し、更に甚だしきは性の商業化である色情の 売買者が顕はれて来たこと」とのことで、内地人男性はこの台湾の慣行への 抵抗感があったと言われている(安 1931:6)。また、このような文化的差異 により、内地男性にとって、台湾の慣習の聘金は「物の対価に等しく、婚姻 は他の物品の売買と撰ぶところなく」(畠中 1933c:49)、「女そのものを一種 の物質扱いにした最も封建的な遺物」である(台湾婦人社 1934:46)と考え

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られていた。 第一回大東亜文学賞を受賞し、1920〜30 年代の台湾を舞台とした庄司総 一の小説からこのような文化的差異についても窺うことができる。当時話題 を呼んだ『陳夫人』では、台湾人陳清文と内地人安子との内台共婚において、 日本人家族の近代性に対峙するものとして、伝統的台湾人家族は不衛生、迷 信、妾制度などが内地人の目線から描かれた(庄司 1951)。ここに描かれて いるのは、直接には「漢人夫・内地人妻」の結婚ではあるものの、当時の日 本人の台湾人家族へ向けた意識がよく示されている。つまり、台湾の家族文 化のあり方への忌避的な対応として、結婚生活の継続への躊躇や、正当婚姻 よりも内縁の結婚形態への志向が生じたともいえる。 (2) 夫=台湾人・妻=内地人の場合 台湾に生まれ、15 歳まで植民地台湾に成長した竹中信子は領台初期、い わば無方針主義期に、内地の花柳界の「低級な女」しか台湾に来なかったと 述べている。なぜなら台湾は「土匪だ首狩りだマラリア」のある場所として 内地に知られる(竹中 1995:80)。したがって、この時期に台湾にいる内地 女性は少なく、いたとしても「芸娼妓酌婦」の割合が多かったとされる。 「売春婦や淫売」は従来「普通人としては扱われぬ」ものであり、水商売は 「これを下九流といって最下等の職業として非常に賤んだもので、普通家庭 との間には殆ど結婚が行われぬ慣習」となっているため(十八 1933:146)、 漢人社会では台湾人男性は内地女性との婚姻を敬遠する傾向があったと考え られる。 しかしながら、前述したように、1912 から 1919 年までは内縁の夫婦、特 に内地人夫と漢人妻との組数は減少しているのに対し、表 2 からわかるよう に、1929(昭和 4)年の正当婚姻は 1919(大正 8)年の 15 組から 85 組に増 加した。1920 年代の田健治郎総督の疑似同化政策の一環と思われる内台共 婚政策はすこぶる効果があったように見える。特に漢人夫と内地人妻の正当 結婚の場合は 1919(大正 8)年の 1 組から 1929 年には 53 組と一挙に増加し た。そして、前述した 1920〜30 年代の台湾を舞台とした『陳夫人』以外に も、懸賞当選作となった龍瑛宗『パパイヤのある街』(1937 年)や、真杉静 枝の小説『南方のことば』(1942 年)では、内台共婚のカップルはすべて漢 人夫と内地人妻との設定となっている。内地女性は接客業の「芸娼妓酌婦」

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から「まとも」な女性となり、階層化をともないつつも、彼女らが内台共婚 の実践において重要な役割を持つようになる。 そして、多くは内地で漢人夫と結婚した内地人妻は、内地から台湾へ移動 し、台湾で風習文化の隔たりを乗り越えようとする。前出の徳田の研究によ れば、新聞雑誌で取り上げられた漢人夫と結婚した 10 人の内地人妻のうち 7 人は母語ではない台湾語(閩南語)が駆使できる(そのうち 1 人は少数言語 である客家語も話せる)。彼女たちは内地で結婚したにもかかわらず、台湾に 来てから台湾語を習得し、台湾の環境に溶け込もうとしたとも読み取れる。 しかしながら彼女たちは台湾社会において、かつては芸妓であったと疑われ、(23) 金銭のために漢人夫と結婚したと白い目で見られることもあり、その実情を(24) 新聞などに漏らすこともあった。一方、被支配者の立場から、台湾人家族の(25) 良い嫁になろうとする彼女たちの姿勢は、支配者側の日本人から裏切り者と 見なされ、自宅近くの日本人のコミュニティでも見下されていた。そのため、 家事に集中し外の内地人と付き合わないようにする内地人妻もいた(林 2006、 徳田 2007:36-54)。 「内台共婚は難しい」、「台湾が好きじゃない。習慣や風土に合わない。内(26) 地に帰りたい。台湾人女性も日本人男性と結婚すべき」など、内地人妻の発(27) 言から、内地人妻にとっては漢人家族の風習文化が苦痛なことがわかる。ま た、「台湾の大家族はきまりがあるので、共婚を推薦しない」という発言には(28) 舅や姑との付き合いの困難さが窺われる。それは、「義理父母と仲良い理由 は一緒に住んでいないから」、という核家族の妻の発言にも見ることができ(29) る。ここでは「内地人夫漢人妻」の場合とは異なったかたちで、漢人家族の 文化や風習が共婚の弊害になっていることが示されている。 これらのことを台湾側から見れば、植民地体制のもとで、民族的に「劣 位」と決めつけられながらも、1920 年代以降は、内地の留学経験がある医 師・弁護士・議員など上層階層の台湾人が、内地人妻を持つという新たな結 婚パターンを獲得できるようになったことを意味する。「出世した」と思わ れた漢人男性は、支配者側にあって民族的に「優位」に位置づけられた内地 女性との結婚が可能となったということである。「門当戸対」(対等な家柄) と言われるように、漢人社会の婚姻形態は血統・家柄・係累や社会的条件を 重視する階級婚であるので、この共婚は特別の意味を持つものであるが、そ(30) の結婚には内外に大きな困難がつきまとうことになった。

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以上に示したように、特に内地人女性は台湾と内地との間の文化的差異に 苛まれることなる。台湾人郷紳林献堂の次男である林猶龍と結婚した内地人 藤井愛子のように、台中にある「同胞」である内地人コミュニティから敬遠 や排除されたために、内地人としてのステータスを捨て、自身の拠り所を漢 人家族に求めたという事例もよく知られている(林献堂 1939)。(31) 内台共婚において、特に越境者としての内地人妻の場合、民族的に「優 位」とされる側(内地人妻)と、儒教社会の漢人家族内で「優位」(漢人夫) とされる側との相互作用の中で、夫婦の民族的関係の優劣は変化しうる。そ して、結婚して入った台湾人家族のしきたりが強い場合は、内地人という支 配者としての民族的側面より、台湾人家族内における自己の位置が優先され た。 4 むすび 本稿では近年の研究動向を踏まえながら、戸籍制度の変遷・展開を軸とし て、内台共婚をめぐる制度や内台結婚の特質を、夫婦関係や親子関係に焦点 を当てて論じた。内地のように入籍イコール結婚という現象は台湾では存在 せず、逆に台湾では内地で非合法とされる妾を合法的に持つことができるよ うに、制度的に結婚として認可されなくても、正式に登録されている。 このように、台湾では夫=内地人・妻=台湾人の結婚は、正当婚姻より内 縁関係の志向が高まっていた。さらに、夫=台湾人は、妻=内地人との結婚 に対して、敬遠志向から受け入れ志向へと変化していることも窺えた。制度 的差異のほかに、異なる民族であることによる文化的差異や嫁姑関係の変化 をどう超えていくかが、どの時代、どの地域においても問われている課題で あろう。 特に、女性(台湾人妻、内地人妻)の置かれた状況や彼女たちの実践に注 目すると、以下の 2 点が明らかになった。 ア.台湾人妻の場合は、内地人夫の移動性・流動性が強く、本気で安定的結 婚を望まないという条件のもとで、結婚生活が不安定であること、そのため に単純に夫側の文化を受容する=内地化することなく、台湾的なものを維持 しつづけたことである。しかしながら、1919(大正 8)年を例とした正当結 婚の場合は、比較的安定した家庭生活を過ごすことができ、一つのカップル

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が平均的に 3 人の子どもを生み、子どもを「内地風」に育てた。 イ.内地人妻の場合は、現地社会からは元芸妓ではないかという偏見を持た れ、日本人社会からは「被支配者」と結婚した人間という蔑視を受けること によって、日本社会・台湾社会の両側から厳しい地位を与えられ、また内地 と台湾の文化的差異に苦しみながらも、現地の家族・社会への適応に意欲的 に努めたことである。 本稿では、内台共婚にかかわる法制度、政策および実態を台湾総督府が公 表した統計資料や公文書や新聞記事などを通し検討してきた。しかしながら、 扱った資料は植民地台湾に関するものに止まり、「帝国臣民」として植民地 台湾から内地へ移動した台湾人男性と内地女性との日本における婚姻実態や 文化的差異については、まだ解明されていない。さらに、内台共婚の実践で 台湾と内地でそれぞれ生まれた台湾人と内地人の子(混血児)そのものの民 族と文化の混合の様態を解明する必要があるが、それは今後の課題としたい。 (1) 1922(大正 11)年勅令第四〇六号の発布によって、『民法』など 20 近 い民事関係の法令が台湾に施行されることになった。 (2)「本島人間婚姻成立ノ時期及効力」(大正 6 年控民第三一七号・同年 7 月 18 日宣告)を参照(台湾警察協会 1917:29)。その中に、「本島人間ノ婚 姻ニ付テハ届出ヲ以テ効力ヲ生セス事実上婚姻シタル以上其効力ヲ生ス」 という判決要旨がある。 (3) 戸口規則施行後、慣習により、台湾人男子の結婚年齢は 16 歳、女性は 15 歳であった(台湾総督府臨時台湾土地調査局 1901)。一方、内地人男 子は 17 歳、女性は 15 歳と『民法』に規定されている。 (4) また戸籍法の第二六条・第二七条では、「除籍を為すには其の物の行先 が明かなければならない」と規定している。したがって、他の家に入籍 するか、一家を創立する以外、戸籍の移動をすることができない(畠中 1933a:22-3)。 (5) 内地の扱いとしては、「台湾人が内地女性を妻としたときには、戸籍法 の規定に依る婚姻届を戸口規則に依る婚姻届と同時に出さしめることに せるはこは便宜届書を受附けたる官署より妻の本籍地の市町村長に婚姻 届を送らしむる為めである。之は本人より任意に届出でしむべきものな れども本人の自由意志に放任し置くときは或は内地に届出を為さざる者

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もあるべく」(長尾 1920:21)。 (6)「内地人臺灣人間ノ婚姻緣組ニ關スル件(各廳)」『臺灣總督府公文類纂』 第 13 巻、第 3018 冊 5 号、1920 年 6 月 1 日(大正 9 年)を参照。 (7) 1932(昭和 7)年 11 月 26 日に律令第二号「本島人ノ戸籍ニシテハ当分 ノ内台湾総督ノ定ムル所ニ依ル」ことが制定され、これまで警察上の目 的である「戸口規則」(明治 38 年台湾総督府令第九三号)による「戸口 調査簿」をそのまま身分を証明する戸籍とし、台湾人の戸籍制度が法的 に確立した。 (8) 1918(大正 7)年に「大日本帝国」の内地、植民地、併合地、租借地な どの異邦域の法律を統一化にするため共通法(大正 7 年法律第三九号) が制定された。台湾では植民地人と内地人間に互いに入家去家を規定す る第 3 条「異法地域間の戸籍の異動に関する規定」が台湾では保留され ていたが、1921(大正 10)年、台湾で発布した法律は本来の台湾総督府 が発する律令から内地の勅令に変わり、台湾の法律の内地化が進むこと を意味する「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」(大正 10 年法律第三 号) の制定によって、7 月 1 日から施行されることになった。したがっ て、この共通法によって前述した内台共婚の法律問題を解決することが できると捉えられがちだが、1923(大正 10)年 1 月 1 日に「本島人ノミ ノ親族及相続ニ関スル事項ニ付テハ民法第四編及第五編ノ規定ヲ適用セ ス別ニ定ムルヲノヲ除クノ外習慣ニ依ル」との特例が設けられ、民法第 四編の親族編、第五編の相続編を除いて、民法上、台湾は内地と同じ法 域となった(畠中 1933:22-3)。したがって、異法域の法律を共通にする 共通法の第 3 条は、民法上、同じ法域となった台湾ではその効力がなく、 共婚問題が法律上で成立すること自体に役に立つ法令ではなかったとい えるだろう。 (9) 台湾時報(1933 年 2 月)を参照。 (10) 1905(明治 38)年に実施された「大日本帝国」の最初の国勢調査(日 本内地でも実施する予定であったが、日露戦争のために、植民地台湾の み実施された)の際、植民地台湾にいる戸籍を持つ内地人と区別するた めに、戸籍を持たせない台湾住民は「本島人」と呼ばれることになった。 このようにして台湾人は「本島人」として創出された(台湾人は俗称で あり、法律上は「本島人」と位置づけられた)。ただし、本稿では、一般 に使われている「台湾人」を使用する。 (11) 1898(明治 31)年 6 月 20 日以降、後藤新平の官職は「民政局長」か ら「民政長官」へと変更された。

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(12) のち 1929(昭和 4)年、第 13 代台湾総督に就任。 (13) 当時の台湾では「英国国旗、日本蔴 (モチ)」という俗語がはやって いる。日本人娼婦は、イギリスの商船のように、世界の各国で見かける ことができる(林 1979:32)。 (14) 例えば、台北県令の中に娼妓に関わる法律は「臺北縣縣令甲第八號芸 妓營業取締規則」(1896〔明治 29〕年 6 月 25 日)、「臺北縣縣令第二號娼 妓身體檢 規則中改正」(1899〔明治 32〕年 2 月 4 日)、「臺北縣縣令第 八號娼妓身体檢 所及娼妓治療所設置」(1899〔明治 32〕年 4 月 1 日)、 「臺北縣縣令第九號娼妓身体檢 所及娼妓治療所規則」(1899〔明治 32〕 年 4 月 6 日)がある。『台湾総督府公文類纂』に詳細。 (15) 1906(明治 39)年 4 月 11 日に着任した佐久間左馬太総督は、理蕃 (先住民統治)事業を実行するために、五カ年討伐政策(1910〜1914 年) を実施し、その政策の一つとして「和蕃婚姻」がある。つまり、武力統 治ではなく、蕃人(植民地時代、高山族と言われた先住民)の状況を把 握するため日本人の警察官を「生蕃」の頭目の娘と結婚させるという政 略結婚政策が取られていた(山邊 1974a(1971)、戴 1981、鄧 2000)。例 え ば、統 治 初 期 に 、「生 蕃 近 藤」と 呼 ば れ た 近 藤 勝 三 郎 は パ ー ラ ン (Palan)社とホーゴー(Hogo)社の頭目の娘を妻にした事例がある。警 察官の事例としては近藤儀三郎はマヘボ(Mahebo)社の頭目の妹であ るデワス・ルーダオ、山下治平はカムジャウ(Kamuyau)社の頭目の娘 であるピッコ・タウレ、佐塚愛祐はマシトバオン社の頭目の娘であるヤ ワイ・タイモとの政略結婚があった(鄧 2000)。本論では、論文の拡散 を避けるため、内地人と台湾漢人との婚姻を中心とする。「和蕃婚姻」は 別稿に譲る。 (16) ただし、台湾人が内地人を妻として届出た時、「女が 25 歳未満なる時 は、父母又は後見人の承諾書を溺附せしむことを要す」や、「台湾人が内 地人を養子又は養女と為すことは当分の間之れを認めず」などの但書が あった。その理由は、内地人男子が台湾人の養子になった場合、兵役義 務を免れることや、内地人養女を幼少時に安値で購入し高値で売るとい う人身売買を防止するためであると台湾総督府は説明している。「内地人 臺灣人間ノ婚姻緣組ニ關スル件(各廳)」『臺灣總督府公文類纂』第 13 卷、 第 3018 冊 5 号、1920 年 6 月 1 日を参照。 (17) 徳田がまとめた事例は 10 件だけであるが、その論文は 11 件と記して いる。 (18)「内地人對本島人又ハ蕃人ノ緣事關係並ニ本島人對内地人ノ緣事關係調

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表」『臺灣總督府公文類纂』册號 6665、文號 13、1919(大正 8)年 1 月 1 日第 1 卷。 (19) しかし、法的には身分が保障され親族関係として扱われる。そのため に、慣習上妾と夫、その正妻及び夫の父母との間には親族関係が認めら れている(1931 石橋:13-4)。 (20) 各年度分の「台湾人口動態統計」を表 3 にまとめた数字は提示した表 2、表 5 と合わない部分がある。しかし、これらはすべて台湾総督府の公 的データであるため、そのまま引用する。 (21) 1930(昭和 5)年 10 月 1 日に第三次国勢調査結果をまとめた『台湾人 口動態統計』、「歷年結婚人數按職業之分配」を参照し、筆者が計算した 結果。 (22) 一例を挙げると、台東庁新港一三七に住んでいる張添福(30 歳)は黄 氏宝妹(13 歳)を花嫁にするため、324 円の聘金を出したと『台湾時報』 で報道されている(台湾時報 1933)。 (23)「内台結婚の体験を語る 1」『台湾日日新報』1932 年 1 月 26 日、「内台 結婚の体験を語る 8」『台湾日日新報』1932 年 3 月 2 日 (24)「内台結婚の体験を語る 9」『台湾日日新報』1932 年 3 月 8 日 (25)「内台結婚の体験を語る 1」『台湾日日新報』1932 年 1 月 26 日 (26)「内台結婚の体験を語る 2」『台湾日日新報』 1932 年 1 月 29 日 (27)「内台結婚の体験を語る 6」『台湾日日新報』1932 年 2 月 19 日 (28)「内台結婚の体験を語る 11」『台湾日日新報』1932 年 3 月 15 日 (29)「内台結婚の体験を語る 8」『台湾日日新報』1932 年 3 月 2 日 (30)「門当戸対」という社会的条件の対等を重視する階層婚は従来中華社会 ではよく知られている伝統的婚姻形態の一つであり、特に、一定の身分 や地位がある階級では行われている。例えば、呉仁安は明清時代の上海 にある名家を事例として説明した(呉 1997:131-2)。また、郭松義は、 「男女議婚、大率以門楣為重,亦互擇人,婚娶必擇家世相當者」、「兩家相 合最重門第」という対等的家柄を重視した清の婚姻関係を論じた(郭 2000:58-9)。 (31) 藤井愛子は 1941 年に病死した。 引用文献 姉歯松平 1936「本島人の戸籍に関する研究」『台法月報』11-38 頁 1939「本島人に關する親族及相續法の問題」『台湾時報』2 月

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