93
「 蓄蔵園」への回帰
‑T.S.Eliot
の 「 子供」のイメージを巡って‑
村 田 俊
<序>
T.S.EliotのFourQuartetsの"BurntNorton"Ⅰの書 き出 しに見 られる主人公 は 「時」 について院想 し、その暁想 はそのまま 「足音」 となって、記憶 の通路 を通 り、現実の 「蓄蕨圃」が象徴 している 「他の こだ まら」 の住 む世界へ と 入って行 く。 そこでは、「聞 こえぬ音楽」が流れ 「目に見 えぬ視線」が横切 る 不思議 な一時の楽園で、「木々は子供達で群が り、わ くわ くしなが ら身を隠 し、
笑いをこらえ」ているのである。
Footfallsechointhememory
Downthepassagewhichwedidnottake Towardsthedoorweneveropened Intotherose‑garden.Mywordsecho Thus,inyourmind.
Buttowhatpurpose
Disturbingthedustonabowlofrose‑leaves Idonotknow.
Otherechoes
Inhabitthegarden.Shallwefollow?
Quick,saidthebird,findthem,findthem,
Roundthecorner.Throughthefirstgate,
Ⅰntoourfirstworld,shallwefollow
ThedeceptlOnOfthethrush?Intoourfirstworld.
Theretheywere,dignified,invisible,
Movingwithoutpressure,overthedeadleaves,
1ntheautumnheat,throughthevibrantair, Andthebirdcalled,inresponseto
Theunheardmusichiddenintheshrubbery,
Andtheunseeneyebeam crossed,fortheroses Hadthelookofflowersthatarelookedat,
Go,saidthebird,fortheleaveswerefullofchildren.
Hiddenexcitedly,containlnglaughter.
この 「吾在 国」 に見 られる ような木々に群 れ遊ぶ子供達 の描写 は、その他、
「葉 陰 の子 供 達 の忍 び笑い 」 (thehiddenlaughter/ofchildreninthefoliage ["BurntNoton''Ⅴ ])、 「庭 の笑 い」 (Thelaughterinthegarden["EastCoker"
ⅠⅠⅠ])、「リンゴの木 の子供達」 (thechildrenintheapple‑tree[■■Little°idding"
V]) とい う表現 で繰 り返 して表 され、彼 の詩劇TheFamilyReunionで は、後 で述べ るように罪の購い との関係 で 「蓄救国」 に子供の イメージが使われてい
1
る。 この ことを考 えるな ら、Eliotに とって 「子供」 の イメージは 「蓄蕨 園」
の本質的属性 と考 えざるを得 ない。その思い出は、Eliotに とって、遠 く幼 い
り
日の果樹 園のニ ュー ・ハ ンプシャーまで遡右 。 彼 はこの個人的な記憶 を、1934 年の詩"New Hampshire"の 中で (その意味合 い は大人の悲 しみ を連想 させ る 雰囲気 を作 り上 げている ものの) 「果樹 園の子供達の声」 (children'svoicesin theorchard)とい う形で表 している。
l"Inale比ertoJohnHa)rward,5 August1941,quotedintheheadlngtOthischapter,Eliotmen‑
tionedthreeothersourcesihisownpoem ̀New Hampshire‑:KiplingsstorỳThey\whichheonlyrec ognizedashavingcontributedtohispoem when,fiveyearslater.hewasre‑readingKiplingforhis anthologyA ChoiceofKipling'sI(erse:anda●quotationfrom E.B.Browning'"(HelenGardner.The Compositim ofFourQuartets(London&Boston:Faber&Faber,p.39.)cf."The‑hiddenlaugh terof childreninthefoliage'.whichisreechoedattheendofthepoem.expressestheecstaticJoyofthose whohavefinallyattainedthèstillpolntOftheturnlngWOrld'.Theyarehidden.becausethis■stlll pointlitselfishidden‑underthepalmtreeatnoon,undertherunnlngWater',and'undertheupper branchesofnoonlswidesttree''(PeterMilward,A Commenta7ymT.S.EIwt'sFourO74arlels[Tokyo:
TheHokuseidoPress,1968.]p.28.)
2NancyDuvallHargrove,LandscapeasSymbolin thePoetryof TS.ElioIUackson University PressofMississippi,1978),p.115
95 この ような個人的な記憶 は想像的圧力 によって変化 して、あ る詩的脈絡の中
3
に現 れて行 くのであ る。今、問題 に してい る"BurntNorton''も、FourQuartets のそれぞれの題名 になっている地名 と同 じように、かつてEliotが訪 れた こと
4
がある場所であるが、それに もかかわ らず、 この場所 は観念化 され、彼 自身の 個 人的関係 は薄れてい る こ とが分か る。K.Smidtは 「[エ リオ ッ ト] は、我 々 が 『四つの四重奏』 を理解 した り鑑賞す るためにある程度慣 れ親 しんでおかな
:l ければな らない ようなほ とん ど完全 な までの象徴体系 を編み出 した」 と言 って い る。 実際、「蓄敢 園」 で群 れ遊 ぶ子供達 の イメージはDanteの天国の蓄蕨の 象徴 (「天国篇」三二歌40‑48)か ら由来 した ものであろう。 この ように幼少時 の イメージが象徴 として新 しい深 い意味の変容 を伴 って再 出規 している ところ は1930年 の"Marina"に も見 られ る。 この詩 の背 景 は、Eliotの記 憶 にあ る ニ ュー ・イ ングラン ドの風景 とShakespeareのPericlesの第五幕 第‑場 を下敷 きに した ものであ る。 死 んだ と思 った娘Marinaの過去 の思 い出が豚脂巨とした periclesに 「葉 陰 に聞 こえる噴 きと小 さな笑 い声」 (whispersandsmalllaugh‑
terbetweenleaves)とい うイメージで表 され るこ とに よって、失 われた無垢 な世界 を取 り戻 し、個人的 な経験 を越 えて生 と死 の交差 (Crisscross)の次元
6
まで高 め られてい る。 この ようにEliotが描 く子供 の イメージは、単 なる幼 い 日の追憶 を呼 び起 こすだけでな く、幼少時の もつ神秘的経験 を通 してエ クスタ シーの境地‑ と変容 されて行 くのであるが、 この変容 は 「蓄夜園」 において特 徴 的 に見 られ る。F.B.Brown流 に言 うな ら 「詩的隠愉」 (poeticmetaphor)に よって記 述 し直 され た現 実 は もはや 日常 的世界 で はな く変容 され た (trams‑
3T.S.Eliot,TheUseofPoetryandTheUseofCritlCLSm (London:Faber良 Faber.1968),pp.78‑9.
4HelenGardner,TheComposltiw"fFmLrChartets(London&Boston.Faber&Faber,1978),p.29.
5KristianSmidLPoetryandBelieflntheWorksofT.S Eliol(London:RoutledgeandKeganPaul. 1961).p 112.
6拙 論 「T.S.EllOtの・RecognitionScene'につ いて」 『英文学研 究』 第64巻1号 (日本英 文学会 、 1987)、pp.60‑1.
/
figured)世界 なのである。
「蓄在 国」 の世 界 に関 しては既 にLeonardUngerのT.S.Eliot:Momentand pattems (Minneapolis,1956)等 で詳 し く論 じられ て い る ところで あ るが、
"BurntNorton"Ⅰの主人公 は、「何 の 目的で」「あったか もしれない」記憶 を呼 びおこ し 「蓄薮圃」 を訪れなければならなか ったのか。本稿では、 この ような ことを念頭 に置いて、Eliotが子供 の イメージの背景 に しのぼせ た考 えを捜 し 求め、何故、"BurntNorton"Ⅰの主人公が 「蓄薮圃」へ 回帰 しなければな らな かったのか とい うことを、彼の詩作品 を踏 まえなが ら考察す ることである。
I
Eliotには、神 か ら流れ出た子供 は美 しいが、人間の世界 か ら来た子供 は邪 な ものであると歌 った詩"Animula"がある。 この詩の題名 は、 ダンテの 「煉獄 篇」 (十六歌 85‑93)か ら暗示 を受 けた 「小 さな魂」 とい う意味である。Eliot は この一節 の前半 を この詩 の発想 の もとに して 「神 の手 か ら生 まれ た魂」
(Issuesfrom thehandofGod)が少年期 に萎縮 して行 くさまを描 く一万、対 照的に 「時の手か ら生 まれた魂」 (Issuesfrom thehandoftime)の苦痛 に満 ち た屈折 した姿 を描写 している。 彼 らは臨終の際の聖体拝領後、初めて生 きるこ とになる。 これこそ生 と死の逆説である。 す なわち、時間は破壊す るものであ るが故 に、第二の生のみが満足で きる ものであ り、そ して、それは死 によって しか得 られない とい うのである。
この生 と死の世界 は、歪 め られた愛 と死のテーマでEliotの初期 の詩 に散見 される。 例 えば"TheLoveSongofJ.AlfredPrufrock"において、主人公が 「ギ ザギザ した鉄 を持 った蟹」 と一体 とな り、そ して閉 ざされた 「海の部屋」 に埋 没 して行 きたい とい う欲望 は、心理 的 に言 って、死 を待 ち望 んでい る荒廃
7FrankBurchBrown.T7tZnSft'gwation,PMticMetaphorandtheI,anguageofReligimLSBelief(Chapel HillandLondon・TheUniversityofNorthCarolinaPress.1983).pp.1113.
97
した人間の徴候 を表 してい る もので、 この ような死 の雰圃気 は"Portraitofa Lady"ⅠⅠⅠの若者が、いつ か灰色 の午後あの女が死 んだ らどうだろ うか と想像 す るところに も感 じられる。 また"Whispersoflmmortality"では 「死 に取 り悉 かれた」Websterとの官能的愛の経験 を通 して死の極限を認識 して行 くところ が見 られ る。 そ して、 この詩の ロシア女 の妖女 らしいGrishkinは 「親 しみの あ る乳房」 (herfriendlybust) で、男達 に 「霊魂 の至福」 (pneumaticbliss) を約束す る。 この 「ニ ューマテ ィック」 とい う語 は もともとギ リシャ語で 「霊 的」 な意味 を持 ってい ることを考 えるな ら、 この一節 はGrishkinを抱擁す る 官能的経験 によって、感性的次元 を越 えて超越的な実在‑の認識 に達す ること を含意 しているのである。 この ような根源的人間愛が超越的な ものへ変容 して 行 く様子 は幼少時の経験 に も見 られる。
Eliotは"Dante"論 の中で、Danteが九才の時 に自分 自身に起 こった と言 って 8
いる性的経験 に触れているが、この幼少時の性的経験 は時間の経過 と共 に純粋 な内面的体験へ と探化 され、 さらに、この体験が詩人の魂 の宗教的覚醒の深化 に呼応 しなが ら、神への意志 といったような方向へ と変容 して行 くのである。 この ような人間の根源 的愛の経験 はEliotの初期 の作 品で は、例 えば、「力 に 溢 れ我 を失 った一 瞬」 (uninstantdepuissanceetdelire)と歌 った"Damsle Restaurant"に見 られるが、 この性 的経験 は、突然の犬で邪魔 されて しまう。
この詩 は、 まさにエ リオ ッ ト版の 『新生』 で、 この一部 はTheWasteL.andの
"DeathbyWater''と して改 訂 され て行 くので あ る。 この よ うな こ とはThe wasteL.a7tdの"TheBurialoftheDead"に現 れ る 「ヒア シ ンスの少女」 (the hyacinthgirl)が、 ヒアシ ンスの花 を腕一杯 に抱 え、露 に髪 を濡 らし、話す こ
"TheattitudeofDantetothefundamentalexperienceoftheI/ilaNuovacanonlybeunderstood byaccustomi ngourselvestofindmeaninginfinalra7LSeSratherthaninorigins. ltisnot.Ibelieve, meantasadescrlpt10nOfwhatheCo71SCl'仙SlyfeltonhismeetingwithBeatrice.butratherasade‑
scrlptlOnOfwhatthatmeantonmaturerenectionuponit. Thefinalcauseistheattractiontowards God.'' (T.S,Eliot.SelectedEssays lLondon・Faber&Faber,1966].p.274.)
と も見 る こ と も出 来ず、 た だ 「光 の芯 を見 つ め て い た」 (Lookingintothe heartoflight)とい うことに も見 られる。 この場合 は、本質的不毛性がその完 成 を妨げているのである。 この経験が変容 されて延 るためには 「蓄薮園」 を待 たなければな らない。つ ま り、Eliotは幼少時の性体験 の空 間の場 を個人的な エデ ンの園 として把握 し、その経験 を変容 された形で延 らせて、不毛なる 「荒 地」的世界か ら脱皮 しようとしたのである。
この ように"AnimulaI'に見 られる生 と死の逆説 は、人間の根源的愛が宗教的 次元 において延 って行 く変容 と質 を同 じにす る ものであ るが、不毛 なる 「荒 地」で はこの起 りはかなわぬ願 いであ る。TheWasteL,andのエ ピグラフで、
クーマ工 の韮女siblが 「私 は死 にたい」 と述べ ているが、再生のためには死 が必要 なのである。 死 を巡 る死の思想 は、…A SongofSimeon"に見 られるSi‑ meonの ように、キ リス トの救済が始 まったの を見て人間の世界がいやにな り、
死 を願 う 「死」 に脱出口を見出だ して行 くのである (Letthyservantdepart/
Havingseenthysalvation)。Eliotにとって 「死」 は決 して否定的な ものではな く、輝 か しい光 の世界、霊 的 な世 界 なので あ る。束 の 間の 「菩 彼 の とき」
(Themomentoftherose)と永遠の死 を意味す る 「イチ イの とき」 (them0‑
mentoftheyew‑tree)は 「等 しき持続」 (equalduration)なのである ("Little
°idding"V [11.232‑3]) 。 Eliotは、 この ような死 と等価、等 質であ る 「光の 世 界」 を、既 に十 七 世紀 形 而 上 詩 人HenryVaughanの"TheW ater‑fall‑'や
"Theyareallgoneintotheworldoflight"等 の詩 に見 出だ している。 これ らの 詩で は、"Animula"に見 られるように、人間は 「神 の手か ら」一時的に追放 さ れ、闇 または夜 にた とえられる地上 に生 を受 け、再 び 「光の世界」へ回帰す る、
とい う新 プ ラ トン主義 の原理 に根 ざす思想 が述べ られてい る。 この思想 は vaughanの代表作"TheRetreate''に端的に表現 されている。 一般 に、この詩 は Wordsworthの"Ode」 ntimationsofImmortality"の最初 の四節で提示 された疑 問 ‑つ まり、幼児期 に感 じられた 「天上の光」の感覚が年 をとるにつれて薄
99 れて行 くのは一体 どうい う理 由によるのだろ うか一 に対す る答 えの拠 り所 と
して指摘 され る。Eliotは1927年E.BlundenのOnthePoemsofHenyyVaughan:
CharacteristicsandIntimationsの書評 と して書 いた"TheSilurist"の中で、 この
9
比較 は 「ヴオー ン、そ して、 また ワ‑ズワースにとって も不 当な ものである」
と述べ、"MysticandPoliticianasPoet"(1930年) で は、 この●̀TheRetreate"
を引用 し、 ここに見 られる経験 を 「あたか も、あの非常 に異 なっている作 品で あるダンテの 『新生』 もまた、幼児期 の特定の経験 に言及 している と丁度 同 じ ように、ある特定の経験 あるいは幼い時期 の経験 に言及 している」 と述べてい る。Eliotは この外 にThomasTraherneの 「人間の息子達 は神 に捧 げ られた も の」 と歌 った"Wonder"、幼 年 期 の持 つ 神 秘 的 な性 質 を記 したCenturiesof Meditations等 に も触 れ 「彼 の主 な霊 感 は、 ヴ ォ‑ ンも取 り扱 った幼児期 の世
10
界の奇妙 な神秘的な経験 と同 じである」 と指摘 してい る。
この ように、幼年期 に見 られる奇妙 な神秘的経験 を通 して生 まれ出ず る前 の
「金色 に輝 く雲 や花」 ("Retreate"[1.11])の世界 を憧 れて行 く考 え方 は、旧 約聖書 のアダム神話か ら言 うな ら、人類 は、エデ ンの 「庭」 か ら追放 され、荒 野 をさまよう身 とな り、以来、始源の至福 の 「庭」へ の絶 えざる ノスタルジア を持 ち続 けて きた ことに呼応 している。 この ように見 るな ら 「菩敢園」へ の回 帰 とは、後で詳 しく考察す るつ もりであるが、我 々の生 まれ出ず る場である天 上 の光 の領域へ の 回帰 と考 え られ る。 そ して、 この ような 自己の起源 を天の
「故郷」 にお く考 え方 を押 し進めて行 くな ら、当然の こととして初期 のキ リス ト教 の‑集団であるグノーシス主義 (Gnosticism)を軽視す る訳 には行 かない。
このグノーシス主義 は もともと 「秘義的な啓示 に由来 し、それ を知 る者 には救 ll
済が与 え られる知識 (グノーシス) に非常 な力点がおかれる」 ものであるが、
gT.S.Eliot."TheSilurist"DialLXXXIIl(3Sep.1927).p.260.
10T.S.ElioL"MystlCandPollticlanaSPoet,・LtsteneyIII.64(2 Apr.1930),p.590
llDictionaryofEkeHtst07yOfldeas,Vol・Il(New York.CharlesScrlbner・sSons.1973),p.326
この用語 は、呪術的神秘主義の別称 として十六世紀以降、暖味に拡大解釈 され て使 われて きた。K.Smidtはこの ような呪術 的神秘的な立場 か らEliotの詩の
12
中にグノーシス的要素 を指摘 している。 しか しEliotは決 してグノーシス主義 者ではない。本稿 の 目的は、元 よ り、 グノーシス主義の教義学で も歴史学で も ないが、"BurntNorton"の主人公 は何故 この生 まれ出ず る以前 の世界であ る
「吾敢園」‑踏み出 して行かなければならなか ったか とい うことを、 グノーシ スの本来の意味に立 ち帰 り、これ との関連 において考察 して行 くことである。
I
Eliotが見たVaughanの 「光の世界」 に憧 れる背景 には、 グノーシス主義の 基本 をな している 「この世」 に対す る違和感 ない し嫌悪があ る。 世界 は 「牢 獄」 (prison)で 「暗 き場所」 (thedarkplace)であって、人間はそこに幽閉さ
13
れているのである。 グノーシス的思 弁 を貫 いているの はラデ ィカルな二元論 で、神 と世界 とは全 く本質 を異にす る。 神の外 なる存在である世界は、闇の領 域である。 人間の身体 と魂 とは世界 に属 しているが、魂の中に閉 じこめ られて いる霊 は神的実質の一部である。 この魂 と身体 に埋没 している霊、即 ち、人間 の本質的 自己 を覚醒 させ、解放 させ るのが グノーシス (認識)である。 つ ま り、
霊 はこの世界の中に囚われていて、キ リス ト教的な恩寵 とは違 った内なる光 に
14
よって、 この囚われか ら解放 され、真 の故郷へ と回帰す るのであ る。 この よ
12KrlStianSmidt,PoetryandBelle/intheWorkso/T.S.ELiotp.225,
13"Thegoalofliberationcanbeattainedonlygraduallywiththeaidofdivinemessengersandre‑
deemers.andlieseitherindeath (ofthebody)orattheendoftheworlditself. Intheintervalthe destinyofthèsoul'isaccomplished,… Theworldisits prlSOn‑.thèhouse',the■darkplace一一 allex‑
pressionsusedalternativelyandinrichvarietybythegnostictextstodescribethesituation.''(Kurt Rudolph.Gnosis.TheNatureandHIStOryOfGnosticism.TranslationeditedbyRobertMclachlanWil‑ son [sanfrancisco:Harper&Row,Publishers,1983],p,109,)
14
"TheredemptlOnguaranteedbymeansof■knowledge',inthesenseofanescapefrom theentan‑
glementsofearthlyexistence,isfirstrealizedbythegnostlCatthetimeofhisdeath,foratthismo‑
mentheencounterstheeverlasting,rewakeningfactofreleasefrom thefettersofthebody,and is abletosetonthewaytohistruehome. Thisprocess.familiaralsoinotherreligions,iscalledthe ascentofthesoul'orthe■heavenlyjourneyofthesoul'.ForGnosisdeathisthusverydeflnitelyan actoHiberation.''(Ibid..p.171.)
101
うなことか ら考 えるな ら、Vaughanの思想体系 は、 きわめて正続 的なキ リス ト教 的啓示神秘学 に根 ざす もので、決 してグノーシス主義ではないが、例 えば
15
TheMountofOlivesの 「闇の中の人間」 ("ManinDarkness")や 「私があなた の輝か しくきび しい眼の前 に現れるとき、‑ 私の内部 に、いかなる闇 と死の
16
住処 を、あなたはおみつ けになるで しょうか」 とい うような一節 を 目にす る とvaughan自身の この世に対す る唯我論的な絶望観が読み取れる。
Eliotが、 この ようなVaughanの 「光の世界」 に惹かれた背景 には、同 じよ
17
うにこの世界 に対 す る絶望観 が見 られ る。 この こ とは、彼 が"Baudelaire"請 の結 びで 「人間は原罪 を負 うものである」 とい うT.E.Hulmeの一節か らの引
18
用 に凝縮 されてい る。Eliotが この ような世界観 ない し宗教観 を持 つ ように なったのは、彼が幼年時代ユニテ リアン (unitarian)として しつ けられたこと が大 きく作用 しているようである。 彼が入学 した当初のハ‑ヴァ‑ ド大学では、
このユニテ リアンが定着 し、当時の学長charlesWilliam Eliotの奉ず る 「未来 の宗教」 なるものは、魂の救済 などと全 く無縁 な現世の福利 を追求するための
19
お題 目に過 ぎなかった。 この堕落 したユニテ リアズムか ら超越的絶対者への 解脱 は、Eliotの詩劇TheCocktailPartyのCeliaの宗教 的軌跡 の うちに見 られ
20
る。 彼女 は堕落 したユニテ リアズムの 「お作法」 とか 「心理」 の問題 といっ た合理的な説明ではどうに もな らない罪意識 に苦 しみ、それを契機 として超越 的な神へ と向か って行 ったのである。 この ような精神 の描 く軌跡 をEliotに当
15TheWorksofHemr̲vVaughanVol.1.,ed.LC.Martln (0Xford.C1arendonPress.1957),p.169.
16Ibid・,p・160.
17拙論 「T.S.EliotとSwlft‑ 『絶望』 と 『懐 疑』 を中心 に して」『文経 論叢』 第19巻 第3号 (孤 前 大学人文学部、1984)、pp.99‑119.
18T・S・Eljot.SelectedEssays.p・430.
19RobertSencourt.I S.ELIOIA Memoir(London=GarnstonePress,1971),pp.26‑7.
20Well,mybringingupwasprettyconventional‑IhadalwaysbeentaughttodisbelievelnSin.
Oh,Idon'tmeanthatiLwasevermentlOned!
Butanythingwrong,from ourpolntOfvleW, Waseitherbadform.orwaspsychologlcal.
TheCocktailParty,ActTwo
てはめてみた として も (彼 はCeliaと違 って殉教の道 を歩 まなか ったが)そん なに的外れではない と思 う。 実際、この派の中心は三位一体説の否定で、その 否定か らキ リス トの神性の否認が生 じる。 ここには、越え難い深淵が神 と人間
との間に介在 し罪の意識が存在 しない。つ まり、この派は概 して、堕罪、購罪、
永遠 の刑罰 な どに関す る正統 的教説 に対 して否定的であった,一方Herbert Readが指摘 しているようにEliotには何か良心の阿責 を受けて、隠れた悲哀あ
':1
るいは罪意識 に苦 しんでいるところがあった。 彼 は何 とか して、 この罪意識 にさいなまされている人間 と神 との間に架け橋 を見出だそ うとした。彼がこの ユニテ リアニズムか らアングロ ・カソリックへ改宗 して行 ったの も、神 と人間 との隔絶性 を越えて行 くためには、キ リス トという窓を通 してでなければ達せ られない と考 えたか らであろう。Eliotが若 き日に培 ったLeibnizのモナ ド論 と の比較 におけるF.H.Bradley哲学の 「有限的中心」 (FiniteCenter)や 「唯我
22
論」 (solipsism)等 についての哲学的思索 は 、 このような彼の宗教観 を作 り上 げて行 くのに必要 な段階であったのか も知れない。 この唯我論に基づいた 「閉 ざされた」牢獄の世界は、彼の初期の詩"TheLoveSongofJ.AlfredPrufrock"
23
に もその痕跡が窺 われるが、自注 にF.H.Bradleyか ら唯我論的世界 を意味す る一節 を引いたTheWasteLandの 「私 は鍵が一度 ドアで回る音 を聞いた」 (I haveheardthekey/Turninthedooronce[11.411‑2])のイメージを通 して、
SweeneyAgonistesの最後 の部分 に見 られ るコーラスの 「7‑ハ‑ 」 (thehoo‑
24
ha)に脅か される 「閉ざされた」世界の恐怖‑ と発展 して行 くのである。 このような孤立 はTheFamilyReunionのHarryによって 「秩序整然たる宇宙 のただ中の一つの孤立 した廃虚、その偶然のひと切れの層 」 (anisolatedruin,
21T.S.Matthews,GreatT07n (New York:Harper&Row,1974),p.87.
22"TheDevelopmentofLeibniz・Monadism・.TheMmistXXVl(October 1916)534156.‑Leibniz・
MonadsandBradley'sFiniteCentres'.TheMonistXXVI(October1916)566‑76.
23J.HillsMiller,putsOfReality(New York.Athenaeum.1974).p.139.
24拙 論 「TheFamiLyReunim にお ける見 え ざるEumenidesをめ ぐって」 『T.S.EliotReview』 No.
1(日本T.S.Eliot協会、1990)、 15‑7.