解釋學的方法の發展としての
國語科學習指導
稲
田
繁
夫
陶
職後の國語科教育が︑聞き・話し・讃み・書く言語活動︑しかも
生活と結びついた贅語生活の蓬成︑向上を目標としているのはもっ
ともなことである︒しかしながら︑實際の累習指導にあたっては︑
聞く・話す︒護む・書く四つの言語活動が絡合的︑關蓮的に學暫さ
れなければならないとするところがら︑四つの言語活動の総花的な
學暫指導に終ったP︑あるいは話しことばの藪育ということが注目
されたため︑特にこれと教科書の取P扱いを關連させて言えば︑藪
科書が十分活用されす︑四つの活動の⁝軍なる資料として輕く扱わ
れ︑大ぎな割合が話しことばにかけられて學習指導が行われ︑そこ
から書きことばの能力低下とか︑讃解力の不足ということが言われ
て來た︒今後の目語科思惑は特に藪科書と關連させて考えると︑今
後の冷語教科書は戦前の黒み方万能の教科書ではなく︑あくまで話
し︒聞き・旨み・書く働きの猫立性と關連性とを實慶的に定位した上
での︑讃むことの堅忍資料集でなければならない◎そして︑藪科書
は認みを基底として︑推進力として︑話し合いにも討議にも嚢展さ
せていかなければならないQと言われる西尾賃氏の言︵一︶の通り︑重
みを椹軸として新しく意義づけなければならないであろう︑もちろ
ん︑それは職長の國語科教育への復聾や︑職責の物語科藪育の反動
としてではなく︑學校豊里という制約と書きことば學習の困難性︑ あらゆる敏科の既習の基礎を支える文化的言語生活の蓮成というこ との上から︑三一科致育の在り方として︑讃むことの教育はやはり 今後の國語科教育の背骨をなすものでなければならないであろう︒ 読みにおいて何よりも重要なことは︑正確に讃まなければならない ということである︒ことに︑交學作晶を享受するためには︑正しい 解繹が行われなげればならない︒文を解繹すると言うことは讃み 手が書き手の言語を書き手としての主体的なままに把握するところ の方法である︒解繹と言うことは︑蟹・に甲の言語を乙が文字を介し て受容し︑ある思想を理解することによって︑乙の言語的隠蟹を成 り立たせることではなく︑乙が甲の主体的な言語的経験を再験し︑ 追体験することでなければならない︒丈混作晶を讃む場合において も︑このような解繹によって︑その作者の文學的体験を追体験出興 るのである︒︵二︶ 解繹學と言われるものは︑與えられたものを主観を捨て︑身をまか せて受容する態度から出嚢する◎そのためにはどんな方法で讃むべ きかというのが解繹學の立場である︒己をすてて︑作晶を受容すれ ばするほど︑そこに自巳が出て認る◎先入観をすてて︑その作晶に 没入すれば︑そこに自責の内にひそんでいるものを︑作者が的確に 言ってくれたことに感銘し︑今まで隠れていた自警を速見するQ人 の作晶を受け入れることにより︑そこから讃者が新しい詳論を作り 出す︒それは︑その事書を嵩む前の歌態にあった狭い自已が磯見し 作り出すのではなく︑その作晶に篭れて︑より廣い自巳︑凡ての個 汝に遍満する廣い生命に詣れ通する大我から創造的にその作品のよ さ︑作者の心境などを把握する︒文化の獲得と電化の創造というこ とが︑言語機能ということで言われているが︑︵うこの二つの相筆立 した概念を統﹂する言語傳蓮の仕方が眞の解麗であるQすなわち︑
文の解羅の場合︑作者そのものの立場そのままの受け継ぎと︑護者
1
一
一
の主観的な受容を踏み越えた︑より高い次元に立って︑一つの世界
をひらく︑というところに眞の解羅がある◎︵四︶
八議則吉氏の能界を芦田恵之助氏が解説したとき︑芦田氏の曇空
の仕方が正しいかどうかを早る人が八波氏にたすねたところ︑八波
氏は芦田氏の解繹はその時の事彙とは異なると言われたそうであ
る︒それでは︑芦田氏は解繹として誤っているかと更にたすねると ︑そうではない︒芦田氏の解縄︑のように表現すればよかった︒と言
われたそうである︵ヨ︶︒つまり︑作者と讃者を超えた︑二者をふまえ
た︒より高次の段階にその作晶を通して蓬するところに︑眞の解繹
があるわけである︒
國語科教育はこのような讃むことの向上を目がけることによって
づミユニケーシヨγを成立させ︑人間を高め︑嘉しことばの嚢達を
支援していくことができる︒
二
言語は概念を音のアーテイキユレーシヨツとして表現するのであ
るから︑文章を護む場合も文字によって表出された概念や概念の蓮
績を的.確客観的に把握するところの︑解牒における制約を受けると
ともに︑その制約の中で︑自巳の経瞼に照らして概念に肉付けが許
される自由を持つ︵六︶︒とのような理解作用が眞の解繹であるから︑
兇童生徒に何等かの讃み物を讃ませるならば︑どのような設みの技
術方法がとられるにしても︑その底にはこのような正しい讃み方が
支えをなしておらなければならないであろう︒一つの文章を讃む場
合︑十人十色その解羅が違うべきものでなく︑客翻的な理解がなけ
ればならない︒この解繹における制約の面を明.瞭にしていくことが
眞の解羅に到達する道で︑讃むことの學習においてはこのような誼
みがみがかれていなければならないであろう︒國語の學習によって
文化を獲得し︑文化を創造するということは︑このような護みをみ がくことによって果たされるであろう︒ 四つの言語活動のうち︑託しことばの面︑とくに話すことの偲人 差のいちじるしいことが蓄われるのであるが︑話すことの個人差は 知的要因のほかに︑性格的︑環境的︑身体的な極めて多方面の要因 と關草する︒これらの要因の凡てを愚闇と人言という制約のある警 語科の満室紫黒に持ち込むことは困難なことである︒廣く學校教育 全体の申で︑其体的な場面において話すこと︑聞くことの指導を用 意しながら︑諺語科としての教室學習はやはり護むことが主軸とな って進められなのればなちないであろう︒そのことが他の活動の推 進力となって働いてくるのである︒ 圃温 西尾實氏は︑聞ぎ・話し・蔑み・書くという四つの言語活.動が総合的 關蓮的に學僧されなければならないということが︑た∫もたれ合い に成ってしまって︑何一つ徹底した猫立學習が出來ないということ になると︑これは困ったものである︒︵七︶として︑從前の讃み方絶封. 主義や︑講讃・作文・文法の孤立主義を矯めようどして︑それぞれ の猫立性を見失い︑開立性を畿節することによってのみ︑關照性が 展開してくるという重︐要な点を見落してはならない︒と指摘してお られる︒また︑時杖誠記博士は︑一耳語敏育において︑不易な.るもの の學習を確立しなければならないと言われているし︵入︶︑岩淵悦太郎 氏は︑今目の卑語教育が根無し草のように成っては.いo︐ないQ夢語 教育にしっかりした根を増わなければならない︒と言われている が︵九︶︑それは杢國的に︑また︑地域的に國語藪育で最低のものを考 え︑それだけは是非ともやらなければならないということであ︐ろ う︒また︑西尾賢氏は︑児童生徒が將來肚會において経即する言語 生活のあらゆる経験要素を︑凡て網羅的に墨習させるということは
警語科の少ない學平時聞中に︑一様に取り入れ排列することが至難
一
[
であると言われている︵+︶︒それはつまり︑言語経験要素の根︑不易
なるものを計画し︑重点的にしぼって置酒させなければならないと
Mうことで︑何れも同じ見解に到達しておられるようである︒こう
して日常的な話し⁝憎くという學習は︑基本的には︑國語科としての
敏室學習からは除外し︑他教科︑自治會やクラブの活動︑五師と兇
童生徒とのあらゆる接燭の場などの學校生活全体の中で︑あるいは
家庭生活︑肚會生活と圏署した具体的現賢的な言語生活の場におい
て︑話し聞く生きた経験に即して適切潅指導を意圖的具案的に行い︑
國語科の敦室學蕾はやはり護みを基底としての黙黙でなければなら
ないであろう︒これらのことは職前において行われたことであるが︑
た.s戦前においては讃みだけに注意が向けられ︑聞き話す學習が意
圖的計画的に︑再認藪育全体構造との醐蓮の上から取り上げられな
かったところに欠陥があったと思われる︒
職講話すことの教育が重観されるということが︑現場においては
從って護むことの教育の輕硯︑それほどで欺いまでも︑話すことの
藪育を霞むことの致育よりも重観すべぎものとし.て理解されている
ようである◎國語科の學習が多く話すことによって進められ︑しか も︑話すことを心掛けながらも︑教師と見童生徒の畢習進行過程の
申でのねらいは︑話題の内容面の解決に集中され︑話すこと自体を
十分磨き上げようとする努力が足らないのではないかと思われる︒ このような話しことばで︑學習時聞を経過していくと︑當然書き
ことばの未熟ということが現われてくるであろうQ
文字組織が複雑で︑文字の助 が多いということは︑當墨書きこと
ばの學習を多くしなければならないということとなる︒︵†一︶交字組
織をどのようにするかということは︑薄雪政策の問題であって︑現
生の國語科藪育はこの文字組織の上に進められなければならない︒
また漢字の欠点を學げるあまりに︑その長所を見落してはならな い︒文字一一言語が隠隠言語の代用晶と・か︑補助的手段と考え︑それぞ れが言論の機能をもつた言語形式の二面であり︑その上︑書きこと ばの鴻化的意義と︑學習の困難を正しく認識しないと︑聞き・話し ・讃む・書く凡ての能力を伸ばそうとする今日の藪﹁育の方向にはす れることとなるであろうQ 四 このような点から︑今後の國語科敏育は不易なるものを打ち樹て 根を下さなければならないし︑経験要素の重点的設計をしなければ ならない︒その學習指導の方法は︑讃みを前述のような意味で中核 とし︑聞くことにも︑話すことにも︑書くことにも關蓮づけて行く ことになる︒ 讃みの方法的形態的分類として︑精讃︑通讃︑拾い憎み︑音讃︑ 獣讃などがあり︑職後の國語敏育が讃みの方法を多様に取り入れ︑ 多種多様な編みの資料を與え︑それらに憲じていろいろな霞みの技 術を指導しようと目ざしていることはもっともなことである︒戦前 において狭い資料︑おもに文學作品を精讃するという解縄墨的方法 だけに偏していたことは︑確かに讃みの技術として狡いものであっ た︒しかし︑藪育指導者のこれについての読明が不十分なためか︑ あるいは現場の霊異科教師が誤った理解をしているためか︑解澤學 的な膿みの方法は弛むことの畢蟹指導法としては誤っていたかの印 象を︑特に戦前の國語科教師としての経験を持た・ない人汝に與えて
いるとするならば︑これは論明し直さねばならない重要なことがら
であると思うQ拾い屡みとか︑走り讃みというのは︑基礎的な辛み
の能力を前提として︑全文の叙述に從って走り黒むのである︒全文
の主題や︑それに記する段落の輕重︑それぞれの段落︑セγテγス
における中心語句や字眼の把握によって始めて拾い黒みが成立す
る︒修飾や比喩を取り除いた︑いわば一つの骨格体系として把握す
3
【
一
るところに拾い讃みの意義が・考えられる︒翼長 禽における事務処理
などで︑報告書や参老書類などから︑必要とする事柄︑項目などを
摘出する場合などは︑このような全文的な飲みの能力は不必要と思
われそうであるが︑決してそうではなく︑やはPこのような基礎的
な好みの力によって支えられており︑さらにそれぞれの專門的な力
が加えられなければならないのである︒
今日︑教科書その他の資料が多様に取り上げられているが︑何は ともあれそれを讃むならば︑讃みは正確でなければならない◎拾い
讃み走り讃みであるから誤護が許されるというものではないはすで
ある︒一つの軍元を畢習させるとき︑いろいろな問題を考えさせ︑
それぞれの見童生徒が問題の解決を分澹して︑資料を讃み︑まとめ
たものを嚢表するという手順が多く取られているが︑その場合見落
されていることは︑彼等が扱った資料をどのように全文の叙述に從
って正確に讃み取ったかの吟味であろう︒この場合出語るならば︑
ます教師がその資料を讃んで︑その嚢表が正確な讃みによってなさ
れているかどうかが指導されなければならないであろう︒前述のよ
うな讃みの︑累積だけで四身が進行し︑正確な全文的な讃みが磨かれ
る機會が少ないと︑護解力は十分には磨かれないこととなるであろ
う︒然し少ない艶語科の時間配當の中で︑すべての讃みをいわゆる
解繹學的な方法で行うということは不可能でもあるし︑また資料に
懸じた讃みとしては正しい指導とはいえない︒このためには︑一つ
の系統の藪科書や關蓮資料のなかで︑どれを精讃させ︑どれを通讃さ
せるかなどが︑半身年の縦の身寄を通じて計画を立てなければなら
ないであろう︒これらの計画の中でハ讃むことの基礎的な力が各學
年段階と︑一人一人の能力に慮じて系統的に磨きあげていかなけれ
ばならない︒その基礎的な力というのは︑
1︑文字に曝する力 2︑語句に署する力 3︑文略をたどる力 4︑主題を把える力 5︑内容を概括する力 などであろう︒これらの護むことの士力が教科書その他の資料を 讃む場合には︑計画的に磨かれていかなければならないのである︒ かって︑芦田恵之助氏は垣内松三氏の形象理論であるところの︑ 一︑直鶴︵文意の直観︶ 二︑自証︵文意の探究︶ 三︑証自証︵文意の確定︶ の賓践として芦田式といわれるところの︑ 一︑讃む 二︑とく 三︑護む 四︑書く 五︑讃む ﹂\︑とく
一ノ七︑讃む の七段の墜化をもつ耳蝉闇が進められ︑いわゆる七攣化の教導を 自ら教壇行脚によって實践されたQ西尾實氏は 一︑畳み 三︑讃み 五︑薦み 七︑讃み 二︑話し合い四︑話し含い六︑話し合い のような立体的嚢展として理解され︑和み北野習の過程が讃みと 話し合いの二軍位に限定され︑それが讃みから話し合いへと︑すな わち︑一︑二︑︑から三︑四︑へと︑さらに五︑六へというように 同じ護みでも話し合いでも次元が深くなっていく主体的な聖母過程 を嚢見された芦田氏の功績を認められておられる︒そして︑今もこ の原則は動かすことの出來ないものがある︒近來攣化の面が目立つ
つにれて︑攣化の根底であるこの原則が忘れられ勝ちであるのは見
q 一
一
逃しがたい欠陥である︒この攣化の面を豊冨にすると同時に︑それ
を根底において統一している原則の確立を忘れてぱならない︒ハ+5
と言われていることは︑今後の國語科教育の方向に指針となるであ
ろうQ 今後の國語科の軍元は︑すべてを紅會科的な問題古論によるので
はなく︑梅根悟氏︵↓εの言われるように︑
一︑實践軍書
二︑問題軍元
三︑教材軍元
などのごとき軍器の質の相違を考え︑または︑観点を憶えると︑
話しことばを主とした三元なども考えられるであろうが︑基本的に
は西尾實氏の言われる意味においての︑・讃むことを推進力とした學
警指導が螢まれなければならないであろうQたゴ芦田式では板書機
構︑板書内容が初めから不動のものとして教師によって決められて
いて︑これを﹁四︑書く﹂の段階で︑教師が一方的に板書し︑生徒
は同時に︑全く受動的にこれを筆冠したところに︑今日批判されな
ければならない欠陥があったと思われる︒今日においても︑この板
書機構は全く無計画に︑出たとこ勝負というのでなく︑⁝教.師は十分
な教材の論理を究明する一方︑兇童生徒の藪材の心理に立って︑見
童生徒の自稜活動として具現するように行う必要がある︒
丈部省認定通信教育の評語科教材研究テキストのコ黒むことの學
留指導の方法しに︑︵q1一︶
1︑導入 2︑音讃 3︑職讃
4︑・話し合い 5︑音讃 6︑話し古い 7︑練習 8︑評償 という指導過程が取り上げられているのは︑︐上來述べて來たこと と方向を同じくするものと言えよう︒ 職後︑話しことばの教育が平ぎく取り上げられ︑現場の教師から 寄せられる通信教育のレポートに︑これを強調したものが多く見か けられる◎その中には必ず︑職前の國語敏育は忌みに始まって讃み に絡る解繹學的な狭い護みであった︒と片付けているようである︒ たしかに今日の兇童生徒は物を遠慮なく言おうとする嚢表の意欲 は盛んであり︑討議の技術などに慣れている︒しかしながら︑話し ことばの指導を強調し︑また學習時間の大部を話すことで占めてお りながら︑質置は話すことの機會︑場面の用意ということに終り︑ それぞれの場面︑相手に鷹じて︑正しい標準語を使って嚢音︑語調 マ をととのえたり︑文脈のつづけ方を襲え︑問のおき方を工夫すると いうような︑話すことそれ自体の磨き上げということに意欲的な指 導が足らないようである︒高等學校の國語教育を発つたものでも︑ 相手に慮じ︑場面に鷹じた物の言い方が磨かれていないものが多く 見か潟られるようである︒ ﹁話しことばの効果的使用﹂ということ を重覗した今日の警語教育にも拘らす︑相手に不快の感を抱かせる ような〃物言い〃が多く行われているが︑時には言わないで黙って おくことが︑ことばの効果的使用である場合もままあるのである︒英 語科では綴字︵スペル︶を正しくし︑アクセγト︑イγトネーシヨ γを出來る限り正確にしょうと努力するのが一般であるが︑それと 比べると︑國語科では標準語に近づく努力や︑かなづかいなどの表 記を正確にしょうとする意欲が足らないようであるQ話しことばの
指導を力読する現場教師のレポートの記述を見ると︑しばしば︑二
一
う
一
重主語の丈︑主語の判然としない文︑叙述が績くうちに主語を見失
つたり︑主語の攣ったりする丈を見かけるし︑また︑句讃点を必ず
つけよと注意してあるのに無關心のものが多い︒放途などのマスゴ
ムミユニケーシヨγなどから︑一つのセγテンスの長さなども考慮
されなければならないであろうし︑話すことの指導目標の﹁正しい
表現﹂﹁美しい表現﹂︵十五︶の効果を嚢揮させる上からも︑基本的な
讃みを中核として︑話しζとばにおけるこれらの表現を磨いていく
のが効果を上げる行き方ではなかろうか︒
二八︑七︑︼
︵一︶国語と国丈学昭和26・7︑七〇頁 註
︵二︶時枝誠記博士著国語学原論第一篇︑第三項︑国語と国交学昭和26︑7
七頁
︵三︶昭和26年度申高校学習指導要領国語科編一一頁
︵四︶第九回アイフエル国語科教育︑石山脩平氏講演
︵五︶同
︵六︶国語と国交学昭和26︑4︑七六頁 ︵七︶同 昭和26︑7︑七一頁
︵八︶第六回︑全国国証剛教育研究一協諜噛会識⁝演