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研究資料 黒田清輝、久米桂一郎宛 藤島武二書簡

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Academic year: 2021

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(1)

研究資料 黒田清輝、久米桂一郎宛 藤島武二書簡

(三)承前

著者 児島 薫

雑誌名 美術研究

号 418

ページ 81‑93

発行年 2016‑03‑18

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006080/

(2)

黒田清輝、久米桂一郎宛  藤島武二書簡八一

黒田清輝、久米桂一郎宛   藤島武二書簡(三)承前

  凡  例

  以下に、黒田清輝、久米桂一郎宛藤島武二書簡を翻刻する。翻刻および解題は児島薫(実践女子大学教授)が担当した。翻刻にあたっては以下の点を配慮した。

  なお、本号で翻刻する書簡は、前号で未掲載となった書簡番号

((番から の七通である。 ((番まで

一、所蔵の明記のない書簡はいずれも東京文化財研究所の所蔵である。二、本文の行取り、文字は原則原文通りとし、影印版と照合できるように配慮した。三、文中には適宜、読点(、)を加えた。四、誤字・宛字・衍字がある場合も、原文のままとした。五、踊り字は、平仮名はゝで、片仮名は丶で、漢字は々で示した。六、抹消・訂正の文字がある場合、文字が判明するものについては本文にその文字を記し、左傍に〃を付した。七、書簡の紙継ぎ部は影印版の下縁に△をもって示した。

(3)

美  術  研  究   四  一  七  号八二 れ () 藤島は、学術研究のため、十一月二十五日より三十日間の朝鮮への出張を命じら ((.藤島武二久米桂一郎宛葉書(大正二年十二月十一日)久米美術館蔵

(、各地をまわった。滞在中の藤島からの音信はこれまで知られていなかったため、貴重な資料である。おそらく平壌を回ってから京城に戻って来て書いた葉書であろう。日本人による朝鮮観光が盛んになると平壌も周遊の定番となるが、大正二年に

東京市下谷区 上野公園内 東京美術學校 教授 久米桂一郎様 朝鮮より貴家の 御安祥を祈る 大正二年   京城 十二月十一日   藤島拝

大正二年十二月十一日付葉書

     (縦十四・二㎝、横九・一㎝)(表)

すでにこうした日本語を付した絵葉書を発売していたことがわかる。

  牡丹台(牡丹峰)は大同江を一望できる平壌を代表する場所であり、日本の統治下においては日本人にとっても景勝地として知られた。高木背水も平壌名勝𦾔跡保存會発行の絵葉書《平壌十二景》の第一図(挿図)として描いている。(

  

) 『東京芸術大学百年史東京美術学校篇第二巻』、五五五頁。

(朝鮮名所平壌牡丹台ヨリ大同江ヲ望ム)

「イ

936」A VEW OF THE TADONG RIVER ON THE BOTAN DAI HILL」

(裏)

挿図 高木背水《平壌十二景の一 牡丹 臺全景》平壌名勝𦾔跡保存會発行絵葉書

(4)

黒田清輝、久米桂一郎宛  藤島武二書簡八三

賀正   小生事舊冬より新年に掛けて朝   鮮地方を旅行致居り其爲年賀延   引之段平に御仁免を祈り尚不相   變御愛顧の程偏に奉冀候 大正三年一月吉日   藤島武二

   東京市本郷區駒込曙町十三住宅        十五画室

麹町区平河町六、

   一四、

  黒田清輝様

大正三年一月二十七日付葉書(縦十四・〇㎝、横八・九㎝)(裏)(表)

((.藤島武二黒田清輝宛葉書(大正三年八月二日)

  番号

る () アトリエを訪れた記者は「同じ曙町に邸宅とアトリエは別々に建られてあ とがわかる。また住所は住まいが曙町十三番地、画室は十五番地とある。 しているはずであるが、この葉書から帰国は新年になってからであったこ 朝鮮への出張を命じられて滞在中であった。発令通りであれば年内に帰国 ((の葉書の解説で述べたが、藤島は十一月二十五日より三十日間の

(」とあるように、画室は住まいとは分かれた敷地であった。藤島は黒田には十五番の住所を記すようになっており、公私の別をつけていたのであろう。

月十四日、七頁。

) 「文展製作アトリエめぐり(三)」『美術週報』一二〇号、一九一五年九

(5)

美  術  研  究   四  一  七  号八四

((.藤島武二黒田清輝宛書簡(大正三年八月二日)

  藤島武二がこの年の八回文部省美術展覧会(文展)の審査委員への任命を断ったことを黒田に伝えた手紙である。松浦専門學務局長とは、松浦鎮次郎であり、長く教育行政の中心にいた文部官僚。福原次官とは福原鐐二郎であり、文部大臣牧野伸顕のもとに正木直彦らとともに文展を設立するために尽力した文部官僚である。この時点では文部次官であり、当時の文展審査委員の規定では審査委員長には文部次官を充てることになっていたので、審査委員長でもあった。この規定は、大正三年の文展からは改められた。

  この手紙で、藤島は文部省の上層部から審査委員に内定したとの通達が来たがこれを断ったと、黒田に伝えている。手紙を読んだ黒田の困惑が想像される。同時に文末には、二科会とは一切関係を断つとも述べている。

  文展が発足したのは藤島の留学中の明治四十年であったため、藤島は審査委員にはなっていなかった。審査委員たちには保守的傾向が強く、藤島と同時代にパリに留学して帰国した若手画家たちからは不満の声があがり、当時新旧の傾向において二科制を取っていた日本画部門にならって、洋画も一科と二科に分けて二科には新傾向の作品を受け入れるように文部省の働きかけようという動きが生まれた。これを受けて藤島は二科設置の折衝を文部省とおこなったが、結局二科の設置は容れられず、メンバーたちは文展から分かれて二科展を開いた。一方藤島は文展に審査委員として迎えられて二科には加わらず、批判を浴びることになった。これらの事情は、当時からも様々な憶測とともに伝えられてきた。

  この手紙は、そうした中で、実際に藤島が審査委員への任命を一度は断ったことを示すこと、そして同時に二科設立をめざす画家たちと関係を断つ決意を実際に持っていたことを明白に伝える証拠であり、貴重な資料である。さらに「二科会」と記しており、藤島がこの時点ですでに「二科会」という会として認識していたこともわかる。

拝敬酷暑砌益々 御清祥奉賀候 扨て過日松浦専門學 務局長より第八回文 展美術審査委員ニ 小生を推擧可有之旨 内命ニ接し候處無 餘儀都合有之本年 迠ハ辞退致度福 原次官迠其次第申 出置候間可然御含 み置被下度孰れ近日

参堂拝眉之上可

大正三年八月二日付封書

     (縦十八・〇㎝、横四十六・九㎝)

(6)

黒田清輝、久米桂一郎宛  藤島武二書簡八五

萬縷仕候匆々       敬具

大正三年八月二日

       武二拝

清輝雅兄

   研北

尚従来彼二科会と小生との

関係ニ就き世間の誤解

も有之候間此際公然

一切の関係を断候間

可然御含み置被下度

奉願候 麹町区平河町六、一四、   黒田清輝様      親展

   本郷曙町十五 〆    藤島武二

  大正三、八、二、

封筒(縦十九・五㎝、横八・五㎝)(表)(裏)

(7)

美  術  研  究   四  一  七  号八六

((.藤島武二黒田清輝宛書簡(大正三年八月三日)

  前日の手紙では文展審査委員を断ったはずであるが、この手紙ではやはり審査委員を引き受けることとしたと黒田に伝えている。藤島が決意を一日で翻した理由は、ここに書かれているように、福原次官、正木校長が相次いで直々に藤島の元を訪ねて説得したからであったのは明らかである。藤島の後年の回想では黒田からの「切々たる」説得で文展に留まったように述べていたが )(

(、これら二通の手紙からは、官僚制度のなかでの上からの命令があったことを想像させる。もしここで断れば、藤島は学校を辞職しなければならなかったことであろう。任命は八月十一付でおこなわれた )(

(。藤島は八回文展には作品を送らなかった。(

( 十一頁。

) 藤島武二「足跡を辿りて(二)」『美術新論』五巻五号、一九三〇年五月一日、七

  

) 『東京芸術大学百年史東京美術学校篇第二巻』、五七九頁。

  昨日 手紙を以て御通 拝啓

知申上候件ニ関し

今朝福原、正木両氏前後して

來られ種々懇談

有之候始末小生も

愈々文部省之内

命を □

受け □

ことニ決定致候間

可然御含み被下

右及御通知候

      匆々

大正三年八月三日付封書

     (縦十八・〇㎝、横四十六・九㎝)

(8)

黒田清輝、久米桂一郎宛  藤島武二書簡八七

八月三日      武二拝

清輝雅兄

麹町区平河町六、一四、

  黒田清輝様

    至急親展

   本郷曙町十五 〆    藤島武二

  大正三、八、二、

封筒(縦十九・五㎝、横八・五㎝)(表)(裏)

(9)

美  術  研  究   四  一  七  号八八

((.黒田清輝宛藤島武二書簡(大正六年三月十日)東京国立博物館蔵   黒田清輝の父黒田清綱は病気療養中であり、そのため清輝も父の住む鎌倉乱橋に滞在していた。藤島から清輝に御見舞を伝える手紙である。寒さの緩む季節になったことで回復を祈っているが、清綱は三月二十三日に逝去した。これを受けて清輝は襲爵し、大正九年には貴族院議員にも選出され、ますます多忙な日々を送ることになる。

謹啓

御尊父様御事

過般来御不豫の

趣傳承居大兄御痛

心之程さそと   奉察候

早速敬候仕る筈の

處俗務多端ニて

御疎濶に打過候段

心外の至ニ奉存候

大正六年三月十日付封書

     (縦十九・四㎝、横八十一・一㎝)

(10)

黒田清輝、久米桂一郎宛  藤島武二書簡八九

春寒稍緩み 候折柄折角御加 療速に御回春の 程単に奉祈候 先々書中御見舞 まで      匆々   敬具

三月十日

      武二

清輝賢台

     座右 相州鎌倉乱橋   黒田清輝樣      侍史

   東京市内 〆     藤島武二

封筒(縦二十一・五㎝、横八・六㎝)(表)(裏)

(11)

美  術  研  究   四  一  七  号九〇

畧啓   今週火水両日久米君の 都合宜敷き由に候得共天氣模様 少々怪しげに豫測され候間來週 更に好日を撰び御枉駕を仰度 存候   右   通知まで   匆々 三月四日   駒込曙町   藤島拝

麹町区平河町六、一四

黒田清輝様

大正七年三月四日付葉書(縦十四・〇㎝、横八・九㎝)(裏)(表)

(0.藤島武二黒田清輝宛葉書(大正七年三月四日)

  黒田、久米を自宅に招待しようとしており、日程の調整をしていた様子である。天気が悪そうなので、少し日程を延期することを伝えている。

(12)

黒田清輝、久米桂一郎宛  藤島武二書簡九一

((.藤島武二黒田清輝宛書簡(大正七年三月十八日)

  前便で延期した日程について明後日、二十日に決めるという通知である。黒田清輝日記には、三月二十日水曜に記載がある。天気は晴れで強風であった。「午後四時頃新海氏方ヘ赴キ大山元帥騎馬像ノ模型ヲ覧ル  藤島君ノ招ニ応ジ晩餐ノ馳走ニ預ル  相客ハ久米君ノミニテ十時過辞去」とあり、藤島は三時頃と書いているが、黒田はだいぶ遅刻をして到着したようである。藤島がどのような心境からこのような招待をしたのかはうかがい知れないが、この年の秋の文展をもって文展は終了し、翌年からは帝国美術院のもとに展覧会が開かれ、いわば世代交代がおこなわれる中、藤島は存在感を増していくことになった。

畧啓 一昨日御願致置候通 明後廿日(水曜)御都

合御繰合せ御枉

駕被下度奉願候

尚當日ハ何の準

備も無之候得共

書生時代を 顧

さるゝ為に畫室

大正七年三月十八日付封書(縦十七・五㎝、横七十七・八㎝)

(13)

美  術  研  究   四  一  七  号九二

ニて緩々御高談

拝承致度候間

三時頃より御越之

程奉待候

      敬具

三月十八日

      武二拝

清輝様

  玉案下 麹町区平河町六、一四   黒田清輝樣        函丈

   駒込曙町一五、 〆     藤島武二

  三月十八日

封筒(縦二十二・五㎝、横九・〇㎝)(表)(裏)

(14)

黒田清輝、久米桂一郎宛  藤島武二書簡九三

((.藤島武二黒田清輝宛書簡(大正十年十二月十七日)

  藤島の中国趣味を窺わせる便箋と封筒である。文面からは、藤島が相変わらずなかなか作品を仕上げられずに悩んでいる様子がうかがわれる。出品する予定であった展覧会について藤島が取りやめると申し出たことから、黒田が電話をかけて出品するように一度は説得したのであろう。しかし藤島はその後すぐに翻意し、出品取り消しを告げる手紙を書いている。ある程度まで描いてはみたものの、期日までに仕上げるのは無理だと判断したのか、あるいは出来上がりに納得がいかないために展示したくないと考えたのかもしれない。

  出品を取り消した展覧会を同定することは難しいが、出品作品は十二月十八日に発表され、一月にフランスに向けて発送された )(

(。翌年四月から開かれた日仏交換美術展覧会の可能性を考えることができるだろう。(

) 「巴里の春のサロンを飾る出品全部決まる」『読売新聞』一九二一年十二月十九日、     十二月十七日敬具   察奉願候餘ハ譲拝眉候 度く存候間右不悪御諒 此度は是非出品取消仕り 甚だ恐縮之至ニ奉存候得共 御意見を再び翻へす様ニて 先刻電話にて拝承致候

  清輝様     武二拝 大正十年十二月十七日付封書(縦二十四・八㎝、横十五・七㎝)

麹町区平河町六丁目十四、

  黒田清輝樣    至急親展(速達)

    駒込曙町十五 〆      藤島武二

  十二月十七日

封筒(縦二十一・一㎝、横七・〇㎝)(表)(裏)

朝刊五頁。

参照

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      杉谷 義一 さん   佐々木 耐 さん       米井  洋 さん   藤井 敏郎 さん       飯島  誠 さん   藤江 義孝 さん      

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