スタンダールにおける身体とまなざし (一)
著者 柏木 治
雑誌名 仏語仏文学
巻 27
ページ 31‑46
発行年 2000‑02‑29
URL http://hdl.handle.net/10112/00017351
柏 木 治
「あたかも 1 8 5 0 年から 1 8 8 0 年のあいだに作中人物は身体になったかのよ うだ」と H . ミットランは言う!)。フローベールにいたって小説のリアリ ズム美学が生まれたというのは,それまで登場人物たちが身体をもたなかっ たということではなく,一種の文学的職業倫理がある身体的部位やその機 能を描き出すことを禁じ,かつ,修辞的伝統がそれ以前の言説の記号学的・
統辞論的ステレオタイプにしたがって,人物肖像を決定してきたという意 味である。スタンダールのテクストを「身体」という格子をとおして見よ うとすると,われわれはいたるところで身体性の欠如を目の当たりにする ことになる。この小説家の作中人物たちの身体は,対物性を帯びてテクス トのうえに堆積してゆくことなく読者のまなざしからすり抜ける。ポスト・
ロマンティック世代の作家たちにおけるように
2),身体がその物質性にお いてとらえられることはないのだ。とくに女性の身体は,ときにかすかな 香りとして,あるいは一瞬あらわになった肩の一部分として換喩的に与え られるにしても,語り手の視線は即座に対象から焦点をずらし,読者を観 念と精神性の高みに連れ去ってしまう。とはいうものの,この作家が身体 に関わる記述をことごとく拠榔したかといえばそうではなく,ある条件の もとにではあるが,突出した身体的記述を残している。『イタリア年代記』
には身体のスペクタクルとでも呼びたくなるような箇所が散在しているし,
『ラミェル』にも『パルムの僧院』や『赤と黒』のテクストからはかなり 隔たった,身体性をつよく喚起させる過激なシーンが編み込まれている。
しかもそれらのシーンはいずれもなんらかのしかたでセクシュアリティの 問題と絡んでいるようにみえる。
身体を視線と性の角度から眺めるとき,どのような問題が浮上してくる
か,それを論じようとするのがこの小論の課題であるが,本稿ではまず,
身体に対するまなざしそのものに関わる問題を整理し,簡単にまとめてお きたい。
I
スタンダールの小説において身体の描写がほとんどなされないことはよ く知られている。しかし,『イタリア年代記』では,ある特徴的な身体に 関する記述がこの作家のテクストとしてはかなりの頻度であらわれる。お そらくエクリチュールが小説家のサディズムと結びつくときに,その欲望 を充足させるものとして身体が姿をあらわすのであろう。一見逆説的にみ えるが,スタンダールにとって,「見る」ことと「視線」は特権的な意味 を帯びている。登場人物たちはたがいに見つめ,あるいは窃視する。まな ざしは真正なコミュニケーションの手段として,あるいは他者の心の内を 洞察する手だてとして,言葉やその他の媒体のまえに君臨している。一方,
読者が登場人物たちの外貌をまなざすことはほとんど禁じられている。一 般に,読者が作中人物の身体や容貌を見つめることができるとすれば,そ れは語り手による外貌の描写が前提になるのだが,スタンダールの小説に おいては,登場人物たちのあいだでの視線はことのほか重要なものとして 聖別されているのに,読者には,語り手の視線はおろか登場人物の視線を
とおしてさえ,かれらの外部を正確に把握する機会は与えられない。
対象をどのようにとらえるかという問題は,小説技法のいわゆる「視点」
の問題と大きく関わっている。 G . プランの古典的研究
3)以来,スタンダー
ルが「内的焦点化」の作家として論じられることの多かったことはよく知
られているが,視点が登場人物の内部に位置し,そこから眼前の世界をい
わば現象学的にとらえるという手法は,『パルムの僧院』のワーテルロー
の場面をその典型として詳細に論じたプラン自身がすでにこれを留保して
いたように
4)'スタンダールの小説全体を眺めわたしてみるとき,むしろ
例外的である。 D . フィリポも,プランの「主体的リアリズム r e a l i s m e
s u b j e c t i f 」の議論のなかに,後世の手法にむりやりこの小説家を結びつけ
ることで,より新しい作家たらしめようとしたことの弊害を見,「主体的 リアリズム」が『パルムの僧院』の作者にとって手法と呼べるものではな く,作家の関心はもっとべつのところにあったことを示そうとしている丸 同様に,「視線」についてもスタンダールは小説的手法として視線をと らえているわけではない。彼の小説にあって「視線」は圧倒的な量と意味 をもっているにもかかわらず,フローベールやゾラにあるような,対象を 対物的に観察するまなざしはきわめて少ない。とくに視線がものをいう恋 愛場面において,視線が相手の身体的特徴をその具体性においてとらえる ことはほとんどないのであって,スタンダールにはそういう手法としての まなざしは意識されていない。かれにとって問題なのは,物語空間内部の 視線そのもの,あるいは視線が意味するところのものであって,テクスト に「視線」という語が頻出すること自体,そのことをよく物語っている。
スタンダールの小説における身体と視線の問題を検討するために,まず
『リュシアン・ルーヴェン』のー場面をみてみよう。第三十章,シャスト レール夫人が突如リュシアンの手を唇にもっていきたいという衝動に駆ら れたあと,自責の念に苛まれる場面である。
≪Mme d e C h a s t e l l e r , en e l o i g n a n t une c a r i c a t u r e pour en p r e n d r e une a u t r e , l e v a un peu l e s yeux e t v i t b i e n c e t t e r o u g e u r , q u i ne f u t pas sans i n f l u e n c e sur e l l e . Mme d ' H o c q u i n c o u r t , de l o i n , v o y a i t f o r t b i e n a u s s i t o u t c e q u i s e p a s s a i t p r e s d e l a t a b l e v e r t e (…) / Leuwen osa l e v e r l e s yeux sur Mme de C h a s t e l l e r , mais i l t r e m b l a i t d e r e n c o n t r e r l e s s i e n s , c e q u i l ' e i i t f o r c e de p a r l e r a
! ' i n s t a n t . I l t r o u v a q u ' e l l e r e g a r d a i t une g r a v u r e , mais d ' u n a i r
h a u t a i n e t p r e s q u e en c o l e r e . La pauvre femme a v a i t e u l a
mauvaise p e n s e e d e p r e n d r e l a main d e Leuwen, q u ' i l appuyait
sur l a t a b l e e n t e n a n t d e l ' a u t r e une g r a v u r e , e t d e l a p o r t e r a s e s
levres.~
6)このテクストは,作中人物のあいだでやりとりされる視線に支配されてい る。スタンダールの小説でも,西洋の小説の伝統にもれず,情動や心理の 動きは「まなざし」をとおして描き出されるのが通常であり,『パルムの 僧院』第七章について「視線の真の現象学」と G . デュランが言ったよう に
7),ここでも圧倒的な視線の優位が示されている。しかしながら,さき に述べたように,ここでの視線もまたつねに作中人物間での視覚的交通で あり,読者は人物が見ているという事実を繰り返し告げられるばかりで自 ら視線となって人物を視覚の対象とすることからは排除されている。つま り読者は,人物が相手の視線の意味を「読む」行為につきしたがうのであっ て,人物の視線がとらえているはずの身体的外部をまなざすことはできな いのである。それぞれの視線は相手の視線にとって,情動や心理,さらに は欲望を読みとる窓口になりうるけれども,読者はつねに精神的・観念的 な世界へと拉致され,身体的・肉体的なものから遠ざけられてしまうのだ。
スタンダールの小説における視線の圧倒的優位は,この小説家の作品がど れほど身体的具体性の次元を忌避し,観念化され昇華された崇高な次元に 向かおうとするものであるかを明らかにしている。身体はまるで検閲され ているかのように,ときおりエクリチュールの端々にひそかに姿をみせる のみであり,通常は潜在性として可能的に存在しているにすぎない。
ところで,そうした身体のありようを典型的に示す例を,われわれは
『リュシアン・ルーヴェン』の本来のテクストとその余白とのあいだの弁 証法的関係のなかにみてとることができる。 P h . ベルティエが表向きの テクストとそれを支える小説家自身のノートとのあいだにみられる「対位 法 」
8)と呼んだものだ。さきに引いた場面の直後,シャストレール夫人は
~Dieu ! d ' o i i d e t e l l e s h o r r e u r s p e u v e n t ‑ e l l e s me
venir?~9> と自問するのだが,じつはこの部分の原稿余白に作者はつぎのように書き込んでい
る。 ~Form e . De l a m a t r i c e , ma
petite.~10>。貞操観念と高潔さの権化ともいうべき夫人の美しい内面的葛藤を小説の内部に築きあげつつ,そ
こで醸成される操正しい雰囲気とはおおよそ反対の次元,言い換えればス
タンダール自身の性的欲望の次元が余白に噴出し,それが小説のテクスト
を下方から支える構図になっているのである。表向きのテクストと自身の ノートは,そのまま小説家の欲望体系の上部構造と下部構造となって,あ る種の均衡をたもっている。「子宮」への言及はこれにとどまらない。第 二部第六十四章で,リュシアンの冷淡な手紙に怒ったグランデ夫人の心理 を叙述するくだりでも,ほとんど同じ現象を観察することができる。
~Comme l e domestique s o r t a i t , e l l e s e p r e c i p i t a s u r l a l e t t r e d e Lucien e t l ' o u v r i t a v e c un mouvement d e f u r e u r , e t sans s ' e t r e pour a i n s i d i r e p
年rmisc e t t e a c t i o n . La j e u n e femme l ' e m p o r t a i t s u r l a c a p a c i t e politique.~11)
怒りと情熱に駆られた夫人のようすをこのように書いて,小説家はひそか
にその原稿余白に ~Pilotis.‑ Exactement, l a matrice l ' e m p o r t e s u r l a tete.~12) と書き込む。さらにこれに続く章でも,リュシアンの事務室
に押しかけた夫人について,余白は ~For
me ‑ La m a t r i c e , e x c i t e e par un j e u n e homme b i e n ,
parlait.~13l と語っている。このように表と裏のテクストは,小説家の身体的欲望がどこまでもノー ト(裏)のレベルにとどまりつつ,互いに補完しあっている。ただ,この章
では,夫人がリュシアンの視線にとって身体として立ち現れ (~Cec o r p s d ' a i l l e u r s q u i s ' a g i t a i t sous s e s yeux e t a i t s i beau !~14)), さらには 夫人が気絶し,状況としてはリュシアンの視線にさらされるがままになる こともあって,さすがに小説のテクストもいくぶん夫人の身体を感じさせ る叙述になっている。
≪Il l a deposa doucement c o n t r e l e f a u t e u i l , e l l e e t a i t a s s i s e par
t e r r e . 1 1 a l l a fermer l a p o r t e a c l e f . P u i s , a v e c son mouchoir
trempe dans l e modeste p o t a l ' e a u d e f a i : e n c e , s e u l meuble c u l i n a i r e
d'un b u r e a u , i l humecta c e f r o n t , c e s j o u e s , c e c o u , sans que t a n t
d e b e a u t e l u i donnat un i n s t a n t d e d i s t r a c t i o n . [ . . . ]
I l l a s a i s i t a b r a s ‑ l e ‑ c o r p s e t l a p l a c a a s s i s e d a n s l e grand f a u t e u i l d o r e . Le c o n t a c t d e c e c o r p s charmant l u i r a p p e l a c e p e n d a n t un peu q u ' i l t e n a i t dans s e s b r a s e t q u ' i l a v a i t a s a d i s p o s i t i o n une d e s p l u s j o l i e s femmes d e P a r i s . E t s a b e a u t e n ' e t a n t p a s d ' e x ‑ p r e s s i o n e t d e g r a c e , mais une v r a i e b e a u t e s t e r l i n g e t p i t t o r e s q u e , ne p e r d a i t p r e s q u e r i e n a l ' e t a t d'evanouissement.~15>
おそらくここは,スタンダールの小説中でももっとも女の身体を感じさせ る部分であって,とくに ≪ilhumecta c e f r o n t , c e s j o u e s , c e cou≫, あるいは≪Lec o n t a c t d e c e c o r p s charmant≫ という語句に含まれてい る指示形容詞の使い方には,各身体の部位をそれ自体として読者に強く意 識させる働きがあるように思われる。ところが興味深いことに,このテク ストは,一方で夫人の身体を強く意識させる書き方をしながら,リュシア ンに喚起されるエロス的情動は最小限に抑制されているのである (≪sans q u e t a n t d e b e a u t e l u i donnat un i n s t a n t d e d i s t r a c t i o n . ≫ ≪Le c o n t a c t […] l u i r a p p e l a c e p e n d a n t un peu […]≫)。
テクスト生成の背後ではきわめて即物的な性衝動が言語化されているに もかかわらず,いやそれがゆえに表のテクストには性的欲望が表出せぬよ うに何重にも抑圧の意識がはたらいている。多くの小説において,意識の ない女性を前にしたとき,窃視と同じ状況に置かれるためであろうか,そ れを描写する語り手のまなざしは,エロス的欲動の備給をつよくうけるの が通常である。ゾラの『作品』の冒頭,クロードが朝の光のなかでベッド に横たわるクリスティーヌの肉体を画家の目をもって追うシーンを思い 起こせば十分であろう 1 6 ) 。ゾラはここで ≪cer e g a r d d'homme q u i l a
[ C h r i s t i n e ] f o u i l l a i t ≫ 1 7 l という表現でクロードのまなざしを形容してい るが,この部分を書くゾラの意識は,まさに f o u i l l e r という動詞がふさ わしいほどエロス化された視線と化している。さきのスタンダールの文章 は,スタンダールのものとしてはめずらしいほどエロス化されてはいるが,
リュシアンの態度がそうしたエロス化を抑制しているのである。
I I
なま
小説という表象形式のなかで,そもそも「描く」という行為は,生の存 在を模写することではない。ロラン・バルトがバルザックを分析しながら 指摘したように,すでに模写されたものを模写しようとする行為である。
「描写すること,したがってそれは,レアリストの作家がいつも持ち連ぶ
(イーゼルよりも重要な)空枠を,〔中略〕このマニアックな操作なしには 言葉が近づくことのできないような一群の,あるいは一連の対象のまえに 据えることである。それを語るためには,書き手はある入信儀式をとおし て,まず《現実 l er e e l 》を描かれた(枠取られた)対象に変換しなけれ ばならない。」
18)つまり,描写するとは,言葉と指示対象のあいだにではな く,コードともうひとつべつのコードとのあいだに参照関係をつくること でなのである。「レアリスムとは(この名称がいけない,いずれにしても よく誤解されている),現実をコピーするのではなく,現実のコビー(描 かれた)をコピーすることなのだ。(中略)だからこそレアリスムを《コ
ピーするもの c o p i e u r 》と呼ぶべきではなく, 《パスティッシュするもの p a s t i c h e u r 》と呼ぶべきなのだ(第ニミメーシスによってレアリスムはす でにコピーされたものをコビーする)。」
19)スタンダールがいう書くことの不可能性は,つきつめて考えれば,対象
なま
の生の様態,バルトの言葉でいえば「現実」を書こうとすることの不可能 性なのであって,その極端な例が,激しい感動や極度の興奮であろう。こ の様態はそれ自体非時間的・非空間的なものであって,描こうとすればと たんに困難に陥ることは火を見るより明らかである。かれはいたるところ で,「もののありようを言おうとするのではなく,ものがわたしに与える 影響〔効果〕を物語るのだ」
20)と言ったが,バルトが述べたように,スタ ンダールは「影響〔効果〕を語る」ことにすら成功していない。それを
「言う」 d i r e ことはできても「表象する」 r e p r e s e n t e r ことは最初から放
棄しているかにみえるのである
21)。ロジェ・ケンプがフローベールの文章
を触覚的であるとした意味で
22),対象をどこまでも対象化し,それを心ゆ
くまで表象することがなければ文章は s e n s u e l なものにならないのだと
すれば,感覚論 s e n s u a l i s m e に大いに培われたはずのスタンダールが,
小説の描き方においてはまったく感覚的 s e n s u e l ではないという逆説
23)にも首肯できるだろう。とくに対象の影響が現在形として激しく作動する とき(そしてそれは『アンリ・プリュラールの生涯』に多いのだが),作 者は書かれるべきものを対象化できずに筆を折ってしまう。多用されるク ロッキーの多くは,たんに記憶を呼び起こすための道具であるよりも,非 空間的な現在の渦のなかに取り込まれまいとする抵抗の痕跡としてあるの ではないだろうか。描くためには,対象を空間と時間のなかに囲いこまな ければならない。
ところで,一瞬の現在を擬似三次元の枠組のなかに,すなわち空間とそ れをながめる時間を可能的に内在させるものとして提示してくれるのは絵 画である。絵画はそれ自体すでに枠(イタリア語の q u a d r o を想起しよ う)であり,その空間のなかに固定された一時を時間的連続のなかで対物 的に凝視することを許すものである。風景を切り取る(囲い込む)「窓」
は,アルベルティ以来バルトにいたるまで,美術のみならず文学において も創造活動の隠喩として用いられてきた
24)。スタンダールの美学において も,対象の表象を「感覚的幸福」の対極にあるものとしてとらえるかぎり 忌避されるべきものであった描写が,この「枠」を与えられることによっ て,部分的に可能となることは,これまでの議論から容易に察しのつくと
ころであろう。
『イタリア年代記』に収められる諸作品のうち,『ヴットリア・アッコラ ンボーニ』『チェンチ一族』『パリアノ公爵夫人』など,もとの古文書に比 較的忠実な作品において,「忠実な翻訳者」というアリバイのもとに,あ る種のサディズム
25)とともに展開されていた身体的記述は,作者スタンダー ル自身の脚色が多くなるにつれて量的に減少する。スタンダールの筆によ るところが多くなる分,人物の外的な描写は他の作品のように直接的には なされにくくなるのである。そこで小説家が使っている方法のひとつは,
まさに絵画というもともと見られる対象として人物を置くことである。一
例を挙げるなら,「美の奇跡」 unm i r a c l e d e b e a u t e と形容された『カス
トロの尼』のエレナ・ダ・カンピレアーリの容貌を,ファルネーゼ宮にあ る肖像をとおして描写する場合がそれである。
≪Depuis que j ' a i commence a e c r i r e son h i s t o i r e , j e s u i s a l l e au p a l a i s Farnese pour c o n n s i d e r e r l ' e n v e l o p p e m o r t e l l e que l e c i e l a v a i t donnee a c e t t e femme, dont l a f a t a l e d e s t i n e e f i t t a n t d e b r u i t d e son t e m p s , e t o c c u p e meme e n c o r e l a memoire d e s hommes.
La forme d e l a t e t e e s t un o v a l e a l l o n g e , l e f r o n t e s t t r e s g r a n d , l e s c h e v e u x s o n t d'un blond f o n c e . L ' a i r d e s a physionomie e s t p l u t o t g a i ; e l l e a v a i t d e grands yeux d ' u n e e x p r e s s i o n p r o f o n d e , e t d e s s o u r c i l s c h a t a i n s formant un a r c p a r f a i t e m e n t d e s s i n e . Les l e v r e s s o n t f o r t m i n c e s , e t l ' o n d i r a i t que l e s c o n t o u r s d e l a bouche o n t e t e d e s s i n e s par l e fameux p e i n t r e C o r r e g e . C o n s i d e r e e au m i l i e u d e s p o r t r a i t s q u i l ' e n t o u r e n t a l a g a l e r i e F a r n e s e , e l l e a l ' a i r d ' u n e r e i n e . 1 1 e s t b i e n r a r e que l ' a i r g a i s o i t j o i n t a l a m a J e s t e . ≫
26)ディディエの指摘
27)をまつまでもなく,スタンダールにとって s o u r c e s p l a s t i q u e s は文学的創造にきわめて重要な意味をもつ。しかしここでよ
り重要なのは,エレナの美貌をそのまま描くのではなく,その肖像画を描 写すること,つまり人物と語り手のあいだに肖像画を介在させるという手 段をとっていることだ。まるで,読者の視線が直接悲劇の女性をまなざす ことを拒むかのように,作者は登場人物の外貌を間接的に描く,つまりは 肖像画をまなざす行為へと転換してしまうのである。
このように,スタンダールの身体,とくにいわゆる美的結晶作用をおこ
すような女性の身体的外部が問題となる場合,なんらかの意味で枠組み
c a d r eが与えられないとそれはテキストの表面に浮上しない。これは,さ
きにみた「描写」の本質と関わることであって,スタンダールの筆は,い
わば描写の本質的な要因が明示的に状況として与えられないかぎり,外部
の描写に向かわないといっていい。エレナの外貌の場合にはファルネーゼ 宮の肖像画が文字通り c a d r e となって,明示的に描写の構成要件を満た
しているのである。
ところで,『イタリア年代記』を全体としてみた場合,これが古文書の 翻訳であるという事実がもうひとつの枠を構成しているのであるが,さら に , M. レオーニが鋭く指摘した
28)ように,古文書のマニュスクリがまる で絵画のように機能している点にも注意する必要がある。
≪I s e e with g r e a t p l e a s u r e i T r a g i c i r a c o n t i . One day I w i l l p u b [ l i s h ] them. Cela me d i s t r a i t , j e c h e r c h e a me d i s t r a i r e , b e i n g perhaps d e e p l y i n Z o u [ e ] and a f f l i c t e d by a new s i l e n c e . [ … ]≫29)
この英語・イタリア語混じりの謎めいた日記文は,スタンダールが古文書 を読む対象である以上に「見る」 s e e対象としてとらえていることを物語っ ている。レオーニのように,ここにマニュスクリを絵画と同じように見て いるスタンダールを想起することもできようし,あるいはまた,この古文 書に物語られる場面の一つひとつが,まるで絵画のように造形的視覚対象 としてスタンダールの眼前に喚起されていると考えることも可能であろう。
一方で,この古文書はまず,物語の舞台が自分とは隔たった十六世紀の イタリアであることがひとつの枠組を与えている。つまり,それを出版す るのは自分であるが,実際の作者は自分でないこと一ースタンダールは最 初から,ここから小説を構想しようとしているのではなく,それを第三者 的に眺めようという態度で臨んでいるのであり,この第三者的態度が逆に スタンダールの欲動を満たすみなもととなっているのである。こうして身 体は『イタリア年代記』のテクストを充満させることになる。『リュシア ン・ルーヴェン』の小説テクストでは草稿の余白に抑圧されていた作者の 欲動が,「これを書いたのはわたしではない」という保証のもとにある種 のサディズム的な相貌をもってテクストの表面に噴出してくるのである。
かつてジャン・プレヴォが言ったように
30)'スタンダールの大小説では主
人公たちは多くの場合「安楽死」のような死に方をする。しかし,『イタ リア年代記』ではどうだろう。他の小説作品では忌避されてきた身体がそ の禁忌を解かれたかのように,血と拷問と処刑をとおして身体のエクリチュー ルを生成していくのであって,ジュリアンのように一瞬のうちに,あるい はまたオクターヴのように美しく死を迎えられる主人公は,例外的な場合 をのぞいて存在しない。 M. バルデーシュが言うように
31)'スタンダール の「暗殺,拷問,処刑といったものに対する奇妙な性向」がテクストの表 層に湧出してくるのだ。
よく引用される拷問や処刑のサディスティックな場面以外にも,すでに
『イタリア年代記』のテクストでは,いくつかのレベルで身体的対象を肉 体そのものとして前面におしだす書き方がとられている。
≪Il f a u t s a v o i r que l e p r i n c e Paul O r s i n i e t a i t d e v e n u d ' u n e g r o s s e u r e x t r a o r d i n a i r e ; s e s jambes e t a i e n t p l u s g r o s s e s que l e c o r p s d ' u n ho・mmes o r d i n a i r e , e t une de c e s jambes enormes e t a i t a f f l i g e e du mal nomme l a lupa Oa l o u v e ) , a i n s i a p p e l e p a r c e q u ' i l f a u t l a n o u r r i r a v e c une grande abondance de v i a n d e f r a i c h e qu'on a p p l i q u e s u r l a p a r t i e a f f e c t e e ; autrement l'humeur v i o l e n t e , ne t r o u v a n t pas de c h a i r morte a d e v o r e r , s e j e t t e r a i t s u r l e s c h a i r s
v i v a n t e s q u i l'entourent.~32>
この部分はイタリア語の原テクストをかなり忠実に翻訳したものであるか ら,スタンダール自身の文章ではない。しかし,「異常な太さ」,「尋常の人 間の鉢よりも太い脚」,「多量の新鮮な肉」,「死肉」,「生きた肉」など,「肉 塊」を想起させる語をそのまま,同語反復を恐れることなく,しかも代名 詞類をほとんど使わずにつぎつぎと畳みかけていく翻訳文は,通常のスタ
ンダールであればおそらく避けたであろう文章である。
さらに注意しなければならないのは,ここに展開される身体の多くは美
的結晶作用をともなう身体ではなく,多くは男の身体だという点である。
たとえば拷問や処刑に付される女性の身体は,やはりここでも周到に描写 をのがれ,ナレーションのなかに吸収されている。たとえば,「忠実な」
翻訳である『チェンチ一族』においても,ベアトリスと母の二人が処刑さ れる情景については, 「残酷すぎる」という口実のもと,イタリア語のテ
クストにはあった身体的記述が大きく削除されているのである 3 3 ) 。 一方,男の身体は,そこに展開する残酷な情景に身をゆだね,スタンダー ルのサディズム的欲動が存分に解放される対象として描かれる。残酷な人 物の外貌についても同様で,フランチェスコ・チェンチの外貌も委細を尽
くして描かれている。
≪C'etait un homme d ' a peu p r e s c i n q p i e d s q u a t r e p o u c e s , f o r t b i e n f a i t , quoique t r o p maigre; [ . . . ] i l a v a i t l e s yeux grands e t e x p r e s s i f s , mais l a p a u p i e r e s u p e r i e u r e retombait un peu t r o p ; i l a v a i t l e n e z t r o p avance e t t r o p g r a n d , l e s l e v r e s minces e t un s o u r i r e p l e i n de g r a c e . Ce s o u r i r e d e v e n a i t t e r r i b l e l o r s q u ' i l f i x a i t l e regard s u r s e s e n n e m i s ; ≫ 3 4 )
このように周到な人物の容貌が提示されたあと,これらの作品は拷問と処 刑と血で満たされる。たしかに「絵画愛好家としてスタンダールは体刑の 描出を好まなかった」
35)けれども,『ラミェル』のなかで幾度かにわたって
「血」を小説の素材に用いたように,このイタリア小説群のなかでも「血」
にまみれた肉体が読者の視線のまえに,まるでスペクタクルのように展開 されるのである。
≪L'un d ' e u x a v a i t un grand c l o u q u ' i l posa v e r t i c a l e m e n t s u r l ' c e i l
du v i e i l l a r d endormi; l ' a u t r e , q u i a v a i t un marteau, l u i f i t e n t r e r
c e c l o u dans l a g o r g e , de f a c ; o n que c e t t e pauvre
祖n e , chargee de
t a n t de p e c h e s r e c e n t s , f u t e n l e v e e par l e s d i a b l e s ; l e c o r p s s e
d e b a t t i t , mais e n v a i n .
[…]Les femmes, r e s t e e s s e u l e s , commencerent par r e t i r e r c e grand cl~u e n f o n c e dans l a t e t e du c a d a v r e e t c e l u i q u i e t a i t dans l e c o u ; e n s u i t e , a y a n t e n v e l o p p e l e c o r p s dans un drap d e l i t , e l l e s l e t r a i n e r e n t a t r a v e r s une l o n g u e s u i t e d e chambres j u s q u ' a une g a l e r i e q u i d o n n a i t s u r un p e t i t j a r d i n abandonne. De l a e l l e s j e t e r e n t l e c o r p s s u r un grand s u r e a u q u i c r o i s s a i t e n c e l i e u solitaire.~36'
重々しい身体,あらゆる種類の拷問に付される身体。身体は『イタリア 年代記』の真の主人公であり,この身体の不透明な次元こそが読者に衝撃 を与える。贖われることなく露呈する身体,肉の存在から救出してくれる であろう言葉をもたない身体たちは,レオナルドやコレッジョの絵画にお けるような,魂を表現する身体 ( < t : ' . L e sa r t s du d e s s i n s o n t muets, i l s n ' o n t que l e c o r p s pour r e p r e s e n t e r l e s
ames~,37>) とは違う。どこまでも身体的な身体,すなわち,あの『最後の審判』にみる < t : : p h y s i q u e d e l a chose~ としての身体である。レオーニは,スタンダー)レの絵画論をな す二つの美学を抽出し,それを分析の基本にしている。すなわち,レオナ ルドの『最後の晩餐』に代表される崇高な絵画的空間―ここでは絵画の 物質性は消えて,スタンダールの筆はそれが呼び起こす想念のうえを滑る ように走ることができる。一言で言えばエクリチュールの勝利である。他 方,システィーナ礼拝堂の『最後の審判』は,その圧倒的な身体の横溢に よって,どこまでも身体の物質的現前の前でエクリチュールは変質を被り,
反転させられる。『最後の晩餐』が絵画の表象するもの,不在,彼方,埋没,
不可視を喚起するところに立脚しているのだとすれば,『最後の審判』は 現前する物理的存在そのものにエクリチュールはとらえられてしまうと言っ ていいだろう
38)。『イタリア年代記』のエクリチュールはまさしく身体が 身体性そのままにエクリチュールの表面に表出してくるテクストなのであ る 。
「ミケランジェロの人物の前では,われわれはこの人物が何を行うのか
を考えるのであって,何を感じているのかを考えるのではない。」
39)という スタンダールの言葉を引きながら,ベルティエはつぎのように言ってい る
40)。レオナルドが,堅い物体でさえ気化してしまいそうな雰囲気のなか に人物たちを泳がせるのに対し,ミケランジェロでは空や水までもが鉱物 状になる。レオナルドが際限のない空間をうみだす遠近法にすべてを従わ せるのに,ミケランジェロは「空白」を描かない。かれにとっての空間は 人物たちがその肉塊によってうめるべきものとしてしか存在しないのだ。
形象によって埋め尽くされた画面の桐密さのなかに,スタンダールはある 種の息苦しさを感じているのだが,この息苦しさは,ある意味で『イタリ ア年代記』に繰り広げられるところの,拷問に付され,捻れ,歪み,呻吟 する身体を前にしたときに感じたであろう,サディスティックな息苦しさ 一しかしそれは息苦しさであると同時にある種の欲望の充足をも意味し
ている一ーと通底しているように思われる。 (つづく)
(本学教授)
註
1 ) Henri M i t t e r a n d , Le regard e t l e s i g n e . P o e t i q u e du roman r e a l i s t e e t n a t u r a l i s t e , PUF, 1 9 8 7 , p . 1 0 8 .
2 ) たとえば小倉孝誠『〈女らしさ〉はどうつくられたのか』(法蔵館, 1 9 9 9 ) は , このあたりの事情を簡便にまとめている。
3 ) Georges B l i n , ・ S t e n d h a l e t l e s problemes du roman, Jose C o r t i , 1 9 5 4 , p p . 1 1 3 ‑ 1 7 6 .
4 ) I b i d . , p . 1 7 3 .
5 ) D i d i e r P h i l i p p o t , ≪Le " r e a l i s m e s u b j e c t i f ' d a n s La C h a r t r e u s e de Parme: une i d e e r e < ; u e ? ≫ , i n S t e n d h a l . La C h a r t r e u s e de Parme.
Actes du C o l l o q u e i n t e r n a t i o n a l de Paris JV‑Sorbonne 2 3 ‑ 2 4 novembre 1 9 9 6 . T e x t e s r e u n i s par Michel C r o u z e t , SPEC, 1 9 9 6 , p p . 3 2 5 ‑ 3 5 2 .
6 ) Lucien Leuwen, e d . de Michel C r o u z e t , Flammarion, 1 9 8 2 , t . I I , p . 4 3 . 7 ) G i l b e r t Durand, Le d e c o r mythique de La C h a r t r e u s e de Parme,
Jose C o r t i , 1 9 7 1 , p . 2 2 2 .
8 ) P h i l i p p e B e r t h i e r , S t e n d h a l e t l a s a i n t e f a m i l l e , D r o z , 1 9 8 3 , p . 2 2 0 .
9 ) Lucien Leuwen, I I , p . 4 3 .
1 0 ) I b i d . , p . 4 4 8 . 1 1 ) I b i d . , p . 4 1 7 . 1 2 ) I b i d . , p . 5 4 0 . 1 3 ) I b i d . , p . 5 4 1 . 1 4 ) I b i d . , p . 4 2 2 . 1 5 ) I b i d . , p p . 4 2 5 ‑ 4 2 6 .
1 6 ) Emile Z o l a , L ' C E u v r e , i n C E u v r e s c o m p l e t e s , C e r c l e du L i v r e p r e c i e u x , 1 9 6 7 , t . V, p . 4 4 2 .
1 7 ) I b i d . , 4 4 3 .
1 8 ) Roland R a r t h e s , S ! Z , i n C E u v r e s c o m p l e t e s , S e u i l , 1 9 9 4 , t . I I , p . 5 9 1 . 1 9 ) I b i d . , p . 5 9 1 .
2 0 ) Rome, N a p l e s , F l o r e n c e ( 1 8 2 6 ) , i n Voyages e n l t a l i e , B i b l i o t h e q u e d e l a P l e i a d e , 1 9 7 3 , p . 3 6 0 .
2 1 ) Roland R a r t h e s , ≪On echoue t o u j o u r s a p a r l e r d e c e qu'on a i m e > > ,
i n C E u v r e s c o m p l e t e s , S e u i l , 1 9 9 4 , t . I I I , p p . 1 2 1 6 ‑ 1 2 1 7 .
2 2 ) Roger Kempf, Sur l e c o r p s romanesque, S e u i l , 1 9 6 8 , p . 1 0 1 e t s u i v . 2 3 ) Roland R a r t h e s , ≪On e c h o u e t o u j o u r s a parlerdecequ'onaime>>,
o p . c i t . , p . 1 2 1 7 .
2 4 ) P h i l i p p e Hamon, I n t r o d u c t i o n a l ' a n a l y s e du d e s c r i p t i f , H a c h e t t e , 1 9 8 1 , p . 1 8 5 e t s u i v .
2 5 )
スタンダールのサディズムについては,B e a t r i c eD i d i e r , ≪ I n t r o d u c t i o n ≫ aux Chroniques i t a l i e n n e s , Flammarion, 1 9 7 7 , p p . 4 1 ‑ 4 3 , C h a r l e s Dedeyan, L ' l t a l i e dans l ' o e u v r e romanesque d e S t e n d h a l , SEDES, 1 9 6 3 , t . I I , p . 2 2 5 , Robert Andre≪Introduction≫aux Chroniques i t a l i e n n e s , Imprimerie n a t i o n a l e , 1 9 8 6
など。2 6 ) L'Abesse de C a s t r o , i n Chroniques i t a l i e n n e s I , C E u v r e s c o m p l e t e s , C e r c l e du b i b l i o p h i l e , 1 9 6 7 ‑ 1 9 7 4 , t . 1 8 , p . 1 3 1 .
2 7 ) C f . Chroniques i t a l i e n n e s , e d . d e B e a t r i c e D i d i e r , Flammarion, 1 9 7 7 , p . 3 7 9 , n o t e 2 0 .
2 8 ) Margherita L e o n i , S t e n d h a l . La p e i n t u r e a l ' o e u u r e , L'Harmattan, 1 9 9 6 , p . 1 2 9 .
2 9 ) Journal [ 1 4 mars 1 8 3 3 ] , i n C E u v r e s i n t i m e s , t . I I , B i b l i o t h e q u e d e l a P l e i a d e , 1 9 8 2 , p . 1 7 7 .
この時期,スタンダールはジュリア・リニエーリとの結婚をのぞんでおり,彼女からの手紙がこないこと
( s i l e n c e )
へ の 不 安 に苛まれていた。引用中のs ed i s t r a i r e
の 意 味 は こ の こ と を 前 提 に し て 書かれている。