カ ン ト の 宗 教 哲 学 の 性 格
川 村 三 千 雄
一
カソト哲学の体系において彼の宗教哲学の占める地位は必らずしも単純且つ判然たるものではない︒このことはカ
ントの哲学は一筋の流れではなく︑また一極的体系でもないことと︑相対応しているであろう︒即ち︑彼の哲学を全体
的に見るならば批判哲学と人間学︑人類の文明化と道徳化(N三匪①H§σqd巳ζ︒旨一巨霞乞σq)という二重の構造を持つ
ものと解されるのである︒批判哲学と人間学とが広義の哲学的理論的関心に関わるとすれば後者の文明化と道徳化は
彼の実践的世界観につながるものと考えられよう︒しかもこの二系列的二重構造が互いにからみ合って彼の思想の全
体が展開されていくのであるが︑これ等の諸方向︑諸要素は必らずしも明確に整合的なものではない︒そこにまたカ
ント哲学の矛盾のいくつかを発見することも可能であろうが︑それは兎も角としてもこれ等はカソト哲学の領野を貫
く二大潮流であり︑その思想的殿堂を支える二大支柱であることには変わりはない︒更に︑これ等の諸要素は深くカ
ントを育てた歴史的時代的背景とも連関をもつものであろう︒即ち︑批判哲学の体系は啓蒙的悟性の哲学の超克であ
り同時に独逸観会論哲学の基礎を置いたのでもある︒それは人間能力の批判であり︑近世初頭より無制限に解放され
た理性の活動は一定の制約の下におかれることに依って却って其の完全な自主性が確立される︒然し︑カソトの関心
は単なる人間理性の規定に止まるものではなかった︒むしろ彼の関心は現実的全体的人間︑社会的歴史的人間に強く
カントの宗数哲学の性格
人文研究第二十四輯
向けられていた︒前批判期に始まり︑批判期或いは後期に到るまでの彼の思索を推進したのは実にこのような人澗に
対する人間学的関心だったと言うことが出来よう︒
更に︑一方に於て人類の文明化は啓蒙的合理主義の歴史的必然の方向であって︑それは世界市民の理想に迄拡大さ
れる︒他方︑カントを育ぐくんだプロテスタソトの精神は厳粛な道徳的世界観を形成せしめ︑それは究極に於い﹁地
上の神の国﹂の実現という目標を想定せしめるのである︒
カソトの宗教哲学は純粋理性批判の中に礎石を有し︑実践哲学の終極的帰結として完成される︒然し此の完成は批
判哲学の領域に於て見出されるのではなく︑それを超え且つそれを包摂する人間学的立場に於て見出されるのであ
る︒更に人類社会の理想は一面に於てはその完全な啓蒙︑人類の全体的連帯による世界公民社会の実現にあるのであ
るが︑この理想の実現は人類の無限の道徳的発展によってのみ可能である︒この人類の道徳的向上は地上に﹁神の
国﹂を現出することによってのみ保証されるのである︒しかもこの地上の﹁神の国﹂は人類の文明化を排斥するもの
ではなく︑ここで道徳化と文明化とは却って矛盾的に綜合されなければならないのである︒このようにしてカソトの
全思想︑全体系はーその論理的︑体系的斉合は別として1彼の宗教哲学へと展開していくのである︒若し︑カン
トの全体を理論哲学と実践哲学との二つの領域に区別して見るならば︑宗教哲学の問題は理論哲学の中にその基礎が
一個の課題として提示され︑しかも実践哲学の終極に於て解決されるものと考えることが出来よう︒このような意味
に於て﹁カントの宗教哲学は実践哲学の附録ではなくて︑むしろ︑彼の全体系の中心である︒彼の理性宗教の根源は
道徳的意識の中に存するのではなくして︑却って︑自己内調和的に満足せしめられたる世界観への渇望の中に存す
る︒﹂(ぐく.ζ①ロαq9"開§富od膚魯聾ロひq黛肖菊9颯oロω●"α)という主張は不当ではあるまい︒然し乍ら︑カソトの宗
教哲学は単に自己内調和的世界観の構想という如きものに根源を置くとは考えられない︒蓋し︑自己内調和的世界観
という表現は何として観想的静的な性格を想わせるのであるが︑カソトの宗教哲学への思索の跡はむしろ︑現実的動
的であるとさえ言い得るのではなかろうか︒カソトの全体が一つの完結的世界観を形成するにせよ︑カソトの宗教論
に至る苦渋にみちた思索を推進したのは自己充足的完結的世界観への要求ではなく︑カソトの批判哲学の背面をなし
た人間への関心︑人間学的関心であると言わなければならないではなかろうか︒
このことはカソトの根本的主張である実践理性の優位からも知ることが出来るであろう︒蓋し︑体系的論理的に言
うならば︑一方的に実践理性の優位を主張することは妥当とは言えまい︒論理的には︑理論理性も実践理性も同様に
理性の能力の一面と考えられ︑随ってそれに対応する領域に於ても価値的高下はなく︑そのことによって却って全体
世界は調和的自己充足的となるであろう︒それにも拘わらずカントが敢て﹁実践理性の優位﹂を主張するとすれば︑
それは彼の論理的関心を超える人間に対する実践的関心に基ずくと考えるより外はない︒それを別の表現を以ってす
れぽ︑批判的立場を超える人間学的立場と言うことも出来るのではあるまいか︒
コーヘンはカソトの実践理性の優位を評して﹁カソトが理性の理論的及び実践的見地の区別を充分にする場合︑実
践理性の優位を主張するということは承認されない︒﹂(一田・盒0◎げO昌⁝閑曽昌冨切0鴨口昌幽自昌σq畠Φ門団¥ず鼻讐ω・bOα戯)と断言す
る︒彼の主張によれぽ倫理的真理性は理論的及び倫理的なるものの︑連関及び調和の中に見出されるという︒それに
反して︑真理性が倫理的なものの中に於いても基礎附けられるとすれば︑結局︑宗教の迷路の中に導かれることになる
と言う︒﹁プラトンは存在に対する善の超越︑カントは実践理性の優位により︑プラトン及びカントは倫理的問題の
優位を強力な言葉で強調するのであるが︑それはプラトン並びにカントが心酔した宗教的激情の表現法に外ならな
い︒﹂(=・9げ9"国ま岸畠霧器ロ窪≦崔9︒︒ω・8)かくして︑コーヘンは彼の論理主義の観点よりして︑宗教論を実
践理性批判からの逸脱であると見敬すのである︒
カントの宗数哲学の性格
人文研究第二十四輯
このようなコーヘソの見解は一面に於いては正当であろう︒即ち︑哲学を厳密に先験論理的に構想し︑しかも批判
主義に徹しようとするならぽ或いはコーヘソの批判はカソトの欠陥を衝くものであろう︒然しカントの哲学的地平は
決して批判哲学の基盤に限局されるものではない︒カソトの批判哲学は実践理性批判を介して宗教的世界観に昇華
して行く︒彼の批判哲学は一方に於て学の基礎附け謬ぱ巳窪という厳密な論理的課題を追求していくが︑それは又
﹁人間は何を知り得るか﹂﹁人間は何をなす可きか﹂とい人間学的問題に答えようとするものでもあった︒これ等の
問題は更に﹁人間は何を望んでよいか﹂という宗教的問題となり.最後に﹁人間とは何であるか﹂という人間学の課
題に集約される︒随って︑カソトの宗教論は決してコーヘソの言う迷路ではなく﹁人間とは何であるか﹂に答う可き
最終の領域と考え可きであろう︒随ってまたカソトの宗教哲学はカソトの思索過程の迷路ではなくして︑むしろ正し
い到達点と言う可きではなかろうか︒批判哲学の創始者としてのカソトの偉大な業蹟は没す可からざるものであるが
批判哲学のみにカソトを限局して︑宗教哲学をその迷路と断することはカソト哲学の全貌を見失なうことにはならな
いであろうか︒
二
ウィンデルバソトは十八世紀のヨーロッパ啓蒙哲学とギリシヤのソフィスト時代の哲学とを比較し︑両者の間に
﹁教訓的類似と親近﹂を指摘し︑同時にまたカソトをソクラテスに比するのである︒(≦巨鮎9巳11=oぎ魯o臣⁝
冨ゴ号暮ゴ傷霞08︒甑鼻δ号吋勺匡08冨δψωO日〜q︒O︒︒)人間の理性能力の無制約性の基調の上に啓蒙思潮は展開され
るのであるが︑カソトはこれに対し﹁超験的判断﹂の禁止という厳しい理性使用の限界を措定する︒それに対してソ
フィストの主張する相対知の無制約的妥当性の主張に反対し︑ソクラテスは人間の無知の知を説く︒こうした点につ
いて確かに両老の間には類比を見出すことが可能であろう︒然し︑それにもまして両老の間に見出される重要且つ顕
著な類似点は人間学的基底の上に立つ実践的形而上学の中になければならないであろう︒
批判哲学の学問的業蹟の外にカソトの思索の跡は極めて広汎な領域にわたって・2るのである︒即ち︑歴史︑自然︑
文化︑教育︑宗教等に及んでいるのであるが︑それ等は悉く彼の人間学的考察の領域と考えてよいであろう︒しかも
それ等は一貫して人類の道徳的完成という究極の統一的目標に向けられるのである︒それはソクラテスが人間の理想
を善美なる生活に置き︑そのために魂について配慮することを教えたことと相通ずる︒かくてカソトの人間学的思想
はその全体に於いて所謂道徳的目的論となるのであり︑しかもその究極的実現は宗教の中に見出される︒随つて︑宗
教はカソトの全体思想よりすればコーヘソの言う如き迷路でも逸脱でもなく︑むしろ︑必然的到達点であると言わな
ければならない︒このような意味に於いてカソトの道徳的目的論は宗教的領域の中に於いて完結されるのであり︑こ
の点よりすれば彼の道徳的世界観は其の根本性格に於いて宗教的世界観に相接すると言うことが出来るのであろう︒
クローナーはカントの世界観について次の如く語る︒﹁若し我々が世界観という言葉を文字通りに解するならば︑
我々はカントの精神について次のように言うことが出来る︒即ち︑我々人間一般は矛盾のないような如何なる世界観
にも到達することは出来ない︒何となれば︑凡ゆる世界観に於いては究極者自体はなお常に我々に究極者となり︑随
って︑それは我々に対して矛盾を伴なうからである︒故に︑我々は︑むしろ︑矛盾なき人生観に到達し得るのみであ
る︒﹂(擦︒ロg"窯巨ω≦︒冨b8冨¢§σqω.お)蓋し︑世界観は世界を統一する究極者自体を追求する︒然し︑このよ
うな世界の究極者自体は常に超験的であるが故に︑人間の理性能力をもってしては一義的に捕捉することは本来的に
不可能である︒カソトはこのことを思弁的理性の二律排反の裡に明らかに示したのであ︑った︒その意味に於いては理
論的に矛盾のない統一的世界観に到達することは出来ないということになる︒それに対して︑人生観はあく迄も人間
カントの宗数哲学の性格